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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

今年のおせち料理、2025年

2025-01-02 03:40:14 | 気まぐれな日々
 わかぬ間に 庭に茂れる八重葎(やえむぐら)
   ふりゆく花も 香れしものを
               2025(令和7)年正月

 いつのまにか分からない間に、庭の垣根の木につる草が蔽い延びている。
 私は年々老いていっているのだが、庭の花木も同じく古く老いていく。
 この木は、花が咲けば香りが窓越しに降るように薫っていた。
 しかし、その香りも心なしか乏しくなっているように感じる。
 私が老いたせいだろうか、過ぎ去ったあのかぐわしい花の香る季節が懐かしいものだ。
                               沖宿

 *黄昏の正月料理!

 正月は恒例の形式である。形式は様式でもって表される。
 年々、私の正月のおせち料理は、形式だけの料理になりつつある。
 たかが、自分が作る自分のための料理だから、様式にこだわることはない、これも老いていく証か、と弁解がましい言い訳を自らにしてみる。
 というわけで、今年のおせち料理は以下の通りとなった。
 
 まず、「蒲鉾」と「鰊の昆布巻き」を切って並べる。これに「田作り」が加わり、個人的にはおせち料理の最低限を支える御三家としている。
 おせちの定番である「数の子」は、いまさら子だくさんでもあるまいしと問題外とし、「黒豆」は糖分が高いし、甘い「伊達巻」も圏外にしている。
 しかし、今年は「田作り」がなく、御三家の一角が脱落した。
 「刺身」はカンパチ。刺身はカンパチに限る。かつてはハマチが一番好きだったが。
 そして、「ゆで卵」、「豆腐」を並べる。野菜類は、「カボチャ煮」と「トマト」と簡単省力。摘まみとして「銀杏」を添える。
 今年は「雑煮」をしないので、代わりにご飯として「寿司(にぎり)」である。正月料理の主力の雑煮が今年はない。これは我ながらまずいと思う。ぜひとも、来年は復活させなければいけない。
 年に一度、家で飲む日本酒は、例年は「越乃寒梅」にしているのだが、今年はそれが売り切れていたので、同じ新潟県南魚沼産の「八海山」とした。
 (写真)
 さて、今年、令和七年も始まったなあと、ひとり、燗にした酒を飲みながら、おせちを摘まみだしたのは、西日が差すころとなっていた。
 流す音楽は、カール・オルフの「カルミナ・ブラーナ」。
 ヴェネツィアのサンマルコ広場でこの曲を演奏(2022年7月)している映像を見ていっぺんに気に入ったのだが、この曲は物語性の強い歌(合唱)があるので、音だけより映像込み(生演奏に越したことはないが)の方がいい。

 こうして、すべてに不安定な要素を孕んだ今年、2025年が静かに始まったのだった。
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噂の画家、田中一村の絵を観る

2024-12-05 03:04:42 | 気まぐれな日々
 生前は世に認められず、奄美大島で亡くなった田中一村の個展を東京都美術館(上野)で観てきた。

 田中一村は1908(明治41)年、栃木県に生まれ、一家は彼が6歳のときに東京へ転居。彫刻師の父の影響もあり、幼少時より画才を発揮し神童と言われた。
 南画(人文画)を得意とし、東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科に入学するも2か月で退学。
 その後家族で千葉に移住し、農業に従事しながら絵を描き続ける。青龍展に入選するも、日展、院展と何度も落選する。
 1958(昭和33)年、50歳にして単身奄美大島(鹿児島県)へ移住。紬織の染色工として働き、生活費を貯めては絵を描くという日々を送る。
 1977(昭和52)年、奄美大島にて死去。享年69。

 奄美大島の有志によって田中一村の遺作展が開催されたのが1979(昭和54)年のこと。彼の死から2年がたっていた。
 1984(昭和59)年、NHKテレビ「日曜美術館」で特集放映されたことで全国的に認知され、その後雑誌などでも特集されることになる。
 2001(平成13)年、奄美大島に田中一村記念美術館が設立される。
 そして、東京都美術館にて「田中一村 奄美の光、魂の絵画」展(2024年9月19日~12月1日)が開催された。
 生前、「東京で個展を開きたい」と言っていた田中一村。
 2024(平成6)年のこの秋、東京都美術館は、田中一村展を観るため長蛇の列である。

 *東京都美術館での田中一村展のブレイク実感

 田中一村展が今週末12月1日で終わるという直前の11月29日(金)、上野に出かけた。
 夕方の4時(16時)半ごろ東京都美術館の入り口前に来てみると、当日は予約制とある。ただし状況次第で当日券も発売しますとの条件付きだ。人数限定のミシュランの星レストランでもあるまいし、美術展で予約制とは初めて聞いた。そんなことはあるまい、何とかなるだろうと館のなかに入った。
 館内は確かに人が多い。奥のチケット売り場の窓口のところには当日券売り場とある。つまり、この日のチケットも売っているのだ。2つの窓口に多くの人が並んでいるので、列に加わった。
 チケットは、並んだとはいえそう時間はかからず買えた。チケットを見ると「17:00―18:00」と入場時間が記されていた。
 そこから、さらに奥の会場の入り口に向かった。入口では、係員が紙チケット、もしくはQR予約の人は携帯スマホをチェック確認しながら、なかに通していた。
 私も普通に横から入ろうとしたら、おや?と気づいた。チケット・チェックを受けている人の後ろは人の列になっていて、さらにその背後に人の山があった。
 すぐに列をたどりながら歩いていくと、列は後ろのところで折れてまた前に進み、また折れてといった具合に、身をくっつけて曲がりくねった蛇のように3、4重にもなっていた。
 この人混みの山全体が、一村展に入るための列だった。愚痴を言う相手もいないので、「最後尾」と書いたプラカードを持った係員のいるところに行き、黙って並んだ。

 ※私はどんなものであれ、列に並ぶのは好きではない。ラーメン店や何かの開店(館)セールなどで一番で入ろうとか、あるいは早く買おうと長時間並ぶ人がいるが、そんな気持ちになったことがない。いわんや、展覧会をや、である。
 しかし、思い出した。展覧会で並んだ記憶がある。あれは、初めて上京した年1964(昭和39)年の4月のこと、やはり上野の国立西洋美術館で「ミロのヴィーナス」を見たときだ。遠い昔のことだ。
 「ミロのヴィーナス」以来か……

 チケット・チェックのあと、さらに第2段階として、その先の会場に入るまでに列が作られた。何なのだ、と心のなかで呟いた。これでは観る時間があまりないなと思った。
 この日は、金曜日とはいえウィークデーである。私は田中一村展がこんなに人気だとは思いもしなかった。余裕を持って観賞できると思っていた。つい先日、民放のテレビ美術番組で放映したのも効いているのかなと思った。
 ようやく会場に入ると、そこは意外なことに空いていた、ということはなく、この長蛇の列のことから当然のことだが、芋を洗うような状態だった。
 田中一村、死後47年。生前ほとんど知られていなかったのが噓のような、過剰というか、異常なまでの人気である。

 *死後、有名になった画家たち

 生前は無名だったが死後の有名になった画家といえば、ゴーギャンやゴッホ、モディリアーニを思い出す。

 ファン・ゴッホはオランダ人であるが、後半生はフランスで過ごした。特に南フランスのアルル時代の絵が有名であるが、最後はパリで自死した。
 今では誰もが知っているゴッホだが、生前に売れた絵は「赤い葡萄畑」の1枚のみだったと言われている。
 彼の生涯は、映画「炎の人ゴッホ Lust for Life」(監督:ヴィンセント・ミネリ、1955年、米)に描かれている。苦悩する画家ゴッホをカーク・ダグラスが、彼の愛憎半ばした思いであった友ゴーギャンをアンソニー・クインが演じた。二人とも、ゴッホ、ゴーギャンの自画像と見比べても、全く本人かと思わせるほどの適役だった。

 フランスで主に活動していたポール・ゴーギャンは、一時アルルでゴッホと過ごしたことがあるが、40歳を過ぎに南太平洋ポリネシアのタヒチ島へ移り住み、マルキーズ諸島で生涯を終えた。
 彼の絵ではタヒチで描いた絵が有名だが、なかでも晩年の作「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」(D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?)は彼の最高傑作とされる。フランスの歴史学・人類学者エマニュエル・トッドの代表作ともいえる本のタイトルは「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」(Où en sommes-nous ? Une esquisse de l'histoire humaine)で、その表紙はゴーギャンの絵を用いてある。
 サマセット・モームの小説「月と六ペンスThe Moon and Sixpence」は、ゴーギャンがモデルと言われている。

 今では、瞳のない目で長い顔と首の女性の絵を見れば、すぐに彼の絵とわかるほど有名な画家であるアメデオ・モディリアーニである。
 モディリアーニはパリのモンパルナスで活動していたが、なかなか世に認められず荒れた生活を送っていた。生前、画廊において唯一となる個展を開いたことがあるものの、裸婦画を出展したのがもとで警察が踏み込む騒ぎとなったという逸話がある。
 モディリアーニの半生は、アラン・ドロン出現前のフランスを代表する二枚目ジェラール・フィリップが演じた映画「モンパルナスの灯 Les amants de Montparnasse」(監督:ジャック・ベッケル、1958年、仏)に描かれている。
 絵が売れないモディリアーニは失意のうちに倒れて死んでしまう。彼の死を見届けた画商はその足で彼の家に行き、彼の死を隠したままモディリアーニの妻から絵をすべて安値で買い取っていくという話である。
 モディリアーニの死の翌日、彼の妻は自殺した。

 *人混みのなかで見た一村の絵

 長い行列に並んだ末に、ようやくたどり着いた田中一村の展示会場内である。
 混雑している会場内では、最前列は諦めて後方、あるいは斜めから絵を観賞する。
 展示された作品は全部で300点以上で、よく集めたものだと感心してしまう。
 展示は年代順に、「第1章 若き南画家「田中米邨」東京時代」、「第2章 千葉時代「一村」誕生」、「第3章 己の道 奄美へ」の3章仕立てとなっていた。
 最初に、7歳のときの作品「柳にかわせみ」が出てきて、これは子どもの作品とは思えない、神童と呼ばれたのは間違いないと、いきなり衝撃を与える完成された水墨画である。
 どんな少年だったのだろうと想像しながら観ていった。
 何せ人が多く動きもスローなので、足取りが進まないのに加えて、これでもかとばかり作品が続く。特に千葉時代は作品が多い。見る人波がゆっくり進むので、丁寧に見ることになったせいか、途中疲れてしまった。
 それでも、展示がおおよそ年代順なので、この辺から少し変わったなとか新しい手法を取り入れたとか、停滞の時期かななど、絵の変遷が何となく感じられる。
 やはり、見ものは後期の奄美大島時代である。南画から解放されたかのような、彼の本質が全面開花した印象である。絵全体に、南国の特徴が表れ、繊細さのなかに大胆さが見える。

 そして会場を歩きまわり、あの絵はどこなのかという期待を焦らして、最後の最後に代表的な2枚が、出口を挟んで対比するかのように展示してあるという仕組みである。
 ポスターや案内に用いられている「アダンの海辺」と「不喰芋と蘇鐵」(クワズイモとソテツ)である。
 この絵を観て、彼はこの絵を描くために絵描きであり続けたに違いないと思えた。
 この2枚を観るために、私は長い列に並んでここにやってきたと思った。
 (写真の展示案内板に付された絵は「不喰芋と蘇鐵」)

 すでに20時を超えている。途中で観る時間が足りないなと思ったのは杞憂で、この日だけ特別に鑑賞時間を延ばしてあったのだ。
 展示場を出ると、販売売り場に出るようになっていた。この展示作品のカタログ本をはじめ、関連グッズが売ってあった。
 例の2枚の絵の絵ハガキでも買って帰ろうと思いレジのところに行ったら、ここも行列である。よく列を見ると、入るときと同じような長い行列である。しかも、じっと黙って行儀よく並んでいる。
 買うのをやめて、館を出た。外は、すっかり夜になっていた。
 ちょっと過剰で異常だなと思えるような、最初から最後まで行列の印象的な田中一村展であった。

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ゴジラの手? いや、いや、「亀の手」!

2024-07-30 20:34:28 | 気まぐれな日々
 ここのところ(2024年7月下旬)、日中は30度を超す暑い日が続く。日本も、どうやら亜熱帯地方になったかや?
 食事を作るのも面倒になるが、そうも言ってはいられない。ひとり身としては、たまに外食するが、毎日なにがしかの料理を習慣として作っている。もう修行のようである。
 生きるために食うのか、食うために生きるのか、わからなくなってきた。

 先日、行きつけのスーパーの魚売り場を物色しているときである。
 いつものごとくその日の魚やエビなどが並べてある棚に、見慣れない妙なものが置かれていた。それは、何気なく並んでいた。
 平然と、そこにある……
 私は足をとめた。うむ? これは、異様だ。
 まるで、ゴジラの小さな子どもの手だ。ゴツゴツした爪のようなものの下に、コモドドラゴンの鎧の手足のような脚(胴)?が伸びている。
 大きさは3~5㎝ぐらいで、もっと小さいのもそばにくっついている。それらが、いくつか詰まってパックに入っている。
 食いものとは思えないが、値段も貼ってあるので、ちゃんとした売り商品である。
 名前を見ると「亀の手」とある。
 長年魚売り場担当の顔なじみのおばさんに、「これは、亀の手?」と疑問符を投げかけてみた。
 すると、おばさんも「そうなのよ。売り場に出たのは初めてよ。私も初めてなの。これ、どうやって食べるの?」と、逆に訊かれてしまった。
 私も知るわけがない。
 すぐに携帯スマホで検索してみると、甲殻類の一種だとある。つまり、カニやエビの仲間だということだ。
 長年魚売り場を担当してきたおばさんが初めて見たというから珍品に違いない。これは、買って食べなければならない、とすぐに思った。
 愛知県産とあるから国内産である。値段を見ても安いではないか。100g=198円である。私は、1パック184g(税込393円)を買った。

 家に帰ってよく洗い、皿に並べた。どう見ても、食いものには見えない。(写真)
 釣りが好きで、食いもの、特に魚には目のない関西に住んでいる弟に電話して、この亀の手について訊いてみた。すると弟は、こともなげにこう言った。
 「亀の手は、時々食うよ。甲殻類だけど、タニシやホウジャ(佐賀県の方言でカワニナ)みたいなものだよ。海辺の浅瀬の岩にくっついているんだ。最近は、テトラポットにくっついていることもある。それを剥がして(採って)、帰って食べたりするよ」
 「こっち(関西)でも、スーパーで見たことないなあ。知っている人は知っているけど、料理屋でも出てこないね」
 肝心の、食べ方を訊いてみた。
 「俺は酒蒸しにするね。食うところはちょっとしかないんだが、ビールのつまみにいいんだ」

 私は家に日本酒は置いていないが、ずいぶん前に買った安いワインがあるのを思いだした(安くてもフランス産、腐ってもボルドーである)。
 ということで、ワイン蒸しにした。
 「カメノテのワイン蒸し」である。
 食べるときは、爪の下のコモドドラゴンの脚状のところを指で裂いて引っ張ると、クリーム色の細長い身が出てくる。カニの脚を折ると中から身が出てくるように。
 指でやるのが嫌だったら、小さなナイフで裂けばいい。出てきた身を啜(すす)るか、摘まんで口の中に入れる。
 プリッとした食感で、エビやカニというより、味は貝に近い。
 身は小さくて食べごたえはないが、酒飲みにはいい肴なのだろう。ワインにもいい(料理に使ったワインだが)。
 ワインに蒸す前に、オリーブオイルでまぶした方がよかったかもしれない。それにニンニク、ショウガなどを刻んだりしたらどうだったか。(次に食する機会があったときの課題だ)

 人生は経験のたまものだ。
 たまたまだが、ここで稀なゴジラの手を、もとい、亀の手を食べられたのは貴重な体験だった。

 調べてみると「亀の手」(カメノテ)は、スペインやポルトガルでは、海鮮料理によくでるとのことである。特にポルトガルでは「ペルセベス」として有名で、シーフードレストランには必ずといっていいほど置いてある、高級食材だという。
 イギリス在住で「ペルセベス」(カメノテ)を食べにわざわざポルトガルのリスボンに行った女性のレポート(2023年投稿)によると、カメノテの最高級品だと1㎏=€200(約33,000円・現在換算値)もするという。
 彼女が訪れたリスボンの老舗レストランでは100g=8.76€(約1,500円)だったそうだ。

 世のなか、「亀の手」(カメノテ)を食べに飛行機に乗る、あるいは船に乗る、はたまた列車に乗る、という旅もあるのだ。
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勝手自然流・お節料理、令和6(2024)年、正月

2024-01-01 23:59:58 | 気まぐれな日々
  ゆく春や 浮草なれど 花しのぶ
    散るはなやぎの 香りとどめむ

 年々、年をとると1年が速くなっている。時が速く過ぎ去っていくのだ。
 それに反比例して、自分の歩く速さが遅くなっている。かつては(遅れまいとして)急ぎ足の達人だったのに。
 こんなはずではないと自問し、苦笑し、諦念する。

 世界では様々なことが起こっている。
 新型コロナウィルスによるパンデミックのあとには、ロシアによるウクライナ侵攻、イスラエル・パレスチナの戦乱、地球温暖化に伴う異常気象……
 地球では何が起こっていて、今を生きる世界はどこへ向かっているのか。
 フランスの人類学者、エマニュエル・トッドいうところの第3次世界大戦は始まっているのかもしれない。世界も、こんなはずではないと自問しているだろう。
 世界は、そして個人は、自転しながら公転している。

 *お節といえずも、お節料理とする
 
 令和6(2024)年が始まった。
 青空の晴れた日だ。もう日も上ったころ、変わらず一人だけの正月気分を味わうこととする。
 お節料理らしさは、“鰊の昆布巻き”だけ。必備であるはずの蒲鉾が昨日(大晦日)の夜買物に行ったら、駅前のスーパー2店とも売り切れだった。田作りも今年はなしだ。
 野菜類は、ほうれん草のお浸し、カボチャ煮。ゆで卵に冷やっこ。刺身はカンパチ。酒の摘まみに銀杏、焼き鳥2本。
 これではお節料理とは言えず普通の料理を並べただけだが、皿だけは食器棚に飾ってあるのを取り出した特別の日用で、少しは華やかを演出する。
 酒は、ここのところ正月恒例となっている“越乃寒梅”である。
 
 この後、少しは正月気分をと雑煮を食す。

 1日は初詣にも出かけず、明日(2日)に近所の白山神社にでも出かけることにしよう。
 親が生きていたときは毎年、実家の佐賀で正月を迎えていた。そのときは、大晦日の夜から正月の朝にかけて、近くの寺の西福寺に行って、除夜の鐘を叩いて(来た人には寺で鐘を叩かせてくれた)新年を迎えていた。
 そんな新年も懐かしい。
 迎える新年も、年々変わる。自転しながら公転している。

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作家、永井路子さんのこと……

2023-02-15 02:37:18 | 気まぐれな日々
 歴史小説の作家第一人者であった永井路子さんが、この2023(令和5)年1月27日に亡くなった。97歳だった。
 大学卒業後、出版社の小学館に入社し編集者を務めながら作家活動を始める。1964(昭和39)年、「炎環」で直木賞を受賞。多くの歴史上の人物に新しい光を当てた作品は、NHK大河ドラマの「草燃える」や「毛利元就」の原作にもなった。
 私が、この本は歴史小説を超えた作品だと思ったのは、永井さんの最後の作品となった「岩倉具視 言葉の皮を剥きながら」(文藝春秋、2008年)である。深い資料に基づき描かれた岩倉具視の幕末維新時代の活動・生き方を見ながら、私は徳川家の政権構造、公家の摂関政治の有り様を学んだ。
 ※ブログ「岩倉具視」(2008-07-24)参照。
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/9386569ce84ffe5afa74686ce0080461

 永井路子さんは、父親を早く亡くした関係で母方の永井家の娘として茨城県古河町(現:古河市)で育った。
 母の永井智子は、レコードも出している声楽家でオペラ歌手でもある。そして、第2次世界大戦時、疎開で東京から地方へ逃れるとき、彼女の夫とともに作家の永井荷風を連れ出し行動を共にしている。永井荷風は同じ姓だが、血縁関係はないようだ。
 御主人は歴史学者の黒板伸夫である(2015年亡)。

 *「女の愛と生き方」

 永井路子先生からは、妹さんの代筆であったが、今年も年賀状が届いたのだった。
 思い返せば半世紀がたった。
 私が学校を卒業し、出版社に勤めるようになってまだ手探りの編集者の時代だった。
 入社後の雑誌編集部から書籍編集部へ移り、私が最初の一般書として担当したのが、永井先生の本「女の愛と生き方 女性史探訪」(鎌倉書房刊)であった。
 単行本としては服飾・洋裁、料理などの実用書しか出していなかったその出版社の、戦前の創設期を除いて、戦後最初の文芸書でもあった。
 出版は1972(昭和47)年である。(写真)
 この本は、小野小町、清少納言、お市の方など、歴史に登場する女性の生き方を、現代の視点で捉えたものである。最初は婦人雑誌「マダム」に連載されたもので、単行本にするにあたって加筆修正された。
 私は、あるときは新しく加筆された原稿を受け取りに、あるときは印刷所から刷りあがってきた校正刷りを持って、当時先生が住まわれた鎌倉の自宅へ通った。
 鎌倉へ行くのは、至福のときだった。
 「女の愛と生き方 女性史探訪」は重版し、先生に大変喜んでいただいた。

 *感謝の文

 永井先生は神奈川の鎌倉から東京の品川へ越された。
 2009(平成21)年、私はフリーの編集者になっていて、それまで気ままに海外を旅してきたことを書いた本「かりそめの旅―ゆきずりの海外ひとり旅」(現在、絶版)を出版した。
 永井先生に拙著を送ったところ、私の本に対する感想が書かれた手紙を頂いた。思いもかけない過分なお褒めの言葉だった。
 私は、その本が絶版になり、のちに追加の旅を加えた第2版を出す予定だったので、先生の文を載せさせてもらいたいのだがとお願いすると、「どうぞ、どうぞ」との親切な返事を頂いた。
 その一部を紹介したい。
 「何と心の揺れる「かりそめの旅」でしょう。数々の恋愛遍歴、そしてさまざまの想いを抱えてのさまざまの旅。初めてのパリへの旅には、岡戸さんの人生漂泊の想いと未知の「くに」への不安が伝わってきます。
 荒(すさ)み果てたこの世に、こんなロマンがあるとは……」
 その後、第2版の原稿はとっくに書きあげたというのに、私の怠惰のせいで出版の段取りは壊れた時計のように止まったままである。

 *「荷風のように生きたら」

 永井先生の、心に残っている言葉がある。
 私がもうとっくに中年も過ぎた頃のこと、「いい年になったのですが、まだ独り身なんです」と、言ったところ、先生は意外なことをおっしゃった。
 「いいじゃないの。荷風のように生きたら」
 私はしばらく言葉をおいて、「ええ……」としり込みするばかりだった。
 そして、やはり永井先生は文学者だと感じ入った。
 永井荷風は若いときにアメリカ、フランスの生活を経験した洒落者だが、中年以後、浅草の歓楽街、向島・玉の井の私娼街などを好んで散策し、遊びに耽り、そこを舞台にした小説を多く残している文豪である。
 1959〈昭和34〉年、79歳のとき、長年通い続けた浅草の洋食屋アリゾナキッチンで昼食中に体調を崩し、その翌月千葉県市川市の自宅で一人亡くなった。

 「荷風のように生きたら」かと、ふと思うときがあるが、なかなかできないで年をとっている。年をとるのも難しい。
 「もう老人ですが……」と、永井先生に相談することもできなくなった。

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