ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

カントリー・ロード

2018-06-25 21:01:46 | Weblog




 6月25日

 昨日一昨日と、強い西風が吹き荒れていた。
 それは天空から吹きつけてくるような、台風の時のような不気味なゴーっという音ではなく、木々を揺さぶるようなザーっというような音だったのだけれども。
 一日中、その風の音が聞こえていた。

 しかし天気は良くて、気温も25℃を超えるほどに上がっていて、明らかに今までとは違う、夏の空気に満ちていた。
 その数日前までは、ストーヴで薪(まき)を燃やしていたのに、こうして北海道では、ある日突然、夏が顔を出すのだのだ。
 今月初めにも、一度その兆候を知らせるような暑い日があって、その後再びストーヴの暖房を使う羽目になったのだが、その時は、さすがに今回はもうこれでストーヴは終わりだろうと思っていた。
 その後の、昨日からの風は、これからは夏の日が続くだろうという、そのお告げの風になのかもしれないと思っていたのだが、今朝の気温はまた一ケタに戻っていた、ストーヴの火はつけなかったものの。
 どうしてどうして、北海道の夏は一筋縄ではいかないのだ。

 とはいっても、庭では、ハマナスの花が咲き始めた。(写真上)
 実は、このハマナスの花は、今月初めの最初の暑さが来た時に、花びらを開き始めていたのだが、一日で十数度も下がるような極端な気温の低下についていけずに、まだ完全に開かないうちに、しわくちゃになってしぼんでしまったのだ。
 その時の寒さの名残りは、写真に見るように、新芽の葉の先が茶色く枯れていることからもわかるだおう。

 前にも書いたことがあるが、いつも6月になると、裏の林ではエゾハルゼミたちがいっせいに大音量をあげて鳴くのだが、ある年に時機を逸したのか、雨や曇り空の続くまだ肌寒い時に、土の中から孵(かえ)って成虫のセミになり、一匹だけで鳴いていたのを見たことがあるが、それは前回、アン・マレーの歌に寄せて書いたことと同じで、もし忠告できれば、何事にも”時節を待って”ということが必要であり、物事には適切な時期があることなのだろうが。
 それでも、いくら待ってもその時にめぐり会えなかったり、あるいはその時はもうとっくに通り過ぎていたのに、そのことにさえ気がつかなかったということは、実はよくある話であり、かくいう私もその一人であることはいうまでもないのだが・・・。

 ただ、そんな不運な一人に自分がなったとしても、それを運命のせいにはせずに、ましては自分のせいにもしないことだ。 
 それは、もう通り過ぎてしまった昔のことでしかないのに、今さら悔やんでどうなるというのだ。
 むしろ、自分にとって大切なのは、そんな遠い過去の反省などをすることではなく、今ある自分のことについて、老い先短いとはいえ、これからさらに歩いていく自分のことを考えるべきなのだ。

 前にも書いたように、井戸水が干上がったままで、日常用水の使用にも困っているくらいで、ましてや、家の外の五右衛門風呂(ごえもんぶろ)を沸かして入ることなどできはしないから、周りにある街中の銭湯や温泉施設に行くことになるのだが、最近その駐車場に、内地ナンバーのキャンピング・カーやワゴン車を見ることが多くなってきた。
 時には、その駐車場の半分くらいになることもあるくらいだ。
 そして、その車のドライバーはというと、ほとんどが白髪まじりの、私と同世代の人たちばかりなのだ。
 さらには、ご夫婦一緒にという場合も少なくはない。

 リタイア(定年)後に、今までの自分の道のりを振り返り、そして前を向いては、新たな自分の道を進むべき覚悟を決めるには、確かに地平線の彼方にまで続く北海道の道は、そうした人たちにとっては、最適な旅の道になるのかもしれない。

 アメリカのカントリー・フォーク歌手、ジョン・デンバーの歌うあの「カントリー・ロード」の歌声が、聞こえてきそうである。

” country road
  take me home
  to the place
  I belong・・・"

”あの田舎の道よ
 僕をふるさとに連れて行ってくれ
 僕がいたあの場所に”

(そういえば、前回少し取り上げた、大阪地震でのブロック塀倒壊の被害者になったあの少女は、この歌が好きだったということで、告別式の模様を写したテレビ・ニュースでは、小さく「カントリー・ロード」の歌が流れていたが、生きていれば、その”カントリー・ロード”が続く北海道にも、さらには、その歌で歌われていた、アメリカは西ヴァージニアのカントリー・ロードにも、行くことができただろうに・・・。)

 ともかく、そうした彼らのクルマ旅の途中に、各市町村ごとにある入浴施設に立ち寄っては、そこで出会って、互いに旅の情報を持ち寄り、話し合うことで、同年配同士の”旅は道づれ世は情け”の旅情も深まることになるだろう。
 私も東京の会社を辞める前後には、周遊券を使っての鉄道の旅や、バイクのツーリング旅行で何度も北海道を回り、ユースホステルや若者宿に泊まっては、忙しい会社勤めで忘れていた、青春時代を取り戻したような気分になったものだ。
 ”類は友を呼ぶ”の例え通りに、そうした彼らが風呂の湯船に座って旅の情報を交し合っているのを聞いては、私もまた昔のことを思い出してしまったのだ。

 ところで、昨日のことだが、相変わらず井戸水が使えなくて水に苦労していることは、今まで書いてきたとおりだが、台所での洗いものが終わった後で、まだ使うつもりでいたその貴重な汚れ水を床にこぼして、雑巾(ぞうきん)タオルで拭(ふ)いた後、それを乾かそうと、家の外に出して干しておいたのだが。
 しばらくたって、また家の外に出て、どこでもトイレ方式の庭の端で用をすませて、ふとあのタオルの方を見ると、なんとそこにチョウが群がりとまっていたのだ。(写真下)




 今まで、山の中の林道などの水たまりで、吸引しているチョウの群れを見たことはあるが、こうして風に揺れる生乾きのタオルに、チョウが群がってとまっているのを見たのは初めてだった。
 このチョウは、ヤマキマダラヒカゲといって全国的に普通に見られて、別に珍しいチョウではないのだが、この時は同じ向きで並んでいる姿が面白く、”類は友を呼ぶ”のことわざを思い起こさせて、思わず写真に撮ってしまったのだ。
 この後も強い風が吹きつけて、大きくタオルが揺れていたのだが、そんな中でも十数匹がとまっていた時もあったほどで、もっともその時は、お互いの向きはばらばらだったのだが。

 さらに言えば、このヤマキマダラヒカゲ(写真下、家の丸太壁にとまっていた。)は寒さに強い方なのだが、さすがに北海道では越冬できないらしくて、春になって私が戻って来て、小屋の戸を開けて見ると、その裏側にとまったまま死んでいるヤマキマダラヒカゲや前回あげたクロヒカゲなどが何匹もいたのだが、なかにはなんとクジャクチョウやエルタテハのように、越冬して生き延びていたチョウもいて、その生命力の強さには驚かされてしまう。

 この写真にあるように、何事も前者に倣(なら)うということは、それが安全な場所であったという、良い選択の結果になればいいのだが、もし誤っていることに従っていたことになれば、最悪の場合、自らの生命さえも失うことになりかねないのだ。
 それは、人間を含むすべての生き物たちにとってもいえることであり、誰でもがいつも大多数の方を選んでしまうということは、生きる性(さが)として易(やす)き生き方へと流れるという本能なのかもしれない。
 しかし、そのことは一方で、いつも大多数になってしまうがゆえに、目立ちやすいという危険さを招くいうことにもなるのだが。 

 ”手本ほど伝染しやすいものはなく、われわれが大きな善や大きな悪を為せば、それらは必然的に同じような行為を産み出さずにはおかない。
 われわれは善行を見ると競争心をおこして模倣し、また悪行を見ると、それまで廉恥心(れんちしん)に押さえこまれていたわれわれの本然の悪心が、手本によって解放されて、それを模倣するのである。”

(「ラ・ロシュフコー箴言集」二宮フサ訳 岩波文庫)

 とかく、二律背反(にりつはいはん)する物事の場合の選択は難しいものだ。
 そこで、あの夏目漱石の『草枕』冒頭部分の言葉が、思い浮かんでくる。

 ”山路(やまみち)を登りながらこう考えてみた。
 智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈(きゅうくつ)だ。
 兎に角(とにかく)に人の世は住みにくい。”

(『草枕』夏目漱石 新潮文庫)

 思えば、そうした人の世のむつかしさから、しばし離れるために、私は山登りを始めたのかもしれない。
 そして、この歳になるまで山に登り続けているということは、自分の前にある多くの問題が何ら解決されないまま、いたずらに歳を重ねてきては、今あるじじいの姿になってしまったということなのだろう。
 ただそれは、数多くの幸運と偶然が、私をここまで生かしてくれたのであり、それによって老いさらばえながらも、今日まで生き延びることがことができたのだ・・・。
 
 月を背に、岩頭に立ち、雄々しく遠吠えをする勢いのある若い狼ではないけれども、こうした森の中の粗末な家の中にいても、時にはその老躯(ろうく)を引っさげて外に出て、山に向かっては、ひとり吠え続ける狼でありたいものだ・・・。



 


命の記憶

2018-06-18 21:10:38 | Weblog




 6月18日

 肌寒い日が続いている。 
 最低気温は5度くらいにまで下って冷え込み、日中も10度前後くらいまでしか上がらない。
 毎日、朝のうちだけ、部屋が温まるまでだが、薪(まき)ストーヴに火をつけている。 
 今年はこちらに戻ってくるのが遅くなり、戻ってきてすぐに一度だけ、薪ストーヴを使ったことがあったが、その後は急に暑くなってきて、この春からから初夏にかけてのストーヴはこれで終わりで、もう使うこともあるまいと思っていたのに、今また春先のような低い気温に戻って、もう10日余りにもなるというのに、毎日ストーヴの薪に火をつけているのだ。 
 まあそれはそれで、悪くはないのだが、つまりストーヴの上の乗せたやかんでお湯を沸かせるし、この前はおやつに食べるために小豆を煮たりしていたほどだから。

 ただ、オホーツク海高気圧からの冷たい風によって、気温が上がらないだけでなく、毎日続くうっとおしい曇り空になってしまうのは困ったことだ。
 それによって、私の愉(たの)しみでもある日高山脈の山なみが隠されてしまうからだ。
 そういえば、こちらに戻って来て一か月近くにもなるというのに、このブログ記事に、一枚も山の写真も載せていないことに気がついた。
 それではと、もう最後に山が見えた一週間以上も前の写真だが、夕空のシルエットになって見えていた日高山脈の写真をあげておくことにする。(写真上)

 この時は、その前景背景にあるそれぞれの雲の姿も興味深かったので、いつもの近くの丘にまで行って写真に撮っておいたのだが。
 映っている山々は、左から1643峰、1823峰、ピラミッド峰、カムイエクウチカウシ山、1903峰、1917峰なのだが、背景の空の高い所には、上層雲としての巻層雲(けんそううん)が広がり、1823峰から南側には(写真には写っていないが、左側にずっと続いている)中層雲としての高層雲がかかり始めていて、さらにその下の山々の中腹辺りまでには、下層雲としての層雲つまり霧雲が、まるで押し寄せる波頭のようにうねっていた。
 しばらく立ち尽くしていたいほどの、夕焼雲と黄昏(たそがれ)の山が見せる光景だった。それは、ひとりだけの静かなひと時だった。

 しかし、この二三日後には、北海道に冷たい空気が一気に流れ込んできて、日高山脈の標高1900m以上の稜線には、それまでの残雪の上に、新しい雪が降り積もっていた。
 ただ、頂上付近には雲がかかっていて、くっきりとした雪山風景としては見えなかったのだが、それでも雪の季節の山々の姿を思い起こさせてくれた。
 こうした北海道の高い山では、9月の初めにはもう山での初雪が記録されるようになるのだから、雪の降らない時期は、7月から8月への2か月余りしかないということになる。 
 ああ、山に登りたい。私は、なんともう2か月以上も山に登っていないのだ。

 さらに私を、憂鬱(ゆううつ)な気分にさせるのは、毎日の生活用水のことだ。
 それは、”人間は空気と水がなければ生きていけない”という、生きるための大前提を日々実感させられているからだ。
 こちらに戻ってきて、もう一月近くにもなるが、井戸の水が干上がったままなのだ。
 5mの浅井戸の水位が50㎝足らずしかなく、吸い上げ管の先端はその辺りだから、井戸ポンプは水を吸い上げることができないのだ。
 そこで、もう数年以上前のことだが、井戸掘り屋さんに来てもらって試し掘りをしてもらったのだが、この辺りは大昔からの火山灰が、高い地層となって降り積もっていて、それ以上掘っても地盤が弱く泥ばかりで管を打ち込めないとのことだった。

 それならば、離れたところで新しい井戸を掘るか(それで水が出るかどうかは分からないが)、それとも近くまで来ている公共水道から分水してもらうか、いずれもしても相当なお金がかかるとのことで、老い先短いこのじいさんは、もう先がないのにそんな無駄なことをしてもと、二の足を踏んでいて、今のところは、頭を下げて水もらいに歩き回ることにしているのではあります。

 さらに毎日の生活では、顔は洗わない、歯磨きコップは三分の一に、食器洗いは二度三度と水が濁るまで使い、最後の水は植え替えた草花にやることにして。
 風呂屋には足しげく通い、食事はなるべくコンビニ弁当やインスタントものにすること、などを続けているのだが。
 しかし、こうした水をけちけち使う生活というのは、実は長い間すでに経験済みのことであり、不便ではあるにせよ、初めてのことでとても耐えられない不便さというわけではないのだ。 
 というのも、こうした水不足の生活は、長期間にわたる山脈縦走の山旅で、いつも味わってきたことでもあるのだから。

 ところで、そんな水不足の家でも、周りの木々は繁り、草花は咲き続けている。 
 ただし、前回書いたように、シカに幹をかじられたのがもとで、リンゴの木が枯れてしまい、仕方なく切り倒したという話をしたが、それでも下の方の比較的太い幹の部分だけは、切り残しておいた。
 というのは、洗濯物はコインランドリーで洗うとしても、乾燥は自然の日光で乾かすのが一番だと思っているので、その木の残り杭はロープをつなぐ柱として利用できると思ったからだ。
 そして、その杭の上に、一羽のシジュウカラがたびたび来てはとまっていた。(写真下)




 そして、しばらくあたりを伺った後、私が家の中から見ていると、こちらの窓の上の方に向かって飛び上がって来た。
 どうやら、その窓のひさしのすき間を見つけて、巣作りを始めているようだった。
 もともと、人家などに小鳥が巣をかけるのは、そう稀なことではなく、ツバメが玄関先の軒下に巣をつくるのは、もはや彼らの習性となっているほどであり、他にもスズメやセキレイの仲間、そしてこのシジュウカラなどの話はよく聞くし、別に珍しいことではないのだが、一方では心配もある。
 
 それは、”朝顔につるべ取られてもらい水”(家の井戸水をくみ上げるツルベの綱に朝顔のツルが巻き付いて、それを取り外すのも朝顔がかわいそうだし、井戸のツルベにからみついて咲く朝顔という風流な光景も見られないから、他所の井戸に行ってもらい水をしている)といったたぐいの人情話としてではなく、私にはただ雨戸が閉められないだけの話で、別に構わないのだが、むしろ巣作りした後の外敵が心配なのだ。 
 つまり、今までには、庭の生け垣に巣作りをしていたアオジの卵を、ヘビがひと呑みにしている所を見たことがあるし、屋根の上まで上がってきて日向ぼっこをしているヘビを見たこともあるから、今のシジュウカラの巣の所まで上がってくることもあるだろうし。
 さらにもう一つ、先日、窓の外で大きな物音がしたので見てみると、何と野良猫が一匹、雨戸の上に駆け上がった所だった。
 それはすぐに追い払ったのだが、などといろいろな心配もあるからだ。
 親にとっては、卵からヒナになって、無事に巣立ちするまで、ひと時も心安らぐ時はなく、面倒を見続けているというのに・・・。
 
 そうしたこととは遠く離れた人間の世界で、先日テレビに映し出されていた、無邪気に笑うかわいい小さな女の子の写真・・・義理の父と実の母に虐待されて、”ゆるしてください、おねがいします”とおぼえたばかりの字を書いて、やせ細ってひとり死んでいったわずか4歳の女の子・・・。
 新学期が始まって、学校から家に帰る途中、若い男のクルマに引きずり込まれ殺されて、線路に投げ出された、まだ7歳の女の子・・・。
 この朝の大阪の地震で、大好きな学校に行く途中、その小学校のプールのブロック塀が倒れてきて、その下敷きになってしまった9歳の女の子・・・。

 そこに、周りの人々の記憶だけが残されて、本人自信の記憶のすべては、その時点で消え去ってしまう・・・何と残酷に、幼いうちに人生が終わってしまうことだろう。
 つまり、生きているということは、お互いの記憶の積み重ねの中にこそあるというのに。

 いっぽうで、この年までいたずらに馬齢を重ねて、生き延びてきている私たちは、偶然と幸運の奇跡的な連続の中で、今まで生かされてきたのだ。
 曇り空の寒い日が続き、井戸水の出ない日がいつまで続くのかもわからず、けがをした脚の不安が残るまま、何もない日々の毎日であったとしても、その小さな静かな日々の記憶は、ありがたくも続いているのだ・・・その日までは。

 いつもあげる、ローマ時代の思想家弁論家であった、あのセネカ(B.C.4~A.D.65)の言葉から。

 ”生きる術(すべ)は生涯をかけて学び取らねばならないものであり、死ぬ術は生涯をかけて学び取らねばならないものである。・・・。
 人間的な過誤を超越した偉人の特性は、自分の時間が寸刻たりとも掠(かす)め取られるのを許さないことなのであり、どれほど短かろうと、自由になる時間を自分のためのみに使うからこそ、彼らの生は誰の生よりも長いのである。・・・。
 時間を残らず自分の用ためだけに使い、一日一日を、あたかもそれが最後の日でもあるかのように管理する者は、明日を待ち望むこともなく、明日を恐れることもない。”

(『生の短さについて』セネカ著 大西英文訳 岩波文庫)

 現代の倫理観が、”誰かのために生きること、誰かのために奉仕すること、そしてそこに喜びを見い出すこと”であるということを、十分に理解しながらも・・・いつしか、自分が生きていくこととはと考えてしまう・・・。


願わくば花の下にて

2018-06-11 22:36:03 | Weblog



 6月11日               

 前回に続いて、わが家の庭を飛び交うチョウたちの話である。
 その頃は気温も高く、花々も咲き乱れていて、その赤と黄色のレンゲツツジの花の蜜を求めて、一度に五六匹のミヤマカラスアゲハが舞い、二匹のキアゲハもそこに加わり、サカハチチョウやクロヒカゲなどもそれらの間をぬって飛んでいいた。 
 このレンゲツツジの周りを囲むように生えている、チゴユリの葉の上にとまっているのはサカハチチョウ(写真上)だが、その鮮やかな羽を見ていると、中央部にある白い逆ハの字が、その名前の由来になったというのがよくわかる。(これは春型で夏型ではもっとはっきり八の字がわかる。)
 日本の昆虫や草花たちにつけられた名前は、今の時代になっては理解しがたいものもあるが、なかにはなるほどとうなずける場合もあり、ある意味では、日本語の歴史を感じさせる生きた証拠ともいえるだろう。

 さらに、このサカハチチョウと同じように、わが家の庭で多く見られるチョウには、他にもクロヒカゲがある。
 いずれも、日本では比較的にどこにでもいるチョウなのだが、いつもあまり人を恐れずに、私の体にもよくとまることがあって、その時はさかんに触診して何か吸っているようにも見えるのだが、下の写真では、私のズボンのひざにとまっていたので、そのまま手に持っていたカメラでのシャッターを押しただけのことなのだが。(写真下)





 そしてしばらくの間、私はそのレンゲツツジやチゴユリの花のそばに座り込んでは、入れ代わり立ち代わり忙しく飛び回る、チョウやトラマルハナバチたちの動きを眺めていたのだが、確かに一か所にとどまらずにあわただしく動き回る様子からは、そこに何らかの目的や法則があるものなのかと考えさせられてしまうのだ。
 そうした私たちが抱く小さな興味から、無限に広がる昆虫観察の世界を私たちに教えてくれたのが、あの有名なファーブル(1823~1915)であるが、その『昆虫記』(岩波文庫)を全巻揃えておきながら、まだそのうちの何章かを読んだだけにすぎなくて、とうてい最後までは読み通せないだろう。

 こうした植物から生き物、自然現象にまで及ぶ、広大な自然科学の世界には、あちらこちらにと興味深い分野があるものの、結局はチラ見しただけで、どれ一つ深く勉強、研究するまでにはいたらず、何事も浅く広く知っただけになってしまった。
 しかし、考えてみれば、一つの物事を極めれば他の物事に関してはおろそかになってしまうのだから、むしろ私のように、ぐうたらのどっちつかずで、一つのことに専心し深く考えることのできなかった人間ほど、むしろ俯瞰(ふかん)的に対極的なものの見方ができるようになるのではないのかと、自分の都合のいいように、自己弁護して考えてみたりもするのだ。

 ところで、上の写真にあげた個体ではなく、別のクロヒカゲの一匹が、先ほどから長い時間、レンゲツツジの花の中に体を入れたまま、動こうともしないのだ。
 大体において、チョウは動きが早くて、あまり一所にじっとしていることはないのだが、そのクロヒカゲは、先ほどからもう数分もの間、その奥まった花びらの中にじっといるのだ。
 いろいろな状況を考えてみたが、結論はつかずに、思い切ってそのレンゲツツジに近づいて、小枝をかき分けて目の前で見ようとしたその瞬間、チョウは飛び去って行ってしまった。

 そこで私の考えていた結論の一つ、”もう死んでしまっている”という予測が外れて、それはよかったのだけれども、もう一つの結論、生きているのなら、夢中になって蜜を吸い続けているのか、それとも花の中に取り囲まれていて、うっとりとした思いになっていたのか。
 そして実はこの最初と最後にあげた予測こそが、私がこの花の中のチョウを最初に見て、すぐに感じた思いだったのだ。
 
 私は一つの情景を、ある一つの夢想的な世界の光景へと思い募らせていく、”夢見がちなじいさん”としての性癖(せいへき)がある。 
 もっとも若いうちなら、それも許されるだろうが、この年になってもまだ少女漫画のように瞳を輝かせていれば、若い娘たちからは、”まじ気持ちワルいんだけどー”と非難を受けそうだが。
 私がその時に、夢想した光景は、”チョウが花の香りの中に包まれて、ここを自分の終焉(しゅうえん)の地と決めて、穏やかに死んでいく”ということだったのだ。

 これは言うまでもないことだが、あの西行(さいぎょう)の辞世の歌だと思われるようにもなった、有名な歌を思い浮かべたことによるものなのだが。

 ”願わくば 花の下にて 春死なん その如月(きさらぎ)の 望月(もちづき)のころ”

 一般的に、チョウの羽化後、成虫としての寿命は二三週間から数か月までと幅広いそうだが、このクロヒカゲの場合、その寿命が短いとしても、今の花々の盛りの時期に、自然死することなどあまり考えられないことなのだが。 
 いずれにしても、私のはかなき夏の白昼夢ではありました・・・。

 ところで、日々は移りゆき、前回書いたように、この北海道は十勝地方でも、気温が30℃を超える日があったりして、すっかり夏を思わせる暑い日が続いていたのだが、数日前からあの夏の空気が一変して、冷たい空気に入れ替わり、この三日ほどは最低気温が5度前後にまで下がり、再びストーヴの火をつけるほどであり、昨日はいくらか晴れたので15度近くまで上がったのだが、一昨日と今日は天気も悪くて、最高気温が10℃を下回り、春先の寒さになっているのだ。

 あれほど耳を聾(ろう)するまでに鳴いていた、エゾハルゼミの声がぴたりとやんでしまい、その林の中からは他の野鳥たちの声一つさえ聞こえない。
 もちろん花の盛りを過ぎたレンゲツツジのまわりにも、一匹のチョウの姿さえ見えない。
 二三か月前の春先のような、この寒い気温の中で、家の周りの昆虫や生き物たちも声を潜め、それでも生きていかなければならない。

 三日前に降った激しい雨は、一時的なにわか雨で20㎜にも満たなくて、それは井戸水の水面を2㎝押し上げることにはなったのだろうが、干上がり寸前の井戸の水を満たすべくもなかった。
 まだまだ、水もらいに出かける日々が続くということだろう。
 それでも自然界の草花たちにとっては、今回、適度なお湿りを受けたことで、多少寒くとも生き生きとしているように見える。
 家の周りの日当たりの良い林のふちでは、スズランやヒオウギアヤメが咲いていて、光がこぼれるだけの林の中には、ベニバナイチヤクソウの群落が広がっている。(写真)

 何事にも不遇な時があり、耐え忍ぶしかない時があるものだ。
 しかし、そうした暗い空がいつまでも続くわけではない。
 その間にも地球は回り続けて、私たちすべての時を刻み、やがては、暗闇の中から明るい光のきざはしが差し込んでくることだろう。その時までと、待つことだ。

 ”Just binding my time”という声が聞こえてきた。
 まだ若いころの話で、当時の愛別離苦の思いもよみがえってくる・・・。
 東京で働いていたころ、音楽雑誌編集の仕事をしていて、その仕事とは別に、私的にも洋楽レコードを聴くのが好きで、週末になると輸入盤レコード探しに明け暮れていたのだ。
 ジャンルはクラッシックからジャズ、ロックと幅広く、その中でもジャズ女性ボーカルがお気に入りだったのだが、ふと聞いたFMラジオから流れてきた、カナダ生まれの歌手アン・マレーの、カントリー・ウェスタン調の素朴なアルトの歌声に魅了されてしまって、当時、東芝EMIから発売されていたアルバム数枚を買込んで聞いたほどだった。
 その後も、輸入盤を探すほどにはまっていて、カナダ時代のまだ初々しさの残る彼女のデビュー盤を見つけた時には、宝物を見つけたような気分になったものだった。

 当時の大ヒット曲「スノーバード」のB面にあったのが、この「時節を待って(Just bind’ my time )」だったということは後になって知った。
 そのアン・マレーのレコードが、今手元にはないので、詳しいことは書けないのだが・・・あの彼女の歌声が今も耳元に聞こえてくる・・・。



春から夏への北の国から

2018-06-04 21:45:54 | Weblog



 6月4日

 菜種畑の広がる(写真上)十勝の春は、またたく間に気温が30度を超える夏へと移り変わっていく。(今日の帯広の気温は34度!で、今年の全国での最高気温だとのこと。)

 草花は、まさに”爆発的”な勢いで生い茂り、生き物たちはうごめき飛び交い、いつもの春から夏への確かな季節がここにはある。
 変わらずに、一年を繰り返す同じようなもの、その長く慣れ親しんできた風景に囲まれ、時には厳しい自然環境の中でこそ、私たちは生かされ生きていけるのだろう。

 もちろん、そんなふうに考える、こざかしい人間たちの知恵などとはお構いなしに、自然界に生きる者たちは、お互いの生本能の競い合いの中で、成長し膨張し、そしていつしか消え去っていく。
 ”自然の摂理”と呼ぶには、あまりにも単純な”光と影”の結果があり、それこそが有無を言わさぬ生と死の現実の舞台なのだろう。

 そうなのだ、前回書いた『ルバーイヤート』の詩のように、思い悩んでみたところで何になるというのだ。
 今生きている、あふれ来る生の喜びに感謝しつつ、来るべきその日まで、その生の旨酒(うまざけ)を味わいつくそうではないか。

 北海道に戻ってきて10日あまり、長い間留守にしていた”そこにポツンと一軒家”状態のボロい山小屋で、これからそこで私が生活していくためには、それ相応の対応仕事をしていかなければならない。
 前回も書いたように、まずは一刻の余裕もなく、すぐに取りかかなければならないタンポポの抜き取りだけでなく、あのセイタカアワダチソウやササも見つけ次第引き抜いていくようにしているし、今や葉の広いフキやコゴミにウバユリさえも、庭や道端に侵入してきていて、それらも併せて取っていかなければならない。
 そうした草花の引き抜き刈り払いと、伸びすぎた芝生の刈りこみを、草刈りガマ一丁でやっていくのだから、およそ一週間もかかってしまった。

 数十本はあるチューリップは、こちらに戻って来た時にはもうほとんど盛りを過ぎていて、花を楽しむ間もなく、すぐに上の花房を摘んでしまわなければならなかった。
 シバザクラも今が盛りだったが、入り込んできた芝生の勢いに負けそうになっていて、それを分別しながら草取りをしていくべきなのだが、こうなった今では無理な話で、半ばあきらめつつもその草取りをやめるわけにはいかない。
 自然に生えてきて、今や小道のまわりに群生しているチゴユリや外来種のフランスギクも、これ以上は増えないようにと引き抜いて行かなければならないし。

 さらに庭木については、結局、シカに幹をかじられたライラックの木は2本ともすっかり枯れていて、切り倒してしまったのだが、今までに植えたライラックは4本で、そのすべてがシカの食害にあい、もうこれでは家の庭に苗木を植えても、無駄になるということで、あきらめるほかはないのだ。 
 さらに、リンゴの木の立ち枯れも、始まりはシカにかじられたことによるし、手当はしたものの年毎に樹勢は弱まり、今年も新緑の芽は出て花は咲いていたのだが、この日照り続きで枯れてしまって、もうこれ以上は無理だからと、切り倒してしまった。

 もっとも庭木なんていうものは、最初から生まれ育った環境が違う所のものを移植するのだから、もともと無理があるし、庭に植えるものは、この家の周りに生えている木たちにするべきだということなのだろう。
 というのも、家の周りの林のふちにあるミズキの木が、今年はより見事な白い花をいっぱいに咲かせてくれているからだ。(写真下)


 それまでは、この写真の右隣にあるナナカマドの木が同じような白い花を咲かせていたのだが、2年前の湿った大雪で幹ごと折れてしまい(ミズキの木もまだその時の被害を受けて少し傾いているし)、勢いは弱ってしまったが、それでもまだ葉は繁っていて、白い花になる前の赤いつぼみも見えているし、家の林の中では数少ない春の見ものの木なのだ。

 もちろん、これらの草木だけでなく、家自体や車庫に薪(まき)小屋などもあちこち修理すべき所があるし、その気になれば、やるべき仕事はいくらでもある。
 ただこうした仕事は、当然のことながら、自分の力だけではどうにもならないことがある。
 前回も書いていたように、井戸の水位がすっかり下がってしまっていて、いまだに水が出ないのだ。
 こうして天気のいい日が続いていることは、本来”お天気や”な性格の私には、喜ばしいことなのだが、たった一日雨が降って、それも20㎜ほどでは、井戸の水位に影響はないし、相変わらず隣近所の農家に水もらいに出かけるしかないのだ。

 トイレは、もともと”おがくず垂れつぼ式”であり、かつ家の周りの”どこでもトイレ”での立ちション式だから、いいとしても、風呂は1週間に二回ほど近くの施設に行くことにして、さらに洗濯ものはため込んでおいて、二三週間に一回街のコインランドリーに持って行くようにしているから、それらはなんとかがまんできるとしても、毎日の台所の水回りすべてが、灯油缶に入れてきた水を少しずつケチって出して使うしかないから、その不便さにはほとほとうんざりする・・・そして、さらにしばらくは雨の予報も出ていないから、いつになったら蛇口をひねって井戸からの水が出るようになるかはわからないのだ。

 しかし、とは言っても、私は北海道が好きだし、ここにいることが好きなのだ。
 あふれる緑、セミの声、鳥の声、遠くでカッコーの声がして、朝夕にはキビタキのさわやかなホイッピリリと鳴くさえずりが聞こえている。
 今が盛りの、レンゲツツジの花のまわりを飛び交う数匹のミヤマカラスアゲハ(写真下、左下にもう一匹の羽が見える)、今日は熱気のために山影がかすんでいるけれども、延々と連なる残雪模様の日高山脈、そして何よりも静けさがあり、家の中にいれば、今日はここでも31度を楽に超えたが、丸太の壁が断熱効果を発揮して、室内では22度くらいで長袖でないと寒いくらいだ、暑がりの年寄りには何とありがたいことか。

” 聞け 山人参(やまにんじん)の匂いのする庭の
 桃の木の上で、鶯(うぐいす)の歌う声を。
 
 歌は空気がその中で
 わななきながら浴(ゆあみ)する澄んだ水のようだ。

 ・・・。

 私どもの幸福には50フランが不足だが
 あきらめよう。

 すべて足りたその上に
 立派な心を持つなんて無理というもの。

 ・・・。"

(『ジャム詩集』より「聞け」フランシス・ジャム 堀口大學訳 新潮文庫)

 そうした日々を過ごしながら、私はいまだに山に登りたいという気にならないでいる。
 一つには長時間歩行には、まだ少し痛みの残る脚が耐えらるだろうかという心配があり、もう一つには、北海道の残雪期の山にはほとんど登っていて、切実に登りたいという山があまりないからでもあるが、それでも来るべき内地遠征登山のためには、今から足を慣らしておかなければならないのだが。
 前回の九重山への登山から、もう2か月もたとうとしているのに。
 しかし、かといって焦ることはないのだ、体力的に衰えて年寄りになりつつある自分と、残された日々が少ないことを考え併せたとしても、これからは次第に登ることのできる山が少なくなっていき、ついにはもう歩くことができなくなる日が来たとしても、何も悲しむことはないのだ。
 ひとり山に登るという私の思いは、それが自分の人生にも重なっていて、何も後悔すべきことはないのだから。
 まだまだこれからも、未知なる山への思いは抱き続けたいし、それが生きていく意思の大きな一つでもあるのだから。

” かぎりなくさびしけれども
 われは
 すぎこしみちをすてて
 まことにこよなきちからのみちをすてて
 いまだしらざるつちをふみ
 かなしくもすすむなり

 __そはわがこころのおきてにして
 またわがこころのいずみなれば
 ・・・。”

(日本文学全集19『高村光太郎集』「道程」より 集英社版)