写真エッセイ&工房「木馬」

日々の身近な出来事や想いを短いエッセイにのせて、 瀬戸内の岩国から…… 
  茅野 友

崇高な使命感

2011年03月24日 | 生活・ニュース

 驚き、恐怖、怒り、哀れみ、無力感。連日テレビを通して、

ありとあらゆる感情が呼び起こされる東日本大震災。

 現実のこととは思えないまま目を凝らす。どこから手を

つければ良いのか分からないほどの惨状だ。

 すぐに救命救済・復旧活動が始まった。わが身はもちろん、

家族をも犠牲にして任務につき、難局に立ち向かう崇高な

人々の姿を各所で見る。頭が下がる。

 やっぱり日本人ってすてたものではないじゃないか。

近年バラバラになりかけていた日本人の心が、強く1本に

なっていく。私が今できることを考える。
     (2011.03.24 毎日新聞「はがき随筆」掲載)

 

 

 

 

 


あきらめない

2011年03月23日 | 生活・ニュース

 どんなお見舞いや慰めの言葉をかけてみても、ただ虚しくなるだけのような東日本大震災。2週間が経っても救援の手が十分に届かない様子がもどかしい。
 日本において過去最大であるマグにユード9.0という巨大地震によって引き起こされた大津波と火災。かてて加えて原子力発電所で起きた4炉の放射能事故。何れもが深刻な事態を引き起こした。
 過去、岩手・宮城を主とした東日本の沿岸には、幾多の大津波が襲ってきた。特に1896年(明治29年)の明治三陸地震津波では、震度はわずか3の小さな揺れであったが、岩手県綾里村では30分後に38.2mの大津波が襲ってきて、2
万人以上が犠牲になったという。
 1933年(昭和8年)の昭和三陸地震でも、三陸の各地は10mを遥かに超える津波に襲われ、甚大な被害をこうむっている。
岩手県の田老町は過去幾度も津波による大被害を受けてきたため、総延長2.5km、高さ10mにも及ぶ他に類を見ない防潮堤を建設するなど、津波に対して強い街づくりを進めてきた。
 そんな対策を講じていたにもかかわらず、この度も10mの高さをはるかに超える大津波が襲ってきて、大きな被害を受けた。「高さ10mにも及ぶ他に類を見ない防潮堤」は、確かに類は見ない設備ではあったが、これだけでは万全な対策ではなかったことになる。
 では過去最大の津波よりも高い、高さ40mの防潮堤を建設しておけばよかったのか。東日本沿岸のすべてに、こんな物を作るのはどう考えても現実的ではなさそうだ。しかし、大津波はまた、いつ襲ってくるかもしれない。長年住み慣れた土地を、おいそれと出ていく訳にもいかない。ではどんな知恵を出せばよいのか。
 津波には特に弱いリアス式の海岸を抱えた三陸海辺の集落が、二度とこのような被害をこうむらないための方策は必ずある。そう思いたい。
 私は一つ大きな疑問を持っている。過去最大の津波は、町づくり・設備設計する際の想定外なのか。これについての議論はまだ出てきていない。
  (田老町の防潮堤)


度付きサングラス

2011年03月10日 | 生活・ニュース

 私の運転免許証には、運転条件として「眼鏡」と書いてある。老眼のため近くのものがはっきり見えないだけでなく、遠くのものも明快に見えにくい。ということで、30年前から遠近両用の眼鏡をかけている。7,8年ごとに度の進みに合わせ眼鏡を買い替えてきた。
 眼鏡をかけていると不便なことがある。日差しの強い季節、市販のサングラスをかけることが出来ない。息子が新婚旅行で買ってきてくれたブルガリのサングラスを持っているが、度が入っていないので前がよく見えない。残念ながらこれは大事に引き出しにしまっている。
 遠近両用の眼鏡に、ちょこっと引っ掛ける構造のプラスチック製のサングラスが売られている。これをかけると眩しくなくなるが、眼鏡が重くなって鼻眼鏡になるし見た目もあまりよくない。しかし我慢しながらそれを使っていた。
 そんなある日、近くにある眼鏡屋さんに、古くなった鼻当てを交換してもらいに出かけた。店内を見回していると「度付きサングラスはいかがですか」と書いてあるものが目に入った。
 「これこれ、これだ」。ロードスターに乗ってオープンにしたときでも、様になるようなものを物色してみた。フレームのない軽いものを選んだ。眼の検査をし、遠近両用はもちろん、若干乱視にも対応したものを作ってもらうことにした。 
 1週間後、期待していた通りのものが届いた。天気のいい翌日、定期健診のため広島の病院へ、そのサングラスをして車で出かけた。薄い色なのでトンネルの中でも外すほどのこともない。そのせいか、病院についても普通の眼鏡にかけ替えることを忘れ、サングラスをかけたまま入っていった。
 若い看護師さんに採血される段になり、やっとサングラスをかけていることに気がついた。「あっ、サングラスなんかして失礼しました」と、ことの経緯を話すと「いえいえ、とってもお似合いですよ」と上手を言ってくれる。上手だとは分かっていても年寄りは嬉しい。採血が終わったとき、眼鏡を外して素顔になり、最大級の笑顔で頭を下げて別れた。
 度付きサングラス、ドライブ中の今までの悩みを解消してくれるだけでなく、他にもいろいろ付録が付いてくるみたいだ。奥さんをど突くのではなく、眼鏡に度付けたお話。同じ悩みを持っている方にお勧めの品である。


安野光雅 美術館

2011年03月07日 | エッセイ・本・映画・音楽・絵画

 2月の1ヶ月間、日経新聞の最終ページの「私の履歴書」という欄に、画家の安野光雅(あんのみつまさ)さんの履歴書が27回にわたって掲載された。この全ては読んでいないが、津和野出身のこの画家は、どんな絵を描いた人だろう、機会あれば一度見てみたいなという気持ちは持っていた。
 3月の初め、買うものがあって広島・井の口にあるデパートに行った。買い物を終えた後、店内を見て歩いているとき、絵画を売っているところに出た。コーナーの壁に、明るい色で描かれた外国の風景画が何点か掛けられていた。イタリアやスペイン、クロアチアの水彩画であった。サインを読むと「m.Annno」と書いてある。あの「安野光雅」さんの絵であることを若い女性店員に確認した。
 安野 光雅さんは現在85歳。35歳のとき教師を辞して画家として自立。絵本作家、エッセイストでもある。原色や派手な色をほとんど使わない淡い色調の水彩画で、細部まで書き込まれながらも落ち着いた雰囲気の絵を描く。2001年春に、故郷・津和野町に作品を収めた「安野光雅美術館」が開館したという。
 A3くらいの大きさのリトグラフが、額入りで7~8万円もする。ちょっと買えないが、もう少し他の絵も見てみたい気になった。数日後の土曜日、天気も良い。朝9時、津和野に向かって家を出た。187号線をさかのぼること1時間余り、県境を越えるとやがて、丸い頂の青野山の見えるところに出る。津和野はもうすぐだと思った時、標高の高い山道の両側には雪が山盛り、道も固く凍っているところもある。しばらく、そろりそろりと車を転がして急な坂を下ると、突然朱色の巨大な鳥居が現れた。何とか無事津和野に着いてひと安心。
 その足で真っすぐ美術館に向かった。大きく立派な美術館だ。来館者は2組しかいない。私が期待していた通りの、ヨーロッパの美しい町や海、田舎の景色が何十点も展示してある。明るい色が多い。ふるさと津和野の景色もある。
 リトグラフの大きないい絵を売っていたが、やっぱり買えない。額に入った小さな田舎の風景画を買うにとどまった。その時、背後から女性が話しかけて来た。若く背の高い女だった。
 「先日、広島でお会いした方ではありませんか?」。どこの誰だか全く見おぼえがない。「安野さんの絵を見ておられた方ですよね」。これで分かった。そういえばデパートで絵を見せてもらった時の店員さんであった。
 「こんな所で、奇遇ですね」。しばし絵を見ながら談笑する。旦那さんと高速道路を使って遠路見に来ていた。仕事柄だろう。こんな所でばったりと笑顔の美しい美人に声をかけられた。
 食事のあとは、古い造り酒屋の原酒と、名物の源氏巻きを買い、満足満足の絵画鑑賞の旅をしてきた。またデパートに行ってみるかな~

 


シロウオ漁

2011年03月04日 | 季節・自然・植物

 気がつけばもう3月。私的なことで2月は忙しく、あっという間に逃げて行った。そういえば昨年も2月は今年以上に忙しく、その上憂鬱な時を過ごしていた。
 先日、自分が書いた過去のブログをめくっていて、一つ気がついたことがあった。2004年の11月にブログを始めて以来、毎年2月には今津川のシロウオ漁のことを書いている。それが昨年途切れていた。早春の風物詩・シロウオ漁のことに思いを巡らせる心の余裕がなかったことが分かる。
 今年も2月にはそんな余裕がなかったせいか、シロウオのことなどブログに書いていない。3月に入ってやっと思い出し、ロードスターに乗って今津川に向かってみた。干潮だった。四手網の下に流れはなく干上がっている。漁をする人の姿はもちろん見えない。2年ぶりに見る四手網も、河口の両岸に2基ずつ、わずか4基しか見えない。近年漁獲量が減ってきているとは聞いていた。そのせいか。
 毎年2月10日に解禁、3月20日頃までが漁期だ。今度は満潮時を狙って漁をしているところを見に行ってみよう。網の上で、ぴちぴち跳ねる透明なシロウオを見ると、私の心も踊ってくる。奥さんに聞いてみるが、まだスーパーでは売っていないという。味覚ではなく、視覚で味わう魚・シロウオ。今年は口に入るかな?