8月26日
前回からの続きであるが、大町の高瀬ダムから山に上がって、裏銀座コースをたどっての山旅も、これで四日目になる。
三日目の夜を黒部五郎の小屋で過ごし、私はそれまでの睡眠不足を取り返すかのように、広々とした布団の上でぐっすりと眠って、夜明け前に目を覚ました。
もう誰かが出かける用意をしていたからだ。起き上がって窓の外を見ると、ようやく白み始めたころで、辺りは今日もまた深い霧の中だった。再び、布団の中にもぐり込む。今日はどのみち、鏡平(かがみだいら)までだし、日の出も見られない天気の中、何も早立ちすることはないのだ。
そして朝食の時間、食堂には30数人くらいの登山者たちが一度に食べていて、昨日の三俣山荘でのように二度に分けての混雑はなかった。
私は、食事付きの山小屋に泊まる時は、いつも朝夕食ともに、ご飯に味噌汁それぞれ二杯以上食べることを自らに課している。
そして、そのおかわりが三杯にも及ぶことも多いのだが、つまり私の体が大きいから、そのくらいのエネルギーを補給しておかなければということもあるのだが、正直に言えば、決して安くはない山小屋の宿泊代として、払った分は何としても食べておこうという、それで昼食を菓子パンなどで簡単にすませられるし、弁当代も節約できることになるという、さもしい考え方からなのだ。
思えば子供時代には、どの家も同じように豊かな暮らしではなかったから、子供たちは皆同じように、盆正月以外は駄菓子を買う小遣さえもらえなかったから、家で食べる食事はそれこそがつがつと食べたものだし、時には地面に落ちているものでさえひろって食べたくらいなのだ。
私たちの世代はそんな雑菌まみれの中で育ってきたから、抵抗力がついていて、花粉症やアレルギーにはならないのだと、変なところで自慢したりする。
まあそんな年寄りの昔話だけれども、子供の頃に貧乏した苦労も、後になって何が幸いするかわからないのだ。
と言うわけで、小屋での食事は、がつがつ食べるという情けない習性だけが身についてしまっているのだ。小屋の経営者の皆さんすみませんとは思うものの、もう老い先短い年寄りの事で、何とか見逃してやってください。あー、ゴホゴホ。あっ、血だ。
「それは、噛まずに飲み込んだトマトのかけらでしょ、ったくもう、大めしぐらいのくせして、どこが年寄りだか。」と、山小屋スタッフのカワイイ娘さんたちに言われそう。
部屋に戻って外を見るが、相変わらずの霧の中だ。それも上空が晴れているという感じではない。晴れるとしても昨日と同じ8時くらいからだろうと、しばらく横になっていたが、とうとう誰もいなくなって仕方なく重たい腰を上げた。それでも昨日と同じ5時半くらいの出発だった。
昨日下ってきた、溝状になった岩ゴロ道の登り返しで、時々少し明るくなったような気がして振り返ったが、山の下の方は見えるものの中腹以上は雲に覆われていた。
昨日もダメだったのだが、実はこの登りの途中から見る、黒部五郎岳全景の姿が素晴らしいのだ。
小屋北側の池塘(ちとう)からの眺めと、この登りからの眺めと、今回の黒部五郎への山行で実現できなかった二つのことは、昨日私を喜ばせた三つの地点での見事な光景からすれば、それほど大きな残念なポイントではないかもしれないが、いつかもう一度、ここからのあの黒部五郎の姿を眺めて見たいものだ。
やがて山々の中腹以上にかかる雲の中に入って行った。昨日と同じ厚い霧の中だ。
足元の花々の写真を撮りながら、ゆっくりと登ってい行く。そして、道の石の上に、昨日はなかったクマのフンが落ちていた。
明らかに、自分のテリトリーを示すためのもので、それは今まで何度も見ている、北海道のヒグマのものからすればはるかに小さく、本州のツキノワグマの大きさを示すものだった。
実は昨日の、三俣山荘から三俣蓮華岳への登りでも見てはいたのだが、おそらくはこの山の周りを縄張りにしているのだろう。
さらに、昨日の黒部五郎小屋、その前の三俣山荘でも誰かが話しているのを聞いたのだが、この先の弓折岳や下のワサビ平付近でクマが出たということだった。しかし、北海道の体長2m以上体重200kg以上にもなるヒグマと比べれば、例えばあの丹沢でよく見かけたイノシシくらいの大きさだろうからと、あまり気にはならなかった。
私が最近、北海道の山から離れて、内地の山に足しげく通うようになったのには、確かにそのヒグマのこともある。
いつも単独で北海道の山を歩いてきた私だが、体力の衰えもあるし、冬場を除いて、いつもヒグマのことを気にしながら、時には出会ったりして(’08.11.14の項参照)、そんな不安を抱きながらひとりで歩いて行くのが少しおっくうになってきたのだ。
年相応に、山をのんびりと歩きたくなったのだ。
もっとも、ヒグマが人を襲うのは、登山者に関して言えば、あの有名な3人が殺されたカムイエク事件(1970年)以降は皆無に等しく、むやみに恐れる必要もないし、特に大雪や十勝岳連峰のように登山者が多い所では、さほど心配することはないのだが。
ただこうしたフンや、足跡、掘り返し、食べた跡などの、はっきりしたヒグマの痕跡(こんせき)を目にするのは、あまり気分のいいものではない。クマの方がいつも人を恐れていて、近づかないのだとは分かっていても。
さて、そんな中、三俣蓮華の頂上に着くが、昨日と同じく吹きつける白い風の中だった。仕方なくそのまま、双六方面に向かって尾根道を下って行く。道は、東側カールの雪渓のすぐ上の所を通っていて、山々の眺めがきかない中、様々な花々が咲き乱れていて、私を喜ばせてくれた。
特に多くて目立ったのは、白や薄赤の花頭をつけたタカネヤハズハハコに、鮮やかな黄色のウサギギク、そしてすがすがしい赤紫色のハクサンフウロなどであるが、他にもカワラボウフウやハクサンボウフウなどの、クマが好むセリ科の花も多く見られた。
丸山に登る頃から、辺りのガスも時々取れてきてはいたが、すっきりとは晴れてくれない。
チングルマの花が島状に並ぶ斜面を一登りして、双六岳(すごろくだけ、2860m)に着く。
この先の東側の台地に続く、周氷河地形の一つと言われる、あの条線砂礫の筋模様の上に、ずらりと立ち並ぶ槍・穂高連峰を見るのを楽しみにしていたのだが、その下の蒲田川左俣右俣の谷から上がる雲で見えなかった。
その台地上の尾根をのんびりと歩き、カールの壁を下ると、雪渓とお花畑が広がっていたが、背景の三俣蓮華や鷲羽岳などもかすんでいてようやく見えるくらいだった。
双六小屋前の豊かな水場で、例のごとく頭から水をかぶってさっぱりした後、再び歩き出す。
十数張のテントが並ぶ傍を通って、樅沢岳(もみさわだけ、2755m)から笠ヶ岳へと続く尾根にトラバース気味に上がって行く。このあたりから、下の鏡平に着くまで、数多くの人たちが登ってきていた。
しかし、この道にはいろんな花が咲いていて、雲が多く眺めが十分にきかない中、もっぱら道端の花々を見ては楽しんだ。
鏡平への分岐点は、登ってきた人たちでいっぱいだった。そんな所で休むのはいやだから、尾根を少し登った先にある弓折岳(ゆみおりだけ、2588m)まで行ってみた。さすがに誰もいなくて静かだった。
後ろの双六や、樅沢岳方面は見えていたが、目の前のあるはずの槍・穂高連峰は相変わらずの雲の中だった。
鏡平への下りは、登ってくる多くの人に挨拶していかなければならなかった。1時には鏡平の小屋に着いた。今日の行程は短かったが、それでも7時間半になるのだ。
そうした無理をしない一日の行程と、小屋での自分の脚のケア(マッサージと冷やしたこと)、ビタミン剤などのおかげで、ありがたいことにほとんど筋肉痛を感じないで、ここまで四日間歩いてこられたのだ。
まだまだいけると、ひそかに自信持ったりして。次は久しぶりの日高山脈、テント泊三泊の山旅なんて・・・ムリムリ、そこまでの元気はもうない。
そして、午後の殆んどを、小屋のそばにある鏡池の広いベランダの上で、横になったりして過ごした。他にも数人の人たちが、黙って水面(みなも)を眺めながら、槍・穂高にかかる雲が取れるのを待っていた。
そしてほんの二三度だけ、雲の間から槍ヶ岳がその姿を見せてくれた。(写真上)
天気が良くて空気が澄んでいれば、まさに典型的な絵葉書写真になる所なのに・・・すべては明日に期待するだけだ。
小屋はほどほどに混んではいたが、それでも狭い布団一枚に寝ることはできた。しかしまたもや、強烈な怪獣たちが吠えまくる一夜となって、またしても私は十分に眠ることはできなかった。
翌朝、この小屋は早立ちする人が多いためか、ありがたいことに朝食は日の出前の4時半からになっていた。
誰だって早立ちのために(あの一日目の野口五郎小屋でのように)、やむを得ず折詰弁当にしてもらっているのであって、小屋で温かいご飯とみそ汁を食べていけるのなら、それにこしたことはないのだ。
私は、手早くいつものように二杯ずつかき込んで食べ終え、小屋を出た。
槍・穂高は、谷あいから上がる雲のために見えなかった。
もし天気が良ければ、朝日とともにシルエットになって鏡池の湖面に映る槍・穂高の写真を撮り、そこでゆっくりと過ごし、後は新穂高へと下ればいいと思っていたが、しかしその鏡池での眺めがだめな場合には、昨日登ってきた弓折岳へと登り返すつもりだった。
天気が良くなってくれば、今来た道でも登り返すというのが、あの前回の御嶽山(おんたけさん)の時のように、私の山への執念の思いになっていたのだ。
分岐へと向かう途中で日の出の時間になったが、どのみち逆光のシルエット状態で、少し遅れて西鎌尾根辺りから日が昇ってきた。と同時に、槍ヶ岳が雲の中から姿を現し始めた。
分岐に上がり、今やその全貌(ぜんぼう)を現しはじめた槍・穂高を眺めながら、先に続く尾根道を弓折岳へと登って行った。
今日も西からの雲が少し押し寄せてきてはいたが、この二日間の山々を覆うようなものではなかった。何より空気も澄んでいて、遠くの山々もよく見えていた。
南側に続く抜戸岳(ぬけどだけ、2813m)への尾根がくっきりと見え、さらにその下に開けた新穂高へと続く蒲田川の谷あいの彼方には、焼岳(2455m)から乗鞍岳(3026m)、御嶽山(3067m)と火山帯の線上に並んでいるのが見えていた。
しかし何と言っても素晴らしいのは、今、シルエットになって眼前に立ち並ぶ槍・穂高の岩の稜線だ。(写真)
なんというさわやかな朝の眺めだろう。このまま、目の前に続く尾根をたどって、いつも左に槍・穂高を眺めながら、昔行ったことのある抜戸岳から笠ヶ岳(2897m)への道をたどりたい気もした。体力的にもまだ十分に余裕があるから、できないこともないのだが、下に降りてからのことが気になっていたのだ。
何しろ後先を考えずに山登り優先で来たものだから、北海道へ戻る日が、あの日本人の民族大移動になるお盆の時を迎えていて、予約もしていない私には、大変なことになるのが分かってはいたのだ。
しかし今は、この誰も来ない静寂の山の上で、ひとり槍・穂高の山々を眺めていることに感謝しよう。
そして私は、30分ほどもいた山頂を後にした。
その道を分岐へと戻る途中、何と道端の草むらの中に、一輪のクロユリの花を見つけたのだ。
昨日もこの道を往復して、さらに今日も今来たばかりなのに、見逃していたのだ。それは、わざわざここまで登り返してきた私のために、ここにいるよと教えてくれたのだと、自分で良いように解釈して、ともかくありがたく眺めては写真を撮らせてもらった。
それは前に私の北海道の家のそばに咲いていた、クロユリの話の時にも触れたのだが(6月11日の項参照)、明らかに色合いが薄く、むしろ網の目状のこげ茶色の花は、また別の花のようにも思えたが、白山、南アルプスで見たのと同じく黒というよりは、むしろ渋い茶色の、エレガンスな落ち着いた色合いの花なのだ。(写真)
さあ後は、もうひたすらに新穂高からのバスの時間に間に合うように、下るだけだった。
途中で、同じ小屋に泊まった人たちが登ってきて、挨拶していく。鏡池に戻り、そこでまた写真を撮って下りて行くと、その日がお盆休みの始まりの土曜日だったこともあってか、まあひっきりなしに、途切れることなく皆が登ってくるのだ。
一時、山登りは中高年だけになってすたれていくとさえ言われたのに、見ていると、ここでははっきりと若い人たちの方が多かった。それも大きなザックに恐らくはテント一式を入れて、彼女と二人で登っている若者の姿をよく見かけたのだ。
それは、うらやましいというよりは、むしろ日本の山登りの伝統を受け継いでくれる若者の姿に、君たちはエライよと声をかけてやりたいくらいだったのだ。今の時代に、何も好き好んで汗水たらしてきつい思いをしてまで山なんぞに登らなくても、街中にはラクで楽しいことがいっぱいあるというのに。
途中に雪渓から流れる水場が三か所ほどあって、人々でにぎわっていた。快晴の空から照りつける日差しが熱くなり、ようやくのことで岩礫の山道を終えて、ワサビ平の端にある林道に出た。
そして、奥丸山へと向かう道への分岐ともなる、蒲田川左俣にかかる橋の上から、たどってきた山々を仰ぎ見た。
大ノマ岳と弓折岳が見え、そこから流れる水を集めて、この左俣谷の流れとなっている様子が良く分かる。
その川の中に、大きな枯れ木が一本立っている。(写真)
おそらくは、始め河原で育った木が、その後、川の流れが変わって取り残されたものだろう。あの反対側の上高地は大正池の、枯れ木群ほどではないものの、なぜか私の心に残る風景だった。
そして、後は林道をひたすら歩いて行くだけだ。しかし、時間にもよるのだろうが、登山者たちが休んでいたワサビ平小屋を除けば、あとは行き交う人も少なく静かで、道は両側の高いブナの木などで日陰になっていた。あの反対側の上高地から横尾への道は、今頃は恐らく人の列が続いていることだろうが。
ひとり歩いて行くと、そばを流れる蒲田川の清流の音が聞こえるだけだった。
涼しい風が吹き出す風穴のそばを通り、少し雲がかかり始めた錫杖(しゃくじょう)岳や笠ヶ岳を見ながら、ほどなく新穂高ロープウエイ駅前に着いた。
10時を過ぎたところだから、今日の行程は5時間足らずでしかないが、余力を残して山旅を終えるのが一番だ。
傍にある温泉のお湯につかりながら、今回の山旅を振り返った。
まずは無事に計画通りに山旅を終えたことに感謝して、それは、行く前のすべての期待がかなえられたわけではなかったけれども、ともかくあの黒部五郎岳での一日があっただけでも十分に思えた。
そうして、四日分の汗を流してさっぱりとした気分になって、松本行のバスに乗り込んだ。さあこれから、もう一つの大きな問題が待ち構えている。明日の飛行機はどこも満席で、予約もできなかったのだ。果たして、私は北海道に帰ることができるだろうか。
松本からは電車に乗り換えて東京に向かい、明日に備えて羽田の近くで一晩泊まった。
翌朝5時過ぎのバスに乗って、羽田空港に行った。発券カウンターで、キャンセル待ちの受付をしてもらった。しかし私が最初ではなく、すでにもう誰かが登録していて、3番目だった。(第2ターミナルにあるエア・ドゥ便も、事前に調べた時にはもう3便すべてが満席になっていた。)
さて、朝早い7時40分の便はと期待して待っていた。そこで、キャンセルが二席出て、私の前の二人組のオヤジさんが喜んで搭乗口に向かって行った。
「キャンセル待ちのお客様は次の便までお待ちください」とのアナウンスが流れた。
次は4時間後の11時35分の便だったが、満席で乗れず。再び、お待ちくださいとのアナウンスがあった。
さらに2時間後の13時30分の便も、満席で乗れず。さらに、お待ちくださいとのアナウンスがあった。
残りは4時間半後の17時55分の最終便だけだった。
初めてのキャンセル待ち体験に不安になってきた私は、北海道に帰る様々な手段を考えてみた。
飛行機で札幌に向かい、そしてJR特急に乗り換えて・・・ところが、まず札幌に行く便が、すでに終日満席なのだ。もしキャンセル待ちで乗れたとしても、乗り換えて、さらに時間も運賃もかかることになる。
新幹線で青森まで行って、そこから北海道内で特急三本に乗り継いで・・・二日がかりになってしまう。
それなら、フェリーではとも考えたが、昔乗ったことのある有明埠頭(ふとう)からの釧路行は今はないし、大洗まで行って、苫小牧(とまこまい)行きに乗り、そして苫小牧から電車を乗り継いで・・・三日はかかることになるだろうし、とてもムリだ。
つまり、最も安上がりで最も時間がかからないのは、ここでしぶとく飛行機のキャンセル待ちをするしかないのだ。
ただし、最終便も満席だったら、ということで、キャンセル待ちカウンターのおねえさんが、明日の朝一番の便に空席があるからと予約してくれた。
もっとも、そうなるかもしれないと、この山旅に出かける前にネットで調べていたのだが、そこには、この国内線ロビーは夜は閉まるから、24時間開いている国際線ロビーに行って夜を明かすか、それとも近くの蒲田駅周辺にあるマンガ喫茶などに行って一晩過ごすか、との書き込みがあった。
朝の6時前から、最終便のキャンセルが出るかがわかる、夕方の6時前までの12時間を、私は国内線旅客ターミナルの中で過ごした。
さすがに丸半日もいると、いかに空調のきいた所にいるとはいえ、息苦しさを覚えてしまう。それはまるで、高い塀に区切られただけの狭い空間の中、見たこともない刑務所の中にいるような、不気味な感じさえしてきた。ああ外の空気が吸いたい。
この羽田の出発ロビーは、行く先によって北ウイングと南ウイングに分けられていて、その端から端まで1㎞近くもあり、ゆっくり歩けば15分くらいはかかる。私は、時々体を動かすためにどこに行くあてもなく、人々が行き交う中を何度も往復した。
あのカフカの小説『審判』のように、身に覚えのない不条理のなかで、刑務所の中に閉じ込められるわけでもないのだが、処刑されるその時へと歩を運ぶかのように・・・。
人間ヒマになると、ろくな想像をしない。
そんな思いにならないように、私はロビー内にある小さな書店で一冊の新書本を買った。それは哲学入門書であり、ギリシア哲学からハイデッガーに至る、哲学的なものの考え方の変遷を、分かりやすく述べたものであり、もっとも、家に帰れば似たような本はあるのだが、ともかく私は、12時間にも及ぶ待ち時間の大半を使って、最後まで読み終えた。
退屈と不安がないまぜになる中で、思いが乱れる私には、冷静になり落ち着いてものを考えるためにも必要な本だったのだ。そして12時間もの時間は、むしろその本を読むために与えられたものであり、決して無駄な時間ではなかったのだと。脳天気な私の考え方から言えばだが。
そして最終便出発の10分前、私の番号が呼ばれて、受付カウンターに行った。そこで、発券してくれたおねえさんにただただ感謝するばかりで、出来ることなら抱きしめてチューしてやりたいぐらいだったが、そうすれば大騒ぎになり、せっかく乗れるところがふいになってしまう。 ぐっと押さえて、彼女に精いっぱいの愛想笑いをするだけだった。
他にも呼ばれた数人とともに、何とか最終便に乗ることができたのだが、それでもまだキャンセル待ちの人は残っていた。
飛行機の窓の外、下に広がる雲を赤く染めて日が沈んでいった。それは山にいた4日の間に眺めた、どの夕日や朝日よりもきれいなものだった。
空港に着き、すっかり暗くなった道をクルマで走って、ようやくわが家に帰り着いた。
小汚いボロイ家だが、何よりそこにはあの怪獣たちの吠える声もなく、ただいつも聞きなれた梢を揺らす風の音と、夜霧が木々のしずくとなって屋根に落ちる音だけが聞こえていて、私はすぐに深い眠りに落ちていった。
この山旅が終わって家に戻り、数百枚にも及ぶデジカメ写真の一枚一枚を、モニター画面に映し出して見ていく楽しみ。
さらにこうして、4回にも分けてブログ記事として書いていくと、再びあの時の鮮やかな風景がよみがえってくる。
つまり一度の山行で、実際に歩いている時に、次に家で写真を見て、さらにパソコンのキーボードを打ちながらと、三度もの喜びを味わうことができるのだ。
年寄り特有の、ねちねちとからみつくしつっこさで、自分だけの思い出に何度もひたること・・・それは秘密めいた”コレクター”の喜びにも似て・・・。
あーあ、我ながら、いやらしいオヤジになったものだ。
こんな年寄りにも未来はあるのか。
すると、あのカワイコちゃん集団の歌う声が聞こえてきたのだ。
「恋するフォーチュンクッキー、未来はそんな悪くないよ。ヘイヘイヘーイ。ツキを呼ぶには笑顔を見せること・・・」
そこで久しぶりに自分の顔を鏡に映してみる。
そこには・・・ひげづらの情けない顔のおじさんがにっと笑っている・・・気持ちワリー。
しかたがない、顔は怖く見えても、心の中ではスマイルなんだから。
私も手作りホットケーキでも焼いて、それでクッキー占い、つまり恋する山占いとでもいくかー。次に行く山はどこ。
ずっと続いていた曇り空や時々雨の毎日から、今日はようやく時々日が差してきて、青空が広がってきた。吹く風は、秋。
お天気屋な私には、いい日よりになるだろう。
これからも、”未来はそんな悪くないよ”と思っていたいのだが・・・。