かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

◇ なかにし礼と「赤い月」

2007-01-27 03:57:33 | 映画:日本映画
 なかにし礼原作 隆旗康男監督 常磐貴子 伊勢谷友介 香川照之 布袋寅泰 2003年

 「赤い月」は、満州を舞台にした、なかにし礼の自伝的小説の映画化である。
 満州・牡丹江で酒店を開いて成功した父と、女としての生き方を貫いた母。幼い著者の目を通して、父と母の生き様と当時の満州を描いたものである。
 著者の人間形成の原体験は、満州にあると言っていい。

 なかにし礼といい五木寛之といい外地引き揚げ者は、若くして颯爽とデビューした。何より、彼らの中の無国籍的感性(五木はそれをデラシネと呼んだ)が、僕は好きだった。

 満州から幼少時に日本に引き揚げてきたなかにしは、父の故郷である函館に住んだあと、東京に移り住むことになる。苦学しながらシャンソンの訳詞をしたことで、彼の才能は開花する。
 シャンソンから歌謡曲に足場を移したなかにしは、1966年「涙と雨に濡れて」でヒットを飛ばすや、その後は「知りたくないの」「霧のかなたに」「天使の誘惑」「花の首飾り」と矢継ぎ早にヒット曲を放ち流行作詞家となる。そして、70年「今日でお別れ」で日本レコード大賞を受賞。まだ彼が30歳前後の頃である。
 彼はそれまでにない歌作り手であった。僕は、なかにし礼のファンだった。

 77年には、すべて作詞・作曲による自分のアルバム「マッチ箱の火事」(フォーライフ)を、79年には「黒いキャンパス」(東芝EMI)を出した。
 「マッチ箱の火事」では、彼の歌謡曲では見せていない才能の側面を垣間見せている。このアルバムには、「時には娼婦のように」「白い靴」「マッチ箱の火事」など、文学的作品ともいえる名曲が散在しているが、特筆すべきは、このアルバムの最後に、「ハルピン1945年」を入れていることである。
 この歌で、彼は「あの日からハルピンは消えた、あの日から満州も消えた…」と歌っている。満州を、感傷的かつ哀愁を帯びて描いたこの曲は、彼の満州を舞台にした最初の作品(歌も小説も含めて)ではなかろうか。

 僕は最初から彼の歌の中に、他の作詞家にない文学性を見いだしていた。
 やはりと頷いたのは、71年封切られたドーデ原作のフランス映画「哀愁のパリ」のリメイク版が出版された時である。その翻訳をしたのが作詞家なかにし礼だった。彼を口説いたのが、当時角川書店の風雲児と呼ばれていた2代目角川春樹である。
 なかにしは、78年には日活で映画「時には娼婦のように」の原作、脚本、主演を演じた。この映画も、自伝的作品の名作である。相手女優は、鹿沼えりで彼は濡れ場も演じた。
 この頃の彼は何をやっても唸らせるものがあった。僕は天才だと思ったものだ。

 そんな彼に、僕は一度だけ会う機会があった。
1991年、僕が婦人雑誌の編集をやっていた時で、モーツアルト生誕200年ということで「モーツアルト」の特集を組み、彼にインタビューを申し込んだのだった。その頃彼は、歌謡曲から少し離れてクラシック、オペラに関する仕事を試みていた。いや、彼の中で歌謡曲の作詞の灯は消えていたのかもしれない。
 昭和から平成になった頃から、彼は小説へ足場を移し始めた。彼は、それまで歌の天使のような羽がなくなったといった表現をしている。

 なかにし礼は、若い時から「花物語」のような、本人にとっては習作のような小説は書いていた。しかし、意識的に小説家として書いたのは、自分の心臓発作のことを雑誌に発表したものが最初だろう(題名は忘れてしまった)。
 その後、98年、「兄弟」で直木賞候補になり、2000年「長崎ぶらぶら節」で同賞受賞。「赤い月」は、その翌年の作である。

 作詞家としては類い希な才能を遺憾なく発揮したなかにし礼だが、小説を見れば、僕としては文も構成も硬すぎると思えて、心地よく乗って読めない。歌では流れるようにメロディーに溶けこんだ天才的な詩(文句)が、小説では構成の技巧的作為が感じられるのである。何にもまして、歌で見られた彼の秀れた情緒性を、積極的に排除、排斥しているように見える。
 彼の小説の多くは、体験を元にしたものだが、その中でも、素直に描けているのは兄のことを書いた「兄弟」で、これが個人的には最も好きだ。

 さて「赤い月」だが、小説を読む前から、僕の頭の中には彼の自伝にもとづいたものという前提が入っていた。だからかもしれないが、満州国、関東軍やソ連との関係、引き揚げといったダイナミックな歴史の波に母の恋愛が絡むなど、個人の自伝的小説としてはあまりにも物語的なので、読んでいる途中から小説より映画的だと感じた。
 映画では、常盤貴子が気丈な母親役を、香川照之が屈折した父親役を熱演している。
 ラストシーンの、敗戦のあとの芋の子を洗うような引き揚げ列車の中で、誰かが叫ぶ。
 「満州のバカタレ。何が王道楽土だ」
 ところが、母親役(主役)の常盤貴子は、一人呟く。
 「私は感謝するわ。ありがとう、満州」と。

 なかにし礼の満州を語ったものとしては、比較には不適切かもしれないが、個人的には、哀愁を帯びた「ハルピン1945年」の余韻のある歌の方が好きである。
 彼は愛惜を込めて歌った。
 「…幾年時はうつれど、忘れ得ぬ幻のふるさとよ」
 
 しかし、満州とは何だったのだろう。歴史の中で、蜃気楼のように現れ消えていった幻の国、満州国。
 僕の父も母も満州に生きた。
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多久の水琴窟

2007-01-19 15:52:58 | 気まぐれな日々
 多久市は佐賀のちょうど中ほどに位置する小さな市である。地味な佐賀県の中でも、多久市は控えめな街である。
 ここは昭和中頃まで炭鉱町として栄えた街(市)であるが、今は他の街と同じく特性を持てないで、じっと耐えているように思える。しかし、もっと注目されていい街である。
 
 その多久市にぶらりと行った。
 この街で真っ先に聞く名前が「聖廟」である。つまり、ここに孔子を祀った廟があるのである。
 徳川の政権が落ち着きを見せた元禄の頃、江戸幕府は儒学を重んじるために、元禄3年(1690)に、湯島に聖堂を建てた。以来、各地の藩校がこれを習った。
 佐賀の多久に、元禄12年(1699)学問所が設けられ、すぐの宝永5年(1708)には、聖廟が創建された。
 しかし、鍋島の藩主の下の佐賀(市)の藩校ではなく、当時は名もない村の多久に建てられたことが注目に値する。
 
 聖堂の大元(本拠地)といえば、孔子の生誕の地である中国山東省曲阜に、明の時代の1500年に建てられた大成殿といわれている。その大成殿も湯島の聖堂と同じく、火災・戦火で焼失し再建されたものだ。
 多久の聖廟は、創建当時の姿を保っている意味でも、世界的に稀有な建物とされている。聖廟の建設には佐賀の儒学者が、孔子像の鋳造には京都の儒学者が中心となった。朱塗りの中国風の建築は、静かな木々に囲まれて、堂々と言うより飄々と佇んでいる。

 *
 
 この聖廟の近くにある、西渓公園に囲まれた、多久市の郷土および歴史資料館がある。この公園は、多久出身の高取伊好のゆかりの地である。
 高取伊好とは、石炭産業開発の先駆者で、佐賀の石炭王である。
 明治初期、東京で鉱業を学んだ高取は、唐津で石炭採掘を起こす。その後、多久で炭鉱を起こした後、北方で石炭採掘を始め、杵島鉱業所を起こす。のちに、北方、大町、江北町にまたがる、県下最大となる杵島炭鉱である(杵島炭鉱は、昭和30年代に住友に移行)。
 
 ちなみに、日本最大の炭鉱地帯である福岡筑豊の炭鉱・御三家といえば、旧庄屋出身の「麻生」氏、旧黒田藩士「安川・松本」グループ(明治鉱業)、炭鉱夫から一代で財をなした「貝島」氏である。
 その後、石炭王として全国に有名になったのは、華族で歌人である絶世の美女「柳原白蓮」と結婚(彼は再婚である)した「伊藤伝衛門」を挙げなければならない。白蓮が他の男の元へ逃げてさらに世間を賑わすことになるのだが、この物語はのちに原節子主演で映画『麗人』として封切られた。

 明治以降、石炭が国の富国強兵のもと、エネルギー産業の核を担うと、炭鉱で一山あてようと数多くの山師たちが、全国に出没するのであるが、当時の北九州の炭鉱王たちの財は、想像を超えるものであった。
 
 佐賀の炭鉱王、高取伊好の足跡も、県内にいくつも見出すことができる。つまり、彼は県内各地の小学校をはじめ、莫大な寄付、贈与をしていることが資料に記載されている。
 大町町駅前の福母八幡神社に続く道に立つ石造大鳥居にも、高取の名が刻まれている。
 高取家の別邸が、現在、唐津に残っている。能舞台があるモダンな建築様式は、藤森東大教授などの建築史家によって注目されていて、現在唐津市によって昨年(2006年)より一般公開されるようになった。

 *
 
 多久の西渓公園は高取家にゆかりの地で、高取伊好の像がある。公園の隅に、別邸であろうか、お茶や食事を楽しんだと思える質素ともいえる家がある。公園が庭のように設えてある。その庭先に手水鉢があった。
 足を止めると、竹先から水が流れていて、下の石を敷いた蹲(つくばい)に穴があって水か滴り落ちていた。
 そのとき、キンという音がした。鐘の音とも鈴の音とも言えない音だった。とても耳に心地よく響いた。その音は、リズミカルに、断続的に続いた。
 それが何の音か最初は分からず辺りを見回したが、水琴窟の音だと知ったのは、その横に表示板が掲げてあったからである。

 水琴窟とは、蹲の下(地底)に穴を彫り、底に穴をあけた瓶を逆さに埋めて、その穴に落ちた水が地に落ちた時に、音が瓶に反響するように造った仕掛けである。瓶の大きさや構造により微妙に違った音がする。日本の庭師の芸術的遊び心である。
 あまりにも、音が鮮明だったので、しばらく聴きほれていた。
 そして、以前水琴窟の音を聴いたのは、どこでだったか思い出そうとしたが、思い出せない。水琴窟は江戸時代中ごろ造られ始めたが、長い間造るのが途絶えていた。しかし、一時期、研究再造された時期があった。

 しばらく聴いていたが、以前聴いた水琴靴の音よりあまりにもきれいで大きな音だったので、疑問がわいてきた。
 公園の係員の人にそのことを訊ねると、よく分かりましたね。実際は聴こえるか聴こえないかの大きさなので、音を大きくするマイクを仕掛けてあるということだった。
 こういう素朴な田舎街でも、人工的効果が加味されているのかと少しがっかりした。
 しかし、はっきりと水琴窟の音を聴いたのは、どこでだろう。思い出せないので、喉に魚の刺がひっかかったような気分だ。
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□ ツアー1989

2007-01-16 18:22:52 | 本/小説:日本
 中島京子著 集英社

 香港へ行ったことのある人なら、その猥雑な街から、ここなら路地に入って出てこなくなっても不思議じゃないなと考えたことがあるだろう。油麻地(ヤウマティ)から旺角(モンコク)、さらにその先あたりは混沌としている。それが、中国に復帰される1997年前であれば、なおさらだった。
 正確な数字は知らないし、最近はそういう話は聞かないが、かつて噂としてはその最たる街(国)は、モロッコということであった。行ったきり戻ってこない、いつの間にやら消息不明といった話だ。
 そして、日本人が行ったきり住み着いてしまう最たるところはタイのバンコクである。ある雑誌が「そとこもり」という表現をしていたが、物価が安いという大前提の元に、旅をするでなく、また観光をするでなく、ただぶらぶらと長居している街といえばバンコクがダントツである。カオサン辺りには、そんな日本人がたくさんいる。

 その香港とバンコクを組み合わせた小説が「ツアー1989」である。
 1980年代末から90年代初めに、「迷子つきツアー」なるものが旅行会社で企画された。影の薄い誰かをツアーに参加させ、最後はいなくなる。他のツアー参加者は日本に帰ったあと「なんか置き忘れてきた、誰かいなくなった、しかしそれが誰だか思い出せない」という不思議な余韻を味わえるという企画だ。行き先は、香港である。
 ブログでふと知った、この「迷子」を探しに、香港へ行き、最後はバンコクへ行きつくという物語だ。
 
 ツアーの旅で、現地で誰かが戻ってこず、そのまま帰国したという話は、ありえないことではないし、実際あったこともあるだろう。
 面白い発想だ。旅好きの読者は、つい引き込まれてしまう。話は、ミステリーのように謎に包まれたまま、進展していく。
 あの『イトウの恋』の、中島京子の新境地かと思った。しかし、設定にいくつかの無理が目についた。結末も、ミステリーが陥りがちな尻すぼみになってしまった。
 最後は、著者が目論んでいるのは『インド夜想曲』か、と思った。この小説は、失踪した知人を探し求めてインドにいくが、探していたのは自分自身だったというアントニオ・タブッキの小説だ。
 
 ミステリー仕立てに結論を言うのは野暮である。
 この本で、もう少し香港とバンコクを味わいたかった。読んだあと、何か食べ足りない、何か食べ残した、そうした余韻が残った。
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□ イトウの恋

2007-01-04 03:18:03 | 本/小説:日本
 中島京子著 講談社

 奇妙な題名である。「伊藤の恋」でも、「伊東の恋」でもない。カタカナで「イトウ」と書くと、僕は魚のイトウを思ってしまう。魚のイトウだとすると、絵本や児童文学でもない限り、ますます奇妙なことになる。いや、生物学者の魚類の生殖に関する論文だったら、あっても不思議ではない。

 すなわち、伊藤鶴吉の恋である。
 明治の初期、来日したイギリス人の女性がいた。彼女の名はイザベラ・L・バードといい、日本の奥地を旅し、『日本奥地紀行』(原題、Unbeaten tracks in Japan)を著した。その紀行時の通訳をしたのがイトウである。
 本書は、この『日本奥地紀行』に想を得て書かれたものである。

 ふと手に入れた資料から、冴えない高校教師と教え子が、彼の末裔であると思われる漫画家を巻き込んで、イトウを探ることになる。本書は、イトウの資料を探す3人のやりとりと、イトウの手記をその間に挿入するという構成になっている。
 しかし、これは単なるイトウの足跡を辿るというものではない。現代の人間によって導きだされた、I・B(イザベラ・バードと思われる)と、イトウ(伊藤鶴吉と思われる)の恋の物語である。

 なぜだか、読む前から中島京子という作家に惹かれていた。そういう勘というか、文への相性というものがあるとしたなら(読む前から相性というのも変だが)、彼女もその数少ない一人であろう。
 そして、期待にそぐわない、いやそれを超えた内容であった。
 小説が作り物だとすると、これぞ小説の真骨頂と言えるだろう。想像を基盤にした作り事を、もしかして、さもあらんと思わせる筆力は、並みの資質ではない。それに、乱れのない文章と繊細な感性を随所に滲ませた文体は、筆者のゆるぎない力量を表している。

 イトウの手記は、回想である。つまり、若いときの、それもI・Bとの旅の一時期の熱病のような時期のことである。そのときのことを、本当にあったことなのか、あれは夢ではなかったのかと、術懐する。
 「青年とはおかしなもので、自らを万能のように錯覚するものである。しかも、それが他人にどう見えているかなど、まるで斟酌しない。当時の私も、その青年の悪癖を免除されるいかなる美徳も持ち合わせてはいなかった。」
 誰にも心当たりがある、若さの特権と愚かさである。

 イトウが別れたI・Bを追って再会する描写は、まるでロマンス小説も及ばない繊細さである。
 「いつもI・Bは、からかいがちに口の端に笑みを浮かべていたものだった。その笑みを見るのが私は好きだったのだが、冬の雲の下で久しぶりに再開したときも、一瞬の驚きの後に浮かんだのはその笑顔だった。
 それこそ私が見たかったもの、三月(みつき)の間恋焦がれたもの、この世に自らを留めおくたった一つの理由にしたものだった。I・Bは、それから、大きく腕を開いた。」
 
 I・Bは、旅について、次のように言う。
 「なぜ私が旅をするか、考えたことがある? 旅は、私たちをつなぎとめておく様々な楔から自由にしてくれるものだからだ。」
 「旅の時間は、夢の時間、夢の空間なのだ。」

 いやはや、僕も、すっかりイトウになってしまったようだ。
 いい小説も、夢の時間だ。
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列車で、九州へ

2007-01-01 19:35:06 | ゆきずりの*旅
 年末の夜、冬の稲妻が走った次の日の東京は晴天だった。
 その日、僕は実家のある九州の佐賀に帰った。
 
 最近はしばしば東京と佐賀を行き来しているが、いつも列車だ。東京から博多まで新幹線。そこから、鹿児島本線で、鳥栖を経て、佐世保線で佐賀、肥前山口方面へ向かう。
 海外への渡航以外は、どんなに遠くだろうと大概が列車だ。北海道へも列車で行った。列車が好きなのだが、バスや船もいい。

 北海道へは、青函連絡船に乗って渡ったこともあったが、青函トンネルができて直接青森と函館は結びついた。
 JRも味なことをやるなあと思ったのは、津軽海峡の海底に駅を造り、そこで下車してもいいようにしたことだ。海底に住んでいる人がいるわけでもなく、そこに町があるわけでもないのだから、用事がある人などいないはずだ。だが、この試みは遊び心があって面白い。
 海底駅はすべての列車が停まるわけではない。特急など素通りする列車がほとんどだが、僕は、喜んで停まる列車に乗って、海底の駅で降りてみた。
 そこは、地下の坑道のようであった。そして、映画によく出てくる地底都市を思った。
 北海道へは、東京から船で行ったこともある。東京湾からカーフェリーで釧路へ行き、そこから道内を車で一周して、帰りは苫小牧から茨城の大洗に戻った。
 
 九州へ帰るとき、まっすぐに東海道新幹線を使うばかりではなく、京都から福知山線を経て山陰本線で西へ向かったこともあった。その場合は、松江や山口、萩に寄った。
 かつては夜行寝台列車(ナイト・トレイン)があり、時々それに乗って行ったが、今はない。寝台列車は、帰省というより旅という感じがした。

 九州へ、船で行ったこともある。
 東京湾から四国の徳島に寄り、門司へ行く船だった。船は、東京湾を夜11時ごろ出発する。夜の船着場は寂寥感が漂っていて、どこの街でもそうだが哀愁を感じさせる。
 船内で眠ったら、翌日徳島に着く。そこで一時停泊して、瀬戸内海を通って門司へ着くのだ。
 船の旅は、独特の雰囲気がある。みんなが無口だが、目に見えない連帯感が覆っている。ここでは、険悪そうな人相の人も穏やかに変貌しているように見える。そして、みんなが遠くを見ているような目になる。

 深夜バスも体験した。
 新宿を夜に出発して、早朝福岡に着く。バスはしんどいかと思ったが、思いのほか快適で、夜はバスのなかでDVD(ビデオ)による映画も上映して退屈しなかった。軽く一眠りしたら、もう九州だった。
 
 今の列車は速い。東京・博多間を新幹線特急「のぞみ」で約5時間で行く。速くなるのは歓迎だが、旅の楽しみは奪われる。列車が好きだと言っても、リニアモーターカーのようなスピードを欲してはいないのだ。速いだけだったら、飛行機で十分だと思う。
 列車には、速度以外の愉悦感がある。

コメント (3)
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