かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

伝説の女優、岸恵子の「わりなき恋」

2013-06-15 20:32:53 | 本/小説:日本
 岸恵子は、僕にとっては伝説の女優といえた。
 真っ先に浮かぶのは、映画はいまだ見ていないのだが、「君の名は」(監督:大庭秀雄、1953、1954年、松竹)である。
 最初1952(昭和27)年にラジオ放送で始まったこのドラマは、放送時間帯には銭湯の女性風呂がガラ空きになったという伝説がある。
 それに、僕の脳裏には、様々な映画の本で何度も見た、あの数寄屋橋のたもとで、佐田啓二と岸恵子のたたずむ姿のスチール写真の一コマが、脳裏に焼きつかされている。第二次世界大戦・東京大空襲のなか、銀座通りから逃げてきた二人が、初めて言葉を交わしたという数寄屋橋である。
 その写真では、岸恵子は黒いコートにショールを頭から覆っている。当時それは、「真知子巻き」と称して女性の間で大流行した。
 お互いの名前も知らずに、数寄屋橋での半年後の再開を約束して二人は別れるのだが、すれ違いで会えない。その後も、会えそうで会えないじれったいすれ違いが続くという物語である。
 この「君の名は」は、「愛染かつら」と共に、日本のすれ違いドラマの代表作品となった。
 岸惠子の扮する氏家真知子と、佐田啓二扮する後宮春樹 という名前さえも、とてもロマンチックに響いたものだ。

 「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」
 この台詞は、「君の名は」のドラマの冒頭で流れるナレーションであるが、思春期の甘い感傷に浸っていた年頃、この台詞はひそかに流行した。ままならぬ片思いの恋を自嘲的に語ったり、果たせぬ恋に思い悩む男を揶揄したりするときに、この言葉が呟くように吐かれたものだ。

 僕が見た、岸恵子の出演した最初の映画は、幸田文の同名小説の映画化である「おとうと」(監督:市川崑、1960年大映)である。
 幸田露伴であろう作家である父(森雅之)と、宗教に頼っている偏屈そうな後妻の母(田中絹代)のいる少し陰湿で窮屈な家庭で、ぐれそうになる奔放な危うい弟(川口浩)を、愛情を持って受け止める姉を演じた傑作だった。
 ここでは、メロドラマで大衆的な人気を博した女優とは思えない、確かな女優、岸恵子がいた。

 次に見た「約束」(監督:斎藤耕一、1972年、松竹)で、岸の相手役を演じたのは、GSザ・テンプターズを解散した直後の、ショーケンこと萩原健一だった。列車の中で偶然向かい合わせに座った、ちょっとチンピラ風の若い男と中年のいい女。女に興味を持ち、声をかける男だが、女は無視する。実は、女は監視付きの仮出所中の囚人だった。しかし、やがて女は心を開く。
 斎藤耕一は抒情的な映画を撮らせれば抜群の監督で、この映画もフランスのクロード・ルルーシュのような画面だった。少し不良っぽい若者の萩原健一と岸恵子の、二人の湿ったなかに熱さのくすぶっている演技を見て、二人は役を超えた仲ではと嫉妬したものだ。
 のちに萩原は、この映画のキスシーンで、恐る恐る唇と唇を重ねると、岸の舌が入ってきてびっくりしたと述べている。このとき、岸恵子40歳、萩原健一22歳である。
 この映画によって、萩原健一は俳優として認められる。
 岸は、フランス人の映画監督、イヴ・シアンピと結婚していたが、しばしば日本に帰ってきて映画に出演していた。このころから岸は、年下のいい男志向だったのかもしれない。

 「怪談」(監督:小林正樹、1964年文芸プロ=にんじんくらぶ)や、「細雪」(監督:市川崑、1983年東宝)といった名作でも、岸恵子は存在感を示していた。

 1975年にイヴ・シアンピと離婚してからも、岸恵子はフランスと日本の両方に居を構え、自由に行き来し、優雅に暮らしているように見えた。そして、それが若さの源のように思えた。
 フランスと日本の両方で自由に生活をするとは、僕にとっては理想的な生き方と思える。
 僕だって、東京とサガンの両方を行き来し、両方の生活をそこそこ楽しんでいる。サガンは、フランス・セーヌ左岸(リブ・ゴーシュ)ではなくて、サガン町、つまり佐賀の町ではあるが。

 *

 僕のなかで、岸恵子は日本の女優の中で、好きな女優の5本の指に、いや3本の指に入っていた。
 彼女が文を書くのが好きだというのも、僕の好きな要素だった。実際、何冊か本を出している。俳優やタレントの本といえば、ゴーストライターが書くというのが定説だが、彼女は自分で書いているらしい。「私のパリ 私のフランス」(講談社)は、彼女の写真満載のパリガイドのような本である。(写真)
 このときすでにほぼ70歳であるが、若いアイドルやタレントのようにカメラに収まる姿は、確かに年齢を感じさせない。

 そんな岸恵子が小説を書いた。それも恋愛小説で、自分の体験をベースにしたと言われている「わりなき恋」(幻冬舎)。
 もう70歳に差しかかろうとする女と、50代半ばのビジネスマンとの不倫の恋の話である。
 ヨーロッパへ行く飛行機のファーストクラスの隣に座ったことがきっかけで、二人は交際を進めていく。最初に、プラハの春やパリの五月革命などの話が出てきて、こちらの予想に反して硬派の話に発展するかと期待を抱かせる。
 舞台はパリ、プラハ、上海、蘇州、インド、モスクワと飛び、用意される場所は、高級レストラン。話は、予想通りの、いや予想を超えた甘いあま~い展開で、最後まで読み終えるころには砂糖菓子が溶けてしまった。主人公を彼女と重ね合わせると、辛(つら)さが加味され甘さもなくなっていた。
 渡辺淳一の女版を狙ったのであろうか。

 「約束」の恋物語から30年以上が過ぎていた。
 岸恵子は、僕のなかでは伝説の人のままで終わらせたかった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

哀愁の大牟田 

2013-06-07 02:05:20 | 人生は記憶
 佐賀の地方町で育った僕には、隣の福岡県の大牟田市は大都会だった。父親の両親と妹、つまり僕の祖父母と叔母が住んでいた。
 子供のころ、夏休みや冬休みには父や母に連れられてよく大牟田に遊びに行った。僕が少し大きくなったころには、弟と二人で行ったこともあった。
 祖父母の家は平屋の市営住宅だったが、建てられて間もないと思われるきれいな造りだった。桜色の屋根で、小さいながらも庭があり、佐賀のわが家に比べればとてもしゃれていると感じた。
 祖父は隠居していて、書画や木の彫り物を楽しんでいる風流人だった。

 かつて大牟田は、日本有数の石炭の町として栄えていた。文字通り、町の中心に栄町があった。そこには松屋デパートがあり、そこに連れて行ってもらうのが楽しみだった。
 松屋には屋上遊園地があり、その下の階の食堂で、旗のついたお子様ランチを食べるのが何よりの楽しみだった。
 僕が子どもではなくなったころ、石油に代わられた石炭産業は不況になり、1960年代後半からは大牟田も徐々に寂れていった。そして、1997(平成9)年には、町を支えていた三井三池鉱も閉山となった。
 僕も高校を卒業後、東京に出てきてからは、めったに祖父母の住む大牟田に行くこともなくなった。
 そして今は、祖父母も叔母もなくなり、大牟田には住んでいた家屋もない。

 *

 人口の推移を見れば、町の盛衰がよくわかる。
 1960(昭和35)年当時の福岡県の人口を見ると、以下の通りである(千人以下四捨五入)。
 ・福岡市 65万人
 ・八幡市 32万人
 ・小倉市 29万人
 ・大牟田市 21万人
 ・久留米市 16万人
 ・門司市 15万人
 八幡、小倉、門司、戸畑、若松の5市は、1963年に合併して北九州市として103万都市となり、政令指定都市となった。北九州市から遅れること9年後の1972年に政令市となった福岡市が、100万人を突破したのは1975年のことである。

 現在(2013年)の人口はどうなっているかといえば、その後、福岡市への一極集中が加速し、九州におけるミニ東京と化している。
 ・福岡市 150万人
 ・北九州市 97万人
 ・久留米市 30万人
 ・大牟田市 12万人
 福岡市と久留米市を含むその周辺都市が人口を増やすなかで、大牟田市の人口減は著しい。大牟田市と久留米市は逆転している。

 2011年、鹿児島まで延びた九州新幹線の鹿児島ルートが開通し、大牟田市にも停車するのだが、この恩恵を大牟田は得ていない。地図を見てもわかるように、新幹線の停車駅である新大牟田駅は中心街とはほど遠いところで、JRの在来線の駅とも離れたところにある。どうしてこんなところにあるのかと、誰もが疑問に思うところにあるのだ。
 それに比し久留米は、新幹線はJR在来線の久留米駅と直結していて利便性は高い。
 哀しいかな、これでは差がつく一方である。

 *

 5月の半ばのころ、関西に住む弟が少し暇がとれたと言って、珍しく佐賀に帰ってきた。それで、去る晴れた日、二人で大牟田へ行くことにした。いや、もうだいぶん日が過ぎたので、行ったと過去形だ。
 子供のころ行ったように、電車とバスを乗り継いで、歩いてあの家に行くことにした。おぼろげに脳裏に残っている風景をなぞるように、歩いてみたのだ。子供のころの足跡を確認するかのように。

 佐世保線の佐賀駅で降りて、バスで柳川に行った。
 子どものころは、佐賀駅から列車に乗っていた。今では廃線でなくなった佐賀駅から福岡県の瀬高まで通った国鉄の佐賀線で、柳川まで行き西鉄電車に乗り換えていたと思う。佐賀線が廃線になってからは、佐賀からバスを利用していた。
 佐賀線は、佐賀・諸富から福岡・大川に行く途中の、今では重要文化財となっている筑後川に架かる昇開橋を走った。

 柳川から大牟田行の西鉄電車に乗る。
 柳川から、徳増、塩塚、中島と田園地帯を電車は走る。中島では、有明海に広がる河口に何艘も船が停泊している。昔ながらの風景だ。
 さらに、江の浦、開、渡瀬と過ぎて、倉永で降りる。
 倉永の駅の近くに来ると、高いとんがり屋根の建物が見える。「緑の丘の赤い屋根」ではないけれど、歌の文句のようなしゃれた建物だと思っていた。
 倉永の次は銀水だ。銀水で降りたことはなかったが、「次はギンスイ」と、その名前を聞いただけで、銀水には何があるのだろう、どんなきらびやかな街だろうと想像したものだ。
 
 倉永の駅を降り改札口を出て、昼時なので、どこか食堂でもないかと見渡したが、店などは見当たらないそっけない駅前だ。駅前は、すぐ目の前に道路が左右に走っている。
 とりあえず、進もう。
 駅前の道路を渡ると、前に古い石垣の家が見える。子供のころからある家で、今ではますます古くなっている。家に掲げられている刀とか包丁といった、いわくありげな看板が、何か子ども心に恐ろしかった。
 この家は、何年か前に偶然テレビで紹介されているのを見たのだが、刀を研ぐ伝統を受け継いでいるらしかった。やはり、いわくある建物だったのだ。
 その家をなぞるように道を歩いていくと、踏切のある線路にぶつかる。JR線である。
 線路を渡り、左に学校を見ながら少し曲がった道を歩くとT字にぶつかり、それを右に行くと左に八幡神社がある。ここで、蝉を捕ったことがある。
 今は閑散とした印象だが、かつては木々が繁り、緑豊かな神社だった。
 神社を通り越すと、大きな通りにぶつかり、それを道なりに歩くと右手に病院がある。木々の間に立ち並ぶ白い木造の病院で、高く覆い繁った木々の枝葉で、その前の道は昼間でも影で充たされていた。今では、風景も建物もすっかり変わっている。
 病院が途切れた緩やかな曲がり道の右側に、小さな下り坂の路地があり、そこを降りていく。すると、畑にぶつかった。畑のなかの畦道を歩いていく先に、住宅が並んだ町並みがあった。
 そこが、「吉野」の祖父母と叔母が住む町だった。
 今は、路地の先に畑はなく、住宅地になっていた。その家の間の道の先の小さな丘の上に、やはり住宅街があった。

 かつての桜色の屋根の並んだ住宅はなくなり、鉄筋の住宅に変わっていた。
 住宅街を突っ切るメインの道路と、その住宅の先の商店街にある肉屋が、かつての面影をかろうじて残していた。
 吉野で昼食をと思ったが、ここでも適当な食堂が見あたらなかった。

 吉野の商店街から大牟田の中心街の栄町までバスで行った。
 バスを降りて、繁華街の方に向かって歩いていると、線路があり、その先にアーケードが見えた。入口のモダンなアーチには、「GINZA」とある。大牟田・銀座道りである。(写真)
 アーケードの商店街を歩いた。しゃれた定食屋に入って、遅い昼食をとった。そこで、松屋デパートがあったところを訊いたら、この道のすぐ先だと言う。
 そのあたりに行くと、2004年に閉店した松屋の建物はすでに取り壊されていて、駐車場になっていた。かつては、この辺りは多くの人で賑わっていた。
 人通りが少ない街中を歩いた。繁華街は寂れていたが、まだ飲み屋は多いように思えて、少しほっとした。昔は、元気で威勢のいい炭鉱マンが、この界隈で気炎を吐いていたであろうと想像した。

 僕は、かつて松屋デパートにはメリーゴーランドがあったと記憶していて、このブログにもそう書いたことがあるが、どうもそうではないようだ。
 観覧車だったようだ。観覧車に乗ったのを、いつしかメリーゴーランドに変質させたのだろうか。
 記憶はあいまいで不確かである。
 だから、記録していかなくてはいけない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする