かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

勝手自然流・お節料理、令和6(2024)年、正月

2024-01-01 23:59:58 | 気まぐれな日々
  ゆく春や 浮草なれど 花しのぶ
    散るはなやぎの 香りとどめむ

 年々、年をとると1年が速くなっている。時が速く過ぎ去っていくのだ。
 それに反比例して、自分の歩く速さが遅くなっている。かつては(遅れまいとして)急ぎ足の達人だったのに。
 こんなはずではないと自問し、苦笑し、諦念する。

 世界では様々なことが起こっている。
 新型コロナウィルスによるパンデミックのあとには、ロシアによるウクライナ侵攻、イスラエル・パレスチナの戦乱、地球温暖化に伴う異常気象……
 地球では何が起こっていて、今を生きる世界はどこへ向かっているのか。
 フランスの人類学者、エマニュエル・トッドいうところの第3次世界大戦は始まっているのかもしれない。世界も、こんなはずではないと自問しているだろう。
 世界は、そして個人は、自転しながら公転している。

 *お節といえずも、お節料理とする
 
 令和6(2024)年が始まった。
 青空の晴れた日だ。もう日も上ったころ、変わらず一人だけの正月気分を味わうこととする。
 お節料理らしさは、“鰊の昆布巻き”だけ。必備であるはずの蒲鉾が昨日(大晦日)の夜買物に行ったら、駅前のスーパー2店とも売り切れだった。田作りも今年はなしだ。
 野菜類は、ほうれん草のお浸し、カボチャ煮。ゆで卵に冷やっこ。刺身はカンパチ。酒の摘まみに銀杏、焼き鳥2本。
 これではお節料理とは言えず普通の料理を並べただけだが、皿だけは食器棚に飾ってあるのを取り出した特別の日用で、少しは華やかを演出する。
 酒は、ここのところ正月恒例となっている“越乃寒梅”である。
 
 この後、少しは正月気分をと雑煮を食す。

 1日は初詣にも出かけず、明日(2日)に近所の白山神社にでも出かけることにしよう。
 親が生きていたときは毎年、実家の佐賀で正月を迎えていた。そのときは、大晦日の夜から正月の朝にかけて、近くの寺の西福寺に行って、除夜の鐘を叩いて(来た人には寺で鐘を叩かせてくれた)新年を迎えていた。
 そんな新年も懐かしい。
 迎える新年も、年々変わる。自転しながら公転している。

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作家、永井路子さんのこと……

2023-02-15 02:37:18 | 気まぐれな日々
 歴史小説の作家第一人者であった永井路子さんが、この2023(令和5)年1月27日に亡くなった。97歳だった。
 大学卒業後、出版社の小学館に入社し編集者を務めながら作家活動を始める。1964(昭和39)年、「炎環」で直木賞を受賞。多くの歴史上の人物に新しい光を当てた作品は、NHK大河ドラマの「草燃える」や「毛利元就」の原作にもなった。
 私が、この本は歴史小説を超えた作品だと思ったのは、永井さんの最後の作品となった「岩倉具視 言葉の皮を剥きながら」(文藝春秋、2008年)である。深い資料に基づき描かれた岩倉具視の幕末維新時代の活動・生き方を見ながら、私は徳川家の政権構造、公家の摂関政治の有り様を学んだ。
 ※ブログ「岩倉具視」(2008-07-24)参照。
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/9386569ce84ffe5afa74686ce0080461

 永井路子さんは、父親を早く亡くした関係で母方の永井家の娘として茨城県古河町(現:古河市)で育った。
 母の永井智子は、レコードも出している声楽家でオペラ歌手でもある。そして、第2次世界大戦時、疎開で東京から地方へ逃れるとき、彼女の夫とともに作家の永井荷風を連れ出し行動を共にしている。永井荷風は同じ姓だが、血縁関係はないようだ。
 御主人は歴史学者の黒板伸夫である(2015年亡)。

 *「女の愛と生き方」

 永井路子先生からは、妹さんの代筆であったが、今年も年賀状が届いたのだった。
 思い返せば半世紀がたった。
 私が学校を卒業し、出版社に勤めるようになってまだ手探りの編集者の時代だった。
 入社後の雑誌編集部から書籍編集部へ移り、私が最初の一般書として担当したのが、永井先生の本「女の愛と生き方 女性史探訪」(鎌倉書房刊)であった。
 単行本としては服飾・洋裁、料理などの実用書しか出していなかったその出版社の、戦前の創設期を除いて、戦後最初の文芸書でもあった。
 出版は1972(昭和47)年である。(写真)
 この本は、小野小町、清少納言、お市の方など、歴史に登場する女性の生き方を、現代の視点で捉えたものである。最初は婦人雑誌「マダム」に連載されたもので、単行本にするにあたって加筆修正された。
 私は、あるときは新しく加筆された原稿を受け取りに、あるときは印刷所から刷りあがってきた校正刷りを持って、当時先生が住まわれた鎌倉の自宅へ通った。
 鎌倉へ行くのは、至福のときだった。
 「女の愛と生き方 女性史探訪」は重版し、先生に大変喜んでいただいた。

 *感謝の文

 永井先生は神奈川の鎌倉から東京の品川へ越された。
 2009(平成21)年、私はフリーの編集者になっていて、それまで気ままに海外を旅してきたことを書いた本「かりそめの旅―ゆきずりの海外ひとり旅」(現在、絶版)を出版した。
 永井先生に拙著を送ったところ、私の本に対する感想が書かれた手紙を頂いた。思いもかけない過分なお褒めの言葉だった。
 私は、その本が絶版になり、のちに追加の旅を加えた第2版を出す予定だったので、先生の文を載せさせてもらいたいのだがとお願いすると、「どうぞ、どうぞ」との親切な返事を頂いた。
 その一部を紹介したい。
 「何と心の揺れる「かりそめの旅」でしょう。数々の恋愛遍歴、そしてさまざまの想いを抱えてのさまざまの旅。初めてのパリへの旅には、岡戸さんの人生漂泊の想いと未知の「くに」への不安が伝わってきます。
 荒(すさ)み果てたこの世に、こんなロマンがあるとは……」
 その後、第2版の原稿はとっくに書きあげたというのに、私の怠惰のせいで出版の段取りは壊れた時計のように止まったままである。

 *「荷風のように生きたら」

 永井先生の、心に残っている言葉がある。
 私がもうとっくに中年も過ぎた頃のこと、「いい年になったのですが、まだ独り身なんです」と、言ったところ、先生は意外なことをおっしゃった。
 「いいじゃないの。荷風のように生きたら」
 私はしばらく言葉をおいて、「ええ……」としり込みするばかりだった。
 そして、やはり永井先生は文学者だと感じ入った。
 永井荷風は若いときにアメリカ、フランスの生活を経験した洒落者だが、中年以後、浅草の歓楽街、向島・玉の井の私娼街などを好んで散策し、遊びに耽り、そこを舞台にした小説を多く残している文豪である。
 1959〈昭和34〉年、79歳のとき、長年通い続けた浅草の洋食屋アリゾナキッチンで昼食中に体調を崩し、その翌月千葉県市川市の自宅で一人亡くなった。

 「荷風のように生きたら」かと、ふと思うときがあるが、なかなかできないで年をとっている。年をとるのも難しい。
 「もう老人ですが……」と、永井先生に相談することもできなくなった。

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2023(令和5)年の、お節料理

2023-01-02 03:17:12 | 気まぐれな日々
 降りかかる 風や雨をや 頬にうけ
  花と思いし 季節(とき)もありしか

 昨年の令和4年は、世界情勢においても私個人においてもいいことはなかった。
 降りつける風、降りかかる雨……
 あらゆるものが変わっていく。急激に、あるいは徐々に。
 
 こんな時、流す曲はショスタコーヴィチの交響曲第5番がいい。
 
 母がウクライナ人、父がベラルーシ人であるノーベル文学賞作家のスベトラーナ・アレクシエービッチさんが1月1日の朝日新聞の紙上でこう語っていた。
 「私たちが生きているのは孤独の時代と言えるでしょう。私たちの誰もが、とても孤独です。文化や芸術の中に、人間性を失わないためのよりどころを探さなくてはなりません」

 つくづく最近は、ドイツ文学者の高橋義孝の正月に関して言った「変わらないことはめでたいことだ」という意味を実感する。

 *

 令和5年のお節料理は、年末に寝ているときの空気乾燥により喉を痛めたこともあって、手間をかけない簡単お節にした。まあ、いつも簡単なのだが。
 蒲鉾、昆布巻き、田作り、で一応の正月らしさを作る。田作りは、鰯の煮干しをバターで軽く炒め味醂、醬油で絡めたもの。
 それに、ゆで卵、レンコン、カボチャ煮、銀杏。
 刺身は、かんぱち、サーモン。
 酒はいつもの、正月限定の越乃寒梅。今年は形だけ口にする。

 夜は、大晦日、つまり昨晩のすき焼きを再び。
 違うのは、大晦日はすき焼きの最後に年越しうどんを入れたのだが、正月は初餅を入れる。

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白昼のワヤン……「キスは"眼"にして!」

2022-10-10 00:25:39 | 気まぐれな日々
 FMラジオでのピアノの弾き語りの番組を聴いていたら、クラシックを基としたポップスとして、「キッスは目にして!」が流れてきた。
 カテリーナ・ヴァレンテ(日本ではザ・ピーナツ)が歌った「情熱の花」と同じく、ベートーベンの曲「エリーゼのために」をアレンジした、ザ・ヴィーナスが歌った曲である。
 う~ん、「キッスは、目にして」か、と思った。
 キスは、目に!

 実は、私は先月(2022年9月)末、目の手術をしたばかりだった。
 近年、自分の病気をテレビやSNSで公にする芸能人や有名人が多くなった気がする。「他人の不幸は蜜の味」ではないが、世間である視聴者の潜在的要求に同調する風潮があるのかもしれない。また、自分の病気体験を微に入り細に入り、子細に描く作家もいる。
 元々、私は自分の病気について書くつもりはないのだが、思いもよらず「キッスは目にして!」を耳にして、思えば稀有な体験というか、やろうと思ってもできる経験ではなかったので、書いておこうかとふと気持ちが動いたのである。
 私の敬愛する吉行淳之介も、かつて「人口水晶体」(講談社)という目の手術体験を書いている。
 この本は1985(昭和60)年刊行の本で、吉行が目の不調を自覚してから、1984年の年末に白内障の手術をするに至るまでの体験記である。彼がちょうど還暦のときである。

 吉行が52歳のとき、目の具合が何となく悪くなって病院で見てもらう。眼精疲労ぐらいに考えていたのだが、白内障と診断される。
 吉行が「目の酷使は関係ありますか」と質問すると、医者は次のような意味の答えをする。
「ありません。これからいくら使っても構いません。目の水晶体の白髪(しらが)というように考えてください」
 たしかに、白髪が痛くないように、その後も目が痛かったことはない……。

 まだ現在のように、白内障における眼内レンズが一般化されていない時代のことである。
 「人口水晶体」は、吉行が目の不調、視力が弱くなったことを自覚してから、診断を受けた担当の医者とのやり取りと手術までの心理の移ろいが、いかにも吉行淳之介らしく描かれている。
 この本を読んだ当時は私もまだ若かったので、その後自分が目で煩わされるとは思ってもいなかった。たしかに白髪が増えるのは痛くもなく、ロマンスグレイで渋いですねと言われて、まんざらでもない気分でいたぐらいだ。

 *「眼」の中が見えた、硝子体手術体験

 私たちが目で見るのは、外の景色である。
 外の景色を、目(眼球)の外側のレンズを通して反対側の内側の網膜に写すことによって、姿・形として見ているのである。
 目は丸い球体で、球体の中は硝子体といって透明なゼリー状の液体である。

 私の病名は「網膜前幕」(黄斑上膜)といい、網膜の前に薄い膜ができる症状である。白髪のように痛みも痒みもなく、初期は見え方に何ら変化もないが、この膜によって網膜に皺がよったりすると、視力が低下したりモノが歪んで見えたりする症状が起きる。
 つまり、網膜の前にできた不要な膜を除去する手術である。
 硝子体の中の手術ということで、目にメスが入るということである。
 手術での私の眼の中で起こった出来事の概略を記すと、次のようになる。場所は大学病院の手術室。時刻は昼下がり。

 <手術台でのシーン>
 ・眼が洗浄される。
 ・眼に麻酔注射が打たれる。チクリと痛い。(局部麻酔)
 ・眼に灯りが充たされ、全体が白く明るくなる。(明かり投射か?)
 ・白い世界に、液体のような気体のような緩やかな流れが、眼の球体内で流動、浮遊している。細かい鉄粉のような粒片も流れのなかに散在している。(硝子体の中の動きか?)
 ・緩やかな流動体は吸い上げられたのか、白い無風の世界になる。(硝子体内の液の排出と液体(水)もしくはガスの注入か?)
 ・白い世界に、左の方から黒い細いが幅を持った、影のような2本の線が延びてくる。向きあった細い刀のような、細い裁ちばさみのような、まっすぐ伸びたピンセットのような、2本の細い幅を持った線。(医療機器の鉗子である)
 ・2本の線がその先を摘まみ、白い世界からガムテープを剥がすように、影のようなベール状のものをめくって剥がし取る。(前膜の除去)
 ・影のような2本の線とそれによって剥がされた膜状が、左に引っ込むように消える。
 ・白い世界に戻る

 総て、白い世界での出来事で、モノクロの世界である。
 目は、外の世界しか見えないはずである。しかし、このとき、眼の中の世界、そこで起こっていたのが見えた。確かに、硝子体の中で起きていたことである。前記の出来事での( )内に記したのは、私の個人の想定である。
 私は、ひょっとしてこれは私だけが見ている、私だけが見えていることではと思うと、手術がもたらす不安というより感動に値するのではと感じた。

 手術が終わったあと、しばらくは白い世界が広がっていた。
 まるで、インドネシア・バリ島で見たワヤン・クリのようだ。かりそめのモノクロの影絵劇だ。
 (写真は、バリ島ウブドでのワヤン・クリのモノクロ写真)

 罠、罠、罠に落ちそう……
 メスよりも、キスは目にして!
 目の中の、硝子体の出来事はすべて陽炎(蜉蝣)……

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千鳥ヶ淵の花見のあとの、銀座裏通り

2022-04-10 02:32:29 | 気まぐれな日々
 *3年ぶりの千鳥ヶ淵の桜

 満開の桜の季節、3月30日、パンデミックで自粛していた千鳥ヶ淵の花見に、3年ぶりに出かけた。夕方、靖国神社をスタートし千鳥ヶ淵へ。
 人出は例年より少ないが、ほどほどには混んではいる。みんなマスクをしての花見だ。それにしても、コロナウィルスの3回目のワクチンは打ち終わったが、いつまでマスクをするのだろう。
 桜は満開で、ちょうど見ごろである。皇居の濠に向かってしなるようになびく桜の枝が織りなす花の舞は、変わらず絶妙であり絶品であった。
 今年は例年にも増して、濠に浮かぶボートの数が多かった。それに、行き交う外国人も多いように感じられた。いまだパンデミック下であるので観光客ではないだろうから、日本に住んでいる人たちであろう。
 世情が不安定であるから、みんな、桜でも見ようという心情であろうか。

 *日比谷の松本楼へ

 いつものように千鳥ヶ淵から濠に沿って歩いて、日比谷に出た。
 日も暮れた頃なので、夕食である。
日比谷公園を抜けて有楽町近くの日比谷界隈の店へ行こうと思っていたのだが、公園の中を歩いているうちに建物の灯りが見えたので気が変わった。そうだ、公園内にある松本楼へ行こうと思いたったのだ。

 「松本楼」は、西洋風の日比谷公園が1903(明治36)年に開園するにあたり開業した洋食店である。当時ハイカラ好きの間では人気だったようで、戦前には日本に亡命していた中華民国初代総統の孫文やインド独立活動家のラース・ビハーリー・ボースとの縁も伝わっている。
 若いときから日比谷や日比谷公園には何度も来ていて、私の好きな界隈なのだが、松本楼は入ったことがなかった。若いときは、何だか敬遠する店だった。
 店内は明るいながら、老舗の持つ落ち着いた雰囲気を漂わせている。
 少し歩き疲れた脚を慰めるために、ソーセージとエビの唐揚げを肴にビールを一杯。そして、ここの看板メニューともいうべきハイカラビーフカレーを食べた。

 *銀座裏通りの三原小路へ

 松本楼を出たのがまだ夜8時だ。時間はあるので、銀座に行こうと思いたった。
 いつも気まぐれな行動だが、銀座のクラブに行こうというのではない。気になっていた、知人が話した銀座の裏通りを探そうと思ったのである。
 その人の話では、銀座を散歩しているとき、ふと小さな通りに入り込んだ。その通りは、普段知っている銀座とは思えない雰囲気があった。
 その通りの中ほどにある和風の食の店の前では、四角い煉瓦火鉢が置いてある。そこで小さな少女が、炭火で小さな餅を上手に焼いていた。
 思わず、「いつも焼くの?」と訊くと、「う~ん? お客さんの日だけ」と。「上手ね」と言うと、「う~ん?」と、あどけない返事とのこと。
 その通りは「三原小路」と言った。

 「三原通り」は、銀座中央通りと昭和通りの間を走っている通りである。地下鉄東銀座駅の交差点が「三原橋」で、今は知らないがこの地下街に、ピンク映画を上映している映画館があった。
 その「三原小路」は銀座5丁目というので、おおよその検討をつけて中央通りの裏通りを歩いたが、それらしい通りは見つからない。地元の人とおぼしき人に訊いて、その通りの入口にたどり着いた。
 ここに通りが、と思わせるところに、その通りは存在した。
 石畳の小さな通りに、小料理屋や中華などの店が左右に並んでいる。急に、何だか地方都市の通りに迷い込んだ雰囲気である。
 途中、和食店の前に例の煉瓦火鉢が置いてある。店は京都の町屋を思わせる、思ったよりきれいな造りだ。この夜は、誰も座って焼いてはいない。店の中から女将とおぼしき人が、何やら料理とおぼしき品を抱えて、道の前の別の大きな店に入っていった。
 店を過ぎ通りの端に出ると、赤い幟が並んでいるのが目に入る。そこは、よく見ると「あづま稲荷神社」である。小さな通りに小さな稲荷神社が佇んでいる。
 通りの入口には、「三原小路」と通りの名前を書いた明かりが、在処(ありか)を主張するかのように光っている。
 どうして、この通りを今まで見かけなかったのだろう。銀座4丁目から目と鼻のすぐのところにあるというのに。

 「小路」とは、侘しさとロマンを内に秘めた情緒のある通り名だ。
 日を改めて、ゆっくりもう一度来なくてはいけない。そして、ゆっくりと一杯飲まなくては……

 三原小路の 灯りのように
 待ちますわ 待ちますわ
 どうせ気まぐれ 東京の銀座裏通り
 ――「池袋の夜」(歌:青江三奈、作詞:吉川静夫、作曲:渡久地政信)の歌に合わせて……

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