今日(14日)は月曜日、休刊日で新聞が来ない。1991年から毎月休刊日があるようになった。新聞に携わっている人のことを考えると、月に1度くらいの休刊日はあって当然だと納得はいく。
翻って、読者の立場に立つ私は、朝起きてダイニングテーブルの椅子に座っても、なんとも手持ちぶさたである。
いつもは新聞に目を通しながら片方の耳で朝からテンションの高いテレビの朝番を聞いているのだが、今朝は朝食を待つ間、正面からテレビと対峙するように見ているだけである。
考えてみると、朝起きるとまず新聞を開くという行為が、生活のリズムとして完全に組み込まれていることに気づく。肝心なその新聞がない日には、空白の時間が生まれることになる。
早朝、まだ明けやらぬころのまどろみの中で、バタバタバタというバイクの音が我が家の前で止まる。カタッ…カタッ、新聞受けの扉を開けて新聞を入れる音が続く。カチン、バイクのスタンドを戻す音だろう、その後またバタバタバタと裏の団地のほうに走り去っていくのを聞く時がある。「あっ、新聞が来たな」。大事な友が話をしに寄ってくれたような気にもなる。
さて、周りを何度見回しても今日は新聞はない。それでは図書館にでも行ってみるかというと、月曜日は休館日だ。気の利いた町では年中無休や、夜もやっているところがあると聞くが、岩国ではまだそこまで行っていない。新聞に比べると、図書館は毎月8、9日間と結構休館日が多い。多過ぎないか。
それでは朝からちょっと一杯という気にもなりそうだが、体も今日は休肝日。これをきちんと守らなければ、急患で運ばれちゃいます。
(写真は、休刊日は退屈そうな『九官鳥』)
翻って、読者の立場に立つ私は、朝起きてダイニングテーブルの椅子に座っても、なんとも手持ちぶさたである。
いつもは新聞に目を通しながら片方の耳で朝からテンションの高いテレビの朝番を聞いているのだが、今朝は朝食を待つ間、正面からテレビと対峙するように見ているだけである。
考えてみると、朝起きるとまず新聞を開くという行為が、生活のリズムとして完全に組み込まれていることに気づく。肝心なその新聞がない日には、空白の時間が生まれることになる。
早朝、まだ明けやらぬころのまどろみの中で、バタバタバタというバイクの音が我が家の前で止まる。カタッ…カタッ、新聞受けの扉を開けて新聞を入れる音が続く。カチン、バイクのスタンドを戻す音だろう、その後またバタバタバタと裏の団地のほうに走り去っていくのを聞く時がある。「あっ、新聞が来たな」。大事な友が話をしに寄ってくれたような気にもなる。
さて、周りを何度見回しても今日は新聞はない。それでは図書館にでも行ってみるかというと、月曜日は休館日だ。気の利いた町では年中無休や、夜もやっているところがあると聞くが、岩国ではまだそこまで行っていない。新聞に比べると、図書館は毎月8、9日間と結構休館日が多い。多過ぎないか。
それでは朝からちょっと一杯という気にもなりそうだが、体も今日は休肝日。これをきちんと守らなければ、急患で運ばれちゃいます。
(写真は、休刊日は退屈そうな『九官鳥』)
届かないということが分かっているのに何か欠けた思いがします。新聞はそれだけ生活に根ざしているのでしょうか。
(郵便受けから取ってくるのは私なんですけど。)
ある時、義父の起床前に新聞を開けて先に読んでいたら、
お昼過ぎまで新聞を触ろうとはしませんでした。
以後は、未開封のままテーブルに置いておくように、気を付けるようになりました。
私が朝刊を読むのは夜8時以降。
夕刊ですよね。
ちょっとでも狂うとすぐ止まってしまいます。
特に、生活のリズム…大切ですね。
でも、「カタッ」とかバタバタバタは聞こえません。鈍感です。