かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

青春歌謡、御三家の時代② 青春歌謡を走り抜けた歌手たち

2022-08-16 02:36:32 | 歌/音楽
 1960(昭和35)年、「潮来笠」橋幸夫、1963(昭和38)年、「高校三年生」舟木一夫、1964(昭和39)年、「君だけを」西郷輝彦、デビュー。
 橋幸夫が青春歌謡の先頭を走り、舟木一夫が学園ソングで新しい大河を作り、西郷輝彦の合流によって新しい広がりを見せた青春歌謡は、「御三家」という代名詞のなかで大きく花開いたのだった。

 *御三家、誕生の背景となった三田明、梶光夫、安達明、久保浩…

 舟木一夫の学園ソングのブームのなか、舟木に続く青春歌手が雨後の筍のように生まれた。その第一人者は、その年の1963年11月に「美しい十代」(作詞:宮川哲夫、作曲:吉田正)でビクターからデビューした「三田明」だった。
 甘いルックスで、男性アイドル歌手の先駆けといえよう。
 三田は、翌1964年には、橋幸夫とのデュエットによる「いつでも夢を」でレコード大賞を受賞した、吉永さゆりとのデュエット曲「若い二人の心斎橋」(作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正)を、1965年には「明日は咲こう花咲こう」(作詞:西沢爽、作曲:吉田正)を出し、ヒットさせている。
 吉永は三田より年上であるが、橋に続いて三田を、当時、映画や歌で青春女優のトップを走っていた吉永小百合と組ませたあたりに、ビクターの力の入れ方がわかる。

 数多く誕生した青春歌手のなかで、この他に時代を彩った歌手をあげると、
 1963年12月「黒髪」でデビューし、翌1964年「青春の城下町」(作詞:西沢爽、作曲:遠藤実)がヒットした「梶光夫」。
 同年「潮風を待つ少女」(作詞:松田ルミ、補詞:吉岡治、作曲:遠藤実)でデビューした「安達明」。青春歌謡に残る「女学生」(作詞:北村公一、作曲:越部信義)では学生服姿で歌った。
 そして、「霧の中の少女」(作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正)の甘いヴォイスの「久保浩」、をあげることができる。

 その他、「叶修二」、「川地英夫」、「望月浩」、「有田弘二」、「太田博之」とルックス先行のアイドル歌手路線が続いたが、大ヒットとはいかなかった。
 そうした青春の甘い歌の流れのなかで、それに逆らうかのように、子役から活動していた目方誠が「美樹克彦」として、「俺の涙は俺がふく」(作詞:星野哲郎、作曲:北原じゅん)で個性派歌手として再デビューしたのは特筆に値するだろう。
 「新聞少年」(作詞:八反ふじお、作曲:島津伸男)の「山田太郎」も、このジャンルに入れていいかもしれない。

 ※青春歌謡も落ち着きだしたころ、当時珍しい大学生の歌手が記憶に残った。
 1965年、大島渚の映画「悦楽」の主題歌「悦楽のブルース」(作詞:吉岡治、作曲:船村徹、コロムビア)でデビューした、法政大生、島和彦。この歌の歌詞は何てことはないのだけど大島映画だということか、放送禁止になった。しかし翌年、「雨の夜あなたは帰る」がヒットし紅白にも出場した。
 もう一人は、「京都の夜」(作詞:和田圭、作曲:中島安敏、ポリドール)を歌った、日本大生、愛田健二。
 二人とも、すでに青春歌謡を卒業した大人の歌を歌っていた。

 学園ソングを織り交ぜた青春歌謡が花開いたそのなかで、ポップ調のリズム感を持った青春歌謡で躍り出たのが、先にあげた1964年2月に「君だけを」(作詞:水島哲、作曲:北原じゅん)でデビューした西郷輝彦であった。
 そして、彼の登場によって、「御三家」が誕生した。(「青春歌謡、御三家の時代①」参照)

 *
 この青春歌謡のブームを受けて、御三家が生まれたエピソードがいろいろ語られてきた。そのなかの説をあげてみる。
 当初、御三家には、橋幸夫、舟木一夫、三田明があげられていた。ところがレコード会社は、舟木がコロムビアだが、橋、三田はビクターである。これではレコード会社のバランスがとれないというので、新興のクラウンの西郷輝彦となったという説である。
 また、当時、歌の内容と流れから、舟木一夫、三田明、西郷輝彦と3人並べると、青春歌謡の顔としてぴたりと当てはまるという空気があった。3人の年齢差も近いし、レコード会社も分かれている。しかし、ビクターとしては、当時エース格だった橋幸夫を外すわけにはいかなかったという説である。
 業界内の思惑がいろいろあったのだろう。

 *吉永小百合に続く…女性青春歌手、本間千代子、高石かつ枝、高田美和…

 この時期、女性も青春歌謡に参入した。
 先にあげた日活の女優であった「吉永小百合」は、1962(昭和37)年、高校生の時に主演した映画「キューポラのある街」(監督:浦山桐郎)で、人気・実力ともに同時代のトップスターとなった。
 同年4月、映画「赤い蕾と白い花」の主題歌「寒い朝」(作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正)でビクターから歌手デビュー。これは、石坂洋次郎の小説の原作が歌と同じ「寒い朝」で、日活の映画のタイトルが「赤い蕾と白い花」である。
 「北風吹きぬく寒い朝も、心ひとつで暖かくなる……」
 この吉永小百合の「寒い朝」が、女性の青春歌謡の先駆けだと思う。
 そもそも、日活には石原裕次郎や小林旭など、「歌う映画スター」と呼ばれる俳優が活躍していたように、吉永小百合がレコードを出す土壌は整っていたのである。
 その後、吉永は橋幸夫とのデュエット曲「いつでも夢を」「若い東京の屋根の下」や「泥だらけの純情」「光る海」などヒットを重ねた。

 同じ日活の若手女優だった「松原智恵子」も、ヒットには至らなかったがレコードを出したし、「和泉雅子」は山内賢とのデュエットで、ベンチャーズの曲「二人の銀座」をヒットさせた。

 「本間千代子」は、舟木一夫との共演「君たちがいて僕がいた」や西郷輝彦との共演「十七才のこの胸に」の青春歌謡映画に出ているように、東映の人気の清純女優だった。
 青春歌謡でも、1963年、「若草の丘」(作詞:北里有紀生、作曲:米山正夫)でコロムビアからデビュー。その後、「純愛の白い砂」(作詞作曲:米山正夫)や、映画「君たちがいて僕がいた」の挿入歌「愛しあうには早すぎて」(作詞:丘灯至夫、作曲:山路進一).など、傑作を多く出している。
 清純さと愛嬌のある顔の本間千代子は、当時やくざ映画に力を入れていた東映ではなくて日活だったら、もっと輝いていたに違いない。

 「高石かつ枝」は、1962(昭和37)年、松竹「愛染かつら」の再映画化に際して、ヒロイン名「高石かつ枝」の歌手募集に合格し、同映画の主題歌「旅の夜風」(作詞:西條八十、作曲:万城目正)でコロムビアからデビュー(のちにクラウンに移籍)。
 1963年、彼女が歌った、映画「林檎の花咲く町」(監督:岩内克己、東宝)の主題曲「林檎の花咲く町」(作詞:西條八十、作曲:上原げんと)は、名曲である。

 「高田美和」は、往年の時代劇スター高田浩吉の娘で、姿美千子とともに大映の清純派スターであった。
 時代劇の娘役のほか、「高校三年生」(監督:井上芳夫、大映)などの青春映画にも出演し、1964年、石坂洋次郎原作の「十七才は一度だけ」(監督:井上芳夫)に主演する。彼女がコロムビアから出した、この映画の主題曲「十七才は一度だけ」(作詞:川井ちどり、作曲:遠藤実)は、青春歌謡の代表曲となった。
 ほかに、「アロンスイー雨の街」(作詞:木村葉子、作曲:宮川泰)や梶光夫とのデュエット「わが愛を星に祈りて」(作詞:岩谷時子、作曲:土田啓四郎)などのヒット曲がある。
 のちに日活ロマンポルノ「軽井沢夫人」(監督:小沼勝)に出演して話題となった。

 *青春歌謡の先駆け、松島アキラ……

 青春歌謡は、いつから、どの曲から始まったというのはない。
 御三家生成のなかであえて言えば、核となった1963年、舟木一夫の「高校三年生」の学園ソングから遡って、1962年、橋幸夫の「江梨子」からではなかろうか、と先に書いた。
 橋幸夫がデビューした1960年頃、大きな歌謡曲の流れのなかにも青春歌謡の兆しはあった。
 リバイバルを歌った「無情の雨」の佐川満男、「雨に咲く花」の井上ひろしなどは、その雰囲気を持っていた。
 井上ひろしは、その後ロシア民謡の「山のロザリア」がヒットした。この曲は女性3人組コーラス・グループのスリー・グレイセスも歌ったし、当時歌声喫茶でもよく歌われた。
 佐川満男は、その後忘れられた頃の1968年に、髭面で歌った「今は幸せかい」(作詞・作曲:中村泰士 )をヒットさせた。

 そして、1961(昭和36)年9月、「松島アキラ」が「湖愁」(作詞:宮川哲夫、作曲:渡久地政信)でビクターからデビューする。橋の「江梨子」発売の前年である。松島アキラ、17歳。
 「悲しい恋のなきがらは、そっと流そう泣かないで……」で始まるこの歌は、自分の心を顧みる失恋の心情が、内省的な絵画のように歌われている。
 この歌が流れた当時、私は恋を知り始めた年頃の中学3年生で、今までにない自分に近い歌謡曲だと感じたものだった。つまり、思春期の観念的な恋心に響いたのだった。

 この歌とほゞ同時期に発売された、仲宗根美樹の「川は流れる」(作詞:横井弘、作曲:桜田誠一)に通じるものがある。「川は流れる」も失恋の歌で、印象派の絵画を思わせる。
 「病葉を、今日も浮かべて、街の谷、川は流れる、ささやかな、望み破れて……」
 出だしの「病葉」を「わくらば」と歌わせるところに、この歌の妙がある。これが「枯葉」か「落葉」だったら、歌の持つ味わいは薄れていただろう。
 そして、この「川は流れる」は、翌年発売の吉永小百合の「寒い朝」より早い時期であったのをみると、女性の青春歌謡の先駆けといえるかもしれない。

 翌1962年、「湖愁」は映画化もされている。「湖愁」(監督:田畠恒男、出演:瑳峨三智子、鰐淵晴子、松島アキラ、松竹)。記憶にないところをみると、青春映画が得意ではない松竹だったからか。あるいは、佐賀の田舎の映画館には配給されなかったのかもしれない。
 「湖愁」のあとの松島のヒット曲、「あゝ青春に花よ咲け」(作詞:宮川哲夫、作曲:渡久地政信)は、まさに青春を真っ向から歌ったものである。
 松島アキラは、デビューするやすぐさまアイドル的人気になって、その当時ペットとして人気の高かった白い犬の「スピッツ」の愛称で親しまれた。

 この松島アキラの登場によって、同じビクターの橋幸夫および橋の作詞・作曲を担っていた佐伯孝夫、吉田正が青春歌謡を意識し、「江梨子」の誕生に繋がったのではと、勝手に深読みするのである。

 *忘れないさ、北原謙二

 当時、もう一人青春歌謡の匂いがする歌手がいた。
 1961年デビューした北原謙二で、「忘れないさ」(作詞:三浦康照、作曲:山路進一)を歌っていた。鼻に抜けた高い声が、清々しい印象を与えた。
 1962年5月、北原が歌った「若いふたり」(作詞:杉本夜詩美、作曲:遠藤実)は、もう青春歌謡の王道である。
 「君には君の夢があり、僕には僕の夢がある、ふたりの夢をよせあえば、そよ風甘い春の丘……」
 北原の「若い二人」は、橋幸夫の「江梨子」、吉永小百合の「寒い朝」と、ほぼ同時期に流れていた。私の高校1年生から2年生になった頃だった。
 それから約1年後、舟木一夫の「高校三年生」が登場したのだった。
 北原謙二はその後、「初恋は美しくまた悲し」(作詞:三浦康照、作曲:市川昭介)や「ふるさとのはなしをしよう」(作詞:伊野上のぼる、作曲:キダ・タロー)などの、清々しい曲を出している。
 北原謙二も、忘れはしないさ。

 *

 このように、1960年代、青春歌謡は花開いていった。
 こうして振り返ってみれば、当時は作曲家はレコード会社と専属契約であった。そのことからも、御三家である、ビクターの橋幸夫は吉田正門下、コロムビアの舟木一夫は遠藤実門下、クラウンの西郷輝彦は北原じゅん門下であった。
 このことからも、青春歌謡は吉田正、遠藤実、北原じゅん、それに米山正夫などが牽引していったことがわかる。
 そして、次の来たる歌謡曲の黄金時代を担う、すぎやまこういち、筒美京平、鈴木邦彦、川口真、都倉俊一などへと繋がっていくのであった。

 (写真は、松島アキラ、デビュー盤「湖愁」、吉永小百合、デビュー盤「寒い朝」)
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青春歌謡、御三家の時代① 西郷輝彦、星空に消ゆ…

2022-08-11 03:04:22 | 歌/音楽
 *1964年の出来事

 1964(昭和39)年という年は、格別な年であった。
 戦後、高度の経済成長を成し続けていた日本は、この年開催される東洋初の東京でのオリンピックをバネにした経済成長のピークを迎えていた。
 東京オリンピックは成功裏に終え、それにあわせて稼働させた東海道新幹線、首都高速道路は、その後の社会の加速度化の原動力として不可欠の手段となる。
 米ソの冷戦が続く世界の状勢では、ベトナム戦争の端緒が切って落とされた。
 欧米で人気となっていたビートルズの、初めての日本版のレコードが発売された。
 日本の歌謡界では、橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦の御三家を中心とした青春歌謡が最盛期を迎えていた。

 *
 1964(昭和39)年4月、私は大学入学のため九州・佐賀から上京した。
 まずは部屋を探すことになるが、まかない(夕食)付きの下宿と決めて、大学の紹介で探した。当時は(今は知らないが)、学校でアパート・下宿、アルバイトなどを紹介していた。
 食事つきの下宿にしようと思ったのは、高校時代の日活映画の「赤い蕾と白い花」「泥だらけの純情」「青い山脈」など、石坂洋次郎の原作に負う影響である(「泥だらけの純情」は藤原審爾原作)。
 そこは、下宿を営む普通の家庭で、料理をまかなう家の女将(奥)さんは適当にさばけていて、その主人(亭主)は無口だが人のいいサラリーマンで、その家には年頃の娘(大学生か高校上学年生)がいる。その下宿屋の家族との屈託のない団らん、その家の年頃の娘との喧嘩を交えた淡い交流……。
 「そんな考えは不潔だと思うわ…」と、吉永小百合か和泉雅子風の娘は言う。「そうかなあ…」と、私はうつむきがてらに反論するようにつぶやく。
 私の妄想は果てしない。

 大学の紹介で、豊島園駅(高田馬場から西武線)近くの、まかない付き下宿を決めた。部屋は、当時の学生の平均的部屋住まいである4畳半一間である。
 そこは、2階建ての普通の新しい家で、1階に大家さん一家が住んでいて、2階に私を含め4部屋に、大学生(1人社会人)が下宿していた。
 大家の家族には、私の思った通り一人、娘がいた。それも、1学年下となる高校3年生であった。
 しかし、階下におかれた食膳を自分の部屋に持っていき一人で食べるシステムで、当然のことだが一家団らんを知ることもなく、大家のおばさんは楠侑子か渡辺美佐子風ではなく、箒に跨れば魔女みたいな雰囲気の、不愛想な人だった。娘もその影響か、細面の美人顔ではあったが愛嬌がなく、話すこともなかった。言っておくが、彼女が話さなかったのは私とだけではなく、下宿している誰とでもであった。

 お互いの顔も覚えたまだ春の頃、外で彼女と偶然出会い、一度声を交わしたことがある。
 そのとき、彼女が「西郷輝彦が好きです」と言ったのを今でも覚えている。好きな歌手は誰ですか?とでも訊いたのだろうか。
 私はそのとき初めてその名前を聞いたのだが、またたく間にデビュー間もない西郷輝彦の名前と「君だけを」の歌が、ラジオからテレビからと流れるようになった。若い弾むような声に、ちょっぴり哀愁が潜んでいた。
 ※ちなみに、豊島園のまかない付き下宿は、食事(夕食)の門限が20時と早いのもあり、自由を知った私は、半年後にその下宿をやめて越したのだった。

 *西郷輝彦のデビューで、御三家が誕生!

 西郷輝彦。1947〈昭和22〉年、鹿児島県谷山町(現・鹿児島市)出身。
 1964(昭和39)年2月、「君だけを」(作詞:水島哲、作曲:北原じゅん)でクラウンよりデビュー。
 「チャペルに続く白い道」、「星空のあいつ」、4枚目のシングル「十七才のこの胸に」(以上いずれも作詞:水島哲、作曲:北原じゅん)およびデビュー曲「君だけを」の両曲で、その年の第6回日本レコード大賞新人賞を受賞。
 同年「十七才のこの胸に」(監督:鷹森立一、西郷輝彦、本間千代子、東映)で映画デビューし、スター歌手の地位を不動のものとした。
 先にスター歌手として活動していた橋幸夫、舟木一夫とともに、のちに歌謡界の「御三家」と呼ばれる。

 西郷輝彦は、翌1965年に浜口庫之助作詞・作曲によるリズムカルな「星娘」、それに続く「星のフラメンコ」「願い星、叶え星」と星の3部作をヒットさせる。
 他に「星空のあいつ」や「星と俺とできめたんだ」など、思えば、星の似合う歌手だった。
 その間、「涙になりたい」(作詞:杉本好美、作曲:北原じゅん)、「僕だけの君」(作詞:星野哲郎、作曲:北原じゅん)、「初恋によろしく」(作詞:星野哲郎、作曲:米山正夫)と、甘く切ない青春を歌った。
 1967年の「潮風が吹きぬける町」(作詞:奥野椰子夫、作曲:米山正夫)は抒情的な曲で、個人的には好きな曲だ。
 このあと、ロック調の激しさのある曲に路線を変えたように思う。

 西郷輝彦は、我修院建吾、銀川晶子、五代けんなどの名で、作詞、作曲をするなど、多才さを発揮した。
 しかし、1973年の「どてらい男(ヤツ)」以降、ドラマに重点を置き、歌から遠ざかったのは個人的には残念な思いであった。私は、西郷輝彦の歌が好きだった。

 今年、2022年2月20日逝去。享年75。
 青春歌謡、御三家の一角が消えた。

 *青春歌謡のトップランナー、橋幸夫

 橋幸夫。1943(昭和18)年、東京都荒川区出身。
 1960(昭和35)年、17歳の時、「潮来笠」(作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正)でビクターからデビュー。
 青春歌謡の全盛期を築いた御三家の先頭ランナーであるが、デビュー曲は演歌である。
 とはいえ、デビュー盤のジャケットは、イラストで股旅姿が描かれてはいるが、橋は着物姿でなく背広姿であるのが、その後の彼を象徴している。歌いっぷりも若々しく、それまでの演歌、股旅調とは一線を画していた。
 そして、同曲で日本レコード大賞新人賞を受賞した。
 その後、「おけさ唄えば」や「南海の美少年」など、それなりのヒットをとばしていた橋幸夫が青春歌謡に踏み入れたのは、1962(昭和37)年1月の「江梨子」(作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正)からであろう。
 悲恋を歌ったこの曲で、それまでの着流しあるいは背広スタイルから一変して学生服で歌った。舟木一夫が「高校三年生」で学生服でデビューしたのが1963(昭和38)年6月であるから、1年半も早い。
 このとき同名の映画「江梨子」(監督:木村恵吾、橋幸夫、三条魔子、大映)も上映され、当時高校1年だった私は、街に貼られた詰襟姿の橋と三条魔子の寄り添う映画ポスターを見つめながら学校へ行ったものである。
 共演した三条魔子は、この映画のヒットを受け芸名を三条江梨子に改名。のちに、日活の浜田光夫とのデュエット曲「草笛を吹こうよ」がヒットしている。

 1961年、当時青春映画の女性のトップ・スターだった吉永小百合が、作詞・佐伯孝夫、作曲・吉田正のコンビによる「寒い朝」で、ビクターから歌手デビュー。
 1962年、橋幸夫は「江梨子」のあと、同作詞作曲コンビによる吉永小百合とのデュエット曲「いつでも夢を」を大ヒットさせ、この曲によりこの年のレコード大賞を受賞。このあとも、同じく吉永とのデュエット曲「若い東京の屋根の下」をヒットさせ、押しも押されもせぬ青春歌謡のリーダーとなった。
 そして、「白い制服」「赤いブラウス」など、青春歌謡の正道を歌いこむ。

 その後、橋は「恋をするなら」「チェッチェッチェッ」「あの娘と僕」など、新しくリズム歌謡を取りこんでいく。

 *学園ソングのブームを起こした、舟木一夫

 舟木一夫。1944(昭和19)年、愛知県一宮市出身。
 1963(昭和38)年、「高校三年生」(作詞:丘灯至夫、作曲:遠藤実)でコロムビアからデビュー。高校3年生という限定した年代を歌うという、画期的な歌謡曲であった。
 舟木一夫の前髪を額に流し学生服で歌うこの曲は、年代・世代を超えて歌われ大ヒット。続く「学園広場」(作詞:関沢新一、作曲:遠藤実)、「仲間たち」(作詞:西沢爽、作曲:遠藤実)などの学園ソングで、舟木は新しい音楽シーンを作ったのだった。
 この年、舟木はレコード大賞新人賞を受賞し、映画「高校三年生」(監督:井上芳夫、舟木一夫、倉石功、姿美千子、高田美和、大映)も封切られた。

 *
 「赤い夕日が校舎をそめて、ニレの木陰に弾む声…」と始まる「高校三年生」。その2番では「…あ~あ、高校三年生、ぼくらフォークダンスの手をとれば、甘く匂うよ黒髪が…」と続く。
 この舟木の「高校三年生」が流れ出てきたとき、私はまさに高校3年生であった。この年、体育祭で初めて実施されたフォークダンスで、初めて同級生の手をとったのだった。まるで、ぼくたちのための歌のようで、くすぐったい思いだった。

 舟木一夫は、その後も、「あゝ青春の胸の血は」「花咲く乙女たち」「北国の街」「東京は恋する」「哀愁の夜」など、青春歌謡の王道を歩いていく。

 *

 橋幸夫が青春歌謡の先頭を走り、舟木一夫が学園ソングで新しい大河を作り、西郷輝彦の合流によって広がりを見せた青春歌謡は、1960年代、御三家という花形を中心に大きく花開いたのだった。

 (写真:御三家のデビュー盤、左より、橋幸夫「潮来笠」、舟木一夫「高校三年生」、西郷輝彦「君だけを」)

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