藤沢周平原作 山田洋次監督 木村拓哉 檀れい 笹野孝史 坂東三津五郎 緒形拳 2006年松竹
山田洋次監督による藤沢周平原作武士物三部作の一作。
「一分」(いちぶん)とは、「面目」のことである。
藩主の毒味役になった下級武士の主人公(木村拓哉)が、毒味によって失明する。妻(檀れい)は、失意の夫の自殺を留まらせ、上級武士(坂東三津五郎)に家禄の維持願いを相談に行く。そのとき、妻はその武士によって身体を奪われて、その後も関係を持たらされてしまう。
そのことを知った主人公は、妻を離縁し、武道に励み、剣術の達人でもあるその上級武士に対して果たし合いを臨むという物語である。
「目が見えないのに立ち向かうのは無茶です。どうしてそんなことを」と、思いとどまらせようとする家の下男(笹野孝史)に言う主人公の言葉が、「武士の一分だ」である。
一分は、誰にでもあるものである。いや、持っていなければならないものである。それを失ったら自分でなくなるという存在証明と言っていい。
この一分が、現代では失われているのであろう。
政治家の一分、経営者の一分が、見当たらない。だから、品格が問われ、その名を冠した本がベストセラーに名を連ねている。
妻を離縁し、無聊をかこつ主人公に、下男が「ゆっくり養生して長生きしてください」と言う。それに対し、主人公は荒々しく答える。
「長生きして、何かいい事があるのか。毎日、お前のまずい飯を食い」
この台詞がいい。
失明して、武士としての役目をまっとうできずにいる武士に、いや誰かの手を煩わせながら生きて、何かいい事があるのだろうか。そもそも、人生を長く生きてどうしようというのだろうか。
先日、テレビ番組で、将来、といっても2050年頃(40年先)には、人間の寿命は百才を超えるとあり、元気な老人の動く姿を映した。そして、寿命は金(医学や薬物)で買えると結論づけた。
それを見て、何の取り得のないタレントが目を丸くして「私、長生きするのだったら絶対金で買いたい」とコメントしていた。
「長生きして、何かいい事があるのか。毎日、お前のまずい飯を食い」
映画では、主人公は死を決意して、妻を弄んだ上級武士に決闘を挑む。目の見えない彼には、武道の先生(緒形拳)が教えた「共に死する事をもって真となす」の心構え以外ない。
「肉を切らして骨を切る」というより、相打ち覚悟の決闘に挑む。
そして、彼は相手の背後からの奇襲に、気配で勝つ。
武士の一分は果たされ、死なずに、おそらく少し長く生きた彼は、下男のまずい飯ではなく、以前のうまい飯を食うことになる。妻も戻ってきたのだ。
長生きして何かいいこととは、こんなことかもしれない。いや、こんな何気ないことが大切だといっているのだろう。
下男の笹野孝史がいい。この人は若いときから老け顔で、このような役ははまり役である。
召使の人生にも、長く生きて何かいい事があるのだろうか。この人は、いいことがあろうとなかろうと、といった役で、顔である。
山田洋次監督による藤沢周平原作武士物三部作の一作。
「一分」(いちぶん)とは、「面目」のことである。
藩主の毒味役になった下級武士の主人公(木村拓哉)が、毒味によって失明する。妻(檀れい)は、失意の夫の自殺を留まらせ、上級武士(坂東三津五郎)に家禄の維持願いを相談に行く。そのとき、妻はその武士によって身体を奪われて、その後も関係を持たらされてしまう。
そのことを知った主人公は、妻を離縁し、武道に励み、剣術の達人でもあるその上級武士に対して果たし合いを臨むという物語である。
「目が見えないのに立ち向かうのは無茶です。どうしてそんなことを」と、思いとどまらせようとする家の下男(笹野孝史)に言う主人公の言葉が、「武士の一分だ」である。
一分は、誰にでもあるものである。いや、持っていなければならないものである。それを失ったら自分でなくなるという存在証明と言っていい。
この一分が、現代では失われているのであろう。
政治家の一分、経営者の一分が、見当たらない。だから、品格が問われ、その名を冠した本がベストセラーに名を連ねている。
妻を離縁し、無聊をかこつ主人公に、下男が「ゆっくり養生して長生きしてください」と言う。それに対し、主人公は荒々しく答える。
「長生きして、何かいい事があるのか。毎日、お前のまずい飯を食い」
この台詞がいい。
失明して、武士としての役目をまっとうできずにいる武士に、いや誰かの手を煩わせながら生きて、何かいい事があるのだろうか。そもそも、人生を長く生きてどうしようというのだろうか。
先日、テレビ番組で、将来、といっても2050年頃(40年先)には、人間の寿命は百才を超えるとあり、元気な老人の動く姿を映した。そして、寿命は金(医学や薬物)で買えると結論づけた。
それを見て、何の取り得のないタレントが目を丸くして「私、長生きするのだったら絶対金で買いたい」とコメントしていた。
「長生きして、何かいい事があるのか。毎日、お前のまずい飯を食い」
映画では、主人公は死を決意して、妻を弄んだ上級武士に決闘を挑む。目の見えない彼には、武道の先生(緒形拳)が教えた「共に死する事をもって真となす」の心構え以外ない。
「肉を切らして骨を切る」というより、相打ち覚悟の決闘に挑む。
そして、彼は相手の背後からの奇襲に、気配で勝つ。
武士の一分は果たされ、死なずに、おそらく少し長く生きた彼は、下男のまずい飯ではなく、以前のうまい飯を食うことになる。妻も戻ってきたのだ。
長生きして何かいいこととは、こんなことかもしれない。いや、こんな何気ないことが大切だといっているのだろう。
下男の笹野孝史がいい。この人は若いときから老け顔で、このような役ははまり役である。
召使の人生にも、長く生きて何かいい事があるのだろうか。この人は、いいことがあろうとなかろうと、といった役で、顔である。