かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

武蔵国一の宮――多摩の三社祭り

2017-09-21 03:27:37 | * 東京とその周辺の散策
 あれは何年前だっただろうか。昔読んだ小説のような気がする。
 夏の終わり、僕たちは電車に乗って海を見に行った。どこでもいいから、太平洋の海へと、海に向かう電車に乗った。
 海に向かった外房線の電車はやがて止まったので、僕たちは駅を降りた。そこは、上総一ノ宮だった。
 駅を出ると、遠く潮騒の音がしたように感じた。青い空は、つい最近までぎらぎらとした空気を孕んだ熱気はどこかに置き忘れたかのような、穏やかさを漂わせていた。
 僕たちはゆっくり海岸に向かった。海岸に着くと、過ぎ去ろうとする夏を惜しむ人たちが静かに砂浜にたたずんだり、小波に足を遊ばせながら歩いたりしていたが、僕たちと同じように一様に言葉少なだった。
 僕は、今朝その娘が言った「昨日のことはみんな夢よ」という言葉を反芻していた。
 泳ぐこともなく波と戯れることもなく、しばらく砂浜に座って海を見ていた。どのくらい、いただろうか。僕たちは海を離れ、乾いた街中を歩いた。
 そのときは、その町に上総の国(千葉県)の一の宮の神社があることも知らずに。

 *

 <武蔵国一の宮、小野神社>
 東京都多摩市にある小野神社の秋の祭りが9月9日と10日にあった。
 秋の祭りといえば、今まで九州のくんちなどは好んで見てきたが、東京の祭りはあまり意の中になかった。
 東京の祭りでは、有名な浅草の三社祭や新宿の花園神社の酉の市に何度か行った。そういえば、2年前にかつて住んでいた世田谷区の千歳船橋に飲みに行った際、偶然に稲荷神社の祭りに遭遇したぐらいで、東京の地元の祭りはちゃんと見ていない。
 東京でも、秋の祭りは行われていたのだ。

 「小野神社」は東京都多摩市一ノ宮にある神社で、住所表示に残っているように、武蔵国(東京都、埼玉県、神奈川県の一部)の一の宮である。
 一の宮とは、平安時代の中頃から全国の国(律令国(令制国)による地方行政区分)ごとに決められた神社の社格で、順次、二の宮、三の宮…とある。
 愛知県一宮市や神奈川県二宮町など、地名として残っている地域も全国に見出すことができる。千葉県外房の上総一ノ宮も、一の宮神社(玉前神社)のある町だったのである。
 
 小野神社は、古くは「延喜式神名帳」に記載されていて、南北朝時代に成立した「神道集」の記載に「一宮は小野大明神」という記載が見られ、武蔵国では下記のように編成されているとされる。
 武蔵国総社・六所宮(現・大國魂神社:東京都府中市宮町)でも、以下の編成で祀られている。
 ・一之宮:小野神社(東京都多摩市一ノ宮)
 ・二之宮:小河神社(現・二宮神社:東京都あきる野市二宮)
 ・三之宮:氷川神社(埼玉県さいたま市大宮区高鼻町)
 ・四之宮:秩父神社(埼玉県秩父市番場町)
 ・五之宮:金鑚(かなさな)神社(埼玉県児玉郡神川村二ノ宮)
 ・六之宮:杉山神社(神奈川県横浜市緑区西八朔)

 ところが、この社格は時代により地域の勢力図などで変わることがあったようで、さいたま市の氷川神社(上記にある三之宮)も一の宮を名のっている。
 僕の手元に、全国の一の宮を走破したという士から譲り受けた「諸国一の宮一覧図」があるが、そこには小野神社が載っていないので疑問に思っていた。これは、「全国一の宮会」加盟社のみの記載なので、加盟していない多摩市の小野神社や新潟県糸魚川市一の宮の天津神社などは含まれていないのだ。
 他に加盟していない一の宮も各地に見られるし、本来一国(地域)に一社の一の宮であるはずが複数の神社が加盟している(名のっている)地域もある。
 ちなみに、肥前国(佐賀・長崎県)の一の宮は、與止日女(よどひめ)神社(佐賀県佐賀市大和町)と千栗八幡宮(佐賀県三養基郡みやき町)の2社が記載されている。ここでも、時代による揺れとはっきりとした統一告示がなされなかったようだ。肥前国の二の宮は不明で、三の宮は天山社/天山神社(佐賀県小城市)である。天山神社は佐賀県唐津市厳木町にもある。

 *

 <多摩三社祭り>
 武蔵国一の宮である多摩市の「小野神社」で例大祭があるというので、9月10日(日)見に行った。神輿に続き、大太鼓と山車が街に繰り出すという。
 小野神社は、多摩川沿いで京王線の聖蹟桜ヶ丘駅の近くにある。
 午後、多摩センターから聖蹟桜ヶ丘行きのバスに乗った。
 旧鎌倉街道にある関戸の熊野神社前を過ぎたところで、止まっている神輿に出合った。その先の方には荷車に乗せられた大太鼓があり、叩く音が響く。とはいえ、聖蹟桜ヶ丘にはまだ大分距離がある。
 こんなところまで小野神社の神輿の一行が来ているのか、このバスに乗ったおかげで偶然に出くわせてちょうどよかったと、次の停留所でバスを降りて、大太鼓と神輿のところに行った。山車ではヒョットコとオカメがユーモラスに踊っている。通りには、休憩所が設えて、冷たいお茶を配っている。
 法被を着た関係者とおぼしき人に訊いてみると、この神輿・太鼓は多摩市関戸にある「熊野神社」の一行であった。
 この日は、一の宮の「小野神社」のほか、関戸の「熊野神社」と乞田川を越えた隣町の連光寺の「春日神社」の3か所で同時に祭りをやっているとのことだった。
 それは知らなかった。まさに、秋の多摩三社祭りである。

 <熊野神社>
 多摩に住んでいながら3社とも行ったことがなかったし、幸運なことに、3社の祭りも同時に見られるのだからと、まずは熊野神社を参拝しに行った。
 このあたりには旧鎌倉街道の要所として、鎌倉時代に「霞ノ関」と呼ばれる関所が置かれていた。多摩市関戸という地名の由来である。
 鎌倉時代末期にこの一帯で、北条泰家率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢との間で行われた合戦が「関戸の戦い」である。この旧鎌倉街道沿いにある地蔵堂の前には「関戸古戦場跡」の碑がある。
 「熊野神社」は、旧鎌倉街道から参道が連なり、その階段の奥に木々に囲まれひっそりと佇んでいた。あたり一面に落ち着いた空気が漂い、心が鎮まる。
 多摩の熊野神社は、懐かしい田舎の鎮守の森を思い起こさせる。
 熊野神社で参拝したあと、土地の人に場所を訊いて、すぐさま春日神社に向かった。

 <春日神社>
 「春日神社」は、関戸から乞田川の行幸橋を渡った先の、旧川崎街道沿いの連光寺の閑静な住宅街にひっそりとあった。
 しかし、こんなところに「行幸(みゆき)橋」とは、かつて天皇が通る橋だったのだろうか。
 そういえば、この地がまだ多摩丘陵だった頃、明治天皇はこの近辺でウサギ狩りを楽しまれており、これを記念して建てられた「多摩聖蹟記念館」が多摩市連光寺にある。聖蹟桜ヶ丘の「聖跡」も、その名残であろう。
 「春日神社」は平安時代に創建されたとされている古い神社である。素朴な造りの神社には関係者が何人か待機しているだけで、神輿は街中に巡行していて静かだった。祭りがなければもっと閑散としているのだろう。
 神輿が通る巡行マップが作られていたので、その地に向かうと笛と太鼓の祭り囃子の音が聴こえてきた。大太鼓に続いて神輿が通る。
 また、別の山車では獅子の舞とヒョットコの踊りが始まった。子どもたちは大喜びである。
 春日神社を後にして、再び旧鎌倉街道に出て聖蹟桜ヶ丘の駅のある川崎街道に向かった。

 <九頭竜神社>
 川崎街道を聖蹟桜ヶ丘駅に向かって歩いていると、地図に「九頭竜神社」というのを見つけた。あまり知られていないが、厳かな名前に魅かれて、その方に歩いてみると公園に出た。
 九頭竜神社は、公園の脇に意外にもこぢんまりとあった。
 鳥居と簡素な祠がひっそりとある。それにしても、いつごろ建てられたのであろうか。やはり、9つの頭と竜の尾を持つ九頭竜伝説にまつわる神社であろうか。竜の像でも建てれば、もう少し有名になるだろうにと思った。
 拝礼をして、聖蹟桜ヶ丘の駅に行った。

 *

 <小野神社>
 聖蹟桜ヶ丘の駅では、祭りにふさわしく数は少ないが出店が並び、大太鼓が打ち鳴らされていて、神輿が止まっていた。
 やっと、小野神社の一行にたどり着いたかと思ったら、それは旧鎌倉街道にて最初に出合った熊野神社の一行であった。小野神社の一行は、先ほど川崎街道に出て行ったという。
 小野神社の一行を追って、聖蹟桜ヶ丘駅前の広い川崎街道に出て一ノ宮の方に向かった。しばらく行くと、笛と太鼓の祭り囃子の音が聴こえた。

 川崎街道で、ついに小野神社の一行にたどり着いた。
 やはり太鼓も神輿も大きく、神輿を担ぐ人も見物する人も多い。山車の上では、オカメがおどけて舞っている。
 高くかざす小野神社の提灯には、誇らしく「武蔵一之宮」とあり、赤い菊の紋が鮮やかだ。法被の背中の「武蔵」の文字は、小野神社のものであろう。一行の着ている法被も幾種類かあるということは、多摩一ノ宮の町以外の近所の町から集まっているのだろう。
 太鼓を打つ人も神輿を担ぐ人も、途中で交代しながら通りを進んでいく。
 小野神社は、川崎街道から多摩川に向かった北の方に住宅街のなかを参道(社道)が入っていく。
 参道に入り神社に戻る前に、神輿を下ろし一息の休憩が行われた。休憩している神輿を担いでいた若い女性たちにどこの町か訊いてみると、府中と言った。大國魂神社の担ぎ手群で、毎年来ているという。さすがに、武蔵の国の総社と一の宮の関係である。

 一行が街道脇で休憩している間、僕は先に小野神社へ行った。
 「小野神社」は、住宅街の参道(社道)が切れたところに鳥居があり、その先に赤い本殿が構えていた。
 脇の社殿では、戻ってくる神輿の一行をねぎらう準備が氏子や関係者で行われていた。
 あたりが昏くなり始めた頃、囃子の音が聴こえてきて、その音が少しずつ大きくなって、神輿の一行が近づいてくるのがわかった。
 やがて太鼓を先頭に、一行が見物人とともに鳥居の門をくぐって神社の中に入ってきた。神輿も神社に帰ってきた。
 境内のなかでは山車の上で、囃子とともに2つの赤い獅子と銀狐の舞が始まり、祭りの最後の華を振る舞った。(写真)
 日は暮れ、ようやく祭りは最後の時を迎えた。

 ニュータウンの多摩の顔とは違った、多摩の秋の祭りは、田舎の祭りのように心を潤ませた。


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日本語の迷い道へ、「ちいさい言語学者の冒険」

2017-09-09 01:51:08 | ことば、言語について
 ナゾナゾである。
 日本最古のナゾナゾらしいので、日本語を勉強した人はもちろん、見たこと(聞いたこと)がある人も少なくないでしょう。
 「母には2回会ったけれど、父とは一度も会っていない」のは、な~んだという問題です。

 *

 「ちいさい言語学者の冒険」(広瀬友紀著、岩波書店刊)で、思わぬ発見をさせられた。本書には、「子どもに学ぶことばの秘密」とサブタイトルにある。
 子どもがどうやって言葉を覚えるかが、実際に子ども(自分の子と友人の子)を相手に観察された体験をもとに、日本語への疑問を提起されていて面白い。
 まず子どもは、当然のことだが、最も言葉を発しかけてくる、つまり最も身近にいて話しかけてくる親や家族から、言葉を吸収することになる。言葉を曲がりなりにも話すようになると、次は文字、平仮名である。文字はどうして覚えただろう。
 振りかえって思い出すと(もう遥か彼方の遠い薄い記憶だが)、やはり、「あいうえお…」の五十音の表を、親に見せられておぼえたのだろうなあ。
 五十音の平仮名表を見せられて、それを「あいうえお…」と読んでいって、よくできたわねと、おだてられておぼえていったのだろう、というところに行き着く。
 僕らは、この五十音の言葉(文字)に、何の疑いも持っていない。

 この本では、まず「テンテン」(濁点)についての疑問から始まる。
 言葉を覚え、やっと平仮名を覚え始めた頃の子どもに、次の質問をしてみる。
 「「た」にテンテンは何ていう?」
 「da(だ)だよ」と答える子は多い。ここでアルファベッドdaと記しているのは、発音としての記号である。
 そして、「「さ」にテンテンをつけたら何ていう?といったら、za(ざ)、と答えるだろうし、「か」にテンテンと訊いたら、ga(が)と答えるでしょう。
 では、「「は」にテンテンを付けたら何ていう?」と訊くと、どう答えるか、である。問題は、ここである。
 僕ら大人は、当然ba(ば)と答えることに何の疑問も持たない。少なくとも僕は、この本を読むまでは、そうだった。
 実は、ここで、「うーん、わかんない」という子が結構いるというのだ。あるいは、ga(が)と答えたり、ha(は)を力みながら訳のわからない音を出したり、なかにはa(あ)と答えた子もいたといった具合に、とたんに様々な珍回答が出てくるという。
 それでいいのだ、いやそれこそ子どもが言葉で使われる音を整理できている証しだというのである。

 *

 では、「テンテン」(濁点、濁音符)とは何なのだろう。
 「た-だ」、「さ-ざ」、「か-が」のそれぞれのペア音を発音してみる。舌も含めた口の中の動きが同じである。違う音だから微妙に違えてはいるはずだが、ほぼ同じ動きと言っていい。
 実は、口の中で発音に使う場所は同じでも、発音を作り出す空気の流れが、テンテンのあるなしで違った性質を持っているという。
 テンテンのないのは、肺から声帯を震わせずに口まで到達した空気の流れを使って発音した音なのである。これらは、「無声音」と呼ばれる。
 テンテンのあるのは、声帯が少し狭められ(自覚はできないが)、そこを通る呼気が声帯を震わせながら口まで到達したものを使った音という。これらは、「有声音」と呼ばれる。
 ということは、テンテンをつける「濁音化」は、無声音を有声音に切り替えるということになる。
 確かに、「た-だ」、「さ-ざ」、「か-が」の無声音から有声音への切り替えには、口の中の動きに共通の対応がある(ように思える)。
 「な」「ま」「や」「ら」行には、テンテンがない。どうしてだろうという疑問がわく。「な」にテンテン(濁点)を付けたとして、それを発音しようと試みてもどう発音していいかわからない。
 つまり、これらはもともと有声音だということである。

 さて、問題の「は」と「ば」である。
 「は」は、喉の奥で音を発生している。口は開いたままで、上と下の唇がくっつくことはない。
 で、「ば」を発音すると、喉の奥とは正反対(遠い位置)ともいえる唇を閉じて離す動きである。
 つまり「は」と「ば」の関係は、他のペアの成立している対応関係とはまったく違う口の動かし方なのである。
 僕ら大人は、このことに疑問を持たずにきた。
 喉の奥での発生の「は」の無声音から有声音への対応ともいえる、喉奥の声帯付近で摩擦を起こしながら声帯を振動させる有声音は、特殊で難しい。
 だから、「は」のテンテン化「ば」を、子どもたちが、「わかんない」とか日本語にない音を出したとしても何の不思議でもなく、むしろ、当然の正解の「ば」(ba)よりも正しいともいえるのである。

 ここまで来てやっと疑問の中身が見えてきた。
 「た-だ」、「さ-ざ」、「か-が」の対応関係は、音に出したらわかるが、それは「は」ではなく、「ぱ」と「ば」のようだ。
 本来は、「ぱ」(pa)が「ば」(ba)と対応しているのである。
 本書では、「「ば」(ba)からテンテンをとったら、何ていう?」というヒントも加えている。
 かつて日本は、現在の「は」行は、「ぱ」p行だった。
 その後、「ふぁ」f行に変わっていき、今日の「は」h行になったといわれている。

 日本語の「は」行に見る、p→f→hの流れを見ると、「発音は楽な方へ変化していく」といわれる説もなるほどと思わせる。
 若者が言葉を簡略して流通させているのも、それを世間が追認しているのも、本能的に楽な方へ向かっているからなのだろう。

 *

 少し長い道のりだったが、これで冒頭のクイズの正解が紐解けたようだ。
 室町時代に出されたナゾナゾ集「後奈良院御撰何曾」に出ている、
 「母には二たびあひたれども父には一度もあはず」は何だ?という問題である。
 上記に紹介した「ちいさい言語学者の冒険」にこのクイズが例題として書かれているのではないが、読んでいるうちにこのクイズを想起させたのだ。
 答えは「くちびる」である。
 本にある子どもの自然な疑問が日本語の源流に導いてくれ、クイズの答えを裏付けしてくれた。
 かつて日本では、なんと、母は「パパ」だったのだ。その後「ふぁふぁ」となり、今日「はは」となった。

 日本語の足跡をたどってみると、いまだ「にほん」と「にっぽん」が混濁して存在しているのも、何となくわかるというものである。

 (写真は、東京都多摩市のある夏の日の夕暮れ)
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