かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

□ インターセックス

2009-04-23 19:12:08 | 本/小説:日本
 箒木蓬生著 集英社

 インターセックスとは、聞き慣れない言葉である。
 生物学的に、人は男と女の2種類に分類されるとされてきた。人だけではない。動物は雄と雌に分類されてきた。
 ところが、そのどちらかに当てはまらない第3の性があるというのである。それをインターセックスという。
 身体は男でも気持ち(精神)が女、あるいはその逆の、性同一障害(GID)とも違う。性同一障害の場合は、外見上、つまり肉体(身体)的には男性か女性である。成長したあと、成形手術により身体を気持ちに合わせる人もいる。
 インターセックスは、生まれたときから外見上、性の区別がつきにくい、あるいはそのどちらもが顕出している場合をいう。個人差があるが、性が混在しているのである。
 古くから半陰陽といわれ、あまり表に出ることはなくほとんどが隠されてきた。

 この本は、そのインターセックスを小説という形をとり、現在の状況をリアルに描いたものである。
 生まれてきたときの親の動揺と、その後世間には隠しながら、どちらかの性に統一するために幼児期より性器への手術が繰り返されてきたこと。それにもまして、本人のいわれない悩みが、具体的に描かれている。
 専門用語を使っているが、小説仕立てなので分かりやすい。

 著者は医者である。と同時に、多くの著書を出している作家でもある。東大仏文科を卒業後、テレビ会社に就職したがほどなく辞めて、九大の医学部に入り直し医者になったというから、医学関係の小説が多いのもうなずける。
 もともと医学部出身、医者だったが作家になったという人は、わが国でも文豪森鴎外をはじめとして数多い。有名な作家だけでも安部公房、山田風太郎、加賀乙彦、渡辺淳一、それに最近なくなられた知的巨人、加藤周一などがいる。

 著者は、インターセックスの理解といわれなき偏見からの解放の糸口を探る。そして、この本の中で、性の分類をこう提言している。
 男性は性染色体46XYで、女性は46XXである。これを、普通、maleとfemaleと呼んできた。それに、漠然としか取りあげられていなかった第3の性であるインターセックスをさらに3つに分けて、全体を5つに分類するというものである。
 性染色体はXYでありながら性器の外見は女性である人をhem。逆に性染色体はXXであっても女性性器が欠如していて男性化している場合をmem。そして、男性器と女性器の両方を持っている人をhermとする。

 小説は、説明的だと感じるが、インターセックスと現在の病院のあり方と問題点を考える上では格好である。それに、推理小説のように最後にうまく頂点を持ってきている。
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◇ ワーロック

2009-04-21 00:51:27 | 映画:外国映画
 エドワード・ドミトリク監督 リチャード・ウッドマーク ヘンリー・フォンダ アンソニー・クイン ドロシー・マロン ドロレス・マイケルズ 1959年米

 男の生き様とはなんだろう。自分のやることに命を賭けることなのか。信念を貫くことなのか。
 西部劇は、勧善懲悪がはっきりしていて分かりやすい。だから、あまり好きにはなれなかったし、熱心に見てもいない。
 例えば、普通の何の変哲もない街に荒らくれどもがやってきて、それを保安官が守ることになる。善良な街の人たちは、どのみち強いものに従うしかない。
 大体は保安官が英雄になるのだが、ときには街は悪党どものいいなりになったり、保安官が悪党になったりする場合もある。
 西部劇だから、そこでは撃ち合いになり、決闘が行われ、死は常に身近にある。その当時は法も整備されていないせいか、簡単に殺し、あっけなく死んでいった。
 日本の江戸時代も、死は軽かったという話を聞いた。もっとも江戸時代は天下泰平の時代だから武士は刀を持ってはいても、そう殺傷事件は起きていない。
 そういう殺傷とは別に、命は軽かったという。
 花魁や娼婦などが、「もう生きるのがいやになっちゃったから死のうかしら。一人で死ぬのはいやだからあんた一緒に死んでくれない?」
 「ああ、おれも生きていてもどうってことないから、いいよ」
 といった具合の軽さだったという。
 それというのも、医学が進歩していないので、命も短かった。乳幼児の死亡率が50パーセントぐらいだったといわれているので、子供がちゃんと生き延びるのは大変なことだったのである。
 それに、庶民はそうのうのうとは生きてはいけない経済状態であったはずだ。当然、日本も追いはぎや強盗は多かった。

 映画の物語は、暴れ者集団が我が物顔で住む西武の街、ワーロック。
 この街の住人は、自衛のために自分たちで私設保安官としてクライ(ヘンリー・フォンダ)を雇う。クライは超一流の銃の腕前だ。そのクライと一緒に街にやってきたのは、いわくありげな賭博師のモーガン(アンソニー・クイン)という男。
 モーガンはいかがわしい男だが、クライの影の片腕だったのだ。いや、影というより2人は暗黙の固い友情で結ばれていた。
 腕の立つクライは暴れ者を街から追い払うが、黙って追い払われるのは臆病者というレッテルが貼られるので、そうは素直に退散といかないのが悪党といえども男の心情という筋立てである。だから、争いごとが起きる。

 強引なやり方で暴れ者を追い立てるクライに、街の住民は素直に歓迎しているわけではない。このあたりが、正式な保安官でない男に対する住民の疑心暗鬼なのだろう。
 暴れ者一味から抜け出していたギャノン(リチャード・ウッドマーク)が、街の正式な保安官(映画では群保安官補)になる。ギャノンは、実の兄弟でも対決の姿勢を崩さない純粋な男である。
 モーガンは、保安官のギャノンが街の正義の味方になると、クライが悪役になると案じ、ギャノンを殺した方がいいと主張する。それどころか、自分の意見に耳を貸さないクライにすら銃を向けようとする。そして、この町を出ようとクライに言う。
 クライは、この街の女と恋仲になり、この街に残るので、君一人で町を出ろと言いはるのだった。
 モーガンは、クライと別れることがたまらなかったのだ。このあたりがクライには分からないモーガンのホモセクシャル的感情が見え隠れする。
 クライの行くところ問題が起こり、クライの強引なやり方では人が死ぬので、街の人たちは彼に町から出て行ってほしいと思うようになる。
 クライは、自分にも刃向かう盟友モーガンを殺してしまう。彼の本当の気持ちを知らないで。
 さらに、クライに町を出て行くように告げた保安官のギャノンと決闘する羽目になる。
 「町に平和が戻ったら、俺は邪魔者さ」と言う彼自身の言葉通り、最後は、クライは街を去る。やはり、西部劇のラストシーンであった。

 西部劇は単純な勧善懲悪で構成されていると言ったが、この映画は様々な要素を含ませている。
 冒頭にあげた、男の生き様。死をも賭けるのが男なのか。
 ホモセクシャルにも似た男の友情。男の友情は、女への恋心と違って、分かりづらい。失ってはじめてその大事さを知るのだ。
 さすらいと定住。西部のガンマンはさすらいが定めだ。定住しようと思ったとき、何かを失う。その何かとは、自分自身でもあり、男の友情でもある。
 
 かつてアメリカの良心を代表する俳優と言えば、ゲーリー・クーパーであり、グレゴリー・ペックであり、ヘンリー・フォンダであった。
 だから、この映画の良心はヘンリー・フォンダだと思っていたが、どうもニュアンスが違う。彼は雇われガンマンでさすらい者であり、良心はリチャード・ウィドマークであった。
 しかし、存在感は何と言ってもヘンリー・フォンダであり、あくの強い俳優アンソニー・クインであった。
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◇ 伯爵夫人

2009-04-14 16:15:31 | 映画:外国映画
 チャールズ・チャップリン監督・脚本 マーロン・ブランド ソフィア・ローレン シドニー・チャップリン ティッビ・ヘドレン 1966年米

 「伯爵夫人」という響きは、なんとなく優雅で上品で、それでいて決して高圧的でなく、憧れから恋の対称として考えられる女性というイメージがある。公爵夫人でも男爵夫人でもなく、伯爵夫人である。
 貴族の階級は、公、侯、伯、子、男爵という序列になっている。これは、明治以降、華族をはじめとする士族(武士大名)を含めて、階級を一新した結果生まれたもので、中国の五経の一つの礼記に倣ったものである。この爵位を、西洋の貴族にも当てはめて応用している。
 この序列でも分かるように、伯爵は中位である。この、中頃というのがいいのだろう。
 
 映画のタイトルは、「A countess from Hongkong」である。つまり、「香港からの伯爵夫人」ということである。
 香港には、元来伯爵がいないから、どういうことかと思う。
 それは、すぐに分かる。
 冒頭、香港の街が映しだされる。その中の一つの店がクローズアップされる。その店先には、英語で「伯爵夫人と踊れます、料金50c(セント)」と看板が掲げられている。
 つまり、ダンスホールであり、やんごとなき夫人もしくは令嬢と踊れると、男心をくすぐる誘惑文である。なにやら、話によっては売春も可能のようである。
 伯爵夫人は、ほとんどが上海からきたロシアの没落貴族の夫人(未亡人)で、やはり様々な階級の貴族がいる。しかし、ここでも店の看板は、伯爵夫人(countess)なのである。
 やはり、どこの国でも伯爵夫人が最も魅力的なのであろうか。

 船で世界を廻って香港に着いたアメリカの高級外交官オグデン(マーロン・ブランド)は、船内でのダンスパーティーの色添えという趣向もあって、この伯爵夫人たちを紹介される。その中の一人が伯爵夫人ナターシャ(ソフィア・ローレン)で、彼女は香港を脱出しようと、彼が飲み過ぎて寝込んでいるうちに彼の船内の部屋に潜り込む。
 翌日目が覚めた彼は、自分の立場もあるので追い出そうとするが、船は香港を出ていって、彼女は船内の彼の部屋に隠れとどまることになる。
 最初は二人は言い争いの繰り返しだが、次第に恋心が芽ばえるというお決まりのコースとなる。
 
 チャールズ・チャップリンの最後の監督作品である。
 主演のマーロン・ブランドが42歳、ソフィア・ローレンが32歳と、脂ののりきった頃の作品で、二人を見ているような映画である。
 この後、円熟期に入ったブランドは「ゴッドファーザー」で男の存在感を見せつけるし、既に女としての円熟期に入っていたローレンは、「ひまわり」を撮ることになる。
 イタリア人の野性的で肉感的で身長170cmあるローレンの相手役となると、同じイタリア人の大柄なマルチェロ・マストロヤンニが多かった。彼女のインパクトの強さに太刀打ちできる男は、ハリウッドでも当時そういない。その点、ブランドはまったく見劣りしてなく、周囲を圧倒していた。
 映画の中で、ローレンの脱ぎすてたブラジャーがブランドの部屋から見つかり、それを広げる場面が出てくるが、いやはや大きい。西瓜がくるめそうである。
 
 映画全体は、あのチャップリンの監督作品にしては風刺も乏しく笑える場面も少なく、もの足りない。この手のラブ・コメディーは、マリリン・モンロー主演で多く作られたと思った。
 映画の中で、ブランドの友人で彼の片腕の渋く演技もうまい男(シドニー・チャップリン)が出てくるが、彼がチャップリンの息子だということをあとで知った。チャップリン本人も、ちらりと画面に顔を出している。
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やはり千鳥ヶ淵の桜

2009-04-08 03:15:44 | * 東京とその周辺の散策
 平年より7日も早い3月21日に開花宣言が出された東京の桜は、4月2日に満開だと言われたが、本当の満開は先週末の4月4、5日が見頃だったようだ。
 開花宣言から満開までこんなに遅れたのも珍しい。
 ここ3年の桜開花状況は、開花が3月20~22日で、満開は、3月27~29日である。地球温暖化の影響か、開花も満開も早くなってきていたのだが、今年は、開花からずっと桜も花見を期待する人も忍耐の時期が続いた。
 寒い日が続き、近所の多摩の桜も咲きそうでなかなか咲かなかった。家でも、4月に入ってもまだ暖房をつけるという状況だった。
 多摩も、先週末の土、日あたりからやっと桜は満開になった。多摩センターあたりの乞田川の周辺も、桜が川に向かってしなだれて咲いた。
  川に向かって花を湛えた枝がなびくさまが、規模は問題にならないが、千鳥ヶ淵の桜を連想させた。
 
 毎年見に行っていた千鳥ヶ淵の桜であるが、やらなければならないことを怠けてやっていないので、精神的な余裕がなくなり、今年は見ることはないかなあと思っていた。そう思っていた矢先の先日6日、急に学生時代の先輩から電話があって7日会うことになった。
 電話している最中に、もしかしたら桜に間に合うかもしれないという考えが頭をよぎった。
 それならばと、待ち合わせを夕方、靖国神社の大鳥居下にして、千鳥ヶ淵の桜を見ようということにした。
 靖国神社も、千鳥ヶ淵の桜も、満の満開だった。

 九段下から千鳥ヶ淵の沿道を歩いて、番町の交差点あたりに来た頃、陽が沈み、遠くのビルを赤く染めた。空には月が出ている。
 夕日と月と花が揃った。

 この日(7日)は風がなかったが、それでも少しの風で、花弁がハラハラと舞った。帰り道、花弁で茶色の沿道は見る見るうちに白く染まった。
 夜の桜のライトアップも、今日が最終日であった。
 ようやく千鳥ヶ淵の桜に間にあった。
 その代わり、やるべきことがまた先延ばしになってしまった。
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◇ ショーシャンクの空に

2009-04-05 01:09:02 | 映画:外国映画
 スティーヴン・キング原作 フランク・ダラボン脚本・監督 ティム・ロビンス モーガン・フリーマン 1994年米

 人生は短いのだろうか、長いのだろうか。
 例えば、刑務所の塀の中で20年を暮らすということは、その人の人生の中で、どのようなことなのであろうか。いや、例えばもっと長く人生の大半である50年を暮らすということは、どのようなことなのであろうか。その人の人生とは、塀の中だったというのだろうか。
 それは、籠の中で飼われた鳥のようなものだろうか。

 籠の中の鳥にしても、檻の中の動物にしても、籠や小屋の中のペットにしても、長い間その中の世界で生活していると、外の世界で生きていけなくなる。最初は閉じこめられると嫌で抵抗するとしても、長い間閉じこめられ世界で食事を与えられると、次第にそこに飼い慣らされていく。
 動物でも人間でも、長い間鎖に繋がれた生活をしていると、そのことに依存するようになるのだろうか。いつしか外の生活に順応できなくなり、自由が逆に不自由な重荷になり、まだ飼われていた方がいいと思うようになるのであろうか。
 それほど自由な下界は、厳しく生きづらいものなのであろうか。

 映画のタイトルのショーシャンクとは、刑務所の名前である。その刑務所での生活を余儀なくされた男、いや刑務所で暮らす複数の男たちの話である。
 原題は、「リタ・ヘイワースの刑務所」。リタ・ヘイワースとは、戦後ハリウッドのセックス・シンボルとなった女優である。

 エリート銀行マンだったアンディ(ティム・ロビンス)は、妻とその浮気相手の殺人容疑で無期懲役の刑でショーシャンク刑務所に入れられる。無実であるが、刑務所の中で年月は容赦なく過ぎていく。そこには、何年も何十年もそこで暮らしている人(囚人)たちがいて、塀の中の秩序があり、掟がある。
 アンディはその中でも、自分らしさを失わず、尊厳を持って生きていく。あるときは傷つきながら。そして、レッド(モーガン・フリーマン)という黒人の男と友だちになる。この物語は、レッドがアンディを語るという構成を取っている。

 レッドが刑務所生活を語る場面がある。
 「この塀は魔物だ。初めは憎む。次に慣れる。そのうち依存するようになる」
 この塀の中で50年を送った男は、こっそり雛を見つけて、鳥を飼っていた。その男が、仮出所することになり、「もう、お前を飼えなくなった」と言って、鳥を窓から逃がす場面は象徴的だ。
 男は、外の世界に出ていくのだが、もう老人である。自由になったとはいえ、その身で現実の中で生活するのは辛い。彼は、壁に自分の名前である「ブルックスここにありき」と書いて死んでいった。塀の中で彼の死を知ったかつての囚人の仲間たちは、この中で死なせてあげたかったと呟く。

 この映画は珍しく女性が登場しない。映画の初めに主人公の妻が愛人と戯れている場面が出てくるが、それは事件の証明としてであって、物語に絡むというものではない。
 女性が登場しないと言ったが、ある意味ではこの映画で最も重要な役どころといえるのが、原題にもなっているセックス・シンボルのリタ・ヘイワースである。しかし、登場するのは、ポスターとしてである。
 リタ・ヘイワースは、時とともに、マリリン・モンローに代わり、ラクウェル・ウェルチに代わっていく。
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