ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

バッハの響き

2019-12-26 21:10:46 | Weblog

 12月26日

 ”As time goes by"(時の過ぎ行くまま)、1942年に作られたアメリカ映画『カサブランカ』(日本公開は戦後の1946年)の主題歌として、映画の中で歌われていた。
 策謀渦巻く第二次戦下の北アフリカのカサブランカで、酒場を経営する男が、昔の恋人と再会し、それでも今の彼女の窮地を救うためにと、危険を冒し現実的な行動をとって彼女を送り出すのだ。
 このラストシーンがいい。まさに男のダンディズムを描いた作品であり、天下のカッコをつけたがる男たちのヒロイズムを、大いにくすぐった作品でもあった。

 そのハンフリー・ボガードの男らしさは、今はレジスタンス活動に身を置くイングリッド・バーグマンとの再会で、再び燃え上がりそうになる想いをおさえて、”弱きを助けて強きをくじく”見事な差配ぶりが”、まさに男のカッコよさそのものであり、1970年代これまた一世を風靡(ふうび)した高倉健のヤクザ映画(相手役は当時の藤純子)にも通じる、”背中(せな)で泣いてる唐獅子牡丹(からじしぼたん)”ふうな、一種のヒロイズムがそこにはあったのだ。

 その健さんに影響を受けた私は、当時、角刈り着流し姿に雪駄(せった)をはいて、歩き回ったことがあるくらいなのだが、今にして思うと、まさに時代錯誤の”噴飯(ふんぱん)もの”であり、顔が赤くなるくらいの恥ずかしい思い出でもあったのだが・・・。
 もっとも、私の、単純な直情行動傾向はその当時から、今も本質的には何ら変わっていなくて、要するに周りの影響を受けやすいアホな男でしかないのだ。

 だからこうして、山の中にひとりで住んでいるのも、悔恨にかられた修行僧のごとき暮らしを、という思いからでもあります・・・とか言っても、現実には、ただぐうたらなじじいになっただけで、だからふと”As time goes by(時の過ぎ行くまま)”という曲を思い出したわけであり、日々何事もなく、同じような毎日が過ぎて行くとしても、それは私の望む、”静寂平穏”の世界の中にいることであり、それは人によっては寂しい退屈だ不安だという思いに駆られるかもしれないが、脳天気な私は、そうした不安とはかけ離れた、静かな、いたって満ち足りた毎日を送っているというだけのことなのだ。
 それだから、今まで自分のもう一つ日記帳でもあるこのブログを書いてきたのは、半ば義務的なところもあったのだが、今ではその数少ない規範も自ら取り払い、思いついた時にだけ、身辺雑記的な記事を書くことにしたのだ。
 わがままもここに極まり、まさに、前にも何度か書いたことのある、あの尾崎一雄の短編「虫も樹も」(講談社文芸文庫)の中の一節、”少しは不便でもいいから、もっとのんびりさせておいて貰(もら)いたい”・・・ということなのだ。

 さて、この九州に戻ってきて、病院通いをしながらも、はや一月半にもなるのだが、前回は、この家に戻ってきて、やっと自由に水が使えるようになり、人並みの暮らしができて、新聞も読めるようになったことなどを書いていたのだが、もう一つの大きなことを書くのを忘れていた。
 それは、北海道の家では見られなかった(受信状態が悪くて)、あのBS放送を見られるようになったことである。これは大きい。
 山が好きで、オペラが好きで歌舞伎が好きで、その他もろもろのドキュメンタリー番組が好きでとくれば、BS放送は、欠かせないものであり、半年間のBS番組飢餓状態の埋め合わせをするかのように、こちらに帰ってきてから幾つもの番組を録画した。

 特に山の番組が、ありがたい。
 いつものNHK・BSの「にっぽん百名山」シリーズの他に、例の田中陽希君の”グレートトラバース”シリーズでの、15分に編集された番組が再放送中であり、特に北アルプスのメインルートからは外れてはいるが、昔登ったことのある霞沢岳(かすみざわだけ)、餓鬼岳、赤牛岳、大日岳など、その道中の景観を見ては懐かしさもひとしおだったが、一方では、長年行こうと思っていた毛勝岳(けかつだけ、2414m)などもあって、半ばあきらめてはいるのだが、番組を見ては、まだ行けるのではないかとも思ってしまうのだ。

 それはあの「にっぽん百名山」シリーズで、これまた私が長年憧れている山の一つでもある、越後駒ヶ岳(2003m)の回で、ガイド役の人は、何と頂上下にある駒ヶ岳避難小屋の管理人をしている人だった。
 それも御年79歳!20歳の時から毎年欠かさずこの駒ヶ岳に登っているという、お年寄りの強者(つわもの)で、小屋までの5時間余りを足取りも確かに登っておられる様を見て、彼よりははるかに年下である私は、登る前から弱音を吐いていて、全く情けないばかりで、反省することしきりだった。(反省するだけならサルにもできる。)
 その他にもこのシリーズで、この夏の失敗登山だった鳥海山の、もちろん晴れている時の、映像も見ることができたし、同じ東北の朝日岳の紅葉は、ぜひとも行ってみたいと思わせるものだった。

 次は、クリスマスの時のためにと、23日(月)NHK・BSで放送された二本。
 一つは、スイスのチューリッヒ歌劇場でのバレエ「くるみ割り人形とネズミの王様」(写真下)であり、日ごろはあまりバレエは見ないのだが、今回は面白くなって、2時間近くもその最後まで見入ってしまった。



 この「くるみ割り人形」は、あの有名なチャイコフスキーの三大バレエ音楽組曲として、その管弦楽組曲の部分だけで聴くことが多くて、バレエとして実演を見たのはずいぶん久しぶりのことだった。
 しかし、今回のものは、ホフマンの原作をもとに忠実に構成されたということであり、その舞台は、普通のバレエ版として上演されているものとは、かなり違ったところが多く、例えば役名が違うとか筋書きが違うとかだったのだが、これはホフマン原作版としての、新しい「くるみ割り人形」を見たと思えば十分に納得できるものだった。
 今までの、少女がクリスマス・プレゼントにもらった、くるみ割り人形たちとの不思議で楽しい夢物語だということに変わりはないのだから、私たちは色彩豊かで見事な踊りの舞台を楽しめばいいだけのことだ。
 2時間近いバレエだったが、飽きることなく、十分に楽しみながら見ることができた。
 このチューリッヒ歌劇場には、多くの子供たちも見にきていて、ここで何度も書いていることだが、私はふと、今は亡きあの映画評論家の淀川長治さんの言葉を思い出した。
 ”若い時に、一流のものをたくさん見ておきなさい。”
 
 もう一本は、自分としてもクリスマスの時期に一度は聴く、バッハの「クリスマス・オラトリオ」である。(オラトリオとは、宗教や歴史的な物語を主題にして、管弦楽の他にソリストの歌手や合唱を含む大規模なものが多く、特にヘンデルが数多くの作品を残している。)
 このバッハの大曲は、もともとキリストの誕生の前後の話を、順序だてて作ったのではなく、キリスト生誕後の教会典礼曲としてカンタータ風に書かれていたものを、全6部に分けてつなぎ合わせたものであるが、それぞれのカンタータの完成度が高いので、全曲通して聴いても何らの違和感もなく、むしろ有名なカンタータの旋律があちこちで流れてきて、うれしくなるほどで、まさに生誕曲にふさわしく思えるし、他の典礼曲としての「ロ短調ミサ曲」や、受難曲の「マタイ受難曲」と「ヨハネ受難曲」などの悲愴感はないし、バッハの声楽曲としては、一番取り付きやすい声楽曲だと思う。

 それを、現実的にバッハ(1685~1750)が、1723年から死ぬまでの27年間にわたってカントール(教会の音楽監督)を務めていた、ライプツィヒの聖トーマス教会からの演奏録画で、そのバッハの伝統を受け継ぐ、ゲヴァントハウス・オーケストラの演奏と聖トーマス合唱団とソリストたちの歌声で聴くことができるのだ。(冒頭の写真)
 私が若い時に行ったヨーロッパ旅行でも、当時の東ドイツだったこのライプツィヒの聖トーマス教会を訪れて、そこで幸いにも、オーケストラと合唱団によるカンタータの一曲を聞くことができたのだが、演奏者たちの場所は、平土間(アリーナ)から一段高い中2階風なところにしつらえられていて、教会の平土間席に座っていた私たちの所へと、その音が柔く降り注いできて、そのバッハの響きに、私は危うく涙を流しそうになったのだ。
 もちろん、今回はテレビ映像として見たのであって、その時の演奏とは比べるべくもないし、今まで多くのレコードやCDで聞いてきた名演奏家たちとは確かに違うけれども、2時間半もの間、テレビから流れ来る音楽は、まさしくバッハの音そのものだった。

 やはり、私は何と言っても、バッハが好きなのだ。 


常緑樹

2019-12-11 21:41:27 | Weblog




 12月11日

 別に、くたばりかけていたわけではなく、今まで定期的にあげていた、ブログ記事を書けなくなったわけではない。
 前回書いたように、体のあちこちで起きていた、様々な年寄り特有の病状がひどくなったわけでもない。
 ただ、遠い町への病院通いが何度も続くと、次の日はもう何もする気が起きずに、今まで以上にぐうたらに過ごしてしまう、毎日が続いていたのだ。
 しかし、それは何もしなかった日々だったというよりは、毎日をただひとり静かに送っていたというだけのことであり、ベランダの揺り椅子に座って、温かい初冬の日差しを浴びながら、庭の樹々を見たり、ひざの上に置いた本に目を通したりと、きわめて心穏やかに暮らしていて、生きている実感をありがたく感謝する日々でもあったわけで・・・、それはそれで、十分に価値ある日々だったのだ。

 庭から見える樹々は、もうほとんどの紅葉が散ってしまい、今では最後まで残っていた、半日陰に生えているドウダンツツジの黄葉が残っているだけで、確かに今年の遅い秋もこれで終わってしまい、後は雪が降るのを待つだけなのだ。
 庭にある幾つもの樹の中で、スギやヒノキの常緑針葉樹や、ツバキにシャクナゲといった常緑広葉樹たちは、変わらずに緑の葉を茂らせている。
 しかし、それらの樹々もよく見れば、常緑という名前のように、一年中緑の葉でいるわけではない。
 実は、その中の一部の葉は、落葉のための黄葉の時期を迎えていて、もちろん常緑という名の通りに、ほとんどの葉は緑のままなのだが、その中にいくつかの黄葉した葉が見えているのだ。
 つまり、常緑樹という名前の木は、一年中緑の葉のままでいるわけではなく、その内では、役目を終えた葉が黄葉し落葉していくという、世代交代の循環が行われているのだ。
 しかし、このシャクナゲの木の上には、来春に咲く花の白いつぼみがあり、この冬の間に、少しずつ大きくふくらんでいくのだろう。(冒頭の写真)

 生きものの世界とは、そうしたものであり、人の世界もまた何ら変わることはないし、順次、世代交代していく世界であり、それでいいのだ。
 年寄りたちがのさばり、百鬼夜行(ひゃっきやこう)のていでふんぞり返っている世界など、人間以外の、他の生きものたちの世界にはありえないことだ。 
 それで、私もそろそろ”ドロンする”ことにさせてもらいたいのですが、そこが情けない年寄りの強欲さで、あの山に登りたいあの花も見たいと思うことばかりで、テレビの山番組や山の雑誌を、老人性のかすむ目で見ながら、その瞳は青年のように輝き憧れるのだ。
 ああ、”すさまじきものは、年寄りの冷や水”なのだが。

 さて、久しぶりに書いた個人的日記としてのこのブログなのだが、2週間以上も間が空き、さらにはこの九州に戻ってきて以来、まともなブログ記事を書いていなかったために、今回は、それらの日々の総括編として、記事のいくつかを要約して書いていこうと思っているのだが。
 まず、こちらに戻ってきて、あの井戸水が涸れた北海道の家と違って、水が出ることがどれほどありがたいことか、何かにつけて蛇口をひねれば水が出るし、水洗トイレは使えるし、炊事はもとより風呂にも毎日入れるし、その残り湯で洗濯もできるし、今はまさに、”水もしたたるいい暮らし”ができているのだ。
 次には、毎朝新聞が読めることだ。北海道の家でも、新聞がとれないことはないのだが、私みたいにたびたび家を不在にすると、その度ごとに連絡するのも大変で手間がかかるからと、遠慮しているのだが。

 つまり、そういうわけで、この九州にいる半年の間しか新聞を読んではいないのだ。 
 しかし、さすがに新聞だから、ネットニュースみたいに一行だけで終わらずに、詳しく説明してあるのがいいし、何より文化欄や読書欄のニュースが豊富で、何ともありがたい。
 最近の記事から言えば、あの宗教学者の山折哲雄さんが、これは時々連載されているコラムなのだろうが、あの古代の神話や物語の中で使われている”隠れる”や”隠す”という言葉について、近年の葬儀や埋葬に対する日本人の意識とともに、その意味合いも変わってきたのではないかと述べておられたのだが。

 さて、そのことと直接のかかわりはないのだけれども、私がふと思い出したのは、あの万葉集の中に収められた大津皇子(おおつのみこ)とその同母の姉である大伯皇女(おおくにのひめみこ)のそれぞれの歌一首である。まず大津皇子の歌から。

”ももづたふ 磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠(くもがく)りなむ”

 これを、自分なりに訳してみれば、”私が、磐余の池で鳴いている鴨たちを見るのは、今日を限りとしてのことになり、私はこの世から消えてしまい、あの世へ向かうのだ” ということになるだろうか。 
 そして、この弟が埋葬された後の、大伯皇女の一首は。

”うつそみの人にあるわれや 明日よりは 二上山(ふたかみやま)を 弟世(いろせ)とわが見む”

 そしてこれも、自分なりに、”現世に生きる私は、もう弟とは会えないから、明日からは、あの弟が埋葬された二上山を、弟だと思って生きていきます”というふうに訳してみた。

 (『万葉集の名歌』佐々木幸綱監修 中経文庫)

 天皇継承をめぐる争いに巻き込まれて、処刑されることになった大津皇子だが、その前には、伊勢神宮の斎宮(さいぐう、宮に使える皇族の巫女)でもあった姉に、はるばる会いに行っていたことなど、その時の歌も残されていて、この二人の悲劇の姉弟の話が、今でも、つらく伝わってくる。

 次に、哀しい話をもう一つ、たとえて言えば、あのギリシア神話にあるように、人間が一度開けた”パンドラの箱”はもう元には戻らず、世界には多くの異なった言葉と無理解の世界が広がっていってしまったのだ、という話を思い起こさせるように、それは、ある種の無力感さえも感じさせるニュースだったのだが。
 あの混乱の中にある、アフガニスタンの復興開発に、人道主義的な良心から我が身を投げうってかかわってきた、医師中村哲さんが襲撃された事件ほど、世界にいる多様な価値観を持つ人々の存在を考えさせるものはなかった。

 それに合わせたわけではないのだろうが、同じころ新聞の文芸欄に、イギリスの法律経済学者であり哲学者のジェレミ・ベンサム(1748~1832)と、その後継者ミルの思想についての話しが掲載されていた。
 ”功利主義”と呼ばれる、”最大多数の人々の最大幸福を求めて”という思想は、いかにも民主主義の時代にふさわしい考え方に見えるのだが、しかし、一歩誤ればその考え方は、行き着く先での、絶対少数者たちの否定にもつながる危険性もはらんでいるのだ。
 それを、今回の中村医師の貧しき少数者たちへの奉仕の精神と、どう考え併せていけばいいのだろうか。

 それにしても考えさせられるのは、同じ同世代の人間でも、こうして自分のためだけに生きてきて、毎日をぐうたらに過ごし、体のあちこちが痛いと弱音を吐いているだけの、私という人間の生き方の幅がいかに狭いことかなのだが。 
 しかし、もう今から悔い改めても遅すぎることだし、思えばこの地球上に、何兆個もの命の個体数があるかは知らないけれど、それぞれが、与えられた自分の命を守り生き続けていくよう生まれてきたのだから、セミはセミなりに、短い夏の間のひと時に鳴き続け、海に住むマグロは一生を泳ぎ続けることで生きていき、人もまた、四の五の言わずに自分の命がある限り、その日が来るまで生きて行けばいいのだろう。

 たかが体中のあちこちに異変が起きたぐらいで、泣き言を言うのはやめて、おつむてんてん、チョウチョウが飛んで、頭の中は毎日青空で、余計なことは考えないようにしよう。
 歌にあるように、なるようにしかならないのだから。
 ”Whatever will be,will be . Future is not ours to see."

(1956年のあのヒッチコック監督による映画「知りすぎた男」の主題歌「ケセラセラ」として、主演女優のドリス・デイによって歌われて大ヒットした。

 長い間休んでいたこのブログに、書きたいことはいろいろとあったのだが、体力が続かなくて、ほんの一部のことしか書けなかった。
 これからは、自分で勝手に決めていた、月曜日や火曜日という枠にとらわれずに、思いつくまま気ままに、その時々に書いていければいいと思ってはいるのだが、果たしていつまで続けられることやら・・・。