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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

「ニューイヤー・コンサート」もつかの間、「雪が降る」

2018-01-23 01:01:24 | 歌/音楽
 「時とは、決して戻れない、水のように絶え間なく流れ去っていくもの」、
 なのだろうか。

 東京の初雪は去年の大晦日だったようだが、今日1月22日、東京に今年初めての本格的な雪が降った。
 起きて外を見たときは泡雪だったが、みるみる積もってきた。夕方、わが家の庭のカイヅカイブキにも白い雪がおおった。(写真)夜になっても、まだ降り続いている。
 多摩のニューイヤー・コンサートを聴きに行ったのが1月6日で、振り返ればいつの間にかニューイヤーの1月も終盤になっている。

 何もしなくとも時間は進み、1日は暮れ、日々は過ぎていく。時に雪も降る。
 人や物体の運動とは別に、時は宇宙全体に淡々と流れているものだろうか。
 そもそも、時は流れ去っているのだろうか。過去から現在を置き去りにしつつ、未来へと。
 時の流れというものを、僕らは時間の流れからしか感じとれない。その時間も、時計や暦という便宜上のものに依っていることは知っている。

 「時は流れず」という哲学者もいる。
 その大森荘蔵は、こう言う
 「過去というものは、思い出す限りにおいて現在である」
 僕たちは、いつも振り返る、過去を。現在のすぐ後ろに積み上げられた、計り知れない過去を。
 すべての出来事が、今日の雪のように降り落ちてきたかと思うといつしか消える運命だが、残った記憶だけが人生のよすがなのであろうか。

 *

 パルテノン多摩ニューイヤー・コンサート2018は、1月6日、管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団、指揮:円光寺雅彦、ヴァイオリン:篠原悠那で行われた。
 曲目は、ヨハン・.シュトラウス2世の喜歌劇「こうもり」序曲 で始まった。
 そして、篠原悠那のヴァイオリンによるチャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲ニ長調 」。
 休憩の後、J.シュトラウス2世の「皇帝円舞曲」、「アンネン・ポルカ」、「ピチカート・ポルカ」、ワルツ「美しく青きドナウ」と続いた。
 アンコールは、決まったように「ラデツキー行進曲」(J.シュトラウス1世)で終わった。

 いつの間にか、日本もニューイヤー・コンサートは、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のニューイヤー・コンサートのように、ヨハン・シュトラウスの曲を演奏するのが常となったようだ。
 バレンタインやハロウィンの物真似、換骨奪胎とは違って、これはこれでいい。新年を迎えて、この公演を聴いて心に新風を吹き込んでくれるとすれば、悪くはない習慣といえよう。

 しかし、今日はアダモの「Tombe la neige」(雪が降る)を流そう。

 雪は降る あなたは来ない…
 白い雪が ただ降るばかり…
   (作詞:安井かずみ)

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「花様年華」に浸りながらの、年の初めの節句

2018-01-03 03:48:10 | 気まぐれな日々
 君とても 花の様なる 年の華も
 槿花にこぼるる 朝露のごと
               沖宿

 今年の年始の歌である。
 まず初めに「花様年華」という言葉があった。
 「花様年華」とは中国の言葉で、花の盛りのように、女性の成熟した最もいい時期をさす。美しい言葉だ。

 この言葉を知ったのは、香港の王家衛(ウォン・カーウァイ)監督の映画「花樣年華」(In the Mood for Love、2000年)を観たときである。
 この映画は、1960年代の香港を舞台に、梁朝偉(トニー・レオン)と張曼玉(マギー・チャン)主演による、既婚者同士の切ない恋を描いたもの。引っ越してきたアパートの隣同士になった二人は顔見知りになるが、男(トニー・レオン)は妻が隣に住む女性(マギー・チャン)の夫と不倫していることに気付く。二人はそのことを知りながら、逢瀬を重ねるのだが。
 画面に静かに登場した旗袍(チイパオ)、いわゆるチャイナドレスに身を包んだマギー・チャンは、こぼれるような色気を湛えていた。それまで僕は彼女を知らなかったので、思わず彼女は東洋人ナンバーワンの美人だと思ってしまった。
 その頃のマギー・チャンは30代半ば。まさに咲き誇った花の様な年華(人生)の季節である。

 10代は親からもらった顔。30代は、20代をどう生きてきたかの顔となる。最も感受性が磨かれ最も熱い20代が、30代の大人の顔を創るのである。
 美しい大人の顔は、若さをどう消費してきたかによって決まる。逆に、不遜の謗りを恐れずに言えば、顔を見ればその人が、それまでどう生きてきたかがわかるというものである。

 僕は、香港の大衆的なアパートに出入りするマギー・チャンに「花様年華」を重ねていた。
 この名前の中華料理店が東京・四谷坂町にあるのを知って、去年(2017年)の11月、出かけた。その店は地下鉄・曙橋から市ヶ谷に続く靖国通りの間にあった。この通りには、中華通りと言ってもいいぐらい中華料理店が多く点在していた。
 「花様年華」の看板の前には豆電球のイルミネーションが飾られて、花の盛りはとうに過ぎたような店構えであったが、僕にとってはこの名前が大切であった。
 僕が入ったときは、客に一組の家族連れがいるだけだった。少し侘しい雰囲気だが、中華料理店にはこんな雰囲気がよく似合う。場末の上海の店に来た感じだ。
 担々麺が店の自慢料理のようなので、担々麺と点心3点セット(餃子、小籠包、焼売)を注文した。
 帰りは市ヶ谷駅に出た。市ヶ谷は懐かしい街だ。そして、僕を少し切なくさせる。佐内坂の通りの店も、すっかり変わっていた。

 *
 
 歌の下の句、「槿花にこぼるる 朝露のごと」は、白居易の「放言詩」の「槿花一日の栄」の言葉から繋いだ。 ムクゲの花に譬(たと)えて栄華の儚さを歌ったもの。本当は、ムクゲの花は朝顔のように朝開いて夜閉じるといった短命ではなく、もう少ししぶとく咲くのだがね。
 「槿花一朝の夢」ともいうので、一朝を「朝露」に譬えた。

 花の様な美しい君でも、時の過ぎるのはあまりにも速く、ムクゲの花に落ちた朝の露のように、人生はあっという間に過ぎていく儚いものなのである。
 年をとってそのことがわかる、というのが切ない。

 *

 2018年の正月は、いつものように何事もなく静かに明けた。
 お節料理も、ほとんど手抜きである。一人だから、文句を言う人もいないから安心だ。
 田作り(ごまめ)と昆布巻きと蒲鉾、竹輪を並べれば、お節の格好はつくというものだ。それに、ホウレン草のおひたし、南瓜と里芋の煮込みで野菜を充たし、ゆで卵。そして、カンパチの刺身を置けば、よし。
 食器は、椿、梅、柿など、花柄・果実の柄を並べた。
 それに、屠蘇の日本酒。テーブルに花を花瓶に差して飾れば、正月のできあがりである。(写真)
 日本酒は、去年に続いて「越乃寒梅」。燗をしたので、屠蘇が浸み込んで甘い。
 カーテンから午後の日差しが流れ込み、何だか一人でも晴れやかな気分になってくる。
 もう沢田研二の「思いきり気障な人生」をという具合にはいかないが、君がいた「花様年華」に浸るのも悪くはない。時の過ぎゆくままに…。

 *
 
 雑煮を食べたあと、日も暮れかかったころ、近くの多摩市の白山神社へ初詣へ行く。
 秋の祭りで行った聖蹟桜ヶ丘近くの武蔵国一の宮の小野神社へは、また別の日へ行くことにしよう。

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