ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

残雪とキバナシャクナゲ

2015-06-30 22:59:58 | Weblog



 6月30日

 一週間ほど前までは、朝夕が霧模様でも、日中は青空が広がり、良い天気の日が続いていたのだが、先週になって、一日の天気模様は一変して、すっかり霧や曇り空だけの肌寒い日になり、それがずっと続いている。
 三日前には、とうとう最高気温が10度以下になり、ついにストーヴに火を入れてしまった。さらに今日も、朝9度で日中13度位と、またストーヴの薪(まき)に火をつけた。
 寒くなってストーヴに薪を入れて燃やすのは、大体室内の温度が15度以下に下がった時を目安にしているのだが、今年は6月初めにストーヴを使わなくなってから、これで秋までは御用済みだと思っていたのに、何と7月を前にまた火をつけることになるとは。

 そんなふうに、天候不順の肌寒い日が続いているのだが、その前の晴れた日が続いていた時にも、大雪山のライヴカメラで見る映像は、ガスに包まれていることが多かった。
 今週の天気予報でも、さらに一週間曇りや雨のマークが続いていて、晴れるのは昨日の月曜日の一日だけという有様だった。
 これでは、もうそのたった一日の日に山に行くしかない。
 前回の楽古岳(6月1日の項参照)から、もう1カ月もの間が空いていることだし、本来ならば、せめて一月に二回の山行は欠かしたくないところなのだが、それというのも、山に行く間が空きすぎると、山登り自体がつらくなるし、翌日のお定まりの筋肉痛にも悩まされることになるからだ。

 昨日は、全道的に晴れ後曇りの予報だったが、ともかく午前中だけでも晴れ間が広がるのなら、それで十分だと思っていた。
 登るべき山は、このヨレヨレの年寄りをもやさしく迎えてくれる、今夏の花が咲き始めたばかりの大雪の山々。それもロープウエイを使って高いところにまで上がれる、あの旭岳方面か層雲峡黒岳方面のどちらかなのだが。
 若いころには、ロープウエイ代やリフト代をケチっていて、この二つの登山口から登ることは少なかったのだが、今では私の大雪山登山のメインルートになっているのだ。

 春の残雪のころから、初冬の雪山の時期まで、この大雪山にはもう数十回は登っているのだろうが、いつまで繰り返しても飽きることはない。
 すっかり年寄りになった私にでも、手軽に登れる山であり、いまだに北海道と九州の二つの地を行き来している私には、この北海道の大雪山と、そして山群としての規模は半分くらいになってしまうが、あの九州の九重山は、なくてはならぬ山域である。
 いずれも火山噴火によってできた、溶岩台地上の上に、トロイデ(鐘状火山)状の幾つもの山頂部を連ねた形でまとまっていて、台地上の稜線に上がれば、高山環境と同じような展望が広がり、さらに大雪山の高山植物群落が作る広大なお花畑と、九重山の初夏を彩(いろど)るミヤマキリシマの一大群落は、またそれぞれの秋の紅葉と雪山景観とともに、筆舌(ひつぜつ)に尽くしがたい見事さである。
 この二つの山群と、さらには、南北や中央の日本アルプスと八ヶ岳などの、中部山岳の山々にも繰り返し登ることができたことは、もうそれだけでも、日本に生まれた私の山登り人生が、つくづく幸せなものだったと思えるのだ。
 年寄りはこうして、自分の人生を振り返るのだ。今まで、無慈悲に強欲のままに貯めてきた自分のお金を取り出しては、満足げに数え直している、あのスクルージじいさん(ディケンズ『クリスマス・キャロル』)のように、今までの思い出を引き出しなつかしんでは、ひとりニヒニヒと不気味な笑みを浮かべているのだ。・・・いやな年寄りになったものだ。

 さて、今の時期は夜の明けるのが早いから、若いころには夜明け前の3時には起きて、暗い道を走って朝早い時間には登山口に着き、すぐに登り始めたものだが、もちろん今はそんな元気もないし、それならば前日のうちに登山口近くに行って、そこで民宿などに泊まって、朝一で出発するという手もあるのだが、それも面倒だからと、いつもの毎日のように夜明け過ぎに起きて、それから出かけることになるから、着くのは遅くなるし、そのために山に長くはいられないし、またそんな長時間を歩く元気もないのだ。
 ということで、登山口から1時間余りで頂上に立つことのできる黒岳に登ることにした。
 
 朝のうち十勝平野は雲に覆われていたが、天気予報で晴れマークが出ていても、今の時期はオホーツク海高気圧の影響で、朝のうちはこうした霧模様の低い雲に覆われることが多く、気にはしていなかったが、やはり山間部に入って行く糠平(ぬかびら)温泉あたりから、豁然(かつぜん)と空が晴れてきて、一面の青空が広がっていた。
 ウペペサンケ山(1848m)にニペソツ山(2013m)、いずれも谷筋に残雪が残るだけなのだが、例年に比べてやや少ないようにも見える。
 道の両側には、先日にも家の庭の花の所で書いた、あの外来種の白いフランスギクの花がいっぱいに並んで咲いていて、その先には、ルピナスの花がまたずっと続いていた。

 地形図で見ても分かるとおりに、まさに山に囲まれた盆地地形の典型とでもいうべき所、その森林平原のただ中にある十勝三股は、山好きな人にとっては、春夏秋冬を問わずに山々の一大景観を楽しめる場所であり、周りの山々に登る大切な起点となる所でもあるのだ。
 それは、先にあげたウペペサンケ、ニペソツは言うに及ばず、世に知られていない活火山でもある丸山(1692m)を含め、西には石狩岳(1967m)から音更山(1932m)に連なる山脈があり、さらに北を区切って十勝と上川を分ける山波となって、ユニ石狩岳(1756m)から三国山(1541m)へと続き、西側には、四つのトロイデ状の頂を盛り上げて並んでいるクマネシリ火山群(西クマネシリ岳、1635m)がある。
 この山域への登山者は、それほど多くはないが、秘境性と高山性を兼ね備えた魅力的な山々ばかりであり、大雪や日高ほどではないにしても、私も今までにたびたび足を踏み入れてきたのだが、最近では寄る年波に勝てずというべきか、すっかり足が遠のいてしまってはいるのだが。

 さてその十勝三股から、大雪国道は高度を上げて続いていき、三国峠のトンネルを抜けると、青空の下に、残雪豊かな大雪山の山々が連なっているのが見える。何回となく同じ光景を見ていても、やはり心躍る一瞬だ。
 その雄大な山岳ロードを、今度は下っていき、長いトンネルを抜けると、やっとのことで層雲峡温泉街に着く。
 クルマを停めて、すぐにロープウエイに乗り込む。まだ夏の初めということもあってか、登山客と観光客が半分ずつくらいで、座席に座っている人の他は、立っている人が何人かいるだけの余裕ある車内だった。

 さらにリフトに乗り換えて、上がっていくが、そのリフト下には、チングルマやミヤマキンポウゲ、チシマノキンバイソウなどのお花畑が整備されていて、両側のダケカンバやトドマツの林からは、ルリビタキの声が聞こえてきて、まさに初夏の山の感じにあふれていた。
 申し分のない青空が広がっていて、正面に黒岳の緑の急斜面から頂にかけての山容が近づいてくる。

 リフトを降りて、登山口のノートに記入して歩き始めたのは、日も高くなった8時に近かった。
 ジグザグにつけられた岩の多い登山道を登って行き、木々の間から見える層雲峡の谷あいには、上川方面からの雲が雲海となって流れ込んできていた。
 もちろんそれらの雲は、すぐに上がってきて山々を隠してしまうようなものではなかったし、むしろ雲海として静かにたゆとい流れていて、景観として眺めるには、むしろ都合よくさえ思われた。(写真上)
 
 ともかく久しぶりの登山だからと、無理しないようにゆっくりと登って行った。
 すぐの所で、中高年夫婦を抜いた後は、先にも後にも人影は見えず、ただ上から下りてくる人に、一人二人と出会うぐらいだった。
 シーズンの時には、上り下りの人で、何度も立ち止り道を空けなければならないほどなのに、そんな雑踏の人々の声も聞こえず、なんともありがたい静かな山道だった。
 道には所々に、大きな雪だまりが残っていたが、いつもほどの長い雪面にはなっていなかった。
 あのマネキ岩が近づいてくると、両側には、咲き始めた黄色のミヤマキンポウゲにチシマノキンバイソウ、白いエゾノハクサンイチゲに紫のハクサンチドリなどの花々が彩(いろど)りを添えていた。
 一度短い休みを取り、写真を撮りつつではあったが、やはり久しぶりの山登りに疲れてしまい、頂上に着いたのはコースタイムの1時間10分よりも15分余りも遅くなっていた。昔は、50分を切るくらいで登っていたというのに、これが年かと言う以前に、日ごろの不摂生(ふせっせい)の反省をすべきなのだろう。

 ただ、目の前には、いつもどおりに青空の下に、残雪の大雪山の山々が広がっていた。
 私が最初に登った北海道の山であり、この景観を見たことで、北海道に移り住もうとまでも思った眺めであり、何度見ても飽きることはない。
 頂上には、他に一人さらにもう一人がいるだけで、物音ひとつ聞こえなかった。
 私はひとり、黒岳山頂から反対側の西の方へ、黒岳石室(いしむろ)へと降りて行った。
 できることなら、御鉢(おはち)展望台の先の、北鎮岳(ほくちんだけ、2244m)まで行くつもりではあったが、それぞれの山の頂き辺りには、今や小さな雲がまとわりつき始めていた。
 もう何度もたどったコースだし、辺りがガスに包まれるほどになったら、いつでも引き返す気でいた。ここまでの眺めだけでも、十分に今日来たかいがあったのだから。

 礫地(れきち)の道のそばに見られる、イワウメやミネズオウ、そしてメアカンキンバイなどの花はまだ咲き始めたばかりだったが、下の方の斜面ではあのキバナシャクナゲの花が群落を作って咲いていた。
 そして、このキバナシャクナゲはこれから先もずっと続いていて、まさに今回の山登りは、この花の盛りを見るために来たようなものだった。

 石室小屋前の十字路をそのまままっすぐに、なだらかな高原台地が続く雲ノ平に向かって歩いて行く。この時に反対側から来た大きなザックの男の人に会ったきりで、そのまま戻ってくるまで誰にも会わなかった。
 この時期の大雪山で、誰にも会わない静かな山歩きのひと時を味わえるなんて、私の久しぶりの登山を察知していて、まるで神様が差配(さはい)していてくれたように思えるほどだった。
 そして幸いにも、雲はあまり大きく広がることなく、天気が崩れる気配もなかった。
 そして、盛りのキバナシャクナゲを前景に、右手には残雪模様の北鎮岳(2244m、下の写真上)と凌雲岳(りょううんだけ、2125m)、左手には北海岳(2149m、下の写真下)と見えているが、このおなじみの構図は、また秋の紅葉時にも、色彩を変えてどうしても写真に収めたくなるポイントなのだ。(’14.9.16の項参照)







 周りで、鳥たちのさえずる声が聞こえる、海岸の草原などでも聞くことのできる初夏の鳥、ノゴマの声だ。
 かなり離れていて、長尺の望遠レンズではなかったが、とりあえずシャッターを押して、家に戻ってモニターで拡大して見ると、”日の丸”という愛称でも知られる、ノゴマの赤い喉元(のどもと)がはっきりと写っていた。(写真下)





 このノゴマという鳥は、私が初めてプロミナー(テレスコープ、望遠鏡)で見せてもらった鳥であり、そのことで後に私が”日本野鳥の会”に入会するきっかけにもなったのだ。
 それはちょうど会社を辞めたころ、そこから先に一歩を踏み出せずにいた私だが、それまで会社の休みの時に何度か訪れていたことのある北海道をじっくり見てみようと、意を決して、1カ月もの長期バイク・ツーリングの旅に出かけた時のことだった。

 その旅の中で出会った人々、様々な境遇にいてもそれぞれに今の自分をしっかりと生きている人々・・・それが、今まで自分の周りの仕事関係だけの、小さな世界しか知らなかった私には、新鮮に映ったのだ。様々な別の世界が、それぞれに確かな形であるのだということ。
 その時に、北のはずれにある民宿で出会った若者2人も、そうであった。
 互いに住む所も違い、学生や会社員という立場も違いながら、それぞれに一人で夏の北海道にやって来ていたのだ。道北の湖沼群や草原に、渡り鳥としてきているだろう鳥たちを見るためだけに。
 三脚に据え付けたプロミナーの他にも、首に双眼鏡をさげ野鳥図鑑を片手にして、真剣な顔でのぞき込む二人、目を輝かせながら、鳥たちについて話し合う姿に、私は、それが何かも十分に分からないまま、引き込まれていったのだ。

 そこには、私の知らない世界があり、ひたむきに物事にかかわり合う人々がいること・・・それは彼ら二人だけではなかった。
 青森の山の中で、古い湯治場(とうじば)を守る老夫婦と小さな屋台でイカ焼きを売っていたいた若い姉妹・・・話し込むうちに気楽な旅人と見られたのか、いずれからも婿(むこ)養子になってくれないかとさえ言われたのだが。
 他にも、ゆでたてのエビを袋いっぱいくれた小さな神社のおかみさん、さびれた漁村の道のそばで小さな娘の手を引いて楽しそうに歌いながら歩いていた若いお母さん、”これ食え”と私のバイクのカバンに何本ものトウモロコシを入れてくれた農家のおとうさん、何キロもの道をトラックで先導しながら案内してくれたねじり鉢巻きのおやじさん・・・ひたむきに生きている人たちだからこそ、自分の今も他人の今もしっかりと思うことのできる人々たち・・・あのノゴマの鮮烈な赤色の印象は、その時の私の北海道旅行の思い出でもあったのだ・・・。

 私は、その時に決心したのだ。自分が思う、信じるものがあれば、どこでも生きていけるのだと。
 私は、その後東京を離れて、北海道の田舎に小さな山林を買い、自分ひとりで家を建て、今こうして住んでいるのだ。
 そうして生きてきて、今、年寄りになりつつあるのも、それも当然の時の流れであり・・・ただ余りにも多くのことがあって、それらはすべて、良しにつけ悪しきにつけ、今ここにいる私のために、在(あ)ったということなのだ・・・。

 この山歩きの時に口をついて出たのは、前にも何度も書いたことのある乃木坂46の「君の名は希望」(今年の2月9日の項参照)であり、その中最後の方の一節から。

 「・・・その微笑みを僕は忘れない。
  どんな時も君がいることを
  信じてまっすぐ歩いて行こう。」
 
 (秋元康作詞 杉山勝彦作曲)

 私にかかわってきてくれた多くの人々を思う、そして最後に母とミャオのことを思う・・・私は、今を生きているのだと思う。

 ステップの刻まれた雪の斜面を上がり、御鉢(おはち)展望台に着いた。
 ぐるりと取り囲む、巨大な噴火口跡の斜面が、残雪紋様に彩(いろど)られていた。
 まだまだ雲は出ていたものの、大きく広がることはなく、私はそのまま、両側にキバナシャクナゲが縁(ふち)どる道をゆるやかに登って行った。
 左手の砂礫地斜面には、所々に色鮮やかな黄色のミヤマキンバイが咲いていた。背景には間宮岳(2185m)から北海岳(2149m)に続く残雪紋様の御鉢噴火口が見えていた。(写真下)




 やがて、前方に、まるで巨大な雪壁のような北鎮岳の雪渓が立ちはだかっていた。
 一応アイゼンは持ってきていたが、雪面にはちゃんとステップが刻まれていたし、雪もむしろ適度にゆるんでちょうど良い歩きやすさだった。
 雪の斜面を、こうして一歩一歩と登って行くのは楽しいものだ。
 この春は、前回の楽古岳の登山ではほとんど残雪の道がなかっただけに、それが不満でもあったのだが、今回こうして残雪歩きをすることができたし、今度は戻る時の、この雪渓の滑り降りの”尻セード”ができるかと思うと、もうそれだけでうれしくなってきた。
 誰もいない中岳分岐の三叉路に着き、今度は右手の砂礫地斜面を北鎮岳へと登って行く。
 すると今までの暑い日差しに代わって、涼しい風が吹くつけてきて、間もなく辺り一面が白いガスに閉ざされてしまった。
 頂上まで、もうすぐの所だった。

 次回に続く。

  


抜きつ抜かれつ

2015-06-22 21:51:59 | Weblog



 6月22日

 もう長い間、同じような天気が続いている。
 朝のうちは霧模様の曇り空だが、しばらくすると青空が見えてきて、すぐに快晴に近い晴れた空になる。
 しかし山側には、雲が張り付いたままで、ほとんど取れることはない。

 気温は、朝の10度くらいから日中には20度を超えるくらいまで上がり、日差しはさすがに暑いが、日陰に入ればひんやりと涼しく、梅雨のさ中にある内地と比べれば、何とありがたいことだろう。(今日は久しぶりに、25度を超える夏日になったが。)
 私が北海道を、特にこの十勝地方を好きなのは、今の時期だけではなく、あの厳しい冬の寒さの中でもそうなのだが、こうした居心地のよい、晴れた天気のが多いことにある。
 まさに、お天気屋の私には、もってこいの土地だということになる。

 もっとも物事は、それで自分の思うがままに、すべてうまくいくというわけではない。
 暑い日差しが照りつける中での仕事は、すぐに汗だくになってしまう。それなのに水不足などの諸事情から、家ではたまにしか風呂に入れずに、ベタついた体のまま寝るしかないというのは、風呂好きの私にはつらいことだ。

 とはいえ、ようやく昨日までに、林内の枝切り片づけと、道の草刈りなどを終えたが、特にその中では、前にも書いたことのある外来種の雑草、オオアワダチソウやセイタカアワダチソウの駆除に一番手間がかかった。
 この二つの外来アワダチソウは、秋には、在来種のアワダチソウと同じように、穂状に連なる小さな黄色い花を咲かせて、青空の下に群生する姿は悪くないのだが、その繁殖力たるやすさまじいもので、年ごとにあたりの草原を自分たちだけで埋め尽くしてしまうほどなのだ。
 もっとも同じ外来種とはいえ、フランスギク(俗称マーガレット)やコウリンタンポポ、そして秋にかけてのオオハンゴンソウやアラゲハンゴンソウなどは、観賞用として、庭の片隅に、それぞれ刈り残してはいるのだが。(写真上は、フランスギクとルピナス)

 こうした駆除されるべき外来種の雑草(他にもセイヨウタンポポなど)が日本に入ってくる前は、草原と言えば、地名として残るほどに、芦(あし)原、萱(かや)原、笹(ささ)原あるは蓬(よもぎ)原などが多かったのだろうが、特に北海道では、酪農畜産の牧場が多く、輸入牧草が入ってくることもあって、外来種の雑草がまたたく間に増えたような気がする。
 
 ともかくこのオオハンゴンソウは、他の草がいっぱいに茂っていて日陰になっていても、そこで芽を出し成長していけるほどに、繁殖力が強く、それまでは、長鎌(かま)で刈り払いしていたのだが、一向に減る気配がなく、それで地下茎でつながり根を張っていることに気づいて、今では見つけ次第に引き抜くようにしてはいるのだが、見逃して油断しているとそこからまた増えてきてしまうのだ。
 ただ、このオオハンゴンソウの類の唯一の弱点は、根周りが弱いことであり、上の方をつまんで引き抜けば、短い根ごとに簡単に引き抜くことができるのだ。
 ただし、背の高いものは見つけやすいけれども、まだ低く小さいものは、草むらに潜り込んで探すしかないから、それだけに手間がかかるのだ。
 この一週間ほどで、気がついた所だけでも、二三百本は抜き取っただろうが、まだまだ見逃しているところもあるだろうし、林のふちの一角ではとても手が付けられないほどに広く群生していて、そこから綿毛の種が飛ばされて、またどこかで根付き増えていくのだろうが、どうすることもできない。
 ただ”抜きつ抜かれつ”を繰り返すしかないのが、現状なのだ。
  
 こうして、今のわが家の庭や草地は、私がいなくなれば、誰も手入れする人がいなくなり、たちまちのうちに荒れ果てて、草木の繁るにまかせただけの土地になってしまうことだろう。
 ただし、植物たちにとっては、今までの理不尽(りふじん)な外の力で強制的に刈り取られ抑え込まれていたのに、ようやく思うがままに成長繁茂できるようになって、本来の自分に備わった力を十分に発揮できるようになるのだろうが、もちろんそれからはまた、それぞれの植物たちによる、果てしなき闘いが始まるわけでもあるのだ。

 動植物から細菌類に至るまでの、この世に生を受けたすべての生き物たちの、その根本にある本能は成長し生き延びることであり、それは、ただ己の利益保身のためだけに、全精力を傾けて周りと闘うことでもあるのだ。
 それが正しい生き物としての生き方であり、自分の死さえも、種族のためではなく、あくまでも個々としての利になるべく考えられた死に方になるのだろう。(『利己としての死』日高敏孝著 弘文堂)
 もちろん、そうしたほかの生き物たちとは違い、感情に基づく判断力と複雑な思考回路を持った人間たちではあるが、自然界の中で見れば、それぞれに一匹の弱い動物でしかないから、孤立した個としては生きていけなくて、集団として生きていくために、様々な社会の掟を自らの頭に記憶させては、それを代々、世の中の理(ことわり)として理解し受け継いできたのだろうが。 

  しかし、時にはそこから逸脱し、それ相応の報いを受けながらも、あるいは運良く免れて、なおかつ多くの人に迷惑をかけながらも、そうした理への思いやりもなく、ただ自分勝手に生きては死んでいった人たちも多くいたに違いない。
 ことの良し悪しはともかく、そう考えてくると、私たちは、社会、人々というかかわりの中で生きているけれども、あくまでも基本は、ひとりの生き物として、幸も不幸もすべてが自分に返ってくる、自分だけの生き方しかできないということでもある。

 自分の周りに起きるすべての出来事は、そこで自分がそうしていたからであり、運命的な偶然さえも、その時たまたまそこにいたからだと結論づけることもできるだろう。
 その結果は受け入れるしかないし、それを、自分への報いである不幸として、あるいは自分に責任のない偶然の不幸でさえも、そのまま認めたうえでの、次なる新たな人生へのステップを踏み出すことが必要になるのだろう。
 くよくよ考え、いつまでも後悔したところで、昔のことを、あの時のことをやり直しができるわけでもなく、それだからこそ、自分の目の前の不都合な真実からも目をそらさずに認めて、一刻も早く新たに他に向かう道を見つけるべきなのに・・・と、特にこれからの人生の時間がたっぷりと残された、若い人たちに対しては、特にそう思うのだ。

 私たち年寄りは、そうした若い人たちにありがちな、不安や悲しみを、他人事のようにではなく、昔あった自分の人生のエピソードの一つとして、多分に余裕をもって、あるいは高踏派(こうとうは)的な高みから見下ろす気分で、えらそうに教訓を垂れるのだ。もうこの先、自分には起きそうにもないことだから・・・。
 この、皮肉屋で頑固でぐうたらなジジイは、そうした人の世の、幸不幸の出来事を横目で眺めつつ、一方では、ただ単純に生きるか死ぬかだけの、自然の世界を、植物たちや昆虫や鳥や動物たちの生き方を見ては、いつも感心しているのではありますが・・・。

 たとえば、金曜日の夜遅くのNHKの『ドキュメント72時間』(録画して見ているのだが)、それは、ある場所に72時間にわたりカメラを置いて、そこに集まる人々の姿やインタヴューだけで構成している番組であり、おそらくは放送時間に倍する時間をかけて、撮影インタヴューをして編集しまとめたものなのだろうが、そこに映し出される人々の、今ここに来ている様々な理由と、それぞれに背負ってきた様々な人生の、ほんのわずかな一断面が、まさにドラマ風にではなくごく自然に語られ、切り取られ撮影されていて、見た後にはいつも思うのだが、この世には絵にかいたような幸せや、またあまりにも悲惨な不幸というのではなく、それぞれが生きていく社会の人間関係の中で、自分に似合っただけの、そこそこの小さな幸せの時を過ごすために生きているのだと・・・。
 
 さらに昨日のいつものNHKの『ダーウィンが来た』~美しき国蝶オオムラサキ~、もまた生き物たちの新たな一面を知って、興味深い一編だった。
 狙われやすい幼虫時代に、敵と闘うその雄々しい姿。それはまたあのきれいな紫の羽を持つ成蝶(オス)になってからも、強い羽ばたきだけの力で(確かに他のチョウと比べて筋肉のついた胴体体上部が大きいのだが)、あのスズメバチを払い落とすだけではなく、カブトムシ相手にさえ闘い、さらには、二匹で鳥さえも!追いかけている姿は(10日もかけたという撮影)、もうただただ驚くばかりだった。
 それは繁殖期間の短い、オオムラサキのオスが必死になって、飛び回るものはすべてメスだと思って追いかけているのだとの説明だったが、それだけだとは思えない・・・。

 もう一つ、これはたまたま数日前に見た、TBS系列の『生き物にサンキュー』というネコがテーマの2時間番組だったのだが、その中で”逆立ちして歩くネコ” というのがあって、それはよくYouTubeなどに投稿されているような、飼い主が芸として仕込んだネコなのだろうと思って見ていたのだが、何と生まれつき後ろ足が動かない障害を持っていたネコが、誰から教えられることもなく、逆立ち状態になって動かない後ろ足を縮めたまま上げて、歩いている姿だった。
 そのネコの飼い主は、アルバイト店で働く青年とその母親だった。
 その彼がある日の夜、雨の降る駐車場のそばを通っていた時に、クルマの陰で泣いている子ネコを見つけて、抱き上げたけれども、後ろ足が動かない捨てネコだったのだ。
 それを承知で、彼はこの子ネコを家で育てようと思い、抱きかかえて家に帰ったのだ。

 私は、涙がこみあげてきた・・・。
 さらに映像は続き、今では大きくなったそのネコは、彼が夜遅く仕事から帰ってくるのを待っていて、居間にいた所から逆立ちで歩いて彼のベッドのそばに行き、座って待っているのだ。
 私は、もう涙を止めることができなかった。
 ああ、ミャオ。

 生き物はすべて、あの『利己としての死』に書かれているように、自分の遺伝子を残すためだけに、あくまでも利己のためになるものとして行動し生きているのだろうか・・・。
 こうした生き物の種族を越えた、情感の通い合う姿は何と理解すればいいのだろうか。
 今までにも、いろいろな動物番組で、幾つもの動物たちの行動を見てきたのだが、たとえば自分の子供ではないのに、群れの子供として乳をあげたり世話をしたりする動物たちがいるということ・・・。
 それは確かに、『利己としての死』以前の、ローレンツによる名著『ソロモンの指輪』にあるように、自分の種族のために、種の保存の本能のためにと考え説明されるのだろうが、しかし、あまりにも人間と密接な関係にあり、ペットとして位置づけられてきために野性味に乏しいといわれるイヌやネコたちと、人間とのこうした情感はどう考えればいいのだろう。

 昔の映画『野生のエルザ』 (1966年、原題”Born Free"主題歌が大ヒット)にあるように、子供のころから人間とともに暮らしていれば、猛獣といえども人間と心が通い合うようになるというのは、昔からよく知られていることなのだが。
   つまり人間の感情が分かるペットとしてのイヌやネコ、さらに少しは人間の思いが分かる馬や牛やヤギなどの家畜たち、そして、人間を他の動物たちと同じような敵だとしか思わない、野生の動物たち・・・その差は、お互いに触れ合う時間、理解するための長い時間が必要だということなのだろうか・・・不信から信頼への、そのための時間。

 さて、私が今回書こうとしていたのは、前回に続いて、あのAKBの”スキャンダル”についてだったのだが、途中から生き物たちの生き方の話になって、グダグダと続けてしまい、まあそれも年寄りのもの忘れしやすく混乱しがちな頭ゆえのことと、お許しをいただいて。
 その”ゆきりん事件”だが、その後も何の進展もないままに、事件に関わるすべてのサイドから何のコメントもないままに、さらに1週間が過ぎてしまい、ネットの書き込みから見る限り、大多数のファンたちからは、いまだに批判の声と投げやりな声が聞かれるほどなのだ。

 しかし、二人の関係する運営・プロダクション・サイドの、”なかったことにしてスルーする”という、徹底した情報抑え込みは、ある意味で見事なまでであり、他の週刊誌などはもとより、テレビの芸能ニュースでさえ一言も触れられないありさまで、”アイドルにスキャンダルはない”という、彼らの強い意向が感じ取れる。
 それほどまでに大事なことなら、なおさらのこと全否定するにしても、ファンたちに対する一応の説明会見があってもよさそうなものだが、つまりは会見を開くこと自体が、もうその時点で週刊誌報道があったことを認めたことになり、一般ニュース化されたことになるからできないのだろうが。
  これ以上、何とも言えないが、ただ皆が被害者になっただけの、哀れな出来事だったのだ。

 ところで先日、世界に冠たるトヨタ自動車の、アメリカ人女性重役の麻薬逮捕事件が報じられて、翌日にはすぐ、豊田社長自らが出席して記者会見を開き、事態を説明して、捜査には全面的に協力すると述べたうえで、逮捕された彼女のことを”大切な仲間であり、信じている”と繰り返し話していた。
 単なるタレントの週刊誌スクープ記事と、大企業重役の逮捕とでは、事の重大さも違うし、スキャンダル三面記事と刑事事件という違いもあって、大した比較にはならないのかもしれないけれども、そこには事件が起きた時の、責任ある企業としての対応の差を見た思いがした。
 本来、若い男と若い女が愛し合う姿なんて、すべてが美しく、祝福されるべきものなのに、その背中に描かれた”アイドル”という文字は、かくも厳しいものなのだろうか。 

 1週間ほど前、庭の花の終わったシバザクラの上に、小さなチョウが二匹、交尾しながらじっととまっていた。(写真下)
 詳しくは分からなかったが、シジミチョウ位の大きさで、紋様からすればジャノメチョウの仲間だろうと思い、写真を撮った後で、図鑑で調べてみると、やはりというべきか今までにも見たことのある、それほど珍しくもない(といって北海道だけの固有種だが)、シロオビヒメヒカゲだった。

  さらに後日、モニター画面で大きく引き伸ばしてみたところ、何とその羽には鱗粉(りんぷん)ではない毛がびっしりとついていた。
 おそらくは、越冬するチョウであるために、寒さから身を守るように毛が生えているのだろうが、それならば同じように越冬する(多くは越冬できずに死んでしまうが)、クロヒカゲやヤマキマダラヒカゲなどは鱗粉がついただけの普通の羽なのに、と不思議に思えてしまうのだ。
 もっとも、高山植物たちでも、その花や葉が毛に覆われたものと、そうでないものがあるように、彼らだけが自然に適応するために作ってきた何らかの仕組みがあるのだろうが。
 それにしても、このシロオビヒメヒカゲの二匹の姿は、きれいだった・・・。

 


ハマナスの花に惹(ひ)かれて

2015-06-15 22:00:57 | Weblog



 6月15日
 
 二日ほど、小雨模様の日があった後、それまでの北国らしい少し肌寒い日から、はっきりと空気が入れ替わって、生暖かい南からの空気が入ってきた。
 やはりこの北海道にも、夏が来ているのだ。
 あれほどまでに鳴いていたエゾハルゼミも、今では林の遠くの方から一二匹、聞こえるだけ。
 その林の中に入れば、さすがに涼しいのだが、日向の光はもう夏の暑さを感じるほどだ。
 といっても、まだ25度の夏日には届かず、朝は10度くらいで、まだ長袖が必要なのだが。 

 庭の生垣(いけがき)ふうにしつらえた、緑のハマナスの葉が茂る中に、点々と赤い花が咲いている。
 近づくと、あの独特の少し強すぎる、化粧品の成分として使われることもある、甘い香りが漂ってくる。
 その咲き始めたばかりの花の中に、一匹のマルハナバチがいて、ちょうど自分の体でいっぱいになるほどの花びらの中で、あちこちに体勢を変えながら、花粉を集めている。(写真上)

 私が近づき、目の前にカメラを構えてもお構いなしだ。
 わずか一日二日で終わってしまう、ハマナスの花だけに、かかりっきりになっているのだ。働くときは今なのだ、他に何をやることがあるだろうと。
 何かを得たいと思う時には、そのための行動を起こしてひたむきにやるだけのことだ。

 毎日数輪ほどが開く、このハマナスの花には、2cmほどにもなるマルハナバチの他に、わずか5㎜程の小さなハナバチやハムシなどが群れ集まっていることもあって、虫のいない花の写真を撮るほうがむずかしいほどだ。
 このハマナスは、そのあまりにも鮮やかな真紅(しんく)の花と強い香りで、こうして虫たちを呼び寄せているのだろうが、不思議にも、チョウがとまっているのをあまり見たことはない。
 人間として見れば、何とも魅力的で惹きつけられてしまう色と香りのハマナスの花だが、チョウの方から見れば、何ともしがたい花粉だけの花なのかもしれない。
 さらにハマナスの方から考えてみれば、あの花の中で動き回り、おしべとめしべにたっぷりと受粉させてくれる、マルハナバチやハナバチ、ハムシの類だけに的を絞った、効能を用意しているからなのだろうか。

 ”蓼(たで)食う虫も好きずき”のことわざのとおりに、誰も食べたがらない苦い蓼の葉を食べる虫もいるくらいだから、確かに好みは人それぞれ、虫それぞれということなのだろうが、つまりそれは、物事の今を考える場合には、一つに見えて実は様々な側面があり、それぞれ別の視点から見る必要があるということなのだろう。 

  ”世の中よ、あわれなりけり。
 常なけど、うれしかりけり。
 山川にやまがわの音、
 からまつにからまつのかぜ。”

 (北原白秋 「落葉松」 『日本の詩歌9 北原白秋』 中央公論社)


 AKBの総選挙が終わったばかりなのに、衝撃的なニュースが飛び込んできた。
 今度の選挙での、1位の有力候補であり、結局は2位になった、”ゆきりん”柏木由紀のスキャンダルである。
 その週刊文春報道による、相手のジャニーズ系のNEWSに属する男と一緒の写真があまりにも生々しく、当の二人でさえ申し開きのできないような現場写真だったために、ネット上のAKB情報サイトには、ファンたちの様々な怒りや嘆きの声が書き込まれていた。
 その中には、柏木由紀のCDやグッズが燃やされている、”ゆきりんオタク”と呼ばれるファンからの写真があったほどだ。

 何しろ、今を時めくAKBグループの中でナンバー2の”ゆきりん”と、同じようにジャニーズ系NEWSの人気アイドルの一人とのスキャンダル発覚だけに、周りに与える影響は計り知れぬものがあることだろう。
 ことの顛末(てんまつ)は、当の二人だけにしか分からぬこととはいえ、まずはこの事件が二人のタレント生命に与える打撃は自業自得だとしても、今やその凋落(ちょうらく)がささやかれはじめている、AKBグループそのものへの影響は、相手のNEWSに対する場合とは、比べ物にならないほどの衝撃を与えることになるだろう。

 一応は”恋愛禁止”の不文律(ふぶんりつ)があっての、少女アイドル・グループAKBだっただけに、その中でも”アイドル王道”を進み、自らもアイドルとしてAKB一筋だと公言していた”ゆきりん”だけに、今までに彼女を”おしメン(推しメンバー)”として応援し、握手会に出かけ、公演を見に行き、何枚ものCDを買って彼女に投票したばかりのファンからしてみれば、許すことのできない裏切り行為に見えたことだろう。
 さらには、彼女の属するAKBの運営サイドは、将来を含めての難しい対応を迫られることになり、今までの様々なスキャンダル報道に対して、時にはスルー(無視)してきたこともあったのだが、今回は現時点の人気投票2位でもある大物のスキャンダルなだけに、何らかの早急な処置をしないと、ファンに対してだけでなく、同じAKBグループの他のメンバー娘たちにも、しめしがつかないだろうし、ともかくAKBの行く末を考えての彼女の処遇を決めねばならず、この1週間の沈黙が、今回の事件で針のむしろに座らされた、運営サイドの深刻さを示しているようでもあるが。

 あの宝塚が、なぜにかくも長きにわたって存続し人気を保ち続け得たのか、言うまでもなく、それは団員達一丸となっての、厳しい日々のレッスンと運営側が管理してきた鉄の団体規律があったからなのだろう。そうして、公演されるミュージカルは、ずっと一級品であり続けたのだ。
 一方で、今の時代のタレント志望の娘たちを集めて、”第二の宝塚”たらんとしたAKBには、もちろん初めからそれほどの高度な歌や踊りの技術が求められたわけではなく、おそらくは容姿スタイルを含めた見た目に重きが置かれて、彼女たちは選ばれたのだろうし、それだから、オーディション合格後も一応のレッスンを受けた後に、すぐに日を置かずに公演の舞台に立てるほどの”芸”でしかないし、それぞれのグループごとの仲間としてのまとまりはあるとしても、宝塚ほどに日常的な上下関係やしつけとしての厳格な行動が求められているわけでもなく、その”ゆるい”まとまりこそが、今の時代の”アイドル・グループ”には、ふさわしいことだったのだろうが。
 そして、そのゆるさの隙間が、今までも何度かあったように、こうしたスキャンダル事件につながることになったのではないのか。
 とすると、設立時にしっかりとした規範を決めていなかった運営サイドの責任であるとも、言えるのだろうが。

 中高校生でAKBに入って、”恋愛禁止”の不文律を頭に入れながら、アイドル・グループの一員としてステージに立ち、歌い踊りながら、AKB1位の座をあるいは選抜に選ばれることを夢見て、がんばっている娘たち・・・。
 他の同年代の子たちが、明るく遊びまわり、恋愛を楽しんでいる中で・・・大勢のファンたちの仮想恋愛の相手たるべく、清純な想いを貫き、自分の夢のためにも、ひたすら、歌に踊りに話しに励むこと・・・それが、自分が選んだアイドルの道なのだから・・・。
 しかし、少女から大人の女へと成長していく中で、あふれくる女としての思い・・・”命短し恋せよ乙女”(「ゴンドラの唄」)・・・そんな気持ちも抑えて、自ら決めた道を歩くことは、何ともつらいことに違いはないだろうが・・・、しかし、AKBは、ファンに支えられたアイドル・グループなのだ。

  ”娘盛りを 渡世にかけて
   張った体に 緋牡丹燃える
   女の女の 女の意気地(いきじ)
   旅の夜空に 恋も散る。”

 (『緋牡丹博徒』 歌 藤純子 作詞作曲 渡辺岳夫)

 渡世人の父親を殺され、跡を継いだ女一匹、女つぼ振り師として各地の賭場(とば)をめぐり、父の仇を探して回る。
 そんな”お竜”ねえさんを助ける、一人の侠客、高倉健登場! 
 場末の三番館の壊れかけた座席に座って、学生時代の私たちは、思わず手をたたき拍手を送ったものだった。
 今の時代の、卑劣で勝手な自分だけの理屈ではなく、正義に基づいた”弱きを助け強きをくじく”無頼者にあこがれた時代・・・そんな時代もあったねと・・・。
 と、思わず昔の歌の一節を思い出したのだが。

 そして、私からすれば、もともと特定の”おしメン”(推しメンバー)がいるわけでもなく、熱烈な”オタ”(おたく)でもなく、ただ今もAKBファンでいるのは、秋元康の作る歌にひかれて、さらにその歌を歌う、今に生きる明るく個性豊かな孫娘の集団として、好きになったのだから、若いファンたちのように疑似(ぎじ)恋愛相手として、彼女たちにアイドルとしての、昔の少女マンガのような清純さを求めているわけではないから、スキャンダルの衝撃としてよりは、孫娘が恋につまづいたのではないのかという心配で、その”ゆきりん”の今後の身の上と、さらにはAKBの行く末が気がかりなだけなのだ。

 総選挙2位の”ゆきりん”とはいえ、若い娘なのだから、同じ年頃の子がそうであるように、ただの恋愛一つにすぎないものなのに、それは自分の若いころと比べても、後になって思えば、同じように人生の中の一コマにすぎなかったのだから、(と今この年になって言えるのだが)、ともかく、こんな恋愛の一つや二つは、好奇心あふれる年ごろの若い娘としてはありがちなことであり、何も体までもが傷ついたわけではなく、心の傷だけならば、まだ若いのだし、そのうえに”きれいなおねえさん”としては変わらないのだから、いくらでも未来へのやり直しはできるだろうに。
 ただし、本人はそれでいいとしても、責任ある地位にいただけに、周囲へのそれなりのきちんとした対応が必要にはなるだろう。
 まずは、アイドルとしての彼女をここまで支えてくれた、熱心な”オタ”のファンたち、そして彼女に憧れていた後輩メンバーの娘たちにも、当然一言あってしかるべきだろうし、同時に、共同責任者として、運営側も対外的に含めてつらい処遇を含めた選択を取らざるを得ないだろう。

 私は遠くから見てきただけの、”じじいファン”にすぎないし、エラそうなことは言えないのだけれども、まずは、人気商売として成り立つアイドル・グループとして、表面的にも熱狂的なファンに支えられていたAKBが、今回はそのファンたちに対する大きな失望を与えたことで、多方面にわたる代償を支払うことにはなるのだろうが。

 もちろん、人気のあったこの”ゆきりん”も、300人もの娘たちからなるAKBグループの、一人にすぎず、彼女以外を応援しているファンの方が圧倒的に多いのだから、逆に言えば、今回の件に対しては、やむを得ず当然処置されるべき事件の一つにすぎず、AKBそのものの屋台骨にまで及ぶほどの影響はないとも言えるのだろうが。 
 つまり大切なのは、今までも、さまざまに世間を騒がせ被害を与えた不祥事や事故等に対して、それぞれの企業がとってきた事故処理や対応能力が、その時々にあらためて問題にされてきたのと同じように、今こそのAKB運営サイドの管理能力が問われているのだ。
 誰のために。
 それは、事業として成り立たせるための運営側のためだけではなく、ましてはファンたちのためだけでもなく、ただAKBの旗の下に集まってきた、他のメンバーの娘たち、特にまだ幼さの残る娘たちさえいるのだから・・・。
 あの子たちが受けたであろう心の傷をいやし、さらに将来への夢を持ち続けさせるためにも。

 遠い昔のことだが、私は若いころにオーストラリアを旅したことがある。
 エイヤーズ・ロックへのミニ・ツアーの時に、まだ小学生くらいの子供が私になついてくれて、しばらく二人でふざけ合い遊んだのだが、学校にも行かずにどうしてと思い、そのアメリカから来ていたまだ若いお父さんに尋ねてみた。彼は、私の方に向き直り、答えてくれた。

 「彼の母親が、つまり私の妻が死んでしまって、それで息子を連れて、しばらく外国を回ってみようと思ってね。」

 問題が起きた時には、それと正面に向き合うか、逃げるかだが、もう一つ方法がある。
 事実は事実として認めたうえで、離れた道を行くこともできるということだ。

 さて話は変わるが、毎年、このブログにも写真を載せているヒオウギアヤメの花が、今年も庭の片隅で咲いてくれた。(写真下)
 そして、家の裏手にある、まだ低い植林地の中に群生しているヒオウギアヤメ・・・やがて、それらの植林された木が大きくなっていけば、自然にそのヒオウギアヤメの花も咲かなくなり、消えていくことだろう。

 しかし、そうして、あの群生の光景は見られなくなったとしても、何年たっても、変わらずに私の心には見えてくるものがあるだろう・・・まだ植林される前の原野の中に、果てしなく続く朝もやの霧の中に浮かび上がってきた、ヒオウギアヤメたち、一本一本の姿・・・。




(追記1: 前回、土曜日のNHK・BSの『AKB48SHOW』は、総選挙に対する私たちAKBファンの思いの一部をかなえてくれるものであった。
 まずは始めのNMBの二人によるコントは、ベタな展開でもう一つではあったが、NMBの新曲は、目新しい若い人がセンターにいて、それまでに兼任で他のグループからきていたメンバーがいなくなって(”ゆきりん”もその一人)、本来のNMBメンバーだけで、ようやくのびのびと明るく歌い踊っているようにさえ見えた。これでいいのだ。
 それから、あの総選挙でのランクダウンに大泣きしていたSKEの”だーすー”須田亜香里と、若手のホープ”りょうは”北川綾巴”などによる、コント”マッチ売りのだーすー”があった後に、予期していなかったありがたい場面が・・・。

 それは、私たちファンの総選挙への物足りない思いを知っていたかのような、以下の映像だった。
 つまり、今度の選挙で、壇上に立った80位までのメンバーたち、そのすべての子たちのそれぞれのスピーチを、わずか5秒ほどずつではあったが、通して見ることができたことである。
 前回も書いたように、私たちAKBファンが聞きたいのは、上位メンバーたちのコメントはもとより、それぞれに自分のドラマをかかえてこの日を迎えて、ランクインすることのできた彼女たち全員の、今の言葉なのだ。
 もちろん、できるならばもっと長く、彼女たちが涙ながらに話したすべてを聞きたかったのだが、わざわざ中継までもした民放テレビ局が、スタジオ司会者やスポンサーの意向で呼び集められただけのタレントたちの、どうでもいいような話に時間を割くくらいなら、そのままのメンバーたちだけの話を、下手な解説など入れずに流してくれた方がどれほどよかったことか。

 何度も繰り返すが、私はNHKとは何の関係もないが、この『AKB48SHOW』のスタッフが、他のどの放送局よりもよくAKBのことを、そのファンたちのことを分かっていると思う。
 もしいつか、この『AKB48SHOW』が終わったとしたら、その時が私のAKBファンとしての終わりだとさえ思っているほどだ。
 そして、今回の番組の最後は、名前はどこかで聞いていたが顔は知らなかった、名古屋SKEの竹内舞と矢方美紀によるデュオ”まいてぃ”の、フォークソング風な歌だったのだが、なかなかに良かった。
 声も悪くないし、何より、ハモっていたのだ!)

(追記2: 今回の”柏木スキャンダル”で、あちこちのAKB情報サイトを見て、もちろん多くは非難の言葉やあきらめに似た書き込みだったのだが、中には聞くに堪えない言葉の羅列で、AKBファンなのかと疑うような書き込みもあって、いやな思いをすることもあったのだが、他にも的を得た正論の書き込みをしたり、ウイットに富んだ一言を書いたりしている人もあって、そのために、そんな情報サイトをのぞいてみたくなったのだ。

 そんな今回の多くの書き込みの中で、思わず笑ってしまった秀逸なユーモアにあふれた一連の書き込みがあったことを、どうしてもここで取り上げておきたい。
 それは、”地下帝国AKB48”というサイトの6月12日付けの項目で、”木ゆりあ 「隊士の中に、局中法度(はっと)を犯した不心得者がおるようだな」”と題されたスレッド(共通話題の投稿欄)である。

 今回の事件のことを、AKBグループ一の正義派である、”木ゆりあ”をあの幕末の”新撰組”局長に見立てての、投稿者達が作る寸劇である。
 私が運営サイドの一人だとしたら、その見事な発想力と確かな知識に、思わずAKBの次の新公演の脚本をお願いしたくなることだろう。 
 ちなみに、ここで使われているスキャンダラスという言葉は、少し学力に難のある”おバカキャラ”の”ゆりあ”が、去年の暮の番組、『ナインティナインのAKBドッキリ総選挙』の中で、”スキャンダルはキライ”と言うべきところを、間違えて憶えていて形容詞である”スキャンダラスはキライ”と言って、メンバーの皆に笑われて、それ以来”スキャンダラスぎらい”の”ゆりあ”と、やゆされるようになったのだ。) 


  


「林と思想」

2015-06-08 21:56:36 | Weblog



 6月8日

「 そら ね ごらん
 むこうに霧にぬれている
 茸(きのこ)のかたちのちいさな林があるだろう
 あすこのとこへ
 わたしのかんがえが
 ずいぶんはやく流れて行って
 みんな
 溶け込んでいるのだよ
    ここいらはふきの花でいっぱいだ 」 

 (宮澤賢治 『グランド電柱』より「林と思想」、 現代日本文学大系27 『高村光太郎 宮澤賢治集』 筑摩書房) 

 北海道に戻ってきてもう3週間余りにもなるが、雨が降ったのは、わずか二三度だけで、それもほとんどは夜中に降っていて。
 つまり、毎日、青空の広がる日々が続いているということだ。
 そして、25度の夏日になったのもまだ二度くらいしかなく、この数日は最高気温20度以下で、最低気温は5度以下になる日もあって、遅霜の警報が出されることもあるくらいだ。
 だから、水無月(みなづき)の6月の今は、初夏というよりは、五月(さつき)晴れの続くさわやかな晩春の季節だと言ったほうがいいのかもしれない。

 今では、庭のシバザクラはさすがにその花の盛りを終え、見上げる紫色のライラックの花や小さな白いミズキの花、さらには私の背丈ほどまでも大きくなってしまった、一際鮮やかなオレンジとクリーム・イエローのレンゲツツジの花も、今や散り時を迎えている。
 それでも、生垣(いけがき)風に並べたハマナスのとげとげの木には、毎日数輪の赤い花が咲いて私の目を楽しませてくれるし、辺りのあちこちには、雑草並みに増えてしまったフランスギク(通称マーガレット)が、つぼみをふくらませて伸びてきている。

 それらの草木に囲まれて、私はほとんど毎日外に出て、庭仕事や畑仕事に精を出した。
 いつ果てるともわからない、シバザクラの中の雑草抜きは別にしても、芝生の補植に草取り、刈りこみ、さらには道の両側の草刈りも始めて、もう二三日でどうやら最初の繁忙期(はんぼうき)は終わりそうだ。
 数日前までは、外に出るのがためらわれるほどにうるさく、耳を聾(ろう)するばかりに鳴いていたエゾハルゼミの大集団も、さすがに数が少なくなってきて、今ではようやく許容できる音量で、普通に聞こえる林の蝉(せみ)の声になってきた。
 朝夕に、辺りに涼やかに響き渡るように鳴いていたキビタキの声ももう聞こえないし、代わっていかにも藪の中の鳥らしいセンダイムシクイの声が聞こえている。
 その他にも、相変わらず、カッコウは場所を変えて鳴いているし、高い木の上ではカラスに警戒するチョウゲンボウの声も聞こえている。

 一仕事の後、休憩を兼ねて林の中に入って行く。
 日の当たる所とは、気温が数度余りも低くて、風でも吹いていれば、汗ばんだ体では震え上がるほどだ。
 あのウバユリの大きな葉が、見る間にさらに大きくなって、群れをなして辺りを占拠している。
 そろそろ、この林の中の小道の手入れをしなければいけない。しかし、道の上に散らばっている小枝類を片付け、刈り払いをしていくにあたっては、いささか注意深くやる必要があるし、意外に時間もかかる。
 この道は、面積で言えば100m四方ほどの小さな自宅林内にある、ただ私が歩き回るだけの散策路であり、その下草のササを刈り払っていくだけのことなのだが、ただそこには毎年新たにササ以外の様々な植物たちも芽を出しているのだ。

 つまり、この小さな林は、私が長年にわたって、ストーヴで燃やす薪(まき)を作るために、カラマツを間伐(かんばつ)して来たので、今ではその間に光も差し込んできて、それまでに自然に生えていた様々な落葉広葉樹もそれなりに生い茂ってきていて、同じように毎年、道の部分のササ刈りをしてきたために、その部分にあらたに、様々な山の植物たちもまた自然に生えてきたのだ。
 オオバナノエンレイソウ、ツマトリソウ、ベニバナイチヤクソウ、(白い)イチヤクソウ、スズラン、クゲヌマラン、ウバユリなどが主なものであり、その中でも特に、もともと少しはあったベニバナイチヤクソウは、その地下茎を伸ばしていつの間にか、道を占領するほどに増えてしまったのだ。(写真上)

 「朝顔に 釣瓶(つるべ)取られて もらい水」
 
 という加賀千代女(かがのちよじょ)の有名な俳句があり、それは説明するまでもないことだが、今のように蛇口をひねれば水が出る水道などがなかった昔の時代には、それぞれの家ごとに井戸があり、あるいは町中などでは何軒かで共同利用する井戸があって、滑車に取りつけた釣瓶(つるべ)で井戸水を汲んでいたのだが、その釣瓶に朝顔のツルが伸びて巻きついてしまい、あのさえざえと美しい朝顔の花がやがて咲くだろうと思うと、むやみにその朝顔のツルを切り取って、水汲みするわけにもいかず、隣の家にもらい水に行っているという、日本人の細やかな心遣いを見事に活写(かっしゃ)したかのような一句である。

 つまり、今ではこの林の中のベニバナイチヤクソウが、道を埋め尽くすまでになってしまったために、その中に踏み込むわけにもいかず、今はそのそばのヤブの中をよけて通っているのだが、問題は新たにそれをよけてのう回路を作れば、ひと時はそれでいいだろうが、やがてこのベニバナイチヤクソウが侵入してくるだろうし、まさにどうすべきか”思案投げ首”といったところなのだ。

 ところで地元の人たちは、このベニバナイチヤクソウを”赤スズラン”と呼んで、ちょうど同じ時期に咲くスズランの花と合わせて、紅白スズランとして花瓶に入れているのだと知って、私も同じようにして部屋に置いている。
 スズランに関しては、家のそばにある植林地に群生して咲いていて、今の時期には、辺りはあの甘くかぐわしい香りでいっぱいになるほどだが、植えてあるトドマツの木が年ごとに大きくなっていて、やがては日も当たらぬようになって消えてしまうのだろうが、私にはどうしてやることもできない・・・。(’14.6.9の項参照)

 前々回には、内地では北アルプス南アルプス白山などで見られる、あの高山植物のクロユリが、ここにも咲いていると書いたばかりだが、このベニバナイチヤクソウも、内地の山では高山植物の一つとして見られている。
 こうして他にもさまざまにある、内地の高山植生によく似た、北海道の高緯度植生環境が、私は好きなのだ。

 さらに、林内を歩いて行くと、この時期には、明るい緑の葉にすがすがしいばかりの可憐な花をつけたクゲヌマランが、あちこちに咲いているのを見ることができる。
 実はこれも、最初はほんの幾つか咲いているだけだったのだが、道の刈り払いをする時に注意して、一緒に切ってしまわないようにしていたので、今では道のそばに何株も見られるようになってきたのだ。
 本当は日差しがあまり当たらない所で咲いている姿の方が、楚々(そそ)とした深窓(しんそう)の美女の面影があっていいのだが、この時はちょうど日が差し込んでいて、これもまた見方によれば、はれてスポットライトを浴びた美人姉妹の姿のようで、なかなかに見ばえがする。


 
 こうしてあまり人にも会わずに田舎に住んでいると、想像力だけはふくらんでいくものだ。
 昔、タモリさん(NHKの『ブラタモリ』をつい見てしまう)がよく言っていた、あの”妄想族(もうそうぞく)”に、私もなっているのだろうか。
 
 ところで、その私の妄想がさらにかき立てられる、あのAKBの総選挙が今年もまたこの二日前に行われたのだ。
 実は、もう二三日前から、今か今かと待ち遠しい気分になっていた。
 自分ではCDも買わずに(中古CDを108円で買ったことはあるが)、つまり今回も投票に参加したわけでもなく、ましては現地の福岡ドームに足を運ぶほどに熱を入れているわけでもないのだが、AKBファンになって2年になる私にとっては、ようやく多くのAKBグループ・メンバーの娘たちの顔と名前を憶えられるようになって、それだけに、この毎年の人気投票イベントは、最近の最大の関心ごとになっていたのだ。
 それは、このブログでの去年の総選挙についての私の書き込み(’14.6.9の項参照)を見ても、さらに一段と熱が高まったのが分かるほどなのだ。
 そして、AKBグループのメンバーたちへの、情報や書き込みをする幾つかのネット・サイトをのぞいてみると、熱心なファン(いわゆる彼らが言う”おたく”の略である”オタ”)たちの、盛り上がりぶりが面白く、私の好奇心もさらに増すことになったのだ。

 今まで、AKBでの総選挙が始まって以来、当時の二人のエースだった前田敦子(あっちゃん)と大島優子(ゆうこ)が交代でそれぞれ2回ずつ、センターである1位に選ばれていて、その次の年の第5回目は、スキャンダルで福岡のHKTに左遷された指原梨乃(さっしー)が、劇的な番狂わせで1位になり(私がテレビで見るようになったのはこの時からだが)、去年は正統派アイドルの渡辺麻友(まゆゆ)が初めての女王に選ばれ、さて今年は誰がトップになるのか。
 去年”まゆゆ””さっしー”に続いて3位になった柏木由紀(ゆきりん)との三つどもえになるのか、それとも長年AKBグループを率いてきて、今年いっぱいでの卒業を発表した総監督の高橋みなみ(たかみな)が最後の花道を飾るのか、そしてアメリカ映画サイトによる”世界で最も美しい顔100人”で50位に選ばれて、さらにこの総選挙前の歌『僕たちは戦わない』で、運営側から推されてセンターをつとめた島崎遙香(ぱるる)が次世代を代表しての女王の座につくのか、さらには名古屋のSKEを率いる松井珠理奈(じゅりな)や大阪のNMBを率いる山本彩(さやねえ)が大逆転するのか。
 続いてのトップ7である”神7(かみセブン)”に入るのは誰か、そしてテレビ出演などの16人の選抜メンバーはどうなるのか、さらに17位から最後のランク付けである80位までに、立候補した280名近い少女たちの中から誰が名前を呼ばれていくのか。
 
 ただ私としては、こんなに数多くいるAKBグループの娘たちの中の、誰か一人だけのファンというわけでもなく、名前を知っている子も知らない子も含めての、年に一度の一大イベントとして見ては楽しんでいるだけなのだ・・・私の孫娘くらいの年ごろの子たちが、それぞれのプライドと意地を賭けひたむきな夢を託して手を合わせる姿に、その結果の中に見えてくる悲喜こもごものドラマに、まさに臨場感あふれる同時進行のドキュメンタリーを見ている思いがするのだ。
 もっとも、彼女たちからすれば、学級内だけの成績発表ならばともかく、テレビで全国中継されている中で、自分の順位が上がればそれだけ、ドーム会場のみんなの歓声とともに、喜びも倍加するのだろうが、順位を大きく下げたり、もしくは80位のランクの中で名前を呼ばれなかったりした場合は、それでも衆人環視のその場から逃げ出すわけにはいかないし、ただひとりさらしものになるという非情さがあることも覚悟しなければならないのだ。

 しかし今回のテレビ放送は、そんなAKBファンたちの思いを十分に満足させるような構成にはなっていなかった。
 まず去年の4時間半という放送時間に比べて、3時間半という時間枠の中では、すべての進行が慌ただしかった。
 放送局サイドとすれば、何とか日ごろからAKBになじみのない一般視聴者にも見てもらおうと、ファンにはわかりきったことを繰り返し説明していたこと。
 ”万人向けのものは、決して誰のためのものでもない”という真理を理解しているのだろうか。私の友達の一人は、”AKBが出ていたらチャンネルを変える”というぐらいだから、最初から興味のない人は見ようともしないだろう。

 さらにあえて言わせてもらえれば、変革による失敗を恐れて、旧態然たる番組構成を変えずに、日々変わりゆくAKBの姿に対応できなかったということ・・・放送局側の無能さぶりを見せつけることにもなったのだ。
 ミスを繰り返す大御所アナウンサーに、この1ヵ月AKBについて勉強したと自慢する関西の人気司会者、AKBなどに大した興味もないのに東京のスタジオに呼ばれて、ヘラヘラ笑いでちゃちゃを入れていたコメンテイターにタレントたち、(今回立候補せずにゲストとして来ていた”こじはる”小嶋陽菜と、いつもHKTと一緒の番組に出ていて真剣に中継画面を見ていた一人を除いて)・・・おそらくこのテレビを見ていた多くのAKBファンたちは、同じように思ったことだろう。
 野球の解説と同じで、野球をよく分かっていない”にわか野球ファン”に、口から出まかせの解説してもらっても、見ている方からすればどこが面白いだろうか。
 AKBの運営サイドと、テレビ局側は本気で取り組んでいるのかとさえ思いたくなるような、大きな不満の残る番組構成だった。
 
 できることなら来年からは、AKBのことをよくわかっている若手アナウンサーに司会をさせて、去年の放送の最後に出演していたAKBファンの若手評論家たちにスタジオで解説してもらい、さらにはこれが一番大切なことだが、なるべく多くの子たちの壇上でのスピーチを取り上げてもらいたい・・・当の本人たちの言葉こそが、彼女たちの今に賭けるドラマなのだから。
 たとえば去年、3期生という古参メンバーでありながら、初めて71位にランクインして、自らも驚き感涙にむせびながら座り込んで、ファンのみんなに向かって頭を下げた田名部生来(たなべみく)の姿が忘れられない。

 実はこの民放での総選挙中継の後に、NHKでのいつもの『AKB48SHOW』 が生放送されたのだが、30分の短い時間の中で、何人ものメンバーたちの喜びのコメントを簡略ながらも見せてくれたし、それをたった一人で1位の指原梨乃が説明し解説したのだ。
 民放などより、NHKの方が、よほどAKBのことを分かっていると言わざるを得ない。それはつまり、指原のトーク力も十分に知っていて、彼女一人の話に任せたNHKプロデューサーの英断の見事さでもあったのだ。
 民放での3時間半にも及ぶ、中身のない解説司会よりも、わずか30分だけだったが、この番組の内容ある充実感はどうだろう・・・。
 AKBグループを愛するメンバーの一人であるがゆえの、指原による見事な無駄のない心のこもった解説だった。
 今AKBグループ内で、これほどのことをできるのは、他にはあの総監督の高橋みなみがいるだけなのだ。この二人が卒業したら、これからの総選挙の解説は、下手な司会者やタレントを使うよりは、この二人だけに任せれば十分であり、それよりも生放送でない録画でもいいから、後日深夜帯でもいいからNHKの手になるAKB総選挙を放送してほしいとさえ思ったのだ。

 というわけで、今年の結果は、総得票数が桁外れに伸びて(何か不可解な点も残るが)、あのHKTの指原梨乃が20万近い票数で断トツ1位だったというのは、今年春の明治座公演やテレビ番組などの活躍を見ればうなづけることだし、柏木由紀と渡辺麻友の2位3位という順位も誰もが納得できることだし、今年もまだ去年からの三強の時代が続いているということだろう。
 ただし、今年何よりも印象的だったのは、あの”ぱるる”島崎遙香が、一部で予想されたトップどころか、まさかの”神7”からの第9位へのランクダウンだ。
 感情をあまり表に出さず、自分の思うがままを貫いてきた”ぱるる”がうつむいて黙って涙を流し、はじめてファンに向かって、力を貸してくださいと呼びかけたのだ。
 誰にも媚(こ)びずに我が道を行く、ある意味世間知らずでわがままでもあった”ぱるる”が、ファンの前ではじめて見せた挫折・・・彼女はやっと自分の周りを見るべく目を見開いたのだ。21歳の彼女に、まだAKBでの時間は十分にある。

 私は今までの総選挙で、CD一枚につき一票というお金がものを言うセールス主体の方法にも、その投票システムから運営に関してもあまりにも不透明な部分が多く、運営側の関与を疑ってはいたのだが、今回の総投票数の爆上げふうな増加に不可解さは残るものの、順位の発表には、おおむね納得できるところが多かった。 (そのようにファンの目を意識して、票数を調節したのかどうかは分からないが。)

 そして今回も、喜びと感激の涙に浸った娘たちと、大きな衝撃に打ちのめされて失望の涙にくれた娘たちがいたのだろうが、なあに自分の人生など、そんな勝負一回で片が付くわけではないし、これからもまだまだこれ以上の決断をして結果を受け止めなければならない時が来るはずだし、良くも悪くも、これはこの時だけの、学びの時、修練の場だったのだ。
 
 いつも書いていることだが、あのベルナルド・ベルトリッチ監督の映画『1900年』からの引用、流用の言葉でしかないのだけれども・・・。

 ”年寄りの私には、今ゆったりとした心穏やか時間だけがたっぷりとある。
 しかしそれは、近づいている終わりに限られての時間でしかない。
 ところが、君たちは今、激情あふれる喜びの中にいる子がいるかと思うと、一方では悲嘆のどん底の悲しみの中にもいる子もいるのだろうが、それは今の時間だけでのことでしかなく、未来に向かっての目の前には、まだまだこれから何度でも勝負の時があり、そこで失敗してもまだ出直すことのできる、ゆったりと続く時間の大海が広がっているのだ。
 この、みんなくそ可愛い日本の若い娘たちよ! 君たちに、未来はたっぷりとあるのだよ。”
  


  

  


オオサクラソウの教え、ダケカンバの教え

2015-06-01 22:10:13 | Weblog



 6月1日

 数日前に、山に登ってきた。
 朝いつものように、4時の日の出のころには起きて外を見たのだが、何とそこには、ずらりと残雪の日高山脈が立ち並んでいた。
 まだ戻ってきて、二週間余りしかたっていないけれども、これほどまでに空気の澄み渡った、見通しの効く天気の日は初めてだった。
 これは、何としても山に行かなければならない。

 もっとも前日の天気予報を見て、こうした天気になるだろうことは幾らかは予想していて、山に行く準備も整えてはいたのだが。
 つまり、前回にも天気のことで書いていたように、晴れた日が続いているのに、翌日の予報で気温が下がり、なおかつ晴れマークが変わらずについているということは、天気が続く時によくあるように気温も次第に上がって、それによって空気も温められて水分を多く含み、視界も悪くなるというパターンではなく、冷たい空気が入ってきて、それまでの濁った空気と入れ替わり、見通しもきいてくるという好ましい状態になることが多いのだ。
 もっともそれでも、気になる点もある。つまり冷たい空気が入ってくると、暖かい空気と触れ合って雲が湧き山にかかるということもあるからだ。
 しかし、今はそんな心配をしている時ではない。目の前に見せつけられた、おいしそうなごちそうを前に走り出さない馬はいないはずだ。
 私は、クルマに乗って家を出た。
 途中から見える、なじみある日高山脈の山々をそれぞれにちらりちらりと目をやりながら、南へと向かった。

 日高山脈最南端の名山、楽古岳(らっこだけ、1472m)が行く手に見えていた。
 この山は今までに、4回登っている。
 そのうちの2回は、今はもう札楽古(さつらっこ)林道の荒廃から廃道同然になりつつある広尾側から登ったものであり、一つは、春先の残雪期に、隣の十勝岳とのテント泊縦走での起点としてたどった道であり、さらに残りの2回は、今では唯一の登山道のあるコースとしての、浦河町上杵臼(かみきねうす)の楽古岳林道からのルートであり、さらにそのうちの一つは、メナシュンベツ川を遡行(そこう)しての沢登りで登ったものである。
 もちろんすべて単独行だったし、これほどの有名な山にもかかわらず、いつも平日を選んでの登山だったから、他の登山者に会うのもまれだった。
 そして、今回楽古岳に登ろうと思ったのは、前回の登山から何ともう10年余りもたっていて、”冥途の土産(めいどのみやげ)”にもう一度は登っておきたいと思ったからでもある。

 ところで、こうして日高山系の山に登る時に、まず第一に気になるのは、この奥深い山々に多く生息する、体長2m体重300㎏にもなるヒグマとの遭遇(そうぐう)である。
 今にして思えば、北海道の山に登り始めたころは、特に日高の山に登る時には、一般登山道も少なく、原始的秘境性が残されているがゆえにヒグマも多く、そのまさかの場合に備えて、登山装備はどうしても物々しいものになっていたのだ。
 もし、ヒグマに至近距離で出遭(あ)って、逃げれば相手は追う習性があるからできないし、もし相手が立ち去らなければ、結局最後にはその巨大な相手に向かって闘うしかないからと、登山ナイフと鉈(なた)を腰に下げ、爆竹も用意して、鈴も2種類、一つにはザックに一つにはストックにといういでたちで、そうまでしてでも日高の山々にひとりで登っていたのだ。

 しかしその後、何冊ものヒグマに関する本を読んでは、その生態行動などを知り、爆竹はかえってヒグマを興奮させるだけで危険だとか、早朝夕方霧模様の時などには特に注意することなどと、多くのことを教わり、さらには実際自分も、離れた距離ではあるが何度かヒグマに出遭ったことがあり(’08.11.14の項参照)、それらの経験から、ヒグマはむやみに人を襲うわけではないということが分かって、今では、ただ山登りの要所要所で鈴を鳴らすだけという、いたって普通の登山スタイルになってきたのだ・・・もっとも、相変わらずの単独行での不安は続くが。

 さて、大樹(たいき)の街を過ぎて、国道236号のいわゆる”天馬街道(てんまかいどう)”へと向かう短絡路の途中からは、残雪の楽古岳の颯爽(さっそう)とした姿を見ることができる。(写真上)
 南日高の山に登るために、もう何度、この道を通ったことだろう。
 それまでの襟裳(えりも)岬周りの、たびたび交通止めになることのあったいわゆる”黄金道路”を通って、十勝から日高側へと回っていたのに比べて、この日高山脈を貫く野塚トンネル経由の”天馬街道”ができて以来、南日高の山々に登るのが、どれほど楽になったことか。(自然破壊のトンネルだとの声もあったのだが。)

 その野塚トンネル出入口を起点に、北に向かえば、トヨニ岳(1529m)からピリカヌプリ(1631m)、ソエマツ岳(1618m)へ、南に向かえば、野塚岳(1353m)からオムシャヌプリ(1379m)、そして十勝岳(1457m)からこの楽古岳へと、それまでの半日分のアプローチが省略されて、日帰りもしくはテント泊縦走の山旅ができるようになったのだ。
 (さらに付け加えれば、高度はぐんと低くなるが楽古岳以南にも、ピロロ岳(1269m)、広尾岳(1231m)そして最南端の豊似岳(とよにだけ、1105m)と続いていて、いずれも積雪期に登ったのだが、それぞれに素晴らしい眺めを持った登りごたえのある山々だった。)

 もっともそれらの山には、積雪期に雪を利用して支尾根にとりついてからの稜線歩きか、あるいは夏から秋に沢登りで稜線まで詰めて登るといった、とても初心者にはそう簡単に登れる山々ではないのだが、そんな中で唯一、登山道がつけられているのがこの楽古岳なのである。
 逆に言えば、この日高山脈は、いわゆる夏道の登山道がつけられた山が少ないから、夏の沢登りか、あるいは積雪期の尾根伝いとグレードが上がり、それだけに人が入り込むのも少なく、あの知床の山々以上に、いまだに秘境性を保った山域であり続けられるのだろう。
 私が日高山脈を好きになり、その山麓平野に住みつくほどまでにのめり込んだのは、百数十キロにも及ぶ、あの北アルプス、南アルプスに匹敵するほどの大山脈でありながら、高度は1000m余りも低いけれども、同じように氷河に削られたカール地形もあって、十分な高山の雰囲気を備えているにもかかわらず、いまだに登山者の少ない、原始的な匂いを残した山域であったからでもある。

 さて、ついつい好きな山の話になると止まらなくなるのだが、この辺りにして、先を急ごう。
 クルマは山間部に入り、新緑の山ひだを眺めながら、野塚トンネルに入り、日高側の浦河(うらかわ)方面に抜けて下りて行くと、途中から左に曲がる道に入り、砂利道になる。行く手の牧場の牧草地の彼方に一際高く、楽古岳の見事な円錐形のピークが見えてくる。
 どこから見てもそのツンととがったその形は、まだ登ってはいないけれども、テレビや写真でたびたび見ているあの東北の名山、朝日連峰の主峰、大朝日岳(1871m)に似ているといつも思うのだが。
 その先から楽古岳林道になるのだが、長い間土砂崩れで通行止めになっていたほどで、あちこちに補修土止め工事が施されていた。
 ほどなく、終点の楽古岳山荘小屋の前に着く。平日だから他に誰もいない。そこにクルマを停めて、歩き出したのはもう7時に近かった。

 すぐにメナシュンベツ川の流れを渡るのだが、昔は水量が多いと靴を脱いで渡るしかなかったが、今では円柱のコンクリート・ブロックが流れの中に飛び石のように並べられていて、”因幡(いなば)の白ウサギ”ならずとも、楽に対岸に渡ることができる。
 後は、林道跡の道から、川の両岸に広がる河畔林(かはんりん)の中をたどる踏み跡道になる。川の流れ音の中で、鈴を鳴らして歩いて行く。
 明るい林で、下草にシダ類のオニゼンマイなどが群生していて、あの南アルプスは仙塩尾根(通称バカ尾根)の樹林帯の道に似ているが、何よりもうれしいのは、今の時期に日高の山々の山麓、渓流沿いなどによく見られる、赤いオオサクラソウが点々と咲いていることである。

 5回ほど石伝いに川の流れを横断するが、まだ雪どけ水の多い時期で、水面下の苔で滑りやすい石の上に靴を置くしかない所もあって、気をつかう。
 1時間ほどで、上二股の尾根取り付き点に着く。そのそばにあった苔むした古い倒木の上には、十数株のオオサクラソウが根付いて咲いていた。(写真下)

 生きることとは、こうしたことなのだよと、教えてくれているように。
 どこで生まれようが、いつの時代に生まれようが、命あるものとして生まれたからには、ただそこで生きていくだけのこと・・・。

 さて、一休みした後、目の前の急斜面のにつけられたジグザグの道をたどって行く。
 そして、私は、今か今かと待ち構えていた。
 十数年前、同じ時期にこの道をたどったことがあって、その時に、道のそばに延々と続くオオサクラソウの一大群落に出会い、思わず声を上げたほどだったからである。
 しかし、あのひと時は幻だったのか。今はただ、道の両側から生い茂るササの陰に、いくつかの花が見えるだけだった。
 ササに負けてしまったのだ。

 思うに、あのころはまだ登山道の手入れが定期的にされていて、道の両側のササ刈りも行われていて、明るい感じの山道だったのだが、今では、ササ刈りもされずに、道も所々小さく崩れたりしているほどで、積雪期にはとても道だとは分からないだろうとさえ思われる。
 内地の場合は、北や南アルプスなどは、営業山小屋が幾つもあって、彼らが定期的に手入れしているから、歩きやすい登山道が保たれていて(特に思い出すのは、今は亡き、あの北アルプス餓鬼岳(がきだけ、2647m)小屋のオヤジさんで、その登山道にかける執念には頭の下がる思いがしたものだ)、ところが北海道には管理人スタッフが何人もいるような営業小屋など一軒もないし、それどころか九州と四国を合わせてもまだ広い面積の中に、人口は一県あたりほどしかなく、国立公園管理センターなどがある大雪山など以外の山では、登山道の手入れは、とても善意の地元山岳会などだけの手におえるわけもなく、こうして手入れがされないままになっているからなのだろう。
 さらに前にも書いたことがあるが、ササの侵入繁茂による高山植物帯の減少は、あの大雪山は五色が原の南側においても顕著に見られるが、20年ほど前までは、赤いエゾコザクラや彼方にまで続く黄色のチシマノキンバイソウの群落があったというのに。

 それも今となっては仕方あるまい、植物たちはまた人間たちが手を加え新たに作り出した環境の中で、それでもそれぞれに生きていくほかはないのだから。文句一つも言わずに。

 急斜面のジグザグ道が終わると、ようやくなだらかになった尾根に出た。
 ここからしばらくは、緩急繰り返しの新緑の明るい尾根道が続いている。
 新緑のカエデ、ナナカマド、ミズナラそしてダケカンバが立ち並んでいて、所々にオオカメノキの白い花が咲いていて、ムラサキヤシオの赤いツツジの花が目に鮮やかだった。(写真下中央)


 さらに一休みして、いよいよこれからは、ダケカンバ帯の急な登り道がえんえんと続く。
 尾根の下の方では、まっすぐに上に伸びていたダケカンバの枝が、雪の重さで幼樹のころに根元から曲がり、そのまま成長して横に伸び、さらに先の方で上に伸びているのだ。
 自然の力に従いながらも、できるだけの自分の力でと抗(あらが)いながら、生き続けていこうとする力。

 バテバテになって、ようやくハイマツに囲まれて展望が開けた1130m点に着いたが、まだ目の前には雄大な斜面を見せて、肩から続く頂上稜線が見えている。
 振り返ると、登ってきたこの尾根と下の谷の向こうに、アポイ岳(810m)とピンネシリ(958m)の山塊が見え、しかしその向こうには海岸線からの雲が押し寄せてきていた。
 重い腰を上げて、さらに肩に続く急斜面を登って行く。何度目かのジグザグを繰り返した後、ようやくダケカンバが小さくなり、低いミヤマハンノキの灌木帯の向こうに、待望の日高山脈の眺めが、縦位置の山の並びになって続いていた。
 手前に大きく十勝岳、さらにオムシャヌプリ、野塚岳、トヨニ岳、ピリカヌプリ、左に神威(かむい)岳と続き、さらに遠く、カムイエクウチカウシ山から右に張り出して、エサオマントッタベツ岳、札内岳、十勝幌尻岳などを見ることができる。
 ただし気になるのは、今や稜線部分が隠れてしまったアポイ岳方面だけではなく、目の前の十勝岳の上にも、まだ小さいけれども雲が流れてきていたことだ。(写真下)

 

 この稜線から道はゆるやかに頂上へとたどるのだけれども、雲がかる前には何とか頂上にと気は焦っても、もう足はバテバテでなかなか前に進まない。
 ただ、細い道の所々に咲いているキバナシャクナゲに、小さなキクザキイチゲ、ケエゾキスミレの花に慰められて、ダラダラと登り続けて、ようやく目の前に、ミヤマキンバイの小さなお花畑が広がり、もう登るべき所はなかった。
 標高差1100mほどを、コースタイムの3時間50分よりは、30分余りも余計にかかってしまったけれども、ようやく5度目の楽古岳の頂上にたどり着いたのだ。
 やはり、十勝岳の頂上付近にはもう雲がまとわりついていたし、南側の中楽古からピロロ岳、広尾岳、そして襟裳岬方面もすっかり雲に包まれていた。
 その中でも、西北の十勝平野方面は相変わらずの青空が広がっていたし、なによりもうれしかったのは、いつも今の時期に見ることのできる、頂上を黄色く覆うミヤマキンバイの群落だった。(写真下、背景は雲がかかり始めた中楽古からピロロ岳方面)



 いつもの誰もいない頂上で、もっとゆっくり展望を楽しみたかったのに、この雲行きではもう晴れることはないだろうからと、わずか30分足らず居ただけで、頂上を後にすることにした。
 振り返ると、ミヤマキンバイの黄色い頂上が次第に見えなくなっていた。
 ”Adieu l'ami (アデュー・ラミ)”、(1968年フランス映画『さらば友よ』の原題)、もう二度と来ることができないかもしれない頂きに向かって、感謝をこめて別れの言葉をつぶやいた。
 さすがに、登るよりは楽だけれども、下りは下りで踏ん張る力が必要だから、ただでさえ疲れた脚にはこたえる。
 行きに休んだところで、同じように束の間腰を下ろすが、やはり脚がつってきた。
 長居は脚によくないとすぐに立ち上がる。むしろゆっくりでも歩き続けていた方がいいのだ。
 ようやく尾根から、あの沢へと下りるジグザグのササの斜面にまで降りてきたが、足がなかなか上がらないと思った瞬間、木の根につまずいて、もんどり打って倒れてしまった。ササが茂っているので転がり落ちることはなかったが、やはり年寄りの体力の上に疲れが重なってと、自戒することしきりで、それからは、さらにゆっくりと足元に注意して降りて行った。
 
 沢の流れの音が近づき、ようやく取り付き点に戻ってきた。ここからは、沢沿いの平坦な河畔林歩きだけだと思うと、元気が出てきて、あとは五か所の渡渉(としょう)点を慎重に渡り、途中のオオサクラソウの写真を撮ったりして、いつものAKBの歌でも口ずさみながら、歩いて行った。
 最後のコンクリート・ブロックの渡渉点を渡り、振り返ると、そのメナシュンベツ川の両岸に茂る新緑の林が光を浴びてきれいだった。

 下りは、疲れてもいたし写真を撮ったりしていたためか、これもコースタイムよりは30分余りも余計にかかって、3時間も、つまり、今回は休みも含めて8時間もの山行ということになるが、今の私には限度いっぱいの、しかし久しぶりのいい山歩きだった。

 さらに書き加えれば、心配したヒグマの足跡やフンも見ることはなかったが、あちこちにエゾシカの足跡がついていて、尾根道の下草がササとくれば、これはもう当然のことだが、マダニがつき放題で、時々ズボンについたやつをつぶしたり払いのけたりだけでも10匹ほどになり、もちろん家に帰る前に途中の温泉に入り、衣類も着かえたのだが、おそらくは頭についたものが、ずっと動き回っていたのだろう、昨日の夜になって脇が気になって見てみると黒い点が・・・やはり食いつかれていたのだ。
 しかし、まだ血豆のようになるまで血を吸って膨らんではいなかったので、小さなキャップに酢を入れて、その部分にしばらくあてがった後、そのダニをはがし取ったのだが、まだ今もその部分が赤くはれ上がっている。

 今まで毎年、繰り返し同じようにダニに食いつかれていて、こんな年寄りの古くなった血を吸ったところでとも思うが、ダニにとっても、できることなら若いネエちゃんたちの新鮮な血を吸って、その若々しい血を栄養にして、たくさんの卵を産みたいのだろうけれども、こんな山奥に、そんなきゃぴきゃぴのAKBみたいなネエちゃんが来るわけでもなく(彼女たちも総選挙で大変な時期なのだ)、仕方なく、もう枯れたヨレヨレじいさんの血を吸うしかないのだ。
 
 まあ、生きていくとはそういうことなのだろう。まずは目の前に、食べるものがあることだけでも、十分だと思えばいいのだから。
 ダニの教え、オオサクラソウの教え、ダケカンバの教え・・・。