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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

◇ たそがれ清兵衛

2006-12-23 02:59:19 | 映画:日本映画
 山田洋次監督 藤沢周平原作 真田広之 宮沢りえ 大杉漣 2002年作

 「武士の一分」(2006年)、「隠し剣鬼の爪」(2004年)に先立つ、藤沢周平原作、山田洋次監督による時代劇第1作目作品である。
 
 幕末の庄内地方の小藩が舞台である。そこで、妻を病気で失い、男手一つで老いた母と子ども2人を内職しながら育てている、冴えない武士(真田広之)の話である。勤めが終わるたそがれ時に、仲間の誘いも断りさっさと帰ることから付いたあだ名が「たそがれ清兵衛」。
 この冴えない男が、ふとしたことで幼なじみの出戻り娘(宮沢りえ)を助けたことから、剣の達人だと知れることになる。そのことで、藩内のお家騒動に絡んだ、上意討ちの打ち手に指名される。
 急転直下、貧しいながらも平凡に生きてきた、そしてこれからもそうありたいと思っていた男に降りかかった、災難ともいうべき人生の転機。打つ相手(大杉漣)は剣の名手で、自分が死ぬかもしれないという状況を迎える。
 このような状況で、男は幼なじみだった娘に対する真の愛情を知る。

 江戸時代の後期にもなると、武士といえども殺伐とした雰囲気はない。300年近く戦のない時代で、「死ぬことと見つけたり」という武士道は、消え去ろうとしている。
 その貧しくもほのぼのとした下級武士の生活が、とてもきれいに見える。やはり、いつの時代でも平和はいいものだ。しかし、いつの時代でも、平和は長く続かない。
 美しく見えることの一つには、この時代にものがあまりないことが挙げられよう。
 現代のもので溢れている生活、もので覆われている環境からすれば、必要なもの以外ないシンプルな生活、必要なもの以外ない自然が、とても美しい。
 そう言う意味では、リアルな撮影に徹している。江戸時代の下級武士の生活は、こうだったのだろうと思う。そして、川や山は自然のままに近く、美しかったのだろうと。

 僕は、ある時列車の窓から外の景色を見ていて驚いたことがある。美しい山々と思っていた風景にあるものを見つけたのだ。それは、高圧線の電柱(鉄柱)である。それは、街から山へ、山から山へと繋がって立てられていた。一度目につくと、それが気になってすぐに目につくようになるものだ。山に、こんなに多く電柱が立てられていたのかと愕然とした。
 さらに、街に目をやると、道から道に、家から家にと、電信柱が立っている。今までも立っていたはずなのに、街の景色を見ても、山の景色を見ても、電柱などは目に入らなかった。
 何故だろう。おそらく、景色の中で不必要と思ったものは、見ない(見えない)ように無意識にしていたのに違いない。しかし、意識した途端、やたらに目に入るのである。
 そしたら、美しかった景色は一変するのであった。

 真田広之と宮沢りえの忍ぶ愛が美しい。
 ノウハウや情報が氾濫している現代からすれば、忍び耐える愛が美しいのは、もはや無い物ねだりの美しさなのだろうかとすら思えてくる。

 結局、男は明治新政府ができたあと、戊辰戦争で死ぬ。
 歴史に登場しないが、平凡を願った名もない武士にも、波乱は起こっていたのである。
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□ 噂の女

2006-12-17 01:01:14 | 本/小説:日本
 神林広恵著 幻冬舎

 先に挙げた溝口健二監督の映画「噂の女」の原作本ではない。
 結論を先に書くと、「『噂の真相』の女」である。
 2年前に休刊した、スキャンダル雑誌『噂の真相』の女性編集者の真相手記である。

 『噂の真相』という月刊誌は、知る人ぞ知る希有な雑誌だった。あらゆるタブーを破る反権力を標榜していた。かといって政治一色ではないところが、この雑誌の雑誌たるゆえんだったと言っていい。政治から、文学界、芸能界まで、新聞、一般雑誌が書かないことを追い求めた。いわゆる「スキャンダル雑誌」だった。
 眉をひそめる人も多かったが、業界では隠れ必読書としてファンも多く、僕も愛読していた。実名で、裏側が暴露され、しばしばこの雑誌は訴えられた。結局、作家の和久俊三、マルチプランナー西川りゅうじんによる刑事告訴が、間接的な(決して直接ではない)引き金となって、休刊することになった。本を読む限り、かなりこの裁判に体力をさかれたと言っていい。
 しかし、未だ人気があり赤字に転落しない状態での休刊は、発行者で編集長の岡留氏のポリシーであり、これも出版界では異例のことである。
 彼は、雑誌も生命、寿命があり、ぼろぼろになってからやめるつもりはない。余力のあるうちにやめる、と言ってやめたのだった。もう、年齢的に体力がついていかないことを、彼自身薄々知っていたのかもしれない。

 そのようなスキャンダル雑誌の直中に、反権力も政治に関心もない、好奇心だけが旺盛な22歳の普通の女の子が、飛び込んだ。その『噂の真相』の編集者としての、スキャンダルを追い続け、それまで書かれなかった数多くの記事を手がけ、編集長と連座して刑事告訴され、長い裁判の末に有罪判決を受け、雑誌が休刊するのを見届けるまでの、手記である。
 雑誌の編集者は数多くいるが、「波乱」という言葉が形容される編集者、雑誌は、そうあるものでない。だから、面白くないわけがない。まるで、テレビドラマを見ているようである。しかも、少しユーモアを交えたミステリードラマと言えようか。
 
 『噂の真相』だから当然と言えばそれまでだが、登場する人物が実名なのが、この本の真骨頂たる点だ。
 協力者のなかで、本橋信宏という名前が出てきた。おやと思った。僕が面白く読んだ本『フルーツな夜』を書いた執筆者だった。僕はこの本をブログに書いた(06.1.18)ので、印象深く覚えている。
 また、この本で、知っている執筆者も登場したので、ことさら興味深く読んだ。

 この本は、雑誌編集者への道、とりわけ週刊誌を中心としたスクープを追う編集者へのガイドブックともいえるものが、極端な立場として散りばめられている。雑誌編集者を目指すもの、あるいは、雑誌編集者とはどんなことをやっているのだろう、という思いを持っている人間の好奇心を満たす内容になっている。
 内容は違えども、編集者とは多かれ少なかれ、このような時間に追われた生活をしているのだ。

 雑誌は、いつかはその役割を終え、寿命がくる。それは雑誌に限らず、会社もそうであろう。この著者のように、その雑誌とともに運命をともにするというのは、ある意味では幸福である。
 どのような人生であれ、「私は全力で生きた」、こう言える時期があるということ、概ね20代、30代であるが、この時期を全力で疾走したということは、それだけで素晴らしい。いつの日か、その季節の輝きを、もうやっては来ないであろうという懐かしさで顧みる時期が来るだろう。
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◇ 噂の女

2006-12-07 17:02:21 | 映画:日本映画
 溝口健二監督 田中絹代 久我美子 大谷友右衛門 進藤英太郎 1954年作品

 すでに『雨月物語』などで国際的監督になっていた溝口健二の『山椒太夫』に続く作品である。
 京都の郭(遊郭)を舞台に、一人の男を巡る母と娘の葛藤を描いた物語。溝口の最後の作品になる『赤戦地帯』(1956年)に引き継がれていくテーマである。

 郭を女手一つで経営している母(田中絹代)のところに、失恋の痛手を受けた娘(久我美子)が東京から帰ってきたところから物語は始まる。
 父が亡くなったあと、母が一人で切り盛りしている京都の郭。娘は、家が女を商売にしていることに疑問を抱いている。
 家に帰ってきた娘は、そこで郭に診療しに来ている、若い医者を知る。母は、その若い医者が好きで、彼が開院するための資金を工面しようと手を尽くしているのだった。そんな母の気持ちを知っているくせに、医者は娘が好きになり、二人で東京へ行こうという話になる。
 娘と医者の気持ちを知った母は、逆上して倒れてしまう。
 東京に行かず、家に残った娘は、母に代わって郭を切り盛りするところで物語は終わる。

 この映画に根底に流れているものは、社会的な底辺にいる、郭の女性、遊女への溝口の温かい視線である。
 物語を構成しているのは、男と女の三角関係である。しかも、一人の男に対して、母と娘が絡み合うという、危険な関係になっている。
 ここで注目するのは、女の行動である。
若い男が、自分よりも若くて美しい娘に気持ちが傾いた時、それを知った母は手を引くかと思ってしまう。しかしそうではなく、母親が娘に対して「私の男を横取りするのかい」と言って、刃物を持つといった行動をとる。
 母よりも女が現れるのを見るのは、辛いものである。しかし、こんな修羅場はいつの時代でもあるのだ。最近、社会面を賑わした母親による我が子の殺人を見せられるにつれ、女の業の深さを知らされる。

 男は、年とった女の金と若くてきれいな女の体の両方が手に入ればと思ったのだろうが、そうはいかない。両方を狙った男は、その両方を失うか、よしんば手にしたとしたら、それは、それ相応の女しか手にしていないのだ。

 この映画で興味をひいたのは、京都の粋人たちの遊びというか、時間の費やし方だ。
 男と女が、食事するにはまだ時間があるからと言って、行った場所は、劇場である。踊りや狂言を見るのだ。かつては、そんな優雅な時間の使い方をしていたのだ。今では、ちょっと寄席に行こうよとか、映画でも見ようかというカップルも少ないようだ。
 それと、花魁の出で立ちが見られるのも貴重だ。太夫と呼ばれる花魁が、高い木履を履いて、しゃなりしゃなりと街を歩く姿が、京都では日常的に見ることができたのだろう。
 05年10月、名古屋の大須観音での祭りで、花魁行列があり、それを知りあいの女性がやるというので、見に行ったことがある。絢爛豪華であった。今、見ることができるのは、仮装行列でぐらいだ。
 
 しかし、題名の「噂の女」であるが、誰のことを言っているのだろう。見終わっても分からないでいる。
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◇ ALWAYS 三丁目の夕日

2006-12-02 14:03:03 | 映画:日本映画
 山崎貴監督 西岸良平原作 吉岡秀隆 堤真一 小雪 薬師丸ひろ子 堀北真希 三浦友和 2005年作

 昭和30年代の東京の下町を舞台にした、人気マンガの映画化である。
 昭和30年代といえば、日本がまだ貧しさが残っていた時代で、日本が経済成長の途上の時だった。(モノクロ)テレビ、電気冷蔵庫、電気洗濯機が三種の神器といわれた時代だ。

 この映画では、様々な昭和30年代が再現されている。
 画面の初めで、竹と紙で組み立てる竹ひごヒコーキが飛ぶ。あれは羽を載せる台が高くなったスカイホースだ。子どもたちにとって駄菓子屋の人気の的は、おもちゃが当たるクジだ。「スカ」ばかりで、当たりはないんだろうと店主をなじる子どもたち。誰もがなぜか夢中になったフラフープ。
 初めてテレビが家にやってきた日は、近所のみんなが見にやって来て、家の主が挨拶などしたものだ。スイッチをつけると、プロレスの力道山が外人プロレスラーを相手に空手チョップを連発している。
 街では路面電車が走り、車など買えない下町の店主や工場主にとって、オート三輪が頼みの主役だ。

 画面の街並みの向こうに、建築中の東京タワーがなかったなら、舞台が東京とは思わなかっただろう。それほど、銀座や新宿などの繁華街は別にしたら、都会も地方も今ほど格差がなかった。
 東京タワーができたのが、昭和33年だ。皇太子(現天皇)のご成婚の前年である。
 この年は、華やかな年だった。
 相撲界では、若乃花(初代)が横綱になり、本格的な栃若時代の幕開けとなった。野球界では、長島(巨人)と杉浦(南海)がデビューして、新しいスターの時代となった。音楽では、山下敬二郎、平尾昌章、ミッキー・カーチスをはじめとしたロカビリー全盛の時で、スクリーンでは、石原裕次郎のあとに小林旭が追ってきた時だ。

 青森から集団就職でやって来た少女(堀北真希)は、着いたところが「鈴木オート」といっても、主の堤真一が一人でやっている、会社とは言えそうもない錆びついた住居兼工場に驚き落胆する。
 この堀北がいい。今風でない、東北訛りのある少女の役がよく似合っている。かつての青春映画を撮らせても、きっと当たっただろう。どことなく陰影を含んだ雰囲気は、今の若手女優の中では貴重だ。
 寅さんの甥っ子の吉岡秀隆は、売れない作家の役で、元もと古いタイプの役が似合っていた。年齢を経て、ますます宇野重吉-寺尾聡系統になってきた。
 吉岡が密かに慕う飲み屋の女役の小雪は、現代的なプロポーションを持っているが古風な容貌だ。それでいて、あまりウエットでないところがいい。
 
 何しろ、泣かせる映画だ。泣くのに、何の躊躇いも衒いもない映画だ。泣いたとて、何だか清々しくなる。哀しいのに、決して沈んだりしない。それというのも、誰もが希望の持てる時代だったからだろうか。
 みんながさほど豊かでないのだけど、みんな前を向いていた。夕日が沈むと、必ず今日よりいい明日が来ると信じていた。いや、信じられる時代だったのだ。

 『佐賀のがばいばあちゃん』といい、この『三丁目の夕日』といい、地方と都会の違いはあれ昭和30年代の日本を描いた映画が、相次いで話題となりヒットした。格差も広がりつつあり、明日が不透明な今日(こんにち)、明日が信じられた時代への懐古と渇望の表れであろうか。
 昭和30年代は、日本が少年期から青春期に入る時代だったと言えよう。そう考えると、今の日本は、どの年代と言えるのだろう。
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◇ 熊座の淡き星影

2006-12-01 03:23:49 | 映画:外国映画
 ルキノ・ヴィスコンティ監督 クラウディア・カルディナーレ ジャン・ソレル 1965年伊

 深刻な映画だ。ヴィスコンティの深層心理が表れている映画だと言えるだろう。
 ギリシャ神話の「エレクトラ」を下敷きにしているというから、心理劇風の悲劇になるのは当然であろう。
 主人公は、アメリカ人と結婚したイタリアの名家の娘サンドラ。4年ぶりに、夫婦で故郷のイタリアへ帰ったところから、この物語は始まる。そこでアメリカ人の夫と共に、次第に知らされるのは、迷路のような、泥沼のような、この家の過去だった。
 
 舞台となるのは、イタリアの田舎町の、城のような旧家。
登場人物は、家の娘である美人のサンドラ(クラウディア・カルディナーレ)。人のいい、アメリカ人の彼女の夫。患っている老いたサンドラの母。サンドラの父が死んだあと、母親と結婚した老獪そうな男。仕事もせず退廃的に暮らしているサンドラの弟。かつて、サンドラを恋していた昔なじみの男、たちである。

 サンドラと弟は、父の死に疑問を抱いている。姉弟二人と義父との確執は、ミステリーの様相を示しながら、彼女と弟の近親愛を露呈していく。
 古い邸宅の中で、淫靡な恋人のように振る舞う姉と弟は、まさに禁断の愛の世界だ。

 この映画でも描かれていくのは、崩壊していく家庭だ。なくなる古い家と血の系図だ。
 時の流れの中で崩れ落ちていくものを、誰も止めることはできない。その崩壊の過程で繰り広げられる人間模様は、いつの時代でも同じなのだろう。
 愛、欲望、嫉妬、陰謀が渦巻いて、人は幸福と不幸の両方を味わうことになる。そして、どのような強大なものでも、消えていく運命にあるという人の世の宿命的な悲劇。

 クラウディア・カルディナーレの、野性味溢れる、妖しい魅力が十分に発揮されている。
 『鞄を持った女』では、少しはすっぱな女を演じた。『ブーベの恋人』では、一途な女を演じた。僕は、この『ブーベの恋人』を観て、一目で彼女を好きになった。
 当時、フランスのB・B(ブリジット・バルドー)に対して、C・Cと呼ばれた。そして、アメリカにはM・M(マリリン・モンロー)がいた。B・BやM・Mはスキャンダルが絶えず、しばしば世間を賑わしたが、C・Cは実力で彼女たちに一歩もひけをとっていなかった。
 3人とも肉体の魅力を取りざたされたが、3人の中でもカルディナーレは知性も孕んでいたと思うのは、身びいきな見方だろうか。それに、彼女だけは素晴らしい肉体なのに、ヌードにはなっていない。
 この3人を見ていても、アメリカとフランス、イタリアの違いが分かって面白い。
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