まつたけ山復活させ隊運動ニュース

 松茸は奈良時代から珍重されてきたが、絶滅が心配される.松茸山づくりは里山復活の近道であり里山の再生は松茸復活に繋がる.

まつたけ山復活させ隊 NEWSLETTER 1238  京まつたけ復活大作戦

2017年08月17日 |  マツタケの林地栽培 

1930年代のマツタケ生産量は7000t台、最近の10年間の生産量は60t台である.120分の1である.この理由は生息地の減少と質の劣化と気候変動に尽きる.

 京まつたけが、50年ぶりに、京都岩倉香川山(自称)に復活したことを報告します.
 マツタケのシロが復活したといって、大騒ぎすることではない、と思う方が多い.マツタケの生態というかその生活を考えると希有のことなんです.
 
 マツタケの生活には、宿主(例えばアカマツ林)が必要でしかも壮年期でないといけない.しかも里山林の土が痩せてないと困るのである.アカマツ林は、簡単に造成できるが、一旦肥えた土を痩せ地にするのに時間が掛かる.多くは宿主が年を取りすぎ壮年期を逸するのである.

 そんなことで、マツタケがでなくなった元アカマツ林に、マツタケが発生した例は、日本中にないのである.まつたけ山復活させ隊が、再生アカマツ林にマツタケ発生環境整備を行い、マツタケを発生させたのです.ラッキーな偶然もそこにはある.でも再現は容易であると思われる.


16枚の写真にしました.ご覧下さい.
 私たちの活動場所は京都市左京区岩倉 村松にある.1975年頃(?.伐採アカマツ年輪で推定、2005年6月)、住宅地として整備された.当時の風景は、ヒノキの混交したコナラ-ソヨゴ林であったと推察される(図3).宅地に迫る斜面は、勾配が極めて急で、崖崩れの恐れがあったため、斜面の植物を皆伐、林床を重機で地掻した.母岩が露出したところや母岩のうえに土壌が10cmほど乗っている所もあり(図4)、削り方は一様ではない.

 整備後、京都市が市街化調整区域に指定したため、住宅地にならず放置されることとなった.

 事前調査では(2005年5月)、成長の極めて悪い平均樹齢30年ほどのアカマツ林であった(図4)が、放置里山林の特徴であるソヨゴ、アセビなどが目だった.
まつたけ山復活させ隊(当時はまつたけ十字軍)が、マツタケ山づくりを始めたのは2005年6月16日で、28名ほどの市民学生が、マツタケ発生整備作業に入りました(図6). 
 参加者は高等植物の密度調整を手ノコで実施(2005年6月).小径木は抜き切りした(図7).ついで林床の有機物除去を行ない、熊手やクワなどでアカマツ根を切断、細根増殖作業を行なった(図8).このエリアのマツタケ発生整備作業を2005年9月には終えた(図9).

 この辺りの現在の様子は、立派なアカマツ林となっている(図11 2016年8月).約50年、マツタケの発生は皆無であろう.副題の無の意味である(図1).もし放置されていたなら図10の右の写真のようになっていたはずだ. 


 
 待つこと12年! ついに京まつたけのシロが形成された.仲間は感激、大喜びした.2016年10月22日のことである.傘の直径3cmのもの(図12)と1円玉ほどの頭をかろうじて見せている.その距離は1.2mほどあり、シロが2つ形成されたと思える.その後、シロが1つ増え計14本の発生であった.

 マツタケの栽培には、人工栽培と林地栽培がある.成功率の高い林地栽培も思うようにはならない.マツタケのことだけでなく宿主との関係という厄介なものが間に横たわるからだ.マツタケとホスト植物との親和性(相利共生関係)を見ると、6つに分けられる.その関係の実態も未解明である(図16).
 
 マツタケのことが少しは分かった今にもかかわらず、アカマツ林面積減少とその状態の劣化に見合って1930年代の130分の1の生産量だ.《マツタケの科学》そんなことを考えなくとも、1941年には12222tもマツタケはとれたのです.マツタケの林地栽培は本当の所は簡単で、林の手入れ(利用)と気象が大切です.いい山の姿は、おそらく決まっているでしょう、こんな山です(図11).これは今からでもつくれます.後は気象不順の対策となります. 

 


§主 催

まつたけ山復活させ隊
Movement for Regeneration of Matsutake Forests
代表 吉村 文彦(微生物生態学)
090-6227-4305 miyakomatsutake@gmail.com
京都市山科区御陵岡ノ西町38-27

 

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