かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

外国人による和語の純文学、「開墾地」

2023-06-27 01:24:08 | 本/小説:日本
 *不思議な人間の言語

 同じ人間なのに違う国の人間だと、どうして違う言葉を話すのだろうと、昔から不思議に思った。
 人間の最初の段階で生まれたであろうと思われる基本的な言葉である、例えば自分のことである「おれ、わたし」、相手のことである「おまえ、あなた」や、身近な自然である、山、川、海や、123…の数などをはじめとして、どの単語も国あるいは人種が違えば違う言葉になっている。細かく言えば、同じ国や人種の間でも違う言葉を話す人も多々存在する。
 名詞の違いだけでなく、行為を表わす動詞等の述語をふくめた一つの文(言葉)にすると、その主語、述語、目的語などの並び方、つまり文(言葉)の構成も違うのである。
 同じもの、同じ概念のことを表しても、どうして世界中でこうもバラバラな言葉(表現手段)を使っているのだろう。どの言葉でも、大まかなところは大体わかるが細かいところは違っているのでわからないというのではなく、外国語と言われるものは本体から細部まで全く違っていてわからない言語なのである。
 私は言語学者でないので、ここで言語の違いを分析しようとしているのではなくて、自分が幼少時から自然に話したり書いたりしている母語、ネイティブ・ランゲージ以外の言葉は、翻訳を通して意味が分かったとしても、どうしてその言葉になったのかとても理解し難しいことだと言おうとしているのである。
 そこで、地球上で使われている様々な言葉を収めた「世界一周ことばの旅—地球上80言語カタログ―」(監修:千野栄一(東京外国語大教授))なるCDを聴いてみたが、謎は深まるばかりである。

 外国語は、言葉として発する以上に文章にするほうがより難しい。言葉の後にできた文字は、文字(単語)と文字(単語)の関連性・連結性を一定の適合則にそって整備されて文法則が作られた。文を作成するうえでは、その法則に則って成さねば正しい文とは言えないし、美しい文にはならないからだ。

 *グローバル化のなかの、「越境文学者」たち

 外国語で文を書く。
 母語であれ外国語であれ、文を書くということは、その書かれた言語を理解していなければ進めない。外国語で手紙(メール等)やレポートを書くことは、特にグローバル化した近年はよくあることだろう。
 それでも、外国語で小説を書くとなると、そうあることではない。
 母語から離れ、主に居住先の言語(非母語)で創作する作家たちの文学を「越境文学」と呼ぶことがある。
 日本人作家では、ドイツ在住の多和田葉子がドイツ語で書いて出版しているぐらいしか思い当たらない。ノーベル文学賞のカズオ・イシグロは日本で生まれているが、5歳でイギリスに移住して、日本語が堪能ではなく日本語で執筆しておらず、国籍もイギリスでイギリス人とみなされる。

 外国人で日本語を話す人は多いが、母語でない日本語で小説を書く人はそう多くない。
 すぐに思い浮かぶのは楊逸(ヤンイー、1964年~)である。
 中国ハルビン市出身の中国籍(当時)の作家で、2008年、「時が滲む朝」で第139回芥川賞受賞した。日本語以外の言語を母語とする作家として、初めての芥川賞受賞であった。
 
 漢字を使う中国人が同じ漢字を借用する日本語を取り込むのはまだ馴染みやすいとは思うが、アルファベットを母語とする人には漢字の言語を活用するのはかなり垣根が高いことだろう。
 そんな人のなかでは、アメリカ合衆国生まれで、日本語を母語とせず日本語で創作を続けているリービ英雄(Ian Hideo Levy、1950年~)がいる。
 「万葉集」の英訳で評価され、その後小説に転じ、「星条旗の聞こえない部屋」(1992年)で野間文芸新人賞を受賞、「天安門」(1996年)ではその年の第115回芥川賞の候補となっているから、日本の文壇登場は楊逸よりも相当早い。
 この他、大佛次郎賞、伊藤整文学賞など多くの賞を受賞している本格派の作家・文筆家で、現在、法政大学国際文化学部教授である。
 リービ英雄と称し、ミドルネームにHideo(ヒデオ)と入っているから日系2世と思いきや、純粋な外国人(変な言い方であるが)である。
 
 リービ英雄の受け持つ大学院ゼミ生に「台湾生まれ 日本語育ち」の温又柔(1980年~)がいて、「真ん中の子どもたち」(2017年)で第157回芥川賞の候補となっている。彼女は台湾・台北市生まれだが、台湾語、中国語、日本語が飛び交う家庭で育ち、日本語は完全な外国語とは言えず、自分のなかの母語、外国語とは何かを問い続けている。
 同じく台湾生まれの李琴峰(1989年~)は、2021年、日本語で書いた「彼岸花が咲く島」で第165回芥川賞を受賞している。

 他にアルファベット系(欧米)外国人としては、スイス生まれのデビット・ゾペティ(David Zoppetti、1962年~)は、編入した同志社大学を卒業後、テレビ朝日に入社。1996年、「いちげんさん」で、すばる文学賞を受賞し第116回芥川賞候補にもなり話題となった。

 *グレゴリー・ケズナジャットの、「開墾地」①

 今年(2023年)発売の、グレゴリー・ケズナジャット作の小説「開墾地」(講談社)を読んでみた。
 表紙には、開墾地、グレゴリー・ケズナジャットと下段に書かれているが、上段に、Gregory Khezrnejat 、A Clearingとも記されている。
 外国人による著書であるが、訳者が書かれていない。つまり、本人が日本語で書いた小説である。
 グレゴリー (Gregory)は英語圏の人名で、グレゴリー・ペックをはじめよくある名前である。しかし、ケズナジャット(Khezrnejat)という名前は珍しく、ルーツはどこだろうと想った。

 物語は、主人公が家のベッドで目を覚ますところから話は始まる。
 外では虫の鳴き声がする。キリギリス、いやKatydids。
 主人公は、かつて聴いたその鳴き声を思い起こす。“Katy did, Katy didn’t, Katy did Katy didn’t.”
 主人公の思いと同じように、その虫の名前は鳴き声が由来だと、この本の読者である私は知る。キリギリスもそうであるように。
 窓の外の庭には花が咲いている。裏庭の芝生が終わったところから葛の蔦が繁っていて、その先にある深い森にまで覆いかぶさっている。

 やがて、主人公であるラッセルのことと、彼の周りの空間の成り立ちが少しずつ描かれていく。
 主人公ラッセルが日本の京都の大学に留学後、東京に移住し、久しぶりにここアメリカ・サウスカロライナの実家に帰ってきたこと。
 現在、この家に一人暮らしている父親はこの国の南部方言を話し、時にラッセルには分らない歌を歌い言葉を話すこと。その言語はペルシャ語であること。
 ラッセルの父親はイランからこの地へ来て、職場で南部育ちのラッセルの母親と知り合い、ラッセルが2歳の時に二人は結婚した。ラッセルは本当の父のことは何も知らない。
 母の祖母が亡くなった後、ラッセルが5歳の時、養父である今の父と母とラッセルは、母方の祖父が戦前に購入したここノースカロライナの広大な土地に住み着いた。
 そして、ラッセルが7歳の時、母は家を出て行った。
 しかし、父はこの地を離れようとせず、毎日のように家裏から続く葛が蔓延する森の手入れと古い家の修理をやっている。そして、今も変わらずにその生活をひたすら続けている。
 絶え間なく繁殖する葛の手入れは、これまた絶え間ない作業なのだ。

 父はおもむろにラッセルに言った。
 「向こうでは葛のことをどうしてるんだ」「もともと日本の植物だろ」
 このように家と庭を囲んでいる葛は19世紀に、日本からこの地に移植されたらしい。
 英語でもその名称は「Kudzu」となり、南部方言を通過してカッヅーと発音されるようになったが、そのうち原産地との繋がりはほぼ忘れられていった。

 ある日のことだ。ラッセルがペルシャ語を習いたいと言ったら、父はこう言った。
 「きみは英語が話せる。それは実はとても幸運なことだよ。外国語を勉強しなくてもどこにでも行ける。どこに行っても言いたいことを言えない苦しさはない。だから、ペルシャ語なんか学ぶ必要はない、君は自由だから」
 それでも、ラッセルは思った。
 母語から抜け出したい気持ちに変わりはなかった。父親が一人だけで入り込んでいたあの不思議な世界を、自分の目で見たかった。
 そしてラッセルは、この地に日本企業が進出していたことから日本語を勉強し、イランではなく、日本に留学し、結局日本に住むことにする。

 *開墾地② 日本語への迷宮の旅

 再び日本へ戻る主人公のラッセルは、初めて日本へ向かった時の飛行機からの眺めを思い浮かべる。
 「窓から離れていく故郷を見下ろした。……ようやく雲の下になり視野から消えていった。この町と、この町の言葉をようやく後にしたと気づいた瞬間に感じた安堵感は鮮明に覚えている」
 「しかし父親がかつて言ったように、世界のどこに行っても英語は常に存在を感じさせる。故郷を出たとはいえ、英語から逃げ切ったわけではない。大学で文学を専攻したのも、そのためだっただろう。
 ラッセルの母語をほぼ排除したその小さな世界で、日本語を学習し始めた時に感じたのと同じような安堵感を見出した。彼は深く潜り込んでいった。言葉の奥まで入っても常にまた奥があった」

 *開墾地③ 母語に潜む不愉快な言葉

 ラッセルは、ふと日本人の話す会話に関してこんな言葉を発している。
 「時には向こうの言葉の行間にも、母語に潜んでいたのと同じ不愉快なものが聞こえるような気がした。トウゼンとかジョウシキとか、ワガクニハとかで始まる発言を耳にするたびに、ラッセルがかつて怯えていた不条理な要求が一瞬だけよぎった。だが向こうの言葉は母語ではない。自分の言葉ではない。そう言い聞かせて作った微かな距離はラッセルを守った」
 私もラッセルが不愉快に感じたその言葉を、日本人の私は当然話したことはある。私は、そのような言葉をどこで使ったのか、どのようなときに使っているのか、振り返り内省した。この他にも、無意識に使っている、外国人にとって嫌な日本語の使い方があるに違いない。

 私個人としては、日本語の会話として「とても」の意味でよく副詞的に使われる「チョー……」や「メチャクチャ……」は使わないようにしている。そして、美男子、ハンサムに使われる「イケメン」。それに、もう10年ぐらい前から流布している、知らない(知らなかった)事柄への返答として「そうなんですか」でなくて、「そうなんですね」という、あいまいな相槌。
 「日本語は時代によって変わるので」と言って、安易な流行語を取りあげ、持ちあげる国語学者を私は信用しない。

 *開墾地④ 外国語のなかで生きる

 そして、主人公のラッセルは自問する。
 「やはり故郷に帰るのか。それとも、日本に残るのか」、と。
 「自分が日本で、日本語の中でいつか死んでしまったら、自分の一部も向こうの言葉の中に織り込まれ、そこで生き続けるのだろうか。それとも、自分はすっかり覆われて忘れられ、完全に消えてしまうのだろうか」
 彼は日本に残ることにする。
 「……英語に戻ることも、日本語に入り込むこともなく、その間に辛うじてできていた隙間に、どうにか残りたかった」
 この心境に、母語と外国語の間に生きてきた、そしてこれからも生きていこうとする人間の心の在処が見える。

 読んでいて、母語ではない外国人が書いた小説とは思えない文章力であった。母語である英語と日本語の間で、母語ではない言語に取り込みゆく姿勢が滲み出ている小説である。

 *
 グレゴリー・ケズナジャット(Gregory Khezrnejat、1984年~)
 アメリカ合衆国サウスカロライナ州で生まれる。高校時代に日本語と出会う。2007年にクレムソン大学卒業後、英語指導助手として日本に渡る。同志社大学大学院で谷崎潤一郎を研究、2017年に博士後期課程を修了。2021年に「鴨川ランナー」で第2回京都文学賞を受賞し作家としてデビュー。「開墾地」が第168回芥川賞の候補となる。現在、法政大学グローバル教養学部准教授。

 *デビュー作「鴨川ランナー」を読んでみる

 グレゴリー・ケズナジャットは、現在東京に住んでいるが、しばしば京都に行き、その時関西弁を耳にすると、本当の故郷ではないが10年間住んでいたこともあり「ああ、帰ってきたんだな」という思いがするという。
 「鴨川ランナー」は、京都が舞台である。
 高校で日本語に触れ、大学時代に日本語を学んだ米国人青年が主人公だ。高校生の時に旅行で2週間滞在したときの“京都の鴨川沿いの光景”に呼び戻されるように、日本行きを実行する。日本の文部科学省の英語指導助手プログラム(JET)に応募し、運よく京都に隣接する町の中学校に派遣される。
 そこでの中学校での体験、京都の街での英語指導助手や日本人との交流、谷崎潤一郎の文学との出会いなどが、京都を背景に淡々と語られる。

 グレゴリー・ケズナジャットは、別のところで「日本語を勉強し始めたとき、日本語の一人称が“謎”だった」と、次のように語っている。
 「英語には “I” しかないので、“僕”と“わたし” の違いがよく分からなかった。日本に来ると、周りの男子学生たちはみんな “俺” を使っていました。いつ “わたし”、“僕”、“俺”を使えばいいのかと悩みました」
 このことは二人称にも付いてくる難問だろう。“you”は、“きみ”、“あなた”、“おまえ”、このほか捜せばいくつあるかわからい日本語は、外国人には厄介だ。
 著者の自伝小説であろう「鴨川ランナー」は、主人公は二人称の「きみ」の文体で語られている。“僕”や“わたし”ではなく。

 「鴨川ランナー」は日本語との出合いから、今日へ至る著者の足跡を辿ったいわば自伝小説「私の日本と日本語への道」だが、「開墾地」は、外国人が日本語の奥地に足を踏み込んだ純文学である。
 さらに日本語の奥地へ踏み込んでいくであろうグレゴリー・ケズナジャットが、今後、どう日本文学に浸透していくか見てみたい。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五木寛之の、老人のための「シン・養生論」

2023-06-02 04:51:37 | 本/小説:日本
 *病院に行かずに、自分流の養生法を見つける

 五木寛之さんは息の長い作家である。
 1966(昭和41)年「さらばモスクワ愚連隊」でさっそうとデビューし、翌年「蒼ざめた馬を見よ」で直木賞受賞。近年、小説はあまり目にしないけど、人生や健康に対する思索に関して、多角的に途絶えなく本や文を発表し続けている。
 そんな五木さんも1932(昭和7)年生まれだから、90歳を超えた。
 私は若いときから彼が好きだったので、新聞などで新しく出た本の広告や紹介文を目にすると、つい気になってしまうのだ。

 五木寛之さんは、最近は健康に関する文が多い。誰でもそうだが、年齢とともに出てくる体の不具合や健康には気がかりだ。
 五木さんは健康や医療に関する知識は豊富だが、大学入学時の健康診断以来80歳過ぎまで病院には行かなかった、健康診断も受けたことがないと公言している。それでは幸運にも非常に健康な身体だったのかというと、そうではなく、子供のころは腺病質な体質と自分では思っていたぐらいで、ずっと偏頭痛の持病があるという。
 それで身体の不調にどう対処してきたかというと、自分の身体と向き合って、自分なりに身体と自問自答しながら、いろいろ試みてやってきたと言う。それは、健康法じゃなくて「養生」という考えである。
 例えば持病の偏頭痛だが、自分の体を冷静に観察していて、偏頭痛の起こるリズムがどうやら気圧と関係があるらしいと突き止め、天候・気圧に注意を払うようになったとか。
 そして、年とともに感じだした身体の不具合に注意を向け、歩行、呼吸、咀嚼、嚥下、飲み込む力など、自分流にトレーニング法を編み出し実践している、という。
 老化に伴って低下を感じるのが噛む咀嚼力、飲み込むときの誤嚥下や嚥下障害である。嚥下力を保つため、五木さんの言う、水を飲むにも喉を意識して飲み込むようにするとは、なかなか思いつくことではないし、できることではない。
 病院に行かずに(少なからず)健康であるためには、まめでなければならないのだ。
 
 *身体は世界の現状に連動する

 この本では、五木寛之さんが「理由なき予感」として、興味ある発言をしている。
 「世界は厄介な方向に自転している。誰もがそれを予感しながら、頭で否定しているのだ。
 問題は戦争とか、経済とか、そういった現実的な問題だけではない。そんな地上のゴタゴタを超える厄介な問題が訪れないとも限らないのである」
 「身体は世界の現状に連動する」

 五木寛之さんは福岡県で生まれるが、彼が幼少時に一家で北朝鮮へ渡り、戦後帰国している。太平洋戦争(第二次世界大戦)の敗戦による、満州・朝鮮からの引き揚げ時の惨状や体験については、五木さんを含めて何人かの体験者である作家や芸能人が語っている。
 「人は何歳ぐらいから記憶があるものだろうか。私はほとんど幼児期の記憶がない。しかし、それは脳に刻まれた記憶が薄いだけで、何か私の芯のところで感覚として残っているものがある。
 記憶ではなく<体億>ともいうべきものだ。満州国建国の年に生まれた、という記憶ならざる<体億>が存在する」
 三島由紀夫(1925~1970年)は自伝的小説「仮面の告白」のなかで「出生時の産湯の盥の記憶がある」と書いているが、さすがにそれはないだろうと思う。それに比し、五木さんは「体億」という言葉で、生まれた時(時代)の感情の感覚を表している。
 私は満州国がなくなった年の終わりに、かの地で生まれたが、もちろん何も記憶はない。しかし、満州国という言葉を目や耳にしただけで、奥深くで感情が反応する。これも、五木流でいう「体億」なのだろうかと思う。

 *「玄冬期」および「遊行期」という、老人の生き方

 日本は、急速に老齢化が進み、先進国家のなかでも老人社会の先頭を走っている。
 五木寛之さんは、人生や社会とともに、自分の老いを客観的に見つめてきた。そして、自分の老いに合わせて、その年代、その時代をどう生きるかを、専門家のような説教臭くはない言葉で問いかけてきた。
 私は、知らず知らずにその背中を見て生きてきたと言える。

 古代中国の「陰陽五行思想」では、人生を「青春」「朱夏」「白秋」「玄冬」と分ける説がある。これによると、老いの最後の季節が「玄冬」である。数年前、五木寛之さんは「玄冬の門」なる本を著した。
 私は、このことについてブログで記している。
 ※ブログ<「青春の門」から「玄冬の門」へ>(2016-08-01)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/e14323042a99d947ed1a13018e08f10b

 古代インドでは、人生を4つの時期に区切って考える「四住期」(しじゅうき)という思想がある。
 「学生期」・「家住期」・「林住期」・「遊行期」の4つである。
 五木寛之さんは十数年前に、人生の黄金期ととらえた世代の本「林住期」を出している。

 そして、新しく出た「シン・養生論」(幻冬舎)では、五木さんは、今の世代を一応次の3つに分けて考える。
 「第一世代」、子供と20代の若者たちの層。「第二世代」、壮年期の生産労働人口。働き盛りの30代から60代前半までぐらいのグループ。いま高齢者と呼ばれる65歳以上の世代を「第三世代」とする。
 「終活」だの「孤独死」だのマスコミでとやかく言われている高齢者層の老人に向け、こう言う。
 「問題は「死」ではない。「死ぬまで生きる」ことだ。
 死ぬのはそれほど難しいことではない。最近は「老衰」という表現が多く使われるようになった。
 問題は「老衰」で世を去るまで「生きる」ことである。「第三世代」にとっては、「終活」や「死後」よりも「生存」が問題になる時代がやってきたのだ」

 *人生最終段階「遊行期」の生き方

 そこで、先に挙げた古代インドの思想「四住期」の、4つのなかで人生最後のステージである「遊行期」の登場である。
 「学生期」(がくしょうき)、人生の準備期間。
 「家住期」(かじゅうき)、盛年の時期。
 「林住期」(りんじゅうき)、リタイアしたのちの時期。
 「遊行期」(ゆぎょうき)、そのあとの最終期。
 五木寛之さんは、古代インドの思想「四住期」の「遊行期」からのヒントとして、高齢化社会においての高齢者、老人の生き方を次のように解いている。
 「遊行というのは、本来、宗教的な言葉である。棲み屋を離れて、杖1本の旅に出る。漂泊の日々の中に悟りを求めようとする修行の旅である。しかしそれは宗教家の仕事だ。
 一般人なら違う「遊行」があってよい。ガンジス河のほとりに死に場所を求めるのは、そんな人々の願望である。しかし、遊行と修業は違う」
 そして、「遊行期」を五木流に解釈・解説する。
 「この言葉を一切の先入観や宗教色抜きで見つめてみる。「遊」は遊ぶ、だ。「行」はおこなう、だ。修行などという文句は忘れて、「遊行」とは「遊ぶこと」と考える。
 こう考えれば、厄介な思い入れから解放されるはずだ。すなわち、「遊行期」は、好きなことをして「遊ぶ」時期なのではないか」
 これを踏まえて、「四住期」を解釈すると、
 「学」は学ぶ季節である。
 「家」は働く季節である。
 「林」は休息し、思索する日々。
 そして、待望の「遊行期」は。それは死に場所を求めてさまよう季節ではない。文字通り「遊ぶ」時期なのだ。「遊行期」とは、自由に遊び歩くための季節である。遊行期というのは、生きることすべてが遊びならざるものはなし、という時期のことだと思いたい」

 「遊ぶ」ことは、人それぞれ、どんな内容でもよしということだ。

 *

 遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 
 遊ぶ子どもの声聞けば 我が身さへこそ揺(ゆる)がるれ
  (梁塵秘抄)
 我と来て 遊べや親のない雀
  (小林一茶)
 梅の花 咲きたる園の 青柳を 
 蘰(かづら)にしつつ 遊び暮らさな
  (万葉集)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする