かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

◇ チャップリンの独裁者

2006-07-30 15:05:48 | 映画:外国映画
 チャールズ・チャップリン監督 チャールズ・チャップリン ジャック・オーキー ポーレット・ゴダード 1940年米

 チャップリンは、喜劇王だけではなかった。希有なストーリーテラーでもあった。この映画は、随所にチャップリンらしいユーモアを折り込みながらも、物語として素晴らしい完成度となっている。しかも、公開が1940年というから、第2次世界大戦前夜、日独伊三国同盟がなった年だ。
 モデルは、ナチス・ドイツのヒットラーであることはいうに及ばないし、ムッソリーニ(と思える人物)も登場する。映画で、チャップリンは、ヒットラーを徹底的に揶揄する。ヒットラーが全盛期の時期で、よく作ったと思う。奇しくも、チャップリンとヒットラーは同じ年齢だった。
 
 映画の最後の場面での、ユダヤ人の理髪師が総統と間違えられて、演説する13分余は圧倒的である。
 申し訳ないが、私は皇帝になりたくない……
 人生は、自由で楽しいはずなのに、貪欲が人類に憎悪をもたらし、悲劇と流血を招いた。スピードも意志を通じさせず、機械は貧富の差を作った。知識を得て、我々は懐疑的になり、それを賢く使うことができなかった……

 独裁から民主主義へ、機械に使われることから人間の心の解放、自由へ、と訴える。六十数年たった今でも、立派に通用する内容である。
 現実は、この映画が訴えたように、ナチス・ドイツは敗北。第2次世界大戦は、ドイツ、イタリア、日本の枢軸国の敗北で終わる。その後、ソヴィエト連邦をはじめとした東欧社会主義国の崩壊があり、冷戦も終わった。世界は、民主主義主導の平和になるかのように思われた。
 しかし、この映画から70年近くが過ぎた今、民主主義は理想ばかりでないことも見せ始めた。世界各国の軍事力は、肥大化していった。軍事だけでなく、経済が社会を動かす巨大な力を持つようになった。チャップリンが『モダン・タイムス』で、そしてこの映画の演説で訴えた、機械からの支配だけではなく、資本(金)に支配されるようになった。貧富の差は、今なおますます広がろうとしている。
 では、何が求められるのか? 人間は、いま民主主義に代わるものがまだ見つけられないでいる。
 
 この映画で、僕が一番好きな場面は、ブラームスの「ハンガリア舞曲、第五番」に合わせて、理髪師であるチャップリンが客の髭を剃るシーンである。音楽のテンポと髭を剃るパターンが、見る者を緊張させながらも、ぴったり調和した。
 よく考えてみると、この曲をチャップリンが選んだというのは、迫害を受けるユダヤ人と、ジプシー(ロマ)の境遇を照らし合わせたのであろうか。
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東京でフラメンコ

2006-07-26 19:36:27 | 歌/音楽
 もう7月も終わろうとしているのに、梅雨のような鬱陶しい日々が続いた。身も心も暗鬱だ。
 そんな時、「いま、日本に来ています。時間があったら、会いませんか」という1通のメールが届いた。日にちの余裕はなかった。早速、僕たちは新宿で待ち合わせて、彼女の要望であるフラメンコを見に行った。
 
 彼女と偶然知り合ったのは、1995年の秋、僕が会社を辞めたあとスペイン・ポルトガルへの旅に出かけたマドリッドの空港でだった。その時、僕は1か月をかけてマドリッドからアンダルシア地方を周って、その足でポルトガルに向かうのが大まかな旅の予定だった。
 彼女はナースで、趣味でフラメンコをやっているので一人スペインへ勉強に来たと言った。その時は、すぐに空港で別れた。
 知らない国への一人旅の初日は、いつも不安がつきまとう。まず泊まるところと食うことの心配があるのだが、その時はマドリッド在住の友人が迎えに来てくれていたので、その苦労を背負うことはなかった。
 友人の車で空港を出ようとしたとき、彼女が空港のバス停の前でスペインへ来た喜びを体いっぱいに表して、一人目を輝かしていた。僕は、自分が楽をして車に乗っていることに、強い後ろめたさを感じた。そして、彼女に対してすまないという気持ちになり、彼女が僕に気づかないようにと車の窓から顔をそらした。
 一人旅の着いた日の不安と苦労はよく知っているので、それをおくびにも感じさせない彼女を好ましく思った。

 人生は不思議なものである、そして自分の意志でどのようにでも変えられる、と彼女を見ていて改めて思う。
 次の年、マドリッドにいるという連絡が彼女からあった。短期だがフラメンコの教室に通っていると言った。それから、しばしばマドリッドやセビージャのフラメンコの教室に通うためスペインへ行っていた。そうかと思うと、メキシコにいた時もあった。日本にいる時は、せっせとナースの仕事をして資金を稼いでいた。
 いま、結婚してコペンハーゲンの郊外に住んでいて、お母さんの様態が思わしくないので日本に帰ってきているのだった。驚いたことに、日本に長期に帰ってきている間は、契約派遣の形で今でもナースの仕事をしているのだった。明後日には、デンマークに帰るという。
 
 僕たちが行った店は、新宿の「エル・フラメンコ」。本場スペインのフラメンコ・ショーとスペイン料理を供するタブラオだ。オープンしてもう40年になる。その間、数々の本場のダンサーを招聘してきた。
 彼女のお目当ては、いまこの店で公演をしているドミンゴ・オルテガ。「彼は、スペインでも有名で、プロが習いに来ているぐらいなの」と言った。
 僕は、やはり女性のダンサーに目がいった。3人が踊ったが、誰もが素晴らしく躍動的だった。誘惑に充ちたしなやかな身体が舞台で跳ねまわった。哀しみを含んだギターの音と歌と掛け声が、激しく舞台に響いた。
 やはり、本場のダンサーは素晴らしい。

 1995年、僕はマドリッドで友人と別れてバルセロナへ行き、そこから一気にコルドバへ行った。
 コルドバに着いた時は、すでに日も暮れかかっていた。慌ててホテルを探して、タブラオへ行き、フラメンコを見た。それが、僕の初めての本場のフラメンコ体験だった。
 コルドバの次に、グラナダへ向かった。この街を僕は気に入り、ぐずぐずとそこで3日を過ごした。
 そこで、アフランブラ宮殿に対峙するかのように広がるサクラモンテの丘の洞窟で行われているジプシー(ロマ)のフラメンコを見に行った。こちらは、観光客用にすっかりショー化していた。しかし、ジプシーの妖しくも深遠な雰囲気は十分に漂わせていて、味わうことができた。

 フラメンコのダンスは、燃え尽きるような儚さに充たされている。それにとりつかれた人の人生も、羨ましいぐらいにおそらく燃えている。
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◇ 8人の女たち

2006-07-16 15:21:30 | 映画:フランス映画
 フランソワ・オゾン監督 カトリーヌ・ドヌーブ ファニー・アルダン エマニュエル・ベアール イザベル・ユペール ダニエル・ダリュー ヴィルジニー・ルドワイヤン 2002年仏

 クリスマスのイブの日、雪に埋もれて取り残された1軒の邸宅の中で、一家の主人が殺された。その邸宅にいたのは、妻や娘、メイド、そして主人の妹など、女性ばかり8人。
 アガサ・クリスティーばりの舞台と謎解き。そこで、犯人探しが始まる過程で、様々な人間模様が繰り広げられる。だんだんと白日に曝される不倫や欺瞞。偽りの生活。
 
 登場人物がすごい。
 フランスを代表するというより、ヨーロッパを代表する美女であるカトリーヌ・ドヌーブ。話題になった映画『シェルブールの雨傘』が1964年で、『昼顔』が1966年だから、実に40年も前のことである。その間ずっと第一線でいたこと、ましてやその衰えを知らない美貌を見ると、驚嘆を超えて敬服に値する。わが愛しきドミニク・サンダやクラウディア・カルディナーレが、スクリーンから消えて久しいというのに。
 それに、フランソワ・トリュフォー監督の『隣の女』、『日曜日が待ち遠しい』などで主役を演じ、トリュフォーの恋人でもあり、彼の子供も産んだ、ファニー・アルダン。
 『美しき諍(いさか)い女』で、そのコケテッシュでかつ官能的な肉体を惜しげもなく曝した、エマニュエル・ベアール。
 戦前から戦後、ずっとフランス映画界に輝いていた大御所といえる、ダニエル・ダリュー。この人の美貌が世界中の男どもをクラクラさせた『うたかたの恋』が1936年であり、『赤と黒』が1954年だから、息の長さは何と言おう。ドヌーブの前は、この人がフランスの美女代表であった。
 また、『パッション』、『ピアニスト』などで評価の高い、実力派のイザベル・ユペール。

 この映画の中で、僕がことさら眼と耳を凝らしたのは、劇中歌である。8人の女性が歌う歌は、それぞれに人物や物語に合っていて、シャンソンの醍醐味を再確認させてくれる。

 映画の中で、一貫してカトリーヌ・ドヌーブより存在感があったファニー・アルダン。その謎めいた彼女が、挑発的に歌うのは「愛のすべて」。
 私は自由な女 昼と夜を逆に生きているの
 自由に生きることに何の意味があるの? もし人生に愛がないならば……
 成りゆきで楽しみ 私なりの計画もあった
 でも人生にはツケを払う時がやってくる……

 絡みつくファニー・アルダンに対して、ゴージャスな衣装と貫禄さえ漂わせながら、踊りながらカトリーヌ・ドヌーブが歌うのは「あなたは決して」。
 ほかの男は車や宝石や毛皮をくれる あなたは違う
 ほかの男は金を貢ぎ 月さえも贈ってくれる あなたは違う……
 あなたが私の男だから 私はあなたを許す あなたは許さないのに

 がっしりした体躯の黒人のメイド、フィルミーヌ・リシャールは、何事もさらりとやり遂げてくれそうで安心感がある。しかし、彼女は人知れずファニー・アルダンと同性愛に陥っていたと分かる。そんな彼女が歌うのは「ひとりぼっち」。
 孤独が怖いから 人は犬を飼ったり バラを育てたり 信仰に頼ったりする……
 孤独が怖いから 私はあなたを愛する 孤独でないという錯覚が抱きたくて

 そして、最後に歌うのは、もう人生の最終章に来たダニエル・ダリューの歌う「幸せな愛はない」である。
 人間に確かなものはない その力も弱さも心も よりどころがない
 両手を広げてみても その影は十字架
 幸せを抱きしめれば 壊してしまう
 人の一生は奇妙で 痛ましい別離
 幸せな愛なんてない……

 8人全員が、それぞれのシチュエーションで、それぞれの特徴・持ち味を活かして歌っているのだが、僕がこれらの歌の中で最も好きなのは、若いヴィルジニー・ルドワイヤンが妹と踊りながら歌う「モナムール・モナミ」だ。かつてフランス・ギャルが歌っていた時のフレンチ・ポップスに中東のオリエンタルなムードを重ねたような、可愛くて不思議な味の曲だ。
 私の愛する人 夢みる人はあなた
 歌うのはあなたのため あなたなしでは生きられない……

 歌があって、人生の謎が絡んで、出演者はみんな美女とは言わないが個性的だ。男性である主人が出演するのだが、後ろ姿で声もない。場所、つまり舞台も一箇所、しかも家の中だけである。大げさなアクションもCGによる仕掛けもない。しかし、楽しめる一級娯楽品に仕上げられている。
 やはり、久しぶりに見たフランス映画は楽しめる。同じエンタテイメントとはいえ、アメリカのハリウッド映画とは味が違う。
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ヴァイオリンの味

2006-07-10 01:48:41 | 歌/音楽
 ヴァイオリンのコンサートへ行って来た。専門家でない者にとっては、音楽のコンサートは、芝居と一緒で、大ファンでもない限り、知りあいが出演しているとか、何か縁がないと行かないものである。
 僕のヴァイオリン教室の先生が出演するというので、これは是非と言って鑑賞した。「MARI室内合奏団」による弦楽奏コンサートである。会場は、府中グリーン・プラザ・けやきホール。ヴァイオリンを中心に、ヴィオラ、チェロ、ベースの合奏であった。先生は、賛助出演ということで、残念ながら独奏はなかった。

 まずは、モーツァルトの「ディベルティメント」より第2番、そして楽しい第1番である。
 僕は、島田雅彦のデビュー作「優しいサヨクのための喜遊曲」を、何という気障なタイトルをつけてとずっと思っていた。恥ずかしながら、その喜遊曲がディベルティメントなのだとは、最近知ったのだった。
 それを知ってから、ディベルティメントを聴くのが楽しくなった。何しろ、読んで字のとおり喜遊曲なのだ。話は逸れるが、最近の島田雅彦は、「レクィエム」を書いているようだが。

 音楽は素人を承知で言ってしまうと、ヴァイオリンはワインのようだと思った。
 独奏の最初は、小森奈緒美さんである。曲は、モーツァルトの、やはり「ディベルティメント」第17番より「メヌエット」である。
 若さを卒業し、ちょうど脂の乗り切った年頃の優しそうな人である。風情と同じく、流れるように淀みない音色だ。ただただ聴き惚れる。
 この年頃の人は、ブルゴーニュの白であろうか。果実の風味と酸味をたっぷりと含み、芳醇な味が出たころだ。何の料理にも合う。肉にも野菜にも。宴の最初に飲んでもいいし、最後に飲んでもかまわない。何の欠点もない。賛辞のみだ。

 次に独奏された女性は、年配の中村幾代さん。この合奏団のミストレスである。みんなと一緒に座っているだけで、その人だけが違うのが分かる存在感である。曲は、ベートーベンの「ロマンス」ヘ長調。
 演奏も、メリハリがあり力強い。どんどん引き込まれるものを感じる。年齢を感じさせない、それどころか年齢の持つ揺るぎない力を持っているのが分かる。
 もう、熟成したボルドーの赤のビンテージものであろう。料理は、ステーキとチーズぐらいでないと対抗できない。ボルドーの赤、カベルネ・ソーヴィニヨン系は、長く寝かせれば寝かせるほど味にコクが出るが、保存が良くないと、とんでもないもの、つまり出自が分からないものになるから十分な観察が必要だ。

 次は、若い山中美穂さんと鈴木明子さん。現役の学生であろうか、何しろはつらつとしている。曲は、J・S・バッハの「2つのヴァイオリンのための協奏曲ニ短調」。
 表情も変えずに、手が器用に目まぐるしく動くのには感心だ。う~ん、本当に器用だ。羨ましい限りだ。その躍動感を見ているだけでも楽しい。
 このころの演奏家は、若いボージョレーであろうか。若くていいのだ。いや、若いからいいのだ。何しろ、葡萄というより摘み取ったばかりの苺の風味がする。採りたての、さっぱりとしたまろやかな味を楽しむのだ。それはまた、食欲をそそるのだ。これから、どんな味に変わるかは別に、今が旬なのだ。

 最後に、アンコールとして、日本の曲が演奏された。「カエルの歌」とか「カラス」等々で、子どもの頃に聴いたことがある曲だ。指揮者で主催者の梶原マリさんは、「西洋音楽のあとで、お茶漬けを食べたくありませんか」とおっしゃって、これらの日本の曲をトリとして出された。
 しかし、悲しいかな、やはりお茶漬けはお茶漬けである。オードブルから肉を食べてワインを飲んだあとは、デザートを食べるかコーヒーを飲みたい。茶漬けの味は、お琴や尺八でならそれなりの哀愁と味が持てるであろうが、モーツァルトやベートーベンのあとでは、荷が重いのは明らかであった。

 以上は、専門家ではない戯言、「かりそめのモノ書きのための喜遊曲」ですので。
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◇ 誰にでも秘密がある

2006-07-06 02:42:40 | 映画:アジア映画
 チャン・ヒョンス監督 イ・ビョンホン チェ・ジウ キム・ヒョジン 2004年、韓国

 そう、誰にでも秘密がある。僕にも、そして、あなたにも。
 その秘密は、男と女の関係? 隠さなければいけないことこそ、快感の元でもあり、隠すことが重大であればあるほど、味わう快楽も大きい。隠すことの重圧と、そこから引き出される後ろめたさは、苦しさの裏返しである快感に比例する。

 三人姉妹の末っ子は、男性に対して積極的なクラブ歌手だ。内気で学究肌の次女は、男性をまだ知らない大学の研究生だ。長女は、もう結婚していて夫とはいささか倦怠期だ。
 その末っ子、キム・ヒョジンが、金があって格好もいい男、イ・ビョンホンをつかまえて、結婚することになる。その男は、末っ子と婚約したにもかかわらず、3姉妹すべてと関係してしまう。
 複雑な事態に陥った女は、困ったあげく男に詰問する。その度に、その男は言う。
 「誰にでも秘密がある」
 「人間は、一度に一人の人間しか愛せないわけではないんだ」
 初めて男に恋した次女、チェ・ジウは、夢みるようにそっと呟く。
 「泥棒のように私の心に浸入してきた愛」

 映画の中で、挿入される箴言が憎い。
 まず、最初に、三女に。――男の最後の愛が、女の初恋を満足させる――バルザック
 次に、秘やかに、次女に。――愛は雷のように近づき、霧のように去っていく――トップラー
 最後は、淫らに、長女に。――自由よ! その名で罪が犯されるのだ――ロマン・ロラン

 このような映画を僕は嫌いではない。特に、散りばめられた愛の台詞(ディスクール)が僕は好きだ。
 しかし、この映画の元は、1960年代から70年代にかけて話題作を連発した、イタリアのパゾリーニの作品『テオレマ』だろう。
 ある裕福な家庭に、謎の青年が舞い込んでくる。彼は、家族のすべての人間と関係を持つ。男性たちも含めた家族の誰もが、彼に心と身体を奪われる。その中で、家族は崩壊していく。主演は、『コレクター』で特異な演技を発揮したテレンス・スタンプだ。

 家族の誰もが虜になる存在、この普通の人間を超えた“超人”を登場させ、それを現代に置き換え、そして『テオレマ』とは逆に、ハッピー・エンドに仕立てたのが、この『誰にでも秘密がある』だ。
 しかし、この普通の人間を超えた魅惑的な人間の役は、韓流人気俳優のイ・ビョンホンといえども説得力に欠けると言わざるを得ない。美男でなくても、もっとミステリアスさがなくてはいけないのだ。

 ともあれ、以前から思っていたのだが、この映画もそうだが、韓国映画はなんてタイトルのつけ方が上手いのだろう。
 「膝と膝の間」、「三度は短く、三度は長く」、「猟奇的な彼女」と並べると、妄想を、いや想像をたくましくしてしまう。しかし、内容は僕らが想像するようなものではない。いたって真面目で、タイトルが巧妙で思わせぶりなのだ。
 最近のでは、チェ・ジウ主演で、『連理の枝』というのがある。恋愛ものとしては、究極のタイトルだ。『冬のソナタ』などという甘いものではない。内容は見ていないので知らないが、どうも純愛もののようだ。しかし、タイトルから言えば、我を忘れたどろどろの愛欲の物語だ。渡辺淳一の小説『愛の流刑地』をも勝るものだろう。
 『連理の枝』と来れば、姉妹編として『比翼の鳥』も、韓国映画として作ってほしい。願わくば、『オールイン』のソン・ヘギョ主演で。

 ――人生で最も楽しい瞬間は、誰でも分からない二人だけの言葉で、誰にも分からない二人だけの秘密や楽しみを、ともに味わっている時である――
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