1997年6月30日。香港は、イギリス領から中国に返還されることとなった。
それに遡る1989年に、北京で民主化運動による天安門事件が起こり、変換されたら香港はどうなるのかという思いが広まった。
僕は返還前の香港を見ておかないといけないという思いで、1993年、香港へ飛んだ。そして、軽い気持ちで、香港の隣の澳門(マカオ)に足をのばした。マカオも当時まだポルトガル領で、ここも1999年に中国に返還されることになっていた。マカオは小さな街なのだが、カジノで名が知られていた。
香港から船でマカオに着くと、僕はカジノがある葡京酒店(リスボア・ホテル)に宿をとり、カジノの扉の中に入っていった。(写真)
そこで、僕は思わぬことにカジノの深みにはまり、時間を忘れて浸り、瞬く間に燃え尽きて、ほうほうの態(てい)でマカオをあとにした。
そのことは、先にブログで、大王製紙前会長の井川意高の著書「熔ける」に関連して書いた。
*「悪魔のようなカジノの甘い快楽と陥穽を偲ぶ告白録「熔ける」」2014.9.1ブログ
*
「波の音が消えるまで」(沢木耕太郎著、新潮社刊)は、このマカオのカジノを舞台にした小説である。
沢木耕太郎のマカオでカジノといえば、彼の旅行記「深夜特急」をすぐに思い浮かべるだろう。この本は、そのことを膨らませ小説化したものである。「深夜特急」では、大小という丁半賭博だが、本書ではバカラになっている。
バカラといえば、先に書いた大王製紙前会長の井川意高が嵌り、106億余円もの借入金をつくったカード博奕で、世間を賑わせた。
「波の音が消えるまで」の主人公は、返還最後の日である1997年6月30日に香港にやってくる。そして、マカオに向かい、リスボア・ホテルに泊まり、カジノに出向く。
僕がマカオで泊まったホテルで、出向いたカジノだ。
彼は、ギャンブルが好きだったわけではないのだが、バカラを後ろで見ていて、要領を覚えたら、自分も賭けてみる。
バカラは、ブラックジャックと同じカードゲームである。
バンカー(胴元)側とプレイヤー(客)側に2枚ずつカードが配られ、その合計数の下一桁が9に近い方が勝ちとなり、0が一番弱い数となるゲームである。絵札はすべて10でカウントする。
2枚ずつ配った時点で下一桁が8か9以外の場合は、双方の数によってもう1枚カードを配る場合がある。
主人公がバカラの深みに嵌っていき、バカラの本質を見極めようとするのが本書の主題である。
本書のなかには、カジノの戦略本として、賭け方の戦略が紹介されている。
そのなかで、マーチンゲール方式というのが紹介されている。
以前から、僕もこの方法だったら絶対勝つと思ったやり方だ。僕は、カジノでその方法を試みたが、すぐに破棄した。理論的には正しいのだが、実際やり始めたらやり通すのは難しい。
「まず1の単位を賭ける。負けたら2の単位を賭ける。それでも負けたら4の単位を賭ける。そのようにして倍々に賭けていくと、いつかは必ず勝って、すべての負けを取り戻すことができる」というものだ。
しかし、この本では、それはまったく愚かな戦略だという解説が紹介されている。
「まず第1に、すぐに巨大な賭け金になってしまうという点、第2に、その巨大なリスクを冒しても得られるものがわずか1単位の金に過ぎないという点に戦略としての不完全さがある」というのだ。
「もし100ドルから賭けを始めて10回続けて負けると、11回目は1024単位の10万2400ドルを賭けなくてはいけなくなっている。しかも、それほどのリスクを冒して勝負し、何とか勝ったとしても、それによって手に入るのは、それまでの負けを相殺すると、わずか1単位の100ドルに過ぎない」という理由である。
バカラも、大小と同じく、ほぼヒフティ・ヒフティの丁半博奕である。
本書では、登場人物に、博奕に関する箴言のような言葉をつぶやかせる。
「丁半博打は、すべてが偶然だ。出る目に法則などありはしない。だから、勘に任せて張るしかないとも言える。しかし、それではカジノに払うコミッションだけ失っていくことになる」
「強く信じたときだけ強く賭けることができる」
「重要なのは波だ」
「バカラの台が海だとすると、8組416枚のカードが海の水です。……しかし、それがどんなかたちの波になるのかは、砕け散ってしまわなければわからない」
そして、最後に、闇社会の帝王は言う。
「バカラの必勝法。そんなものはこの世にありません。カジノで勝とうするのは、ティンホー(天河、天の川)を泳いで渡ろうとするようなものです」
ギャンブル小説は、ギャンブラーが書いたものが真に迫っているのはいうまでもない。そして、実際に体験したことが胸に響くものだ。
そういう意味で、僕は沢木耕太郎の「深夜特急」のマカオの場面は彼の実体験に基づいているので大好きなのだが、小説化し、主人公がサーファーからカメラマンとなり、女性との愛も絡むとなると、ギャンブルの本質を追及するという主題が、物語として美しく人工的に組み込まれ過ぎたと感じた。
沢木耕太郎には、小説としてではなく、伝説のギャンブラーをドキュメントとして書いてほしい。
*
博打打としても名高い阿佐田哲也(色川武大)の「麻雀放浪記」や、カジノ(カシノ)の常打ち賭人の森巣博の「越境者たち」などは体験的に心情に迫るものがある。
それに遡る1989年に、北京で民主化運動による天安門事件が起こり、変換されたら香港はどうなるのかという思いが広まった。
僕は返還前の香港を見ておかないといけないという思いで、1993年、香港へ飛んだ。そして、軽い気持ちで、香港の隣の澳門(マカオ)に足をのばした。マカオも当時まだポルトガル領で、ここも1999年に中国に返還されることになっていた。マカオは小さな街なのだが、カジノで名が知られていた。
香港から船でマカオに着くと、僕はカジノがある葡京酒店(リスボア・ホテル)に宿をとり、カジノの扉の中に入っていった。(写真)
そこで、僕は思わぬことにカジノの深みにはまり、時間を忘れて浸り、瞬く間に燃え尽きて、ほうほうの態(てい)でマカオをあとにした。
そのことは、先にブログで、大王製紙前会長の井川意高の著書「熔ける」に関連して書いた。
*「悪魔のようなカジノの甘い快楽と陥穽を偲ぶ告白録「熔ける」」2014.9.1ブログ
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「波の音が消えるまで」(沢木耕太郎著、新潮社刊)は、このマカオのカジノを舞台にした小説である。
沢木耕太郎のマカオでカジノといえば、彼の旅行記「深夜特急」をすぐに思い浮かべるだろう。この本は、そのことを膨らませ小説化したものである。「深夜特急」では、大小という丁半賭博だが、本書ではバカラになっている。
バカラといえば、先に書いた大王製紙前会長の井川意高が嵌り、106億余円もの借入金をつくったカード博奕で、世間を賑わせた。
「波の音が消えるまで」の主人公は、返還最後の日である1997年6月30日に香港にやってくる。そして、マカオに向かい、リスボア・ホテルに泊まり、カジノに出向く。
僕がマカオで泊まったホテルで、出向いたカジノだ。
彼は、ギャンブルが好きだったわけではないのだが、バカラを後ろで見ていて、要領を覚えたら、自分も賭けてみる。
バカラは、ブラックジャックと同じカードゲームである。
バンカー(胴元)側とプレイヤー(客)側に2枚ずつカードが配られ、その合計数の下一桁が9に近い方が勝ちとなり、0が一番弱い数となるゲームである。絵札はすべて10でカウントする。
2枚ずつ配った時点で下一桁が8か9以外の場合は、双方の数によってもう1枚カードを配る場合がある。
主人公がバカラの深みに嵌っていき、バカラの本質を見極めようとするのが本書の主題である。
本書のなかには、カジノの戦略本として、賭け方の戦略が紹介されている。
そのなかで、マーチンゲール方式というのが紹介されている。
以前から、僕もこの方法だったら絶対勝つと思ったやり方だ。僕は、カジノでその方法を試みたが、すぐに破棄した。理論的には正しいのだが、実際やり始めたらやり通すのは難しい。
「まず1の単位を賭ける。負けたら2の単位を賭ける。それでも負けたら4の単位を賭ける。そのようにして倍々に賭けていくと、いつかは必ず勝って、すべての負けを取り戻すことができる」というものだ。
しかし、この本では、それはまったく愚かな戦略だという解説が紹介されている。
「まず第1に、すぐに巨大な賭け金になってしまうという点、第2に、その巨大なリスクを冒しても得られるものがわずか1単位の金に過ぎないという点に戦略としての不完全さがある」というのだ。
「もし100ドルから賭けを始めて10回続けて負けると、11回目は1024単位の10万2400ドルを賭けなくてはいけなくなっている。しかも、それほどのリスクを冒して勝負し、何とか勝ったとしても、それによって手に入るのは、それまでの負けを相殺すると、わずか1単位の100ドルに過ぎない」という理由である。
バカラも、大小と同じく、ほぼヒフティ・ヒフティの丁半博奕である。
本書では、登場人物に、博奕に関する箴言のような言葉をつぶやかせる。
「丁半博打は、すべてが偶然だ。出る目に法則などありはしない。だから、勘に任せて張るしかないとも言える。しかし、それではカジノに払うコミッションだけ失っていくことになる」
「強く信じたときだけ強く賭けることができる」
「重要なのは波だ」
「バカラの台が海だとすると、8組416枚のカードが海の水です。……しかし、それがどんなかたちの波になるのかは、砕け散ってしまわなければわからない」
そして、最後に、闇社会の帝王は言う。
「バカラの必勝法。そんなものはこの世にありません。カジノで勝とうするのは、ティンホー(天河、天の川)を泳いで渡ろうとするようなものです」
ギャンブル小説は、ギャンブラーが書いたものが真に迫っているのはいうまでもない。そして、実際に体験したことが胸に響くものだ。
そういう意味で、僕は沢木耕太郎の「深夜特急」のマカオの場面は彼の実体験に基づいているので大好きなのだが、小説化し、主人公がサーファーからカメラマンとなり、女性との愛も絡むとなると、ギャンブルの本質を追及するという主題が、物語として美しく人工的に組み込まれ過ぎたと感じた。
沢木耕太郎には、小説としてではなく、伝説のギャンブラーをドキュメントとして書いてほしい。
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博打打としても名高い阿佐田哲也(色川武大)の「麻雀放浪記」や、カジノ(カシノ)の常打ち賭人の森巣博の「越境者たち」などは体験的に心情に迫るものがある。