かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

江戸城「外濠」を探る

2019-12-19 20:31:10 | * 東京とその周辺の散策
 市ヶ谷から飯田橋の間の「外濠」は、長年、僕にとって身近で馴染み深いものだった。いやそれ以上に、何気なく見続けてきた、いつもそこにある風景の一端であった。
 しかし、「江戸城・外濠」は?となると、おぼつかなくなるのだった。
 「外濠」の全貌は?

 *1.消えた「外濠」を求めて

 「外濠」(そとぼり)とは、今は皇居となっている江戸城の内堀の外側に巡らされた濠(堀)である。
 現在、通常「外濠」と呼ばれているのは、四谷と市ヶ谷の間から飯田橋に到る約2kmの、川のような濠(堀)である。それは、現存している、「江戸城外濠(堀)」の一部に過ぎない。
 かつて「外濠」は、自然の川を活用して螺旋(らせん)のように江戸城を取り囲み、内濠(堀)や東京湾(江戸湾)とも繋がっていた。

 地理上でいえば、現在の九段下から皇居(江戸城)の周りを「の」の字形に、神田川の派川である「日本橋川」を伝い、神田、日本橋、日比谷あたりから、ぐるりと円(まる)く虎ノ門、赤坂見附、四谷、市ヶ谷、飯田橋へと周り、小石川あたりで日本橋川の主流である「神田川」に続いて、両国橋のある「隅田川」に到る約16kmの遠大なものである。
 つまり、「外濠」は人工的な濠(堀)と自然の川を融合させた、江戸城の巨大の防衛水路であった。

 現在も皇居を囲む「内濠」はしっかり残っていて、その周りを囲む通りでジョギングを楽しむ人も多く、馴染みが深い。
 しかし「外濠」は、現在の地図を見て想像を膨らませてもわかりづらく、江戸古地図を見ないとその全貌を知ることは難しい。
 現在、川を除いて、外濠(堀)で水面を残しているのは、先にあげた「外濠」と呼ばれている市ヶ谷から飯田橋間の「市谷濠」、「新見附濠」、「牛込濠」と、赤坂見附付近の「弁慶濠」だけである。
 外濠の多くは戦後瓦礫とともに、あるいは首都高、新幹線設備などのために埋め立てられた。現在残っている濠も埋め立ての危機にあったが、何とか残ったのだ。残ったのは地域住民の埋め立て反対運動もあったが偶然の産物で、まるで歴史の気紛れな落とし物のように見える。

 僕が見続けてきた「外濠」は、かつて江戸城の周りを巡っていた外濠(堀)の一部である。例えていうならば、切り残されたトカゲの尻尾みたいなものだ。それで、ぼんやりとしていたそのトカゲの全貌に、あるいは全貌の痕跡に触れてみようと、外濠を辿ってみることにした。
 もうずいぶん日にちがたったが、去る10月10日、元同僚の3人で「外濠」を廻った。

 *2.「市ヶ谷見附」より、時計回りに出発

 まず、昼頃、市ヶ谷駅から出発する。
 市ヶ谷駅を出ると、すぐに「市ヶ谷見附」の橋があり、その下に横たわっているのが川のような「外濠」である。この外濠に沿うように、皇居側の内側(千代田区)寄りにはJR中央・総武線が、外側(新宿区)寄りには「外堀通り」が走っている。
 この外濠が千代田区と新宿区の区境なのだ。

 現在も名称が残っている「見附」という名称は、かつて見張りが置かれた番所で、濠に架かった橋に多く見受けられる。
 「市ヶ谷見附」の「市ヶ谷濠」では、石垣が残る橋のほとりで釣り堀をやっている。時折サラリーマン姿も見うけられて、都心にしては長閑な風景だ。これも外濠の恩恵だ。

 市ヶ谷駅から飯田橋方面に、外濠、JR線に沿って皇居側には遊歩道のような通りが続く。これが、「外濠公園」で、桜の並木道である。
 この「外濠公園」通りは、少し小高くなっているから、歩いていて斜め下にJR線が、その向こうに外濠がよく見える。
 春の桜の季節は、外濠の向こうの外堀通りに沿っても桜が咲くので、外濠公園通りと外濠を挟んだ両方に桜が咲く沿道となる。

 *
 つい先日、女優で吉行淳之介の妹である吉行和子の「そしていま、一人になった」(集英社)を読んでいたら、この市ヶ谷「外濠公園」が出てきた。
 吉行さんの一家は戦前から市ヶ谷駅近くに住んでいて、NHK連続テレビ小説「あぐり」で有名になった母のあぐりさんは、ここで美容院を営んでいた。
 吉行家の家族は、「土手」と称するこの「外濠公園」通りが好きだった。特に、母あぐりさんは、99歳で転んで骨折するまで、1日も欠かさずこの並木道を早朝散歩していたという。
 そして、彼女が住んでいた住所は戦後すぐまで、「麹町区土手三番町」だったという。現在は「千代田区五番町」となり、地名から「土手」が外されたと残念がる。
 つまり、戦後まで江戸城の外濠の土手を表わす名前が残っていたのだ。それはそうと、皇居を擁する千代田区がもっと古くからあったと思っていたら、戦後の1947(昭和22)年に麹町区と神田区が合併したことにより誕生したとは知らなかった。

 市ヶ谷の「外濠公園」通りを飯田橋の方に向かって歩いていくと、途中「新見附」の橋に出合う。その前に聳えるのが法政大の「ボアソナード・タワー」である。

 *3.法政大ボアソナード・タワー26階より、「外濠」を鳥瞰

 「外濠」を廻ることを思いたったのは、実は今年(2019年)初めに出版された雑誌「東京人」の「外濠を歩く」特集号を見たことからだ。
 その表紙が、市ヶ谷見附方面の外濠を俯瞰した、平地から眺めた外濠とは思えない美しい景色だった。飛行機かヘリコプターからの撮影かと思わせるその写真は、「新見附」にある法政大(千代田区富士見町)の高層ビルのボアソナード・タワーからの眺めだった。
 2000年に建てられた法政大のボアソナード・タワーは、外濠公園通りではひときわ目立つ地上27階建ての高層ビルで、飯田橋の牛込橋からも見え、外濠を見守っているランドタワーのようだ。

 予め大学に連絡を入れたところ、26階からの展望は誰でも自由に入れるとのことだった。自由な大学らしい。
 入口の守衛さんに挨拶して、エレベーターでボアソナード・タワーの26階へ。この階の展望所の大きな窓からの眺めは、まさに「外濠」を見るために用意されたような格好のロケーションだ。(写真)
 手前の「新見附橋」から彼方の「市ヶ谷見附」の橋に連なる、上から眺める「外濠」の景色はまるで1枚の絵のようだし、きめ細かく作られた箱庭のようだ。
 「市ヶ谷見附」の外濠の脇には、ビルに囲まれた「市谷亀岡八幡宮」の緑の木々が、そして注意深く見ると、外堀通りから入り込んだ「左内坂」の馴染み深いビル群が、ようやく窺うことができる。
 その市ヶ谷界隈の彼方に、四谷、新宿の街並が広がっている。外濠の手前に並ぶJRの線路には、模型のような電車が頻繁に行き交う。
 ここからの眺めを見やって写真を撮り終えたら、「外濠」廻りの目的の半分は終わったような気になった。実際の散策は、距離としてはまだ始まったばかりなのだが。
 ボアソナード・タワー地下1階の学生食堂で、学生に紛れて昼食をとった。教職カツカレーが人気のようだが、僕は季節限定のサンマ焼き、おしたし、みそ汁、ライスで。学食は安い。

 *4.「外濠」の出発点は、日本橋川「堀留橋」か?
 
 「新見附」の法政大ボアソナード・タワーを出て、外濠公園通りを歩いて「飯田橋」へ。
 飯田橋の「牛込見附」の「牛込橋」のたもとには、「牛込門」の櫓台石垣が残る。まるで城跡のようなしっかりした組み石だ。
 左方に「牛込濠」を見ながら牛込橋を渡ると、そこは神楽坂だ。
 「神楽坂」はかつて花街としても栄えたところで、古い老舗と新しい店が程よく混合する魅力的な僕の好きな街だ。石畳の通りにしっとりとした和風の料亭があると思えば、新しいフレンチやイタリアンのレストランも点在する。
 先日、1869(明治2)年創業という「志満金」で、鰻を食ってきたばかりだ。

 「外濠」は、現在、飯田橋で途切れている。
 だが、その先にも「飯田濠」があった。
 しかし1972年というから、そう昔の話ではないが、市街地再開発の話が起き、住民の反対運動があったものの、80年代に飯田濠は埋めたてられた(一部暗渠化)。今は、そこには大きな複合施設のビルが建っている。
 それでもその場所は、「神楽河岸」という住所として、名残をとどめている。

 飯田橋からJR線に沿って、東の「水道橋」方面へ進む。
 ここら辺りからは外濠は「神田川」と合流している。神田川は、飯田橋より東は江戸時代に洪水対策と外濠に適合させるため開削を続けた、いわば運河である。
 水道橋に行く手前で、「小石川橋」に出くわす。ここで、神田川よりTの字に、南に「日本橋川」が分かれることになる。
 「神田川」は、このまま、「水道橋」、「お茶の水」「秋葉原」を通って、「浅草橋」を過ぎて「両国橋」の隅田川に辿る。

 神田川から分かれた「日本橋川」は、首都高速道路・池袋線の下を流れる。というか、日本橋川の上に首都高を走らせたのだ。
 日本橋川は、「三崎橋」から南下して、首都高・西神田ランプのところにあるのが「堀留橋」。「堀」は「外濠」のことで、日本橋川は江戸時代には神田川まで繋がっていなくて、ここで止(留)まっていたので堀留橋の名となった。
 日本橋川も人口の掘割(運河)で、いわば堀留橋が江戸城外濠の「の」の字の拠点といえる。

 *5.九段下「俎橋」から、橋を廻って、「日本橋」「八重洲」へ

 「堀留橋」から日本橋川を南下すると、「九段下」の「靖国通り」に架かる「俎橋」に出る。「俎」という字は読みづらいが、「まないた」である。
 この俎橋から靖国通りを東へ進むと神田神保町で、古本屋が軒を連ねる。
 俎橋を過ぎて、次の橋を右手(西南側)に行けば、千代田区役所があり、その先は「内堀通り」で、「内濠」が意外やすぐそこにある。
 この辺りが、外濠と内濠が最も接近しているところである。
 この千代田区役所のビルの横に、「大隈重信邸跡」の記念碑がある。この地の大隈邸が攻撃目標にされた竹橋事件後、大隈は早稲田に本邸を移している。

 さらに、左に共立女子大を見ながら日本橋川を進んでいくと、「雉子橋」(きじばし)に出る。「雉子橋門」があったところだ。
 この辺りの日本橋川の川縁は、外濠の名残をとどめるきれいな石垣が続いている。ところが、空を遮る首都高の高架線が、何とも煩わしい。
 続く「一ツ橋」も、「一ツ橋門」があったところ。一ツ橋といえば、徳川最後の将軍慶喜を出した一ツ橋家で知名度は高い。
 次に出る「錦橋」の先に遊歩道があるが、工事中だ。
 
 さらに、「神田橋」の次は「鎌倉橋」。神田川沿いに走っていた「外堀通り」が、聖橋から南下して、この鎌倉橋のところで交差して、ここから日本橋川沿いが「外堀通り」となる。
 地図を見ると、この辺りの外堀通りはややこしい動きをしている。
 さらに日本橋川に沿って進むと、工事中の「常盤橋」に出くわす。常盤橋は1877(明治10)年に石造りになり、都内に残存する最古の石橋である。この橋に使われた石が、明治維新の江戸城開城で不要になった石だといわれている。ここはJR高架のガードを潜ったりして、少し戸惑ってしまった。
 さらに進むと「一石橋」(いちこくばし)に出る。この橋のたもとに、江戸時代末期に建てられた「満よひ子の志るべ(迷い子のしるべ)」の石標があった。この辺りは日本橋に近く、昔から人通りが多かったのだろう。

 一石橋より首都高の下を通る日本橋川に沿って進むと「日本橋」に出る。
 まずは、東海道の出発点でもある日本橋に行くことにした。大通りではない裏通りのようなビルの谷間には、いまだ古い建物が残っていて懐かしい東京の匂いがする。
 左手に日本橋三越の新館、右手に「日本橋」が架かる「中央通り」に出る。
 日本橋には、中央通りからしか来たことがなかったので、裏通りからさ迷いこんで来た感覚は、何だか新鮮だ。
 日本橋は麒麟や獅子の装飾があり、やはり風格がある。上に首都高がなければの話だが。
 日本橋川は、この先、「江戸橋」を過ぎ、「永代橋」のある隅田川まで続く。

 実は「外濠」は、この一石橋から隅田川に進む日本橋川を分けて、現在の東京駅の八重洲の方に南下していた。しかし南下した外濠は、現在は埋めたてられている。
 日本橋から一石橋に戻って、南下した外濠の名残の「外堀通り」を進むと「呉服橋」に出る。この辺りで、今まであまり感じなかったが、どぶ臭いにおいがした。近くの日本橋川の臭いだろうか。
 呉服橋からは、すぐに「東京駅・八重洲口」までたどり着いた。

 「外堀通り」は、正式名は「都道405号外濠環状線」という。都道405号線は、新橋が起・終点だが、外堀通りは、ここ八重洲2丁目が起・終点となっている。
 まずは、外堀通りの終点まで来たことにしよう。

 *6.「赤坂見附」から「四谷見附」へ、江戸城一周

 「外堀通り」は、一部を除いてほぼ「外濠」に沿って走っている。
 赤坂見附、四谷見附、市ヶ谷見附、飯田橋から、それに日本橋川、神田川と水面が残り、濠の風情を残しているところもある。ところが、日本橋川の一石橋から南の八重洲方面に延びた外濠は埋めたてられて、外堀通りとなり、上には首都高が走り、今は濠の面影はない。
 それでも、八重洲から延びる、「数寄屋橋」、「新橋」、「虎ノ門」、「溜池」と、「赤坂見附」に到る通りの地域には、名前にかつての痕跡を見ることができる。
 有楽町と銀座の間にある「数寄屋橋」は、時代は下がるがNHKラジオドラマ、映画で一世を風靡した「君の名は」(菊田一夫原作)の舞台である。岸恵子、佐田啓二の主演で映画がつくられたのが1953(昭和28)年で、それを見ると(録画でだが)、二重のアーチ型の数寄屋橋が映し出されている。東京の「ポンヌフ」と呼んでもいいぐらいだ。
 数寄屋橋は、1958(昭和33)年に埋めたてられた。その場所には、今は公園がつくられ記念碑があるが、僕は銀座に来るたびに、「君の名は」を偲ぶように、あったはずの数寄屋橋を想像する。

 「外堀通り」の終点の八重洲まで来たところで、外も黄昏てきた。
 それで、外濠の水面が残る赤坂見附へ、八重洲の東京駅から、地下鉄でショートカットする。

 *
 「外堀通り」の「溜池」を北上すると「赤坂見附」にぶつかる。
 外堀通りと、国道246の「青山通り」と交差したところに水を湛えた濠(堀)があり、橋が架かっている。この濠が外濠の名残の「弁慶濠」で、橋は「弁慶橋」である。
 橋の向こうは、ホテル・ニューオータニのある千代田区の「紀尾井町」に繋がっている。つまり、かつて紀州家、尾張家、井伊家の屋敷があったところだ。

 弁慶橋から濠を右に見ながら、弁慶濠に沿って続く外堀通りを歩く。
 しばらく歩くと濠は途切れる。すると、左手は「迎賓館」で、右手には長い平地が出てくる。ここは元の 「真田濠」で、都有地だが現在は上智大のグランドとして使用されている。
 真田濠の先はもう四ツ谷駅で、駅の前には「四谷見附」の橋が「新宿通り」に架かっていて、下にJRの線路が通る。
 四谷見附を市ヶ谷方面に渡ると、もう1本の古い通りに出る。そこが江戸時代からの道で、そのふもとには「四谷門」の大きな石垣が残っている。
 その石垣の先から細い道を上にあがると、そこが外濠の土塁(土手)に造られたことがわかる。
 四ツ谷から市ヶ谷方面に進むと、「市ヶ谷濠」と「市ヶ谷見附」が見えてくる。今日の出発点の、いわゆる「外濠」である。
 もう、とっくに日は暮れて、街の明かりが眩しい。

 *
 こうして、一応の「外濠」の現風景を見てきた。
 思うに、外濠が残っていたら、東京の風景はまったく違ったものになっていただろうということだ。
 東京八重洲口前から、有楽町、新橋、虎ノ門、溜池と水が流れていたら、そこが堀を挟んだ桜の並木道、あるいは場所によって柳の並木道だったらと、想像するだに悔しくもあり愉しくもある。
 「もしお互い生きていたら、半年後の11月24日の夜8時に、またここで会いましょう」なんて台詞が似合うのは、橋の上から水を眺めながらだもんね。

 「あゝ、それで君の名は?」

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