ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

このひと時のために

2019-10-29 21:54:48 | Weblog




 10月29日

 いい季節だなあ。
 私の苦手な、あのべっとりとまつわりつく夏の暑さが終わり、厳しい冬の寒さが来るまでには、まだ時間があり、青空高く天空が広がり、林の木々が色鮮やかに色づくころ。
 9月10月とそれぞれ一回だけ行った、山々の紅葉とはまた違う、丘陵地の林の中の紅葉。
 山に行って見る時の様な、一過性の紅葉ではなく、毎日少しづつ色づき変わっていく様を、また晴れた日に、そして、雨の日曇り空の日でもその色合いが変わっていく様を、そんな自宅林の樹々の色の変化を、毎日毎日、微に入り細に入り観察できることの楽しさ・・・こうして毎年、変わらずに私の目を楽しませてくれる、自然が身近にあることこそ、今ではそれが、私が生きて行く上での、大きな生きがいの一つになっているのだ。

 もちろん、自然はその景観の素晴らしさを、私たちに見せてくれ楽しませてくれるだけではなく、逆にひとたび強大な力となって荒れ狂えば、私たち弱い人間は、その被害をまともに受けては、苦しむことになる。
 三度もの、台風による強風と豪雨に繰り返し襲われた、房総半島の各市町村の被害の惨状、さらには一部のリンゴ園が壊滅状態になった長野千曲川流域、そして茨城・福島・宮城の農村部の被害などなど。
 こうした、自然災害を受けた被災者たちの心情を思うと、紅葉がきれいだ月がきれいだとかいった、”花鳥風月”の雅(みやび)な世界などに浮かれていてはいけないのだろうが、しょせん人間は、いつも言っていることだが、アフリカのサバンナにいるヌーたちと同じようなもので、その群れの一頭が、ライオンに襲われて食べられているところを遠巻きにして見ている、他のヌーたちの思いと同じことで、同情はするけれども、自分でなくて良かったと思うのが本音のところだろう。
 生きている者たちはすべて、自分の身に災いが降りかかってきて、初めて自分のこととしての痛みに気づくのだ。

 ただ私たち人間は、そこに天文学的格差があるにせよ、それぞれに多少の蓄えがあり、それを個人の財産の差によって、寄付金ということで一系統に集約し、その募金を被災者たちに分配することはでいないものだろうか。
 今の、各団体各会社等によるばらばらの寄付の呼びかけではなく、それこそチーム日本としてのまとまりで、こうした未曽有の災害には対応するべきではないのだろうか。
 公共事業は政府や地方団体の責務だとしても、個人の生活保障などについては、同じ国民としての私たちがともに痛みを分かち合い、それぞれの年収に応じて、多少なりともの寄付金を出すべきではないのだろうか。

 高齢者健康保険や高齢者介護保険が、あれほど見事に、働く人々すべてで支えるべく制度化されたように(ほとんど利用しない私たちには高すぎるが)、自然災害に関しても、同じようにすべての国民が加入すべき、災害保険として制度化することを考えたらどうだろうか。
 もちろん収入の差によって、高額所得者ほど割高になるべく算定化するのは当然のことだが。
 それでも、あの高度な社会保障制度が整えられた、北欧の国々と比べれば、まだまだ負担率は低い方で、受け入れられないほどの金額にはならないと思うのだが。
 それに比べて、貧乏人やお金持ちからも同じ率で税金をかける消費税が、いかに理屈に合っていない課税制度なのかと、ここでも考えてしまう。

 私たちは、見事な狩りをするライオンたちの目線ではなく、その他大勢のヌーの集団目線に立って、集団安保の役割を考えてみるべきではないのだろうか。
 かくいう私は政治家ではないし、日ごろから生臭い経済の話をするのは避けているほどで、元来がぐうたらな毎日を送っている私には、”あっしにはかかわりのないことでござんす”と、だんまりを決め込んでいたほうがいいのだが、連日報道される被災者たちの声を聞いていると、高齢者の中には、このまま仕事をやめるという決断をされた人もいて、つらい気持ちになってしまったのだ。

 さらに、これもまた関連のあることなのだが、先日NHKのドキュメンタリー番組 ”プロフェッショナル 仕事の流儀 吉永小百合”(74分)を見た。
 私たち同世代の人間にとって、彼女は今でも”さゆりちゃん”と呼べる存在なのだが、その吉永小百合に、NHKは新作映画撮影に合わせて、10か月にも及ぶ密着取材を敢行して、”今の吉永小百合(74歳)”の姿を撮ってくれていたのだ。
 彼女は、今ではもう”最後の映画スター”としての印象が強いのだが、ジムに通いトレーニングする姿や、スタッフたちと歓談するさまには、映画俳優としては素人(しろうと)であり続けたいという彼女の心構えが、日常の姿として映し出されていた。
 最後に、この番組の若いプロデューサーが、”どうしてこの番組で長期間密着取材することを許してくれたのですか”という問いに、彼女はしばらくの時間をおいて、「女優としての仕事はやっていきたいけれど、私もそろそろ自分の幕引きを考えなければと思って・・・」。

 人は最後まで、生きる力がある限り、自分の与えられた仕事を続けていきたいのだ。
 しばらく前にあったことだが、ガンにかかって自分の余命が少ないこともわかっていた医師が、その日が来るまで、医師としての仕事を全うしていたというし、今日の夜のニュースでは、ガンの病魔に侵されながら映画を完成させた大林宣彦(のぶひこ)監督(81歳)の姿が映し出されていた。
 思えば、私の友達たち何人もが、とうに引退してのんびりと暮らしていてもいい歳になっているのに、相変わらずに家業の店の仕事を続けている。
 それに比べて、私は、ただぐうたらな自分だけの毎日を送っている・・・モミジがきれいホーヤレホー、雪が降る降るずんずん積もる、春の小川はさらさらいくよ、私の頭も”おつむてんてん”ちょうが舞う。

 吉永小百合の思い出に残る映画は幾つもあるが、なんといってもあの『キューポラのある街』(1962年)での若い娘役が素晴らしかった。
 何人もの子供を産んだ私の叔母さんが、つい言ってしまったのだろうが、”あんなかわいい子が自分の子供だったらねえ”、その時、ぼうぜんとして、自分たちの母の言葉を聞いていた子供たち。
 映画『海峡』(1982年)での、互いに涙を流して高倉健と見詰め合うシーンは、映画史に残る名シーンだと思う(映画自体としては今一つだったが)。
 多くの俳優たちが、自分の仕事について同じように言うのは。自分とは違う人生を、その人になりきって演じることができるからだということ。

 さらに一つ、一時期、彼女と同じ学校に通っていた私は、何度か彼女の姿を見たことがあったが、彼女は二部(夜間科)であり、そうたびたび出会えることはなかったのだが、ある時、彼女は空き教室でひとり本を読んでいて、しかし私は、そんな彼女を見ながらも、近づくことさえできなかった。 
 それは、当時の学生たちみんながそうであったように、すでに映画スターであった彼女をそっとしておいてやろうという気持ちが強かったからでもある。
 ちらりと見た、姿勢正しく座って本を読んでいた、あの彼女の横顔、古今の絵画には、それぞれの画家が描いた『本を読む娘』という題の絵が何枚もあるが、あの時の一瞬の絵は、私の視線の額縁となって切り取られて、私の『本を読む娘』となって、今なお鮮やかに脳裏に残っている。

 そしてさらに、これはどうしても、この一週間の出来事として、書いておかなければならないことだが、W杯ラグビー準決勝でのイングランド対ニュージーランド、ウェールズ対南アフリカ。
 それぞれ80分の試合時間の間、テレビ画面から目を離すことができなかった。
 それぞれに、19-7に16-19というスコアが示すような大接戦で、いずれも予想を覆してのイングランドと南アフリカの勝利だったのだが、両チームともにそれぞれが自分の身体能力の限りに、一人一人が”one team"という思いにあふれていて、最後に勝敗のカギを握ったのは、両チームのヘッドコーチの作戦の組み立て方にあったように思うが。
 それにしても実力が拮抗(きっこう)した、いい試合だったし、そこでふと思い出したのは、亡き映画評論家、淀川長治さんの言葉である・・・”若い時にこそ、いいものを一流のものを、たくさん見ておきなさい。”・・・と、じじいになった私は思い出すのでした。

 一気に寒くはならないけれど、朝の冷え込みは0℃くらいにまで下がり、家の林の紅葉は今盛りの時を迎えている。
 初めに、コナラやカシワなどの葉が黄色(冒頭の写真)や赤に変わってゆき、たちまちのうちに枯れた褐色になってしまった。
 家の裏手に並ぶ、モミジの樹々には、まだ緑色の葉も見られるけれど、同じ木でも葉先がもう縮んでしまい枯れかかっている葉もあるが、全体に太陽に透かして見れば、今を盛りの紅葉色だ。(写真下)

 毎年の、この一刻(ひととき)のために、いつまで続くのかわからないこの一瞬のために、私は生きていたいと思う。




  


紅葉の残り香

2019-10-22 21:08:05 | Weblog




 10月22日

 前回、前々回と2回にわたって、東北の焼石岳の紅葉について書いてきたのだが、今回書くのは、山のことではなくて、ただ事の始まりはそのころなのだろうと思っているのだが、めったなことでは風邪をひかない私なのに、久しぶりに風邪をひいてしまったのだ。

 それは”年寄りに冷や水”の例えのごとく、実に1か月半ぶりに山に行き、往復8時間にも及ぶ登山という激しい運動をして、体力を消耗させていたからなのか、まず喉にきて、次に頭にきて、最後に腹にきた。
 風邪をひくと、その人の常日頃から弱い部分が、まずやられるというが、確かにあまり人と話す機会も少ない私は、例えば、明石家さんまや上沼恵美子のように、しゃべくりまくって無意識にでも喉を鍛えているわけではいないから、時々誤飲でせき込むこともあるくらいに喉は弱いし、この歳になっていまだに、こんな山の中で貧しく暮らしているわけだから、頭も決していいとは言えないし、三食まともな食事をしていないから胃袋の方も丈夫だとは言えず、”腹に一物、背中に荷物”というぐらいに、他人から見れば、何を考えているかわからないタヌキおやじだから、まあ”風邪をひくと、そうした私の弱点がすべてさらけ出される感じになるのだろう。

 それでも、何とか風邪の症状を軽減したいからと、風邪薬を飲んだのだが、次の日の朝から、風邪の症状は治まってきたのだが、何と出るものが一滴も出なくなってしまったのだ。
 15分おきぐらいにくる、出したくても出すことができない苦痛をまぎらすために、ただ家の中を歩き回るばかりで。
 そして、これはもう無理だと、救急車を呼ぶには大げさすぎるし、まだ診療時間前の病院に行くことにするが、さらには、あいにくその日は日曜日で、休日受付の病院を探しては、1時間ほどかかる病院へと自分のクルマで出かけたのだが、途中で街中の店舗のトイレに3回も寄って、それでも出なくて、あぶら汗を浮かべながら、やっとのことで指定病院にたどり着いたのだ。

 そして、しかるべき処置をしてもらい、溜まっていたものを解放・・・あの洗剤のコマーシャルのように、さわやかな風が体内を吹き抜けていくようで。
 私の病院嫌いは、母から受け継いだのだろうが、めったなことでは病院の御世話になることはなくて、もちろん外科的な外傷などの原因で治療を受けたことは何度もあるのだが、いわゆる内科の病気などでの、治療入院などの記憶がほとんどないくらいなのだ。
 しかし、今回はこうして、たまらずに駆け込んだ病院で見事に処置してもらい、病気を治してもらうありがたさを強く実感したのだ。
 そこで言えるのは、家でうじうじと痛みに耐えているよりは、ともかくすぐに病院に行って治してもらった方がいい、という単純な結論なのだが、私はそれまで、病院に行けば、いつもやっかいな病気を背負い込むような気がしていたのだ。
 もちろん、こうした年寄りが増えるから、老人の治療費がかさむことになり、国や自治体の負担が増えて、ひいては若い人たちの負担割合も増えることになるのだが。

 しかし、今回のことですべてが万事解決したわけではない。
 これからも、治療薬を飲んだりして、この老人病とは長く付き合っていかなければならない。
 つまり、これは、生きとし生ける者たちすべてに訪れる、それぞれの人生の終末を告げるラッパの響き、あの7人の御使いたちが吹くラッパの音、最初の始まりとして吹き鳴らされる、第一の御使いの吹くラッパの響きだったのかもしれないのだ。

” 小羊が第七の封印を解いた時、半時間ばかり天に静けさがあった。
それからわたしは、神のみまえに立っている七人の御使を見た。そして、七つのラッパが彼らに与えられた。
・・・。
そこで、七つのラッパを持っている七人の御使が、それを吹く用意をした。
 第一の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、血のまじった音と火とがあらわれて、地上に降ってきた。そして、地の三分の一が焼け、木の三分の一が焼け、また、すべての青草も焼けてしまった。
・・・。”

(『新約聖書』「ヨハネの黙示録」第8章より)

 しかし、こうした病気や終末の始まりの話をしていたところで、時の移ろいと限りある時のありがたさを知ることはできても、新しい展望への道が開かれるわけではない。
 大切なことは、生きている自分へ、今ある生の充実を図ることだ。

” 遊びをせむとや生まれけむ
 戯(たわぶ)れせむとや生まれけむ
 遊ぶ子供の声聞けば
 我が身さえこそゆるがるれ ”

(『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』四句神歌より 日本の古典 小学館)

” いのち短し恋せよ乙女
 赤き唇あせぬ間に
 熱き血潮の消えぬ間に
 明日の月日はないものを ”

(「ゴンドラの唄」吉井勇作詞 中山晋平作曲 松井須磨子歌)

 誰でも、子供には子供の間の大切な時間があり、乙女には乙女の間の大切な時間があり、大人には大人の、そして年寄りには年寄りの大切な時間があるものだ。
 それぞれに、求めるものは幸せな時間であり、そこに楽しいことがあり、心地よいと感じるものがあり、その中にいることこそが、人が本能的に求めるものなのだろう。
 このことは、前にも何度も取り上げてきた、あの古代ギリシアのエピクロス学派の、いわゆる快楽主義的な主張をそのままに繰り返しているわけではなく、人間の性分の一つとして、そういう性向があり、それは、自らのセラピー(いやし)となるものを求めようとする、人間の本能の一つなのかもしれない。

 この思いがけない出来事で、一時は慌てふためいたものの、考えてみれば、これは、年相応の自分の体の経年変化の症状の一つであり、それを受け容れることで、残された時のありがたさを強く感じることもできるのだ。
 去年は、事情があって早くこの北海道を離れることになり、わが家の林の紅葉を見ることができなかったが、今、林は黄色く色づき始め、赤い色も混じり始めてきた。
 思い返すのは、あの焼石岳の、豪奢(ごうしゃ)な錦の織物の広がりだ。
 二回にわたって、ここに載せてきた写真だけではとうてい足りない、あの錦の饗宴(きょうえん)・・・。

 そこで今回は、望遠レンズで切り取った写真を、3点ほどあげて、再び自らの愉しみにすることにした。
 それはつまり、写した本人だけが知る、その写真の前後左右に広がっていた光景として、思い返すことができるからだ。それも、その時々に撮ってきた写真があるからこそ、なのだ。

 じいさんは好奇の眼(まなこ)を一杯に見開き、右に左に、上に下に、遠く近く眺めまわしては、ニヒニヒと薄笑いを浮かべながら楽しむのでした・・・。

(冒頭の写真は、焼石岳山頂下から見た泉水沼。下の写真は、横岳西斜面の紅葉。その下の写真は、焼石岳と西焼石岳との間に挟まれた西焼石平とでも呼びたい所だが、沢登りで行く以外道がない。)






 この3回は、とうとう焼石岳の紅葉の写真ばかりになってしまった。
 確かに、それほどまでに、山の紅葉が印象的だったからではあるのだが、書くべきことは他にもいろいろとあったのだ。
 例えば、いまだに台風19号による水害の被害が増え続けていること、その時何があったのかという話の一つ・・・家が水につかり始め、さらに水かさが増していく中、足が不自由で水の中で動けないお父さんが、差し伸べられていた妻への手をゆるめて、”長い間世話になったな”と言い残して、水の中に沈んでいったという・・・。

 W杯ラグビー、日本対スコットランド、ぎりぎりのオフロード・パスをつなげて、何とそれを受けたフォワード・プロップ(フォワード最前列)の稲垣がトライしたこと、"one team"の見事な形だった。
 さらに、日本対南アフリカで、敵方のスクラム・ハーフのデクラークの、ひときわ目を引く俊敏な動きと日本勢の出足をくじくタックル、2mを超す大男たちがいる中で、わずか172㎝しかない体なのに・・・ここにもまた”one team"としての適材適所の形があったのだ。

 今日、令和天皇の即位礼の模様が映像で流され、平安時代からの伝統的な衣装と衣冠や髪型に見とれてしまった。それは、私の好きな日本古典文学の、時代背景をほうふつとさせるものだったからだ。

 家の林の中はすっかり、黄葉が進んでいて、そこに赤いサシが入っている紅葉も混じってきた。
 今年はなんとしても、去年は見ることができなかった、あの青空に照り映える赤い色を見たいものだ。

 そして、日高山脈はシルエットになって、茜(あかね)色の大空の中へと暮れなずんでいき、北国の秋は、その盛りの時を迎えようとしていた。






錦繍(きんしゅう)の山(2)

2019-10-15 20:42:38 | Weblog




 10月15日

 テレビ画面に映し出される、台風19号による甚大な被害の惨状と、ラグビーW杯で日本がスコットランドに勝った歴史的な試合・・・と、余りにも大きなことが相次いで起きていて、そんな時に、あくまでも私の個人的な思い出にすぎない、山登りの思い出などについて、今ここに記事としてあげるのは、とためらわれたのだが、冷静に考えてみれば、ここは時事問題に言及する場でもないのだし、あくまでも自分だけの日記帳に書くようなものだし、とりあえず、それぞれの事の重大さを鑑(かんが)みて、水害の犠牲者に黙とうして、一日間を置くことによって、あらためて個人的な日常の記録として、山での出来事を書き残しておくことにした。

 というわけで、ここでは前回の続きである、東北は焼石岳への秋の山歩きについて書いていこうと思う。

 長野や東北などに無惨な爪痕を残した、台風19号が北海道の沖合を通って行った後、その後に張り出してきた高気圧のおかげで、二日前から天気はすぐに回復してきて、今は青空が広がっている。 
 さらに、それに合わせて、北国の季節もはっきりと入れ替わってきた。
 昨日の気温は、0℃くらいにまで冷え込んで、霜が降りていた。
 この三日ほどは、その肌寒い空気のままで、気温も10℃をわずかに超えるくらいである。
 家の周りの林の樹々も、黄色く色づき始め、もう多くの枯葉が庭に散り敷いている。
 この秋、初めて薪ストーヴに火を入れた。
 なつかしく、まだどこかとまどうように燃え上がる炎の色・・・。
 私は2週間前、秋の東北の山にいたのだ。
 そして、繰り返し繰り返し、年寄りの口ぐせのように、あの時の、青空の下の錦繍(きんしゅう)の山々を思い出すのだ。

 私の住む北海道十勝からは、いったん東京に出て折り返す形で、東北の山に向かうことになる。
 その他にも、さまざまな事前手配をすませて、私は快晴の青空の下、焼石岳(やけいしだけ、1548m)への山道を歩いていた。
 前回は、その紅葉の風景に囲まれた泉水沼までの話だったのだが、そこで休んだ後、私は最後の登りである焼石岳山頂への道を登って行った。(冒頭の写真)
 右下に青く映える沼の水面(みなも)と、その先に続く東焼石岳(1507m)への紅葉の帯を眺めながら、ゆるやかに登って行くと、横岳への分岐点になっていて(今は通行止め)、ここで初めて尾根の向こう側に西側の景色が広がり、焼石岳北面の紅葉の斜面と西焼石岳(1511m)の姿が見えた。
 振り返ると、先ほど休んだ泉水沼が見え、さらにずっとその傍を通ってきた横岳が、泉水沼を噴火口とした火口壁のように連なっていて、その右手遠くには、去年登ったあの栗駒山(くりこまやま)の姿も見えていた。(写真下)





 さらに回り込んで行く道の両側には、ミネウスユキソウがいくつも咲いていたが、とっくに時期を過ぎていて色あせていた。
 しかし、頂上のドーム状の盛り上がりになった台地には、低い灌木帯もあって、その中にはハイマツも見えていて、この山が高山地帯にあることを教えてくれていた。
 そして、私は念願の山の頂上に着いた。
 誰もいなかった。
 コースタイムよりは、1時間余りも余分にかかっていたが、それほど疲れているわけではなかった。
 台形状の山頂だから、それぞれの方角に少しずつ歩み寄って、山々の紅葉風景を眺め下ろした。
 東側に東焼石岳(1517m)、北側に南本内岳(1492m)、西側に西焼石岳(1511m、写真下)その上には遠く鳥海山が見えていたが、さらに私がたどって来た南側に連なる横岳方面へとぐるりとめぐる展望。





 ともかくこの四方の風景を眺めていると、私はそのうちのただ一つのルートの紅葉風景を眺めただけにすぎないことを、改めて知らされた思いがした。
 さらには、それぞれのコースに夏の高山植物が咲き乱れるということだから、この焼石連峰の奥深さたるや、とても焼石岳という単独の名ではなく、焼石連峰という山の王国の呼び名こそがふさわしいのではないかと思ったりもした。
 ちょうど昼前の時間だったので、少しずつ登山者が増えてきて、それでも数人だけだったが、そのうちの一人と言葉を交わした。
 彼は私よりは一世代若い感じだが、青森からクルマで来て秋田県側から、南本内岳コースで登ってきたそうだが、私と同じようにこの山は初めてだそうだが、加えて言うには、”生きているうちには、この山には登っておこうと思って”と。

 そうなのだ。私たち年寄りになると、周りの友人知人の訃報(ふほう)の知らせを聞くことが多くなり、”明日はわが身”だと告げられているような気になるのだ。
 さらに、それは自分の体力の衰えとともに、今日明日の問題になってくる。若い時には考えもしなかったことだが。
 ”柴又の寅さん”の名セリフで、”それを言っちゃーおしまいよ”というのがあるが、その映画『男はつらいよ』シリーズの中で言っていたかどうかは定かではないが、”死んじまったら、おしまいよ”という言葉があったような気がして。
 この十年余り、私が特に南北アルプスや白山、御嶽山、屋久島、富士山などの山々に登り続けて、さらには樹氷を見るためだけに蔵王や八甲田に行き、そして今は東北の紅葉の山に執心(しゅうしん)しているのは、まさに彼が言った”生きているうちに登っておかなければ”、という思いからなのだ。
 それは言い換えれば、この世に未練たらたらの、欲深い”ごうつくばりじじい”のあさましい姿なのだが、もうしばらくは生きていたいのだ、八丈島のきょん!

 さて30分余りもいた頂上を後にして、素直に来た道を戻って行く。
 今にして思えば、南本内岳から東焼石岳をめぐって歩いてきても良かったのにと思うのだが、そうしていれば、後述する彼には出会っていなかっただろうし、そうすれば、あの登山口からの林道を歩く羽目になっていたかもと思うと・・・。
 ともかく、帰りも紅葉に囲まれた風景に変わりはなく、行きとは違う視点で写真を撮りながら、草モミジの草原の彼方に続く紅葉の帯を見ながら、ゆるやかに下りて行った。(写真下)



 そして、紅葉が終わって、林の中に入って行く所にある、行きにも休んだ銀明水で水をたらふく飲んで休んでいると、後ろから鈴を鳴らして下りてくるおじさんがいて、あいさつしてザックにつけている長い棒について尋ねたのだが、それまで私は計測関係の用品か何かと思っていたのだが、彼が言うのには、クマが出た時に闘うために持ってきたのだというのだ。
 これだけを聞くと、大げさな準備だと笑うかもしれないが、今年の春先にかけて秋田県側などでツキノワグマによる死傷者が出ていることを考えると、そうも言えなくなってくる。
 そのうえ、山に行くと奥さんに言った時、奥さんは怒って半泣きになって止めたたそうだから、なおさらのことだ。
 彼は、下の登山口までクルマで来たとのことで、せめて途中まででも乗せて行ってもらえないかと頼むと、彼は快くうなずいてくれた。ありがたい。
 そのまま、私が北海道のヒグマの話をしていていたところ、さらにもう一人の同世代のおじさんが降りてきて、そこで年寄り3人で下りて行くことになったのだが、その後から来たおじさんは、途中でもう一つの登山口の方にクルマを停めているからと別れて行った。
 その先は二人で、高山植物や(途中トリカブトやウメバチソウが咲いていて)ブナ林の話などしながら歩いていき、4時には登山口に着いた。

 乗せてもらったクルマの中でも、互いの話が途切れることはなかったし、彼の家は、私が泊まる宿のある街の、隣町にあって、帰るついでだからと言ってくれた彼の言葉に、礼を言い、車を降りる時に、せめてガソリン代にとお金を渡そうとすると、彼は真剣な顔をして、タクシーではないのだからと断った。
 私たちは、そこで初めて互いに名乗りあっただけで、固い握手をして別れた。
 いい東北の男だった。

 タクシー代が助かったことが、うれしかったわけではない、当初は帰りもタクシーで町まで戻るつもりでいたのだが、私の遅い脚と、タクシーとの連絡がつかずにいた時に、運よく彼のクルマでヒッチハイクすることができたからであり、同年代の彼とのいろいろな話が面白く共感できるところが多かったからでもある。
 ”旅は道連れ世は情け”。
 私は、若いころの外国ではもとより、こうして山に登った帰り道などで何度もヒッチハイクをしたことがあるのだが、それは費用の節約というよりは、もちろん歩かなくてすむということもあるのだが、偶然にも縁もゆかりもない人の好意に乗せてもらうことでもあり、そして、今さらながらに勉強させられることも多いのだ。
 ”若者よ、もっとヒッチハイクを。”

 さて、私は行きに泊まったその素泊まりの宿に、もう一泊して、翌日の朝一番の新幹線で東京に戻り、山手線、モノレールと乗り継いで羽田から帯広行きの飛行機に乗ったのだが、そこで飛行機から、登って来たばかりの焼石岳を見下ろすことができれば言うことがなかったのだが、あいにく外の景色はあまりよくなく、後ろに富士山が見えただけだった。

 それにしても、今回の焼石岳登山は、快晴の空の下で紅葉が最盛期と申し分のない山旅だったうえに、たまたま乗せてもらったヒッチハイクのクルマの人との話も面白く、良い旅の締めくくりになったのだ。
 今年の夏の、あの鳥海山の失敗登山を思えば、これで、その埋め合わせは十分についたと言えるだろう。

 次回は、この山から戻った後、私を襲った悪夢の出来事について触れるつもりだが、いやなことは短くすませて、まだ、この山旅での良い思い出を繰り返してみたいと思っている。
 というのも、今回写した写真は1日で200枚余りにもなり、そこでさらに追加して何枚かの写真を載せて、自分でも楽しみたいと思ったのである。
 年寄りは、楽しみをねちねちと味わうのだ、あのいやらしさで・・・おまえは”団鬼六”か!(注:だんおにろく、日本のSM作家、故人)

 

 


錦繍(きんしゅう)の山(1)

2019-10-08 21:22:46 | Weblog




 10月8日

 今日は、朝から雨が降っている。
 雨の音が聞こえるだけの、いつもの静かな朝のひと時が、どれほどありがたいことか。
 それまで、5℃以下の冷え込みが続いていた朝と比べれば、今朝の気温は13℃と高く、ようやくゆったりとして過ごすことのできる朝が戻ってきたと感じられるのだが、それは、この数日に起きたあわただしい出来事の後だけに、余計にそう思われるのかもしれない。
 ともかく、思いもかけぬ修羅場(しゅらば)をくぐってきた後だけに、そのことについては後日改めて書き記すとして、今は、あの楽しかった、東北の秋山での、思い出に戻ることにしよう。

 行ってきたのは、東北の岩手県と秋田県の南部県境に連なる焼石連峰の主峰、焼石岳(やけいしだけ、1548m)であるが、いわゆる、あの深久弥の百名山には選ばれていない山である。
 今までに、何度も書いたことではあるが、私は、数十年にもなる登山歴があるのだが、いまだにその日本百名山の全部には登っていないし、今後ともそれを目指して山登りを続けるつもりもない。
 『日本百名山』の著者、深田久弥は、日本の山の随筆作家としては、私が最も敬愛している人であり、その数多くの著作物も読んではいるのだが、あの百名山の選定基準だけに関しては、いささかの異議があって・・・もっともすべての人が納得できる百名山などあり得ないわけで、それぞれに自分だけの百名山があってもいいと思っているのだが。

 ともかく自分なりに選んでいっても、まだまだ数多くの山を登り残している私にとって、地域的にいえば東北には、何としても足の動く今のうちに登っておかなければ、という山がいくつも残っており、今年の夏には、そんな山の一つであった鳥海山に行ってきたのだが、頂上寸前にまで行ってあえなく失敗したことは、前に書いたとおりである(今年の8.5~12の項参照)。 

 しかし、そんな苦い思い出がありながらも、この秋にも、別の東北の山に登りたいと思っていた。
 去年、その一つであった栗駒山(1627m)に登って、その山全体を覆う紅葉の光景に圧倒されて(2018.10.1,8の項参照)、その味をしめていたから、今回はその少し北部にあり、栗駒山とともに東北の二大紅葉の山と謳(うた)われていた焼石岳には、ぜひとも行かなければならないと思っていたのだ。

 長い間、私はこの焼石岳という山を誤解していた。
 子供のころから、地図を見るのが好きだった私は、奥羽山脈の中央部に焼石岳という名前の山があることを知ってはいたが、しかし、登山するようになってからは、この山の1500mという高さが、3000mクラスの山が連なる中央部の山々と比べれば、あまりにも標高が低すぎて、私には登山対象としての山の価値は低いように思われていたのだ。
 しかし、山は”高きをもって貴しとせず”という例えのごとく、それぞれの山はそれぞれの個性をもって、それぞれの魅力があり、その登山価値や鑑賞価値があるのだから。
 峻険な3000mの高峰から、それほどの高さがなくても雪山になってその真価を発揮するものから、新緑の季節が素晴らしい山、秋の紅葉が有名な山、お花畑や渓谷美で有名なものなど、細かく取り上げて行けばきりがないほどに、日本の山はそれぞれの個性的な魅力に満ち溢れているのだから、と今さらながらに気づいて、最近では自分の体力の限界もあって、そうした山々に目を向けるようになっていったのだ。

 日本の山を調べていく中で、栗駒山と焼石岳という二つの紅葉の名山があることを知ったのは、時々見ている山の雑誌や、テレビ番組、ネット投稿画像の情報からであり、それらの多くの情報を知れば知るほど、とても私が生きている間には登りつくせないほどに、魅力的な山々がいろいろとあることに気づかされたのだ。
 
 そうして知った焼石岳という山であるが、この山は、焼石岳という一つの山からなるのではなく、例えば北海道の大雪山(だいせつざん)や九州の九重山(くじゅうさん)が、実は一つの山の名前ではなくて、その地域の山群の総称であるように、焼石岳もまた1000m以上の山々が十数座も集まった火山群であることが分かったのだ。
 さらにそこには、とても1500mクラスの山々とは思えないほどに、山上には幾つもの湖沼がちりばめられていて、高山植物群落が辺りを埋め、秋の紅葉時には、そこが錦織(にしきおり)なす光景に染め上がるのだというのだ。
 これは、いかざなるめえ!

 しかし、天気を含めて、出発する時期を決めるのが、いつものごとく一番の問題で、前回の鳥海山登山のように、時を誤れば惨憺(さんたん)たる結果になってしまうから、その上に今回は、W杯ラグビーの試合が同じ岩手の釜石で開かれるから、宿やタクシーの手配なども気がかりだし、さらにはいつものことだが、札幌以外の北海道から東北に向かうには、いったん飛行機で東京に出て新幹線で北に戻るという経路をたどるしかないので、そうした互いの連絡時間も考えなければならない。 

 そうした煩雑(はんざつ)な問題を解決して、ようやく、10月初めの快晴の空の下、私は、タクシーで焼石岳中沼登山口に降り立ったのである。
 休日には、すぐにいっぱいになってクルマであふれかえるという駐車場には、わずか9台のクルマがあるだけで、朝食のサンドイッチを食べている私のそばを、一人また一人と年配の登山者が頭を下げて登山道に入って行った。
 時折、彼らのクマよけの鈴の音が聞こえ、そして遠ざかって行った。静かだった。

 さてと、私も立ち上がって、所々に木道が敷かれた道をゆるやかにたどって行く。
 コースタイムは3時間半ほどだが、写真を撮りながらゆっくりと歩く私には、さらに1時間ほどが必要だろうが、今日は一日晴れのマークが出ていたから、夕暮れ時までに下りてくればなんとかなるだろう。 
 あまり大きくはないブナ混じりの林の中、幾つかの小さな尾根を横切ってのゆるやかな登り下りが続いた後、しっかりと山路になって一登りすると、少し開けてきて日差しが入ってくる。それに合わせて、上のフリースを脱いだ。
 ほどなく中沼に着くが、そこからの沼沿いの道が素晴らしかった。

 水面(みなも)に映る、長々と伸びる横岳の稜線、右手の高い方は、遠目にも鮮やかに、まるで秋サケの婚姻色のように赤く色づている。(冒頭の写真)
 それは、焼石岳の紅葉がまさに今盛りの中にあると、知らせているような色合いだった。
 とその時、私の後から追い抜いて行く人がいて、”始まったな”とつぶやいていたので、尋ねてみると、もうしばらくすると、この湖岸の木々も真っ赤に色づくということだった。
 どの山でもそうなのだろうが、山の紅葉とはいっても、稜線部から中腹、山麓部と時期を分けて紅葉が降りて行くのだろうから、本来はそれぞれの時期に合わせて、それぞれの紅葉を見に行くべきなのだろう。

 夏には花が咲き乱れるという湿原部の木道を通って、まだ残っているオヤマノリンドウを見ながら、ゆるやかに登って行くと、それまでのブナの林から小さな広場に出て、その先は明るく開けていて、脇にはこんこんと湧き出す銀明水と呼ばれる泉が流れ出していた。
 先ほどまた一人、私を抜いて行った人が、先の方の山腹の道に見えるだけで、他には誰もいなかった。
 たらふく、その冷たい水を飲んで、秋のまだ暑い日差しの中を私も登って行く。
 再び開けてきて、左側には高茎草原斜面が広がり、右手下には沢が流れ、滝が見える。
 登りきると枯れた小沢跡の道が続いていて、そこからついに、紅葉帯に突入して行く。
 右側には、東焼石岳から六沢山へと続く尾根に至るまでの、ササの緑と黄色のミネカエデ、そしてドウダンツツジの紅葉との三段模様が続いている。(写真下)




 さらに登って行くと、途中でもずっと見えていたのだが、このコースでは、ほとんどこの横岳の紅葉斜面を左手に見て歩いて行くことになるのだが、どの位置からも少しずつ形を変える色合いの斜面が、ここでは、もう尾根から斜面にかけて、周りのすべての色を飲み込まんばかりの勢いで広がっていて、私はただ立ち尽くして、その眼前の光景を見続けるばかりだった。(写真下)




 そして、ゆるやかにたどるその道の果てには、主峰焼石岳の紅葉の錦をまとう姿が見えてきた。
 やさしく吹きつける風が心地よかった。
 左手に、錦の障壁を連ねる横岳、正面に錦繍(きんしゅう)を織り込んだ焼石岳、右手には東焼石岳へと続く草モミジの原と紅葉の帯があり、そのただ中を、所々にあるチングルマの紅葉の株を見ながら歩いて行く幸せ。 
 そして人の声が聞こえて、その姥石平(うばいしだいら)の広がりが終わる所に、泉水沼があり、それを前景にして、主峰焼石岳(写真下の上)と右手に続いて東焼石岳(写真下の下)が見えていた。
 
 私の望む、快晴の日の”絵葉書写真”にふさわしい、まさに自然という匠(たくみ)が創りだしたに違いない一品だった。
 その中にいた私は、幸せな思いに満たされていた。








(来週に続く。)


 


愉(たの)しみとのはざまで

2019-10-03 20:51:19 | Weblog




 10月3日

 三日前に、山に行ってきた。
 いい山旅だった。
 その山歩きについては、詳しくは、次回以降に書くとして、今回は、いつもの月曜日に書いておこうと思っていたことなど、いわゆる先週分の備忘録として、ここにあげておくことにする。

 まずは、何としても書いておかなければならないこと、それは言うまでもない、あのW杯ラグビーの日本対アイルランド戦についてであり、その前にアイルランド対スコットランド戦を見たからでもあるのだが、W杯開催時の世界ランク1位の相手ではとてもかなわないだろうと、このブログにも書いていたのだが。
 それも、おそらくは20点ぐらいの差がついて負けるだろうし、もしそれが10点差以内だったら大健闘ということになるのではないのかと。
 それが、大方の意見、ラグビーを少しでもかじったことのある人間なら、だれでも感じただろう率直な思いだったのだろうが。

 その日、私は、テレビ画面の前に一人座って、その熾烈(しれつ)な闘いを見続けたのだ。
 私は、もちろん専門的な詳しい所までは分からないが、ラグビーボールをめぐっての個々働きと、チームとしてのまとまりがいかに重要なゲームであるかはよくわかっている。
 それは、日本がスクラムで相手の強力フォワードに押し負けなかったこと、むしろ後半には押し勝っていて、モール(スクラムが崩れたり、あるいはボールの奪い合いなどで群れの押し合い状態になること)のまま、アイルランド側のモールがバラバラになって行くのを見て、まさに信じられない思いがした。
 さらには、バックス(スクラム要員以外のパスラインを形作るメンバー)もフォワードと一緒になって、相手の攻撃ラインの防御につとめて、大きな相手に二人がかりの素晴らしいタックルを決めていったこと。
 
 最初のうちこそ、これからのラグビーでの大きな流れになるかもしれない、あのキックパス(ラグビーではボールを前にトスしてはいけないけれどもキックでは前に蹴ってそれをキャッチすることができる)で、先制トライを奪われたけれども、その後はその出元になる所で、早めにタックルでつぶしていた。
 その前半でも、日本側はペナルティーゴールを重ねて、アイルランドに僅差でつけていて、日本大健闘の戦いだったのだが、後半、一気に日本の爆発力につながっていったのだ。
 ゴール近くきれいな日本側のラインができて、そこで後半加入のウィング(ラインを作る時の最終位置でトライにつなげたり、同時の相手攻撃の最終防御員でもある)福岡にパスが回って来て、福岡が快足を生かしてゴール内に飛び込んだ時、私は他に誰もいない部屋の中で手を叩き、テーブルを叩き、そして、不覚にも涙を流してしまった。
 あの福岡に渡されたボールは、日本チーム全員の思いが込められたパスだったのだ。
 この逆転トライの後、さらに終了前には、その福岡が相手のボールをインターセプト(横取り)して、ゴール手前まで独走した時、私は日本チームのこの歴史的な勝利を確信した。
 素晴らしい、日本チームの試合だった。

 試合後に主将リーチ・マイケルや他の選手たちが言っていたように、"あのつらい宮崎合宿に耐えてチーム一丸となって自信を持っていた”という言葉を聞いて、私たちしろうとがそれぞれに勝手に批評している間に、彼らは自分たちの目標に向かって、黙々とつらい訓練にも耐えていたのだ。
 そうしたことも考えずに、誰もが一億総スポーツ評論家風になってあれこれ言っていて、そんな私たちこそが恥ずべきだったのだ。
 ともかく、私たちはこの試合でまた、意志の力とその行動力に関して、あらためてかくのごとく教えられたのだ。

 私は、大体の男たちがそうであるように、スポーツ競技を見ることもやることも(今ではほとんどしないが)好きなのだが、ここでもいつも書いているように、本当に好きなのは、誰とも争い競い合うこともない、あくまでも自分自身との闘いでしかない、山登り、単独登山であるが、それは他のスポーツとは別の、いわゆる山歩きという趣味の部分を多く含んでいるからなのかもしれない。 
 この度の、東北の山への山旅も、そうした年寄りにとっては、スポーツ的な過酷さと趣味道楽的な愉しみを相含んでいる、個人的な運動だったのだとあらためて思い知ったのだった。

 人間の性向として、誰にでも、集団の一員として構成された中にあることの喜びと、その反面としての、団体構成員ではない、ひとりで行動する単独志向性の喜びを相持っているものなのかもしれない。 
 そこにおける行動と結果には、それぞれに長所と欠点があり、どちらが優れているとかいうべきものではなく、人それぞれの性質に応じて、その時その時に応じて相応えていけばいいのだろうが、私たちは今、平和な日本に住んでいて、個人個人にその選択ができるような良い時代に生まれ育ってきたのかもしれない。

 さてもう一つ書きたかったことは、例のNHKの「ブラタモリ」からであるが、先週とその前の週との二回にわたって放送された”比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)”の話であり、平安時代初期の788年あの最澄(さいちょう)によって開かれ、その後最澄は唐にわたって天台宗の教義や密教、禅などの教えを学び帰って来て、天台宗の総本山としてのゆるぎない基礎を作ったのであるが、そうして延暦寺を創建して以来、ここで修業した僧たちが、例えば親鸞(しんらん)や日蓮などによって、それぞれに浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗、などの新たな宗派を産み出していき、いわば日本の母なるお寺の意味合いを深くしていったのだが、今回の「ブラタモリ」では、その成立条件としての、地理的、地形的条件から、修行地としての適格性や信長との抗争に見られるような歴史的経過、そして1200年に長きにわたって続けられてきた修業がいまだに、”十二年籠山行”や”千日回峰行”という形で続けられており、今でもここでは100名以上の僧侶が修行しているとのことだが、そうしたことはあくまでも表面的な解説にすぎないのだろうが、私たち一般の人間が延暦寺を知るには十分であった。

 しばらく前にあった同番組での、同じ平安時代の816年に空海(弘法大師)によって開かれた、和歌山県高野山にある、高野山真言宗総本山金剛峯寺(つまりは高野山)での話も興味深いものだったのだが、古代日本に出現した日本仏教の二つの山岳宗教都市の出現に、私はむしろ、その当時に生きた人々の様々な心の葛藤(かっとう)の様を、思い起こしてしまうのだが。

 さて今回の”比叡山”特集での、最後には、その比叡山の山中で、12年に及ぶ下界との交際を絶って、山にこもって修行してきた”十二年籠山行”を終えた人の話を聞くことになっていて、そうした修業を終えた僧たちが、ふもとの坂本の町に降りて来てそこで隠居生活を送っているということだが、その一人の高僧が言うには、修行はここでもまだ続いていて、”確かに山中に比べて、下界、俗世間には便利なことが多くて良いのだろうけれども、あまりにも多くの誘惑に満ちていて、便利なことの裏側にはまた煩雑(はんざつ)なことが多くて、それは新たな別の悩みを産み出しているのではないのか”ということだった。

 都会から離れること、山の中でひとりで暮らすこと、スマホを持たないこと、原則として電話には出ないこと・・・。
 ささやかな、私の抗(あらが)い、なのですが・・・。

(上の写真は、行きの霞ケ浦上空と、下の写真は帰りの時の関東平野上空からの富士山の写真。現代の利器を最大に利用して時間を買い、大気中にNO2を大量にまき散らして飛ぶ、飛行機に乗っているという矛盾。)