かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

なかにし礼の世界② 歌作りの源流、「それからのわたし」

2021-01-27 03:15:28 | 歌/音楽
 *作詞家を愛した一人の女性

 なかにし礼(本名中西禮三)は後半に小説も書いたが、何といっても歌謡曲の作詞家である。歌謡曲のなかに文学の風を持ち込んだ特別な作詞家だと、私は思っている。
 なかにし礼の歌作りの出発点は、立教大の学生時代に、シャンソン喫茶「ジロー」でのアルバイトがきっかけで始めたシャンソンの訳詞からである。
 なかにし礼の結婚は、作詞家全盛時の1971(昭和46)年に、デビューしたての新人歌手の石田ゆりとの結婚が有名で、ヒットメーカーの作詞家と新人歌手との結婚ということで当時週刊誌を賑わした。石田ゆりは、「ブルーライトヨコハマ」(1968年)の大ヒットで有名歌手だったいしだあゆみの妹で、なかにし礼と婚約した時はまだ18歳だった。
 なかにし礼は、それ以前、まだ無名の頃一度結婚している。
 当時誰にでも知られ盛大に行われた石田ゆりとの結婚は、なかにし礼にとっては二度目の結婚だった。この石田ゆりとの結婚に比べ、最初の結婚はあまり知られていない。

 去年2020(令和2)年の12月、なかにし礼が他界した際、私は彼を偲び「なかにし礼の世界①」で、好きだった彼の歌「歌謡曲 私的BEST10」を書いた。そのとき、なかにし礼と最初に結婚した女性が本を出版していることを知った。
 その本は「それからのわたし」という題で、(語り)清水秀子、(文)高山文彦、(出版)飛鳥新社、2004年出版である。

 *波乱の人生、「それからのわたし」

 その人は、清水秀子という名の人であった。タイトルの「それから…」の意味するところは、なかにし礼と別れてから、という意味である。
 彼女が語ったのを、大宅壮一ノンフィクション賞作家の高山文彦が本として書いたものである。
 芸能人や政治家などの有名人では、話を聞いて名前が出ないゴーストライターが書くという本は多々あるが、ちゃんと書き手の名前を出したものとして、山口淑子・藤原作弥「李香蘭 私の半生」がある。書き手の名を出すことで、内容への責任と自負が表れている。

 「彼女」が、学生でシャンソンの訳詞をしているなかにし礼と結婚したのは1963(昭和38)年で、なかにし礼25歳、彼女23歳であった。
 1966(昭和41)年に長女誕生。そして、1968(昭和43)年に離婚している。
 彼女は、それから、単身アメリカに渡り、本が出版された2004(平成12)年時、ハワイに住んでいる。なかにし礼との間に生まれた娘は、彼女がアメリカに渡った当初は日本の養父母の家で育てられていたが、娘が12歳のときアメリカに引き取り、その後一人で育てた。
 こう大筋を書いただけでも、彼女の波乱に満ちた人生が想像できる。

 *なかにし礼の、鏡の向こうの青春

 「それからのわたし」は、清水秀子という一人の女性が精いっぱい生きた、「女の人生」が描かれている。そして、なかにし礼との出会いと別れが。
 「彼女」は高校を卒業すると、知り合いの人の会社に勤めるが、すぐにそこをやめて帝国ホテルのグリルのウェイトレスとして働く。ここから彼女の人生が展開していく。
 帝国ホテルに客といて来ていた実業家、安宅産業の御曹司の安宅照弥や、東洋郵船の横井英樹に声を掛けられ、彼女の知らない世界を垣間見ることになり、新しい世界に足を踏み入れる。
 その後、モデル事務所SOSのモデルになり、新聞・雑誌の広告やテレビCMのキャラクターモデルとして活動する。羽振りがよかったのだろう、その当時、彼女は黄色いルノーに乗っていた。

 そして、お茶の水にあったシャンソン喫茶「ジロー」でなかにし礼と出会う。なかにし礼は立教大の学生で、アルバイトでシャンソンの訳詞をやっていた。
 知りあって半年後の1963(昭和38)年、二人は結婚。彼女、22歳。なかにし礼、25歳。
 二人が行った新婚旅行先の伊豆・下田東急ホテルには、堀江謙一をモデルとした「太平洋ひとりぼっち」の映画撮影のために石原裕次郎が来ていた。
 バーのカウンターで石原プロモーションの中井専務と飲んでいた石原に、二人は手招きで呼ばれる。そこで、君ら新婚かい、どんな仕事をしているのという話から、シャンソンの訳詞なんかしているより日本の歌の方が…、といった話を石原にされる。
 そのことがきっかけで、なかにし礼は、歌謡曲を書くことになる。
 そして、約1年後にできたのが、なかにし礼作詞・作曲の「涙と雨にぬれて」である。歌を吹き込んだテープを石原プロに持っていくが、すぐには返事がもらえず曲は預かられたままだった。

 *恋にまみれて、なかにし礼作詞家として一気に頂点へ

 シャンソンの訳詞をしていた延長上で、なかにし礼は、菅原洋一が歌う歌の訳詞を頼まれる。A 面は、エンリコ・マシアスのシャンソン「恋心(L'amour, c’est pour rien)」で、B面は「たそがれのワルツ」という題ですでに菅原が歌っていた英語版「I really don't want to know」を新しい詞にするというものだった。それが、「知りたくないの」という曲になった。
 「あなたの過去など知りたくないの……」という歌は、彼女がなかにし礼に口癖のように繰り返していた言葉で、そのまま歌になっていた。
 レコードは1965(昭和40)年発売され、競作だったA面の「恋心」は、永田文夫訳詞の岸洋子版や越路吹雪版はヒットしたものの、菅原洋一の曲はまったく反応がなかった。

 なかにし礼と彼女の結婚生活は順風満帆とはいかなかった。生活費にまつわる経済問題、なかにしの女性問題、将来のことなど、諍いが絶えない。
 中絶、流産の後、1966(昭和41)年、娘誕生。彼女は子育てのため仕事を休むことになり、車も売り生活は困窮していく。

 発売当初はまったく反応がなかった菅原洋一の曲だったが、菅原が「知りたくないの」に絞って歌い続けた努力もあって次第に知れ渡っていく。
 さらに、その反応もあって石原プロに預けてあった「涙と雨にぬれて」が、1966(昭和41)年、裕圭子とロス・インディオス、そして田代美代子&和田弘とマヒナスターズの競作という形でレコード化される。
 この「涙と雨にぬれて」が、なかにし礼の初のヒット曲となる。

 ヒビが入ったなかにし礼と彼女の間は、次第に悪化の一途をたどっていく。
 そんな時の1967(昭和42)年に書かれたのが、「今日でお別れね、もう逢えない…」という出だしの曲、菅原洋一の「今日でお別れ」であった。この歌は、後の1969年末に再発売され、1970年度のレコード大賞となるなど大ヒットし、菅原洋一の代表曲となる。

 売れだしたなかにし礼が赤坂のマンションに事務所を構えていることを知った彼女は、その部屋に突然行ってみた。そこは、事務所というより女性が暮らしている部屋のようだった。彼女は、そこにいる女性となかにしがいる前で、部屋の家具類や窓ガラスを思いきり壊して出ていく。
 二人の関係は修復不可能となり、ついに離婚調停に到る。
 その頃、なかにし礼ものちに自作「夜の歌」で書いているが、なかにしは銀座のクラブのママ田村順子と恋人関係にあった。
 1968(昭和43)年12月、正式離婚。
 翌年、やつれはてた彼女のアパートに、すでに売れっ子になっていたなかにし礼がひょっこりやって来た。部屋には、娘に買ってあげた人形が埃をかぶったまま転がっていた。彼女は打ちひしがれる。
 1969(昭和44)年、巷から弘田三枝子の歌う「人形の家」が流れだし、彼女の心を苦しめた。

 *ヒット曲の底流にある、彼女との恋

 なかにし礼の主なヒット曲を、年代をおって見てみよう。
・1966(昭和41)年
 「涙と雨に濡れて」(裕圭子とロス・インディオス、田代美代子&和田弘とマヒナスターズ)
・1967(昭和42)年
 「恋のハレルヤ」「霧のかなたに」(黛ジュン)、「知りたくないの」(菅原洋一)、「恋のフーガ」(ザ・ピーナツ)
・1968(昭和43)年
 「天使の誘惑」「夕月」(黛ジュン)、「エメラルドの伝説」(ザ・テンプターズ)、「いとしのジザベル」(ザ・ゴールデンカップス)、「愛のさざなみ」(島倉千代子)
・1969(昭和44)年
 「人形の家」(弘田三枝子)、「恋の奴隷」(奥村チヨ)、「夜と朝のあいだに」(ピーター)、「君は心の妻だから」(鶴岡雅義と東京ロマンチカ)
・1970(昭和45)年
 「あなたならどうする」(いしだあゆみ)、「手紙」(由紀さおり)、「雨がやんだら」(朝丘雪路)、「今日でお別れ」(菅原洋一)
・1975(昭和50)年
「石狩挽歌」(北原ミレイ)、「こころのこり」(細川たかし)
・1982(昭和57)年
「北酒場」(細川たかし)
・1985(昭和60)年
「まつり」(北島三郎)

 なかにし礼は、シャンソンの訳詞も含めると約4000曲もの歌を書いたという。彼の特徴は、女性の気持ちを歌った恋の歌だと思う。
 こうしてみると、今も残るヒット曲の多くは、特に恋の歌は1970(昭和45)年までに集中している。1970代の後半以降は、文学的な「石狩挽歌」を除いて演歌風が多い。
 なかにし礼は、1963年に彼女と結婚してから1968年に離婚するまで、恋の燃焼と消滅、その間の男と女の修羅場を体験した。そのときの体験が歌作りの骨格となり感性の養分になったとするのは想像に難くなく、他の多くの芸術作品の例をひくまでもないだろう。
 その土台となった恋の物語とエゴイズムは、「それからのわたし」のなかで、彼女からの一方向性であれ随所に描かれていた。それは、今まで見ていたなかにし礼のカードの、あるいはコインの、見ていなかった裏を返して見るようだった。
 なかにし礼と別れたあと、彼女はアメリカに行った動機について自著のなかで、「ただ、礼が私の魂を蛭(ひる)のように吸い取って創り上げた流行歌の聞こえない場所に行きたかった」と述べている。

 1970年になかにし礼は、石田ゆりと二度目の結婚をする。
 1971年以降、恋の歌のヒット曲が減少したのは、金も名誉も得、さらに幸せな家庭を築いた彼のなかから、男と女の軋轢から生まれる微妙で複雑な、胸を刺すような恋の言葉が生まれ難くなったのではないかと想像する。
 とはいえ、彼のなかでは歌作りの魂は消えることはなかった。

 *あいつは髪の毛ふり乱し、涙をいっぱい目にためて……

 1977(昭和52)年、なかにし礼は、フォーライフ・レコードの吉田拓郎の依頼で、全て作詞・作曲、そして自分で歌った、「時には娼婦のように」を含めたアルバム「マッチ箱の火事」を出す。
 このアルバムこそ、なかにし礼が己の魂を注ぎ込んだ曲はないだろう。
 当時のやさしさに包まれたフォーク系のニューミュージックに対する抗いと同時に、ぬくもりに包まれた家庭からの精神的脱却の意図があったのかもしれない。
 アルバム掉尾を飾る「ハルピン1945年」は、彼の永遠ともいえる満州への憧憬を歌ったものだが、他のほとんどが男と女の関係を、短編恋愛小説のように歌に閉じ込めたものである。
 第二の結婚後、心底に沈殿していた若かりし日の恋の傷の澱が、マグマのように溢れ出た感じで、誰かこんな歌を書いてみなと言わんばかりの、挑発的で歌謡曲としては画期的な歌が並ぶ。

 たとえは、このような歌である。
 見出し文に書いた、「あいつは髪の毛ふり乱し、涙をいっぱい目にためて…」は、男女の修羅場が情景として浮かぶ、「白い靴」の冒頭の台詞である。
 表題作の「マッチ箱の火事」では、「俺が他の女と一緒にいるところを、お前に見られたあのときほど、驚いたことはないね…」とドラマチックな出だしで、これも男女の大火事の情景だ。
 「猫につけた鈴の音」は、歌には不相応なまでの、「あなたの子どもができたと君は言った、きびしい冗談はよせよと僕は言った…」という出だしで始まる、極めてシリアスな内容だ。
 若かりしときの愛の修羅場、失われた恋のむき出しを再現したかのようである。
 アルバム発売から40余年。
 発売当時からこのアルバムに対する私の高評価と好感度は変わらないが、ここに描かれた曲の多くが、彼女との愛と別れを根源としていると感じさせられたのは、彼女の「それからのわたし」を読んだからだ。
 愛と諍いの嵐の中の男と女。ここを源流に、文学の風をおびた歌謡曲が生まれた。

 *それからの彼女…

 それから……
 つまり、なかにし礼と別れた彼女は娘を実家に預け、一人で歩くことを始める。
 1970(昭和45)年1月、知りあったアメリカ人のつてで単身アメリカに渡り、最初はカリフォルニア州バークレーの語学学校に通うが、すぐにニューヨークに行く。そこで語学学校のあと、目的だった美容学校へ通い、美容とメイクアップの資格を取得し、ニューヨークで本格的に美容の仕事を始める。
 1978(昭和53)年、正式に娘をニューヨークに呼び寄せる。娘は大学卒業後、日本の企業に就職し、日本人男性と結婚し、日本に住んでいる。
 彼女はその後も、ニューヨークで、一人でキャリアウーマンとして仕事を続けていく。そして、何度かの癌を乗り越えながら仕事を続けていたが、2001(平成13)年、勤めていた会社を退職し、安らぎの地として選んだハワイに移り住む。
 2004(平成16)年、「それからのわたし」出版。

 なお、なかにし礼は、1989(平成1)年、自伝「翔べ!わが想いよ」出版。
 2020(令和2)年12月23日、なかにし礼は翔びたった。

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令和3(2021)年の始まりと、お節料理

2021-01-10 01:49:15 | 気まぐれな日々
 いつの間に 季節(とき)は移ろひ 花も散り
       憂き世の春の 行方知るかや
                 (沖宿)

 令和2(2020)年の昨年は、初めて体験するもの憂い1年だった。
 燎原の火のごとく広まった新型コロナウイルスのパンデミックによって、自由でありながら自由でない、自由でありたいのに自由を抑制するという、何とも言いがたい不安とジレンマに充ちた月日を送った。
 そして、季節感をあまり感じない1年だった。
 それでも振り返れば、雪が降り、桜が咲き、暑さで汗をかき、茶色に染まった枯葉が舞い散り、時は何事もないように進んで、季節は変わっていったのだった。
 去年の4月から9か月、東京では令和3(2021)年1月の松の内が終わる7日に2度目の緊急事態宣言が発出、8日から実施とされた。

 緊急(非常)事態宣言とは、主に戦争や騒乱、テロ、自然災害、パンデミックなどの有事の際、国家や地方自治体が宣言・発令するものである。
 先に「コロナ時代の哲学」で触れたが、緊急事態宣言は権力側が施行するもので多くは人々の自由を抑制することを含む。それゆえ、宣言を受ける国民、人々は多かれ少なかれ反対の意向を持つものである。
 しかし、今回のパンデミックの際には、経済を回したい政府サイドは緊急事態の宣言には消極的だったように見え、一般の人々の方から宣言が遅い、もっと早くという意見が窺われた。人々の自由を束縛・抑制する緊急事態宣言の持つ性格としては、逆転現象である。
 このことは、「コロナ時代の哲学」のなかで國分功一郎が述べた、「我々が今、進んで民主主義を捨てようとしていることへの警鐘と捉えるべきかと思う」、というような事態なのか。

 そして、政府や都は再度、「不要不急の外出自粛」を促した。いわば、生命の維持に直接結びつかないものや行動は控えるということだ。そのような意味では、文化や娯楽は不要不急といえよう。そもそも文化や娯楽は余剰から生まれるものだからだ。
 「不要不急」の反対語は「必要火急」である。ところが「必要火急(緊急)」なものだけでやっていくと、肥大した経済が回らなくなりやせ細っていく。今日の資本主義は、「不要不急」と「必要火急」は経済で繋がっているのだ。
 複雑で難しい事態、状況である。

 去年、印象に残った言葉は、
 「相手が正しい可能性はある」(ドイツ哲学者ハンス=ゲオルグ・ガダマー)

 イギリス、ドイツ、フランス、イタリアなど欧米各国も、新型コロナウイルスの拡大を受けて、再度、ロックダウン(都市封鎖)を含め規制強化をしている。
 こうして世界を見渡しても、いまだパンデミックの沈静化が見通せない今年の幕開けである。

 *正月のお節料理

 自粛ムードのなかで迎えた正月は、今年も例年通り一人の手抜きお節である。
 蒲鉾、昆布巻き、田作り、で一応お節の基本形を施す。田作りは、カタクチイワシ(ゴマメ)を醤油と砂糖でまぶしたもの。
 黒豆の代わりに茹でた枝豆。茹で玉子。ホウレン草のおひたし。南瓜煮。豆腐。そして、刺身はカンパチ。
料理らしいものは何もないが、簡単でいい。
 年に1度正月だけ買う日本酒は、ここのところ越乃寒梅である。惜しいことに、今年はお屠蘇はなし。徳利と猪口は、去年までの藍の深川製から白地の西山製に代えてみた。
 今年は、買いそびれたこともあって、華やかさを付け加える花はない。それも、今年らしいと自分に言い訳をする。
 (写真)
 外は雲一つ見えない澄み渡った青空で、窓からは強い日が差している。
 青空は救いだ。そこに、ちぎれた雲があってもいい。いや、私は雲があった方がいい。
 お節の後、雑煮を食べたらもう日が暮れなんという時刻だ。何とも1日が速い。

 暗くなってから、近くの多摩・落合白山神社に行ってみた。
 今年は神社が例年おこなっている甘酒のふるまいもなかったようで、境内に電灯の飾り灯は付いてはいるものの、夜ということもあってか自粛ということもあってか、人はほとんど見かけない。
 侘しさの漂う閑散とした初詣だ。

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