かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

有明海のシチメンソウ

2010-12-30 03:02:30 | 気まぐれな日々
 佐賀県は、北の唐津・呼子方面は玄界灘に面している。
 福岡県の県境は、背振山の1055メートルを筆頭に千メートル近い山が連なり、佐賀県中央部は大小の山並みが散立している。その山並みが途絶えた南の方に佐賀平野が広がり、その先は有明海である。
 佐賀県の中央から南は、ゆるやかに有明海に収斂されるような格好になっている。
 その佐賀県の有明海沿岸はおおかた干潟である。
 長年この干潟を干拓しながら、佐賀は耕地を増やしてきた。
 今でも干潟は続き、この干潟にムツゴロウ、シオマネキをはじめ、珍しい生物が生息する。
 珍しい生物は、魚介類だけではなく、植物も生息しているというのを最近知った。この有明海沿岸に、秋の紅葉の季節、赤い絨毯のように広がる植物が生息しているというのだ。
 その名もシチメンソウ。変わった名前の由来は、想像通り七面鳥のように赤く色を変えることからきているそうだ。
 そのシチメンソウを見に出発した。
 佐賀平野を南に、佐賀空港の方面に車で走ると、道がまっすぐなのに気がつく。干拓を耕地にしてそこに道を造ったのだから、直線でいいのだ。
 規模は比較にならないが、北海道を思い出した。
 かつて北海道を車で周ったことがある。知床、網走からオホーツク海を右に見ながら 最北の宗谷岬の方へ向かう道は、どこまでもまっすぐな道が続くのだった。また、帰りの北端の稚内から右に日本海を見ながら留萌の方に南下する道も、まっすぐな道が続いた。
 街の発展・発達とともに道が造られていくと、道は街に沿って曲がったり、交差点が多くなるが、土地を前にしてまず道を計画すると、道は定規で測ったようになる。

 そのシチメンソウの里は、有明海の干拓地に造られた佐賀空港のすぐ隣の東与賀町にあった。
 そこは公園になっていて、海に沿って歩道もありきれいに整備されている。粒が揃った砂利も敷いてある。
 歩道の先には、おぼろげに日に染まった有明海が広がっていた。
 解説によると、シチメンソウは1年草の塩生植物とある。塩生植物とは、干潮時は陸地に、満潮時には海水に浸る環境に生息するという、変わった植物である。
 シチメンソウの葉は、春の淡紅色から夏の淡緑色、さらに秋の淡紅色から、晩秋には深紅の色に変わるという。
 12月の真冬のこの日は、葉は枯れはてて茶色の帯となっていた。
 紅い帯を見るのは、またいつかの機会を待つことにしよう。

 足元の干潟を見ると、黒い土がごそごそ動く。少し跳ねた。よく見ると、小さなムツゴロウだ。その先には、片方のハサミが大きいカニのシオマネキもいるようだ。
 海に沿った歩道を海を見ながら歩いた。海鳥が餌をついばんでいる。
 遠くに黒い人陰が見える。いや、陰ではなく、脚を潟に浸かって動いている人がいるのだ。板の潟スキーを滑らして、漁をしているようだ。ムツゴロウを採っているムツカケだろうか。
 漁を終えて戻ってきた人を待って、その成果を見せてもらった。
 60代の人だった。この人は、「もう専業では成りたちません。農業の合間に、時々こうして漁に出ています」と言った。
 「ムツゴロウですか?」と訊くと、
 「いや、ワラスボです」と、籠を開いて見せてくれた。
 籠の中は、ぬめぬめと軟体動物のようにうごめいている、細長い生き物が何匹もいた。ウナギとドジョウの中間ぐらいの大きさで、色は背の方は薄い青色で、腹は薄い肉色なので、腸(はらわた)のような印象で不気味だ。
 漁師の人が、その生き物の口を開いてくれた。口の中には、とがった不釣合いにも歯が並んでいる。
 佐賀では、時折このワラスボの干物が店舗で売られていることがある。初めてそれを見たときは、色は焦げ茶色で、少し開いた口から歯がむき出しでのぞいているので、小さな怪獣か龍の子どものようで、愛嬌も感じられた。僕も買ったことがあり、ポリポリと齧るとビールの摘まみにはいい。
 しかし、生身のワラスボは気持ちが悪い。ちょっと見には、パンダの生まれたばかりの赤ちゃんの動いている姿か、エイリアン(よく分からないが)のようだ。

 有明海を出たあと、筑後川を渡って柳川へ行った。ウナギを食べるためだ。柳川でのウナギは、いつも元吉屋である。ここの鰻は、セイロ蒸しが特徴だ。
 ワラスボがウナギに変身した。
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日本辺境論

2010-12-24 00:36:37 | 本/小説:日本
 内田樹著 新潮社

 日本は辺境にある。「辺境」とは、中央から遠く離れた地域をいう。
 では、中央とはどこかというと、日本では昔から中国である。江戸時代幕末期、急激に西洋文明が入ってきてから、日本は西洋、つまりヨーロッパやアメリカに目を向けざるをえなくなったが、そこでもやはり日本は辺境であった。
 日本の世界地図帳を見ると、日本はほぼ真ん中に位置し、西に中国があり、そのユーラシア大陸の西の端にヨーロッパがある。東は太平洋でその先の端にアメリカ大陸がある。
 ところが、ヨーロッパから見れば、つまりヨーロッパの地図帳では、西にアメリカ大陸があり、東に中国を含めたアジアがある。その大陸の先にポツンとある島が日本である。地図でいえば、最も東の端っこである。
 だから、「far east 極東」と呼んでいる。
 日本は、東の最も端なのである。
 しかし、地球は円いのであるから、中央も端っこもないはずである。それをあるようにしているのは、相対的な力学である。

 「日本辺境論」は、著者である内田樹がいうように、今まで多くの学者や評論家によって日本人論として論じられてきたことを、要約し組み立てなおした本である。辺境思想の根幹にあるのが中華思想で、ここで中華思想を改めて確認するのも、中国を知るうえで興味深くかつ面白かった。
 中国という国は、おそらく辺境を体験していない国である。地理的にもアジア大陸の中央に位置し、広大で肥沃な土地、それに大河に恵まれている。漢民族以外に多くの少数民族も抱きかかえていて、歴史的には、北の騎馬民族をはじめ、侵略の危機にはいつも悩まされてきたが、いつしか同化してみせる懐の深さがある。
 盛者必衰は世の常であるが、時期的に紆余曲折はあるにせよ、国が登場する有史以来ずっと大国の名を保持しているかのように見える。
 このような国は、ヨーロッパにもない。
 一時、ヨーロッパから北アフリカ、西アジアまで進出したローマ帝国も今はない。スペイン、ポルトガル、オランダ、イギリスと、ヨーロッパの覇者は目まぐるしく変わった。ヨーロッパは、ギリシャの都市国家から始まって、常に群雄割拠だった。
 現在世界で最も豊かなアメリカ合衆国は、歴史的に見ればわずか建国二百三十余年の新興国である。

 この本「日本辺境論」では日本の辺境思想の生い立ちから現在までを論じていて、「辺境」は「中華」の対概念で、華夷秩序のコスモロジーの中にあるという。
 「華」は文化が進んでいる意で、「中華」とは、世界の中央にあって、最も文化の進んだ国の意である。
 世界の中心に「中華皇帝」が存在する。そこから王化の光が四方に広がり、近いところはその王化の恩沢に属して、「王土」と呼ばれる。遠く離れて王化の光が十分に及ばない辺境には、中華皇帝に朝貢する蕃国がある。
 蕃国は貢物を持って献上する、つまり朝貢することによって、皇帝から册封(皇帝から官位を授かる)を受ける。
 この蕃国が、「東夷」(とうい)、「西戎」(せいじゅう)、「南蛮」(なんばん)、「北狄」(ほくてき)と呼ばれる。中心から遠ざかるにつれて、だんだん文明的には暗くなり、禽獣に近い表記で表わされる。
 華夷秩序によれば、中華王朝は、「周」「秦」「漢」「隋」「唐」「宋」など、漢字1文字である。それに対して周囲の蕃国は2文字で表わされる。
 歴史地図を見ると、中国周辺の国の名前には、「匈奴」「鮮卑」「東胡」「突厥」(とっけつ)「吐蕃」など、想像を超える魔境的な漢字が並ぶ。
 朝鮮半島は、「百済」「任那」「新羅」「高句麗」など、不思議な意味合いの文字ではない。
 日本も、「魏書東夷伝」によると、卑弥呼の邪馬台国の時代には、中国王朝から册封されていたことが知られる。その以前に、福岡の志賀の島から発見された金印に表された「漢の倭の奴の国王」から、「倭国」の中の「奴国」の王が册封されていることが分かる。

 中国は、文明としても早熟であった。その典型が文字の所有だ。
 文字のなかった日本は、中国の文字、つまり漢字を文字として借用した。やまと言葉である日本語に、漢字を無理やり当てはめた。
 しかし、漢字だけではどうしても無理がある。それで、漢字からかな(仮名)を作り出し、併用することにした。
 本書では、養老孟司氏の説を踏まえて次のように解説している。
 「日本語の特殊性は、表意文字と表音文字を併用する言語だということである。
 表意文字は図像で、表音文字は音声である。私たちは、この2つを平行しながら言語活動を行っている。日本人の脳は、文字を視覚的に入力しながら、漢字を図像対応部位で、かなを音声対応部位でそれぞれ処理している。
 中国人にとっては、漢字は表意文字であると同時に表音文字でもある。日本語では、漢字は表意に特化されている。
 明治以後、外来語に「真名」の地位を譲り、土着語に「仮名」、つまり暫定語としたのである。
 古来、この国は外来の概念を「正嫡」として歓待し、土着の概念を「庶子」として冷遇するというふるまいを繰り返してきた。」
 「かな」は仮名。「な」は文字のことである。つまり、「かな」は仮の文字である。 そして「まな」は真名で、仮名に対しての本字をいう。つまり漢字が正当な文字と言い表しているのである。

 ジャレド・ダイアモンドは、「銃・病原菌・鉄」(草思社)で、東アジア文明の発祥に果たした中国の役割は非常に大きいとしながら、次のように述べている。
 「たとえば、中国文化の威光は、日本や朝鮮半島では依然として大きく、日本は、日本語の話し言葉を表すには問題がある中国発祥の文字の使用をいまだにやめようとしていない。」
 そして、朝鮮半島で中国伝来の文字にかわって使われたハングルを素晴らしいと評価しつつも、次のように付け加えている。
 「日本と朝鮮半島においていまだに使われている中国の文字は、約一万年前に植物の栽培化や動物の家畜化をはじめた中国が二十世紀に伝えた遺産といえる。」

 日本の文字がいくら中国からの借用といっても、日本語の文字から漢字を、いまさらなくすわけにはいかない。
 例えば、韓国のように漢字をなくして(韓国はハングル文字だけにしたが、今少しずつ漢字が復活している)、この文がかな文字だけで書かれていたとしたら、なんの意味か分からないところが続出だろう。
 かな文字だけにしたら、名前をはじめとする固有名詞がさっぱり意味をなさないと思う。
 文明開化の明治期、日本語をローマ字にしようという説が現れたが、すぐに立ち消えた。当然である。日本語は、先に書かれたように、表意文字と表音文字を、巧みに活用しながら使ってきたのだから。
 
 振りかえるに、日本語の複雑さは、その生い立ちにある。

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疑惑の影

2010-12-15 03:08:44 | 映画:外国映画
 監督:アルフレッド・ヒッチコック 出演:ジョゼフ・コットン、テレサ・ライト、ヘンリー・トラヴァース、パトリシア・コリンジ、マクドナルド・ケリー 1943年米

 戦後の、つまり少し前の時代のアメリカのごく普通の家庭とは、こういうものであろう。
 のどかな郊外に建つ、瀟洒な一軒家。家の周りには落葉樹の木が植えてあり、それらの木々が季節を教えてくれる。梢の先の2階の窓からは、レースのカーテンが見え、時折少女が微笑みを浮かべた顔を出す。
 家の中を見渡せば、1階にはソファーのあるゆったりとした居間があり、そこにはテレビが置かれて、電話もある。台所には今でいうシステムキッチンが整っていて、背の高い冷蔵庫が置かれている。2階へ行けば、子どもたちの個室まである。
 家族は、地方の銀行員の実直な父親と、こまめに働く気のいい母親。子どもが3人いて、成績のいい高校生の長女と、少し年の離れたまだ小学生のお茶目な妹と弟。
 映画やテレビで流れる戦後のアメリカの家と家庭は、作り物の別世界のようであった。日本では、まだ文化的と言われた2DK(約40~50㎡)の団地すらできていない時代のことだ。

 アルフレッド・ヒッチコックの「疑惑の影」は、カリフォルニアの、典型的なアメリカの家庭での出来事である。
 2階の自分のベッドで寝ころんでいた少女(テレサ・ライト)が、病気でないかと心配で部屋をのぞきにきた父親に言う。
 「何時間も考えて、あきらめるしかないって分かったの」
 「何をだね?」と父親は尋ねる。
 「家庭ってこの世で一番いいものなのに、うちは崩壊している」
 「崩壊?」
 「毎日、何もなく、同じように過ぎていくだけ。もう何か月も考えている。この先どうなるの?」
 「悪く考えるな。パパも昇給しただろう」
 「魂の問題なのに、お金を持ち出すなんて」「みんな、食べて、寝るだけ」「あとは、中身のない世間話だけ」
 「働いているよ」
 「そうね、ママなんて働きずくめで哀れだわ」
 そして、少女は「奇跡を待つしかしようがないわ」と溜息にも似た呟きを吐くのだった。

 この倦怠感を打ち破ってくれるのが、叔父のチャーリー(ジョゼフ・コットン)だと少女は確信するのだった。自分と同じ名前の叔父は、少女の憧れの人で、今はニューヨークにいるのだった。
 その叔父が、久しぶりにこの家に来てしばらく滞在するというのだ。少女は叔父の訪れを心待ちにした。そして、叔父はやってきた。
 やはり、叔父は颯爽としていた。しかし、その叔父は秘密を持っているようだった。2人の男が密かに追っているようだ。

 映画の冒頭の、少女の家(家庭)への不満の呟きは、僕の思春期を思い出させた。
 この少女の嘆きは、僕の高校時代の思春期の思いと同じだった。
 子どもから大人になる時期、おおかた高校生の頃だが、思春期の反抗期がやってくる。毎日、同じことを繰り返して日々を過ごしている、それでいてそのことに疑問を持っていないような大人に懐疑的になるのだ。何のために、何を目的に生きているのか?という疑問。それは、手っ取り早く、身近な両親に向けられる。
 そして、少年は考える。
 こんな何も起こらない田舎を、一刻も早く出て行きたい。学校を卒業したら、都会へ、東京へ、出て行こうと。
 だから、都会である東京へ出ていた叔父が輝いて見えた。どんな生活をしているかは関係なかった。この映画の少女と同じように。

 都会や別の世界への憧れ。そして、故郷を去ることによって初めて知る世間の熱くも冷たくもある風。それを経験することによって、故郷や田舎の良さが分かるようになる。それは、自立への第一歩である。
 そして何よりも大切なのは、何も変化がなく繰り返される、かつて自分が懐疑的になり憎悪すら感じていた平凡な日々の良さが分かるようになるのだ。
 思春期は、自分が育った身の回りの小さな世界から、別の大きな世界に目を向ける時期で、元の世界との別離の時期である。
 憧れの世界は汚辱にまみれていようとも、旅立たねばならない時期なのである。

 「疑惑の影」のこの映画では、テレサ・ライトはアメリカの夢みる少女役がよく似合っている。かつてこういう優等生的な美少女がアメリカにはよくいた。今の少女と違って、少し遠くをキラキラと見ていた。
 彼女は2005年になくなった。86歳になっていた。
 陰のある叔父役の、「第三の男」で有名なジョゼフ・コットンも、気障な叔父を好演している。
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生きるチカラ

2010-12-14 02:45:02 | 本/小説:日本
 生きる目的とは何だろう。
 長く生きてきたとて、いっこうに分からない。周りを見渡しても、分かっているとは思えない。
 それ(生きる目的)を見出すために生きているという言い方をする人がいるが、それならば、それを見つけたと言い残して死んでいった人が相当数いてもいいものだが、そんな人は、なかにはいるのだろうが、私は知らない。
 例えば、自分探しのためといっても、自分が何たるかが分かったところで、それが何というのだ。あるいは、人のため、世のためという大義名分はもっと怪しい。
 生きる目的など考えてもみない、考えたところでしょうがないという人がほとんどだろう
 となるとやはり、自分にとって楽しいこと、面白いこと、胸のときめくことなどに出合うために生きている、というのがもっとも素直な考え方のような気がする。

 「生きるチカラ」(集英社)の著者植島啓司は、「僕はこれまで大学教授にしてギャンブラーとよく書かれたけれど、多くの場合は旅行者であり、また、毎晩のように女の子たちと飲んで遊ぶ享楽的な人間でもある」と述べている。
 植島は、学者としてはあまりにも率直に本音を語る、察するに快楽主義者である。
 「僕は30代後半からはひたすら学問から離れる一方だった。何一つまとまった仕事をする気になれなかった。目を瞠(みは)るような快楽にとりまかれていながら、なぜそれを見ないようにしなければいけないのか。ずっとそう思っていた。アルコール、にぎやかな会話、他愛ない遊び、笑い、美しい女たち、挨拶がわりの接吻、媚薬、一瞬のうちに大金を得る快楽、それらこそ人生のすべてではないか。」
 恋愛小説家(こういう言い方があるとすれば)にはこれぐらい言う人はいるが、学者ではなかなかここまで言う人は珍しい。まあ、彼も戯れに小説も書いていたが。
 植島は自分の思っていることを、東西の作家や碩学者の言葉や映画のストーリーから導き出すのがうまいが、バルザックの言葉である、「放蕩もひとつの芸術である」を引き合いに出している。
 放蕩のあとには悲惨が待っている場合が多いが、「誰の人生でも浮き沈みはあるもので、そんなとき、どのような態度をとるべきか」が問題だと言う。
 この考え方は、先に紹介した「哲学者とオオカミ」のマーク・ローランズの言った「最も大切なあなたというのは、自分の好運に乗っているときのあなたではなく、幸運が尽きてしまったときに残されたあなただ」と共通する。

 植島は続けて言う。「人生では何より偶然が面白い」と。
 「いったいこれから先、自分に何が起こるのかと考えたとき、あなたの胸はときめくだろうか、それとも、不安で落ち着かない気分になるだろうか。
 この世の中には、前もって知るとよくないことがいっぱいある。
 例えば旅がそうだ。映画がそうだ。それは、人の出会いについてもいえるだろう。」
 
 彼の専門は宗教人類学で、世界中を旅している。特にネパールやバリ島などには頻繁に行っている。カメラマンとの取材旅行が多いようだが、一人での旅も多いようである。
 私は、海外はほとんど一人旅で、私が思っている「旅」への感覚と同じことを、彼はこう言っている。
 「「旅」とは、日常では経験できないことを実行する絶好の機会だ。それが「観光」と大きく違うところで、出発時間から集合場所、宿泊地、交通手段、レストランなどすべて決められているのが「観光」で、そういう制約から自由で、この先どうなるか分からないというのが「旅」の特徴だ。いうなれば「非日常」とでもいうのだろうか。
 だから、旅には不安がつきもので、列車に乗れるのか、宿泊は大丈夫か、そもそも言葉は通じるのだろうか、そんな不安をいっぱい抱えながら過ごすのだから、よほど強靱な精神の持ち主じゃないとつとまらないように思われるだろう。
 ところが、いざやってみればいたって簡単なことに気がつく。どれも必要に迫られるから、何とかなってしまうのだ。もちろんうまくいかないこともあるだろう。しかし、そのかわり喜びも大きい。
 自分にふりかかることのすべてをおもしろがられるかどうかが、旅を楽しめるかどうかの分岐点になる。」

 つまり、人生も旅と同じである、という考えである。
 決まりきった人生よりも、何が起こるか分らない人生が楽しい。
 「すべてわれわれは、「計画された偶然」を生きているわけである。できるだけ必然と思われることを最小限にとどめなければならない。それが楽しく生きるための最大の秘訣であって、人は偶然に身を任せることによって初めて自由になれるのである。」
 植島は、「偶然のチカラ」(集英社)で、自分にふりかかったあらゆる出来事、偶然と思われることをも、すべて必然と考えたらずいぶん楽になると言っている。

 人生においては、偶然も必然もコインの裏表と思える。

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哲学者とオオカミ 愛・死・幸福についてのレッスン

2010-12-04 02:47:37 | 本/小説:外国
 マーク・ローランズ著 今泉みね子訳 白水社

 最初のページをめくると、あとは夢中になった。そして、時折たち止まって、文を反芻した。
 それと同時に、1章節読み終えるたびに、惹かれた著者の呟きにも似た文章をパソコンに書き写した。記憶にとどめておきたいためである。そして、当然薄れゆくであろうその記憶と意味を、またいつか再確認したいためである。そうさせる本は珍しい。

 「哲学者とオオカミ」は、オオカミと一緒に暮らした男の、オオカミとの生活の回想の書である。
 大学の教職者(哲学)であるイギリス人のマーク・ローランズは、アメリカのアラバマ大学の準教授だったとき、「オオカミの子ども売ります」の新聞広告を見て、車を飛ばしてその日のうちに、生後6か月のオオカミの子どもを500ドルで買って帰る。
 家に帰ると、2分もしないうちに、まだ縫いぐるみのようなオオカミに、リビングのカーテンは引き裂かれ、庭に飛び出したその子に地下室の空調設備のパイプをすべて噛みちぎられた。
 こうして、著者ローランズのブレニンと名づけられたオオカミとの共同生活が始まる。それは、ブレニンが死ぬまで11年間続いた。
 マーク・ローランズは、オオカミのブレニンから多くのものを学んだ。
 私は、オオカミから学んだローランズから、この本を通して多くのものを学んだ。

 オオカミはイヌの祖先である。であるが、野生の動物である。
 この本は、オオカミの生態についての本である。それとともに、人間とは何かについての本でもある。そして、人生の目的、幸せ、時間とは何かについて言及した哲学の本でもある。かといって、こむずかしい本では決してない。
 まるで、読んでいる者(読者である私だが)がオオカミのブレニンと一緒に生活しているような気になってくる。そして、オオカミのように生きたい、と思うから不思議だ。著者がそう思うように。

 著者のローランズは、オオカミのブレニンを飼うことについては、常にブレニンの目の届くところにいるように決める。すぐに、鎖(紐)も結ばずに外に連れて行くようになる。
 一緒に走る。そして、一緒に海に浸かる。そのうち、仕事場(大学)にも、連れて行く。

 ローランズは、イヌの訓練にも言及している。
 訓練は、自分のイヌを順応へと強制する意志の闘いの場だと。
 正反対の誤りは、イヌを従順にできると思いこんでいる人は、自分のイヌが基本的に「ご主人」の思うようにしたいのだ、と苦言を呈する。
 彼のオオカミの訓練はこうだ。
 「おまえ(オオカミ)は状況が要求していることをしなければならない。状況が他の選択を許さないのだから」

 ローランズは、アメリカのアラバマからもっと広い土地のアイルランドへ移る。そして、大学(職場)を変えたのでロンドンへ、さらに環境のいい南フランスへと、いつもブレニンのことを考えながら引っ越しを繰り返す。
 彼はオオカミ(ブレニン)との共生を通して、動物への理解、動物に対する徹底して道徳的姿勢として、大好きなステーキを断念してヴェジタリアン(菜食主義者)になる。一時、完全菜食主義者(ヴィーガン)ですらあった。また、ブレニンはペスクタリアン(魚、乳製品、卵を食べるヴェジタリアン)となった。

 *

 この本を読んでいて、田舎の子どものときを思い出した。
 近所でシェパードを飼っていた。もちろん家の外で、放し飼いのようになっていた。
 当時、田舎では犬を室内で飼うなんてことはなかった。紐や鎖で繋がれることはなく、犬は自由に動き回っていた。犬は人間ではないけれど、学校にも仕事にも行かない近所の人、といった感じだった。
 子どものときだから、その犬はとても大きく見えた。そして、決して吠えたり人を噛んだりはしなかった。
 「トネ」という名のその犬は、いつも私たちの遊ぶ領域をうろついていた。私たちは、その犬を友人のように扱っていた。ボールや小枝を投げて、取ってこらせてはしゃいでいた。
 トネの他に、野良犬もよくいた。飼い犬と野良犬はすぐに区別がついた。もちろん首輪があるなしで分かるのだが、それ以外にも野良犬は性格が卑屈だった(人がそうさせたのだが)。人が近づくと、上目づかいに顔を見て、低くウーと唸った。
 東南アジアでは、今でも野良犬がよく歩いている。
 
 猫は、ほとんどが野良だった。猫も家の周りをよくうろついていた。
 犬と違って猫は憎まれっ子で、床下や塀の上にいるのを見つけられては、子どもに石などを投げられていた。猫はすばしっこいので、子どもの投げた石が当たることはなかった。
 時々、犬と猫が道で鉢あわせすることがあった。あるとき、前から嫌いあっていたのか、その日癇にさわることがあったのか、両方が相撲の仕切のように睨み合った。犬がワンワンと吠えて、猫が背中を高く丸め尻尾を逆立て、低くニャーと唸った。
 この成りゆきを見ていた私たちは、犬は強いものと思っていたから、当然犬が勝つものと思っていた。そしたら、ワンワンと吠えていた犬が、相手の猫がギャーと鋭い泣き声をたてるや、「すみません」とばかり、すごすごと背中を見せて退散したのだった。それを見て、私は犬にがっかりした記憶がある。
 
 かつて犬や猫は、捕らわれ、もしくは囚われの身ではなかった。少なくとも、今日ほどには。
 こうした自由な犬や猫を見て育ったので、都会で、しかも集合住宅で動物を飼う気にはなれない。特に、都会の犬は可哀想である。その本質が代々そこなわされていると感じる。
 元々彼らは、はるか何世代も前は、野や山を駆け回っていたのだから。しかし、今日、その面影を見つけるのは難しい。

 ローランズはこう言う。
 「人がどういう人間かを判定するとき、私は常に、その人が自分よりも弱い人間をどう扱うかを目安にしている。
 人間は弱さをつくりだす動物だ。人間はオオカミを捕らえて、犬に変える。バッファローを捕らえて、牛に変える。種ウマを去勢ウマに変える。私たちは物を弱くして、使えるようにするのだ。」

 現在は、異常なほどのペット・ブームだ。
 2006年度の日本ペットフード工業界の調査では、犬の飼育頭数約1300万、猫約1200万、計約2500万匹で、14歳以下の人間の子どもの数約1800万人をはるかに上回る数だ。
 人間は少子化で減っているのに、ペットは増えている。
 犬用ベーカリーのアメリカ人経営者が、日本の光景を見て、「犬をベビーカーに入れることまでは想像できない」と言っていた。

 *

 ローランズは、ブレニンを通して、オオカミ(イヌ)と、サル(人間)の違いについて考える。
 「陰謀と騙しは、類人猿やその他のサルが持つ社会的知能の核をなしている。何らかの理由で、オオカミはこの道を進まなかった。
 類人猿の王様、ホモ・サピエンスにおいて、このような形の知能は最高点に達した。」

 そして、おそらく最も重要なことを、まだ私には明確には分かっていないのだが、彼はこう言った。
 「私たちの誰もが、オオカミ的というよりサル的であると思う。
 サルの知恵はあなたを裏切り、サルの幸運は尽き果てるはずだ。そうなってやっと、人生にとって一番大切なことをあなたは発見するだろう。そしてこれをもたらしたものは、策略や智恵や幸運ではない。
 人生にとって重要なのは、これらがあなたを見捨ててしまった後に残るものなのだ。あなたはいろいろな存在であることができる。けれども、一番大切なあなたというのは、策略をめぐらせ、自分の狡猾さに喜ぶあなたではなく、策略がうまくいかず、狡猾さがあなたを見捨てた後に残るあなただ。
 最も大切なあなたというのは、自分の好運に乗っているときのあなたではなく、幸運が尽きてしまったときに残されたあなただ。」

 ローランズは語る。
 「私がブレニンから学んだレッスンというとき、こうしたレッスンは直感的なものであって、基本的には非認識的なものだった。これらのレッスンはブレニンを研究することから学んだものではなく、生活を共にすることから学んだ。
 そして、レッスンの多くを私がやっと理解したときには、もはやブレニンはいなかった。」

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