写真エッセイ&工房「木馬」

日々の身近な出来事や想いを短いエッセイにのせて、 瀬戸内の岩国から…… 
  茅野 友

クリ霧中

2018年10月10日 | 季節・自然・植物

 夕方、庭に出ていた奥さんが、ポリ袋をもって部屋に戻ってきた。散歩しているような年配の女性が、我が家の前を通りがかった時、玄関のわきにこのポリ袋を置いて立ち去ったという。ポリ袋の中には、小ぶりな栗が30個くらい入っていた。

 「お父さん、これを置いていった人に心当たりはないの?」というが、声もかけずに立ち去るような人に、どう考えても心当たりはない。毎年、栗を持ってきてくれる人は、自転車に乗ってきて、必ず手渡ししてくれる。今まで、この人以外から栗をもらったことはない。

 どこの誰からもらったか分からないまま、昨日、ロケットストーブの上にダッチオーブンを置き、栗を入れて焼いた。火を入れて20分が経った頃に、ダッチオーブンの蓋の隙間から薄く白い蒸気が出始め、プーンといい匂いがし始める。焼きあがった合図である。包丁で半分に割り、コーヒーを飲みながら、スプーンでほじくって食べてみた。ほくほくして、これぞ秋の味覚であった。

 それにしても、この栗、どなたからの差し入れか分からないままに味わったが、2日経った今日も、誰が持ってきてくれたのかは依然として五里霧中ならぬ、クリ霧中である。

 


ファイティング ポーズ

2018年10月05日 | 季節・自然・植物

 台風25号が接近している影響であろう、朝からどんよりと雲が垂れ、小雨が時おり降っている。そんな朝、玄関のドアを開けて1歩を踏み出そうとしたとき、タイルの上で小柄なカマキリが、ドアに向かってじっとしているのを見つけた。

 久しぶりにカマキリと対面した。座り込んで横から眺めてみた。まだ小粒であるにもかかわらず、逆三角形の頭を私の方に向け、ファイティングポーズをとっている。「さあ、いつでもかかってこい」と言わんばかりの姿勢である。

 ファイティングポーズといえば、ボクシングで戦う意志を示すためのポーズであり、ノックダウンから立ち上がった後で試合続行の意思表示としてレフリーから求められることがある、あの姿勢である。すなわち、戦うための姿勢、戦う意志を示す構えのことである。

 カマキリは漢字で書くと「蟷螂」と書き「とうろう」とか「いもじり」などと読む。「蟷螂(とうろう)の斧」という慣用句があるが、カマキリが斧の形をした前脚を挙げて、大きな車に向かってきたという故事からきたもので、勇気ある者のたとえであった。

 しかし、その後「力のない者が、自分の実力をかえりみず、強い者に立ち向かうことのたとえ」として使われるようになったというが、始めから負け戦と分かっていても男たるもの、戦いを挑んでいかなければいけない時もある。

 小さなカマキリが、ファイティングポーズを取っている姿勢を眺めながら、ふと昨今のワイドショーを賑わせている面々のことに思いを馳せてみた。ところで「蟷螂」は、俳句では秋の季語だという。

 子蟷螂 生まれながらの 身の構え    (松永昌子)
 蟷螂の 斧向けたるは われなるや     (刈谷次郎丸)


ノーベル賞

2018年10月02日 | 生活・ニュース

 2018年のノーベル医学生理学賞を京都大学高等研究所の本庶 佑(ほんじょ たすく)特別教授と、米テキサス大のジェームズ・アリソン教授の両氏に授与すると発表された。免疫の働きにブレーキをかけるタンパク質「PD-1]を発見し、このブレーキを取り除くことで、がん細胞を攻撃する新しいタイプの「がん免疫療法」を実現したものである。

 図を使って、いくら説明を聞いても理解できない我が頭であるが、下世話なことはよく分かる。これに対する賞金は900万スウェーデンクローナ、日本円で約1.15億円で、2人の受賞者が等分するという。すなわち本庶氏は5750万円をもらうことになる。

 研究生活の一生をかけて成し遂げた結果、しかも人類の命にかかる歴史を変えるような研究成果を上げた報償がこの金額である。比較する土俵は全く異なるが、スポーツ選手の賞金額である。つい先日、テニスの全米オープンで優勝した大坂なおみの優勝賞金は何と4億2千万円であった。

 日本のプロ野球の一流選手の年収は数億円。このような選手であれば、スポンサー契約やらでさらに上乗せがあり、庶民からは想像することができないくらいの収入がある。

 それに比べると、ノーベル賞という、その道の世界的な第一人者が受賞する賞であるにもかかわらず、頂ける賞金はあまりにも少ない。受賞者は、協力してくれた関係者と一杯やっただけで賞金は一文も手元に残るようなことはなくなるに違いない。

 今回の本庶佑教授の恩恵は、未来永劫、がんにかかった人の命を救うことになるようであるが、例えば100万人の命を救うことができたとする。1人当たりわずか1万円のお礼をもらえるとすれば、合計100億円の謝礼が入るという計算になる。

 そんなことを考えると、ノーベル賞の賞金で済ませるだけでなく、日本の国だけでなく世界の国から、スポーツ選手に負けない100億円くらいの賞金を出しても、決して出し過ぎだとは言えないと思う。

 それにしても、「佑」(たすく)という文字には、「助ける」という意味があるが、まさに本庶先生は名前に負けることなく、多くの人を助けるために研究しただけで、賞金の額なんかには興味はないに違いない。


読者の反応

2018年10月01日 | エッセイ・本・映画・音楽・絵画

 新聞に「新聞配達エッセーコン受賞作発表」という記事が掲載されているのを読んだ。日本新聞協会が「新聞配達の日・新聞配達少年の日」(10月21日)にちなんで募集した「新聞配達に関するエッセーコンテスト」の受賞作品を発表したものである。

 最優秀賞には45歳の女性が「小さな涙」と題して、配達先で仲良くなった子供が、別れの際に流した涙を振り返ったもの。中学・高校生部門は17歳の高校生が「病室まで届く新聞」と題し、自分の作文が新聞の投稿欄に載り、読者から反応があった体験を紹介。小学生部門には9歳の少年が「広がるぼくの世界」と題し、「知らない人が作文を読んで、ぼくのことを考えてくれるなんて」と配達員への感謝を表している。

 いずれのエッセーも全文は掲載されていないが、タイトルと概要を読んだだけで、何を書いたものかがよく分かった。毎日、新聞を配達してくれる配達員との心の交流があった様子や、自分の書いた作文を読んでくれた読者からの反応に驚きや喜びを感じたことを表現しているのであろう。

 これを読んだ時、14年前の私を思い出した。定年退職をした直後で、特段の趣味らしきものは何も持っていなかった私は、毎日、のんべんだらりと過ごしていた。或る日、毎日新聞の地方版に「はがき随筆」という、わずか250字の読者投稿のエッセーを読んだ。

 「これくらいの字数のエッセーなら、自分でも書けるかもしれない」と思い、生まれて初めてエッセーというものを書いて投稿した。1週間後、運よくそれが掲載され、近所の人や会社時代の知人から電話や手紙をもらったりの反響があった。

 大げさに言えば、小さいながらも自分の存在価値を認めてもらっているかのような、ささやかな喜びを感じることができたように思っている。以来14年間、今もってこうしてブログを書いたり、時には新聞に投稿したりの「文筆活動」で、あり余る自由時間の暇つぶしを楽しんでいる。今回の受賞者も、きっと同じ気持ちを読者から受けたに違いない。こんな投稿の楽しみ、皆さんも挑戦してみませんか。