ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(38)

2008-03-30 17:13:04 | Weblog
3月30日 一日中、雨が降っている。気温は5度までしか上がらず、肌寒い。九重の山では雪になっているのかもしれない。
 この家のある所が、標高620m位だから、九重の山々との差は1100m程ある。気温の逓減率(高さが100m上がるごとに、気温は-0.6度下がる)からいえば、今、山の上はマイナスの寒さで、雪になっていてもおかしくないのだ。
 寒い雨の降る日、ストーヴの前でワタシはひたすらに寝ている。ものの本によれば、こうしてネコが寝てばかりいるのは、他にやることがないから、暇だからということだが、全く人間は、科学的に物事を検証しているからとか言いながら、ある意味では、その科学的データだけをまるで神のごとくに信じてしまう単純な所がある。
 それはつまり、昔の人たちが作り上げた宗教を非科学的だと批判して、決別したはずなのに、いつしか新たな絶対神である科学という名の宗教を再び作り上げて、自分たちはそのことに気づいていないのだ。
 のっけから少し難しい話になったが、それはワタシが考えるネコであるからだ。ワタシには別に、都会に住むお嬢様ネコちゃんたちみたいに、ネコ百合女子短大とかいった学歴もないけれど、この十二年の間、しっかりと学んできたのだ。ノラと飼い猫の間で、様々な経験をつみ、辛酸もなめてきた。そしてそうした環境こそが、ワタシが生きていく上での、時にはやさしく、時には無慈悲なまでの、人生、いや猫生の師になったのだ。
 こうして寝ている時でも、ずっとノンレム睡眠でぐっすり眠り込んでいるわけではなく、レム睡眠の中で夢を見たり、目が覚めて、じっと考え事をしたりしているのだ。人間だって、眠ってはいないけれど、布団の中で横になったまま考え事をしてる時があるはずだ。
 飼い主がぐっすりと眠り込んだ丑三つ時(うしみつどき)に、なぜかお寺の鐘がゴーンとなり、ネコの影が窓に映り、なにやら紙をめくる音がして、いちまーい、にまーい・・・怪談、番町皿屋敷の一節ではない。実は、昼間寝ていて考えたことを、飼い主に悟られぬよう、夜中になってひそかに本棚から本を引き出して、ページをめくり、調べているのだ。
 ネコが本を読むなんてと思うかもしれないが、前にも紹介したことのあるキルバーンのネコ・カレンダー、1981年3月のページでは、あのネコちゃんが本を広げて楽しそうに読んでいるのだ。
 ワタシも昔は、ノン・フィクションの冒険ものなどが好きだったのだが、最近は年取ったこともあって、日本の古典などをよく読むようになった。そこで、飼い主も好んで読んでいる「徒然草」からの一節を。
 徒然草、第八十九段 「奥山に猫またというものありて、人を食らふなる」と、人の言ひけるに・・・以下原文のまま書くと長くなるので要約すると・・・「山奥には恐ろしく年を取った猫が、猫またに化けて、人を食べるという噂が立ち、さらに山奥だけでなく街中にもでると噂されるようになったある日のこと、連歌の集まりで夜遅くなったあるお坊さんが、暗い夜道を恐る恐る歩いていた所、突然、獣の気配がして、そのまま飛びかかってきた。お坊さんは驚いて腰を抜かし、『猫またが出た。助けてくれー。』と、大声で助けを呼んだ。近くの人たちが何事かと駆け寄ると、青ざめ震えるお坊さんの近くに、そのお坊さんの飼っている猫が一匹。」
 今の時代にだって似たような話はあるだろう。つまり、それほど人間は、何を作り上げたか知らないけれど、単純でバカなところがあるということだ。ワタシたちネコ族を見下してはいけない。寝てばかりいるように見えるお宅のネコちゃんも、実は、薄目を開けて何かを考えているところだったりして・・・風もないのにカーテンがゆれ、はっと見上げる天井に、ネコの影が、ヒュードロドロドロ・・・どひゃー、たたりだー・・・とならぬよう、しっかり可愛がりますと家の飼い主も申しております、はい。

ワタシはネコである(37)

2008-03-28 18:00:50 | Weblog
3月28日 晴れて、気温は12度位まで上がるが、風があり、まだ寒さも残っている。
 今日、ワタシは外に締め出された。窓の外から見ていると、黒い着物を着た人が部屋に入り、何かを唱え、飼い主はその後ろにかしこまって座っている。毎年、この日になると、飼い主はこうしてワタシが部屋に入られぬようにして、二人で何事かをしている。あのおばあさんがいなくなってから毎年のことだ。
 40分ほどいて、その黒い着物の男の人は帰っていった。飼い主がワタシを部屋に入れてくれるが、なにやら煙のにおいがひどく、すぐに日のあたるベランダに戻った。
 やがて飼い主もベランダに出てきて、ゆり椅子に座り、ワタシを抱き上げてひざの上に乗せた。若いころは、ワタシは抱かれたり、ひざの上に乗せられたりされるのはイヤだった。子供のころ、あの酒飲みおばさんの家で、他のネコと一緒に暮らしていたころは、抱き上げられたりすることが殆んどなかった。だからこの家にきてからも、抱かれると、すぐにイヤイヤをして逃げ出していたのだ。
 しかし人もネコも、年を取ってくる、といろんなことが分かるようになってくる。若いころは、たとえ争いになっても、自分の思っていること、やりたいことをただ押し通していたが、年をとると、相手のことも考え、その相手の言いぶんもありかなと思うようになる。それは、長年の経験で寛容さやゆとりを持てるようになったからであり、無駄な争いを避けたいと思う年長者の知恵でもある。
 ワタシはいつの間にか、飼い主のひざの上にいるのが好きになってしまった。ついウトウトとしてしまうほどだ。何より床暖房のように暖かい。そして飼い主が傍にいるという安心感もある。
 若いころ、エサはこの家からもらっていたが、ワタシは一匹の独り立ちしたノラとしての誇りも持っていた。つまり飼いならされ、すべてを人間に頼るゴロニャンの家ネコではなく、野山の鳥や、野ネズミを狩する小さなライオンとしての誇りだ。だから、気安く人間の腕の中やひざの上で甘えなどはしなかったのだ。
 そのワタシが、飼い主のひざの上で目を細めているなんて・・・若い時にイヤだったことが、年をとって初めていいことだったと気づく・・・。そういえば飼い主が誰かと話しているのを聞いたことがある。
 「オレは若い時に戻りたいとは思わないな。おそらくピリピリととんがって、周りのみんなを傷つけていたかもしれない。そんな生意気な若者に戻りたいとは思わない。そういえば、そのころ付き合っていた女の子と何年かたって会った時に言われたことがある。『あなたのこと大好きだったわ。だけど一緒にいると疲れたの。そのころは一緒にいる時がうれしくて、そんなことは言えなかったんだけどね。』ってな。今はそれが良く分かるね。当時、高倉健の任侠映画が好きで、そんな昔のヤクザの義理人情に憧れ、彼女にその自分の思いを押し付けていたんだ。まったくバカだと思うよ、今にしてみればね。しかし、それが若さだったんだろうね。自分の世界しか見えなくってさ。
 だから、様々な欲望の呪縛から解き放たれた今の自分の方がいいね。いろんなものが良く見えてくる。なるほどそうだったのかと。年取るに従い、もっと学びたくなるという人の気持ちは分かるね。視野がぐんと開けて、さらによく見えるんだもの、あのアフリカのマサイ族の驚異的な視力を手に入れた気分だよ。
 若い時がダメだって言うんじゃない、むしろ青春時代は素晴らしいものだ。正しく言えば、若い時の方が良かったかもしれないが、年取ってからもいいことがいろいろあるってことよ。」
 傍で聞いていたワタシにも、そのことは良く分かります。しかし年を取るというのは、若い時の力が衰え、体が弱くなっていくということ。ワタシもそんな年なんですから、お願いです、北海道なんかに行かずに、ずっと傍にいてください。飼い主様。

ワタシはネコである(36)

2008-03-26 14:12:02 | Weblog
3月26日 昨日、今日と晴れるが、風が強く、気温7度と花冷えの寒さだ。下界では、あちこち、桜が咲いているというのに、ここではやっと梅の花が満開だ。近くのスキー場は、まだ50cmの雪が残っていて、しぶとく営業を続けているとか。
 何事もできるうちに、しっかりやっておくべきなのだ。ワタシは例のごとく、毎日、コアジを一匹おいしくいただいている。ところが、そんなワタシに、飼い主が心配そうに言った。
 「ミャオ、オマエが好きなアジやサバなどの青魚は、ネコには余り良くなくて、食べ過ぎると、黄色脂肪酸が体にたまり、体中が痛くなるということだ。キャットフードだけ食べてる方が、栄養のバランスがとれていいんだそうだ。それとも、その不飽和脂肪酸を中和させるために、ビタミンE、つまりカボチャやニンジン、そしてナッツ類などをとればいいということだが、どうする。」
 ゲッ、今さらなんてことを、この年になるまで食べ続けてきて、今ではワタシの生きがいの一つでもある、あの夕方のサカナの時間がなくなるなんて・・・そんなことは断じて許せない。
 よく考えてほしいものだ。大体、そのネコのイタイイタイ病っていうのは、サカナばかり食べている漁師町のネコたちがかかりやすいんであって、ワタシみたいに山の中に住むネコで、それも一年のうち半年近く飼い主から捨てられて、生魚どころか、半ノラ状態で生きているネコには、関係ないはずだ。
 本来、ワタシたちネコ族は、小さなライオンと言われているぐらいで、狩をして、他の小動物たちの生肉を食べて生きてきた。ところが、人間たちのペットになり、エサも人間たちに依存するようになると、当然、その飼い主たちの食べ物の好みに合わせるようになる。日本のネコは魚が好きになり、肉が好きなのは、もちろん”欧米か”・・・そして中国のネコは中華料理、韓国のネコはキムチご飯・・・かどうかは知らないが、ともかくネコたちは、その飼い主たちの食生活の好みに合わせて生きてきたのだ。
 ワタシは、子ネコの時に、当時の飼い主だった酒飲みおばさんから、晩酌の刺身を一切れもらううちに、すっかり生魚好きになってしまったのだ。それ以来のワタシの楽しみな習慣をやめるわけにはいかない。まして生魚をもらえなくなる半年もの間、近くにいる知り合いのおじさんから、キャットフードをもらえるから、まあ飢えはしないのだが、やはり生の肉は食べたい。それでこの前、飼い主の目の前でキジバトを食べて見せたように、野生のネコになって鳥などを捕まえているわけだ。それは町の飼い猫が、鳥などを捕まえてもてあそぶのとは意味が違うのだ。
 神様の命により、この哀れな中年男の飼い主を慰めるようにと、天から降りてきたエンジェル・キャットのワタシが、余計な苦労までもしなければいけないなんて。飼い主には、そんな魚の心配よりは、むしろすっかり年をとってきたワタシの、あーゴホゴホ・・・心配をして、ずっと一緒にいてほしいものだ。
 ・・・「ミャオさん、ネコ汁ができましたよ。」「いつも苦労かけるねえ。ありがとよ。あーゴホゴホ。」「大丈夫ですか、ミャオさん。こんな時、おばあさんが生きていたらなあ。」「それは言いっこなしでしょ。」悲しいヴァイオリンの音が聞こえてくる・・・きっとくる、きっとくるー・・・。
 「心配するなミャオ、オマエがホントに弱ってきたら、どこにも行かないでずっと傍にいるから。オマエはオレの大切なたったひとりの家族なんだから。」・・・わー、ミャーンと泣きながら、二人は抱き合うのでした。
 ・・・というふうに、ワタシは花冷えの寒い一日を、時々夢を見ながら、ストーヴの前で寝ていました。

ワタシはネコである(35)

2008-03-23 17:51:33 | Weblog
3月23日 天気予報、90%~100%の確立どうり、一日中、雨が降っている。九州にしては珍しく、こんな時期まで雪が残っていたスキー場も、この雨で終わりになるだろう。
 二三日、晴れて暖かい春の日があり、その後一日二日と、雨になる。そうして日一日と、戸外に緑が増えてくるのだ。
 今日は、そんなわけで、またワタシは一日寝て過ごすことになる。外の気温は、10度。確かに今までと比べれば暖かいが、飼い主が早々にストーヴの火を消したので、それでは少し寒い。そこで、アンモナイト寝のスタイルで体を丸めて寝ていると、傍にいた飼い主がワタシの体をなでながら、話しかけてきた。
 「ミャオ、いやーきれいな毛皮だな。つるつるとすべってシルク・タッチで気持ちがいいな。サカナは毎日、ちゃんともらえるし、飼い主はやさしいし、夜は外に出て、若いオスネコちゃんたちと遊んでいるし、結構なことだな、おい。
 オマエのそんなきれいな毛皮、なんとかならんかなー。昔はネコの毛皮は、三味線に張るなめし皮として利用されたみたいだが、今では三味線なんてはやらないしなー。いやなーに、オマエもこんなに世話になっている飼い主に、そろそろ恩返しの一つもしてくれてもいいんでないかなあと、思ったんだ。
 たとえばだ、あのソフト・バンクのコマーシャルのとうさん役の白い柴犬。あれはもう今年のワンニャン・アカデミー賞の最優秀主演賞に決定してもいいぐらいの名演だ。特に、かあさん役の樋口可南子の校長先生との掛け合いは最高だ。このシリーズ・コマーシャルに、あのワンちゃんだけがずっと毎回出演している。ということは、出演料ががっぽりと飼い主の元に入っているわけだ。
 他にも、鉄道の和歌山線の貴志川駅には、ちゃんと駅長に任命されて、駅長の制帽をかぶって、乗客たちの相手をしているネコちゃんもいるそうだ。もう、オマエとも長い付き合いだ。そろそろ、ネコの恩返しくらいしてもいいんじゃないかな。
 オマエに稼いでこいとは言わないけれど、たとえば、どのみち抜け変わってしまうその毛をつかって、オレが寝ている間に、機織(はたおり)でマフラーの一枚ぐらい編んで、枕元にそっと置いておくとか・・・すると、朝起きたオレが気づいて、オマエの傍に駆け寄り、二人はヒシと抱き合う。まあ、オマエの肉球の手ではムリか。 
 というのも、ものの本によると、オマエの年、十二三歳というのは、人間の八十歳以上とか。ゲッ、とても信じられない。今でも木に駆け上がり、マイケルや若いネコちゃんとニャンニャンしているというのに。人間と同じで、若く見えるネコもいるということだろうが。そうなると、老い先短いオマエ。悪かった。稼げとは言わないから、おい、死んでも、化けて出ないでくれな。」
 まあ、言わせておけば、勝手に言い放題。バッカじゃないの。ワタシがいなくなって一番困るのは誰ですか。よく胸に手を当てて考えてみて。
 実は、ワタシたちネコ族は、天上の神から、地上の愚かしく考え悩む人間どもを癒(いや)し、助けるべく使わされた天使なのです。その名を、エンジェル・キャット。幼き子供から、老いたる人々まで、その心を慰め、癒す正義の味方。ネコのたたりとか、化け猫とか恐れられるのは、ワタシたちに害を与えた人間どもに、誰あろう、神様自らが下されたお仕置きなのです。
 ・・・それを分かった上で、ワタシに勝手なことを言っているのであろうな。この眉間の、流星天白の紋様が目に入らぬか。ワタシを誰と心得る。天使のネコ、略してテンネコなるぞ。寝てばかりいるのは、歌にもあるだろう、「ネンネコしゃっしゃりませー、寝た子の可愛さー」と、おぬしらを慰めているのじゃ。よいか、以後気をつけるように。
 「ははー、それとは気づかず、ミャオ様、とんだ失礼を。」
 なに、分かればよい。以後、励めよ。ワーハハハハハッ。「人生楽ありゃ、苦もあるさー・・・」と歌が流れ、ワタシは夢の中・・・。
 

 

ワタシの飼い主(10)

2008-03-21 18:45:40 | Weblog
3月21日 一面に梅の花の香りが漂い、快晴の空が広がる。朝は、-2度と冷え込んだものの、昼間は15度まで上がり、うらうらと春の日差しがあふれている。ワタシはベランダのあっちこっちに行って、一日寝てすごす。猫日和(ねこびより)という言葉があれば、こんな日のことを言うのだろう。
 しかし、その前の二日は、雨や曇り空で寒く、まだまだワタシはストーヴの世話になっていた。昨日、そんなふうにしてワタシが寝ている傍で、飼い主が半日もの間、テレビに見入っていた。例の、お気に入りの音楽が流れ、飼い主は時々、感心したような声を漏らしていた。
 まあワタシとしては、飼い主がこうして傍にいてくれれば、何をしていようが構わないのだけれど、ようやくその番組が終わり、ワタシはニャーと鳴いて、飼い主に聞いてみると、おーヨシヨシといって話してくれた。
 「オマエには、猫に小判の話かもしれないけれど、オレにとっては、まあ金の小判並みに嬉しい出来事だった。NHKのBSハイビジョンで、午後1時から8時までの7時間にわたって、あのベルリン・フィル(ウィーン・フィルと供に世界の二大クラッシック・オーケストラといわれる)の特集番組をやったのだ。
 オレは別に、NHKに関係があるわけではないけれど、教養・芸術関係の放送については、いつも感心させられる。前にも、放送される映画について、良心的な名作主義の方向を良く守っていると、ほめたことがあるけれど、今回のベルリン・フィルの特集番組ついても同じことが言える。他の民放のどこが、興味本位のクイズ番組なんかではなく、そんな良心的な映画や、芸術としてのクラシック音楽をとりあげてくれるだろうか。
 ところで、この7時間にも及ぶ放送を、全部見たわけではない。ドキュメンタリーとしてのベルリン・フィル団員、元団員の話も面白かったけれども、なんといっても名指揮者たちによるコンサート映像が素晴らしかった。
 ガンの手術を受けて復帰したばかりのクラウディオ・アバドが指揮したヴェルディのレクイエムの終曲・・・鬼気迫る表情で指揮するアバドに応えるソプラノのゲオルギュウ、合唱団員、ベルリン・フィル・・・曲が終わり、余韻の中、頭をたれるアバド・・・長い沈黙のときが過ぎ、そして聴衆の拍手が波のように広がっていく・・・なんという曲と演奏者、そして聴衆による三位一体の理解のひと時だったことだろう。
 そしてギュンター・ヴァントによるブルックナーの交響曲第9番・・・八十数歳のヴァントが一時間もの間、タクトを振って、指揮台に立ち続ける、それも暗譜(そらで楽譜を覚えること)で・・・深遠なブルックナーの響きが流れる。
 最後の小沢征爾によるチャイコフスキーの「悲愴」交響曲・・・あのカラヤン追悼コンサートで見せたウィーン・フィル指揮者でもある世界の小沢の真髄・・・通俗名曲のきらいもある「悲愴」をあれほど聴かせてくれるとは・・・。
「正しく、良いもの、一流のものを若いうちに、しっかりと見ておきなさい。」いつもの事ながら、あの映画評論家、淀川長冶さんの言葉が思い浮かんでくる。若い時にクラッシク音楽を知ることができて、本当に良かったと思う。それもきっかけはある映画のテーマ曲が好きになったことからだった。それは「みじかくも美しく燃え」という悲劇の恋物語の映画だったのだが、そこで流れたモーツァルトの「ピアノ協奏曲第21番」第二楽章アンダンテのメロディーにしびれたのだ。そのおかげでクラッシックの世界に入っていくことができて、感謝したいぐらいだ。
 思えば、映画が好きだったことで、なんと多くのことにその興味が広がっていったことだろう。クラッシック音楽、絵画、建築、宗教・・・ヨーロッパ、世界そして日本へと回帰していく。良いものを知ることのできる喜び・・・これもまた生きていることの幸せの一つなのだ。
 ミャオ、オマエから見れば、人間って、しょーもないことに興味もってと思うかもしれないけれど、それはオマエが他の動物や鳥や虫たちの動きをじっと見ているのと同じことなんだ。将来役に立つからなどと意識してではなく、それらのことが、生きていくうえで大事な、自分の知識の蓄えになっていたことに、いつか気づくようなものだからだ。
 ミャオもひとり、オレもひとり。おたがいにしっかりと生きていくしかないのだからな。」
 あーあ、また最後は説教ですか。ネコの耳に念仏。それよっか、そろそろサカナと散歩の時間ですよ。

ワタシはネコである(34)

2008-03-18 17:54:46 | Weblog
3月18日 朝、-2度、日中17度と、この三日間、春本番の暖かさが続いたが、どうやらその天気も今日までで、明日にかけて雨になるらしい。しかし草木にとっては、待ち望んでいた潤いの雨になることだろう。
 そんなふうに、物事は、一方にとって悪いいことでも、もう一方にとっては良いことになったりもする。たとえば、ワタシにとっては、飼い主には一日中ずっと、家にいてほしい。ワタシがちょっと外の見回りに出て、家に戻ってきたときには、いつもニャーと鳴いて知らせるのだが、そんな時、飼い主がいなかったり、ドアの鍵がかかっていたりすると、いつも、また捨てられたのではないかと不安な気持ちになるからだ。
 だから、飼い主が買い物などから戻ってきたときには、今までの寂しさと不安な思いから、ニャーニャー鳴いて、すり寄っていく。すると飼い主は、オーヨシヨシとムツゴロウさん可愛がりをしてくれるのだ。
 そんなワタシのことを分かってくれていて、飼い主はこの四ヶ月近くの間、一晩たりとも家を開けて、外に泊まったことはない。しかし、ワタシにとってはこのありがたいことが、実は、飼い主にとっては困ったことになり、ワタシが足手まといとなっているのだ。
 冬、雪がやんで晴れ間が広がってきて、明日は晴れそうだという時に、飼い主が空を見上げてよく言っていた。「山の夕映えがきれいだろうな」と。つまり飼い主は、山小屋とかテントに泊まって、朝夕の山の写真を撮りたいのだが、ワタシがいるために、一晩家をあけることができないのだ。
 一方にとっていいことが、他方には都合の悪いことになる。しかし、飼い主は言ってくれる。「夏の間、オマエを残して、北海道へ行ってしまうから、せめて一緒にいる冬から春にかけてのこの間だけは、なるべく他所には行かないことにしているんだ。せめてもの罪滅ぼしで悪いけど。」その言葉は、ワタシにとっては、ありがたいけれど、ツライ言葉だ。
 しかし、そんな先のことなど考えても仕方がない。今は、夕方にもらえるあのコアジ一匹のことだけ考えていよう。おばあさんがいたころからずっと、ワタシはアジをもらい続けてきた。はじめこの家に来たころは、おばあさんはいろんな魚をくれたのだが、ワタシはマグロとアジしか食べなかった。
 「まあ、なんてゼイタクなネコなんだろうね。きっとあの酒飲みオバサンから、晩酌の時の刺身をもらっていたからだろうね。」
 しかし、もちろん当時から、値段の高いマグロはたまにしかくれなかった。ましてシブチンの飼い主だけになってからは、見たこともない。
 かといって、ワタシがゼイタクなわけでもない。ワタシの食べるものは、その一匹10円か20円ぐらいの生アジの他には、キャットフードとミルクくらいなものだ。飼い主がアツアツのゴハンの上に、カツブシやモミノリをかけて、うまそうに食べているのを見て、ミャーと鳴いてほしがったら、そのおこぼれを頂戴するときもあるが、大体グルメには程遠い飼い主と同じで、きわめて日本的なネコの食生活だ。
 夕方になると、ワタシはソワソワして、飼い主に鳴いて催促するが、時々怖い顔をして、まだ早すぎると怒鳴られる。それでも我慢できずに鳴いて、最後にはもう空腹に耐えきれずに、仕方なくエサ場の残りのキャットフードを食べようとした、その時、飼い主が声をかけるてくるのだ。
 猫なで声で、「さあ、ミャオ、サカナをあげようかね」と。ワタシはもう走って行って、飼い主にすがりつき、鳴き叫ぶ。「ネコ神さま、ネコ仏さま、飼い主さま、あんたが大将!」
 しかしその、じらされたあげくに食べるサカナのうまいこと・・・たまらん。ネコに生まれてよかった。そして、そのサカナの後、飼い主と一緒に散歩する、この二つの時間がワタシのゴールデン・タイムだ。

ワタシはネコである(33)

2008-03-16 18:06:21 | Weblog
3月16日 昨日、今日と晴れて暖かく、気温17度と4月上旬並みのポカポカ陽気だ。全くいい気分で、ベランダのゴザの上で、ワタシも白酒なんかいただいて、ヨイヨイと踊りたいくらいだ。この暖かさで、家の梅の花もようやく咲き始めた。
 早い所では、一ヶ月も前から咲いているというのに、山の中だから春が来るのも遅いのだ。飼い主の話によれば、北海道では、なんとサクラが咲いた後に、ウメの花が咲くということだ。
 「青空にキタコブシの白い花がまぶしいばかりに咲き、ついでエゾヤマザクラの薄紅色の花が咲く。5月も中旬くらいのことだけどな。イヤーしたって、北海道の春が一番でないかい。」と飼い主は遠い空を眺めていた。
 ワタシには花のことは分からないが、飼い主の憧れや、そうなってほしいと思う期待の気持ちは良く分かる。しかし、すべてその思いのままにかなえられるわけではない。いや、むしろかなわない願いの方が多いのかもしれない。
 そして、その辛い思いを抱えたまま、ネコも人も生きていかなければならない。けれども、そのいわゆるストレスを溜め込んでいけば、いつか心と体が病んでしまうことになるのだ。
 ワタシが、飼い主からの手ひどい仕打ちで、命にかかわるほどのショックをうけ、なんとか病院での治療を受けて、やっと回復したという話しを、前にしたことがあるが、それほどまでに、ネコにとっても人間にとっても、心や精神の問題は重要なものなのだ。
 それでは、どのようにしてネコや人間は、日々起きる心の痛手を癒しているのか。それは、飼い主によれば、転嫁あるいは転移作用と呼ばれる、意識的な、あるいは無意識的な行為によるものらしい。
 少し難しい話になるが、なんでも昔、途中まで読んだフロイトの「夢判断」を、最近読み直して(また途中でやめたそうだが)、飼い主は自分なりに納得したらしいのだ。
 つまり、人は自分の思いどうりにいかないことがあると、これはその物が悪いから、他人が悪いからと、責任を転嫁して、自分の心の痛手を抑えようとする。しかし普通には、そうあからさまに他の責任にすることなどできないから、心の中の溜め込んでしまう。
 たまる一方のストレスは、どこかで解放されなければならない。そこで、人の脳は指令するのだ。無意識の夢の中で、それらの思いを、過去の記憶の中から巧みに組み合わせて、そうとはわからないような解決策を提示してくれるのだ。
 夢の本質は、かなわない願望の充足にあるが、心の不安もまた抑圧された精神からの解放のために、夢としての解決が図られることになる。分かる、分かると飼い主は言う。
 「夢の中で、可愛いねえちゃんと仲良くなったり、あるときは若き日の悪い行いのたたりで、怖い夢で目が覚めたりと、夢を見るおかげで、精神的なバランスがとられているのかもしれないな。」
 ワタシにしても、昼間寝ているときに、突然、小さく鳴いたり、うめき声を上げて体を痙攣させたりしていると、飼い主から言われたことがある。自分で分かっていて意識的にしているのが、ドジったり、飼い主から叱られたときにする、小さな毛づくろい、つまりごまかしだ。
 少し悲しいのは、ニャンニャンの時期を過ぎた後、夜、飼い主の目の届かない所で、たとえば倉庫の中に置いてある、飼い主の作業着の上に、ずっと座り続けていることだ。この場所は、シャム猫のかあさんがワタシを生んだ所なのだ。それなのにいくら座っていても、ワタシはコネコを産むことはできない。
 人の世も、ネコの世も、辛いことがいろいろとあるけれど、みんないろいろと工夫して、なんとか折り合いをつけて、生きている。それは、もちろん辛いこと以上に、うれしいこともいっぱいあるからだ。ワタシも、夕方になり、生魚を食べながら、ああ幸せだ、生きていて良かったとつくづく思うのだ。

ワタシはネコである(32)

2008-03-14 18:32:40 | Weblog
3月14日 朝から7度もあり、暖かい感じだったが、一日中、雨が降ったりやんだりで、夕方には4度と冷え込んできた。ワタシはこの所の陽気に誘われて、ベランダに出て日に当たり、暑くなると日陰に行ってすごしていたのだが、今日は仕方なく、部屋の中で寝ていた。時々夢見て、舌を出したりして・・・。(写真)
 飼い主は、朝から新しいパソコンの前で、ブツクサ言いながら画面に見入っていた。それは、今までのものよりずっと大きな画面だから、山の写真が素晴らしいと、喜んで目を輝かせて見入っていた時とは違い、なにやらしかめっ面だ。
 機械が相手だから、人間相手より単純だと考えたら大間違いだ。機械だってそれを扱う人間がいい加減だと、言うことを聞かないときもある。それでストレスを抱えておかしくなるなんて、ワタシたち動物から考えれば、バカバカしく思える。一体人間の進歩なんて・・・と思ってしまう。
 そんなイラついてる飼い主の傍に行って、ニヤオニャオと甘えたものだから、怒鳴り声が返ってきた。ワタシはあきらめて、また寝るしかなかった。
 そんな飼い主のふくれっ面に、あのおばあさんはよく言ってたものだ。「いい年して、ちけまわして」と。飼い主は、最初はその意味が分からず、年寄りの使う方言だと思っていたらしい。後になって、お稚児さんの稚に、気。つまり稚気(ちき)のことで、子供っぽいと悪い意味でたしなめた言葉だったのだ。
 そんな言葉に気づいて、反省するぐらいの気持ちのある男だから、サカナの時間になると、さすがに自分で悪かったと思ったのだろう、ネコなで声になってワタシを呼んだ。
 ワタシたちは、よほどひどいことをされない限り、小さなことはいちいち気にしない。人間たちのように、細かい事を一つ一つ、ウジウジ考えていてもはじまらない。まず大事なことは、生きていくこと。それ以外は、みんな些細なことなのだ。
 サカナをもらったあと、ワタシは飼い主と一緒に散歩に出かける。体には、食べたばかりのサカナのエネルギーが満ち溢れ、時々、飼い主の前で、いい年なのに、ダダダーっと木に登ったりもする。ある時は、勢いで高く登りすぎて下りられなくなり、飼い主におろしてもらったこともある。
 テヘー、と恥ずかしくなり、少し毛づくろいをしたりしてごまかす。この転嫁(てんか)と呼ばれる行為については、ネコにも人間にも、いろいろと面白いことがあり、次回にはその所を飼い主に話してもらいたいと思う。

ワタシはネコである(31)

2008-03-11 19:08:39 | Weblog
3月11日 昨日からすっかり春めいてきた。今日の気温は17度と、サクラの咲く頃の感じだ。ウメやツバキの花が咲き、足元にはナズナやオオイヌノフグリの小さな花も見える。
 そしてあちこちに開いているフキノトウは、酢味噌和えにして、熱いご飯の上に乗せて食べるとたまらん、と飼い主が言っていた。全く人間の食べるものは分からない。
 昨日の夕方の散歩のときに、飼い主がなにやらつぶやくように、小声で歌っていた。「春になればーしがこ(氷)もとけてーどじょっこなど、ふなっこなど、夜が明けたとおもんべなー」。例の森繁久弥(古いなあ)調のすこしなまった歌い方だった。
 毎日、雪が吹きつけてくる重たい色の空ばかりを見上げていた、北国の人たちにとって、春の訪れは、まさに暗い冬からの夜明けなのだろう。暖かいといわれる九州の山の中にいるワタシでさえ、その気持ちは良く分かる。
 冬の間、一日中、仲良しだったストーヴとは、もう朝の間だけの付き合いになった。地球環境を考えてとか言いながら、ケチな飼い主は、なにかにつけてすぐにストーヴを消してしまうのだ。
 ワタシがベランダで寝て、大あくびをしていると、それを見た飼い主がニヤニヤ笑いながら言った。
 「おいミャオ、オマエこの所、夜外に出かける時間が急に多くなったな。冬の間、トイレぐらいにしか出なかったのに。夜の集会なら、一度で終わるのだろうが、オマエは二度三度と出入りしているな。ひょっとして、この前のあのネコちゃんでないだろうな。
 ほれ、十日ほど前に、散歩していた時に出会ったネコちゃんよ。むこうは先にオマエに気づいて、低い姿勢で歩いてきて腹ばいのまま止まった。そしてオマエをじっと見ていたのに、少し先にいたオマエは気づかない。
 そのネコは、オレが傍にいるのに恐れるふうではなかった。間違いなく飼い猫だ。オレは先にいたオマエを後ろから抱きかかえて、そのネコと対面させた。 
 いやー見ものだったな。オマエはそのネコを見て、ビクッと体を硬くしたが、逃げはしなかった。小さくうなりながら、そのネコと間を開けて並ぶかのように、ゆっくりと近づいた。それは見たこともないゆっくりとした動きだった。ほとんどスローモーションで見るような、まさに芸術的なまでの動作だった。
 無駄な争いを起こさないために、相手を刺激しないようにゆっくりと、しかし相手への興味はあるという、見事な動物としての動きだった。
 オレは、そうしてじっと並んでいるオマエたちの邪魔をしたくなかったので、その場を離れた。しかしオマエは程なく戻ってきた、何事もなかったかのように。
 それから二三日して、ベランダの下の方で、あの甘く呼びかけるようなネコの声。マイケルの声とは違う、もっと若く、少し優しい声、あの時のネコちゃんだ。オマエはベランダの上から鳴き交わし、その後、走って逃げたそのネコを追いかけるように、ついて行った。
 オレはネットの猫図鑑で調べたんだが、どうもメインクーンではなくノルウェージアン・フォレスト・キャットらしい。大きくはなかったが、毛足の長いキレイなネコちゃんだった。まったくオマエの好みは、欧米か。」
 と、勝手に飼い主がほざいているが、自分がモテないものだから、ワタシのことばかりハナシのたねにして、ほんにすかんたこ、きゅうちゃん。

ワタシはネコである(30)

2008-03-09 16:14:58 | Weblog
3月9日 昨日は、日中12度までも気温が上がり、暖かい春の日差しが気持ちよかった。ワタシはその陽気に誘われて、隣の家の屋根に上がり、そこから家のベランダを出たり入ったりして、洗濯、布団干し、掃除と動き回っている飼い主の姿を見ていた。ああ、春だなあ。
 今日は、午後から雨になったが、それは今までの冷たい冬の雨ではなく、木々や草花たちを呼び起こす、どこかやさしい春の雨だった。
 それでもまだワタシはストーヴの前にいて、夢の中で、サカナのことを思いながら寝ていた。飼い主は、そんな私を優しくなでながら、話しかけてきた。
 「ミャオ、そうして寝ている姿は、普通の可愛い家ネコなんだけどなあ。五日前に、オマエが鳥を捕まえる話をしたけれど、それは確かにネコの遊びなんかじゃなくて、生き延びるためにオマエが必死になってやっていたことだと、オレにも良く分かるようになった。
 しかし、二ヶ月前のあれには、さすがにオレも驚いた。いいか、この話は、なにも昔のことを持ち出してきて、オマエをとがめようとかする気ではないんだ。ただオマエと鳥の話になると、やはりここで話しておかなければいけないことだと思うんだ。ネコとしてのオマエと、飼い主であるオレの責任の問題として。
 あれは、オレが帰ってきて三週間ほどたった12月半ばのことだ。庭木の剪定や、枯葉の掃除などで外にいた時、何か家の中で音がしたようだったので、戻ってみると・・・オレは唖然と立ちすくんでしまった。
 ミャオが鳥を捕まえてきて、それも食べているのだ。近寄ってみると、オマエは一声、ニャーと小さく鳴いただけで、ただ食べることに夢中だった。
 オレの頭の中を様々な思いがよぎった・・・やめさせるべきか、毎日、十分なエサを、ましてちゃんと大好物の生魚までやってるのに、オレに対する今までの不満のあてつけか。
 ミャオのいつもの顔とは全く違う、目が鋭くつりあがり、バリバリと音を立てて食べるさまは、まるで子供のころに見た”怪談、鍋島猫屋敷"に出てきたネコ妖怪の姿を思わせた。オレは黙って、そのまま見つめている他はなかった。そのときに撮った写真がある。
 オマエが食べ終わって、ベランダに出て毛づくろいをはじめて、オレはバラバラになった鳥の死骸を片付けた
 鳥は哀れなキジバトだった。そのキジバトには、思い出がある。会社を辞めて、バイクで北海道をゆっくりと旅して回ったとき、たまたま立ち寄った民宿で、若い二人の男と出会った。かれらは日本野鳥の会会員で、そのときオレは初めて、野鳥の姿をプロミナ(スコープ)で、目の前で見るかのように覗かせてもらった。なんと生き生きした目、つやつやと光る羽・・・今まで鳥をことさら注意して見ることもなかったオレは、それ以来、野鳥愛好家になってしまった。その時はじめて見たのが、キジバトだったのだ。
 それをオマエは食べてしまった。あんな大きな鳥をどのようにして捕まえたのか、などはどうでもいいことだ。ただオマエは、毎日もう十分に食べていても、飢えていた時期の必死な思いが条件反射としてあって、その本能のままに鳥を捕まえただけのこと。
 オマエが悪いのではない、飼い猫のオマエをそんな境遇にまで落とした、オレが悪いのだ。すまない。ミャオ。」 
 わかりましたよ。アナタがそんなに反省しているのは。ただワタシはそんな昔のことなど、グダグダと文句言うつもりはありません。いやなことはサラリと忘れて、もうすぐもらえるサカナのことだけ考える。これがワタシの生きる道ですから。
「昨日?そんな昔のことなんか覚えちゃいない。明日?そんな先のことなんか分からない。」・・・映画「カサブランカ」のボガードのセリフだそうですね。