山田洋次監督 藤沢周平原作 真田広之 宮沢りえ 大杉漣 2002年作
「武士の一分」(2006年)、「隠し剣鬼の爪」(2004年)に先立つ、藤沢周平原作、山田洋次監督による時代劇第1作目作品である。
幕末の庄内地方の小藩が舞台である。そこで、妻を病気で失い、男手一つで老いた母と子ども2人を内職しながら育てている、冴えない武士(真田広之)の話である。勤めが終わるたそがれ時に、仲間の誘いも断りさっさと帰ることから付いたあだ名が「たそがれ清兵衛」。
この冴えない男が、ふとしたことで幼なじみの出戻り娘(宮沢りえ)を助けたことから、剣の達人だと知れることになる。そのことで、藩内のお家騒動に絡んだ、上意討ちの打ち手に指名される。
急転直下、貧しいながらも平凡に生きてきた、そしてこれからもそうありたいと思っていた男に降りかかった、災難ともいうべき人生の転機。打つ相手(大杉漣)は剣の名手で、自分が死ぬかもしれないという状況を迎える。
このような状況で、男は幼なじみだった娘に対する真の愛情を知る。
江戸時代の後期にもなると、武士といえども殺伐とした雰囲気はない。300年近く戦のない時代で、「死ぬことと見つけたり」という武士道は、消え去ろうとしている。
その貧しくもほのぼのとした下級武士の生活が、とてもきれいに見える。やはり、いつの時代でも平和はいいものだ。しかし、いつの時代でも、平和は長く続かない。
美しく見えることの一つには、この時代にものがあまりないことが挙げられよう。
現代のもので溢れている生活、もので覆われている環境からすれば、必要なもの以外ないシンプルな生活、必要なもの以外ない自然が、とても美しい。
そう言う意味では、リアルな撮影に徹している。江戸時代の下級武士の生活は、こうだったのだろうと思う。そして、川や山は自然のままに近く、美しかったのだろうと。
僕は、ある時列車の窓から外の景色を見ていて驚いたことがある。美しい山々と思っていた風景にあるものを見つけたのだ。それは、高圧線の電柱(鉄柱)である。それは、街から山へ、山から山へと繋がって立てられていた。一度目につくと、それが気になってすぐに目につくようになるものだ。山に、こんなに多く電柱が立てられていたのかと愕然とした。
さらに、街に目をやると、道から道に、家から家にと、電信柱が立っている。今までも立っていたはずなのに、街の景色を見ても、山の景色を見ても、電柱などは目に入らなかった。
何故だろう。おそらく、景色の中で不必要と思ったものは、見ない(見えない)ように無意識にしていたのに違いない。しかし、意識した途端、やたらに目に入るのである。
そしたら、美しかった景色は一変するのであった。
真田広之と宮沢りえの忍ぶ愛が美しい。
ノウハウや情報が氾濫している現代からすれば、忍び耐える愛が美しいのは、もはや無い物ねだりの美しさなのだろうかとすら思えてくる。
結局、男は明治新政府ができたあと、戊辰戦争で死ぬ。
歴史に登場しないが、平凡を願った名もない武士にも、波乱は起こっていたのである。
「武士の一分」(2006年)、「隠し剣鬼の爪」(2004年)に先立つ、藤沢周平原作、山田洋次監督による時代劇第1作目作品である。
幕末の庄内地方の小藩が舞台である。そこで、妻を病気で失い、男手一つで老いた母と子ども2人を内職しながら育てている、冴えない武士(真田広之)の話である。勤めが終わるたそがれ時に、仲間の誘いも断りさっさと帰ることから付いたあだ名が「たそがれ清兵衛」。
この冴えない男が、ふとしたことで幼なじみの出戻り娘(宮沢りえ)を助けたことから、剣の達人だと知れることになる。そのことで、藩内のお家騒動に絡んだ、上意討ちの打ち手に指名される。
急転直下、貧しいながらも平凡に生きてきた、そしてこれからもそうありたいと思っていた男に降りかかった、災難ともいうべき人生の転機。打つ相手(大杉漣)は剣の名手で、自分が死ぬかもしれないという状況を迎える。
このような状況で、男は幼なじみだった娘に対する真の愛情を知る。
江戸時代の後期にもなると、武士といえども殺伐とした雰囲気はない。300年近く戦のない時代で、「死ぬことと見つけたり」という武士道は、消え去ろうとしている。
その貧しくもほのぼのとした下級武士の生活が、とてもきれいに見える。やはり、いつの時代でも平和はいいものだ。しかし、いつの時代でも、平和は長く続かない。
美しく見えることの一つには、この時代にものがあまりないことが挙げられよう。
現代のもので溢れている生活、もので覆われている環境からすれば、必要なもの以外ないシンプルな生活、必要なもの以外ない自然が、とても美しい。
そう言う意味では、リアルな撮影に徹している。江戸時代の下級武士の生活は、こうだったのだろうと思う。そして、川や山は自然のままに近く、美しかったのだろうと。
僕は、ある時列車の窓から外の景色を見ていて驚いたことがある。美しい山々と思っていた風景にあるものを見つけたのだ。それは、高圧線の電柱(鉄柱)である。それは、街から山へ、山から山へと繋がって立てられていた。一度目につくと、それが気になってすぐに目につくようになるものだ。山に、こんなに多く電柱が立てられていたのかと愕然とした。
さらに、街に目をやると、道から道に、家から家にと、電信柱が立っている。今までも立っていたはずなのに、街の景色を見ても、山の景色を見ても、電柱などは目に入らなかった。
何故だろう。おそらく、景色の中で不必要と思ったものは、見ない(見えない)ように無意識にしていたのに違いない。しかし、意識した途端、やたらに目に入るのである。
そしたら、美しかった景色は一変するのであった。
真田広之と宮沢りえの忍ぶ愛が美しい。
ノウハウや情報が氾濫している現代からすれば、忍び耐える愛が美しいのは、もはや無い物ねだりの美しさなのだろうかとすら思えてくる。
結局、男は明治新政府ができたあと、戊辰戦争で死ぬ。
歴史に登場しないが、平凡を願った名もない武士にも、波乱は起こっていたのである。