かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

桜はリバーサイド

2020-03-30 01:56:40 | 気まぐれな日々
 *誰も知らない昼下がりが下がったとき
  町の角からひっそり家を出る
  老いた一人は夢中になることもなく
  不安を隠して花見の旅に出る

 いつもはこの季節、古い友人たちと皇居濠・千鳥ヶ淵に桜を見に行くのだが、新型コロナウイルスが浸透している折、今年は見合わせることにした。
 だから、3月26日昼すぎ、一人で近くの多摩の桜を見に静かに家を出た。

 まず、小田急・唐木田駅から多摩センターに向かったところの「鶴牧西公園」へ。
 ここは、ニュータウン前の多摩丘陵の名残りである雑木林や竹林と、後で植えられた様々な樹木が混在している、丘陵の高低差を楽しめる公園だ。
 桜も多くあり、特に樹齢200年という大樹の、ピンクの滝のような枝垂桜が例年目を潤してくれるのだが、今年は色も褪せて花弁も少ない。なんだが、老化が身につまされる。

 鶴牧西公園の西側には、北に向かって細い川が続いている。その用水路にも似た川が乞田(こった)川の源流水域である。
 この細い川に沿って北へ進み、小田急多摩線、京王相模原線の高架を抜けると川はやや東の方に向きを変え、ちゃんとした乞田川という形の川になる。
 この乞田川は多摩ニュータウン通り(東京都道158号小山乞田線)に並行して東北東に延び、多摩ニュータウン通りは永山あたりから鎌倉街道となり、乞田川は連光寺あたりで大栗川に合流し、多摩川に流れ込む。

 「乞田川」の本流に来たら、桜が目に入った。
 乞田川は両サイドに歩道があり、多摩センター駅の西から東へ向かった永山あたりまで、約3キロの桜並木となっている。桜はちょうど満開である。
 桜は吉野のような山桜もいいものだが、水辺の桜はまた異なった情緒を醸し出す。
 水に映える桜といえば、まず千鳥ヶ淵であるが、多摩の乞田川の桜並木も捨てたものではない。川辺に垂れ延びる桜のさまは、千鳥ヶ淵と比べるのは畏れ多いが、劣るとも勝らない景観である。(写真)

 時世柄か、行き交う人もめったにない乞田川の桜並木を歩き進み、多摩センター駅の先の上之根橋を超えたあたりの右(南)側に「吉祥院」がある。
 鎌倉時代初期の創建という古い寺で、都の天然記念物に指定された樹齢600年という驚きの枝垂桜があったそうだが、今は枯れて、その子孫が花を咲かせている。
 境内にはあちこちに桜を見つけることができる。
 護摩堂、鐘楼の裏手はなだらかな丘のような勾配があり、それに沿って墓が並び、上がったところに見事な白い花を鈴なりにつけた山桜が佇んでいた。

 吉祥院を出て、乞田川に向かう道に即して鳥居が建っていたので、中に入った。境内は駐車場になっている小さな「八幡神社」だった。
 八幡神社を出て、再び乞田川の桜並木に出た。いつしか、もう黄昏時だ。
 さらに川沿いの桜道を東の方に歩いていくと、川の向こうに、明かりのついたガラス張りの建物が見えた。レストランだ。

 *昼間のうちに何度も桜を見て
  行く先を考えるのも疲れはて
  日暮れに気がつけば腹をすりへらし
  そこで老人はネオンの字を読んだ
 
  レストランはリバゴーシュ
  川沿いリバゴーシュ
  食事もリバゴーシュ

 川沿いのその店は、ブーランジェリー「リバゴーシュ」だった。
 店のドアを開けたら、指を1本立てるだけ。
 洒落たテーブルはヨーロッパを思わせる木造りで、すぐにやって来たウェイターが窓辺の席に案内した。メニューを見れば、ディナーのコース料理もあるのだが、この店の売り料理だと思われる気軽に注文できるパスタのなかから、海鮮パスタを注文する。
 食後にゆっくりコーヒーを飲んで、店を出る。

 会計をしながら、主人と思わしき人に、意地悪に「リバゴーシュって何語ですか?イタリア語?」と訊いてみた。
 彼はにやけながら「フランス語ですよ。それが証拠に欧文ではリブゴーシュRive gaucheになっているでしょ」と、よくある質問だといわんばかりに言った。
 「乞田川の左岸にあるから、この名前なんですよね。だったら、どうしてリブゴーシュにしなかったのですか?」と訊き返すと、彼はまた笑い顔で「語呂がよかったから」と答えた。
 「ということは、フランス料理?それにしては、パスタが専門のようだが」とさらに訊くと、「肉もありますよ。しかし、最近はカジュアルなイタリアンっぽいかなあ」と笑った。
 フランス料理ともイタリア料理とも言えない「リバゴーシュ」は、店の名前のように国境がない、いわばEU料理なのだろう。

 川沿いのレストランを出たら、外はすっかり暗くなっていた。
 そして、川沿いの並木道を引き返した。
 今度は夜桜を見ながら、夜の長さを何度も味わった。

 桜はリバーサイド
 水辺のリバーサイド
 一人でもリバーサイド

    ――参考「リバーサイド ホテル」井上陽水

 *リバーサイド、追伸4.14

 あれから半月余。この日は、小田急多摩線・永山駅から多摩センターまで、乞田川の桜並木を歩いた。
 桜の多くは葉桜に変わっていたが、たまにまだ我慢強く花をつけている木があった。花の色が白いので山桜だろう。
 この日は、レストラン「リバゴーシュ」の対岸の道を歩いた。つまり、リブ・ドロワット(Rive droite)である右岸を歩いた。
 すると、リバゴーシュの斜め向かい辺りで、建物の塀から掲げられた白い小さな看板が目に入った。そこに書いてあったのは、「シャトー リバーサイド」。
 その建物の名前である。通りからは想像もつかない、1階の玄関に繋がる階段に鉢花が並んだ飲み屋(今は休業中)がある、3階建ての洒落たマンションだ。

 シャトー(お城)はリバーサイド
 川沿いリバーサイド
 向かいにはリバゴーシュ


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私小説② 文豪とは誰か?

2020-03-24 01:41:57 | 本/小説:日本
*文学全集の時代

 現在、文豪と呼ばれる人はいるのだろうか。いるとしたら、誰だろう。
 文豪は、私が子どもの頃はいた。いや、私の若い頃、少し前にもいた。
 その当時、この人は文豪だと思っていたわけではないが、その基準は図書館に行けばわかった。棚に並んでいる文学全集に載っている作家、それは紛れもなく文豪たちだった。
 今の時代はどうだか知らないが、私らの戦後世代は、日本文学全集、世界文学全集で育った。文芸出版の各社から、競作のように全集が出ていた。子ども向けの、少年少女世界の名作文学などもあって、世界の文学に馴染むこともできた。
 だから、明治以降の大方の有名な作家の名前と代表作はおのずと目に入っていたし、夏目漱石や森鴎外、芥川龍之介などの著名な作家の本は手にとるし、読まずとも全集のなかに見つけることができる作家であれば、その作家は偉大だと暗黙に了承するのだった。
 それが証拠に、彼らは半世紀たった今でも、文学史をひも解くと名前が出てくる作家たちで、作品は図書館で手にすることができる。
 それで、谷崎潤一郎、川端康成以降、全集に載っている現代の作家は誰だろう。
 それはそうと、そもそもかつてあれほど栄光を誇った文学全集が、近年発行されたというのをとんと聞かない。

 そう思っていたら、もう数年以上前になるが、私が佐賀に帰っているとき小さな大町図書館で、池澤夏樹の個人編集による「世界文学全集」(河出書房新社)というのを見つけて、何冊か借りたことを思い出した。
 世界文学全集といえば、ゲーテの「ファウスト」やスタンダールの「赤と黒」、ドストエフスキーの「罪と罰」、トルストイの「戦争と平和」などの古典が思い浮かべられるが、この全集はそうではない。
 ジャック・ケルアックの「オン・ザ・ロード」(路上)が、第1巻であるのに象徴されるように、今までの全集にある古典とは異なる、池澤が選んだ新しい世代に趣をおいた全集(全30巻)である。マルグリット・デュラスやフランソワーズ・サガン、それに、アルベルト・モラヴィア、ル・クレジオ、ウラジーミル・ナボコフなどの有名作家もいるが、私が知らない作家も多くあって新鮮なラインナップだった。

 その後、同じ池澤夏樹の個人編集による「日本文学全集」も同じ出版社から刊行された。「古事記」をはじめとする古典から近現代文学まで全30巻である。
 ここでは、日本の古典文学を今活動中の作家たちが現代語訳しているが、既に源氏物語などは文豪による現代語版が何冊も出版されているから言及はしない。
 問題の近現代の文学には、どのような作家が入っているのかと注目してラインアップを見てみた。掲載されているのは、文豪と呼ばれる作家から現在進行形の作家まで多彩な顔触れである。
 文豪の代表作が入っていないのは、既刊の文学全集もしくは文庫本で読んでくれというのだろう。しかし、当然入っているべき文豪が入っていなくて、なぜこの作家がという人が入っている。
 これには、著作権の問題と出版社の事情および編者の池澤夏樹の趣向等々が入っているのだろう。つまり、文学全集というより文学選集というべきものなのだろう。
 今ある作家の作品が、半世紀後にも生き延びているかどうかは、誰も計り知れない。今日、毎年大量に出版される小説の命は、どんどん短くなっている。

 *私のなかの文豪

 私のなかでは、文豪とは作品の評価だけではない。作品の質というよりむしろ、その生き方が文学的、あるいは哲学的、もしくは芸術的であることである。そして、“異端”が多かれ少なかれ本質的に内包されていると思う。
 文豪とは、個人的には近・現代作家では、谷崎潤一郎、永井荷風、中村真一郎、大岡昇平、安部公房、吉行淳之介などが思い浮かぶ。
 この他にも、川端康成、三島由紀夫、井上靖、松本清張、古井由吉、森敦、大江健三郎なども加えられる。
 やはり、大御所になってしまった。

 必ずしも、亡くならなければ文豪と呼ばないわけではないだろう。勝手に、自分のなかで文豪を思い浮かべてもいい。
 今日、あるいは今後、文豪と呼ばれる作家の誕生は、作家が排出される量に反比例して少なくなっていくように思う。その土壌となっていた文壇バーも少なくなっているようだし、異端も無頼も減っている。
 これから、誰が文豪の道を追うというのか?
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私小説① “私小説”における覗き見的誘惑

2020-03-10 01:58:50 | 本/小説:日本
 私小説は、ある意味では小説より面白い。
 自分の体験をもとに物語を書くというのは多くの小説にみられることであるし、想像が広がる創作・物語の世界は面白いが、その人となりの個人的体験談も違った好奇心を刺激させる。
 作家(筆者)の体験を事実に基づいて語る自伝的色彩をもつ私小説は、純粋な小説とは同じ描かれ方にしても受け取る側の感情や読む印象がかなり違ってくる。何しろ、主人公は書き手本人だからだ。
 小説の「そういうこともありうるよなあ」から、「そういうことがあったのだ」と私小説の受け取り方は変わってしまう。
 自分の体験を書くのに、粉飾、創作の誘惑をぎりぎりまで抑え込み、それまで蔽い隠していた生身の自分を思いきり晒した作品は、その人の思わぬ実像が浮かびあがり、ときに驚きの発見があり、さらに作者への感情移入が重なることになる。
 つまるところ上質の私小説は、その人の本質を帯びた人生を覗き見、伺い知ることで、物語を上回る皮膚感覚でその作中人物、つまり作者に浸透できるということだ。
 うまくいけば、主人公(作者)と同じ視線でそこに立ち、一緒に歩くことができる。

 *作家の生身を見る、私小説の快楽

 私小説は、人生のある程度の域に入った人の作品が面白い。
 というのも、ある程度年を重ねると、若いときの気負いも衒いも取り去ることができ、もうそろそろ人生の締め切りが見えてきたので、覆い被せていた真実を語ろうという気になるからだろう。
 
 もはや職人芸とも名人芸ともいえる川崎長太郎をあげるでもなく、檀一雄の戦後の出世作ともいえる「リツ子・その愛、その死」は私小説だし、彼の代表作で遺作となった「火宅の人」は、私小説の最たる傑作といえる。
 なかにし礼の、兄のことを書いた私小説、「兄弟」や、満州体験を基に書いた「赤い月」、癌を患ったあと人生の集大成として書いた「夜の歌」等は、積年の告白にも似て、直木賞受賞作の「長崎ぶらぶら節」より、はるかにコクがあるし読みごたえがある。
 伊集院静も自伝的小説が面白い。色川武大との交流を描いた「いねむり先生」や「愚者よ、お前がいなくなって淋しくてたまらない」なども私小説といっていいだろう。

 告白といえば、三島由紀夫の「仮面の告白」も自伝的小説と捉えられているし、永井荷風の初期の海外滞在を描いた「あめりか物語」や「ふらんす物語」、向島・玉の井を舞台にした「濹東綺譚」や、谷崎潤一郎の「痴人の愛」なども、私小説として読むと作家への距離が縮まった感じがする。
 伊藤整の自伝的小説「若い詩人の肖像」は、瑞々しい「雪明りの路」を思い浮かべさせた。
 情愛もの作家として有名な渡辺淳一であるが、初期の名作「阿寒に果つ」は、儚い青春を描いた優れた私小説といえる。

 私はSFや推理小説等のエンターテイメント系の小説はほとんど読まないが、作家がある時期からそれまでの作品群とはまったく異なった作品、自己の内面を吐露した小説を発表することがある。晩年に発表した告白ともいえる、彼らの体験を基にした私小説を読むと、イメージでしか知らなかったその作家の生身に触れたようで興味深い。
 SMものなどの官能小説の第一人者であった団鬼六は、晩年にしみじみと「最後の愛人」を書いたし、バイオレンス官能作家だった勝目梓は、70代で「小説家」、「老醜の記」と私小説を発表し、違った素顔を見せた。
これを書いているとき、先の3月3日に勝目梓が亡くなったと報道された。享年87。

 思うに、私小説が面白いのは、文豪、無頼派、異端といった、生き方そのものが個性的な作家だ。

 作家ではないがサルトル研究家でフランス文学者の海老坂武には、同じ「シングル・ライフ」のなし崩し独身者として、世代は違うが共感を抱いていた。
 彼の自伝である「〈戦後〉が若かった頃」、「かくも激しき希望の歳月」、「祖国より一人の友を」の3部作は、フランス、女性、映画への思いと愛、それに政治へのアンガージュマン・スタンスなど、共鳴と同時に羨望を持って読んだ。
  ・「海老坂武の世界」①~④―→ブログ(2012.6.13~7.20)

 そうなのだ。私小説の魅力は、作家への感情移入と同時に共感、共鳴であろう。
 私小説を書かない作家もいるが、それとて彼もしくは彼女のイマジネーション・創作の源はそれまでの体験、経験である。それまでの人生といってもいい。
 そういう意味では、あらゆる小説にその書き手の個人的体験が内包されていると言える。それをあからさまに表したのが私小説ではないだろうか。
 極言すれば、あらゆる小説に私小説の痕跡がある。

 そして、島田雅彦がこのたび私小説「君が異端だった頃」を書いた。


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