日本人は日本三景をはじめ、3大○○というのが昔から好きだ。
世界三大美女といえば、「クレオパトラ」「楊貴妃」「小野小町」が定説だが、こう言っているのは日本だけでヨーロッパやアメリカで小野小町があまねく知られているとは到底思えない。
そもそも、例えば3大夜景や3大名城など日本で広まっている日本3大○○というのは、国や自治体が認定したものではなく、ましてやユネスコが関わっているわけでももちろんない。いわば、誰かが勝手に言い出したものである。
だから、それが入っているのだったら、これも入らないとおかしいなどと言い出す人がいて、3大○○といってもなかにはいろいろな説があるのも見受けられる。あるいは、不満に思った人たちが後で作ったのか、新3大○○というのも出てきている。
*
僕は、音楽はジャンルを問わずにいろいろな曲を聴いているが、年をとるにしたがって、クラシックが多くなってきた。といっても、机に向かっていたり何かをやっていたりしているときに流すCDやFMラジオなのだが。
世界三大ヴァイオリン協奏曲といえば、
ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲 ニ長調、
メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲 ホ短調、
ブラームスのヴァイオリン協奏曲 ニ長調、
この3曲が一般的だということは知っていた。これにチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲 ニ長調を加えて、四大協奏曲とすることもあるようだ。
しかし、三大交響曲というのは知らなかった。
世界三大交響曲というのは、
ベートーヴェンの交響曲第5番 ハ短調「運命」、
シューベルトの交響曲第7番 ロ短調「未完成」、
ドヴォルザークの交響曲第9番 ホ短調「新世界より」、
の3曲だそうだ。
8月18日、多摩市のパルテノン多摩にて、「夏の三大交響曲」と銘打って、三大交響曲を一挙に演奏するというので聴きにいってみた。
読売日本交響楽団の演奏で、指揮はケン=デイヴィッド・マズアである。
先に書いたように、僕はクラシック音楽はBGMとして流すのだから、じっくりと聴いてはいない。ましてや交響曲は長いものが多いので、最初から最後まで吟味しながら聴いたりはしていない。いつの間にか曲が終わっているということが多い。
しかし、生の演奏会は違う。CDやラジオのように聞き流すなんてことはできないのだ。
目の前で、実際に人と楽器によって演奏が行われ、生まれたばかりの音が耳に入ってくる。音をつくり出している、演奏する人の手や指の動きが目に入る。特に、前面に位置するヴァイオリン奏者の動きから目が離せない。指揮者は、もちろんのことだが何人もの演奏者の前方から後ろの隅の人まで気を配っているのが、そのせわしい動きからわかる。
聴いている方も、ライブでは目と耳が同時に活動している。もちろん、退屈なときは気づかれないようにだが眠ってもいいのだが(どの会場でも、「演奏中に眠らないでください」という注意書きはないように思う)。
何事もそうだが、生(なま)に勝るものはない。
すべてのものは五感で感じないといけない。
演奏を聴いて改めて思うのは、交響曲は一編のドラマだということである。文字ではない、起承転結がある音による物語だということである。
三大交響曲の生演奏を1日で聴けたことは、僕のように怠けものにとってはよかった。それにしても、交響曲は長編小説のように重く感じた。僕の最近の気分のせいかもしれないが。
僕にはまだ、ヴァイオリンやピアノのソナタ、または協奏曲、あるいは室内管弦楽の演奏あたりが気が落ち着くようだ。
世界三大美女といえば、「クレオパトラ」「楊貴妃」「小野小町」が定説だが、こう言っているのは日本だけでヨーロッパやアメリカで小野小町があまねく知られているとは到底思えない。
そもそも、例えば3大夜景や3大名城など日本で広まっている日本3大○○というのは、国や自治体が認定したものではなく、ましてやユネスコが関わっているわけでももちろんない。いわば、誰かが勝手に言い出したものである。
だから、それが入っているのだったら、これも入らないとおかしいなどと言い出す人がいて、3大○○といってもなかにはいろいろな説があるのも見受けられる。あるいは、不満に思った人たちが後で作ったのか、新3大○○というのも出てきている。
*
僕は、音楽はジャンルを問わずにいろいろな曲を聴いているが、年をとるにしたがって、クラシックが多くなってきた。といっても、机に向かっていたり何かをやっていたりしているときに流すCDやFMラジオなのだが。
世界三大ヴァイオリン協奏曲といえば、
ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲 ニ長調、
メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲 ホ短調、
ブラームスのヴァイオリン協奏曲 ニ長調、
この3曲が一般的だということは知っていた。これにチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲 ニ長調を加えて、四大協奏曲とすることもあるようだ。
しかし、三大交響曲というのは知らなかった。
世界三大交響曲というのは、
ベートーヴェンの交響曲第5番 ハ短調「運命」、
シューベルトの交響曲第7番 ロ短調「未完成」、
ドヴォルザークの交響曲第9番 ホ短調「新世界より」、
の3曲だそうだ。
8月18日、多摩市のパルテノン多摩にて、「夏の三大交響曲」と銘打って、三大交響曲を一挙に演奏するというので聴きにいってみた。
読売日本交響楽団の演奏で、指揮はケン=デイヴィッド・マズアである。
先に書いたように、僕はクラシック音楽はBGMとして流すのだから、じっくりと聴いてはいない。ましてや交響曲は長いものが多いので、最初から最後まで吟味しながら聴いたりはしていない。いつの間にか曲が終わっているということが多い。
しかし、生の演奏会は違う。CDやラジオのように聞き流すなんてことはできないのだ。
目の前で、実際に人と楽器によって演奏が行われ、生まれたばかりの音が耳に入ってくる。音をつくり出している、演奏する人の手や指の動きが目に入る。特に、前面に位置するヴァイオリン奏者の動きから目が離せない。指揮者は、もちろんのことだが何人もの演奏者の前方から後ろの隅の人まで気を配っているのが、そのせわしい動きからわかる。
聴いている方も、ライブでは目と耳が同時に活動している。もちろん、退屈なときは気づかれないようにだが眠ってもいいのだが(どの会場でも、「演奏中に眠らないでください」という注意書きはないように思う)。
何事もそうだが、生(なま)に勝るものはない。
すべてのものは五感で感じないといけない。
演奏を聴いて改めて思うのは、交響曲は一編のドラマだということである。文字ではない、起承転結がある音による物語だということである。
三大交響曲の生演奏を1日で聴けたことは、僕のように怠けものにとってはよかった。それにしても、交響曲は長編小説のように重く感じた。僕の最近の気分のせいかもしれないが。
僕にはまだ、ヴァイオリンやピアノのソナタ、または協奏曲、あるいは室内管弦楽の演奏あたりが気が落ち着くようだ。