かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

日本発祥の地を求めて、横浜⑤ 坂東橋から山手公園

2023-04-18 03:48:52 | * 東京とその周辺の散策
 横浜には、日本発祥とする地やそれを残した記念碑が多い。
 2022(令和4)年春、山下公園から日本大通り、馬車道、桜木町と周って、横浜に残る日本発祥の地を散策した。
 それは、「日本発祥の地を求めて、横浜」の①~④に連載した。
 ・日本発祥の地を求めて、横浜➀「山下公園から日本大通りへ」(2022-05-28)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/cbbad74131a40782120cf42a1f57bc98
 ・日本発祥の地を求めて、横浜②「馬車道に残る近代日本の足跡」
 ・日本発祥の地を求めて、横浜③「「並木」の道に…」
 ・日本発祥の地を求めて、横浜④「「新聞」および「鉄道」の事始め」

 2022(令和4)年の年末、横浜中心地においてまだ周りきっていなかった、日本発祥の地を求めて、主に山手公園、元町公園、港の見える丘公園方面を歩いた。

 *「坂東橋」から中村川に沿って歩き、「山手公園」へ

 12月27日午後、JR新横浜駅より市営地下鉄ブルーラインで「伊勢佐木長者町」の次駅「坂東橋」下車。
 湘南の士の作成による案内図に基づき「坂東橋」13時30分スタート。
 なぜ坂東橋から出発したかというと、そこからほど近くの浦舟町にある横浜市立大学附属市民総合医療センター(市大センター病院)に記念碑があるからである。

 ⑮「シモンズ博士記念碑」(南区浦舟町、市大センター病院内)
 デュアン・B・シモンズは、幕末に来日したわが国近代医学の先達の一人。アメリカ・オランダ改革派教会が日本に派遣した宣教師兼医師として訪日。その後、宣教師を辞し医師として横浜で開業した。
 記念碑は、市大センター病院の1階を真っ直ぐ進んだ、弁当を売っているコーナーの右手にある。御影石仕様の立派な碑である。

 ここからは少し歩くことになるが、「山手公園」へ向かう。
 市大センター病院の横を流れる中村川に沿って高架の高速道路下の通りを、東の「石川町」の方に向かって進む。
 ほどなく三吉橋のところで、左手に「三吉演芸場」の看板が見える。こういるところに演芸場があるとは知らなかった。昭和の初めからある老舗の大衆演芸場のようだ。そこから奥に昔ながらの商店街が見える。「横浜橋通商店街」に通じる入口のようである。
 中村川に沿ってゆっくり通りを進むと、右手の中村町には「〇〇荘」といった昭和の面影を残すアパートが残っていて、ふと懐かしい風景が現れる。
 「車橋」の交差点を右(東南)に曲がって、横浜駅根岸道路を進む。
 しばらく進むと、紅いアーチの陸橋が見える。何の変哲もない普通の道路に架かっている橋なのに、普通ではない風景にしている美しい鉄橋である。その「打越橋」を越えて、山元町で左手にむかうと山手町である。
 JRの線路を上から陸橋で横切るとすぐに本牧通りを跨ぐ陸橋となる。そこの道は愛らしい「桜道」という名前の通りだが、桜の並木道といった風景ではない。
 そこを過ぎると左手のこんもりとした土手に、何やら碑が建ててある。

 *山手公園→妙香寺→ビヤザケ通り

 ⑯「近代下水道記念碑」(山手町・山手公園)
 碑には、上記のように書かれてある。横浜では、明治10年代から、外国人居留地のこの付近から下水管が整備され始めた。横浜市の下水管の総延長が1万㎞に達した事を記念して建てられた記念碑とある。
 この記念碑のある土手は、もう「山手公園」内のようだ。

 ⑰「日本初の洋式公園」(山手公園)
 公園の通りを歩いていると「日本初の洋式公園」の碑がある。(写真)
 山手公園は、1870(明治3)年に、横浜居留外国人によって造られた。
 公園建設のきっかけは、1862(文久2)年に発生した生麦事件である。薩摩藩の行列に出くわしたイギリス人が殺傷された事件で、これを機にイギリス・アメリカ・フランスの3か国が幕府に安全な公園の設置を要求して造られたものである。であるから、当時は外国人専用であった。
 ちなみに、神戸の東遊園地を日本最初の洋式公園とする説もある。

 ⑱「日本庭球発祥の地」(山手公園)
 この外国人専用の山手公園に、1878(明治11)年 に近くの居留地に住む婦人たちがテニスクラブを結成し、テニスコートを作った。
 この地は日本のテニス発祥の地とされている。
 すぐのところにテニスコートがあり、「横浜山手・テニス発祥記念館」もある。

 山手公園の南側のすぐ隣に日蓮宗「妙香寺」がある。この寺の境内にも碑があるのだ。
 ⑲「日本吹奏楽発祥の地」(妙香寺)
 碑文には、「明治2年(1869年)10月、薩摩藩の青年藩士 30余名が当妙香寺に合宿し、 英国陸軍第10連隊第1大隊所属軍楽隊の指導者、ジョン・ウイリアム・フェントン(John William Fenton)から吹奏楽を学んだ。これが日本人による 吹奏楽団創立の序であり、吹奏楽活動の緒となった」とある。
 そして、妙香寺にはもう一つ碑がある。

 ⑳「国家君が代発祥の地」(妙香寺)
 明治になり、日本は外交上の必要から国歌を作ることを決める。助言した当時英国歩兵隊の軍楽隊長だったジョン・ウイリアム・フェントンが作曲し、明治政府が歌詞を制定した。歌詞は、薩摩琵琶古曲の「蓬莱山」のなかから「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔の蒸すまで…」が選ばれた。
 1869(明治2)年、「君が代」の誕生である。翌1870(明治3)年、わが国最初の陸軍観兵式に際して明治天皇の前で演奏された。
 しかし、最初のフェルトンの曲は詞にメロディーが合わないとして、10年後に今日のメロディーに変更された。

 妙香寺を出て、ビヤザケ通りを進む。
 通りの名から思いつくように、かつて日本のビールの草分け的企業があったところである。
 ビヤザケ通りに「キリン園公園」という公園に出くわした。普通の子どもが遊ぶ公園だが、ちょっと目を見張るような仰々しい石碑が立っている。

 ㉑「麒麟麦酒開源記念碑」(中区千代崎町、キリン園公園)
 1870(明治3)年、米国人のウィリアム・コープランドにより山手の外国人居留地にビール醸造所「スプリング・バレー・ブルワリー」が設立された。日本で初めてビールの醸造・販売の始まりである。
 麒麟麦酒(キリンビール)は、この流れを汲んでいるのである。

 通りをさらに進んで北方小学校の近くの通りの脇に、策に囲まれた丸い井戸の跡の遺産がある。
 ・「ビール井戸」(北方小学校前)
 井戸跡の横に、説明文があるので以下に記しておく。
 「この地に日本で最初のビール工場が建設されました。いま校庭になっているところには清水のわき出る池があって、キリンビールは1888年からここでつくられていました。
 そのころは横浜市の水道がまだここまで引かれていなかったので、 井戸水を使ってビールがつくられていました。この井戸は1895年から1901年までビールづくりに使われたものです。」

 「ビール井戸」を後にして、次は「元町公園」へ向かうことにした。
 すぐ近い。

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