かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

北帰行④ 山形

2007-10-30 21:01:52 | * 東北への旅
 日本は、山に覆われた国である。
 であるから、昔から人々は山に対してある特別な思いを抱いてきた。身近にある小さな山から、遠くに聳える高い山まで、各地での山に対する思いは現在より遥かに深く人々の精神に根付いたものだった。
 それらの思いは、生活の糧をもたらす親しみの感であったり、遠いところ、高いところ、奇形なものなどに対する畏敬の念であったりした。やがて、それらの思いは信仰に昇華し、各地で山の神として祭られ、拝められてきた。
 地名にしても、日本には山にまつわるところが多い。山形もその典型である。
 そもそも、古代の日本を表わす呼称は「大和」(やまと)である。これは、「山門」から由来し、山に神が宿る自然信仰、山岳信仰から来たという解釈もあるほどだ。

 10月21日、山形・天童温泉より山寺に向かった。
 山寺は宝珠山立石寺の通称で、岩山に建てられた修行場の霊山である。芭蕉が、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」と謳って有名なところだ。
 JR山寺の駅前から川を隔てて前面を見上げると、こんもりとした山が見える。山の間のあちこちに岩がむき出しになっていて、そこに堂が建っていたり、石の階段が斜めに走っていたりして、山寺の全貌が見える。山はさほど高くはないが、奥の院まではかなりの急な傾斜だということがわかる。
 登山口まで来ると、子どもから杖をついたお年寄りまで、ここへ来たすべての人が石段を登り始める。なかには、赤ん坊を抱いた人までいる。山寺に来たからには、その頂まで登らないと気が済まないと言う人が殆どであろう。
 登り始めると、年のせいかやはりきつい。途中に幾つもの山堂、休憩所、展望台などがあるので、休めるようになっているのが有り難い。
 全階段、千余段。昔は、この山寺の比ではない香川・金刀比羅宮の階段を難なく登ったのにと、悔しい溜息をついた。
 奥の院、それより横に広がる五大堂からは、ふもとの里や遠くの山々が見渡せる。

 山寺をあとに、山形市内に行った。
 山形市は、JR山形駅の東側に主な公共施設や建物が集中している。山形城跡の霞城公園を見たあと、文翔館へ。
 市役所の前の道に沿って、瀟洒な建物が二つ並んでいる。
 大正5年に建てられた、旧山形市県庁舎の白いレンガ造りと県会議事堂の赤いレンガ造りで、修復作業を終え、今なお郷土館として市民に様々に活用されている。
 対のように並んで建っている、イギリス・ルネサンス様式の瀟洒な建物のこの空間は、広い庭を持っていて、特別の雰囲気が漂っている。
 この日、洋風と和風の2組の結婚式が行われていた。

 昼食は、山形牛(ステーキ)を食べてみた。目の前で肉を焼いてくれたシェフに有名な米沢牛との違いを訊いて、黒毛和牛の等級の違いであると知った。5階級あり、米沢牛は上位A4、5を言い、山形牛はA3~1とのことであった。
 牛も人間も、階級や偏差値で分類される時代になっている。

 夕方、山形新幹線「つばさ」で帰京。
 新幹線といっても、座席は左右各2席で、在来線と同じ車幅である。
 山形から米沢を経て、福島にいたるところは、かつてスイッチバックで列車を登らせた傾斜の強いところである。途中在来線の駅があるが、周囲は森林で人が住んでいるのだろうかと思わせる山間を列車は走る。
 福島を通ると右手(西側)に安達太良高原、さらに進んでいくと那須高原の山々が、空になだらかな稜線を描く。夕日がうっすらと赤く雲を染めた。
 宇都宮に着いた頃は、すっかり日が落ちていた。列車は、その先から一旦地下に潜り、上野の先の西日暮里あたりで再び地上に現れ東京駅に滑り込む。
 北帰行の旅は終わった。
 山形から2時間50分で東京着。北の旅も短くなったものである。
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北帰行③ 岩手・遠野

2007-10-27 18:37:16 | * 東北への旅
 今のようにメディアが発達していない時代、言葉や情報は、文化の中心地から周辺へ円を描くように広がっていった。それは、石を水に投げると水輪が円を描いて次第に遠く広がるようなものであった。近代以前の交通機関がない時代は、それは地を這うようにしか進まなかった。
 だから、古い言葉である方言は、都(京都もしくは江戸)から離れた北と南に多く残っている。
 これは、民俗学者の柳田国男の論である。
 これと同じく、古い民話は都から遠く離れたところに残存していたのだ。岩手の山間の村、遠野がそうだったように。

 10月20日、岩手・花巻の大沢温泉から遠野に向かった。
 言うまでもなく柳田国男が採集記録して有名になった民話の里である。
 花巻から日本海・陸中海岸の釜石に向かう鉄道釜石線に沿って道は延びている。なだらかな山間を道は進む。遠野近くになると、進む前方にも山がある。振り返れば、四方が山だ。伸びやかだけれども、山に囲まれると少し閉塞感がある。山の向こうも山なのだ。
 鉄道が走る以前は、陸の孤島だったのだろう。だからここでは、消えずに語り伝えの民話が残ったのだ。

 途中、この地の特色である南部曲り屋を今なお伝えるという千葉家に寄った。鍵型に曲がった造りが特徴の茅葺きの民家である。
 それは道の脇の高段に、石垣を設えて敢然と聳えていた。平屋なのに、下の道路から見上げるとまるで中世以前の城(砦)のようである。
 しかし上に登ってみると、大きな造りであるが、厩や農具入れの小屋もある普通の農家であった。かつてのこの地の豪農の家で、約二百年近く前に建てられ、それにまだ現役の住居であった。
 裏庭には、奥から水を引いてきた、石で造られた今で言う洗面所や洗濯場がある。

 千葉家の案内所(窓口)の女の子の勧めで、「遠野ふるさと村」に行った。
 曲り屋をはじめ、この地の古い民家を集めた公園である。朝ドラ「どんと晴れ」のロケ地になったということで人気らしい。テレビの力は大きい。
 古い民家の土間の真ん中に、大きな土釜があり湯気を立てている。風呂だろうかと思ったが人が入るには少し窮屈だし、場所が場所である。聞いてみると、ここで水を沸かして、飲み水や洗い水など様々な用途に使ったという。

 「遠野ふるさと村」から町の中心部に行く途中に「カッパ渕」があった。カッパがよく出没したところらしい。こんな寂しい川にカッパは出たのであろう。
 どの地方にもこんな川があるし、こんな話は伝わっているが、今は川もコンクリートできれいになり、カッパや妖怪の話も消えつつあるのだろう。

 町の中心部にある「遠野博物館」に行った。ここでは、柳田国男の「遠野物語」に関する資料が展示してある。また、スライドで絵を見せながら、遠野の民話の語りをやっている。
 そこで、この地の民話を何話か聞いたが、「おしらさま」の話は少し衝撃的だった。それが蚕のことだとは知っていたが、その物語の内容については知らなかったのだ。

 簡単に「おしらさま」の粗筋を記すと、次のようである。
 この地に可愛い娘がいた。その娘は飼っている馬が大好きで、親(父)が勧める縁談に耳も貸さずにいつも馬と一緒にいた。そして、ついに馬と一緒に寝るようになった。心配した親がそこを覗いてみると、娘と馬は抱き合っていた(夫婦になった)。
 驚いた親は、次の日娘がいないとき馬を連れ出し桑の木に吊して殺してしまった。馬を探した娘は死んでいるのを見つけると、馬と一緒に天に昇っていった。
 そしてしばらくたった日、娘は親に白い虫を授け、桑の葉を与えるように告げた。養蚕の初めである。
 「おしらさま」の話は、馬と娘の人獣愛の話であった。一緒に寝ているところは、娘と馬は夫婦になったと語られている。つまり、異類婚姻譚である。
 子どもは、この話をどんな思いで聞いているのだろう。

 異類婚の話は、他にも全国にいくつかある。
 その中でも、中国の「白蛇伝」は有名である。上田秋成は「雨月物語」で「蛇性の婬」として物語化した。
 しかし、総じて動物が女性に姿を変えて、人間(男)と関係を結ぶ話である。
 それは動物とは限らず妖怪である場合もある。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の再録した「怪談」の「雪女」はその例であろう。
 ところが、この「おしらさま」のように、そのままの姿(動物)で性愛する、つまり夫婦になるというのは珍しいのではなかろうか。
 有名な浦島太郎の話は、浮かれた相手は竜宮城の乙姫様である。しかし本当は、つまり元の話では、相手は亀であり、明治以降子どもの話にするため倫理上、今の話に作り替えたという。

 「おしらさま」が、変形することなく馬と娘の関係として残ったのは、「浦島太郎」の話のように地方から環流して再び町に戻ることなく、つまり全国区になることなく、地方に埋もれていたからであろう。
 しかし、疑問はまだ残る。
 なぜ桑の木に馬を吊したのか。桑の木はそう大きくなく枝はしなり、馬を吊すほど強くない。
 となると、まず馬と娘の愛の話があり、それをその地方の特産であった蚕の話に結びつけるための苦肉の策ではなかったのかと思うのである。
 「鶴の恩返し」のように、悲劇に終わらせた代わりに、何か見返りの話が必要であった。米以外の価値のあるものと言えば、当時は布、それも絹であったのだろう。それ故、蚕が食する桑の木にせざるをえなかったのではなかろうか。
 
 夕方、遠野から山形へ向かった。雨の予報であったが、雲はあるものの幸運にも雨は降らなかった。(写真)
 夜は将棋の駒で有名な山形・天童温泉泊。
 天童は、山形市の北にあるこぢんまりとまとまった街だ。天童温泉街と言っても鄙びた感じはなく、街の一角に旅館やホテルが集まっているのである。ここの利点と言えば、山形市にも山寺に行くにも、近くて便利だということだろう。
 「栄屋ホテル」では、高層階に露天風呂があり、ここから天童の街が一望できる。
 夜食時は、ホテルのダイニング処で、やはり杯を傾けることに。メニューの献立に、予想していなかったのに、牛(山形牛)のしゃぶしゃぶが出た。
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北帰行② 岩手・平泉

2007-10-25 18:16:48 | * 東北への旅
 北へ。
 北へ帰るのは渡り鳥だけだろうか。
 なぜか北へ向かうと、身も心も引き締まるような気がする。特に、これから寒さが厳しくなる秋の季節となるとなおさらである。さらに冬の北国となると、辛くじっと堪える印象となる。
 逆に南に向かうと、身も心も弛緩するような気がする。南に行くと、抱えている様々な問題も何とかなるという気持ちにすらなる。それは、問題を解決するというのではなく、おそらく放置すると言った方がいいかもしれない。
 自戒し、何か決断を要するときは、北へ行くがいい。
 悩み行き詰まったら、南に行くがいい。

 10月19日、宮城・川渡(かわたび)温泉から北に向かい、岩手・平泉の東にある猊鼻渓(げいびけい)を目指した。
 つい最近、朝日新聞の「川下りベスト10」に入っていたのが強く残っていたので、川下りをやってみることにしたのだ。

 道の途中、リンゴが実をつけていたのを見つけた。
 リンゴが木になっているのを初めて見たのは、大学1年の時だった。その年の冬、同級生の長野の実家に行った時、雪の積もった土の上に鈴なりになった赤いリンゴを見て感動した。それまでは、リンゴと言えば八百屋で並んでいるのを見るのみだったからだ。

 猊鼻渓に着くと、船が留っていて、法被を着た船頭が船の上で客が乗るのを眺めながら立っていた。船は、順次客を乗せては出発した。1艘に30人近くも乗せる満杯の盛況だ。
 これがイタリア・ヴェネチアなら、流線型のゴンドラで、ボーダー柄のティーシャツにテンガロンハットを被った粋なお兄ちゃんが、首に巻いたネッカチーフをなびかせているところだ。そして、観光客を見ては「どうだい、ゴンドラに乗らないかい」とウインクでもしてくるだろう。 
 北上川の流れは緩やかで、川上に向かって船は動き出した。すぐに、大きな岩が近づいてきた。ここは川を囲む岩壁が売り物である。
 しかし、下北半島の仏ヶ浦や宮崎の高千穂峡の屹立した岩の景観には及ばない。
 船の着いたところで、客はいったん船を下りて歩くことになる。歩いた先に何があるかというと、そこに、岩壁の中程に丸く突起した岩を見ることになる。それが、「獅子の鼻」というもので、この猊鼻渓の謂われの岩だと説明書きがある。言われてみれば、の岩である。
 帰りは、船頭の舟歌を聴かされた。前の船からも歌が遠くこだまする。悪くはない。
 こうして、90分の川下りは終わる。

 猊鼻渓から平泉の中尊寺は、すぐの距離である。
 中尊寺は、緑のなかに長い参道があり、その途中に幾つもの堂や屋敷があった。鎌倉の鶴岡八幡宮をもっと古式にした感じである。この陸奥(みちのく)では、周りの環境も鎌倉より変造されることなく、より原型に近く残ったのだろう。
 中尊寺は、ゆったりとした空気が流れていた。何と言ってもここの見ものは、金色堂である。建物は、金色の堂をさらに頑強な堂で覆うという二重構造になっている。(写真)
 12世紀のこの時代、都より遠く離れた辺鄙な地に、突然このような壮麗な文化が栄えたというのは興味深いことである。しかし、藤原4代であっけなく消滅している。その後、この地が栄えることはなかった。
 金の産出がこの地に繁栄をもたらし、金の枯渇が繁栄を終焉に導いたのは疑いない。
 
 以前から、なぜ藤原氏がこの地にいたのかと疑問に思っていた。元はこの地の豪族の安倍氏の系列が、当時ブランド名であった藤原名を清衡が名乗ったのが真相のようである。
 源頼義(河内源氏2代目)によると、安倍氏は、もともとは朝廷に従った蝦夷(えみし)の俘囚長とある。つまり、源氏や平氏と同じく、荘園を土台にした揺籃期の武士である。
 さらに興味深いのは、磐井・気仙郡を中心にした豪族に、金(こん)氏の名を見つけることができる。この金氏も、安倍氏の系列であり、古代朝鮮半島の新羅の同族ではなく、この地で産出された金に関しての名であろう。

 高舘義経堂からは、北上川から流れる衣川の河川が見渡せる。ここは、武士の台頭期の前九年、後三年の役の戦場の舞台跡だ。
 芭蕉は、ここで、「夏草や 兵(つわもの)共が 夢の跡」と謳った。

 中尊寺の近くにある毛越(もうつう)寺は、歴史は中尊寺より古い。
 広い寺の構内には、中央に広い池が設えてあり中島もある。この寺も、藤原氏の繁栄と共に栄え、平安時代には貴族の遊技も行われたという。
 盛者必衰の理(ことわり)が頭をよぎる。

 夜は、花巻の北にある大沢温泉に行った。
 新しい山水閣の奥に自炊部があり、その奥の川を隔てたところに建つ古い菊水館に泊まった。こちらが料金も安いし、いかにも温泉旅館らしい。
 各館をあわせると5つの風呂があり、その中に川に接して露天の混浴風呂もある。経営が同じなので、どの風呂にも入れるのがいい。
 スリッパを履いて、各館の風呂を求めて渡り廊下を歩いていると、まるで迷路のようだ。

 秋の温泉は、北がいい。
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北帰行① 宮城

2007-10-24 16:13:54 | * 東北への旅
 九州で育ったせいか、若い頃は国内の旅というと北へ向かった。
 「北帰行」という言葉が、甘酸っぱく響いた。
 
 窓は夜露に濡れて、都すでに遠のく…

 その頃は、一人夜行列車に乗ってとりあえず北に向かった。そして、行き着くところは概ね青森であったりした。
 青森に来たからとてどこへ行きたいという当てがあったわけでないから、ただ北へ向かうことになる。となると、東北本線の野辺地からさらに在来線で北の下北へ行くことになる。下北半島に来ると、何となく本州の最北に来たという気がして、ほろ苦い旅心に浸れたのだった。
 下北半島に何があるかといえば、恐山しか見あたらない。だから、バスに乗って恐山に行って、その後は船で斧のような下北半島を周回しながら、下風呂温泉あたりで下りるといった旅だった。

 久しぶりに友人と東北に旅行した。
 岩手県平泉の中尊寺に行っていなかったので、そこに行くのが目的で、あとは温泉にはいることにした。中尊寺も世界遺産に申請されているので、そうなる前に行っておこうと以前から思っていたのだ。
 東京からの行き帰りは新幹線で、途中の移動はレンタカーとした。
 
 10月18日、朝、東北新幹線「はやて」にて東京駅を発った。大宮からノンストップで、昼前に仙台に着いた。東京から1時間40分である。
 そこで、高校時代の友人と落ちあって仙台の街を歩いた。
 久しぶりの仙台の街は、一極集中の百万政令都市であるが、思いのほか落ち着いた街だった。東京のような喧噪さはないし、福岡のような熱気はないものの、しっとりとした空気が流れていた。
 青葉城趾に登ったら、仙台を舞台にした井上ひさしの青春小説「青葉繁れる」を思い出した。井上ひさしは仙台一高で学んでいて、主人公の高校生は著者本人であり、憧れのマドンナの女子高生は若尾文子(女優)だと言われている。

 夜は、古川から新庄に向かった途中の、東鳴子にある川渡(かわたび)温泉へ。
 宿の「みやま」は田園の中にあり、長期湯治客も滞在する静かな佇まいの温泉で、母屋そして本館の隣に新館が並んでいた。
 新館は、木を活かしたモダンな和式建築で、周りの緑と絶妙なハーモニーを創り出していた。一方、茅葺きの母屋は、時の流れを留まらせたような風情があった。(写真)

 友人の案内で、宿の近くに住んでおられる漆の名職人である小野寺さんの家で、作品を見せてもらう。
 箸、椀、盆、箱などの日用的な作品は、シンプルななかに新鮮さがあった。目的にあわせた材質(木)、ガーネットに茜をさしたような濃赤色が重厚さを加味している。僕の手元に、友人より旅の記念にプレゼントされた一膳の箸が残った。

 雨という予想に反して、幸いにもその夜は半月が木々の向こうに輝いていた。
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◇ 赤い風車

2007-10-18 00:55:54 | 映画:外国映画
 ジョン・ヒューストン脚本、監督 ホセ・ファーラー コレット・マルシャン シュザンヌ・フロン 1952年米=英

 19世紀末のパリ。モンマルトルの丘の途中にあるキャバレー、ムーラン・ルージュは、毎晩舞台では踊り子がフレンチ・カンカンを踊り、酔客で賑わっていた。
 その中に、ロートレックの姿があった。
 彼は小柄で、と言うのも足が悪くて杖をついているのですぐに彼だと分かるのだった。きちんとした身なりで、丁寧な言葉を使う彼は、貴族の血をひく紳士であった。それにもまして、彼は絵描きであった。
 ロートレックは毎夜店に出入りしているうちに、踊り子と仲良くなる。そして、踊り子をモデルにした絵を多く描いた。そのポスターは、当時評判になったが、今でも斬新だ。

 映画は、有名な画家ロートレックの愛の物語である。自分の容姿から来る精神的屈折から、愛を放してしまう姿が痛々しい。愛した女性が去ったあと、彼はアルコールに溺れていく。
 
 ロートレックは、(自分の)愛についてこう言う。
 「精神の願望と性欲の混合に過ぎない」
 そして、女の愛については、
 「銀行と同じ。最も高い利息が付くところで(愛を)売る」

 もちろん、この言葉は本心ではない。そう言うことによって、自分を必死に保っているのだ。しかし、男というもの、女に本気で惚れてしまえば強がりもなくなり、身も心も崩してしまいかねない。いや、崩してしまうのだ。

 ロートレックは、ミロのヴィーナスを見て言う。
 「偉大な芸術は単純じゃない。人生だって、人の心だって単純なはずがない」
 マリーを愛していたのね、と言われて、
 「幸福を垣間見た分だけ罪な話です」と、自嘲的に答える。

 愛を失い、ロートレックは自滅の道を進む。それでも、ロートレックは後世に絵が残った。
 パリのモンマルトルの坂を歩いていくと、途中に赤い風車の建物が目につく。それを見て、今でもすぐにロートレックを思い浮かべる人は多いだろう。
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