ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

静かな眼 平和な心

2013-01-28 17:51:47 | Weblog
 

 1月28日

 寒い日が続いている。今朝は-6度、雪も止んで晴れてきたが、昨日の朝は-7度まで冷え込み、一日マイナスの気温のまま雪が降っていた。
 そんな時に、ひとり家の中にいても、退屈だと思ったことはない。ミャオがいなくて、寂しいのは事実だが、それとは別にやるべきことはいくらでもある。
 こうしてブログを書くこともそうだし、本を読むことも、好きな音楽を聴くことも、録画していたテレビ番組を見ることも、山の写真の整理をすることも、それぞれ私の好きなことをできるからだ。

 特に、去年から取りかかっているスキャナーを使っての写真フィルムのデジタル化には、予想外に手間ひまがかかり、大きな仕事にもなっている。
 これまで、何十年にもわたって続いている私の山歩き。その際に撮ってきた写真の量は、今ではもう膨大(ぼうだい)なものになっていて、とても私ひとりの力で全部をデジタル化することなど、不可能である。
 もちろんそれらは芸術的、記録的に価値のあるものではなく、単なる私だけの思い出の山写真でしかないのだが。

 このフィルム・スキャンについては、前にもここで書いているが(’12.4.8の項参照)、まず、とりあえずはフィルム画質のいい中判カメラのポジフィルムだけを先にと思い、手元にあったそれほど多くはない九州の山々のフィルムから始めて、何とかスキャンし終えたのだが、まだ北海道に置いていたフィルムがある。そこには、北海道と北アルプスなどの山々のフィルムが大量に残っているのだ。
 この冬は、今までのミャオを相手にしていた代わりに、スキャナーを相手にしようと覚悟を決めて、こちらに戻ってくる時に、そのポジフィルムも別便で送っておいたのだ。

 そして、正月のころから意を決してスキャン編集作業取りかかった。
 確かにそれは、スキャンして画像が現れてくるたびに、その鮮やかさと新たな発見に声をあげたくなるほどなのだが、それにしても時間がかかりすぎる。
 スキャン作業そのものもだが、その後の、明暗などの補正作業や、さらにやっかいなのが、フィルムについたゴミ除去作業である。
 ブロワーで吹きはらっても取れないフィルムのゴミは、スキャンする時に指定して併せて取ることもできるのだが、不完全だし、時間も余計にかかる。そこで、スキャンの後の写真の編集作業で取ることになる。

 今は、jpeg (ジェイペグ)からの画質が落ちることを承知の上で、スタンプ・ツールによるゴミ取りをしているのだが、大きく伸ばして見ると、小さいゴミがあるはあるは厳密に取っていけばきりがないほどだ。
 そうした作業が、一枚一枚と続いていく。そんな手の込んだ家内制手工業に、一日中かかわっていられるのは、私のようにヒマな人間だけだろうが。
 しかし、この写真フィルムのデジタル化再現と保存については、私と同じように昔のフィルムをたくさん抱え込んでいて、スキャンするべきか悩んでいる人たちも多くいることだろう。もっと簡単に変換できるものは作れないのだろうか。

 いつか山小屋で隣同士になった若い男と話していた時に、彼は私の息子くらいの年だったのだが、父親が死んだあと、遺品を整理していて、ダンボール箱いっぱいのネガフィルムが出てきて、処理していいものか困ったといっていたのを思い出した。

 そういえば、私の母の遺品は、着物などの衣類を除くとわずかなものだった。もっとも、いまだにそれらのものを処分できずに、そのままにしているのだが・・・。

 ともかく、母と比べると今の私の持ち物の多いこと・・・、それも数ばかり多くて大して価値のない本に雑誌、レコード、CD、録画DVD、ビデオ、カセット、そのほか資料としてため込んだ書類ガラクタの数々・・・。
 世の中には、そんな私のようにため込む一方で、片づけられない人々が多いのだろうか、何年ごとかに、整理片付けの本がベストセラーになっているのだ。

 話がそれてしまったが、写真フィルムの話に戻ろう。
 今やっている、フィルム・スキャン編集作業は、その出来上がり画像を見るのが楽しくて、何とか続けられるのだが、じっとパソコン画面を見ての作業で、ひどく目が疲れるし、椅子に座り続けて肩はこるし、外にも出ないから体に良くないことは確かだ。

 ・・・暗い部屋の中で、そこだけが明るく、白髪の老人が背中を見せて大鍋で何かをぐつぐつと煮詰めているらしい。
 おじいさん、と声をかけると、こちらに振り向いて歯の抜けた口を開けてにっと笑った。
 鍋の中で煮られていたのは、ねじれ曲がり色あせた写真の数々だった。よく見るとそれは、私の子供のころの、若者になってからの、彼女と一緒の、山の頂上での写真の数々だった。
 駆け寄ろうとすると、その老人が再び振り返って私を見た。
 その目からは涙がひとしずく・・・どこか見覚えのある顔は・・・私だった。
 ・・・明け方の夢の一場面。

 またまた、話がそれてしまった。フィルム・スキャンばかりやっていてどうも疲れているようだ、次の話に進もう。
 その時々のテレビ番組や本についての話は、長くなるので次回以降にするとして、今回はいつも今の時期に書いている、この一年で買ったクラッシックCDの中から選んだ、私なりのベスト盤についてである。

 毎年書いているように(’12.2.5の項参照)、昔と比べれば今ではもう、新しい演奏家たちの動向や新録音などには余り注意を払わなくなり、従って購入するCDも評価のある再発ものばかりになる。
 この一年とうとう新発売物は一枚も買わなかったし、総計でもわずか8点にすぎない。
 ただし箱ものセットものばかりだから、合計では50枚ほどにもなる。
 それもハズレで、後悔するほどのものは一つもなかった。その上、とにかく安い、今後は円安に向かうだろうから、輸入盤CDの安値の時代ももう終わりだろうが。

 上の写真にあげたように、ベスト3は以下の3点である。

1.”THE ITALIAN COLLECTION” 演奏 ザ・シックスティーン COROレーベル 5枚組 4990円

 (自分たちのレーベルからの販売で、廉価盤(れんかばん)としては高めの値段だが、何よりも演奏が素晴らしい。
 このザ・シックスティーンは、もともとイギリスものには定評があったのだが、ここでは、ルネッサンスからバロックに至るイタリア宗教音楽の数々を見事なハーモニーで聞かせてくれる。
 特にアレグリの「ミゼレーレ」は今まで極め付きの一点であると思っていた、タヴァナー・コンソートのものに勝るとも劣らない美しさだ。
 このハリー・クリストファーに率いられたザ・シックスティーンは、あのタリス・スコラーズと双璧を(そうへき)なす声楽アンサンブルであり、私としては他には一枚のCDしか持っていなかったので、この箱ものを見つけた時は嬉しかった。)

2.”RENE JACOBS EDITION” 演奏 ルネ・ヤーコブス他 SONY・DHMレーベル 10枚組 2490円

 (ベルギー出身の名カウンター・テナーで指揮者、音楽学者でもあるルネ・ヤーコブスの、モンテヴェルディからバッハに至るバロック宗教音楽集であり、特に絶頂期のものが集められていて、さすがに一時代を切り開いた歌手だったと、今さらながらに再認識するばかりである。
 この中の2枚はすでに持っているものだったのだが、迷わずに買ったほどの値段の安さ・・・もともと古いクラッシック音楽の演奏に、古い新しいはないはずだ。良いものは良い。)

3.”MONTEVERDI MADRIGALI” 演奏 アンソニー・ルーリー指揮ザ・コンソート・オブ・ミュージック EMI・VIRGINレーベル 7枚組 1890円

 (小編成の器楽と声楽のアンサンブルが素晴らしく、一世を風靡(ふうび)したコンソート・オブ・ミュージックの、バロック初期の巨匠モンテヴェルディ(1587~1643)のマドリガル全集である。そのうちの3枚は持っていたのだが、値段の安さに思わず買ってしまった。
 ヨーロッパには、ルネッサンス・バロック期をレパートリーにした優秀な声楽アンサンブルが多いのだが、それにしてもこのコンソート・オブ・ミュージックをはじめ、ザ・シックスティーン、タリス・スコラーズ、ヒリヤード・アンサンブル、タヴァナー・コンソート等々、どうしてイギリスにかくも多く生まれたのだろうか。
 そのひとつ前の世代として、古楽演奏の新たな地平を切り開き、若くして亡くなったあのデヴィッド・マンローやデラー・コンソートのアルフレッド・デラーなどがいたからということも言えるだろうが。)

 そしてフィルム・スキャン後の仕事である、単調な編集ごみ取りの時にも、こうしたCDを聞きながら作業し続けているのだ。
 うまく仕上がらない時でも、心がイライラしないように、美しい山の景色を眺めていた時と同じように、心穏やかになれるようにと、美しいハーモニーの合唱曲を聴いている・・・。

 ある時、私は考えたのだ。

 ひとりになって寂しくなったという前に、実は、そのひとりだけの静けさを私は求めていたのではないのかと。
 この家で、北海道で、山の上で、私はひとりでいることにひそやかな喜びを感じているのではないのか。
 昔の彼女たちも、母も、ミャオさえもそんな私の思いをどこかで感じ取っていたのではないのか。
 それだから、彼女たちは母はミャオは、それぞれに静かに私の前から姿を消していったのだ。
 年を取った今、確かに寂しさを覚える時もある。
 しかし、ひとりでいることは、私が長年求め続けてきたものだ。
 それがかなえられた今、私はなぜに寂しいなどと言えるだろうか。
 むしろ、今ある何もない穏やかな日々に感謝すべきなのだ。
 こうして生きながらえて、望んでいた静かな暮らしができているのだから・・・。
 それまでに多くの迷惑をかけてきた彼女たちに、母に、ミャオに・・・、
 私の周りを取り巻いているすべてのものに・・・神に、感謝すべきなのだ。
 いつかは迫りくるだろう死を認めながらも、おびえることなく生きていくこと。
 やがては来る死があるゆえの、生の喜び・・・私は今その中にいるのだから。

 こうして、自らを励ますこと・・・。


    冬の日
       ――慶州仏国寺畔にて

 ああ知恵は、かかる静かな冬の日に

 それはふと思いがけない時に来る

 人影の絶えた境に

 山林に

 たとえばかかる精舎(しょうじゃ)の庭に

 前触れもなくそれが汝(なんじ)の前に来て

 かかる時、ささやく言葉に信をおけ

 「静かな眼 平和な心 そのほかに何の宝が世にあろう」


(三好達治詩集 『一点鐘』より 日本文学全集 集英社)
 
 
 

 

夕映えの久住山

2013-01-22 06:58:26 | Weblog
 

 1月21日

 一昨日、久しぶりに山に行ってきた。目的は夕映えの雪の九重の山々を眺めることにあった。

 その九重の山からは比較的に近いところに住んでいながら、今まで、朝焼けや夕映えの山々の姿を見に行くことができなかった。
 それは、日帰りで十分な山域だからであり、さらにはミャオにやる魚の時間を守らなければならなかったからであり、その前の母がいたころは、遅くなって心配をさせたくなかったからだ。

 しかし今は、ひとりになってしまった。
 これからは、好きな時間に自由に山に行くことができるのだが、そうなればそうなったで今度は、すっかりぐうたらになってしまって、なかなか重い腰を上げる気になれないのだ。
 人の思いとは、えてしてそういうものなのだ。それまで長い間どうしても欲しかったものが、いつでも簡単に手に入るようになった時には、あるいは忙しくて自由な時間がほしいと思っていても、いざ使い切れないほどの休みの毎日が与えられたりすると、人はそれを目の前にして、かえってとまどい尻込みしたりするものだ。

 私はまだ、ミャオがいないひとりの生活には、十分になれていないのかもしれない。時には独りごとで、ミャオの名前を呼んだり、散歩に出れば、そこここの陰からミャオが出てきたりするのではないかと思ってしまうからだ。
 というわけで、今いかに自分のためだけの毎日であるとしても、私はいまだに過去の日常にとらわれいて、足を踏み出せないでいるのだろう。

 2か月前にこの家に戻ってきて、以後、春までに予定されている幾つかの用事をすませるためでもあるのだが、それは緊急を要するほどのものではないし、むしろひとりっきりの毎日をいささかもて余すほどだった。
 そこで、何かをしなければと思い、二つの大きな買い物をした。その後で、それらの対応にいささかの時間を要し、退屈するどころではなかったのだ。

 一つは、冷蔵庫である。それは15年目を迎えて、まだどこも悪いところもなく元気に動いていたのだが、耐用年数10年を超えていることも気がかりだし、もし私のいないときに壊れたら悲惨な状態になるだろうことを考えると、やはり買い換えないわけにはいかないのだ。
 大型家電量販店に行くと、ちょうど展示品限りの品物があって、通常価格よりはるかに安く、即決で買ってしまった。
 しかし、二日後に運ばれてくると、狭い台所には何とか入ったものの、ドアが開かない。
 あーあ、「安物買いの銭失い」という言葉が頭に浮かび、思案に暮れたが、必要な隙間はほんの1~2cmくらいだ。
 それから必死になっての大工仕事で、周囲の板壁などを切り取っては、何とか使えるようになったのだが、もし母さんとミャオがいたならば、二人とも「言わんこっちゃない」と、遠巻きにして、翌日まで続いた私の奮闘ぶりを見ていたに違いない。
 ともかく、台所はさらにきゅうくつになったが、一件落着だ。それに、大きくなって使いやすくなったうえに、電気使用料金は安くなるし、あわせて運転音の静かなこと・・・。

 次に新しいパソコンに買い替えた。5年前に買ったWindowsビスタは、使い慣れてはいたが、より新しいWindowsのほうが使い勝手がよくなっているし、メモリーやHD容量も比べ物にならないほどの性能である。
 もちろんそれは、秋に発売されたばかりのWindows8ではない。その前の7なのだが、これまた旧モデルということで、処分品のお買い得品だった。
 私がパソコンを使うのは、このブログと検索や調べもの、そして山の写真整理・鑑賞くらいなものなのだが、ともかくこの新しいパソコンは、動作が速くなり、画面もきめ細かくなったことで、もう大満足だった。
 もっとも、前のパソコンからの引っ越しや、新たなソフトのダウン・ロードなどに数日もかかってしまうほどだった。
 しかしその後で、またもやありがたいことには、この新しいパソコンの動作環境がさらによくなることがあったのだ。

 それは、新しいモバイル・ルーターに変えたからだ。
 新製品への乗り換えを勧めるダイレクト・メールが来て、ルーター本体価格も実質的にはゼロに近く、通信料金ともに安くなるとのことで、前回に初めてルーター契約をしてから2年ちょうどだったので、解約違約金も払わずにすむし、区切りがよかったこともある。
 それで嬉しいことに、通信速度が2倍にアップされて、クリックしてから画像が現れるまでの時間が、すぐにと言えるほどまでになったし、なんと動画が、途中で止まることなく見られるようになったのだ。
 しかし一方では、今までのインターネットの使い放題から制限つきになってしまったが、それは昨今の、急激にふくれあがったスマホ通信量抑制とも関係があるのだろうが。(私はスマホは持っていないのだが。)
 ともかく、2年1か月前までの、仕方なくダイヤル接続で、気長に画面が現れるのを待っていたころと比べると、なんと夢のような速さだろう。

 もっとも、もう何年も前から光通信を使っている都会の人々にとっては、ふた昔も前の通信速度で喜んでいる私を見ては、「ばっかじゃないの」と思うのだろうが。
 そういえば、昔、あるクルマ評論家が、ある特集月刊誌の中で、あの大衆車カローラの新型車について「4,5年も乗ったポンコツから買い替える人にとっては、さぞやありがたい最新車に見えるだろうが、クルマとしての面白みが全くない。」と書いていた。
 その評論家は、庶民には一生手の届かない、外国有名スポーツ・カーの愛好家だった。
 私はその時、中古のカローラを買うために、数年前の雑誌でその評価を調べていたのだ。その後、私は迷うことなく6年前の中古のカローラを買った。

 彼が言おうとしたことも、分からないではない。
 『猫に小判』『豚に真珠』『シーザーのものはシーザーに』ということなのだろうが、それにしても、彼の言葉は場所をわきまえていないし、そういうことは、それなりの高級車専門雑誌で言うべきことであり、何も一般雑誌の特集記事に書くべきことではないと思うのだが。
 それぞれの人に、今の自分に見合った楽しみがあり、それを山登りに例えて言うのなら、「百の頂(いただき)に、百の喜びあり」(深田久弥)ということなのだから。

 九重の雪山のことを書こうと思っていたのに、話が余計なところへとそれてしまったが、それも私のまっすぐには歩けないいつものクセなのだ。
 毎日の出来事は、それだけが別々に区切られてあるのではなく、さまざまに関係しあった時間の中に流れているのだから。

 さて、今や時間に縛られずに山に行けるようになった私にとって、もう何回となく登っている冬の九重の山だが、思えばほとんどは日帰りばかりで、朝夕の赤光に輝く雪山の姿はあまり見ていないのだ。
 山がもっとも美しいのは雪に覆われた冬、それも白い山肌が、朝夕の鮮やかな光に染め上げられる時だ。
 今までにも数多く見てきた、快晴の青空の下の白雪に輝く山々の姿も、言うまでもなく素晴らしい。
 しかし一方で、朝夕の赤く燃える雪の山々の姿にも強くひかれてきたのだ。北海道の山々、北アルプス、中央アルプス、八ヶ岳などの思い出に染まった幾つもの山々・・・。

 これからは、できることならば、昇る朝日や沈む夕日に照らし出されて、その一瞬にだけ赤く美しく変容する山の姿を、なるべく多く見ていきたいと思う。
 始まるひと時と、終わるひと時・・・それは人生の、始まりと終わりに似て・・・。

 そういう思いを持って、私は夕日の九重を見に行くことにした。
 10cmの積雪があった日は、道の状態もさることながら、まだ雲が多くてとても出かける気にはならなかった。その次の日は、午前中まで同じような天気が続いていたが、午後になってから一気に天気が回復してきた。
 急いで支度をしてから家を出た。雪の残る道のあちこちには、いつものことだが、冬タイヤでないうえにチェーンをFF車の後輪につけた雪道になれていないクルマが、数台ほど路肩に落ちたり立ち往生したりしていた。

 牧ノ戸峠(1330m)の駐車場には、朝のライブ・カメラで見る限りでは、休日ということもあって満車状態らしかったが、今の時間では、もう登山を終えて帰る人が多く、あちこちに空きが見えていた。
 4時前に、登山口を出る。まだ残っている霧氷のトンネルになった道を、人々が次々に下りてきていた。
 西の空に雲があり、そのために少し日が陰っていたが、このぐらいの雲があるほうがいい、夕日の時にはきれいな夕焼けになるだろうからと、あまり気にもならなかった。
 沓掛山(くつかけやま、1503m)の稜線を行き、少し下る途中で一人そしてもう二人と出会ったのが最後だった。後はもう誰とも合わない、私だけの静かな山だった。なるほど、こんな時間に来て山に登るようにすればいいのだ。

 ただ、思ったほどに雪は積もっていなかった。20cm位だろうか、これでは上の稜線での雪景色にも期待が持てず、シュカブラなどもできていないのではと、逆に心配になってきた。
 ただし、踏み固められた道は、溶けてぐちゃぐちゃになったところもなく歩きやすかった。それまでに出会った人はほとんどが軽アイゼンをつけていたが、それほど滑りやすく危険な所があるわけでもなく、10本爪アイゼンはザックに入れたままだった。
 扇ヶ鼻(おうぎがはな)分岐あたりまで来ると、風が強くなってきたが、雪も少ないからブリザードで雪が舞い上げられることもなかった。それより気になるのは次第に迫ってくる夕日の時間だ。

 足早になって歩く西千里浜の火口原あたりからは、久住山の鋭角の頂が見えてくる。
 真冬の一番いい時には、道の両側にはシュカブラが発達して、時折、雪煙を巻き上げるその中に白い久住山が見えてきて、いかにも冬山らしい景色になるのだが、残念なことに、今回はあまりにも雪が少なすぎる。
 夕日に照らし出された雪の溶けた岩塊斜面を上がって行くと、星生崎(ほっしょうざき)下のコブ(1660m)に出る。
 そこからは眼前にさえぎることなく、九重山(くじゅうさん)の本峰、久住山(くじゅうさん、1787m)を見ることができる。(写真上)
 その後ろ遠くには祖母山(1756m)が見え、上空の雲が茜(あかね)色に染まっていた。しかし惜しいかな、あまりにも雪が少なく、前景に入れたいシュカブラもなく、何よりも山腹のまだらの斜面が目立って、久住山そのものがあまり赤くは染まらなかった。

 とはいっても、さすがは晴れた日の夕焼け空だ、いつまでも地平上に残る赤い帯の色が素晴らしい。
 茜色の縁取りの下、霞(かすみ)たなびく上に、阿蘇山の根子岳(1433m)と高岳(1592m)のシルエットが浮かび上がり、遠く脊梁(せきりょう)山地の国見岳(1739m)も見えていた。(写真下)

 

 じっと立ったままで写真を撮っていると、風が吹きつけてきて寒さがしみ込んでくる。5時半には陽は沈んでしまい、峰々の頂は青白く色あせていた。
 帰りは早い、誰もいない雪道をひとり急ぎ足で戻って行く。空には三日月が出ていて、星も輝き始めていた。
 月明かりと雪明りで、道は見えていたが、次第に高低差の見分けがつかなくなってくる。ザックから、ミニ・ライトを取り出したが、何度スイッチを押してもつかない。(家に戻って調べてみると、長い間使っていなかった電池の液漏れだった。反省。)
 あきらめて、そのまま歩いて行くことにした。昔の人は、こうした月明かり、雪明りの中を歩いていたのだと思いながら。
 幸い危険な個所はないが、白い雪の色に溶け込んで段差がわからない。こんな時に持っていたストックが役に立った。
 目の不自由な人が使う白いステッキの必要性がよく分かる。自分の歩く足の前に差し出して、障害物や段差の有無を知ることができるからだ。

 7時少し前に、牧ノ戸峠のがらんとした駐車場に戻ってきた。車は他に一台あるだけで、おそらくは、久住分かれか御池の避難小屋に泊まり、朝焼けの山々を見ようと、あるいは撮影しようとする人だろう。
 ぐうたらな私には、それだけの準備をして、小屋泊りをするだけの根性もなかった。
 クルマに乗って、再び凍りつき始めた山道を走って、暗いわが家に帰り着いた。玄関のドアを開けても、ニャーと鳴いて迎えてくれるミャオの姿はなかった。

 今回の山登りは、往復わずか4時間ほどの軽い雪山ハイクにすぎず、それも雪が少なくて、期待していたほどの雪山の夕景の姿を見ることはできなかった。
 まあそれは、何事も思いついてやってみて、すぐにその望みがかなえられるはずもないということであり、これからも何度となく試みていれば、いつかは思いにかなうその時が来るということなのだろう。
 人はこうした希望を持ってこそ、明日へと生きていけるのだ。

 私は、今まで弱気な気持ちになっている人たちに、それではいけないと明日に向かっての励ます言葉をかけてきた。
「生きていれば、生きてさえいれば、きっと何かいいことがあるんだから」と。
 しかしそれは他人に言う言葉である前に、むしろ自分に向けての励ましの言葉でもあったのだ。

 そこで思い出したのは、去年の12月に、あの赤穂浪士討ち入りの日にあわせて放送された、NHK・BSの”BS歴史館”である。そこでの歴史学者二人を交えての話は、初めて知ることなどもあって興味深く見ることができた。
 というのも、日本人たる者、あの源義経や織田信長、そしてこの”忠臣蔵”の赤穂義士などの話ならば、どんなことでも繰り返し聞きたくなるからだろうが、この番組では、残された重要な資料でもある、各人の家族にあてた手紙の内容が披露されていて、それが情に動かされる人間らしくて、興味がさらにつのることになる。
 中でも番組の最後のほうで、討ち入り後の事後談として紹介された、内蔵助(くらのすけ)の妻りくの手紙が強く心に残った。

 大石内蔵助は、心ひそかに討ち入りを決めた後、その後のことも考えて家族に災いが及ばぬようにと、妻りくを離縁して、子供ともども妻の実家のある丹後に返していた。
 そして、その討ち入りにより主君の仇討(あだうち)が成し遂げられた後、四十七士全員への切腹の沙汰(さた)が下されたのはともかく、それぞれの縁を切っていた家族にまで厳格な処置が及ぶことはなかった。
 それどころか世間では、赤穂浪士たちが亡くなった後も、その評判は上がるばかりであり、それを聞いた赤穂浅野家の本家でもある広島藩は、討ち入りの年に生まれた内蔵助の三男、大石大三郎が12歳になるのを待って(長男主税はともに切腹、次男は若くして亡くなっている)、親であった大石内蔵助の、その播州赤穂藩城代家老の禄高(ろくだか)と同じ、破格の1500石をもって召し抱えた。
 その時にりくが書いた手紙が残っているのだ。

「年月の憂きことも忘れて喜んでおります
 ひとしおひとしお、ありがたき幸せ
 これも内蔵助のおかげで
 本人も本望でありましょう

 とかく人は息災(そくさい、無事なこと)
 命ながらえ候(そうろう)こと肝要(かんよう、大切なこと)に御座候(ござそうろう)」



(追記) 『好事魔多し』というべきか、この新しいパソコンでの使い勝手が良くなり、いい気分でブログ記事を書いていたのだが、一方でこの新しいルーターでは通信量制限があって、前のようにインターネットつなぎっぱなしにはできないので、接続を切ってワードだけで書いていたのだが、いざ書き終わって完成し投稿ボタンを押したところ、ネットにつながらず原稿は消えてしまった。
 接続を切っていたことを忘れていたのだ。あ然として、画面を見つめるだけ。 
 このブログを書き始めたころは、二三度そんなことがあったのだが、このgooブログの保全性能も良くなり,最近そんなことはなくなっていたのに。
 使い放題ではなくなったルーターが悪いというよりは、私の注意が足りなかっただけのことであり、誰が悪いわけでもなく深く反省するばかりだ。
 それが時間の無駄になったのか、改めて考えて書き直すためには良かったことなのか・・・。
 という訳で、この記事は21日遅くまでかかって書き直し、投稿したのは22日早朝ということになってしまった。
 大した記事でもないから、改めてここにその遅れた言い訳を書く必要もないのだが・・・私の性分とでも言おうか・・・。

 
 
 
 

本願他力

2013-01-10 18:15:59 | Weblog
つよい 


 1月10日

 それにしても寒い。
 いかに山の中にあるとはいえ、この九州の家はなんと冷え冷えとしていることだろう。
 昔作りの家で壁が薄いうえに、窓枠も木製の一枚ガラスだから、連日-5度以下まで下がる外の冷気がそのまま伝わってくる感じなのだ。

 そして、暖房器具はポータブルの灯油ストーヴと小さな電気ストーヴにコタツだけだから、その一部屋だけは何とか昼までには温まるが、他の居間などはいつも10度以下というありさまだ。
 そのために、家の中にいるのに、服装は厚着の冬山装備と変わらない。もっともそれだから、外に散歩に出る時には、改めて着込む必要はない。頭に毛糸帽子をかぶり手袋をすればいいだけだ。
 あーあ、あの暖かい北海道の家に戻りたい。まったく暖かいはずの九州にいて、一体なんのこっちゃ。

 自分で建てた北海道の家は、丸太づくりで窓も手製の二重ガラスだから断熱効果もあって、夏涼しくて冬は暖かい。
 冬の間もずっといた時、あの薪(まき)ストーヴが燃え盛る家の中は、15度から20度を超えるくらいはあって、その温度では北海道の人は寒いというけれど、私にはちょうど良い暖かさだったのだ。   
 そこで小さくバッハの曲なんぞを流しながら、本を読んだり、うたた寝をしたりしてぐうたらに過ごしていたのがなつかしい・・・。

 ところが、ここ九州では、テレビの置いてある暖房のきいた一部屋にいることが多くて、散歩以外は外に出ることもなかったこの年末から正月だったから、ミャオのいない寂しさを感じつつ、ついテレビばかり見ては、時にうたた寝をして、目が覚めれば腹がすいて何かをつまんでは食べと、まさしくあのブリューゲルの『怠け者の天国』の絵のように、ぐうたらに過ごしていたのだ。
 「小人閑居(かんきょ)して悪をなす」ほどではないにしろ、自分にとってはまさしく悪夢のごとく、瞬時に過ぎ去ったひとりだけの日々だったのだ。
 老い先短い年寄りなのに、あーゴホゴホ、貴重な時間を無駄にしおってからに、このうつけものめが・・・。

 とはいっても、思えば、テレビを見てはそれなりに笑い感心し納得したところもあったのだ。
 まず第一にあげたいのは、ミャオのいない正月に、ミャオの在りし日の姿をしのぶことのできる番組があったのだ。
 NHK・BSの『岩合光昭の世界ネコ歩き』シリーズの再放送を含む三本であり、それぞれイスタンブールやイタリア、ギリシアなどの町に住むネコたちの生態と、人間たちの関わり合いが心なごむ映像として映し出されていた。
 こうして、ネコを愛する人々が世界中にいるわけだから、世界に争いなんか起きるはずはないと思うのだが・・・。

 それにしても、このシリーズのようなビデオ映像作家としての岩合光昭もいいのだが、本来の動物写真家としも素晴らしい写真がある。おなじみのあのアサヒ・カメラ1月号の付録、ネコ・カレンダー『猫にまた旅 2013』が、今年は復活したのだ。
 去年、そのネコ・カレンダーが中止されたので、もう今後は立ち読みだけにしようと思っていたのに、やはりおなじみのものが見られるとあって、私は本屋で即座に買ってしまった。
 本誌の巻頭を飾る、篠山紀信先生の30ページにも及ぶヌード写真など、私にはどうでもいいことだ。それよりはもっとネコの写真を、あるいは山岳写真を見たいところなのに。
 ともかく今回のあのネコ・カレンダーは、表紙裏表紙ともにいいのだが、極めつけは最初の1月の一枚、ハクチョウが群れる水辺を背景にして、雪の上に座るネコの姿・・・。
 素人が撮れる写真ではない、さすがはプロと誰をもうならせる一枚だ。

 さて話が少しそれてしまったが、私が見たテレビの番組に戻ると、これもまた再放送だが、NHK・BSの『フローズン・プラネット』。1時間番組で6回までもあり、南極・北極の四季の自然と生きものたちの生態を描いたイギリスBBCの、まさに芸術的なまでのドキュメンタリーだった。
 おそらくは、今後とも私が見ることもないだろう、人間以外の生きものたちが生き生きと暮らす極地の大自然の姿。
 これこそが、人間がいない本来の地球のあるべき姿なのかも知れない・・・。

 そしてさらに、これも再放送のシリーズものだが、BS‐TBSでの『ドナルド・キーン先生』のシリーズである。
 その3本のうちの、若い作家、平野啓一郎との対談の回だけは少し違和感が残ったけれども、他のドキュメンタリー風にまとめたものは、先生の考え方と人となりを表していて、時には胸が熱くなる思いだった。
 ドナルド・キーンという名前は、日本に国籍を変えたアメリカ人としてニュースになって有名にもなったが、もともとコロンビア大学教授というだけでなく、外国人として、いや日本人を含めても、有数の日本文学評論家であり、私も彼の本を2冊持っているほどだし、いまだに日本の古典・中世・近世文学について教えられることも多い。
 また、あの「レコード芸術」誌で長年、巻頭の連載ものを書いていたほどの、メトロポリタン・オペラの愛好家でもあり、評論家でもあるのだ。
 番組の中で、東南アジア旅行の際、たまたま乗ったタクシーの中で、聞こえてきたのはあのパヴァロッティの歌うドニゼッティの『連隊の娘』の中のアリアであり、嬉しくなって、そのオペラ好きの運転手と一緒になって歌う姿が何ともほほえましかった。

 私にも憶えがある。若き日のヨーロッパ旅行で、チェコから当時の東ドイツに向かう列車の中で、居合わせたチェコ人のおじさんおばさんたちと一緒に、声を合わせてあのモーツァルトのオペラ『魔笛』のなかのパパゲーノのアリアを歌ったことがあるのだ。
 オペラ好きな人と、ネコ好きな人たちが手をつなぎ合えば、世界から争い事は消えてなくなるのではないのか・・・。

 さて、そのオペラだが、前回にもあげた例のミラノ・スカラ座公演のもので、あの老境に差しかかったドミンゴが歌うヴェルディの『シモン・ボッカネグラ』と豪華歌手陣によるワーグナーの『ローエングリーン』は、録画しただけでまだ見ていない。4時間近いオペラを見るにはそれ相応の覚悟がいるからだ。

 歌舞伎は少なく、例の京都南座での、父勘三郎の訃報(ふほう)を受けての勘九郎襲名披露公演の『寿曽我対面(ことぶきそがのたいめん)』では、勘九郎の熱演はさすがだが、どうしても亡き父親との大きな差を思ってしまう。
 続く顔見世大歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』からの五段目、六段目では、勘平役の片岡仁左衛門はさすがに上手いものだった。
 楽しみにしていたあの斧(おの)定九郎の登場場面では、中村橋之助はしっかりと役を演じ切っていたが、見方にもよるのだろうが、私はどうしても、あの梅玉の姿がちらついてしまうのだ(’10.3.19の項)。
 さらに新春初芝居として、大阪松竹座からこれまた猿之助襲名の『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)』からの『狐忠信(きつねただのぶ)』の一幕と、新橋演舞場の『仮名手本忠臣蔵』からの七段目があり、寺岡平右衛門役をはまり役の中村吉右衛門が勤め、最後の締めで由良之助役の松本幸四郎が登場するという兄弟共演の華やかさだった。

 映画に関しては、高倉健主演の日本映画を二本。
 一つは、昭和41年制作の『昭和残侠伝・唐獅子牡丹(からじしぼたん)』。なんとあのNHKでヤクザ映画が放映されたのだ。
 私が、健さん主演のヤクザ映画を見始めたのは、もっと後になってからのことで、このシリーズ第2作などの初期の作品は見ていないから、後の作品を思い出して比べてはいろいろと興味深かった。
 そして、この後シリーズの監督は何人か変わることになるれども、義理と人情に縛られてやくざ渡世を生きてきた、健さんふんする花田秀次郎が、その足かせを解かれて、より重たい人情義理のために、こみ上げる思いを秘めて殴り込みに行くというパターンは、こうした初期のころから確立されていて、以後のシリーズを貫くより強い柱になっていくのだ。
 さらにそんな強いヤクザ組織に、たった一人で立ち向かう健さんの姿が、絶対的な既成社会・国家そのものに不満を抱いていた、当時の若い世代に受けただろうことは、この映画からも容易に理解できる。
 それにしても、まだ健さんは若いし、後の映画での、返り血を浴びて顔面蒼白(そうはく)になり、刀を握りしめた指を片方の手でほどいていくほどの迫力はない。
 つまり映画としてはそれなりの評価しかできないが、このシリーズものが、やがて次第に完成されたホルムになっていくのを思うと、感慨深いものがある。

 次の一本は、山田洋次監督による『遥かなる山の呼び声』(昭和55年)である。
 この映画の題名は、あの有名なアメリカ西部劇『シェーン』(1953年)のテーマ曲名から取られているのだが、しかしさすがは山田洋次監督である、単なる『シェーン』の焼き直しではない。
 主人公を早打ちのガンマンから、ケンカには強いが過去をもつ陰のある男に替えて、同じ孤独の思いを抱く牧場主の母子との、心の触れ合いに力点をおいた人情物語として描いているのだ。
 そういえば、決闘シーンが有名な痛快名作西部劇であると思われているあの『シェーン』でも、一方では見逃されがちな点だが、その流れ者の男に心ひかれる母子と夫をも含めた、四者の微妙な関係が見事に表現されていたのだ。

 夫に先立たれて、まだ小さい子供とともに毎日乳牛の世話の仕事に追われている倍賞千恵子の女牧場主のもとに、ある日、高倉健の流れ者が仕事を求めてやってくる。
 そして、この牧場で必要な男手として働くことになり、いつしか3人の間に家族に似た思いが芽生えていく。しかし、ある日、男の過去が明らかになり、彼女のもとを去っていくことになる。
 しかしもう、二人の思いは離れがたいものになっていた。そして・・・走る列車の中で、感動的なラスト・シーンが待っていた。

 私は、胸を押さえてはとめどなく流れ落ちる涙をぬぐった。
 母が亡くなり、そしてミャオが亡くなり、その時以来となる嗚咽(おえつ)が私の口からもれ出てきた。
 何という、予期しない涙のひと時だったことだろう。
 今、私に何が足りないのかがよく分かった。どうすることもできないけれど。
 そんな感情の嵐が過ぎ去った後、私はしばらく何も考えられなかった。
 そして、立ち上がり、食事の支度を始めた。何事もなかったかのように、毎日を続けていくだけなのだが・・・。

 私はこの映画を、ずいぶん前に一度見ているし、その時にもやはりテレビでだったと思うが、思わずほろりとはしたが、涙を流すほどではなかった。
 当時、私には、親しくつき合っている女性がいた。
 しかし、その相手からの思いやりの気持ちが、当時の私には、時には小うるさく感じられるほどだった。
 そうした愛に満たされた富者のおごりの中で、私には、後の自分である哀れなラザロを思いやり同情する気持ちなどなかったのだ。(新約聖書『ルカによる福音書』第16章参照)

 ひとりになって、今にして気づくことがあまりにも多すぎる。何度も書くことだが、人は他人に同情するだろうが、実際は自分の身に起きて初めて、すべてのことに気づくのだ。
 それは学ばれることなく、いつしか忘れ去られて再び繰り返される。そうしたものなのだろう、自分が主演の、人生ドラマとしては。

 話が感情的になり大きくそれてしまった。この映画に戻ろう。
 主演の二人と後の『北の国から』の純で有名になった名子役の吉岡秀隆を含めて、それぞれがピタリとはまったキャストになっていた。
 前回、時代劇でのセリフまわしで文句をつけたあの高倉健の朴訥(ぼくとつ)な口調は、ここではむしろ、役どころに合ったものとして生きてくるのだ。他に誰がこの役を演じきれるだろうか。
 倍賞千恵子も、あまり色気のない顔で、仕事に追われて必死に毎日を送る姿をよく表わしていた。
 ただしその彼女に横恋慕(よこれんぼ)する、中標津(なかしべつ)の三兄弟の登場は、昔の日本喜劇映画の名残りふうで、多少マンガ的に過ぎるところもあるが、その男(ハナ肇)こそがその感動的なラストシーンを演出するのだ。
 さらにいえば、北海道のきれいな牧場風景だけではなく、汚れた牛小屋や当時の貧しい農家の室内風景などが、見事に現実感あふれる背景として描き出されていた。前回書いた、あの『武士の一分』での装置小物などの配慮と同じように。

 そこで、その『武士の一分』と同じ東北の小藩を描いた時代劇として、先日始まったばかりのあのNHKの大河ドラマ『八重の桜』についても一言ふれておきたい。
 それは、今の東北を考えるのにふさわしい幕末の会津藩での物語であり、出演者たちの会津なまりのセリフやしっかりと時代考証された舞台背景など、さすがだと思わせるところが多いのだが、ただカメラは前回書いたようにまだ気になるところがあるとしても、初回を見た限りにおいてだが、言えるのは音楽がうるさすぎるということだ。
 これではまるで、白黒フィルム時代の無声映画の劇伴音楽ではないか。それほど場面場面の表現に自信がないのだろうか。音楽でわざわざ説明しなければならないのだろうか。
 あの坂本龍一作曲の音楽だけに、もったいない才能の浪費だと思えてしまうのだ。責は当然、彼にあるのではないが。

 すべからく、映画ドラマに限らず、映像と音楽の関係をもっと考えるべきだと思う。
 私の好む映画は、見え見えに作られたドラマではない。私の望む映像と音楽の関係は、今そこにあると思わせるリアリズムに基づいて撮られた映像と、人間の内にある感情として聞こえてくる音楽である。
 静寂の中で、人々の言葉だけが響いていき、後は沈黙が続いて事態の重さを伝えている、そんな現実の時だけが流れていく・・・そして、時折、登場人物たちの感情の揺らぎを、音楽が効果的に伝える・・・。

 あのイングマール・ベルイマンやアンドレイ・タルコフスキーの映画のように。
 あるいは、セリフを極端に減らして、映像と音楽だけに語らせるとか・・・たとえば見事な映像詩になっていた『ピロスマニ』(1978年)や、モーツァルトの「ピアノ協奏曲21番」があまりにも美しかった『みじかくも美しく燃え』(1967年)のように。
 音楽でさらに思い出すのは、あの『ピアノ・レッスン』(1993年)の中で、主人公の彼女の思いを伝えるかのように繰り返し流れたマイケル・ナイマン作曲のテーマ曲・・・。

 もっともこれは1年も続く連続ドラマなのだから、そんな映画のようにはいかないのだろうが、私が映像と音楽の関係で唯一感心したドラマは、あの『北の国から』である。
 沈黙の時間の間(ま)がいかされ、自然の音が聞こえ、幾つかのテーマ曲だけが重要ななシーンで流されていた・・・。

 この『八重の桜』の時代に聞こえていたのは、もちろん西洋風の音楽などではないし、当時の音曲三味線などがもれ聞こえていたことを除いて、風などの自然界の音と、人々や家畜たちのざわめき、そして静寂だけ、つまりより静かな昔の日本だったのではないのかと・・。
 日本映画で、私が気になるのは、余分なセリフ、余分な説明、余分な音楽である。静寂と間(ま)の大切さを知っているはずの国民なのに・・・。

 話がまたもそれてしまったが、ともかくこの私の鬼の目に涙だったから言うのではないが、この『遥かなる山の呼び声』が前回あげた『武士の一分』とともに山田洋次監督の名作の一つであることに間違いはない。


 ひとり散歩しながら、あらためて考えてみた。
 自分の若いころ・・・こうと決めたことには、他人の忠告は聞いてもそれに従うこともなく、ただ一途に思い込み、がむしゃらに突き進んできたような気がする。
 そして、ある時はうまくいって成功の美酒に酔い、またある時はみじめな失敗の辛酸(しんさん)をなめ、繰り返してはそうした人生の裏表を学んでいく・・・つまり若いころには、前を向く自分の目で見えているものがすべてだったのだ。

 しかし、あまりにも手ひどく失敗して立ち上がれない時や、あるいは心身ともにひどく傷ついた時、さらには様々なことに悩み苦しむ時、それは老若男女にかかわらず誰にしもあることだが、そうした時に何か自分を励ましてくれるものはないかと探したくなり、確かなものによる救いの言葉がほしくなるのだ。
 そうした人々のために宗教は生まれ、今もそれ相応の人々に信じられているのだ。
 宗教はまさに、ささやかな幸せの中に満ち足りている善男善女のためにあるのではない。いわんや、若さの絶頂に酔いしれている人々や栄耀栄華(えいようえいが)の中にある人のためにあるのではない。
 ただ、その他の、多くの不幸な人々のためにあるのだ。

 イエスはこれを聞いて言われた。

「丈夫な人に医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招(まね)くためではなく、罪人(つみびと)を招くためである。」

 (新約聖書『マルコによる福音書』第2章より 日本聖書協会)


 「弥陀の本願には、老少・善悪の人をえらばれず、ただ、信心を要とすと知るべし。その故(ゆえ)は、罪悪深重・煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)の衆生(しゅじょう)を助けんがための願にてまします。」

 「善人なおもって往生を遂ぐ。いわんや、悪人をや。・・・。
 その故は、自力作善の人は、ひとえに、他力を頼む心欠けたる間、弥陀の本願にあらず、しかれども、自力の心を翻(ひるがえ)して、他力を頼み奉れば、真実報土の往生を遂ぐるなり。」

 (『歎異抄』第一部より 「日本古典文学全集」 小学館)


 宗教が救おうとしたのは、こうした悩み多き罪びとたちである。
 しかるに、現代科学は、容赦(ようしゃ)なきまでにこれらの宗教の矛盾点を白日(はくじつ)の下にさらけ出し、人々は次第に、昔の時代のままの非合理的な宗教のもとからは離れていったのだ。
 しかし時代は変わっても、今もなお、意識するかしないかは別にしても、悩み苦しむ罪びとたちが数多くいることには変わりはない。 彼らは、今どこに救いを求めるのか。

 誤解なきよう言っておくが、私は何も、宗教に帰依(きえ)することを勧めているわけではない。
 私自身、どこかの宗教に入信しようなどという考えはさらさらない。
 ただ言えることは、古くから教え伝えられてきたものの中には、それは宗教に限らず、伝統や芸能、文学などの中に、時代を超えて変わらぬ人々の心根(こころね)を伝える真実が含まれているということだ。
 それは人間としての、あるべき姿としての倫理観の礎(いしずえ)となるものが示唆(しさ)されているような・・・。

 つまり、こうして老いさらぼえたジジイ姿の今になってから言うわけではないが、若き日の過ちを後悔し、自分の心変わりだけで何人かの娘たちを泣かせてきたという過去に悩む、私のような罪ある人間たちにとってこそ、宗教的な倫理観の救いが必要なのかもしれない。
 私が古い時代のものにひかれるのも、古典文学や古典芸能にひかれるのも、そこに描かれた悲劇の物語の中に、若き日の自分の姿を投影させては、心のうちで懺悔(ざんげ)しているからなのかもしれない。

 新年の始めから、あまりにも気が重たくなるようなテーマをあげてしまった。
 年を取ると、心身ともに自分の弱さが見えてきて、涙もろくなり、一方ではそんな弱気な自分を隠すために、意固地になりガンコなジジイへと変わっていくのだろうが・・・。

 私は散歩に出かけた高台の所で、山の端に沈んでいく夕日を見つめながら、自分に言い聞かせた。
 母がいなくなり、ミャオがいなくなっても、ひとりでもしっかりと生きていくんだからと。
 世の中には私よりもつらい思いをしている人がたくさんいるはずだし、私なんか、ちゃんとこうして日々何不足なく食べて生きていけるだけでも、幸せな方なのだと・・・。


 ここまで、ただ感情のおもむくままに書き連ねてきて、どうも脈絡に乏しい文章になってしまったが、これも私の日々の備忘録としての、このブログにはありがちな、私の今の思いとしてふさわしいものなのだろう。
 2週間も間が空いて、もっと書くべきことはいろいろとあったのだが、長くなったので、ここまでにしておこう。

 写真は、たまたま湯布院の町はずれを通った時に、赤く燃える夕映えの由布岳の姿が印象的で、思わず写した一枚である。
 山はこうして、何も語ることなく、自然の中で日々、おのれの姿をさらしているだけなのだが・・・。