ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

すべての生者たちの上に

2017-06-26 20:32:33 | Weblog



 6月26日

 緑色に満ち溢れた林の中。
 萌黄(もえぎ)色から、黄緑そして緑色へと、木々の葉はその色を変えていく。
 その中でひとり、薄紅色の葉先が目立つ樹がある。
 秋には見事な紅葉で、私を楽しませてくれるヤマモミジである。
 その新緑の、枝先の先端部分の葉が、まるで紅葉の始まりのころのように、淡い赤色に染まっている。

 こうして、新緑の葉先が赤くなるのは、このヤマモミジだけではなく、他のモミジの仲間やヤマザクラなどでも見られることであり、さらには庭先のバラの芽なども、薄赤くなるのだが、生物学的に解釈すれば、幾つかの理由が考えられるとかで、その中でも最も大きな理由とみられているのが、まだ芽生えたばかりの若い葉の、自己防衛反応ではないのかということである。
 つまり、まだ葉緑素生成能力が十分に備わっていない、芽生えたばかりの弱い赤い葉は、日光の強い紫外線から身を守るべく、あるいは虫たちから食べられてしまわないように、抗菌作用のある赤いアントシアニンを分泌しては、自らの体を守っているというのだ。
 ともかく、人間の進化よりはさらいに古い歴史を持っていて、この地球上で繁栄し続けてきた植物たちには、新参者でしかない私たち人間の浅知恵では、とても解決できない多くの謎があって、それは生物の側から言えば、進化の過程の一つにすぎない当たり前の事実なのだろうが。

 それにしても、植物と違い自由に動き回ることのできる、他の生き物たち動物たちは、子供のころどういうふうにしてわが身を守ってるのだろうか。
 卵生などの場合には、卵からかえった子供たちは、もうその時からひとりで生きてゆかなければならないという、極めて危険な生存競争の場に放り込まれることが多い。
 それは、今までに何度も書いたきたことであるが、あのガラパゴスのイグアナの子供たちのように、大勢の蛇たちがかたずをのんで待ち構えている中、その生と死の修羅場(しゅらば)を潜り抜けていかなければならない。
 それだからこそ、その生存率を高めるために、その母親は数多くの卵を産むという手段をとったのだろうが。 
 そして哺乳類の胎生(たいせい)という形をとる場合でも、生活圏が危険に満ちた環境の中にある場合は、当然その数も増えることになるのだろうが、人間などのように、普通には一度にひとりという場合は、もちろんその分、母体の負担は軽減されても、一方では、成長に時間がかかる子供が独り立ちするまでには、長期にわたっての保護が必要となり、母親や父親の負担が増すことにもなる。

 しかし、その成長の過程のただ中で、母親なり父親なりの庇護(ひご)が受けられなくなったとしたら、子供たちはどうなるのだろう。

 ひとり、報道陣の待ち構える部屋に入って行って、自分の妻の死を伝える、39歳の男の涙にぬれた顔・・・。
 おそらくは、テレビを見ていた多くの人々が、もうその姿を正視できずに、同じようにまぶたを熱くしたことだろう。

 幾つもの思いが、錯綜(さくそう)する。
 もちろん、誰よりもつらく悲しい思いをしたのは、ガンに侵され亡くなっていった彼女自身だったのだろうが。
 まだ幼い4歳と5歳の子供を残して、夫婦としての絆に結ばれた夫とも別れて、その当代きっての歌舞伎役者の夫の、これから大成していく様も見られずに・・・。

 数年前、私の友達の娘が血液のガンに侵されて、同じようにまだ幼かった二人の子供と、やさしい夫を残して亡くなってしまった。まだ28歳という若さだった。
 私も病院に見舞いに行き、そして彼女も、家族みんなで私の家に来てくれたこともあったのだが、あの時のすっかり弱ってきていた、彼女の面影に重なってしまう・・・。

 残された子供・・・私は同じ年頃のころ、父親がいなくて、母親の手一つで育てられていたのだが、苦しい生活の中、母親は遠く離れた町に働きに出ていて、一月に一度、私に会いに来てくれていた。
 その母親が、歩いて30分もかかる駅に戻る時、まだ6歳の私は泣きながら後をついて行った・・・ほこりまみれの田舎道を歩いて。
 それから数十年がたち、母は私が見守る中で、息を引き取っていった。
 誰にでもそうした時があるものだろうが、その時、私は、これ以上泣くことはもうないだろうほどに、声をあげて泣いた。
 
 たとえ肉親でも、遠く離れて暮らしていれば、まずは自分の今の家族と身の回りの人々のことが第一の関心事になり、どうしても日々の親への思いは疎遠になってしまい、訃報(ふほう)を聞いてその時にやっと気づくものだが、一方では、毎日生活を共にして傍にいた、妻や子や肉親などの家族などが、目の前で死んでいくのを見ることほどつらいものはないのだ。

 さらに、この度の小林麻央の、まだ34歳というあまりにも早すぎる死は、子供たちや夫に与えた衝撃もさることながら、残された夫である市川海老蔵が背負っているものを考えると、さらなる大きな影響が及ぶことだろうと憂慮せざるを得ないのだ。
 たいした歌舞伎ファンでもない私から見ても、歌舞伎界第一の名門である”成田屋”市川團十郎の門跡を継ぐ、海老蔵が、その家柄だけでなく、その明快華麗で躍動的な演技・口跡が、歌舞伎界の次世代を担う筆頭の位置にあることは、誰しもが認めるところであり、時を経て市川團十郎の襲名をしてくれるのだろうが、さらに私が生きている間にも、更なる見事な”市川團十郎”像を確立させてくれるものと期待しているからなのだ。
 4年前に、父親であり芸の師匠でもあった先代の十二代目市川團十郎を、血液のガンである白血病で失い(66歳)、この度は、今後の大きな支えとなってくれるだろう妻を乳ガンで失い、それだけに、まだ39歳の彼の涙の会見が、なおさらに胸を打つのだ。

 この世には、誰にでも、仏教に言う”四苦八苦”の世界が待ち構えている。
 有名な”四苦”である、”生、老、病、死”はもとより、さらなる”愛別離苦”(あいべつりく、愛するものと別れる苦しみ)、”怨憎会苦”(おんぞうえく、怨みや憎しみに出会う苦しみ)、”求不得苦”(ぐふとくく、求めるものを手に入れることのできない苦しみ)、”五蘊盛苦”(ごうんじょうく、様々なものに執着するる苦しみ)がある。
(こうしたことをネットで調べていたら、最初の”愛別離苦”に対して、普通一般に言われている”大乗仏教的”な、”愛別離・苦”という解釈ではなく、”上座部仏教(旧小乗仏教)”的な解釈をすれば、”愛別・離苦”つまり愛するものと別れることによって苦しみからも離れることになる、という解釈も成り立つのではないかとの質問が投げかけられていた。 
 私もそうした解釈のほうが、”四苦八苦”の苦しみからは離れられる、いわゆる”ブッダの教え”に近いものだと思うのだが、しかしそうすると、その次にまだある三つの苦しみとの整合性がなくなってしまうのだ。)


 ともかく、今回の市川海老蔵の悲劇は特別なものではなく、世の中には同じような、いやそれ以上の不幸・不運に見舞われた人々など、いくらでもいるはずだ。
 そして、彼ら彼女らは、そのような運命の試練にくじけることなく、自暴自棄になることなく、やがては、そこからの自分の道を切り開いていったのだ。

 死者は、周りの者たちの胸に永遠に残るとしても、もう二度と戻ってくることはないのだから。
 時は、時間をかけて、そのことを私たちに教えてくれる。
 そして、それが初七日か、四十九日目か百日目か一年目か、あるいは十三年目にまでなるのかどうかはわからないけれども、その時こそが、私たちが新たな道に向かう第一歩になるのだろう。

「・・・。
 彼の魂は雪の降る音を耳にしながら、次第に知覚を失っていった。
 雪がかすかな音を立てて宇宙に降り、最後の日の到来のように、かすかな音を立てて、すべての生者たちと死者たちの上に降りそそぐのを耳にしながら。」

(ジェイムズ・ジョイス著『ダブリン市民』より「死者たち」高松雄一訳 集英社)
 
(あの往時のアメリカの名優ジョン・ヒューストン監督によって、1987年に映画化された名作、この『ザ・デッド/ダブリン市民』のラストシーンは、まさに原作通りの情景にナレーションが流れていて、素晴らしい余韻を残しつつこの映画は終わっていったのだ。)

 夕暮れの日高山脈に、少し雲がまとわりつきながら、茜(あかね)色に染まっていった。(写真下)
 このところ、ぐずつき気味の天気が続いていて、なかなかすっきりとは晴れてくれないのだ。そろそろ山に行きたいのに・・・。

 こうして記事を書いていたところに、何と遠方に住む友達夫婦が、久しぶりにわが家を訪ねてきてくれた。
 他にも用事があるとかで、短い間の談笑のひと時だったが、電話で声を聞くよりも、こうして目の前に二人の顔を見ながら話ができることが、何よりもうれしかったし、ありがたいことだったのだ。
 年寄りになってからは、なおさらのこと。


 
 
 


眠りに落ちるとき

2017-06-19 22:08:32 | Weblog



 6月19日

 晴れて、さわやかな日々が続いている。
 朝は、まだ10度以下になっていて肌寒いけれども、日中は20度を超えるくらいにまで気温が上がって、日差しには夏の暑さが感じられる。
 しかし、日陰に入れば、さわやかな風が吹き、汗ばんだ体もたちまちのうちに乾いてしまう。
 そう、一か月前の、まだ九州にいたころの、あの春の盛りのころのさわやかさなのだ。

 私が北海道を好きになった、最も大きな理由は、こうして一月遅れでゆっくりと来る、春から夏へのさわやかさと、それに対して、一月早く来ては足早に去っていく豪奢(ごうしゃ)な秋と、辺り一面が雪に覆われて、かたくななまでに変わらない、あの冬の厳しい寒さにある。 
 つまりは、春夏秋冬、一年中の北海道が好きなのだが・・・。

 ここで、また同じことを繰り返し書くことになるが、そこまで言うのなら、北海道と九州半々の今の生活を改めて、ずっと北海道にいればよさそうなものだが・・・しかし、何しろ北海道の田舎の林を切り開いて建てた家だから、若いうちはその不便さが、野趣(やしゅ)あふれる楽しみにもなっていたのに、年を取ってきた今、一つ一つがこの上なく不便に思えてきたのだ。 
 すべてを独力で、安上がりに家を建てたものだから、浅井戸の水は涸れることが多く、何度も隣近所にもらい水に行かなければならないし、そのために、日ごろから水はけちけちと使うくらいだから、外に作った五右衛門風呂に、薪(まき)を燃やして沸かし入れるのは、その前に雨が降り続いて井戸の水量が豊富な時だけだ。 
 だから当然のこと、古い二層式の洗濯機を使って洗濯するなど、めったにできやしない。 
 さらに、トイレは外に木クズを振りかけての溜め込み式だから、夜や雨の日や雪が積もっている冬場などは、外に出るのがいやになる。 
 もっとも、小さい方は、庭のまわりにし放題だから気分はいいが、その分雑草の育ちが良くて、草刈りの回数が多くなってはしまう・・・。

 そんなにまでして、この家に居たいのは、もちろん上に書いたように、心地よい北海道の季節感を味わうためであり、晴れた日に目の前に広がる十勝野の景色と、日高山脈の眺めがあるからだ。
 さらに加えて、家を取り囲む林の木々や草花たちや鳥や虫たちを、日々眺め観察しては楽しむことができるからだ。
 こちらに戻ってきてもう一月がたつが、その不便な生活に慣れるにしたがって、やはりここはいい所だと思う。

 その一か月の間、エゾムラサキツツジに始まって、エゾヤマツツジから、さらにはレンゲツツジの赤桃色から、薄黄色に至るまでの花が咲き続けては、私の目を楽しませてくれた。
 そんな庭のツツジも、もう終わりに近づいているが、その周りに群生しているチゴユリは今が盛りだし(写真上)、さらには、あちこちで群れになっている、地元の人がマーガレットと呼んでいる、フランスギクの花も咲き始めたところである。(写真下)

 
 
 実は、このフランスギクは、最近、駆除対象の外来種植物に指定されたのだが。 
 確かに、いったん根づくとそこから根を伸ばして、密度の濃い集団を作って広がっていき、他の植物が入り込めなくなり駆逐されてしまうからだろう。 
 しかし、私としては、前回前々回と書いてきたように、セイタカアワダチソウやセイヨウタンポポは目の敵のような思いで、見つけ次第、引き抜いているのに比べて、このフランスギクだけはとても駆除するどころか、そのまま咲いていてほしいから、これ以上は広がらない範囲の限度を守って、あちこちの群落の部分だけはそのままに咲かせているのだ。
 花を見ている人間の立場からすれば、いくら駆除すべき外来種とはいえ、マーガレットと呼ばれるほどに、清楚(せいそ)なその花たちの群れを、どうして引き抜いてしまうことなどできようか。
 
 たとえて言えば、女の子が美人に生まれついていればやはり得をするように、私の家の庭に咲くこのフランスギクも、その可憐な姿から、抜き取られずに得しているのだろうか。  
 思えば、人間が見い出して育ててきた花は、そうして見た目がいいものだけが選ばれて、園芸種として守り育てられてきたということになるのだろうが。

 しかし、草花たちの間には、そうして人間に忌み嫌われ、引き抜かれても、セイタカアワダチソウやセイヨウタンポポのように、外来種の旺盛な繁殖力から、相変わらず増え続けているものが、他にも数多くあるのだ。
 さらには、在来種の中でも、雑草として草取りの対象になることが多いのは、オオバコである。
 見た目にもあまりきれいだとは言えないし、地面に固く根づいていて、平たく伸ばした葉の間から、種子のついた茎が伸びてきて、その種が人間や動物たちに踏まれては、先の方へと運ばれゆき、そこでまた発芽して根づくことになるのだ。

 特に山に登る時、登山口から続く登山道の道の両側に、ずっとオオバコが生えているのを見て、がっかりすることがあるが、それはオオバコが、高山植物とは真逆の、下界を思わせる道端に生える雑草だからである。
 というのも、それは登山者の登山靴の裏にくっついて運ばれてきたからであり、すべては私たち登山者の責任でもあるのだが。
 ”憎まれっ子、世にはばかる”と言うべきか、それでも彼らは生命力たくましく、人に踏まれ車にひかれて葉がボロボロになっていても生き続けては、何とか次の世代のための種をつけた茎を伸ばしていくのだ。
 しかし、そんなオオバコにも、”一寸の虫にも五分の魂”があって、実は重要な漢方薬草の一つでもあるということも言っておきたい。

 振り返ってわが身を見れば、確かに、見た目がいかつく怖くて、”イケメン”に生まれなかった私は、それだけにいろいろと差別を受け引け目を感じることもあったのだが、それならば、その分どこかに得するところや利するところがあったかというと、もちろん目立ってこれと言えるようなことや、他人から評価されるようなことは何もなかったのだが、ただこうして今、自分が望んだような静かな生活を送ることができているということは、これまでのそうした負の重荷の代わりに、均衡を取るかのように、神様がつかの間の平穏のひと時を、私に与えてくれているからに違いないし、そう考えることにしているのだ。信じる者は、救われるものだから。  

 さて今は、この愛するその北海道の山々が見える所に戻って来ていながら、まだ一度しか山に行っていない。(5月30日の項参照) 
 それは一つには、前回の登山でいつものことながら、ひどく疲れて足を痛めてしまったからであり、さらには、これから山に登るとしても、若い時には気にならなかった登山口までの長時間の行き帰りのドライブがあるし、そう思うと、登山への思いや意欲が失われてしまうのだ。
 さらには、山に行かなくても、ここには家の周りに広がる自然があり、遠くに山々が見え、毎日の大工仕事や庭仕事に林内仕事があるし、そして一昨日には、とうとう自分の家の五右衛門風呂を沸かして入ることができたのだから、もうそうしたことだけでも、十分に北海道生活を楽しんでいるのだからと思ってしまうのだ。

 まあ、とは言っても、それらは単なる言い訳にすぎず、要するに年寄りのおっくうさ、面倒くさがり、腰の重さからきていることなのだ。 
 こうして年寄りは、自分で自分を年寄りにしていくのだろう。ああ、なげかわしい。

 この一週間の仕事と言えば、草刈り鎌による二度目の芝生の刈込みに三日間かかり、さらに畑に野菜苗を植えこみ、イチゴ畑に肥料をやり、相変わらずのセイタカアワダチソウの抜き取りをして、そして大工仕事としては(DIY,”do it yourself"なんて言葉は使いたくない)、古くなって壊れた郵便箱を新たに作り直し、道からの入り口の柵を補修し、林内作業としては、新たに見つけたスズラン群生地のまわりの草刈りをし、去年切っておいたカラマツの皮むきをして、五右衛門風呂を沸かすための薪割りをしてと、それぞれ一日二三時間だけの仕事を午前午後として、日高山脈に沈む夕日を見ては、今日も一日、生きながらえたことに感謝し、後は自分で作った簡単な夕食を食べながらテレビを見て、10時過ぎには寝るという毎日なのだ。

 こちらに戻って来て以来、あまり本を読まなくなってしまった。 
 一応、寝る前には本を広げて読もうとするのだが、すぐに眠たくなって、本を閉じて寝てしまう。 
 その眠りに落ちて行く時は、なんと気持ちが良いのだろう。
 おそらく、永遠の眠りにつく時も、それとは知らずに、毎日の眠りに落ちて行く時のように、すべての意識が遠のいていくような、苦痛さえも遠のいた、穏やかな導入部になっていくのだろう。
 
 死は、死を思う人たちが未知なるがゆえに恐れているだけであり、あるいは、死にゆく者を見ている人達が恐れているだけであり、当の死にゆく者ものにとっては、実は眠りゆく中にあるだけのことであって、それほど怖いものではないのかもしれない。
 そう考えることによって、ひとりでいて何もない私でも、来世などあるはずもない個人の終焉(しゅうえん)となるもの、つまり死というものが、まさに誰でもが一人で向かうしかない、永遠の眠りでしかないのだからと思われてくるのだ。
 私たちは、生まれたその時から、日々繰り返しては、永遠の眠りにつくその時のために、繰り返し眠りの訓練をしているのではないのか。

『最期のことば』(ジョナソン・グリーン編、苅田元司・植松靖夫 著訳、教養文庫・社会思想社)より。

「眠れる!やっと眠れる。」 
 アルフレッド・ド・ミュッセ(1810~57、フランスの詩人・劇作家。ジョルジュ・サンドの恋の相手としても有名だったが、晩年は多病で孤独のうちに世を去った。)

「生きている方がいいのだが、でも死ぬのは怖くないよ。」
 ベンジャミン・ディズレリー(1804~82、イギリスの政治家。首相も務めたが、総選挙に敗北して辞職して翌年に死去。)

 今日は、一日中、曇り空のままの肌寒い天気で、気温は、朝の9度からあまり上がらずに13度と、ストーヴの薪を燃やしてもいいくらいだったが、部屋の温度は16度と、まずは何とかそのままでも過ごすことができるくらいだった。 
 そんな中、昼過ぎに一眠りした後で、つい日ごろから思っている、眠りに近い死について書いてみたくなったのだが、それも、この重たい曇り空の下、私の生来の”お天気屋”な性格ゆえかもしれない。
 日々、私の頭の中の太陽は行ったり来たりしていて。

 二日前には、”AKB総選挙”があり、あのごひいき番組『ブラタモリ』を見るのも忘れて、さらには眠たくなるのも忘れて2時間20分にも及ぶ生中継番組を見てしまった。
 いつものことながら、ファンたちの投票でランクインして、センター・マイクの前で感謝のスピーチをする、ひたむきな孫娘たちを見ては、このおいぼれじじいめは、ひとり涙するのでありました。

 それにしても、これほどまでになったAKBグループの最大のイベントなのに、事前のコンサートが中止され、せっかく沖縄まで行ったファンたちの思いも考えないで、公民館での無観客の選挙結果発表になってしまい、いつもの盛り上がりに欠け、AKB衰退に拍車をかけるようなもので、運営側の取り返せないほどの失態ぶりが、あまりにも情けなかった。
 数年にも及ぶAKBファンの私の思いも、明らかに今までほどの熱がなくなってきた気がするし、それは、年のせいかもしれないが。
 もっとも、控えめなAKBファンとして、老後の数年間を楽しませてもらって、作詞家兼総合プロデューサーの秋元康とAKBの孫娘たちには、ありがとうと言う他はないのだが。

 前掲『最期のことば』より。

「素晴らしい。フィナーレが少しだけ早かったが。」
 ユージン・イザイ(1858~1931、ベルギーの名ヴァイオリン奏者・作曲家)

 数日前、日高山脈の稜線に雲がかかり、その上に強い風によるレンズ雲がいくつもできて、群れで泳ぐ魚のように見えた。それを夕日が彩ってゆく・・・。(写真下)

 
 
 


スズランとストーヴ

2017-06-12 23:12:55 | Weblog



 6月12日

 三四日ごとに、晴れて暑くなる日と、曇りや雨で寒くなる日が、繰り返している。
 今日は、昨日までの雨も上がって、晴れているけれども、朝の気温は+4度で、まだまだ薪(まき)ストーヴの火をつけなければならない。

 実は数日前、晴れて暑くなった日に、裏の植林地の中に生えているスズランを採ってきて、それは町に住む友達へのいつもの贈り物でもあるのだが、残りの幾つかを、ビールの小びんで代用している花瓶(かびん)に入れて、ストーブの上に置いてみた。もうこんなに暑くなれば、ストーヴを使うこともないだろうからと。(写真上) 

 そこは、暗い所だから、余計にスズランの小さな花の集まりが可憐(かれん)に見えた。 
 そして漂う、なつかしい自然の中の香り・・・都会の人々の間から匂ってくる、強く甘い刺激的な香りとは違うもの・・・。

 しかし、そこにスズランを置いていたのも、ほんの二三日だった。
 今朝の冷え込みで、ストーヴに火をつけざるを得なくなり、スズランは定位置のテーブルの上に戻した。
 燃える薪の臭いと、少しばかりの煙の臭いが、再び春先の季節へと私を連れ戻した。
 こうして、春から初夏の季節感を、互いに繰り返し、こき混ぜては、夏へと移っていくのだろう。
 
 しかし、”こき混ぜて”という言葉の使用法は、ここで使うのは正しくないのだろうけれども、どうしてもあの古今集(こきんしゅう)の中の有名な一首を思い出してしまうのだ。

「見渡せば 柳桜をこきまぜて 都ぞ春の錦なりけり」(素性法師)

 この歌は確かに、往時(おうじ)の、春の京の都を少し俯瞰(ふかん)して見ているかのような、鮮やかな絵画性にあふれていると思うのだが、もう一首、紀貫之(きのつらゆき)の”曲水宴歌会(きょくすいえんうたかい)”で詠まれた歌をあげておきたい。

「春なれば 梅に桜とこきまぜて 流すみなせの 河の香ぞする」

 水無瀬(みなせ)川から引き入れた、小さな流れに盃を浮かべ、歌を書いた短冊(たんざく)を載せて流し遊んだ、あの曲水の宴を、目の前に見る思いがする。
 時は春、まだ梅の花が残っている中で、桜も咲き始めて、二つの花の香りが混然一体となって漂う中に、身をかがめて盃の歌の短冊を取ろうとした時、ふと匂ってきた川の匂いに、さらなる春を感じたのだろう。
 前者を絵画的な春の歌だとすれば、この貫之の歌は、臭覚的な春の歌だとは言えないだろうか。
 この二首は、並べて詠み、楽しみたいう歌ではある。

 さて、わが家の庭から林にかけての花と言えば、前にも書いたように、オオバナノエンレイソウにオオサクラソウ、シバザクラにヤマツツジなどが咲いていたが、それらも終わって、今は栽培種のオレンジ色とレモンイエロー色のレンゲツツジが盛りの鮮やかさにあり、その根元には、チゴユリの白い小さな花が群れをなして咲いている。
 ただ残念なことには、あのナナカマドの木のそばに咲いていたクロユリの花(’15.5.25の項参照)は、今年はもうあの草や葉自体が見えなくなり消えてしまった。
 ユリ科の球根を持つ、多年草であるはずのクロユリが、なぜに数年で消えてしまったのか。

 さらに、これまた悲しいことではあるが、毎年、麗しい紫の花のブーケをいくつも咲かせてくれていたライラックの樹が、去年エゾシカにぐるりと幹回りをかじられはがされてしまい(’16.5.30の項参照)、応急処理はしていたのだが、つぼみを出したまま、すべてしおれ枯れてしまっていた。
 今までに、エゾシカに何本の庭木がかじられて枯れてしまったことだろう。
 確かにエゾシカを傍で見れば、そのつぶらな瞳はかわいいのだが・・・さらには、私のクルマにぶつかったこともあるし・・・。

 とはいえ、春から初夏にかけての緑の勢いは日々に強くなり、道のまわりや庭の草刈りは、これからも秋の初めまで続くことだろう。
 特に、猛烈な勢いで増え広がる、あのセイタカアワダチソウを駆除すべく、まだ背丈の低い今のうちにと抜き取ってはいるのだが、周りには牧草地・畑の周辺地があり、そしてまだ原野に近い植林地もあって、どだいくい止めること自体むつかしいのかもしれない。
 そんな林のふちを歩けば、それでもスズランやベニバナイチヤクソウに、ヒオウギアヤメも咲いているし、なあに深く考えることはない、”年々歳々人同じからず”の例え通りに、実は樹や草花も少しずつ変わっていくものなのだろう。
 その生き物たちのリズムに合わせて、私も、クイック・クイック、スロー・スローと人生を歩んでいくしかないのだから・・・。
 
 さらに晴れた日に、クルマで少し走って行って、前から目をつけていた場所に行ってみる。
 一面のキカラシの畑の向こうに、まだ残雪を頂いた日高山脈の山々が見えていた。(写真下)



 私の好きな、絵葉書写真の景色だ。
 普通の写真家は撮らない、日中のべた光線のもと、明るくくっきり見える中なら何でもいい私は、ひたすらに写真を撮り続ける。
 青空とキカラシの畑を前に、30分余り。何と楽しいひと時だったことだろう。年寄りのひそやかな愉(たの)しみなのだ。

 今の時期、十勝地方のあちらこちらで、この広大なキカラシ畑を見ることができる。
 もうしばらくすると、トラクターですき込んでいき、畑の飼料になるのだが、もともと輪作の畑だから、毎年同じ所で見ることはできない。
 農水省の役人ではないのだから、農家の一軒一軒に去年はキカラシの種をまきましたかと聞くわけにはいかないし、ただクルマで広範囲に走り回って探すしかないのだが、色が色だしすぐに見つけることはできる。
 
 キカラシは同じアブラナ科の菜の花と間違われやすいし、遠くから見ただけでは区別がつかないけれども、葉が茎を包んでいるかどうか、あるいは他にもつぼみがあるかどうかで、見分けられるとされているが、私は傍で見るまでもなく、簡単にその匂いで区別しているのだが。
 あの菜の花の集団の、むせかえるような匂いが、キカラシからはそれほど匂ってこない。

 花の集団と言えば、控えめにただテレビで見ているだけのファンでしかない、AKBファンの私にとって、やはり年に一度の”AKB選抜総選挙”は楽しみである、まして今年は、一般的には全く知られていない地方グループの子が、初期速報で1位になったものだから、あれこれ良からぬ噂も飛び交い、さらには変革期にあるAKBの将来を占ううえでもと興味はつのるのだが。
 
 それはともかく、今回の選挙前の選抜曲、「願いごとの持ち腐れ」という曲は、曲名はともかく歌詞に曲調、振り付けに衣装とその意図がはっきりしているので、最近のAKBの曲の中では好感が持てるほうだと思う。
 もちろん、今のAKBグループが、上り坂の欅坂(けやきざか)46や乃木坂46と比べれば、明らかに下り坂になっているということを分かったうえで、それでも、日本の伝統的な歌謡ポップスの、アイドル・グループのスタイルを変えようとしないのは、総合プロデューサーの秋元康と運営側の強い意向なのだろうが、それは、ぶれないというべきかかたくなだというべきか。 
 KPOP(韓国ポップス)界では、世界に通用する、洗練された歌・ダンス・スタイル・容姿をそろえた娘たちを集めては、次々に新しいグループを作り送り出していて、それと比べれば、わがAKBは、悪く言えば田舎のイモねえちゃんふうにダサく見えてしまうのだが、なあに、私たち年寄りにとっては、AKBにはあの故郷の”花子ちゃん”的な、洗練されていない日本的な純朴さがあり、そこがいいのだ。

 ところで、私が欠かさず見るようにしている番組は、思えばNHKばかりなのだが(念のため言っておくが、私はNHKとは何のかかわりもありません)、朝夕定時のNHKのニュースとBSの「AKB48SHOW」に、前回取り上げた岩合光昭の「世界のネコ歩き」と「ブラタモリ」であり、この「ブラタモリ」についても以前に事あるごとに書いてきたのだが、前回の「名古屋城編」もなかなかに興味深く面白く見せてもらった。 
 専門家に登場してもらい、歴史・文化と地理・地学によって、その土地の成り立ちが謎解きふうに解明されていくのだが、こうして番組が緻密に構成されていることに、いつも感心してしまうのだ。
 
 かてて加えて、タモリの博識な意味が込められたダジャレやウィット・・・例えば前回、城下町の魚棚(うおたな)が”うぉんたな”と呼ばれていたと聞いて、タモリがさっそく茶々を入れるのだ。
「昔の時代に”うぉんたな”だなんて、かっこいい名前ですね。カルロス・ウォンタナ・・・。」  

 周りにいた人には、うまく伝わらなかったのかもしれないのだが、プロデューサーや番組編集者たちは気づいて、映像編集の時に、その場面でサンタナの音楽を軽くかぶせて流したのだ。
 名ロック・ギタリストのカルロス・サンタナの曲では、初期の大ヒット・アルバム「ABRAXAS」に収められたラテン調の「ブラック・マジック・ウーマン/ジプシー・クィーン」もいいけれど、ここではその後の大ヒット曲「哀愁のヨーロッパ」が流れていたのだ。

 私は、この番組の有能なるスタッフ陣に、拍手を送りたい気分だった。アシスタントの近江ちゃんも、かわいいし。 
  
 ことほど左様に、一つの番組、映画、作品にも様々な制作者側の意図が込められているのだろうが、私たちはいつも彼らの意図のすべてをくみ取っているわけではないのだ。
  もちろん、この”うぉんたな”の件(くだり)は、この番組でたまたま私が気づいた一つにしかすぎず、まだまだ他にもあっただろう多くのことを見逃していたのかもしれない。

 そういえば、これも後になって気づいたことだが、たまたま少しだけ見た、フジテレビ系の「爆笑そっくりものまね紅白歌合戦」で、あるタレントが昔のアイドル歌手の柏原芳恵の歌う「ハロー・グッバイ」(喜多條忠作詞小泉まさみ作曲)の歌真似をした後で、ご本人が登場して歌うというドッキリになっていて、その姿は懐かしくもあり少し哀しくもあったのだが、問題はそのことではなく、その歌詞にあるのだが、それは当時、子供たちが好きでよく歌っていたから、私も憶えてしまったのだが、出だしの「紅茶の美味しい喫茶店・・・」という有名なフレーズから始まって、途中で変調したところで、「あなたは銀のスプーンで、私の心をくるくるまわす」と歌われていて、今まで私は、その字面(じづら)通りに受け取っていたのだが、今の柏原芳恵が歌っているのを聞いて、はっと気づいたのだ。

 この歌の、女の子のデート相手の彼は、お金持ちの男の子だったのだ。
 いわゆる慣用句として使う、”銀のスプーンをくわえて生まれてきた”、いいとこの家の息子だったのだ。 
 だから、その金持ぶりを見せつけられて、彼女の心はくるくるかき回されていたのだ。
 何と、そのことに気づくまでに30年もの歳月が流れ、年寄りになった今ようやく気づいた私は、情けないというよりは、この年になって、あの名曲「神田川」の作詞者でもある喜多條忠の歌詞に、もう一つの意味があったことを、今さらながらに知らされたというべきか。

 まあ、わざわざこんなところで取り上げるまでもない、小さなことだから、そのまま気づかないで過ごしたとしても、私の人生に、何らの影響もないのだろうが、しかし、新しく分かったことが増えただけでも、自分の無知さはさておいても、人生は面白いしと思えるし、年を取っていくということは、今まで見過ごしていたことや分からなかったことが、一つまた一つと解明されていくことなのだと、楽しくも思えるのだ。
 
 ぼんやりとした生きていくことの不安におびえ続けた、「或阿呆(あるあほう)の一生」よりは、ぼんやりとした知識しかない自分を分かっていて、そんな「ある阿呆の一生」の中でも、生きていれば年とともに、まだまだ知らないことが解き明かされていくこともあり、そんな喜びがあるのだと、知っただけでもありがたいことなのだ。





ストーヴの日々は続く

2017-06-05 22:11:42 | Weblog



 6月5日

 この三日間の、朝の最低気温は+3℃を少し超えるくらいで、最高気温は7℃前後。一日中、ストーヴで薪(まき)を燃やし続けていた。
 九州から本州では、そろそろ梅雨入りしようかという時期に、ここ北海道では、早春のころの気温に逆戻りしているのだ。
 もっとも、6月に降雪の記録があるくらいだから、このくらいの寒さでは、それほどの異常気温というわけでもないのだが、ただこの数日は、雨が降ったりやんだりの、ぐずついた空模様が続いている中の寒さだから、おそらく高い山の上では雪が降ったことだろう。
 さらには、この雨の前、前回の記事に書いた、剣山登山の日からの三日間は、逆に暑い日が続き、これまた夏と同じように、連日の気温が27,8度までにも上がっていたのだ。
 まさに、早春のころと夏の季節とを一度に体感できる、北海道ならではの季節の変わり目ではある。

 ”さあさあ、御用とお急ぎでない方は見てらっしゃい寄ってらっしゃい。これが噂の暑さ寒さが重なった「北海道SM体験ツアー」だよ。
 それまでは、緑の野辺に花咲乱れ、鳥は歌い、セミたちは夏に向けての大合唱、人間どもも慌てては、野良の仕事に精を出し、大汗かいては水風呂にも入れる気分。一日終わりの、ビール一杯ぐいーっと。(ちなみに、センダイムシクイのように”焼酎一杯ぐぃー”っと鳴く鳥もいるが。)
 それが一転、こりゃまたどうしたことだろう。おてんと様が顔隠し、冷たい雨がしとしとと、心の中まで降り続く。あかあか燃えるストーヴの、そばから離れず、年寄りが、一人見守るヨゴレ鍋。”

 ”洞窟(どうくつ)。その中央に火焔(かえん)ののぼる大きな穴が地面に口を開き、その上に煮えたぎる大釜がかかっている。雷鳴とともに三人の妖婆(ようば)が一人ずつ焔(ほのお)の中から現れる。”
 妖婆一 ドラネコめが三度鳴いた。
 妖婆二 ハリネズミが三度と一度鳴いた。
 妖婆三 化け鳥めが呼んでる。「早く早く」って。(夜もクイックイッ=Quickと鳴くクイナのことだろうか。)
 妖婆一 釜のまわりをぐるぐるまわれ。
     ・・・。
 三人  増えろ、ふくれろ、苦労苦しみ。
     燃えろ穴の火、煮えろ大釜。
     ・・・。

(河出書房版 世界文学全集1シェイクスピア 『マクベス』第四幕第一場 三神勲訳 より)

 雨降りの薄暗い部屋で、ストーヴに鍋をかけて、豆を煮込んでいたら、上記の『マクベス』の一場面を思い出してしまったのだ。
 妖婆ならぬ妖怪爺(じじい)の私の姿を見る私が居て、思わず一人笑いしてしまった。

 ただでさえ”お天気屋”な私だから、こうして天気が悪くなると、どこにも出かけたくないし、家の中で音楽を聴いたり、本を読んだり、パソコンでネット情報見たりしていれば、朝昼晩の簡単な食事をはさんで、一日はあっという間に過ぎてしまう。
 しかし、何も起きない一日こそが心地よく、こうして、年寄りは自ら年寄りになっていくのだろう。
 それで十分だし、今さら、肩をいからして粋がっていた、若者の時代なんぞには戻りたくはない。
 今こうして、神様からいただいた静けさの中に在るだけで、他に何がいるというのだろうか。

 本来は強欲なはずの、私を含めた人間たちが、思い描く幾つもの望みの中で、ぜひとも必要なものを一つだけ自分のもとにあるのなら、他の欲望はすっぱりとあきらめるべきだと思うのだが。
 その手元にある一つだけのものだからこそ、ありがたみも増すというものだ。

 そして、例えばこうして季節外れの寒さになったとしても、私は、それさえもありがたく受け止めるようにしている。
 つまり、今年は、もうストーヴの時期が終わるようなころに、北海道に戻って来たものだから、残念ながらあのストーヴの愉(たの)しみは味わえないのだと思っていたところ、ありがたい神様のお導きで、こうした寒い日があって、ストーヴのぬくぬくとした温かさを感じる日々を送ることができたのだ。

 言うまでもないことだが、私は特定の宗教を信じているわけではない。
 仏教も儒教もキリスト教もイスラム教もユダヤ教も、さらには様々な土着の宗教や新興宗教さえも、それぞれの教義の幾つかは納得できるとしても、同じくらいに矛盾点が目について、その上もとより、偉い人たちから話を聞いたり、あるいは詳しく調べたりする、熱心さなどは端からないものだから、一つの教えに帰依(きえ)することもなく、悪く言えば、それら様々な宗教の、ほんの一部の表面だけを眺めただけの、無信心な人間でしかないのだ。

 ただ、すべての宗教に共通して”神に感謝する”という思いがあるように、過去から現在に続く日々の中で、私をここまで育て、はぐくんでくれたものに対しては、感謝したいと思うしするべきだと思っているから、そこで、日ごろから恵みを受けることの多い大自然に仮託して、自分だけの神をつくりあげただけのことなのだ。 

 もちろんここで、今、現代科学との間で様々な齟齬(そご)が生まれ問題化している、宗教そのものについて言及するつもりはないし、浅学の徒でしかない私にはその資格もない。 
 ただ、私が今まで使ってきた”神”という言葉は、そこに宗教的な意味はなく、あくまでも神秘性をとどめた広大な宇宙や地球を意味するような、感謝する相手としての代名詞でしかないのだ。

 さて、神や仏の話はそのくらいにして、最近の身辺雑事については。 
 前回書いた剣山登山の後遺症として、三日間はひどい筋肉痛に悩まされ、それに加えて去年から痛めているヒザも相変わらずに痛みが残るしで、類人猿さながらの(私にお似合いの)ひどい格好で歩いていた。 
 畑仕事は、種イモを植えただけで、まだ他には何も植えていないが、ひとりでに花を咲かせているイチゴ畑の草取りと肥料やりをしなければならないし、何より、もう二回目の芝生や道端の草刈りをしなければならない。 
 そして、相変わらずにタンポポの花が一つ二つと咲いていて、見つけ次第に抜いているのだが、それ以上にやっかいな雑草の大集団がある。まだ今は小さな草丈だが、秋にはその名の通り、私に背を越す高さになるセイタカアワダチソウである。 
 駆除されるべき外来種の彼らは、根から伸びた地下茎でも増え、さらには花の種からでも伝播して広がっていき、元来のササ原さえも占拠するほどの繁殖力を持っているのだ。

 さらに、去年切ったあの二十数本ものカラマツの木(’16.10.10の項参照)は、材として利用するために、今のうちに皮をむいておくか、あるいは薪にするために、少しずつ整理して、乾燥させるための場所に運んでおかなければならないが、そうして利用できるのは半分ぐらいで、残りは朽ち果てるままにしておくしかないのだ。
 欲しい人がいればあげてもいいのだが、クルマが林の中に入れないために、すべて手作業になり、そんな労力を使ってまで誰も欲しいとは思わないだろう。
 
 その林の中では、今、ベニバナイチヤクソウが咲いているし(写真上)、もう少し明るい林のふちには、スズランも咲き始めていて(’16.6.13の項参照)、二つ並べて花瓶にさせば、まさに紅白のおめでたい花たちになる。
 そして、家の庭には、濃い桃色のエゾヤマツツジが満開になり、続いて黄色とオレンジ色の二色の花があるレンゲツツジも咲き始めた。 
 そこに、三匹ものミヤマカラスアゲハがやってきたが、元気に翅(はね)を動かせながら蜜を吸っては、あわただしく飛び回り続けて、まともな写真を撮らせてはくれなかった。
 ただその中の一匹が、まだ咲いているシバザクラの所へやってきて、落ち着いてひとり花の蜜を吸っていて、そこでようやく、その翅を広げたところを一枚だけ撮ることができた。(写真下、それでも’08.5.28の項の時のようには撮れない。)

 そういえば、1週間前の剣山登山の時に、一の森(912m)で休んでいると、林の中で咲いていたムラサキツツジのまわりを、このミヤマカラスアゲハとキアゲハがそれぞれ一匹ずつ飛び回っていた。 
 さらには、もうずいぶん前のことだが、あのペテガリ岳(1736m)の頂上で、キバナシャクナゲの花に止まっているキアゲハを見たことがあるが、高山蝶でなくてもあんな山の上までも飛んで行くことができるのだと(上昇気流に乗って来たのだろうが)、感心したことがある。

 昆虫や動物たちの能力については、まだまだ私たちのうかがい知ることのできない世界が、幾つもあるのだろう。
 そこで、最近見たテレビ番組からだが、いつも見ているあのNHKの「世界のネコ歩き」から、今回は京都の猫たちの話だったが、随所に京都らしさを取り込んっでいて、なおかつチャンスを逃さない岩合光昭氏のカメラワークには、いつものことながら感心することしきりだった。
 
 さらには、岩合氏に関するもう一本。今では、こうして猫の写真家として有名な岩合氏だが、最初は父親の跡を継いで、野生動物写真家として出発したのだが、そうした経歴も併せて伝えていて、岩合ファンにはどうしても見ておきたいドキュメンタリー番組である。
 それは、NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」であり、彼の長い動物写真家としての経験と、撮影相手に対する同等の視線を持った撮影ぶりには、なるほどと納得させられることばかりだった。

 彼は、動物写真家として身を立てようと、思いを込めてアフリカに渡り、肉食獣と獲物としての草食獣との間の、ギリギリの命の闘いをとらえようと、根をつめて待ち構えていた時、ふと見た動物たちの日常のひと時に、思わず心打たれたのだという。
 それは、例えばキリンが首を伸ばして、とげだらけのアカシアの葉を食べるさまだとか、ライオンの親子がくつろいでいる時の安らぎの光景(あの『National Geographic』誌の表紙を飾る)が、彼の目をとらえ、何も熾烈(しれつ)な闘いだけが動物のすべてではなくて、こうした普通の日常の中にこそ、動物たちの真実があるのではないのかと気づいたというのだ。
  
 思い返せば、私が岩合氏の名前を強く印象づけられたのは、ずいぶん前のことだが、確か『アサヒカメラ』誌の表紙と口絵を飾っていたホッキョクグマ(シロクマ)の写真であり、あの北極圏のツンドラを彩る一面の赤いお花畑の中に一頭のシロクマが座っていたのだ。穏やかな表情をして。
 その時の、もう二度と見つけることはできないだろう見事なロケーションと、シロクマが人間のように座り込んでいるというそのシャッターチャンスに、そして、あの星野道夫氏の遭難の恐怖を背後に抱えながらも、夢中になってカメラのシャッターを押し続けたであろう岩合氏、私はしばらくその写真から目を離すことができなかった。

 テレビを見ることは、幾つかの定期的に見ている番組を除けば、いつも偶然の出会いでしかないのだが、これはニュース・バラエティー番組の中の一つとして、ほんの数分足らずの特集だったのだが、それは全国的にも問題になっている、”市街地商店街の過疎化”の問題に関連する小さな特集であり、その商店街の賑わいを取り戻すための一つの方策として、北海道は小樽市の商店街にあるお店のご主人の思いつきで、店の前に誰もが弾いていいというピアノを一台置いたところ、ピアノを弾ける老若男女が立ち寄っては弾いていくというだけのもので、それだけでも周りの皆は楽しそうだったのだが、何番目かに映し出されたのは、いかにもそれとわかる白い割烹着(かっぽうぎ)に、料理人の帽子をかぶった、近くの料亭のご主人だとかいう人であり、彼はゆっくりと腰を下ろして、ピアノの鍵盤に指を下ろした。
 
 流れてきた曲は、何と、ドビュッシーのあの「月の光」だった。
 それまでに皆が弾いた曲は、アニメソングやポップスにジャズなどのリズム音楽ばかりだったのに、ここでクラッシックの名曲の一節が流れてきたのだ。
 それも初老の、日本料理店のご主人が弾いているのだ。
 インタヴュー・マイクを向けられた彼は、照れくさそうな笑みを浮かべながら答えた。 
 ”本当はもう仕事を辞めて、好きなピアノを弾いていたいのですけれどもね。”

 その彼が映っていた、おそらくは数十秒にも満たない映像の中に、彼の人生の一コマ一コマの影像が切れ切れに流れていったかのようだった。

 あしたの天気予報は、見事な晴れマークだが、まだ前回の山での疲れは十分には取れてはいないし、ヒザも心配だ。 
 それだから、いつも通りにのんびりと、ぐうたらに家に居て、少しだけ庭仕事をして、山々を眺め、家の林の中を歩き回ることにしよう。
 それが、今の私の楽しみなのだ。