かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

黒部・立山の旅① 宇奈月の、雨のトロッコ列車

2010-10-31 00:28:29 | ゆきずりの*旅
 あてもなく思いつきで旅を続けて、振りかえれば、行っていない県は、富山と愛媛になっていた。別に、全県に行ってみようとか、宮脇俊三のように、鉄道全線走破などは意識したこともなかった。
 そもそもそういう旅ではなかった。それに、あの列車に乗ってみたいとか、あの路線を走ってみたいというのも意識したことがなかった。
 ただ、思いつきで旅したに過ぎない。
 会社(出版社)勤めだったので、旅に出たのは、多くはゴールデンウィークをはじめ、連休や有給休暇を利用したものだった。
 九州・佐賀で育ったせいか、「北帰行」と称して北へ向かうのが、旅心をくすぐった。
 それに、年に何回か東京から佐賀に帰省する際には、飛行機は使わず殆ど列車を利用した。東京から博多まで東海道新幹線利用が最も多いが、時折途中コースを換えて寄り道をした。
 京都から山陰線に乗り換えて、鳥取、島根、山口を通って九州へ入ったこともあった。
 あるときは、東京湾を夜発つフェリーに乗って、翌昼に徳島を経て、瀬戸内海を抜けて翌々日の早朝に門司港へ着く、船中2泊の船旅も経験した。
 列車で九州へ着いてからも、まっすぐ佐賀に行かずに、小倉から大分に出て、久大線で久留米を経て佐賀へたどり着くコースもあった。
 あるいは、やはり小倉から大分に出て、豊肥線で熊本へ、さらに三角へ行き、天草島に渡り、天草から長崎に渡り、佐賀にたどり着いたこともあった。

 *

 意識していなかったが、足を踏み入れていない県があと2県となると、やはり富山と愛媛も行ってみないと、と思う。
 そんなとき、友人から「立山・黒部アルペンルートとトロッコ列車」の旅の誘いがきた。立山、黒部も富山県で、泊まりは富山市だ。山登りや、自然の渓谷を見に行く趣向もなかったが、こんな機会でないと行かないと思い、喉が少し痛かったが、旅立った。

 10月26日、東京駅朝8時24分発、上越新幹線「Maxとき」で、10時12分長岡着。「Maxとき」は、2階建ての列車だ。
 長岡からバスに乗って宇奈月に向かう。この日の目的、トロッコ電車に乗るためだ。ところが、窓の外は雨だ。天気予報によると、日本海寄りに冬型の寒波がきているという。
 昼過ぎに宇奈月着。ここは、宇奈月温泉で有名なところだ。やっと、富山県の土を踏んだ。
 宇奈月に着いたら、そこも案の定雨で、それに予想していたといえ寒い。それも真冬の寒さである。
 旅は、しばしば予想外の事態が起こるものである。
 
 宇奈月駅から黒部峡谷を走るトロッコ電車「黒部峡谷鉄道」は、元々ダム建設の資材や作業員を運んだ電車だが、今では観光客に、人気があるという。
 冬支度のジャンバーを着ていたが、トロッコ電車は屋根はあるものの、車体の両側は骨組みの柱だけで、窓ガラスはなく吹きさらしだ。こんな雨の日は、例外的に窓を付けるなんてことはない。
 駅の構内にある売店で、ビニールのレインコートが売っているので、買うことにした。トロッコ電車に乗る人はみんな買っていて、乗客は全員ビニールコート姿となった。
 車台の上に、背のない木造の長椅子が並んでいる。ぎちぎちに詰めれば4人は座れるだろうが、雨が吹き付けるので真ん中に2人乗りで座る。
 川に沿って渓谷を走る電車は、いくつものトンネルを抜け、いくつもの橋を渡り、いくつもの山肌を伝わる細く長い滝が車窓に映える、美しい景観が続く。(写真)
 しかし、それも雨に打たれると、冷たくて感動してばかりはいられない。山の頂は白い。雪が降ったのだ。
 トロッコ電車は、宇奈月から終点の欅平まで約20キロの距離を1時間20分で走るのだが、途中の鐘釣(かねつり)まで55分で、そこでコーヒーを飲んでUターンし、宇奈月へ戻る。

 宇奈月からバスで富山のホテルへ。
 すっかり喉を痛めてしまった。
 翌日は、立山から黒部ダムのコースだ。立山は雪が降ったと情報が入る。今日よりもっと寒いという。明日が思いやられる。
 9月に猛暑で、10月に雪に出合う。つい最近まで夏のように暑かったのに、一気に、ここに冬が来たようだ。
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俺俺  ──「自分」って何だろう?

2010-10-25 00:35:09 | 本/小説:日本

 「俺」って何者だろう。
 「俺」は、「自分」に置き換えてもいい。
 「自分」とは何者だろう。今、ここで、こうしているのは、どうしてだろう。

 今、仕事はうまくいっていない訳ではないが、よいというのでもない。それなりにやっているつもりだ。しかし、この仕事は本当にやりたかった仕事ではない。本当にやりたかった仕事はあったのだが叶わなかった。いろいろ事情があったのだ。
 しかし、こうしているこの現状は、自分の実力以外ないのであるから仕方がない。
 多くの人が、こういう思いで生きているのだろう。
 いつか、もっと本来の自分を取り戻そうという密かな思いと、それでもそんな日は来ないかもしれないという思いをしのぎ合いしながら、日々の日常を送っているのだろう。

 *

 「俺俺」 星野智幸著 新潮社

 あるとき、俺は、ことのはずみで他人の携帯電話を盗んでしまう。携帯の履歴から、携帯の持ち主の母に、ふと電話してみる。その母親は、電話した自分をすっかり息子と思いこんでいるようだ。彼はいたずら心で、オレオレ詐欺のようにその母親に金をせびり、振り込ませる。
 ある日、仕事からアパートに帰ってみると、知らないおばさんがいた。
 俺は驚くが、そのおばさんは携帯の持ち主の母親で、俺のことを息子と信じて疑わなかった。俺は、そのおばさんの前ではその息子となり、違った名前となった。それならそれでいいやと、そう振る舞った。
 俺は、違った俺になった。
 違った名前で、違った実家があり、違った親がいた。それでも、俺は俺だった。

 本来の自分を確かめようと、もう滅多に帰っていない自分の実家に寄ってみた。
 家から出てきた母親は、俺の顔を見ても息子とは思わず、息子だと言う俺を他人の嫌がらせと思い、追い払ったのだった。家の中からその家の息子なるもの、つまり俺のはずの男が出てきた。その男は、顔は俺とは微妙に違うのだが、確かに自分、つまり「俺」だった。
 向こうの男も、俺を「俺」と気がついたようだった。
 こうして、俺は別の「俺」と、人知れず仲よくなり、会うようになった。

 俺は、仕事でも上司とうまく行かなくなり、不安定な立場で生きている。どうしてこうなったのだろうと、もがいてみる。
 鏡の顔を見て、おまえは誰だと叫んでみる。
 そうすると、おまえこそ誰だという返事が戻ってくる。
 俺は、自分がどこにいるのか惑っている感覚から抜けきれないまま、仕事を続ける。
 そのうち、もう1人違った学生の「俺」が出現する。俺は3人になる。
 俺は、「俺ら」で会っているときに、安堵を覚える。何しろ3人とも環境は違い、違う悩みを抱えているのだが、違うとはいえ3人とも「俺」だから、何となく分かりあえるのだ。
 しかし、その関係も長く続かない。俺たちは、互いに非難しあうようになったのだ。どれも「俺」なのにだ。
 「俺ら」は、少し距離をおくようになったが、あるとき憎んでいた上司が「俺」と気がついた。それどころか、そのうち蔑んでいたやつも「俺」だった。何ということだ。
 こうして、「俺」が、あらゆるところで増えていった。
 愛らしい俺、憎たらしい俺、意気地のない俺、どれも「俺」だった。

 小説「俺俺」は、社会の中でもがく俺は何なのだと問いかける。
 社会の中で、いつしか孤立しながら生きていく俺は、俺と同じ「俺」を求めて、俺と違った憎らしい「俺」に会い、落ちこぼれている「俺」に同情し、お互い傷つけあって、蠢く「俺」の中に埋没して生きているのが、現代の「俺」たちだろうか。

 *

 「自分」って何だろう。
 身近にいる他人が、それも嫌いである他人が、蔑んでいる他人が、自分であったとしたら、こういう思索で自分を捉えてみると、違った世界が現れてくる。
 様々な自分がいるのに、うんざりする。
 
 他人の生きざまを見ながら、自分とは何者か?と、
 人は、鏡に映った自分に、こう問いながら生きていく。
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イヴの総て

2010-10-23 02:35:04 | 映画:外国映画
 監督・脚本:ジョセフ・L・マンキーウィッツ 出演:アン・バクスター ベティ・デイヴィス ジョージ・サンダース マリリン・モンロー 1950年米

 スターは、どうやって生まれるのか?
 生まれ持っての才能、運、努力などが挙げられよう。そんな映画やドラマがいくつも作られてきた。
 努力の末に勝ち取った「スター誕生」のドラマはいくつでもある。最後は、涙のスポットライトとなる話は、安っぽくどこかしらじらしい。
 スターの、みんなに見せる笑顔。
 しかし、笑顔の舞台裏には、実は生々しい醜いものが隠されていたとしたら。
 この「イヴの総て」は、スター誕生の華やかな明かりの裏の陰に照明を当てた映画である。スター誕生の内幕ものと言っていい。
 1950年作の映画であるが、いまだ輝きを失っていない。

 映画は、舞台の大功労者に与えられる賞の授賞式で幕を開ける。受賞者は、大スター、ハリントン・イヴ。
 物語は、そのイヴの大スターになるまでの、総てである。大スターが生まれる裏を明らかにした、総てである。

 ハリントン・イヴ(アン・バクスター)は、ブロードウェイの片隅で、憧れの大スター、マーゴ(ベティ・デイヴィス)を見ている。貧しい彼女は、田舎からスターを夢みて都会にやってきたのだ。
 毎日マーゴの舞台を見続けていた熱心な姿がマーゴと彼女の友人に気に入られ、イヴは彼女の秘書役になる。
 すぐに、マーゴの取り巻きのプロデューサーや脚本家たちにも、イヴの誠実で行き届いた気配りが気に入られる。そして、突然やってきたマーゴの代役で、初めて舞台に立ち、一躍舞台俳優として脚光を浴びる。コラムニストのアディソン(ジョージ・サンダース)は、イヴを絶賛し、マーゴをこき下ろす。
 それを足がかりに、イヴは新しく主役の座をつかみ、スターが誕生する。

 ストーリーは、よくあるスター誕生の物語である。
 この一つひとつの粗筋が、すべて本人の巧妙で精巧な計算で作りあげられたものとしたら、どうだろう。
 謙虚さも誠実さも、実はすべて計算されたもの。女であることを武器に、巧妙な嘘も、あるときは真顔で、あるときは涙ながらにつくすべを知っている。そして大スターを踏み台に、機が来たらチャンスを作りあげ、確実に自分のものにする。
 打算にまみれたスター誕生であるが、なぜか憎むことが出来ない。それは、演劇界、映画界に限らず、誰にもイヴの持っている要素があるからだろう。
 映画を見終わった後、人間とはこういうものかと思い、重い気持ちになる。
 それでいて、イヴが愛おしくなる。
 物語の最後が、この物語をさらに深くしている。
 大スターの称号ともいえる賞を受賞した夜、イヴの前に、スターを夢みた新しいイヴが現れる。彼女も、情熱とともに、すでに嘘をつくすべを持っていた。

 イヴ役のアン・バクスターは、この映画で、不朽の女優になった。「イヴの総て」は、「アン・バクスターの総て」でもある。
 のちに、ブロードウェイのこの映画の舞台版で、かつての大スター、ローレン・バコールのあとに、マーゴ役をやっている。
 マーゴ役のベティ・デイヴィスは、美人ではないが名優である。彼女は、AFI(米国映画協会)の1999年発表の「最も偉大な伝説的映画女優ベスト50」で、2位を得ている。下に、参考までに20位までを記した。
 イヴを持ち上げた皮肉なコラムニスト、アディソン役のジョージ・サンダースは、65歳になったら自殺するよという予告通り、自殺した。
 遺書には、「世界よ、退屈だからオサラバするよ。もう十分長生きした。……」といったことが書かれていた。
 ジョージ・サンダースもベティ・デイヴィスも、4度離婚している。
 スターになる前のマリリン・モンローが、女優の卵の端役で出演しているのも愛嬌だ。彼女は、「最も偉大な伝説的映画女優ベスト50」の6位に入っている。

 *

 「最も偉大な伝説的映画女優ベスト50」(AFI)

 1位 キャサリン・ヘップバーン Katharine Hepburn
 2位 ベティ・デイビス Bette Davis
 3位 オードリー・ヘップバーン Audrey Hepburn
 4位 イングリッド・バーグマン Ingrid Bergman
 5位 グレタ・ガルボ Greta Garbo
 6位 マリリン・モンロー Marilyn Monroe
 7位 エリザベス・テイラー Elizabeth Taylor
 8位 ジュディ・ガーランド Judy Garland
 9位 マレーネ・ディートリッヒ Marlene Dietrich
 10位 ジョーン・クロフォード Joan Crawford
 11位 バーバラ・スタンウィック Barbara Stanwyck
 12位 クローデット・コルベール Claudette Colbert
 13位 グレース・ケリー Grace Kelly
 14位 ジンジャー・ロジャース Ginger Rogers
 15位 メエ・ウェスト Mae West
 16位 ヴィヴィアン・リー Vivien Leigh
 17位 リリアン・ギッシュ Lillian Gish
 18位 シャーリー・テンプル Shirley Temple
 19位 リタ・へイワース Rita Hayworth
 20位 ローレン・バコール Lauren Bacall

 *伝説(LEGENDS)とあるので、必然的に古いスターが多くなっているのは仕方ない。
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インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国

2010-10-20 16:49:16 | 映画:外国映画
 製作総指揮:ジョージ・ルーカス キャスリン・ケネディー 監督:スティーブン・スピルバーグ 出演:ハリソン・フォード シャイア・ラブーフ カレン・アレン ケイト・ブランシェット 2008年米

 ジョージ・ルーカスも子どもの頃、冒険小説が大好きだったに違いない。
 「宝島」(スティーブンソン)や「十五少年漂流記」(ジュール・ベルヌ)や「ロビンソン・クルーソー」(デフォー)。それに、「アラビアンナイト」やアメリカの冒険小説、「ロビン・フッドの冒険」(ハワード・パイル)、「トム・ソーヤーの冒険」(マーク・トゥエイン)にも心ときめかしたに違いない。
 彼が好きだった映画が、「アラビアのロレンス」(監督デヴィッド・リーン、主演ピーター・オトゥール、1962年)というのもうなずける。
 ルーカスの盟友、スティーブン・スピルバーグが「007」シリーズの大ファンだったこともあって、ルーカスとスピルバーグによって、「インディ・ジョーンズ」が誕生した。

 インディ・ジョーンズの本名はヘンリー・ウォルトン・ジョーンズ・ジュニア (Henry Walton Jones, Jr.)。愛称が「インディアナ (Indiana)」で、略して「インディ (Indy)」。父親のヘンリー・ウォルトン・ジョーンズ(ショーン・コネリー)から、ジュニアと呼ばれるのを嫌ったことが、「最後の聖戦」でユーモアっぽく描かれている。
 インディアナは、ルーカスが飼っている犬の名前である。インディアナとは、アメリカの州の名にもなっているが、「インディアンの土地」の意である。元々の語源はインドであるから、インドが舞台の「魔宮の伝説」(1984年)は格好で、シリーズ最高の出来となった。 
 インディの父の友人にT・E・ロレンス(「アラビアのロレンス」のモデルといわれる実在した人物)がいて、インディも彼の影響を受けたということになっている。つまり、ルーカスが大好きな「アラビアのロレンス」も、秘やかに登場させているのである。
 主人公インディは、職業は考古学者。と言っても、単なる教室と図書館にこもる学者ではない。現場を最重視し、リスクを回避しないアクティブな学者である。
 彼は、まだ謎となっている宝や伝説の在処を求めて、どこへでも出かけていく。というより、出かけざるを得ないような状況が矢継ぎ早にやってくる。
 行く先は、ジャングルや砂漠や廃墟で、行く手には、予想もできない危険が待ちかまえている。宝が眠っている場所は、いつもこういうところなのだ。

 「インディ・ジョーンズ」シリーズの「クリスタル・スカルの王国」(2008年)は、前作「最後の聖戦」(1989年)から、19年が経っている。
 ルーカスは、この映画を企画するときがもっとも楽しかったに違いない。それは、子どもの夢を託した、大人の冒険物語であるから。
 物語は、軍の車と若い男女が、荒野の中をカーチェイスする場面から始まる。
 それは、あたかも「アメリカン・グラフィティ」(1973年監督作)を想起させる。そう、これぞルーカスの青春像なのである。
 場所は、1957年のネバダ州。「最後の聖戦」の舞台が1939年だったので、やはり実際の年月と同じだけ過ぎていることになる。
 主人公のインディことハリソン・フォードも、それだけ年をとったということになる。

 謎の旧ソ連軍に拉致されたインディ(ハリソン・フォード)が連れて行かれたのは、ネバダ州の軍の秘密地域だった。ソ連軍は、超能力を研究しそれに異常に執念を燃やす、軍服に身をまとった美人のスパルコ大佐(ケイト・ブランシェット)に率いられていた。
 ネバダ州の米軍秘密施設で、隠匿されていた箱が開けられる。そこに現れたのは、不思議な遺体だった。それは、「宇宙人の遺体」と思えるものであった。
 ソ連軍から、その場を逃げたインディは、直後核実験に遭遇する。そこは、当時頻繁に行われていた核実験場だったのだ。
 かろうじて助かったインディは、失踪したオックスリー教授を探すために、やはり母を探す青年マット(シャイア・ラブーフ)とともに、ペルーのナスカから、エルドラドを探しに、マヤ文明のクスコへ向かう。
 そこで、インディは、オックスリー教授と元妻のマリオン(カレン・アレン)に会う。
 インディたちは、クリスタル・スカル、つまり、マヤで発見された水晶ドクロの謎を解くため、ニューメキシコの砂漠から、激流に流され、大滝とともに滝壺に呑み込まれながら、「その地」に行き着く。

 物語は、「クリスタル・スカル」、つまり「水晶ドクロ」が鍵である。
 マヤの伝説によると、13個の水晶ドクロが集まると共鳴し、謎が解ける、とされている。
 ここでは、水晶ドクロの頭蓋骨は後ろに長く変形されている。宇宙人、ETの頭のように。
 インディがネバダ州の米軍秘密基地で見た「宇宙人の遺体」とは、「ロズウェル事件」からのものである。
 1947年、アメリカ軍がアメリカのニューメキシコ州ロズウェル近郊で何らかの物体を回収したと報道された。それが、UFOが墜落したあとにあった宇宙人の遺体と噂されたが、のちに軍はこの報道を否定した有名な事件である。

 マヤ文明、エルドラド、水晶ドクロ、宇宙人、ナスカ、砂漠、ペルーのジャングル、イグアスの滝……それに、ネバダ州核実験、旧ソビエト連邦秘密軍。
 ルーカスとスピルバーグは、胸ときめかしながら構想を練ったことだろう。何度も脚本を書き替えたという。
 この物語で、インディの息子なるものが登場する。離婚した元妻マリオンとの間に生まれた男マット、シャイア・ラブーフで、インディをさらにやんちゃにした感じである。父親のインディでなくとも「学校には行っておいた方がいいよ」と言いたくなるだろう。
 もし「インディ・ジョーンズ」シリーズの次回作が、いつになるか分からないが、製作されるとなると、ハリソン・フォードの年齢(1942年生まれ)を考えて、息子を登場させておいたのかもしれない。
 インディも、この映画で元妻と寄りを戻して復縁したので、ぼちぼち隠居が待っているのかも。映画では、年齢を感じさせない、息子に負けないほどアクティブであったが。
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闇の奥

2010-10-15 02:47:04 | 本/小説:日本
 辻原登著 文藝春秋刊

 いまだ冒険の話に胸が躍るのは、子どもの頃の「宝島」(スティーブンソン)や「十五少年漂流記」(ジュール・ベルヌ)や「ロビンソン・クルーソー」(デフォー)などを読んだとき出てきたドーパミンや、ワクワクする高揚感がインプットされているからだろう。

 あれは、いくつの頃だったろうか。まだ小学生の頃、夜一人になると、僕はよく紙に島を書いた。紙はざらざらした和紙の方がよかった。赤茶けたくすんだ紙でもよかった。
 その島は、自分が漂流した無人島でもあり、宝島でもあった。
 島は丸っこいが、海岸線は決して平坦でなく、でこぼこした岩で覆われていて、島の南に一か所、入りくんだ入江があった。そこだけは遠浅の砂浜で、そこには僕が漂流してきたボートが一隻あった。
 その入江から川が島の中へ蛇行して進んでいた。その川の進む先には森が、つまりジャングルがあった。ジャングルには、バナナや椰子の実がある代わりに、様々な動物がいるはずだった。猿や鹿などのほかに、危険な動物、例えばライオンや蛇や鰐などもいるはずだった。
 僕は、この島に何を持っていくかを、いつも考えていた。
 マッチ○箱、釣り針○本、竿○本、ナイフ……。島の脇の空間に書き綴っていったが、このくらいで、あとは何を持っていこうか、行き詰まるのだった。ボート1隻に乗る、生活必需品である。
 ロビンソン・クルーソーの影響もあってか、一人で生活するには、島の木や蔦を使えば小屋ぐらいは作れそうだし、自給自足はできそうに思えた。
 やはり、もっとも大変なのは火を熾すことと思えた。火を熾すには木を摩擦する方法を知っていたが、実際やってもなかなか古代人のようには燃えなかったので、マッチを持っていくことにしたのだった。といっても、マッチは限りがあるので、何箱持っていくかが問題だった。
 マッチがなくなったときのために、火打ち石も用意しないといけないと思ったが、火打ち石を見つけるのも難しかった。暗闇で石と石を強く擦り、火花が出る石を見つけるのだが、それが紙などに点火することはなかった。
 食料は海にいる魚と、森のバナナや椰子の実などでまかなう予定だった。魚を捕まえるには、竿と筋糸と針が必要だった。まあ、竿は島の木を折ればいいのだが、やはり竿には竹が向いていた。ジャングルに竹はなさそうだった。
 そして、最後は、宝をどこに隠すかが問題だった。
 簡単に見つかるところではいけなく、森の中か、森を過ぎ去ったその奥でなければならなかった。僕は、島の地図の最後に、そこだけひっそりと赤鉛筆で印を付けるのだった。
 あたかも、龍の絵の最後に、目に黒眼(まなこ)を付けるがごとく。

 冒険や宝探しは、今でも映画、「インディー・ジョーンズ」、「パイレーツ・オブ・カリビアン」、「ロード・オブ・ザ・キング」などに引き継がれている。

 *

 辻原登の「闇の奥」も、冒険物語である。
 ジョゼフ・コンラッドの小説と同じ題名からして、それを意識して書かれたものと思われる。
 コンラッドがアフリカを舞台にしたのに対して、この小説の舞台はアジアで、ボルネオからマレー半島、中国雲南、チベットと広がる。いずれもまだ現代文明から離れている地である。
 物語の端は、太平洋戦争末期に、軍の召集を受けた博物学者の三上隆なる男が、調査の途中で、ボルネオ島で消息を絶ったことである。
 彼の生存説は根強く、戦後何度か捜索団が派遣される。
 この物語は、三上隆の捜索と、彼が遭遇したと想像される伝説の小人、矮人族(ネグリト)の探索を織りこんだ話である。
 地図を横に置きながら読んだ。
 ボルネオ、中国雲南、チベットは、想像をかきたたせる土地だ。小説は、それに日本の熊野を絡ませる。
 中国雲南は、いまだ神秘的な薫りがする地方で、この小説にも出てくる中甸という地方は、今は観光目的もあってか香格里拉(シャングリラ)と名を変えた。「シャングリラ」とは、ジェームス・ヒルトンの小説「失われた地平線」の中での僧院で、今では桃源郷の代名詞となっている。
 小説は、実在の地と想像の地を、実在の人物と想像の人物を、奔放に混在させる。和歌山毒物カレー事件での死者も登場する。いや正確に言うと、物語の登場人物が、カレー事件で死ぬ結果となるという設定なのだが。
  
 著者の辻原は、芥川賞受賞作「村の名前」でも、中国奥地を題材にした面白い小説を発表している。
 「闇の奥」は、冒険好きの読者には興味深い小説だが、森の茂みが広がり、その奥深くに入りすぎて、物語の主人公と一緒に迷い込んだ著者が、そこから下界に出てくるのに苦労した感が否めない。
 それとも、失踪した主人公と同じく、著者は途中からこの物語の迷宮化を意図、もしくは覚悟していたのかもしれない。

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