かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

霧の彼方の、「ラ・フォル・ジュルネTOKYO」2019

2019-05-23 19:15:37 | 歌/音楽
 最近、「哀愁の街に霧が降る」(唄:山田真二、作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正)に凝っている、と書いたら、先週のある朝、起きたら世界は霧が充ちていた。
 視界がぼやけているのだ。明らかに眼に異常をきたしている。哀愁の街どころではなく、暗澹とした街に霧が降っていた。
 あいにくその日は日曜日だったので、翌日すぐに病院に行って診療してもらった。
 人生、何が起こるかわからない。年をとると、明日の命も知れない。年をとらなくとも言えることだが。霧の中の、暗い日々を過ごすこととなった。
 「……涙色した霧が今日も降る……」
 ということで、1週間パソコンを見ず本を読まず文字も書かずに過ごしたのだった。
 そして、世界にやっと少し霧が晴れてきた。
 この間、一人暗鬱たる心を晴らすのは音楽だろう。
 こういう暗澹たる気分はベートーヴェンならわかってくれるだろうと思い、この突然の悲運を心に刻もうと、交響曲第5番「運命」を聴くことにした。
 しかし、心に響かない。次に聴いたのが、ピアノ・ソナタ第8番ハ短調「悲愴」。
 「Pathétique」、僕の弱った悲愴な心に沁みたのだった。

 *「Voyageボヤージュ 旅から生まれた音楽」

 書いたまま放置していた、黄金週間のときに行った音楽の祭り、「ラ・フォル・ジュルネTOKYO」2019(会場:東京国際フォーラム)を、遅ればせながら記しておこう。
 この「熱狂の日々」の今年のテーマは、「Voyageボヤージュ 旅から生まれた音楽(ものがたり)」。
 作家には、旅はいろんなインスピレーションと経験を与えるが、音楽家も同じことが言えるようだ。
 モーツァルトはヨーロッパ中を旅しながら名作の数々を遺し、ハンガリーに生まれたリストはコスモポリタンとして音楽活動を行っている。そして、多くの作曲家によって、異国を題材にし、タイトルにした曲が数多く生まれている。
 旅をしていて、国によって音楽の特性が違うのも面白い。このことは、別の機会に譲ることにしよう。

 *9年ぶりに聴いた神尾真由子

 世間では今年は10連休といわれている黄金週間の最中の5月3日、音楽の祭り「ラ・フォル・ジュルネTOKYO」を楽しむために、東京国際フォーラムへ一人ぶらりと出向いた。
 この季節、佐賀に帰ったときは有田の陶器市、柳川の水天宮祭りに行くのだが、東京にいるときは「ラ・フォル・ジュルネTOKYO」がここのところ恒例としている。
 この日、3つの公演を梯子した。

〇「さすらいの音楽」:ロマ&クレズマー×バラライカ!
・16:45 ~ 17:30 、会場:ホールB7
 東欧からロシアまで:流浪の民の多彩な響きがこだまする、エキサイティングな音の旅
 <出演>
 シルバ・オクテット (室内楽)
 アレクセイ・ビリュコフ (バラライカ)
 室内楽団シルバ・オクテットに加えて、ロシアの代表的な弦楽器であるバラライカの奏者による演奏。ロシア民謡やロマ、クレズマー音楽は情熱的でエキゾチックだ。
 バラライカは、ギターに似ているが共鳴胴の部分が三角形をしたもので、バラライカ奏者の表情豊かな顔と演奏は印象深いものだった。

〇「グランド・ツアー」:ヨーロッパをめぐる旅
・18:30 ~ 19:30、会場:ホールB7
 選りすぐりのバロック音楽とともに、18世紀の若者の“自分探しの旅”を追体験!
 <出演>」
 別所哲也 (俳優)
 アンサンブル・マスク (室内楽)
 オリヴィエ・フォルタン (チェンバロ)
 <曲目>
 パーセル、ラモー、マレ、コレルリ、テレマン、バッハ……
 別所哲也の朗読で、物語にのっとった音楽の旅といった構成。18世紀、イギリス貴族の若者たちの間で見聞を広めるため欧州各地を旅する “グランド・ツアー”が流行したという。当時書かれた書簡に着想を得て、ドーバーを発ち、パリ、ディジョン、そしてヴェネツィア、ローマを経てライプツィヒに至るまでの道のりを、音楽とともにたどっていくという趣向が面白い。

〇「チャイコフスキー ~スイスの湖畔で花開く華麗」
・21:15 ~ 22:05、会場:ホールA
 大の旅好きだったチャイコフスキーがスイス・レマン湖畔で作曲した華麗なる協奏曲
 <出演>
 神尾真由子 (ヴァイオリン)
 タタルスタン国立交響楽団 (オーケストラ)
 アレクサンドル・スラドコフスキー (指揮者)
 <曲目>
 シャブリエ:狂詩曲「スペイン」
 チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調
 今回の音楽祭の僕の目当ての神尾真由子は、諏訪内晶子以来日本人2人目のチャイコフスキー国際コンクール、ヴァイオリン部門優勝者である。
 僕は、当時佐賀に帰っていた2010年2月に佐賀市公会堂にて、日本フィルハーモニー交響楽団と共演した時に、初めて彼女の演奏を聴いたのだが、そのときのインパクトは強烈だった。彼女はまだ23歳で、曲はメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調だったが、彼女の放つ熱気が会場いっぱいに溢れていた。
 今回は、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲ニ長調。今では、彼女はロシア人のピアニストと結婚しサンクトペテルブルグに住んでいて、1児の母だ。

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三浦半島散策part3――観音埼、浦賀、久里浜、哀愁の港に霧が降る

2019-05-05 04:22:47 | * 東京とその周辺の散策
 新しい「令和」を迎えて、ふと「平成」とは何だったのだろうと考えた。
 いつのまにか過ぎ去った感じだが、30年の月日が流れたのだ。何事もなかったかのような平成だが、振りかえってみると社会的にも個人的にも様々なことがあったのだった。決して平穏だったとはいいがたい。
 それでも、時代として「平成」が大きな変化がなかったという印象は、先の「昭和」が事件や出来事や、喜怒哀楽や波があり過ぎたからかもしれない。
 また、漢字は表意文字だから、「平成」という字を見たら、心の奥深いところで「平和に成る」もしくは「平和を成す」と連想しているであろうし、「へいせい」という音は、「平静」という意味も重なってきて、「平穏」「平安」にもゆるやかに繋がっていく。
 どう見ても、「平成」からは「波乱万丈」は結びついてこない。
 それに、平成天皇の穏やかな表情である。
 4月30日の「退位礼正殿の儀」における最後の言葉に、平成天皇は「ここに我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります」と結ばれた。
 普段はめったに耳にすることはないし目にかかれない言葉である「安寧」という言葉が、何の違和感もなくすっと自然に入って来た。「安寧」(あんねい)とは、広辞苑によれば、「世の中が平和で、穏やかなこと」とある。
 「平成」とは、様々な出来事があったけれど、「安寧」という柔らかなオブラートの空気に包まれた時代だったのかもしれない。

 * 「平成」の最後に、「三浦半島」へ

 平成の年の最後に、三浦半島を散策することにした。
 三浦半島は半島全体が変化に富んでいて、散策の宝庫である。
 平成最後の月にあたる2019年の4月末は天候が不安定で、最後の日の4月30日は、三浦半島は雨の予想だったので計画を前倒しにして、4月26日に行うことにした。
 湘南の士と三浦半島を散策するのは、2017年の横須賀港・軍艦三笠~猿島、2018年の三崎口~城ヶ島に続いて、3年目の3度目である。
 今回も、士の緻密な計画による、観音埼、浦賀、久里浜散策である。それに、久里浜港から対岸の千葉の金谷までの、船による遊覧というオプション付きである。

 その日の朝、多摩を出たときは雨だったが、昼前に横浜に着いたときは、空は曇ってはいたが雨は降っていなかった。
 横浜から京急線で横須賀市の「堀ノ内」で乗り換え、「馬堀海岸」駅で降りる。馬堀海岸よりバスで「走水神社前」下車。人通りもまばらな静かな通りの向こう側は、すぐ海だ。
 空は雨が降りそうで降らないといった模様で、どこまでも灰色だ。昨日の暖かさとは打って変わって、季節も後戻ったかのように肌寒い。

 「走水神社」は、通りから階段を登ったところに社殿があり、さらに小高い森に分け入る奥に小さな祠がある。いかにも神社らしい神社だ。
 参拝したあとバス通りへ戻り、昼食の飯屋を探す。
 通りには、「〇〇丸」という釣り客相手の看板が並ぶそのなかに、風景に埋もれるような「味見食堂」を発見。この名前を見たとき、僕はすぐに青森の五所川原の駅前にあった「平凡食堂」を思い出した。何とも言えない味のある名前だ。
 何の変哲もない普通の家の扉を開けて中に入ると、意外やスーツ姿の会社員とおぼしき客のグループがいる。
 魚料理がメインの食堂のようなので、アジフライ定食、それに単品でタコの刺身、イカのゲソのテンプラを注文。
 海辺で食べる、何気ない食堂での何気ない魚料理は、何とも美味しい。都心で食うアジフライとは違うのだ。

 * 何はともあれ、「観音埼灯台」を目指して

 「走水神社前」からバスで「観音埼」へ。
 観音埼は公園になっていて、メインの目的地は灯台なのだが、砲台がいくつもあり、海岸部にある「砲台」跡、そこより内陸部にある「堡塁」跡を順次周ることで、観音埼を巡ることになっているようだ。
 三浦半島は、東京湾の入口にあたるので、浦賀にペリー来航以来、明治になり警備のために、「猿島」をはじめ各所に「要塞」が設置されたのだ。

 やがて観音埼の先の「観音埼灯台」に到着。
 白いきれいな灯台である。今にも雨が降りそうな空に包まれて、淋しげに立っているではないか。(写真)
 この観音埼灯台は、日本最初の洋式灯台で、起工は1968(明治元)年、点灯は翌年の1月1日である。この観音埼灯台の起工日の新暦11月1日(旧暦9月17日)が、今日の灯台記念日となっている。
 現在の灯台は3代目で、中を登ることができ、ライトを近くで見ることが可能だ。近くで見る回転式レンズは大きな扇風機のようだ。
 日本で登れる灯台は現在16基あり、入場料は一律200円(子供無料)である。
 今日は曇っているので、海の彼方もかすんで見える。

 * ペリーもやってきた「浦賀」の港

 「観音埼」よりバスで「浦賀」の中心街へ向かい、「新町」で下車。
 「浦賀」は、ペリーが来航した港町だ。通りを歩くと古い町並みが残っている。街は、港が長く食い込んでいて、その両側を繋ぐ橋はなく、渡しの船が今も活動している。
 道沿いの「東叶神社」へ。ここは、勝海舟が威臨丸の太平洋横断の無事成功を願って断食したとされるところだ。
 東から西の湾の対岸へ渡るため、「渡し」へ行くと、船もなく人も誰もいない。向こう岸に船がいるので、呼び出しボタンを押すと、ほどなく船は動いてこちらに来てくれた。
 渡し賃大人一人200円で、乗ったらすぐに出発してくれて、気軽な船旅が楽しめる。
 対岸には「東叶神社」と向きあうかのように、「西叶神社」が待っている。

 ここから、久里浜港からの遊覧の船に乗るため、久里浜港へ向かうことに。
 バスの便が不明なので、タクシーを拾おうとしたがなかなか見つからない。そうこうするうちに久里浜行きのバスが目の前に来たので飛び乗って、久里浜駅の近くの「夫婦橋」で下車。そこから地図を見ながら、久里浜湾の「東京湾フェリー」発着所まで歩くことにする。
 地元の人に道を訊きながら、20分ないし30分ぐらい歩いただろうか、ようやくフェリー発着所に着いた。

 * 久里浜港から金谷港へ――哀愁の海に霧が降る

 久里浜港から金谷港への「東京湾フェリー」は、約1時間に1本出ている。
 フェリーで東京湾を横断し、対岸の金谷港で降りないで、その船で久里浜港まで戻ってくるという、往復の航路を楽しむ「遊覧乗車券」を購入。割引運賃で、大人一人1,030円である。
 17時25分、神奈川県横須賀市の久里浜港発の船は、18時5分、千葉縣富津市の金谷港着。
 船は思っていたより大型で、船内には軽食や喫茶もある。海を眺めながら、ゆったりとしたテーブルでコーヒーを飲むのは心地よい。
 金谷港は、落ち着いた静かな港だった。すぐ先に鋸山が見える。
 日が暮れ始め、金谷の街に灯がともりだす。晴れた日だったら、海に夕陽が見えたことだろう。
 
 18時25分、金谷港発。
 客室の外へ出てみると、霧雨のようだ。
 空は次第に暗くなり、遠くに黒く突き出した三浦半島が見える。
 黒く突き出た三浦半島の先に、灯りがともった。いや、灯りが見えたのだった。観音埼の灯台の灯だ。レンズが回転しているのだが、点滅しているかのように見える。
 誰か、佐田啓二のような灯台守がいるのだろうか。映画「喜びも悲しみも幾歳月」(監督:木下惠介、1957年)のファーストシーンに登場し、ロケ地になった灯台だ。
 昼間目の前で見たというより、中に入った灯台の灯を、その日に海から見るという、またとない体験ができた。
 観音埼の灯台の灯は、あたかも霧の中の哀愁に充たされていた(ように思えた)。
 「日暮れが青い灯(ひ)つけてゆく、宵の十字路
 涙色した霧が今日も降る……」
 最近、「哀愁の街に霧が降る」(唄:山田真二、作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正)に凝っているのだ。

 *

 19時、久里浜港着。
 思ったより賑やかな、久里浜の街を散策。「黒船市場」という名のアーケード街は、何匹もの鯉のぼりが垂れている。5月、すぐに「平成」も終わるのだ。
 ようやく、街中の魚料理の食堂で夕食をとる。
 久里浜の街にも、今日は霧が降る……

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