かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

ポーランドの少女合唱団の歌声

2023-09-27 01:55:59 | 歌/音楽
 少年合唱団といえばウィーン少年合唱団が有名だが、ポーランド・カテドラル少女合唱団の「プエラエ・オランデス」が日本で初のコンサートを行った。
 この公演の実現に尽力したのは、世界的に活動し楽団フィルハルモニア多摩の指揮もされている今村能氏である。

 ポーランドは、ヨーロッパにおける西に近い東の国に位置し、この地理的状況からか政治的にも多くの波乱で苦難の歴史を辿ってきた。
 北はバルト海に面し、西はドイツ、北東はロシアの飛地カリーニングラード州とリトアニア、東はベラルーシとウクライナ、南はチェコとスロバキアと国境を接する。首都はワルシャワ。
 かつては旧ソビエト連邦傘下にあったが、現在はEU(欧州連合)およびNATO(北大西洋条約機構)に加盟しており、ロシアのウクライナ侵攻に際しては直ちに隣国ウクライナ支援を発表し、実際、武器給与や多くの脱国したウクライナ人を受け入れている。

 一般的にポーランドといって思いつくのは、作曲家のショパンと化学・物理学者のキュリー夫人ではなかろうか。
 個人的に付け加えるならば、制約の多かったであろう共産国にありながら、1950年代後期から1960年代前期の映画界に燦然と輝いた、いわゆる“ポーランド派”の、「地下水道」「灰とダイヤモンド」のアンジェイ・ワイダ、「尼僧ヨアンナ」「夜行列車」のイェジー・カヴァレロヴィチ監督は忘れがたい。

 *ポーランド・カテドラル少女合唱団「プエラエ・オランテス」
 日本デビューコンサート

 現在、隣国が戦争の渦中におかれていて、少なからず複雑な影響下にあるポーランドである。
 私はポーランドをよく知らないので、ポーランドで歌われている歌(曲)はどういうものだろう、少女合唱団によるポーランドの曲を聴く機会はそうないと思ったので、聴きに行った。
 カテドラル少女合唱団「プエラエ・オランテス」は、1985年に設立されたポーランドを代表する少女合唱団である。資料によると、今まで多くの合唱コンクールで優勝や優秀賞を受賞していて、ヨーロッパを中心に公演活動を続けている。

 2023年9月 23日、会場:たましんRISURUホール (東京都立川市市民会館)。
 [曲目]
 <第1部>ポーランド音楽(カテドラル少女合唱団「プエラエ・オランテス」合唱、ピアノ伴奏)
 ポーランド民謡:「緑の木立の中で」、「ねえ、クラクフ・マーケット広場で」、「マズルカ」、「森へ行きましょう」。
 ショパン:「ノクターン嬰ハ短調」、「英雄ポロネーズ変イ長調」(ピアノ独奏)、ほか
 <第2部>世界の名曲(少女合唱団「プエラエ・オランテス」合唱、ピアノ伴奏)
 台湾民謡、「青く塗られた青の中」、「レット・イット・ビー」、「ライオンは寝ている」 
 <第3部>日本・ポーランド共演(フィルハルモニア多摩参加)
 モニューシュコ:「宵の唄」、「紡ぎ唄」、歌劇:幽霊屋敷より「針の下から花が咲く」
 ファルチンキェヴィチ:「祖国のためのミサ」
 <出演>
 カテドラル少女合唱団「プエラエ・オランテス」(合唱)
 今村能(音楽監督・指揮)
 ヴワディスワフ・パホータ(「プエラエ・オランテス」創始者、指揮)
 ウカシュ・ファルチンキェヴィチ(作曲・編曲、合唱ピアノ伴奏)
 ヴェロニカ・ガルヂェル(ピアノ独奏)
 フィルハルモニア多摩(管弦楽)

 *
 今回参加のカテドラル少女合唱団は総勢26人で、華やかな髪飾りに民族衣装(おそらく)で、見た目も可憐で派手やかだった。
 歌声も若さゆえの清らかが会場に響き渡る。
 1部のポーランド民謡で、聴いたことがある歌が出てきた。すると、ポーランド語で歌い終わった後、日本語が出てきた。
 「森へ行きましょう 娘さん(アハハ)、鳥が鳴く(アハハ)、あの森へ(ラララララ)……」日本の童謡と思っていた「森へ行きましょう」は、実はポーランド民謡だったのだ。
 合唱、演奏が終わった後、少女合唱団のメンバーが会場の外で並んで写真撮影の応じてくれていた。(写真)

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日本発祥の地を求めて、横浜⑦ 根岸の旧競馬場の廃墟

2023-09-18 03:42:07 | * 東京とその周辺の散策
 横浜の「初めての地」を巡る散策も長く続いているものだ。
 「山下公園」周辺から始まり、「ブルーライト横浜」の流れにのって横浜港の「みなとみらい」から「馬車道」へと歩き廻った。
 そして前回の「日本発祥の地を求めて、横浜」⑥は、「元町公園」、「山手公園」から「港の見える丘公園」を巡った。
 今回は、まずメインの目的の地があった。それは、発祥の地というよりは「廃墟の地」と呼ぶものであった。
 同行の湘南の士からその根岸の地を提案されたときは、どんなものか知らなかったので気軽に賛同した。資料を見たら、それはあまり知られていないが、意外な穴場で掘り出しものに違いないと思った。写真で見ると、その地は朽ちて見えようも威厳に充ちていた。
 もったいぶった前書きになったが、その地とは、「旧根岸競馬場の一等馬見所」である。横浜・根岸にある廃墟の建築物である。なんと、横浜に競馬場があったのだ。
 ということで、旧競馬場があった横浜・根岸を中心に散策することにした。

 *根岸駅から根岸森林公園へ

 今年の夏は気温30度は当たり前で、35度以上の猛暑日もたまにあるというのではなく連日続くという、日本も熱帯になったかという気候状態である。その恒常ともいえない気候が、9月になっても続いているではないか。
 異常な暑さが差し迫ってきた6月27日、JR根岸線の山手駅の一つ先(南)にある根岸駅を午後の2時に出発予定だったが、電車の事故で3時ごろに出発した。
 根岸駅に降り立ったのは初めてで、駅前は広い敷地があり正面にはなだらかな緑の丘(台地)が見える。駅前の人通りもさほど多くはなく、落ち着いた地方の平均的な都市に来た感じだ。
 まず、駅前に石碑がある。

 ・「根岸湾埋立記念碑」(磯子区東町・根岸駅前)
 かつて根岸湾は現在の国道16号線(中通り)辺りまで遠浅の海で漁場だった。根岸線の誘致とともに海の埋め立ての案が出たとき、漁業関係者は反対であった。その後、市と漁業組合との協議の結果、1959年埋め立ての合意調印が行われ、埋め立て事業が開始された。
 今日の根岸の記憶をとどめる記念碑である。

 ・「白滝不動尊」(中区根岸町3)
 駅前の中通りから少し入ったところに不動尊がある。「白滝不動明王」と刻まれた石銘のところから、急坂が昇っている。直線の男坂と曲がった蛇行の女坂があり、登った上に不動堂がある。
 石段脇に滝があり、それがこの不動尊の名の由来だろう。
  
 ・「根岸八幡神社」(磯子区西町1)
 白滝不動尊からすぐのところに「根岸八幡神社」がある。通りに沿って鳥居が立っていて、名称のある額束には「八幡神社」とだけ刻まれている。
 鳥居の先に階段があり、上ると社殿があり、「茅の輪くぐり」が設けられている。「夏越の祓」ということで、一応輪をくぐった。
 社殿の横に、幼稚園があり何人かの園児と彼らを見守る母親が見られる。境内の奥には、こぢんまりとした稲荷神社、金刀比羅神社、厳島神社の3つの神社が並んでいるのも面白い。
 
 八幡神社から本命の廃墟がある根岸森林公園を目指す。
 八幡神社の坂を上がって左(西)に行ったすぐのところで、左(西南)に折れる石段の道を下りた。坂下公園に出たがどうも方向が違うので、再び今下りてきた階段道を上り元の道に戻った。
 そこから、西の方へ進んだのだが、途中でなにやら平坦な下り坂になり工事を行っている。この道も森林公園に続いていそうにない。そこで公園へ行く道を訊くと、今通ってきた道を戻ることになった。
 どうしたことか紆余曲折の歩きのあと(汗)、やっと根岸森林公園へ通じる「根岸旭台」へ出た。こんなに道に迷ったのは初めてだ。
 通りにそって東へ進むと、左手に消防署がある。

 ・「米海軍第5消防署」(中区根岸旭台)
 何台も並んだ消防車と普通車の車庫の上部の看板には、赤い字で「FIRE STATION No.5」と書かれている。ここは、米海軍旧根岸住宅施設の消防署だった。
 この近くに米軍根岸住宅地区があるので米軍管轄による消防署があるのだが、住民はすでに退去しているとのことだ。それでも、消防車はまだ現役で活動しているのだろうか。
 施設の端に英字新聞が置いてある。「STARS&STRIPES Community Publication JAPAN」というタイトルで、横に「FREE」と書いてあるから自由に取っていいようだ。タブロイド判16ページで、内容はエンターテイメント一色で、東京の新旧のシンボルタワーの東京タワーと東京スカイツリーからの景観を比較したり、花火や盆踊りといった日本の夏の催しや宮崎県の観光を紹介したりと、盛りだくさんだ。
 少しアメリカの匂いがする。
 消防署を過ぎたその先から左手に根岸森林公園がある。

 ㉙日本初の近代競馬場跡「根岸森林公園」(中区根岸台)
 公園は、なだらかに芝生が広がり、木々が周りを囲んでいて落ち着いた雰囲気だ。それに、全貌が見渡せないほど広い。ここは、元競馬場だったところなのだ。

 幕末、横浜港は1859(安政6)年に開港され、外国人居留地が設けられた。西洋では競馬は娯楽の大きな要素だった。早くも開港から1年後には元町で、簡単なコースによる洋式競馬が開催された。その後1866(慶応2)年、外国人の要望により、この地に競馬場が設立された。それが、日本初の本格的な近代競馬場である旧横浜競馬場(根岸競馬場)である。
 賭博禁止により日本人の一般庶民には馬券は発売されておらず、日本人で出入りできるのは貴族や政府の重鎮たちであった。明治に入り、競馬場は鹿鳴館にも比肩する貴族の社交場だった。全盛期には天皇賞の基となる「帝室御賞典」など本格的レースも行われ、洋式レースのモデルともなった。
 太平洋戦争が勃発するなか一時的に一般庶民にも馬券が発売されるが、戦争が激化する1942(昭和17)年、競馬は中止となり競馬場は海軍省に接収された。
 戦後は、米軍に接収され住宅地やゴルフ場として使用された。1969(昭和44)年、一部を除き接収が解除となり、1977(昭和52)年、国有地となった地を市が根岸森林公園として開園した。

 根岸森林公園は広々とした公園である。公園を囲む遊歩道をゆっくり回って、北側の通りを隔てた先に繋がる公園に入ると、例の大きな建物が見えるではないか。

 ・「一等馬見所」(根岸森林公園)
 のどかな広々とした公園のなかで目に飛び込んでくる、聳え立つ3塔が連なる古めかしいコンクリートの建物は、なんとも異様な風景である。
 建物は、公園を見渡しているようでもあり、周りを睥睨しているようでもある。近づいてみると、人を寄せ付けないような威厳があり、建物の周りには蔦が絡まり風格すら感じさせる。
 競馬場を見渡すように建てられた「一等馬見所」である。ここが競馬場だった頃には下見所、二等馬見所もあったらしいが、今では一等馬見所だけが残されたという。
 この建物は、関東大震災後の1929(昭和4)年に建てられたJ.H.モーガンの設計によるものだ。モーガンは米国ニューヨーク州生まれの建築家で、横浜山手に残るベーリックホールや山手111番館なども設計している。
 戦後の1945(昭和20)年に競馬場は米軍に接収され、この「一等馬見所」は印刷工場となり、民主化政策の情報発信地となった。1969(昭和44)年、米軍より返還されたが、その後も手つかずのまま今ある廃墟と化している。
 この建物は、横や後ろ側からは近くから見ることができるが、すぐ正面はすぐ隣が米軍の敷地であり、見ることができない。
 しかし、どこかにありそうでないようなアニメに出てくる古城のようで、遠くから眺めるのもよい。横浜にある得難い廃墟である。(写真)

 根岸森林公園を後にした。
 少し北に行った住宅地のなかの、私の古い地図にある「南京墓地」を訪ねた。

 ・「中華義荘」(中区大芝台7)
 中華義荘とは、華人・華僑系の共同墓地のことである。南京墓地とも呼んだそうである。
 中華義荘は、住宅地の奥にひっそりとあった。山手外国人墓地に埋葬されていた華人、華僑が1873(明治6)年、この地に移された。開設当初は仮埋葬所であり、棺の仮安置場所としての性格が強かったが、次第に永眠する華人が増えていったそうである。
 墓地には「地蔵王廟」、3階建の安骨堂(納骨堂)がある。

 ここからは、さらに北の方の、最終地の横浜中華街の方へ行くことにする。
 中華義荘を後にして大きな通りを石川町方面に向かって歩いていると、すぐ目の前で路線バスが停まった。「山元町1丁目」で、疲れていたのでバスに跳び乗った。横浜根岸道路の打越橋を通り過ぎ、中村川の手前の「石川町5丁目」で降りた。
 横浜の街中でバスに乗ったのは初めてだ。たった1駅間だったが、疲れていたので背に腹は代えられない思いだった。

 横浜根岸道路の打越橋を通り過ぎ、中村川に沿って石川町駅、中華街方向へ向かう。
 中華街の一角に入る手前の「亀の端」の袂の木の下に、なにやら遺跡らしきものがある。よく見ると地蔵尊で、こんなところに地蔵さんが立っているとは知らなかった。

 ・「地蔵尊」(濡れ地蔵)(中区石川町2)
 海に身投げした娘さんを救うため、お地蔵さんが海に入り濡れたので「濡れ地蔵」呼ばれるようになったらしい。

 ここを過ぎると、ようやく中華街である。日も暮れたようだ。

 *日が暮れた後は、「横浜中華街」

 中華街では、もう馴染みと言っていいだろう。満州料理、つまり中国・東北料理の「東北人家」へ。
 店へ入るとすぐにトイレで、汗で濡れたシャツを、こうなることを予想して持参したシャツと着替えた。こんなことは初めてだ。
 暑い中での歩きで、汗と疲れた身体のために、とりあえずはビールを一杯。肴は、まずはいつもの羊の串焼きに焼き餃子。
 酒は紹興酒に変え、料理は今まで食べていない、東北板春雨、手羽先の青唐辛子炒め、芝エビの田舎炒め。
 東北板春雨は、日本の春雨とは麺の太さがまるで違う。平たい“きしめん”、イタリアンのフィットチーネの感じで、しこしこしたコシがあって、もっちもちの食感。食べ応え抜群だった。

 いろいろと初めてのことが起こった今回の横浜散策だったが、それも旅(散策も含めて)につきもののことなのだ。
 過ぎ去れば、失敗やそういったことが記憶に残るものだ。
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