ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

大町から新穂高への山旅(4)

2013-08-26 18:04:45 | Weblog
 

 8月26日
 
 前回からの続きであるが、大町の高瀬ダムから山に上がって、裏銀座コースをたどっての山旅も、これで四日目になる。
 三日目の夜を黒部五郎の小屋で過ごし、私はそれまでの睡眠不足を取り返すかのように、広々とした布団の上でぐっすりと眠って、夜明け前に目を覚ました。
 もう誰かが出かける用意をしていたからだ。起き上がって窓の外を見ると、ようやく白み始めたころで、辺りは今日もまた深い霧の中だった。再び、布団の中にもぐり込む。今日はどのみち、鏡平(かがみだいら)までだし、日の出も見られない天気の中、何も早立ちすることはないのだ。

 そして朝食の時間、食堂には30数人くらいの登山者たちが一度に食べていて、昨日の三俣山荘でのように二度に分けての混雑はなかった。
 私は、食事付きの山小屋に泊まる時は、いつも朝夕食ともに、ご飯に味噌汁それぞれ二杯以上食べることを自らに課している。
 そして、そのおかわりが三杯にも及ぶことも多いのだが、つまり私の体が大きいから、そのくらいのエネルギーを補給しておかなければということもあるのだが、正直に言えば、決して安くはない山小屋の宿泊代として、払った分は何としても食べておこうという、それで昼食を菓子パンなどで簡単にすませられるし、弁当代も節約できることになるという、さもしい考え方からなのだ。

 思えば子供時代には、どの家も同じように豊かな暮らしではなかったから、子供たちは皆同じように、盆正月以外は駄菓子を買う小遣さえもらえなかったから、家で食べる食事はそれこそがつがつと食べたものだし、時には地面に落ちているものでさえひろって食べたくらいなのだ。
 私たちの世代はそんな雑菌まみれの中で育ってきたから、抵抗力がついていて、花粉症やアレルギーにはならないのだと、変なところで自慢したりする。
 まあそんな年寄りの昔話だけれども、子供の頃に貧乏した苦労も、後になって何が幸いするかわからないのだ。

 と言うわけで、小屋での食事は、がつがつ食べるという情けない習性だけが身についてしまっているのだ。小屋の経営者の皆さんすみませんとは思うものの、もう老い先短い年寄りの事で、何とか見逃してやってください。あー、ゴホゴホ。あっ、血だ。
 「それは、噛まずに飲み込んだトマトのかけらでしょ、ったくもう、大めしぐらいのくせして、どこが年寄りだか。」と、山小屋スタッフのカワイイ娘さんたちに言われそう。

 部屋に戻って外を見るが、相変わらずの霧の中だ。それも上空が晴れているという感じではない。晴れるとしても昨日と同じ8時くらいからだろうと、しばらく横になっていたが、とうとう誰もいなくなって仕方なく重たい腰を上げた。それでも昨日と同じ5時半くらいの出発だった。

 昨日下ってきた、溝状になった岩ゴロ道の登り返しで、時々少し明るくなったような気がして振り返ったが、山の下の方は見えるものの中腹以上は雲に覆われていた。
 昨日もダメだったのだが、実はこの登りの途中から見る、黒部五郎岳全景の姿が素晴らしいのだ。
 小屋北側の池塘(ちとう)からの眺めと、この登りからの眺めと、今回の黒部五郎への山行で実現できなかった二つのことは、昨日私を喜ばせた三つの地点での見事な光景からすれば、それほど大きな残念なポイントではないかもしれないが、いつかもう一度、ここからのあの黒部五郎の姿を眺めて見たいものだ。

 やがて山々の中腹以上にかかる雲の中に入って行った。昨日と同じ厚い霧の中だ。
 足元の花々の写真を撮りながら、ゆっくりと登ってい行く。そして、道の石の上に、昨日はなかったクマのフンが落ちていた。
 明らかに、自分のテリトリーを示すためのもので、それは今まで何度も見ている、北海道のヒグマのものからすればはるかに小さく、本州のツキノワグマの大きさを示すものだった。
 実は昨日の、三俣山荘から三俣蓮華岳への登りでも見てはいたのだが、おそらくはこの山の周りを縄張りにしているのだろう。
 さらに、昨日の黒部五郎小屋、その前の三俣山荘でも誰かが話しているのを聞いたのだが、この先の弓折岳や下のワサビ平付近でクマが出たということだった。しかし、北海道の体長2m以上体重200kg以上にもなるヒグマと比べれば、例えばあの丹沢でよく見かけたイノシシくらいの大きさだろうからと、あまり気にはならなかった。

 私が最近、北海道の山から離れて、内地の山に足しげく通うようになったのには、確かにそのヒグマのこともある。
 いつも単独で北海道の山を歩いてきた私だが、体力の衰えもあるし、冬場を除いて、いつもヒグマのことを気にしながら、時には出会ったりして(’08.11.14の項参照)、そんな不安を抱きながらひとりで歩いて行くのが少しおっくうになってきたのだ。
 年相応に、山をのんびりと歩きたくなったのだ。

 もっとも、ヒグマが人を襲うのは、登山者に関して言えば、あの有名な3人が殺されたカムイエク事件(1970年)以降は皆無に等しく、むやみに恐れる必要もないし、特に大雪や十勝岳連峰のように登山者が多い所では、さほど心配することはないのだが。
 ただこうしたフンや、足跡、掘り返し、食べた跡などの、はっきりしたヒグマの痕跡(こんせき)を目にするのは、あまり気分のいいものではない。クマの方がいつも人を恐れていて、近づかないのだとは分かっていても。

 さて、そんな中、三俣蓮華の頂上に着くが、昨日と同じく吹きつける白い風の中だった。仕方なくそのまま、双六方面に向かって尾根道を下って行く。道は、東側カールの雪渓のすぐ上の所を通っていて、山々の眺めがきかない中、様々な花々が咲き乱れていて、私を喜ばせてくれた。
 特に多くて目立ったのは、白や薄赤の花頭をつけたタカネヤハズハハコに、鮮やかな黄色のウサギギク、そしてすがすがしい赤紫色のハクサンフウロなどであるが、他にもカワラボウフウやハクサンボウフウなどの、クマが好むセリ科の花も多く見られた。

 丸山に登る頃から、辺りのガスも時々取れてきてはいたが、すっきりとは晴れてくれない。
 チングルマの花が島状に並ぶ斜面を一登りして、双六岳(すごろくだけ、2860m)に着く。
 この先の東側の台地に続く、周氷河地形の一つと言われる、あの条線砂礫の筋模様の上に、ずらりと立ち並ぶ槍・穂高連峰を見るのを楽しみにしていたのだが、その下の蒲田川左俣右俣の谷から上がる雲で見えなかった。
 その台地上の尾根をのんびりと歩き、カールの壁を下ると、雪渓とお花畑が広がっていたが、背景の三俣蓮華や鷲羽岳などもかすんでいてようやく見えるくらいだった。

 双六小屋前の豊かな水場で、例のごとく頭から水をかぶってさっぱりした後、再び歩き出す。
 十数張のテントが並ぶ傍を通って、樅沢岳(もみさわだけ、2755m)から笠ヶ岳へと続く尾根にトラバース気味に上がって行く。このあたりから、下の鏡平に着くまで、数多くの人たちが登ってきていた。
 しかし、この道にはいろんな花が咲いていて、雲が多く眺めが十分にきかない中、もっぱら道端の花々を見ては楽しんだ。

 鏡平への分岐点は、登ってきた人たちでいっぱいだった。そんな所で休むのはいやだから、尾根を少し登った先にある弓折岳(ゆみおりだけ、2588m)まで行ってみた。さすがに誰もいなくて静かだった。
 後ろの双六や、樅沢岳方面は見えていたが、目の前のあるはずの槍・穂高連峰は相変わらずの雲の中だった。

 鏡平への下りは、登ってくる多くの人に挨拶していかなければならなかった。1時には鏡平の小屋に着いた。今日の行程は短かったが、それでも7時間半になるのだ。
 そうした無理をしない一日の行程と、小屋での自分の脚のケア(マッサージと冷やしたこと)、ビタミン剤などのおかげで、ありがたいことにほとんど筋肉痛を感じないで、ここまで四日間歩いてこられたのだ。
 まだまだいけると、ひそかに自信持ったりして。次は久しぶりの日高山脈、テント泊三泊の山旅なんて・・・ムリムリ、そこまでの元気はもうない。

 そして、午後の殆んどを、小屋のそばにある鏡池の広いベランダの上で、横になったりして過ごした。他にも数人の人たちが、黙って水面(みなも)を眺めながら、槍・穂高にかかる雲が取れるのを待っていた。
 そしてほんの二三度だけ、雲の間から槍ヶ岳がその姿を見せてくれた。(写真上)
 天気が良くて空気が澄んでいれば、まさに典型的な絵葉書写真になる所なのに・・・すべては明日に期待するだけだ。

 小屋はほどほどに混んではいたが、それでも狭い布団一枚に寝ることはできた。しかしまたもや、強烈な怪獣たちが吠えまくる一夜となって、またしても私は十分に眠ることはできなかった。

 翌朝、この小屋は早立ちする人が多いためか、ありがたいことに朝食は日の出前の4時半からになっていた。
 誰だって早立ちのために(あの一日目の野口五郎小屋でのように)、やむを得ず折詰弁当にしてもらっているのであって、小屋で温かいご飯とみそ汁を食べていけるのなら、それにこしたことはないのだ。
 私は、手早くいつものように二杯ずつかき込んで食べ終え、小屋を出た。

 槍・穂高は、谷あいから上がる雲のために見えなかった。
 もし天気が良ければ、朝日とともにシルエットになって鏡池の湖面に映る槍・穂高の写真を撮り、そこでゆっくりと過ごし、後は新穂高へと下ればいいと思っていたが、しかしその鏡池での眺めがだめな場合には、昨日登ってきた弓折岳へと登り返すつもりだった。
 天気が良くなってくれば、今来た道でも登り返すというのが、あの前回の御嶽山(おんたけさん)の時のように、私の山への執念の思いになっていたのだ。

 分岐へと向かう途中で日の出の時間になったが、どのみち逆光のシルエット状態で、少し遅れて西鎌尾根辺りから日が昇ってきた。と同時に、槍ヶ岳が雲の中から姿を現し始めた。
 分岐に上がり、今やその全貌(ぜんぼう)を現しはじめた槍・穂高を眺めながら、先に続く尾根道を弓折岳へと登って行った。
 今日も西からの雲が少し押し寄せてきてはいたが、この二日間の山々を覆うようなものではなかった。何より空気も澄んでいて、遠くの山々もよく見えていた。
 南側に続く抜戸岳(ぬけどだけ、2813m)への尾根がくっきりと見え、さらにその下に開けた新穂高へと続く蒲田川の谷あいの彼方には、焼岳(2455m)から乗鞍岳(3026m)、御嶽山(3067m)と火山帯の線上に並んでいるのが見えていた。

 しかし何と言っても素晴らしいのは、今、シルエットになって眼前に立ち並ぶ槍・穂高の岩の稜線だ。(写真)

 

 なんというさわやかな朝の眺めだろう。このまま、目の前に続く尾根をたどって、いつも左に槍・穂高を眺めながら、昔行ったことのある抜戸岳から笠ヶ岳(2897m)への道をたどりたい気もした。体力的にもまだ十分に余裕があるから、できないこともないのだが、下に降りてからのことが気になっていたのだ。
 何しろ後先を考えずに山登り優先で来たものだから、北海道へ戻る日が、あの日本人の民族大移動になるお盆の時を迎えていて、予約もしていない私には、大変なことになるのが分かってはいたのだ。

 しかし今は、この誰も来ない静寂の山の上で、ひとり槍・穂高の山々を眺めていることに感謝しよう。
 そして私は、30分ほどもいた山頂を後にした。

 その道を分岐へと戻る途中、何と道端の草むらの中に、一輪のクロユリの花を見つけたのだ。
 昨日もこの道を往復して、さらに今日も今来たばかりなのに、見逃していたのだ。それは、わざわざここまで登り返してきた私のために、ここにいるよと教えてくれたのだと、自分で良いように解釈して、ともかくありがたく眺めては写真を撮らせてもらった。
 それは前に私の北海道の家のそばに咲いていた、クロユリの話の時にも触れたのだが(6月11日の項参照)、明らかに色合いが薄く、むしろ網の目状のこげ茶色の花は、また別の花のようにも思えたが、白山、南アルプスで見たのと同じく黒というよりは、むしろ渋い茶色の、エレガンスな落ち着いた色合いの花なのだ。(写真)

 

 さあ後は、もうひたすらに新穂高からのバスの時間に間に合うように、下るだけだった。
 途中で、同じ小屋に泊まった人たちが登ってきて、挨拶していく。鏡池に戻り、そこでまた写真を撮って下りて行くと、その日がお盆休みの始まりの土曜日だったこともあってか、まあひっきりなしに、途切れることなく皆が登ってくるのだ。

 一時、山登りは中高年だけになってすたれていくとさえ言われたのに、見ていると、ここでははっきりと若い人たちの方が多かった。それも大きなザックに恐らくはテント一式を入れて、彼女と二人で登っている若者の姿をよく見かけたのだ。
 それは、うらやましいというよりは、むしろ日本の山登りの伝統を受け継いでくれる若者の姿に、君たちはエライよと声をかけてやりたいくらいだったのだ。今の時代に、何も好き好んで汗水たらしてきつい思いをしてまで山なんぞに登らなくても、街中にはラクで楽しいことがいっぱいあるというのに。

 途中に雪渓から流れる水場が三か所ほどあって、人々でにぎわっていた。快晴の空から照りつける日差しが熱くなり、ようやくのことで岩礫の山道を終えて、ワサビ平の端にある林道に出た。
 そして、奥丸山へと向かう道への分岐ともなる、蒲田川左俣にかかる橋の上から、たどってきた山々を仰ぎ見た。
 大ノマ岳と弓折岳が見え、そこから流れる水を集めて、この左俣谷の流れとなっている様子が良く分かる。
 その川の中に、大きな枯れ木が一本立っている。(写真)

 

 おそらくは、始め河原で育った木が、その後、川の流れが変わって取り残されたものだろう。あの反対側の上高地は大正池の、枯れ木群ほどではないものの、なぜか私の心に残る風景だった。

 そして、後は林道をひたすら歩いて行くだけだ。しかし、時間にもよるのだろうが、登山者たちが休んでいたワサビ平小屋を除けば、あとは行き交う人も少なく静かで、道は両側の高いブナの木などで日陰になっていた。あの反対側の上高地から横尾への道は、今頃は恐らく人の列が続いていることだろうが。
 ひとり歩いて行くと、そばを流れる蒲田川の清流の音が聞こえるだけだった。
 涼しい風が吹き出す風穴のそばを通り、少し雲がかかり始めた錫杖(しゃくじょう)岳や笠ヶ岳を見ながら、ほどなく新穂高ロープウエイ駅前に着いた。
 10時を過ぎたところだから、今日の行程は5時間足らずでしかないが、余力を残して山旅を終えるのが一番だ。

 傍にある温泉のお湯につかりながら、今回の山旅を振り返った。
 まずは無事に計画通りに山旅を終えたことに感謝して、それは、行く前のすべての期待がかなえられたわけではなかったけれども、ともかくあの黒部五郎岳での一日があっただけでも十分に思えた。

 そうして、四日分の汗を流してさっぱりとした気分になって、松本行のバスに乗り込んだ。さあこれから、もう一つの大きな問題が待ち構えている。明日の飛行機はどこも満席で、予約もできなかったのだ。果たして、私は北海道に帰ることができるだろうか。
 松本からは電車に乗り換えて東京に向かい、明日に備えて羽田の近くで一晩泊まった。

 翌朝5時過ぎのバスに乗って、羽田空港に行った。発券カウンターで、キャンセル待ちの受付をしてもらった。しかし私が最初ではなく、すでにもう誰かが登録していて、3番目だった。(第2ターミナルにあるエア・ドゥ便も、事前に調べた時にはもう3便すべてが満席になっていた。)
 さて、朝早い7時40分の便はと期待して待っていた。そこで、キャンセルが二席出て、私の前の二人組のオヤジさんが喜んで搭乗口に向かって行った。
 「キャンセル待ちのお客様は次の便までお待ちください」とのアナウンスが流れた。

 次は4時間後の11時35分の便だったが、満席で乗れず。再び、お待ちくださいとのアナウンスがあった。
 さらに2時間後の13時30分の便も、満席で乗れず。さらに、お待ちくださいとのアナウンスがあった。
 残りは4時間半後の17時55分の最終便だけだった。

 初めてのキャンセル待ち体験に不安になってきた私は、北海道に帰る様々な手段を考えてみた。
 飛行機で札幌に向かい、そしてJR特急に乗り換えて・・・ところが、まず札幌に行く便が、すでに終日満席なのだ。もしキャンセル待ちで乗れたとしても、乗り換えて、さらに時間も運賃もかかることになる。
 新幹線で青森まで行って、そこから北海道内で特急三本に乗り継いで・・・二日がかりになってしまう。
 それなら、フェリーではとも考えたが、昔乗ったことのある有明埠頭(ふとう)からの釧路行は今はないし、大洗まで行って、苫小牧(とまこまい)行きに乗り、そして苫小牧から電車を乗り継いで・・・三日はかかることになるだろうし、とてもムリだ。
 つまり、最も安上がりで最も時間がかからないのは、ここでしぶとく飛行機のキャンセル待ちをするしかないのだ。

 ただし、最終便も満席だったら、ということで、キャンセル待ちカウンターのおねえさんが、明日の朝一番の便に空席があるからと予約してくれた。
 もっとも、そうなるかもしれないと、この山旅に出かける前にネットで調べていたのだが、そこには、この国内線ロビーは夜は閉まるから、24時間開いている国際線ロビーに行って夜を明かすか、それとも近くの蒲田駅周辺にあるマンガ喫茶などに行って一晩過ごすか、との書き込みがあった。

 朝の6時前から、最終便のキャンセルが出るかがわかる、夕方の6時前までの12時間を、私は国内線旅客ターミナルの中で過ごした。
 さすがに丸半日もいると、いかに空調のきいた所にいるとはいえ、息苦しさを覚えてしまう。それはまるで、高い塀に区切られただけの狭い空間の中、見たこともない刑務所の中にいるような、不気味な感じさえしてきた。ああ外の空気が吸いたい。

 この羽田の出発ロビーは、行く先によって北ウイングと南ウイングに分けられていて、その端から端まで1㎞近くもあり、ゆっくり歩けば15分くらいはかかる。私は、時々体を動かすためにどこに行くあてもなく、人々が行き交う中を何度も往復した。
 あのカフカの小説『審判』のように、身に覚えのない不条理のなかで、刑務所の中に閉じ込められるわけでもないのだが、処刑されるその時へと歩を運ぶかのように・・・。

 人間ヒマになると、ろくな想像をしない。
 そんな思いにならないように、私はロビー内にある小さな書店で一冊の新書本を買った。それは哲学入門書であり、ギリシア哲学からハイデッガーに至る、哲学的なものの考え方の変遷を、分かりやすく述べたものであり、もっとも、家に帰れば似たような本はあるのだが、ともかく私は、12時間にも及ぶ待ち時間の大半を使って、最後まで読み終えた。
 退屈と不安がないまぜになる中で、思いが乱れる私には、冷静になり落ち着いてものを考えるためにも必要な本だったのだ。そして12時間もの時間は、むしろその本を読むために与えられたものであり、決して無駄な時間ではなかったのだと。脳天気な私の考え方から言えばだが。

 そして最終便出発の10分前、私の番号が呼ばれて、受付カウンターに行った。そこで、発券してくれたおねえさんにただただ感謝するばかりで、出来ることなら抱きしめてチューしてやりたいぐらいだったが、そうすれば大騒ぎになり、せっかく乗れるところがふいになってしまう。 ぐっと押さえて、彼女に精いっぱいの愛想笑いをするだけだった。
 他にも呼ばれた数人とともに、何とか最終便に乗ることができたのだが、それでもまだキャンセル待ちの人は残っていた。

 飛行機の窓の外、下に広がる雲を赤く染めて日が沈んでいった。それは山にいた4日の間に眺めた、どの夕日や朝日よりもきれいなものだった。 
 空港に着き、すっかり暗くなった道をクルマで走って、ようやくわが家に帰り着いた。
 小汚いボロイ家だが、何よりそこにはあの怪獣たちの吠える声もなく、ただいつも聞きなれた梢を揺らす風の音と、夜霧が木々のしずくとなって屋根に落ちる音だけが聞こえていて、私はすぐに深い眠りに落ちていった。

 この山旅が終わって家に戻り、数百枚にも及ぶデジカメ写真の一枚一枚を、モニター画面に映し出して見ていく楽しみ。
 さらにこうして、4回にも分けてブログ記事として書いていくと、再びあの時の鮮やかな風景がよみがえってくる。

 つまり一度の山行で、実際に歩いている時に、次に家で写真を見て、さらにパソコンのキーボードを打ちながらと、三度もの喜びを味わうことができるのだ。
 年寄り特有の、ねちねちとからみつくしつっこさで、自分だけの思い出に何度もひたること・・・それは秘密めいた”コレクター”の喜びにも似て・・・。
 あーあ、我ながら、いやらしいオヤジになったものだ。
 こんな年寄りにも未来はあるのか。

 すると、あのカワイコちゃん集団の歌う声が聞こえてきたのだ。

「恋するフォーチュンクッキー、未来はそんな悪くないよ。ヘイヘイヘーイ。ツキを呼ぶには笑顔を見せること・・・」
 
 そこで久しぶりに自分の顔を鏡に映してみる。
 そこには・・・ひげづらの情けない顔のおじさんがにっと笑っている・・・気持ちワリー。
 しかたがない、顔は怖く見えても、心の中ではスマイルなんだから。
 私も手作りホットケーキでも焼いて、それでクッキー占い、つまり恋する山占いとでもいくかー。次に行く山はどこ。

 ずっと続いていた曇り空や時々雨の毎日から、今日はようやく時々日が差してきて、青空が広がってきた。吹く風は、秋。
 お天気屋な私には、いい日よりになるだろう。
 これからも、”未来はそんな悪くないよ”と思っていたいのだが・・・。

大町から新穂高への山旅(3)

2013-08-23 17:54:33 | Weblog
 

 8月23日

 前回までの話・・・私は夏の北アルプス縦走の山旅のために、大町から高瀬ダムの登山口まで行って、そこからブナ立尾根を登り、烏帽子小屋から野口五郎の小屋までの稜線を歩いて、そこで一日目を終えて、次の日には野口五郎岳、水晶岳、鷲羽岳を経て三俣山荘に泊まり、そして三日目の朝、白いガスが吹きつける中、三俣蓮華岳に登り、今日はこの天気だから黒部五郎小屋までかもしれないと少し気落ちしながら、ともかく何も見えない霧の中を下りて行った。

 すぐに反対側から、息を切らせて登ってくる人たちに出会った。ずっと下までの間に、十数人はいただろうか、昨日黒部五郎の小屋やテント場に泊まった人たちだ。聞いてみると、やはり小屋周辺もガスがかかっていたとのことだ。
 しかし、右下が雪渓になっているその上のふちを下って行く道には、所々にいろんな花が咲いていた。山が見えない時は、足元を見るという私の山での楽しみ方で、何度も立ち止まっては花々の写真を撮って行った。
 登ってくる人の中でも、私と同じように首からカメラをさげて、辺りを見回しながら歩いている人もいた。

 白い霧の中それでも目立つのは、ウラジロタデやヤマブキショウマなどの白い大きな花序(かじょ)の群落ではあるが、他にも黄色いウサギギクやミヤマアキノキリンソウ、ミヤマダイコンソウに、赤いヨツバシオガマなどが目を引くけれども、やっと見えるくらいのミヤマダイモンジソウやミヤマホツツジなどの可愛い白い花も見逃せない。

 ところで、私の花の写真の撮り方であるが、その他の山の写真と同様に、とても芸術的に撮ろうなどとは意識していないから、ただその場で立ち止まりシャッターを押しただけの記録写真でしかないのだ。
 マクロレンズを使い、オシベやメシベなどの花の部分にだけピントを合わせ、背後は暗く、あるいは明るくぼかして、浮き上がるように撮るなどという、手間ひまかけての芸当などとてもできない、というよりは、そうしてまでしっかりと花に対するのだという気持ちがないから、それよりは、やはり山の姿を撮りたいし、それも絵葉書写真が理想だから、いつまでたっても写真は上達はしないことになる。
 まあ、いいか。”花より団子(だんご)”の例え通りに、少し意味は違うが、私は何と言っても雄大なる山の姿を見たいのだし、こうして天気の悪い時には、仕方なく花の写真を撮ってはいるが、本心の所は、やはり花よりは山なのだ。

 さて時々、霧が薄くなり、北面の雪渓の下の方まで見えるのだが、一瞬の後、再び白いガスに包まれてしまう。
 このまま、黒部五郎の小屋まで行っても、それから天気の悪い中を登る気はしないから、まだ朝のうちからそこで長い時間を待つことになるし、せっかく来たのに、晴れが続く予報だったのにと少し哀しい思いになってしまう。
 それでもこの静かな山の中にいるのだから、それだけでもこの山旅の価値はあるし、明日を期待して、今日は本でも借りて読んでいればいいのだと自分に言い聞かせた。
(数年前のこと、私は白馬岳から爺ヶ岳までの後立山連峰を縦走するつもりでいたのだが、天気が悪くと言っても、こんなふうなガスの中で雨が降っているわけではなかったから、他の人はみんな出て行ってしまったのだが、私は晴れの日を待って、丸二日間、頂上小屋にとどまり、書棚にあった三冊もの本を読んで過ごしたことがある。三日目にはあきらめて、結局はその霧の稜線を歩いて行ったのだが。)

 やがて東沢乗越(のっこし)付近ではなだらかな草地になり、島のような集まりになって咲く、チングルマのお花畑がいい感じだった。晴れていれば、青空に映えてどんなにかきれいなことだろう。
 とその時、上空が明るくなったような気がした。青空がちらりとのぞいていている。しかし喜んだのもつかの間、その後、再び厚い霧に閉ざされてしまった。
 こんな空模様の時、結局は晴れてくれなかったり、あるいは一気に晴れ間が広がったりと、今までに五分五分の経験をしてきているから、何とも言えなかった。

 ゆるやかなハイマツの尾根の下りが続き、次第にそのハイマツのうねりが先の方まで見えてきたかと思った次の瞬間、鮮やかな青空が広がり、その中にあの黒部五郎岳が、あの残雪をちりばめたカール(懸垂氷河跡)の谷を見せて、ひとりそびえ立っていたのだ。(写真)

 

 私は写真を撮るのも忘れて、ただぼうぜんと立ち尽くしていた。この山旅の、一番の目的でもある山・・・、十数年前に眺めたあの姿のまま、黒部五郎岳はそこにいたのだ。
 私は、まぶたが熱くなり、もう少しの所で涙を流すところだった。

 まずは落ち着いて写真を撮り、次に、まだ中腹あたりにまつわりついている雲の流れを子細に見てみた。西側から押し寄せる雲は高さ2500m位のところまであって、頂上部分はその上にあるから浮き出ているが、周りの雲が南側から回り込んでこちら側にまで流れ込んできているのだ。しかし上空の青空を見れば、これからさらに雲が少なくなっていくだろうことは確かだった。
 私は小おどりしたい気分になって、そこから始まる灌木(かんぼく)・森林帯の、溝状にえぐれた岩ゴロの道を下って行った。
 実はこの下りの途中から見る黒部五郎の姿が素晴らしいのだけれども、残念ながら例の南側から回り込んできた雲が広がり、カールの北尾根の姿しか見えなかった。

 小屋に着いて、早々と今日の宿泊手続きをして、ザックを置いて、小さなパック・ザック(100円ショップで買ってもう20年近く愛用している)に雨具と水、食べ物少々を入れて、すぐに出発した。まだ8時半にもなっていなかったが、先は長いのだ。
 小屋の周りは、見事なコバイケイソウの群落が続いていた。
 テント場の傍を通って、水が流れる小さな溝状の道の登りになる。そこを抜けると開けて、お花畑が展開して、さらに草原上の斜面に出て、まわりの山々の展望が開けてくる。
 誰もいない草原の道、まさにあの映画『サウンド・オブ・ミュージック』の世界だった。

 このいわゆる尾根コースは、地図上では点線で書かれていて、少しわかりにくいところもあるが、岩のペンキ印などもしっかりついていて、迷うような尾根道ではないし、もとより下のカールの中を行くコースよりは30分も余計に時間がかかるので、ほとんどの人は登りには使わない道であり、むしろ変化を求めての下りに使われることがあるくらいなのだ。
 しかし、私には考えがあった。行きも帰りもカール内のコースを使えば、辺りの景観が素晴らしくて写真を撮りまくりたくなり、余分な時間がかかるし、行きも帰りも同じよりは変化のある尾根コースの風景を見てみたいし、さらに、問題の一つには今日のこの天気だ。
 今はまだ、この尾根上部から頂上付近にかけて雲がまとわりついているのだ。いつもの夏山での天気と違って、おそらく天気はこれからさらに良くなっていくだろうから、むしろ下りの時にカール・コースを選び、晴れ渡った空の下での景色をじっくりと楽しんで、写真を撮りながら下って行こうと思ったのだ。

 小さな雪田(せつでん)を渡ると、やがて長い岩塊(がんかい)帯の上をたどる道が始まった。尾根の右下は雪渓や草付き斜面となっていて、100mほど下を行く登山者の姿が見える。
 大きな岩の間の上り下りもあって、今や雲が取れてきて暑くなってきた中を登って行くのは、やはりきつかった。
 この道は、やはり下りに利用するべきなのだと思いつつも、右手に切れ落ちる雪渓や小さなお花畑の眺めがきれいで、苦しい道の慰めになった。 
 そして岩塊帯の区切りとなるコブの上に上がると、確かに頂上が近づいてきていた。残りのハイマツの尾根が、今やはっきりと見える頂きへと続いている。(写真)

 

 しかし日差しは暑く、もう30分おきに休むほどに、バテバテになりながら登って行くと、何と上から一人の男が下りてくる。
 嬉しいではないか、私と同じ志(こころざし)を持ってこの尾根を歩く人がいるとは。私たちは立ち止まり、しばらく立ち話をした。
 私が今までよく登ってきた日高山脈の山々では、ましてそれは沢登りで上がることも多かったから、なかなか人に会うことはなく、偶然にでも会えば、それはもちろん、あの巨大ななヒグマなどに遇(あ)うよりははるかにうれしいことだから、ここまでのお互いの情報を交換したりしてのしばらくの立ち話になるのだ。

 その彼の話を聞いての一休みで、もう少しだからと自らを励ます心もわいてきた。
 一登りすると、そこは頂上への最後のコブであり、目の前のキレットから下り落ちる雪渓の向こうは見事な岩壁になっていて、スケールは比べ物にならないが、あの南アルプスは北岳のバットレスを思わせる光景だった。
 そこを左から回り込み、ついに黒部五郎岳(2840m)の頂上に着いた。下の小屋からは2時間半ほどかかっていて、11時に近かったが、昨日と同じようによく晴れていた。

 頂上標識の周りには数人が座っていたので、北端の所に行って腰を下ろした。今や上空いっぱいに青空が広がり、雲は遠くの山々の中腹あたりに残っているだけだった。
 私が向いている北の方には、薬師岳(2926m)が大きく高く、そして遠くに下の方に雲をまといながら、立山(3015m)と剣岳(2999m)が並び立っている。その黒部の谷の反対側には、遥かに白馬岳(2932m)からの後立山(うしろたてやま)連峰が見え隠れしている。
 そして私がたどってきた、水晶岳(2986m)から鷲羽岳(2924m)が見え、今日登ってきた三俣蓮華岳(2841m)から双六岳(2860m)へと続く山なみの上に、槍ヶ岳(3180m)と穂高岳(3190m)が高い。さらに続いて笠ヶ岳(2897m)のとがった頂きの果ては、雲の波に洗われていて、わずかに乗鞍岳(3026m)と御嶽山(3067m)の頭が見えていた。

 前回私がこの頂上に立ったのは、もう17年も前のことだが、今日以上に素晴らしい快晴の日だった。まわりの山々が今日以上にくっきりと見えていた。
 それは、立山から縦走してきた三日目の事であり、その日は双六小屋まで行って、四日目には笠ヶ岳に登ってその日のうちに新穂高に下りたのだ。まだ若かったし、体力が一番あったころかもしれない。

 その時の思い出を振り返り、今の眺めをまたこうして目の前にして楽しむこと・・・それは記憶の塗り重ねではなくて、対比して並べられる新しいページの記憶の時なのだ。
 もうあとは小屋に戻るだけだから、時間は十分にある。しかし、人が増えて頂上がにぎやかになり始めた。
 お楽しみはまだ先にもある。私は30分ほどいた頂上を後にして、北尾根を下りて行った。
 下の分岐点にザックを置いて、頂上に登ってくる人がまだまだ多くいた。しかし北尾根の岩稜をたどると先に一人がいるだけだった。
 そして、道はやがてカール側に出て下って行き、私の好きな風景が見えてくる。

 青空の下、岩壁に囲まれた頂上とその下のカール上部に残る残雪、そしてこの北尾根からカールの谷へと下っていく緑の斜面・・・しかし、その斜面の両側は、何と見たこともないような、コバイケイソウの白い花の一大群落に覆われていたのだ。(写真、背景は鷲羽岳)

 

 私は今まで、地元北海道の大雪山・五色ヶ原の広大な台地に広がるお花畑が一番だと思っていた。しかし台地上と斜面との違いこそあれ、今、目の前にある、このコバイケイソウの群落をなんというべきだろうか・・・。
 知らなかった。ここにこんな群落があったなんて。
 時期をずらせば、こうして別な花の盛りに出会えるということ・・・。
 そのコバイケイソウの花々に囲まれたジグザグの道を下って行きながら、私は何度も立ち止まり、しばらく眺めては、繰り返しカメラのシャッターを押した。
 幸いなことに、先を行くのは一人だけで、それも今や遠く下の方を歩いているのが見えるだけで、あたりには前後に誰もいなくて、コバイケイソウの花が揺れているだけで・・・静かだった。

 さらに下って、カール底にたどり着くと、私が待ち望んでいた次なる景観が待っていた。
 17年前の時にも、そこで大休止のひと時を過ごした所だ。カール岩壁下からの雪渓がそこで終わり、雪解け水の小川が流れている水場。(上、巻頭写真)

 先に下りていた人たちは誰も立ち寄らずに、そのまま先へと下り続けていた。
 そこには、誰もいなかった。水の流れる音と、周りを囲む岩壁と雪渓と、その上に広がる青空と・・・。

 その私の好きなアルペン的な光景と言えば、例えば穂高・涸沢の巨大な複合カールが作り出す光景や、槍沢・天狗池上部の氷河地形や、裏剣・仙人池や池ノ平から眺める八ツ峰などを思い出すのだが、いやこの光景は、さらに昔、私が若き日に行ったあのスイス・アルプスの氷河湖、モンブランを眺めるラック・ブランの、あの背後の光景をほうふつとさせるからだろうか・・・。

 私は、その雪渓から流れ来る冷たい水を心ゆくまで飲んで、さらに頭から水をかぶってさっぱりとした気分になった。そして、氷河が削ったとされる羊背岩の上に座って、その景色を見ながらひとりだけの静かな時を過ごした。
 30分ほどたったころ、テント装備の大きなザックの若者たち数人がやって来て、彼らと楽しく話をした。さらに、この水場へと立ち寄る人が一人二人と増え、私はなごり惜しかったが、それでも十分に満足して、私の心のふるさとの一つに別れを告げた。

 それからも、何度も立ち止まりたい風景が繰り返された。
 さすがに夏の花の盛りは過ぎていたが、所々に岩が配置された草地を、まばらにいろどるコバイケイソウや、流れの岸辺をふちどるイワイチョウ、そしてチングルマやミヤマダイコンソウなどの花も見られた。
 途中で、南尾根側からの小さな流れを幾つも横切り、そのたびごとに手ですくって一飲みしてみた。
 やがてダケカンバなどの林に入り、そこを抜けると、再びコバイケイソウの群落が広がる草地に出て、小屋に戻った。

 まだ時間は十分にある。そこで、もう一つの楽しみである、北側に散在する池塘(ちとう)への道を下ろうとしたが、残念なことに、環境保全のために立ち入り禁止になっていた。
 そこからは、小さな沼を前に、黒部五郎岳の全景が見られるのに。小屋付近では他に三俣蓮華へと急坂を登り返す以外に、黒部五郎が見える所はなく、絶好のポイントなのに、これでは朝焼けに染まる山の姿も見られないことになる。
 まさに絵葉書写真的な光景なのだが、それだけに私の好きな場所でもあり、残念なことだ。

 今日は、この黒部五郎岳でたくさんのいい風景を眺めてきたから、一つくらいは期待にそぐわないこともあるのだろうと、あきらめる他はなかった。
 部屋に行くと、昨日の三俣山荘で隣だった彼と会った。彼は、今朝、日の出前のまだ暗い中を出てすぐに鷲羽岳に登り、水晶岳を往復して戻り、三俣蓮華のトラバース道を経てこの小屋に着き、明日、黒部五郎に登るのだと言った。
 そして、二人とも偶然に同じカメラを持っていて、つけているレンズは違ったが、映りはいいけれど重たいのが問題だと、しばらくはカメラ談義と山の話で盛り上がった。
 部屋はまだ新しく明るくて、布団一枚に一人どころか、半分以上の布団が空いていた。やっとゆっくりできるのだ。

 ともかく今日は、目的の黒部五郎を十分に楽しむことができて、もう思い残すことはなかった。明日から天気が悪くなっても、今日の思い出だけあれば、もう何もいらないとさえ思った。
 「人生すてたもんじゃないよね、あっと驚く奇跡が起きる。ヘイヘイへーイ。」と頭の中に、AKBのカワイコちゃんたちの歌声が聞こえてくる。(実は、隠れAKBファンなのだ。この年で、恥ずかしながら・・・。)

 山小屋でのこの二日間、十分に眠ることができなかった私は、いつものように寝つきは悪かったものの、今日の思い出を繰り返しながら、いつしか深い眠りに落ちていった。

 南尾根の彼方にそびえ立つ頂上、斜面を覆い尽くすコバイケイソウ、カール壁に囲まれた雪渓末端の水辺・・・コバイケイソウが一つ、コバイケイソウが二つ・・・。

 さらに、次回へと続く。 
 
 

大町から新穂高への山旅(2)

2013-08-19 17:29:32 | Weblog
   

 8月19日

 前回からの続きである。

 私はこの夏、北アルプスの山に登るために、北海道を離れて長野県の大町まで行って、そこで素泊まり旅館に泊まり、翌朝、相乗りタクシーに乗って登山口の高瀬ダムまで行った。
 そこから名にしおう急坂、ブナ立(たて)尾根に取りつき、烏帽子(えぼし)岳の稜線に出て、裏銀座ルートと呼ばれる縦走路をたどって、野口五郎小屋で一日目の行程を終えた。

 夜明け前、さすがの怪獣たちのうなり声(前回参照)も収まったころ、薄明の中、窓の外が幾らか明るくなり、私はひとり布団を抜け出し、小屋の外に出た。目の前に、長い山体を横たえる野口五郎岳の頂上部分がうっすらとその姿を見せていた。
 小屋での朝5時の朝食では、日の出に間に合わない。昨夜のうちに、朝食を弁当にしてもらっていて、頂上で食べるつもりだった。
 4時半過ぎに小屋を出た。ライトをつけなくともかろうじて歩けるくらいの明るさだが、私には十分だった。東の地平が赤くなっていた。
 後ろから来た若い男がひとり私を抜いて行った。

 15分ほどで頂上に着いた。すぐに、日が昇ってきた。
 昨日の夕方は、小屋の裏手の稜線にまで上がって、水晶岳に沈み行く夕陽を見たのだが、あえて言えば、下界の熱気のためでもあろうが、少しその色が鈍く見えていて、その感じが、この朝にも続いているようで、今ひとつ、鮮やかさには欠けていた。
 上空には見事な快晴の空が広がっていたが、この北アルプスの山なみの西側にはわだかまるような雲があり、それが山々にかかっていて、たとえば槍ヶ岳は見えていたが、その後ろの穂高連峰には雲があり、剣・立山方面も雲が多かった。
 とはいってもまわりの山々は良く見えていたから、十分に満足できる眺めではあったのだが。

 この山はその鈍重な形から、あまり注目されることもないが、その2924mという標高はこの北アルプスでは貴重な高さであり、立山や槍・穂高連峰の3000m峰に次いで、剣岳(2999m)、水晶岳(2986m)、白馬岳(2932m)、薬師岳(2926m)に次ぐ高さの山でもあり、展望の山としても良い位置にあるのだ。
 前回、同じようにこの山の頂で日の出を迎えたのだが、それははるか遠くまでも見えるほどに視界のきく日で、そんな雲一つない素晴らしい空のもとで周囲の山々を眺めることができて、まさに印象的な光景として心に残っているのだ。その時と比べれば、少しは劣るけれども、好展望の山頂であることに変わりはない。 

 日が昇ってくる景色を眺めながら朝食の弁当を食べていると、さらに二人が登ってきたがすぐに先へと下りて行った。食事の後、私も彼らの後姿を見ながら、野口五郎岳からのジグザグの岩礫(がんれき)斜面を下って行った。
 急ぐつもりはなかった。それよりは、もう再びたどることはできないだろうこの稜線の道の眺めを、ゆっくりと楽しんで歩きたかった。

 稜線の西側は、風衝(ふうしょう)地の砂礫斜面になっていて、眼下の黒部川源流部、上ノ廊下(かみのろうか)と分かれた東沢谷から標高差1000m以上となって立ち並ぶ赤牛岳と水晶岳(写真上)が見える・・・昨日からずっと続いているこの二つの山の眺めに、私は何度視線を向けたことだろう。
 赤牛岳には一度だけしか行ったことがないが、その時の水晶岳からの全行程の中で、ただ一度3人パーティーに出会っただけだった。
 北アルプス最深部の静かな山の思い出は、さらに黒部湖へと下り、船で渡って平ノ小屋に泊まり、居合わせた釣り人たちが釣ったイワナをたらふくごちそうになり、楽しく過ごした一夜が忘れられない。

 さて一方で稜線の東から南側には、所々に残雪が残り、草地になった斜面には、花々が咲き乱れていた。槍ヶ岳を背景に、あるいは鷲羽岳を背景にして、私は何度も立ち止まり、かがみこんではカメラを構えた。(写真)

 

 その間に、同じ小屋に泊まった人たちの何人かにも抜かれてしまったが、私の目的は先を急ぐことではなく、ゆっくりと左右の景色を眺めながら歩いて行くことなのだ、山も空も雲も、花々も生き物たちも・・・。
 それが、老い先短い私の、限りある山での日々を楽しむ、最大の目的でもあったのだから。

 考えてみれば、自らに課した過酷な運動の果てにある、そこに見えるはずの、至上の風景を追い求めること・・・それは、日常の享楽的な喜びの情景とは違って、何か現実とは違う彼岸の光景のようでもあり、それだけにいつまでも心に鮮やかに残るのだろう。
 つまり、私が山に登るのは、前に書いた(7月29日の項)あの木暮理太郎氏の”山が好きだから登る”という単純明快な答えの他に、無意識の心のうちで、安らかなる死の果てにある世界を、彼岸への思いとして、山の眺めに疑似化して想定しいるからなのだろうか。

 その世界とは、今までにも何度か引用してきた、あの『臨死体験』(立花隆著 文春文庫)の中に書かれている、死の間際から生還した人々の証言のように・・・”あたりが明るく開けて、きれいなお花畑が一面に広がっていて、私はその中を歩いていました”・・・。

 いや、私は今、現実に目の前に広がる光景として、眺めているのだ。
 斜面に咲く花々の行く手には、残雪を谷筋につけて見事な三角錐の形の鷲羽岳が見えているのだ。
 たどっていく道の所々は、確かに見覚えがあり、あの20年近い前の思い出のなかの光景そのままだった。
 ただその時とは、2週間ほどの差があり、それだけに微妙に、足元に咲いている花々の種類が違ってはいたが。
 今回目につくのは、例のイワギキョウやタカネツメクサの他に、コバイケイソウ、ハクサンボウフウ、ウラジロタデに、まだ残っているチングルマなどであり、その他にも数は少ないが、イブキジャコウソウ、イアワオウギ、シコタンソウ、ヨツバシオガマ、ミヤマシオガマ、ウサギギクなどもあって、十分に見ごたえがあった。

 ひと登りで水晶小屋に着いた。その前には、水晶岳に往復するために置いて行った人々のザックが並んでいて、他にも十人余りが休んでいた。私はそのまま裏手に回り、小高いコブの上でひとり休むことにした。
 ふと腰を下ろした岩のそばを見ると、なんとチョウノスケソウの白い花が二つ三つ・・・嬉しいではないか、7月の花だというのに。
 さらにありがたいことには、朝のうち西側から押し寄せてきていた雲はほとんど取れつつあり、そして私のこの山旅での大きな目的の一つである、あの黒部五郎岳が、残雪の首飾りをつけた広いカール(懸垂氷河跡)をこちら側に向けて、悠然(ゆうぜん)とそびえ立っていた。

 今回、私がこの北アルプス裏銀座コースを選んだのは、その道の途上に私の好きな山々が並んでいるからだ。
 野口五郎、水晶、鷲羽、三俣蓮華、往復することになる黒部五郎、そして双六(すごろく)とそれぞれに魅力を秘めた山々ばかりなのだ。
 一休みした後、ゆるやかな高原状の道をたどって行くと、そそり立つ岩に囲まれた水晶岳(2986m)が立ちはだかるような迫力で見えてくる。道はそれらの岩壁を避けて西側から回り込み頂上に着いた。

 私にとっては、4度目の頂上になるが、やはり眼下の雪のカールを隔てて見える槍・穂高連峰の眺めが素晴らしい。(写真)



 左に目を戻せば、たどってきた烏帽子から野口五郎へと続く山なみがあり、北側には赤牛へと尾根が伸びている。反対側にはまだ少し雲がかかったままの剣・立山から、ゆったり頂上稜線を広げる薬師岳へと続き、手前の雲の平の台地の左にはひとり黒部五郎岳が大きい。さらにこの稜線が連なり行く先に、ワリモ岳と鷲羽岳が並んでいる。
 やはりこの水晶岳もまた、素晴らしい眺めの山なのだ。残念なことに、狭い頂上に人が多くなってきて、15分ほどで下りて行くことにした。
 かつて誰もいない頂上で、30分も過ごしたことがあるのに。

 下りにも、見るべきものはある。まずは切れ落ちた東側稜線の所に、ウスユキソウの一大群落があり、さらにその近くには、この水晶岳の名前の由来ともなった、水晶の結晶を含んだ石を見ることもできるのだ。
 そしてもう一つ、昨日の野口五郎の小屋で仲良くなった、小学4年の男の子とそのお父さんが登ってきたのだ。彼らは、小屋で連泊して、この水晶岳を往復して、明日は登ってきたブナ立尾根を下るとのことだった。ほんの少し立ち話をしただけで、ボクはまるでお父さんを先導するように、すぐ上の頂上へと登って行った。
 振り返ってお父さんが笑顔で私に言った。「登りは私が置いてゆかれるくらい早いんですが、下りがだめなんですよ」

 楽しい気持ちで、水晶小屋分岐に戻り、さらに先へと縦走路をたどって行く。
 ゆるやかに広がるお花畑の向うに、今登ってきた水晶岳が障壁のように連なり、その左手には遠く薬師岳が大きい。
 雲の平へと下る道と分かれて、ワリモ岳(2888m)に向かう。なかなかの登りで、頂上は縦走路から外れていて、誰もいなかった。岩の上に腰を下ろすと、行く手に高くそびえる鷲羽岳の眺めが素晴らしい。
 ワリモ岳から少し下り、再びひたすらに登り続けるジグザグ道の果てに、鷲羽岳(2924m)の頂上はあった。ここからの眺めは、何と言っても眼下に可愛いい鷲羽池を見下ろし、荒々しい硫黄尾根の上に連なる北鎌尾根と槍の穂先の姿の素晴らしさだ。(写真下)

 しかしここも人が多すぎる、私は10分ほどいただけで、頂上を後にした。長いジグザグの岩礫(がんれき)帯の下りが続き、暑さも加わっていささかうんざりしたころハイマツ帯に入り、ほどなく三俣山荘の小屋に着いた。
 まだ1時半だから、先の黒部五郎の小屋まで行けないこともなかったが、その途中の三俣蓮華岳には少しく雲がかかり始めていたし、疲れているうえに、展望もない道を歩くのはごめんだった。
 若いころならなら、ギリギリの苦しい思いをしてでも貪欲(どんよく)にやり遂げることが喜びにもなるのだが、年を取ると、他の人と競う気などさらさらないから、余力を残して小屋で休むのが一番なのだ。
 今日の行程は、それでも昨日と同じ8時間半ほどにもなる。

 午後からはいつも雲が湧き上がってくるから、天候の急変や雷などを避けるためにも、小屋にはせめて2時くらいまでには入りたいものである。今回の山旅でのそれぞれの山小屋には、その時間までには着いているし、早く着いてもやることはいろいろとあるのだ。
 まず最初に、その日の行程で疲れた脚をマッサージ、ストレッチして、さらにあのNHKの「ためしてガッテン!」で見て知ったのだが、疲れた筋肉は冷やした方がいいとのことで、水にぬらしたタオルで脚を冷やし、加えてビタミン剤も欠かさず飲むようにした。そのためか、この山旅を通じて、ひどい筋肉痛を感じることもなく、山から下りた後も、ほんの少しの筋肉の痛みがあっただけですんだのだ。

 さらに、あの去年の南アルプスの北岳では(’12.7.31の項)、脚がつって、まさに一時は途方に暮れるほどの痛みがあったのだが、その教訓から、行動中の水とスポーツドリンクの時間ごとの補給は忘れずに続けて、そのためか、今回は一度も脚がつることはなかったのだ。
 こうして年を取れば、それまでのことを教訓にして備え、注意怠りないから、あとは山の楽しみだけを十分に味わえるようになるというものだ。”亀の甲より、年の功”である。

 小屋は少し混んでいて、三枚の布団に4人という具合だった。私は、その布団の継ぎ目の所にあたり、その上例のごとくの怪獣たちの襲来で、この夜もまた眠れずに、うとうとしただけだった。

 昨日の夕焼け空もガスのために見えなかったのだが、この日の朝もそのガスが取れず、日の出の時刻を過ぎても白い霧の中だった。さらに朝食は、二度目に回されて遅くなり、急いで食べ終えて、小屋を出たのはもう5時半を過ぎていた。
 三俣蓮華の登りは、ずっと白い霧の中だった。そのガスが流れる中、それでも斜面のあちこちに咲くコバイケイソウの群落が素晴らしかった。さらにまき道との分岐から頂上への砂礫の登りでは、幾つもの小さなお花畑があって、私の憶えていた昔のイメージの花の山にふさわしかった。

 頂上(2841m)は白い風の中で、何も見えなかった。私はそのまま、頂上を後にして西側斜面の道を下って行った。 
  今日の行程は、まず黒部五郎の小屋まで行って、天気が良ければその日のうちに黒部五郎を往復するつもりでいたのだが、それはぜひとも晴れた日の山の姿を見たいから、こんなガスの中を登りたくはないし、しかしこの天気では明日まで待たねばならないかもしれないし、とするとその次の日の行程がきつくなるし・・・どうしよう、大好きな黒部五郎だけはしっかりと見ておきたいのに。
 週間予報では、太平洋高気圧が張り出してきて安定した天気が続くとのことだったのに。

 ガスが吹きつける中、周りの花々を見ながらも、私の思いは千々(ちぢ)に乱れるばかり・・・。
 次回へと続く。

 
 

 
 

大町から新穂高への山旅(1)

2013-08-16 14:52:53 | Weblog
 

 8月16日

 山に行ってきた。

 出かける前までの、様々な懸念(けねん)と期待の思いは、その幾つかが現実のものとなり、時がたつとともに私をあきらめ疲れさせ、またある時は思いがけない景観となって私を喜ばせてくれたのだ。
 今、北海道の家にいて思うのは、その時の混乱の情景と、余りにも美しい静止画の風景である。
 再び戻ったこの静かでぐうたらな日常の中にいると、まるであの時に目の前を流れ去っていった情景が、現実とはかけ離れた世界にのように思えてくる。その一週間前の山での日々について、これから順を追って思い返してみることにしよう。

 今年の日本アルプスの山々の梅雨明けは、それまでの気象庁の地域ごとの発表とは違って、8月の7日からだったということになるだろう。
 つまり、日本海側の北陸地方から内陸部、さらに太平洋側の東海地方にまで及んでいる北アルプス、中央アルプス、南アルプスの中部山岳地帯の天気は、その天候区分である、北陸地方、関東甲信越、そして東海地方それぞれの情報だけでは不十分だということである。
 簡単に言えば、北陸地方の梅雨明けを待って初めて、日本の中央山岳地帯である日本アルプスでの、晴天が続く夏山シーズンになると言えるのだろう。
 南の太平洋高気圧が張り出してきて、梅雨前線が北に押し上げられ(そのために東北地方は大雨の被害にあったとのことだが)、その後はいわゆる”梅雨明け十日”の好天が続くようになる。
 もっとも今年の場合は、その天気が酷暑の日々として、十日どころか二週間ほども続きそうな様子であり、長期予報で言われていた通りに暑い夏になったのだ。

 前回ここでのブログ記事を書いた時には、それまでの不順な天候で、私は今年の夏の遠征の山旅を半ばあきらめていたのだが、今月に入ってからの週間予報では、一転してずらりと天気マークが並ぶようになった。
 これでは、ただでさえお天気屋の私が、山に行かないわけにはいかない。ただし山に行くことはいいとしても、問題がある。
 帰りの飛行機の便は、お盆の帰省ピークと重なってしまい、ネットで調べても各社便ともすべて満席の日が続いているのだ。
 どうする。私の頭の中で、不安そうな貧乏神と、ぐうたらなな福の神が入れ替わり立ち代わり現れてくる・・・しかし、何といっても山はこれからは、安定した晴天続きの日になるのだ。

 ぐうたらな毎日を続けるくらいなら、行ってしまえ。行くなら、今でしょという声も聞こえてくる。
 えーい、後は何とかなるだろう。私は決断した。ルビコン川を渡るしかない。サイコロは投げられたのだ。(ローマ時代のあのカエサル”シーザー”の決断の故事)

 今回目指したのは、北アルプスのいわゆる裏銀座コース、それは大町の高瀬ダムから入って、烏帽子(えぼし)岳、野口五郎(のぐちごろう)岳、水晶(すいしょう)岳、鷲羽(わしば)岳、三俣蓮華(みつまたれんげ)岳、双六(すごろく)岳から西鎌尾根(にしかまおね)を経て槍ヶ岳(3180m)に登り上高地に下るというルートであるが、今回はもう今までに何度も登っている槍ヶ岳(最近では’11.10.16~22の項)は割愛(かつあい)して、その代わりに黒部五郎(くろべごろう)岳を往復して、双六から鏡平(かがみだいら)へと分かれ新穂高温泉に下りることにした。
 (ちなみに、北アルプス表銀座コースとは、去年たどった道でもあり(’12・11.8~19の項参照)、中房温泉から燕(つばくろ)岳に登り、大天井(おてんしょう)岳、東鎌尾根を経て槍ヶ岳に登り上高地に下りるルートを言う。)

 このコースで、新たな頂きを目指す所はない、いずれも二三度は登っている山ばかりである。
 去年、南アルプスの北岳から塩見岳へと歩いた時がそうであったように(’12.7.31~8.16の項参照)、今の私は、さほど重要とは思えない百名山の完登などを目指すよりは、かつて登ったことのある忘れがたい山々たちへの道を再びたどることの方が、最優先の課題になっているのだ。
 老い先短い老体ゆえに、若き日の美しき山々の思い出を求めて、今のうちにかの山々に登っておきたいのだ・・・あーゴホゴホ。
 そして、「お父さん、おかゆができたわよ」といってくれる娘もいないし・・・。

 さて、私は飛行機で北海道から羽田に向かい、そこから電車を乗り継いで、夕立の激しい雨が降る信濃大町の駅に降り立った。明日からの好天だという予報が、心配になるくらいの降り方だった。
 ともかく駅近くにある、昔からの素泊まり旅館で、ゆっくりと一夜を過ごした。もう今では、夜行列車や夜行バスに乗って着いたらそのまま登るという、若いころの元気さはなくなってしまっていて、その代り金にまかせて登るというわけでもないのだが。

 翌朝、相乗りのタクシーに乗って高瀬ダムまで行ったのだが、途中から下界の雲海を抜けて、目の前には見事な快晴の空が広がり、谷筋に残雪を刻んだ山々が見えていた。
 運転手さんが言うには、一カ月ぶりくらいの快晴の天気だとのこと。一月前、それはちょうど私が、あの木曽御嶽山(おんたけさん)に登ったころでもある(7.16~22の項参照)。

 6時前にタクシーから降り立った高瀬ダム堰堤(えんてい)上には、湖面の涼しい風が吹き渡っていて、上に一枚着こまないと寒いほどだった。
 標高は1270m、これから標高差1300mほどを登って、まずは烏帽子小屋までの道のりだが、そこはアルプス三大急登、として有名な”ブナ立尾根”の登りであり、コースタイムでは5時間20分もかかり、若いころならともかく、ヨイヨイに近づきつつある私には、難関のルートであることに間違いはない。

 私が、今回の山旅で最も気にかけたのは、徹底的な荷物の軽量化である。今までの長年の経験から、ぜひとも必要なもの以外の、あったら便利的なものは一切持っていかないことにして、すべての小物を秤(はかり)にかけて少しでも軽くと検討したほどである。
 そしてザックの重さは10kgを切ったのた。
 そうまでしたのは、今も強烈な印象となって残っているある人との出会いがあったからだ。

 前回、このブナ立尾根を登ったのは、もう20年近くも前のことになる。
 まだ若かった私は、20kg近いザックを背負って、相前後する他の登山者たちとともに息を切らしながらやっとの思いで登っていたのだが、そのそばを、まるでハイキングに来たかのようなジャージの上下に小さなデイパックだけの格好で、すいすいと歩き抜いて行った60歳過ぎくらいのおじさんがいた。私たちはただぼう然とした目で、その後ろ姿を見送るばかりだった。

 その後、烏帽子小屋を経て烏帽子岳を往復し、その先の野口五郎の小屋にようやくの事でたどり着いたのだが、そこでおじさんは寝ていた。
 話を聞くと、先の水晶小屋まで行くつもりだったのだが、途中で出会った人にその小屋がまだ開いていないと聞いて引き返し、仕方なくこの小屋に戻ってきたとのことだった。
 水晶小屋までのコースタイムは、烏帽子小屋からさらに6時間もかかるのだ(つまり下からは合計11時間20分ということになる)。途中から引き返したということで、おそらくは同じくらいの距離を歩いたのだろうが、それでも私たちよりは早く着いて、やることもなく寝ていたのだという。

 同じコースを抜きつ抜かれつしてやっとここまで歩いてきて、幾らかの顔見知りになっていた私たちは、口々にそのおじさんに速さの秘訣(ひけつ)尋ねてみた。
 答えは簡単だった。重たい荷物を背負わないこと、1週間に一度位は山歩きをすること、天気のいい日に登ること。
 今思えば、それは近ごろはやりのトレイル・ランのスタイルにも似ているのだが・・・。

 それからも私は、その言葉をずっと忘れずにはいたのだが、天気の日に行くのはともかく、荷物を減らすことも、山行回数を増やすこともなかなか実行できずに、相変わらずアヘアへとあえいでは登っていたのだ。
 しかし年を取るにつれ、体力の衰えを自覚するようになった近年では、いつの間にかあのおじさんの言葉通りのスタイルになってきつつはあったのだ。
 ザックを軽くして、しかし山行回数は増やせないから、時々階段の上り下りなどのささやかなトレーニングをしたりして。それでも、あの時のおじさんほどには、すいすいと歩いては行けなかったが。

 朝、何台もの相乗りタクシーで高瀬ダムに下りた人たちは、20人くらいはいただろうが、足の速い若者たちは先に行ってしまったし、後からゆっくりと登ってくる人たちもいて、私はちょうどその間になり、ありがたいことにまるでこの山中をひとりで歩いているかのような静けさだった。
 鳥たちの声が聞こえる。登るにつれて、ウグイスやウソから、メボソムシクイそしてルリビタキの深山を思わせる声に変わってきた。
 名にしおう、このブナ立尾根の急登にあえぎながらも、その名の通りのブナの大木の間をたどり、ダケカンバからシラビソが増えるころには、しだいに展望が開けてきて、目の前の白い崩壊谷がすさまじい七倉岳(ななくらだけ、2509m)や船窪岳(ふなくぼだけ、2459m)が見えてくるようになる。

 ようやく急勾配の登りが終わって、高山灌木(かんぼく)帯の尾根道になり、バテバテになりながらもやっと展望の開けた国境稜線に出て、少し下った所が烏帽子小屋だった。
 小屋の人たちが種をまき栽培しては増やしたのだろうが、まるで花壇のような鮮やかな紫のイワギキョウのお花畑の向こうに、快晴の空の下、赤牛岳(2864m)とその後ろにまだ残雪を多く残した薬師岳(2926m)の姿が見えていた。(写真上)

 時間は10時半、コースタイムよりは早く4時間半ほどで登ってきたことになる。7,8人の人たちが休んでいただけで静かだった。
 前回来た時はまだ若く元気があったので、ここから1時間余りで烏帽子岳(2605m)へと往復してきたのだが、今回は、昼食時間を兼ねてしばらく休んだ後、体力面を考えて先を急ぐことにした。
 いよいよ、北アルプスの展望が広がる稜線歩きが始まるのだ。

 それにしても、夏の日本アルプスなどの山々では、だいたい10時を過ぎると雲が湧き上がってきて、昼前にはもうその雲に包まれてしまい、何も見えなくなるのだが、今回、何よりありがたいのは、空気が安定していたのか、あちこちに雲は出たものの、夕方にガスがかかってくるまでは、ずっと山々が見えていたことであり、それが今回の山旅を通しての大体の天気模様だったのだ。
 それは、展望第一の私にとって、何物にも代えがたい喜びだった。

 近くのテント場の下にあるひょうたん池を前景に、眼下にはコバルトグリーンの高瀬ダム湖が見え、その湖岸からせり上がる二つの山、唐沢岳(からさわだけ、2632m)と餓鬼岳(がきだけ、2647m)をなつかしい思いで眺めた。(写真)

 

 今は亡き餓鬼岳小屋のおやじさん、当時は女の人の名料理人がいてその食事が素晴らしかったこと、誰もいない唐沢岳の頂上で、剣・立山やコマクサを眺めながら過ごしたひととき・・・。
 今ではもう北アルプスのほとんどの山に一度は登っているから、それぞれの山の頂きには、そうしてその時々の思い出がこめられているのだ。ましてこうして、20年近くの歳月を経た後での再会ともなれば・・・。

 白く明るい花崗岩(かこうがん)の砂礫(されき)の道をゆるやかにたどって行く。道端のタカネツメクサの小さな白い花の集まりや、もう盛りを過ぎている薄赤のコマクサの花が、ザレ場の斜面を点々といろどっている。
 行く手には槍の穂先が見え、そして振り返れば、先ほどの烏帽子の稜線の上には剣・立山(たてやま)が見え、右手には針ノ木(はりのき)、蓮華(れんげ)の頂きが高い。

 この烏帽子から野口五郎までは、今までいつも午後にかけての展望のきかないガスの中を歩いたことばかりで、こうして晴れて周りの山々が見える中を歩いて行くのは初めてであり、涼しい風が吹き渡る中、眺めを楽しみながら歩いて行くことのできる幸せは、何物にも代えがたい思いだった。 
 何度も立ち止まり、あたりを眺め写真を撮り、会う人も少なく、それはまさに幸せな北アルプスの稜線歩きだった。

 その名の通りに三つのコブが並ぶ三つ岳(2845m)の最高点は右にトラバースして、そのまま稜線をたどって行く。
 そして大きくうずくまるようなように行く手をさえぎる野口五郎岳(2924m)が見えてきた。左側に槍ヶ岳が鋭く高く、右手には鷲羽岳ものぞいている。(写真下)

 この野口五郎という名前の山は、何もあの物まねタレントのコロッケが歌まねをする、歌手の野口五郎から来ているわけではない。本当の所は、その逆にこの山の名にちなんでつけられたということらしい。
 沢登りではよく使う言葉だが、石ころのごろごろした広い沢の部分を”ゴーロ”と呼んでいて、そんな沢の奥にある山が、大町市の野口集落辺りから見えるので名づけられたとのことだ。
 さらに今回の目的の山でもある、あの黒部五郎岳は、そういうことから、つまり黒部の谷の源流部にあるごろごろした沢の上にある山というところから名づけられたのだ。

 こうして、その山の名がつけられた由来を知ることは実に興味深いことだし、そんなふうに山名を調べて解説してある山の本を読んでいくのは楽しいものだ。
 日ごろからあの”日本百名山”の選定については、多少口をはさみたくなってしまうのだが、そうした山について書かれたエッセイ集となると、明治・大正・昭和の時代を通じて数多くの山の名著があげられるだろうが、私はやはりすぐに当の深田久弥氏が書いた幾つもの山の随筆集を思い浮かべてしまうし、その中でも『日本百名山』は、疑うことなく第一番にあげられるべき名著だと思う。
 その取り上げた山に関する文章の節々から、日本の山に対する愛着がひしひしと伝わってくるからだ。
 それは、初登頂や初登攀(とうはん)の記録を著(あらわ)したスポーツ的な山岳冒険書ではなく、ただ自分の好きな山々に対する素直な信仰告白書になっているからである。

 ただし、幾つかの山についてはあまりにも人間とのかかわりや歴史を重視するきらいがあり、逆に山の姿かたちや植生・地形だけを重視したい私には、十分に納得できないところもあるのだが。
 それでもなお、古い歴史上の文献を調べて、山名の由来を推察し解き明かしていくくだりなどは、ただただなるほどと感服(かんぷく)するばかりである。

 さて、岩塊(がんかい)帯の岩場をたどり、一登りして、ようやく頂上の下にある野口五郎の小屋に着いた。2時半だった。
 烏帽子の小屋からここまで、コースタイム通りに3時間半かかっていて、休みも併せて下から8時間半の行程は、最近の私としては少し長めの時間だったといえるだろう。

 昔ながらの小さな小屋は、比較的混んでいたが、それでも小さな布団一枚に寝ることができた。
 もっとも、登山者が多い時には、山小屋は緊急避難小屋の役目もあって断ることができないから、そんな小さな布団に二人、肩を触れ合ったまま寝なければならないこともあるというが、幸いにして私は今までそういう経験はない。
 その昔、南アルプスは鳳凰(ほうおう)小屋で、若い娘二人と隣り合わせになって寝たことがある。あらかじめ彼女たちに、寝返りを打った時にチューすることになるかもしれないけれどと冗談で話していたのだが、隣になった彼女はその夜の間中、しっかりと友達の娘の方を向いたまま、私の方に向き直ることはなかった。 
 甘いかすかな期待が、失望に終わり、そして当たり前だと自らを省(かえり)みては納得する、クマおやじのいつものショート・ストーリー、『真夏の夜の夢』(シェイクスピア)の一節ではありました。

 今の状態は、昔の夢とは違い、いつものように両隣は汗臭い男たちが横になっていて、私にそんな趣味はないから寝返りを打たないように注意して寝ていたのだが、ところがすぐに、辺りは大小の怪獣たちが吠えまくる修羅場(しゅらば)と化して、いびきの一大戦場になり、さらにすぐそばの窓ガラスが風で一晩中がたがたと音を立て、日ごろから静寂な林の中にある一軒家で、ひとりぐっすりと寝ている私には、とても眠れる環境ではなく、ほとんど一睡もできぬまま隠忍自重(いんにんじちょう)の長い時を過ごすことになったのだ。

 さてそんな、赤いおめめのまま朝を迎えたウサギさんならぬクマおじさんは、その行く手に果たして、憧れの赤いにんじんを見つけることはできるのでしょうか。
 次回へと続く。


 
 

 
 

 

 

シロタマゴテングタケと孤独な鳥

2013-08-05 16:53:53 | Weblog
 

 8月5日

 3日前、それまでの1週間以上も続いた雨の日が終わり、見上げる空一面に青空が広がっていた。
 それは、一昨日に梅雨明けが宣言されたばかりの北陸・東北地方の前に、私の住む北海道・十勝地方での、えぞ梅雨明けを宣言したいほどの、見事な青空だった。
 その快晴の空の下に、もうほとんど雪の消えた日高山脈の山々が、くっきりと見えていた。
 まるで秋を思わせるような北西の風が吹き、梢の葉を揺らしていた。

 シラカバの木からは、もう黄色くなった葉が舞い落ちていて、草むらには、これまた秋の花であるアラゲハンゴンソウの黄色い花が咲き始めていた。
 夏の盛りにもう秋の始めを見るような、小さな季節の移り変わりがそこにはあったのだ。

 もう秋が近いというのに、私は何をしてきたのだろう。
 この青空の天気が続いた二日間、山に行くべきだったのに。毎年見てきたあの大雪山のお花畑を見に行くべきだったのに。
 それなのに、土日が重なって人が多くなるからイヤだとか、今は本州への遠征の山旅を予定しているからと、理由をつけては結局どこにも行かなかったのだ。
 しかし、その本州の山への夏の遠征も、いつもならばとっくに終えているはずなのに、今年の天候の不安定さから思い切って実行に移すことができずに、とうとうすべてが混みあうお盆休みの時期に近づいてきてしまった。
 つまりこの夏は、あの御嶽山(おんたけさん)への小さな山旅だけで終わるのかもしれないということか。

 最近は、年を取るごとに自分の体力のなさを実感して、この山に登るのはこれが最後になるのかも知れないからと、どうしても天気の日を選んで登りたいし、人々で賑わう時などは行きたくないと、いつもの年寄りのわがままぜいたくな山行を考えているのだ。
 しかし、そうした自分の希望にかなう日ばかりがあるわけではなく、結果としてどこにも行かないことになってしまう。
 つまり、私の日々のひきこもりは、こういったことに理由があるのかもしれない。
 年ごとにわがまま、自分勝手になり、かといって衣食住にはむとんちゃくで、質素な暮らしで十分に満足できるという二面性。

 そして、山に行けないとなると、楽しみは、手近な身の回りにあるもの、つまり草や木や昆虫、鳥たちといった自然の動植物を見ることになり、そこになんらかの興味を見つけようとする。
 そうなのだ、誰でも年を取って田舎に引っこめば、ヒマはあるから、家の周りの植物を観察し続けるようになり、いつかはあのファーブルのような植物学者になれるのかもしれない。

 昨日、草刈りの草などを積んでおいた草むらから、一本の大きなキノコが出ているのを見つけた。
 傘の直径が10cmもある真っ白の大きなキノコで、茎の上の方にはツバもついている。
 林縁の草むらに白くひときわ目立っていて、何か不気味な感じもする。
 さっそく図鑑で調べてみると、シロタマゴテングタケ、猛毒と書いてある。ひぇー。

 

 数年前にも、車を停める場所近くに、同じく猛毒のイッポンシメジが出ていたことがあるが、あな恐ろしや。
 もっともキノコの側からすれば、人間や動物たちに食べられてしまわないようにと、毒の成分を蓄えるように進化してきたのだろうが。
 私はキノコの見分け方に詳しいわけでもなく、このあたりで食べられる数種類のキノコを知っているだけで、こうした知らないキノコを口にすることはありえないのだが、それにしても前に見たイッポンシメジといいこのシロタマゴテングタケといい、猛毒のキノコたちの辺りを払うかのような威厳ある姿には、思わず見入ってしまうほどだった。

 孤独ながらも、凛(りん)としたその姿に魅(み)せられるのは、何もそんなキノコたちだけではない。
 映画の上での話だけれども、女優大原麗子(れいこ)の風情ある姿を見て、つくづく考えさせられたのだ。

 しばらく前に、NHK・BSで放映された映画『居酒屋兆治(いざかやちょうじ)』(昭和58年)を、録画したままで見ていなかったのだが、こうして山にも行かずにヒマな毎日を送っていて、ふと気になって見ることにしたのだが。
 今まで見なかった理由の一つには、ネットで調べた限りにおいては、さほど評判がいいわけでもなく、ましてその年の日本映画ベスト10に選ばれているわけでもなかったから、とりあえずざっと見て消去しようと思っていたのだが、見始めてそのまま最後まで見てしまったのだ。

 原作は、あの山口瞳(1926~1995)の同名の小説『居酒屋兆治』であり、その舞台を東京都下の居酒屋から北海道は函館に移して、より深く北国の人々の哀愁を感じさせる作品になっていた。
 話は、上司の不手際で会社を辞めることになった高倉健演じる主人公が、函館の下町で心機一転”兆治”(高校野球の投手であった主人公が当時の名投手、村田兆治の名にちなんで名づけたもの)という名の小さな居酒屋を開き、そこに集まり来る人々の日々の哀歓の話を織り交ぜながら、主人公の過去の哀しい恋愛話がからんでいくという筋立てである。

 確かにそれは、実際に原作者が酒場で見聞きしたような話からなっていて、多分に酒の上での話的なところもあるけれども、全編を通して流れるどこかやるせない雰囲気は、主人公とその昔の恋人であった彼女との、今に続く連綿たる想いからきているのだ。
 若き日に恋人同士だった二人は、しかし互いに貧しい暮らしの中にいて、男はとても一緒にはなれないと考えて、女を幸せにしてやることのできない自分を不甲斐なく思いつつも、別れを告げて、彼女をいい暮らしができる家に嫁ぐように勧めたのだ。
 女はその後、資産家の大牧場主の男と結婚して、男はそのことを見届けた後で、自分にふさわしい地味でやさしい女と結婚したのだ。

 そして、二人はそれぞれに幸せに暮らしているかのようだったのに・・・女には今や子供が二人いて、牧場を営む家なのにスカート姿で家庭の仕事だけをやってればいい恵まれた毎日の中で、それでも思っていたのだ・・・あの愛し合った人と一緒だった若い頃を・・・。

 女は、彼女の失火がもとで燃えてしまった牧場火災をきっかけに、夫や子供を残して家出してしまう。もう一度あの人に会いたいと・・・。しかし会いに行った彼は、居酒屋の店で毎日を忙しく送っているし、傍には奥さんもいる。

 行き場のない彼女は、札幌へと流れて行って、水商売の仕事に身を落とし、すべてを忘れるために無理に酒を飲み続け、ついにはなじみの若い客に身をまかせてしまう。涙をひとしずく流しながら、愛してもいない男に抱かれる彼女・・・。
 それでも、昔愛した、そして今も変わらず愛し続ける男への思いが消えることはない。相手の声を聞きたいばかりにかける無言電話・・・。
 やがて、彼女は小汚いアパートの一室で、それまでの無理な飲酒がたたって、血を吐いてひとり死んでしまう。

 彼女を探していた彼がようやく見つけてその部屋に入った時には、すべてが遅かった。彼は、もう動かない彼女の体を静かに強く抱き上げた。

 私は、思わず、涙してしまった。
 様々な思いが脳裏を駆けめぐった。似たような、過去の思い出の数々が私を責めたてた。

 その不幸せな彼女を演じた女優、大原麗子の悲しみをはらんだ表情が素晴らしかった。
 こんな美しき薄幸の女性を演じて、彼女にまさる女優はいないとさえ思えたほどだった。つまり私は、そこに現実の彼女の波乱に満ちた生涯と、哀れな最後を重ねて見たからかもしれない。

 大原麗子(1946~1998)。東京生まれ。幼くして両親が離婚し、母に引き取られた後、厳格な叔母のもとに預けられたが、若いころにその家を飛び出し、六本木の遊び仲間、俳優、芸術家の卵たちの集まりである”野獣会”に参加。その美しい容姿が認められて、新世代の女優として映画テレビで活躍し、やがて俳優の渡瀬恒彦とさらには歌手の森進一と結婚するが、いずれも短い結婚生活の後離婚して(この映画はその二度目の離婚寸前の頃撮られている)、やがて彼女は難病にかかったこともあって、次第に芸能界から離れていき、そして一人で暮らしていた62歳の時に、最後の時を迎えるのだ。

 私はそれまでに彼女を、映画では高倉健の”網走番外地”シリーズや渥美清の”寅さん”シリーズなど、そして幾つかのテレビドラマなどで見てはいたのだが、美人だけれども少し高慢ちきなお嬢様女優だと決めつけていて、それほど気になる存在ではなかったのだが、その後、長い年月を経て、今ここで『居酒屋兆治』の中での、彼女の演技表情を見てその哀れな生涯を思い、いつしかまぶたが熱くなってしまったのだ。

 この映画は、高倉健の映画というよりは、まさに余りにも哀しい女を演じきった、大原麗子の映画として記憶されるべきものかもしれない。
 豪華な共演陣、田中邦衛、伊丹十三、池部良、大滝秀治、小松政夫、加藤登紀子、ちあきなおみといった顔ぶれもすごいし、それぞれに熱演だとは思うけれど、今にして見れば、日本映画特有の余りにもべたついた過剰な演技が気になるともいえるが。

 監督の降旗(ふるはた)康男は、それまでの『新網走番外地』シリーズなどの東映ヤクザ映画路線の作品よりは、今ではむしろ、『駅STATION』(’81)以降のこの『居酒屋兆治』(’83)や『鉄道員』(’99)から最新作の『少年H』(’13)などへと続くヒューマン・ドラマの名匠の一人として知られている。
 しかし、ここではその高倉健演じる主人公役の、義理と人情を背負っての生きざまが描かれていて、それはまさにそれまでのやくざ映画のテーマそのものでもあったのだ。

 山口瞳の原作は、ある酒場での話であり、その酒の上での話としては、いささかふくらませすぎた感があることは否めないし、冷静に考えれば、大原麗子演じる女の悲しみは、あくまでも男の側から見た、ヒロイックな悲劇の話でしかないのだ。
 さらに言えば、彼があの有名な小説家やコピーライターを輩出した、サントリーの広告宣伝部出身だということもあって、そのうえ、ちょうどこの80年代にはあの大原麗子のサントリーのコマーシャルが人気になっていて、それも併せてか、劇中で見られる酒の類がすべてサントリーだったことは、いささか制作側の配慮が意図的だとも思えるのだが。

 それにしても、今の時代ならば、愛し合っていればお金なんかと問題じゃない、”必ず愛は勝つ”と、後先考えずに一緒に暮らし始めることだろうが、昭和の時代には、まだ古き時代の自ら一歩退(ひ)いて相手のことを考えてやる、”謙譲(けんじょう)の美徳”の気持ちがまだ残っていた時代だったのだ。
 今の時代には考えられないことかもしれないが、思えば昔の私にも思い当たるふしがいろいろとあるような、愛すればこそ相手の幸せを願い自分は去っていくという、そんな陰(かげ)りある哀愁の主人公を演じたい時代だったのかもしれない。(1942年の映画『カサブランカ』のハンフリー・ボガートのように。)
 暗く悲しい話の中へと自分を追い込んでいくことによって得られる、自虐(じぎゃく)的な哀愁の喜び・・・。

 つまりこの映画は、中年の男たちのための哀しいロマンティックな思い出話であり、何より大原麗子のための映画であったと思えるのだ。今の私には、ただただ、出てくるのは深いため息ばかりなのだが・・・。
 

 最後に、亡くなった大原麗子の自室のダッシュボードに書き留められていたという、あの有名な詩の一篇を。

 ”孤独な鳥の五つの条件”

 「一つに、孤独な鳥は、高く高く飛ぶ。
 
  二つに、孤独な鳥は、仲間を求めない、同類さえ求めない。

  三つに、孤独な鳥は、嘴(くちばし)を天空に向ける。
 
  四つに、孤独な鳥は、決まった色を持たない。
 
  五つに、孤独な鳥は、静かに歌う。」

 この言葉はカルロス・カスタネダ著『未知の次元』扉序に書かれていたものであり、それは16世紀のカルメル会神秘主義の流れをくむ宗教家、サン・ファン・デ・ラ・クルスが書いた『光と愛の言葉』という詩の一節からとられていて、その中でも彼女は、特に三つ目の言葉が好きだったということだが。

(以上、ウィキペディア他のウェブより引用)

 余りにも美しく、ひとり凛(りん)としてある姿、誰も近づくこともない大きな悲しみの毒を含んだ白い体・・・それは、家に林のふちにある草むらに出ていた、あのシロタマゴテングタケの姿にも重なっていく・・・。