ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

錦繍の秋

2017-09-25 22:00:48 | Weblog



 9月25日

 先週に続いて、今週もまた大雪山(だいせつざん)に行ってきた。
 考えてみれば、日本の山好きな人たちにとって、結局は一年中、四季のそれぞれの中にある山の姿を見たいのだろうし、歩き回りたいのだろう。
 目に鮮やかな今の紅葉の時期から、新雪の山、雪氷芸術に輝く厳冬期の山、雪が解け出すころの残雪の山、新緑の若葉を愛(め)でながら歩く春の山、山上の花が咲き始める初夏の山、涼しい稜線歩きが楽しめる夏の高山帯・・・と年ごとに同じではない、変化ある四季の移り変わりを見せてくれる、日本の山歩きを楽しんできたのだが、そんな私の山登り人生も、もはや数十年にもなろうとしている。
 
 といって、何か特別な熟練者としての、あるいは高度な技術を駆使してのスポーツ的な登山者であったことはないし。
 ただ、自然界の最たる存在である、広大な山岳風景に魅せられて、その懐の中を歩き回らせてもらっただけのことであるが、この年になって思うのは、結局のところ私の人生は、その山のためだけに生きてきたような気もする。
 それは、誰かのためにしてきたわけではなく、あるいは社会貢献の一助になったわけでもなく、ただ自分がそうすることが好きだったから、山の中をほっつき歩き回ったというだけのことであるが。
 そして、これからも体が動く限りは山に登りたいし、それができなくなっても、山を見るために山のそばに居たいと思っている。

 そんなにも長い年月にわたって、数多くの山に登って来たというのに、そこに体系的な計画を立て、例えば”百名山踏破”といった目的をもって、登るという思いはほとんどなかったのだ。
 いつもその時々に、登りたくなった山に登ってきただけの、それも晴れた日だけを選んで、自由のきく”ひとり”でという登山スタイルが、いつしか当たり前のこととして身についてしまったのだ。

 さて、前日の天気予報では、全道的に晴れのマークが出ていて、気象庁発表の天気分布予報でも、ほぼ一日、中央高地の部分はオレンジ色の晴れの範囲内にあった。これでは、山に”行かざあーなるめえ”。
 今や紅葉が盛りの道内の山々だが、家から近い日高の山々は、紅葉というよりはダケカンバが主体の黄葉であり、何より時間がかかりすぎて、体力の衰えた私にはいささか荷が重い。 
 ということで、クルマで日帰りするには少し長距離にはなるが(そのくらいの距離は北海道の人にとっては当たり前のことだが)、どうしても秋は大雪山ということになってしまう。

 しかし、大雪山の紅葉と言っても、簡単にひとくくりで説明できるものではない。
 主なものでも、8箇所もの登山口があり、紅葉の時期に登られるものだけでも、5つの登山口がある。
 まず、表側と呼ばれる旭川方面からの、旭岳ロープウエイを使って一気に1600mの姿見(すがたみ)平まで上がり、そこから姿見平の池をめぐっての散策だけでも十分に楽しめるが、さらに旭岳の山ろく周遊になる裾合(すそあい)平まで行けば、日本最大の紅葉のチングルマの平原を見渡すことができるし、さらに足をのばして当麻乗越(とうまのっこし)まで行けば、眼下に箱庭のようになった沼の平の紅葉を楽しむことができる。
 そこからさらに斜面を登って当麻岳(1967m)や安足間岳(あんたろまだけ、2200m)へと、ウラシマツツジ、クロマメノキ、チングルマに彩られた尾根道をたどって行くこともできる。(’15.9.21の項参照)

 この秋、いつものようにライブカメラで送られてくる、ロープウエイ姿見駅からの影像を見ていたのだが、明らかに例年とは違う見事な色づきになっていて、行きたかったのだが、家からクルマで日帰りするにはキツイ距離だし、何よりすぐに駐車場がいっぱいになり車列が伸びて混雑し、帰りのロープウエイでも長く待たされることがあるくらいで、それを考えるとおっくうになってしまうのだが・・・うーん、今年は残念。

 そして、北側になる愛山渓(あいざんけい)温泉口からは、ぬかるみが多いけれども直接、沼の平に行くことが出来るし、さらに当麻乗越まで行けば、今まで歩いてきた沼の平の全容を見ることができるし、旭岳・熊が岳と並んだ姿も素晴らしい。 
 この沼の平の手前の分岐から、左に永山岳(2046m)方面に向かえば、その登り始めの所で、見事な紅葉の斜面を見ることができる。何よりこの愛山渓口は人が少ないのがいい。

 そして大雪山の裏側と呼ばれる、層雲峡周辺では、まず前回行ってきた黒岳ロープウエイにリフトを利用して1500mの登山口まで上がり、そこから急斜面の登りになるが、比較的短い登りで黒岳(1984m)山頂まで行けるので人気であり、表側の旭岳ロープウエイ姿見駅の登山口とともに、一般的に大雪山と言えば、この二ヵ所が最も有名である。
 
 しかし、層雲峡の先にはまだまだ、素晴らしい紅葉名所の場所がある。 
 今の時期は、下の湖の駐車場レイクサイトにクルマを停めて、シャトルバスに乗り換えて登山口まで行くほかはないのだが、その銀泉台口からほんの少し歩いただけで見渡すことのできる、第一花園下の広大な紅葉の斜面には誰もが息を飲むことだろう。(’15.9.21の項参照)
 その先の登山道をたどれば、今は時期を過ぎているが、ウラシマツツジの紅葉が鮮やかなコマクサ平から、さらにその先にある、雪渓付近のウラジロナナカマドの紅葉もぜひとも眺めたいし、さらに登って行けば赤岳山頂(2078m)に至り、周りの山々の筋状の紅葉帯を見ることができる。
 
 さらに、同じレイクサイトからのシャトルバスで、紅葉の沼めぐりで有名な高原温泉口に行くこともできる。
 問題は沼地の間を行くためにぬかるみが多いことであるが、高低差もあちこちにあって一周するには4時間近くかかり、途中の沼までで戻る団体やツアー客も多く、表側の姿見平一周と同じように、登山コースというよりはハイキングコースというべきだろうか。
 今回は、その高原温泉沼めぐりに行くことにした、前回(’13.10.7の項参照)からは4年もたっていることになる。

 もちろん私は、それぞれの登山口から、何度となく紅葉時の景色を見てきているのだが、それでも繰り返しこの季節になると、どこかの登山口から、また今年の新たな紅葉の景色を求めて行きたくなるのだ。
 まして、色づきが良いと言われている今年なのだから、なおさらのこと。
 そして、前日に晴れの予報が出ていたのでぜひ行くにしても、どこにするのか考えたのだが、稜線の紅葉は4日前の台風で葉を落として、もう終わりだろうし、それならば、中腹にあたる高原温泉周辺では、今が一番いいころではないかと考えたのだ。

 それには、前にも書いたことがあるが、あの”イトナンリルゥ”というブログサイト記事が大いに参考になる。いつものことながら、ありがたいことだ。
 大雪山の公式登山情報としては、旭岳と層雲峡の両ビジターセンターのものが知られているが、個人的なブログサイトとして有名なこの”イトナンリルゥ”は、もうこの十年余りも続いていて、初夏のころからこの紅葉の季節までの3か月余りの間、連日、Tさんが自分の足で歩いた情報と写真をブログにアップしてくれているのだ。 
 初めのころは、ビジターセンター発行の情報誌として目にしていたのだが、その後曲折あって、Tさん個人が”イトナンリルゥ”というブログを立ち上げたのだ。
 長年にわたる、彼女の大雪山に対する思いと使命感には、ただただ頭が下がる思いがするが、いつまで続くのかと心配でもあるし、そこで、彼女のブログ記事を見ている多くの人たちも同じように思っているのだろうが、例えばシャトルバスの運賃とは別に、レイクサイトで駐車などの協力金を支払うように、何らかの協力金という形で、彼女の援助ができないものだろうかと思うのだが。

 さて、またしても本題から外れて、横道の方にそれてしまったが、もとに戻って、紅葉が盛りの”高原温泉沼めぐり”について書いていくことにしよう。
 前回と同じように、家を出たのはまだ暗いうちで、日高山脈のシルエットラインがかろうじてそれとわかるころだったが、前回と違うのは、レイクサイトのシャトルバス乗り場に着くまで、ずっと間違いなく上空に青空が広がっていたことである。よし、今日はいいぞ。
 まだ早いせいか、バスもさほど混んではいなかった。
 30分足らずで高原温泉登山口に着き、傍にあるヒグマ情報センターで、去年の台風による登山道の崩壊で、沼めぐり一周コースは分断されていて、今は”空沼”からの引き返しになるとの説明を受けてから、歩き出す。
 
 もうその登山口の所から、木々の紅葉が始まっていて、背景の青空がそれを浮き立たせていた。
 同じバスで着いた30人余りの人のうち、足の速い人たちは先の方へと行ってしまい、年寄りや足の遅い人たちたちは、それよりずっと遅れてゆっくりと歩いていて、私はありがたいことに、ちょうどその間の所に一人離れて歩いていて、静かな山の雰囲気を味わことができた。
 
 最初の沼である”土俵沼”に着く前辺りから、展望が大きく開けて青空も広がり、緑岳から白雲岳の山肌がくっきりと見えていた。
 小さな”バショウ沼”から、次の”滝見沼”の所では、誰もが歓声を上げるほどに背景の紅葉が素晴らしく、カメラの列が途絶えることはなかった。
 そして、すぐ隣の広い”緑沼”でも人々が多く休んでいた。
 この”緑沼”は、あの”滝見沼”ほどの周囲の派手な色彩はないのだが、何といっても、エゾマツ、トドマツなどの針葉樹との混交林の中にある、北国の湖沼の感じがして、さらに背後には緑岳や白雲岳から高根が原に続く山なみが見えていて、何とも北海道らしい感じがする。(写真下、この時撮った写真よりは、帰りの午後のほうが順光にしても半ば陰影もあり、空に小さな雲も出て見映えがいいので、その時に撮ったものを載せている。)



 少し行った先から下った後、今度は沢沿いに沿って歩いて行くのだが、その右手斜面を埋める紅葉、いや黄葉の風景が素晴らしかった。
 主体になるのは、今が盛りと思われるダケカンバの黄色であり、少し赤いナナカマドもあるが、さらに下の方には、またこちらも黄色が盛りのコミネカエデなどがあり、全体的に見ても黄色が盛り上がって迫ってくるような光景になっていた。ちょうど今、あの北海道立美術館で開催中の”ゴッホ展”のことを思い出した。 
 ゴッホならば、この黄色の沸き立つような風景をいかようにキャンバスに描きつけるのだろうかと。 
 あの一本の「秋の木」のように、もえるような思いを込めた黄色の風景として描くのか、それとも精神を病んだ死の直前に描いた、有名な「カラスのいる麦畑」のように、迫りくる心的光景としての、荒涼たる風景として描くのか・・・。
 (ここでも、この時よりは帰りの時の午後の光景のほうが良かったので、その時の写真を下にあげる。)



 しばらくこうした、沢沿いの黄色の饗宴(きょうえん)を楽しんだ後、再び湖沼群の眺めが続いていく。 
 ”鴨沼”から小さな乗越があり、背後の高根が原の崖地が高く迫ってくる。
 下りたところにある小さな沼のそばを通り、やがて広い”えぞ沼”に出るが、確かにあの”イトナンリルゥ”の記事の通りに、湖岸の道の一部が水没していた。 
 私は、彼女の記事の勧め通りに、最初から長靴を履いてきていたので、ずっと続くぬかるみの道も問題はなかった。
 次の”式部沼”も伴に、湖岸の紅葉もきれいなのだが、少し高みに上がり振り返った時の方が、俯瞰(ふかん)して見ることができて、より見映えがした。
 そして、その”えぞ沼”から”式部沼”へと乗越すところで見えた、高根が原の溶岩台地が形作る、残雪のある崖地状の尾根の連なりと、その下に並ぶ紅葉の木々・・・何とも言えない秋の山の光景だった。(冒頭の写真) 
 つまり沼めぐりの道を歩いてはいるのだが、紅葉に彩られた沼の光景よりは、紅葉に彩られた山の眺めのほうが私は好きなのだ。

 その崖状の尾根が高く迫る”大学沼”では、にぎやかな声が聞こえてきて、大勢の人が休んでいた。
 そのまま写真を撮っただけで通り過ぎ、一登りして振り返ると、眼下に今見てきた大学沼と、そこに続く見事な紅葉の流れが続いていて、さらに遠く石狩岳・音更山・ユニ石狩岳と続く藍色の山なみも見えていて、上空は見事な青空が広がっていた。
 
 そして一周コースの半ばにあたる”高原沼”見晴らし台に着く。背後に緑岳(2020m)が見えるおなじみの光景だ。
 そこで私も腰を下ろして、休むことにする。
 近くには、NHK”小さな旅”の撮影クルーが、あの旅人役のアナウンサーも含めて10人近くいて、周りの人の問いかけにこたえて、10月下旬の放送だと答えていた。
 さて、そこから背後の斜面を一登りして、先に向かうと、目の前が大きく開けていた。 
 崖地状の尾根から下って来たカール(氷蝕崖)底のような穏やかな平地が続いていて、彼方の緑岳の姿が近づいてきていた。(写真下)



 これは、あの北アルプスの涸沢カールや中央アルプスの千畳敷カールのような光景ではあるが、残念ながら、この大雪山は氷河期の後に噴出した火山帯であり、氷河による氷蝕地形は見られないのだが、この風景はどうしてもカール地形をほうふつとさせてくれる。
 ともかくこの辺りから、明らかに人影が少なくなり、静かな山歩きができるようになった。多くの人は、あの”高原沼”までで引き返すようだった。
 しかし、今年の折り返し地点になる、この先の”空(から)沼”の眺めもまた独特のものがあり、その広大な石庭のような光景を、見逃すわけにはいかない。

 やがて下りになって、葉がだいぶん落ちたウラジロナナカマドの灌木帯を抜けると、再び開けて、左側のナナカマドの赤い繁みを前景にして、残雪をつけた高根が原の崖状尾根が続いている。
 ”空沼”に着く。いつもは水のない所に湖面が広がっていて、青空を映している。
 この先は通行止めだが、もし行けたとしても、もう湖沼群はなく、沢沿いの道が続き、きつい登り返しもあるから、また来た道を戻って行く今年のほうが、しっかりと沼と紅葉を眺めることができて、むしろいいのかもしれない。
 事実、先にあげた写真のように、帰りのほうが良かったということがあるくらいだから。
 しかし、ここまで3時間半もかかってしまい、さすがに帰り道は脚が少しつらくなってきたが、登山口近くでは登山道に長い渋滞の列ができていて、後ろの方では道を譲ればいいのにという声も聞こえ、いら立っている人もいたようだった。

 帰りは満員のシャトルバスに乗って、レイクサイトに戻り、そこで車に乗って大雪山を後にした。 
 紅葉の時期としては、ナナカマドの色がやや色あせて盛りを過ぎていたようだが、何しろあの”ゴッホ”黄色と例えたくなるほどの、ダケカンバの盛りの色にはむしろ感動すら覚えたほどで、それに何といっても快晴の空のもと、筋雲が秋の風合いを出してくれていたし、またとない高原沼めぐりの山歩きだったのだ。ありがとう。
 思えば、北アルプスの涸沢の紅葉も(’10.10.11の項参照、少し時期が早かったが)、槍沢や天狗池の紅葉も(’11.10.16の項参照、色づきがよくなかったこともあるが)、さらに東北の紅葉名山の多くを見ていないから断言はできないにしても、この秋は特に、そのあちこちに分かれた広大な山域のすべてで見られる、この北海道は大雪山の紅葉・黄葉に勝るものはないと実感した。 
 そんな北海道にいるとは、何と幸せなのだろう私は・・・生きていて良かったと思う。
 
 ”八丈島のきょーん”(昔のギャグ漫画『こまわりくん』意味のない感嘆符。)


マニアの愉しみ

2017-09-18 22:26:48 | Weblog



 9月18日

 今、午前10時、台風による強い風雨が屋根に窓に打ちつけ、そして家の周りの木々を大きく揺らしている。
 去年のこともあるし、勢力を保ったまま北海道に上陸したこの台風が、家の林のカラマツの木々を、なぎ倒さないようにただ祈るばかりだ。

 一転、回想・・・二日前に、紅葉の大雪山に登ってきた。
 前回書いたように、秋の初めから、行く時を二度もためらい出かけられずにいたのだが、そうしていると、今年はいつもよりは早い、紅葉の最盛期を見逃してしまうのではないか、という心配もあったのだが。 
 しかし、この三連休の初めの二日に、晴れのマークがついていたし、その後は台風もあって、ずっと天気は良くないという予報だった。 
 ただでさえ、今が盛りの山の紅葉の時期で、さらにはこれから三連休になるから、混雑することは目に見えている。いつもなら平日登山しかしない私でも、こうなったら背に腹はかえられない。何としても、行くことに決めた。
 朝暗いうちに家を出たが、その前に、パソコンで今の天気などを調べることはしなかった。 
 つまり、事前に調べてみて、少しの不安があれば、今までのように行くのをやめることになるからだ。 
 この秋の紅葉を見るためには、この日が一度きりのチャンスなのだ。
 山の上の天気がどうあれ、何としても、もう行かなければならないのだ。

 そして、長距離ドライヴの後、ようやく層雲峡に着いた。 
 そうなのだ、今回は大雪山を裏側から登る、黒岳に行くつもりなのだ。

 それは、先ほど通って来た、十勝と上川地方を分ける分水嶺の三国峠から下って行く途中で、大雪山の山々が見えてくるのだが、上空にも山の中腹にも雲がかかっていて、これでは銀泉台からの斜面のあの眺めも(’15.9.28の項参照)、高原温泉から登る緑岳中腹からの眺めも期待できないし、黒岳も同じように雲の中では、中腹から頂上下付近の紅葉も今一つ見映えがしないだろうし、ただ頂上までの登る時間が一番短いぶん、そこで晴れるのを待つこともできるし、そのうえ、紅葉時期の黒岳へは2年も間が空いているのだから(’14.9.16の項参照)・・・これは、行かざあーなるまいと、その時に決めたばかりなのだ。

 7時になるところだったが、まだそれほどクルマの列が続くほどには混んではいなかった。
 しかし、あと1時間もすれば、この第2駐車場もいっぱいになり、さらに下の方の駐車場に回されて、ロープウエイ乗り場も人々で混雑することになるだろう。

 ロープウエイからリフトに乗り換えて、その途中から見ると、やはり中腹から頂上にかけては雲がまとわりついていた。 
 しかし、リフトを下りた7合目手前の登山口(1500m)から、辺りはすでに紅葉でにぎやかに彩られていて、青空もちらちらとのぞいていた。 
 人々に前後して岩の多い道を登って行くが、やはり昨日までの雨で、あちこちに泥水たまりができていた。

 急な山腹斜面にジグザグにつけられた道を、一歩一歩と、実に2か月もの間が空いた登山になるのだから、”のろまな亀でもいい”と、どこかで聞いたことのあるセリフを自分に言い聞かせながら、登って行く。
 それでも、確かにいつもの年よりは早く色づいた、木々を眺めて登って行く楽しさ、道のそばには、秋の花の名残りのタカアザミに、鮮やかな紫色のダイセツトリカブトや小さなミヤマリンドウも咲いていた。
 やがて、相前後して登っていた人々が歓声を上げる、マネキ岩のポイントに出る。
 いつものウラジロナナカマドの流れ下るような、紅葉の帯が素晴らしく、ちょうど一瞬の間、日が差してくれたのだ。(写真上)

 見晴らしが開けてきて、最後のジグザグの登りを繰り返すと、ようやく頂上(1984m)に着いた。
 途中で何枚も写真を撮ってきたとはいえ、1時間半もかかっている。
 若いころには、この道を45分ほどで駆け上がり、30分余りで駆け下ってきたというのに、そんな頃があったとはとても信じられない年になってしまったのだ。
 それはともかく、残念なのは、この黒岳頂上が乳白色のガスに包まれた雲の中にあったことだ。
 晴れていれば、今まで何度も目にしてきた、あの紅葉の赤とハイマツの緑にまだ残る残雪の白をもとにした、五色の山の光景が広がっているはずなのに・・・。
 霧の山頂のあちこちに、人の影が見え、話し声が聞こえていた。

 山の天気に臆病な私が、晴れた日以外には山に登らないと決めているのに、何とこんなにも天気が良くなく、景色が見えないような日に山に登ってしまったのか、何という皮肉なことになったことだろう。
 まあそうしたことは、人生の中ではよくあることであり、またどこかでその埋め合わせがつくようになっているはずなのだから、何も落ち込むことはない。
 そのうえ、全くの霧の中というのではなく、すぐ下のポン黒岳の小さなコブへと続く縦走路と、さらに遠く北海岳方面の山裾辺りも見えているし、ということはこの黒岳山頂付近にだけ雲がまとわりついているのかもしれないのだ。
 私は10分ほど休んだだけで、頂上から縦走路へと下りて行った。

 そして確かに、先に行くにつれて、上空の雲は広がったままで山々の頂が隠れてはいたものの、お鉢から雲の平へと続く、点々と紅葉が散在する広い台地を、見渡すことができた。よしいいぞ、これだけ見ることができれば。
 私は、黒岳石室の十字路に立って、そのまままっすぐにお鉢平から北鎮岳(ほくちんだけ、2244m)方面へと向かう道を取った。
 2か月もの間が空いた登山だし、持病になった足のじん帯やひざの痛みがあれば、黒岳まで、あるいはもう一つ、この十字路から右にすぐの所にある人の少ない桂月岳(けいげつだけ、1938m)まで行くことにするか、まだまだ元気があれば、お鉢逆回りコースになる、変化のある北海沢から北海岳(2149m)への道を取ることもできたのだが、やはりなるべく楽な道をと、高原歩きの先にあるお鉢展望台(2020m)まで行くことにした。

 今の時期の紅葉を楽しむ山歩きなら、そこまでで十分だった。
 若いころには、このまま先の北鎮岳に登り、お鉢をめぐって北海岳からこの十字路に戻ってくることもできたのだが(逆回りのコースも同じく)、しかしあの頃は、コースをたどることだけに、さらに時間をいかに早く切り上げるかに夢中になっていて、当時のそんなスポーツ感覚の登山では、山々を鑑賞し逍遥(しょうよう)する気分を味わうことなどあまりなかったはずだ。
 むしろ、こうして時間に余裕をもって、その時々の周りの景色を楽しんで行くことこそ、年寄りになってからの、ありがたい山登りなのだと、ひとり負け惜しみの言葉に置き換えてみた。

 さて、さっそく目の前には、見事な灌木帯の紅葉模様が繰り広げられている。 
 そこには、深紅のウラジロナナカマドの大きく広がる株があり、明るい赤のクロマメノキとやや暗いチングルマの赤、さらには盛りの緋色の時は過ぎて少し赤黒くなり始めたウラシマツツジ、他にも所々に黄葉したタカネヤナギやミネヤナギなどがあり、さらにイグサの類などのクサモミジと、ハイマツの濃い緑もあって、これらが一体となって作り上げる景観は、秋の高山帯での色彩の見本市のようだった。
 この時には、まだ上空の雲が多くて、日陰の所が多かったのだが、帰り道に戻って来た時には雲も取れて日も差していたので、同じ所でまた写真を撮って、その時の方の写真をあげておく。



(雲の平から、ウラジロナナカマドの紅葉の株を前に背景は烏帽子岳)




(雲の平から、クロマメノキとチングルマを主体にした紅葉。ところどころに白く輝く葉はキバナシャクナゲ、小さい葉はコケモモ、緑の影のように見える部分はガンコウラン。背景は北海岳)

 何度も立ち止まりながら、こうした紅葉風景を楽しんで歩いて行く。
 もう何度も来て、同じような写真を何枚も撮っているのに、またこうしてやって来ると、どうしても写真に収めたくなってしまうのだ。
 それは、いかに芸術的な写真に仕上げるかなどの、プロ写真家としての目ではなく、ミーハー的な風景ファンとしての、自分だけの写真を撮っては、後で繰り返し眺めていたいからなのだが。

 まあこうした、マニア的な愉(たの)しみは、野鳥を撮ったり、チョウを撮ったり、あるいは鉄道風景や夜のコンビナート風景を撮ったりと、数限りない分野にまで広がっていて、さらに言えば”オタク”文化としても知られる、昔の”カメラ小僧”や、AKBなどのアイドルの追っかけにも通じるものがあり、それらは広く、人々の持つ自分だけの収集趣味、つまりはコレクター本能の一つの表れではないかとも思うのだ。
 私たちは子供のころから、ビー玉やめんこ(パッチ)を集め、野球選手や戦隊レンジャーのカードを集め、女の子たちも小さい時から、飾りビーズ玉やリカちゃん人形を集めたりしては、自分だけの小さな世界を作りだしていたのだ。

 人間は誰でも、何かしらのマニアの世界、自分だけの領域にある収集癖があるものなのだろう。
 それが心理学でいう、かなえられない願望の代用物としての、置換作用の結果なのかもしれないし、それがプロ作家としての芸術的な意識で支えられていれば、”昇華”という言葉で定義できるのだろうが、どうやら私たちの意識はそこまでは行かない、ただ何かの叶わぬ夢の代用としての収集家でしかないのだろうが。
 それに関連して言えば、私はこの2か月もの間、山に登らなかったことで、こんなことは初めてだと思うほどに、たびたび山の夢を見た。
 それらはすべて、心地良い登山の夢というのではなく、そこでは天気や他の事情で先に進めなくなるという、いわゆる負の負担になる夢もあったのだが、それらのことは、この夏の北アルプスや東北そして北海道などへの登山計画が、ことごとく実行できなかったからかもしれない。
 ともかく言えるのは、私が絵葉書写真にあこがれるだけの、ミーハー的風景写真マニアにしかすぎないということであるし、ただそれは、私の思いの何かの代用、代償作用が働いているからなのだろうか・・・。

 そんなことを深く考える間もなく、両側の風景は少しずつ変わっていき、さらにありがたいことに、上空の雲のすき間から青空がちらちらと見え始め、凌雲岳(りょううんだけ、2125m)や北鎮岳の姿も見えてきたのだ。
 行く手には、今日の目的地である、お鉢展望台の高みが近づいてきて、岩の間の黄色いクサモミジと山稜のハイマツとの間を区切るウラジロナナカマドの紅葉、そして何よりの青空の広がりが見えていて、私の今日の思いを込めるかのような光景になっていた。(写真下)



 そしてたどり着いた、巨大な噴火口跡のお鉢を眺める稜線では多くの人が休んでいたが、私は少し先の所にある、北鎮岳と凌雲岳を見て、振り返ればお鉢の火口壁が見える所まで行って、腰を下ろした。 
 ここまで黒岳山頂から1時間半以上かかっていたが、足が痛むこともなく来ることができて、さらに天気が予想以上に回復してくれて、もう今日の登山としては十分だった。
 霧の黒岳山頂で、少し後悔気味になっていた思いが、今の青空のように、雲散霧消して消えていったかのようだった。
 簡単な昼食をとり、お鉢の中岳付近の火口壁から下り落ちる、紅葉とハイマツの縞模様を写真に撮った(写真下)後、このお鉢展望台を後にした。
 まだまだ行き交う人が絶えなかったが、連休ということを考えればそれほど多くはなかった。
 先に写真をあげたように、帰り道ではだいぶん光が差していて、紅葉風景がさらに鮮やかに見えた。
 しかし雲の流れは変わらず多くて、すっきりと青空が広がることはなかったが、霧に包まれていた黒岳山頂のことを思えば、これだけまわりの眺望を得られていて、他に何を言うことがあるだろうか。
 黒岳への登り返しの所では、行きにもいた人たちがまだ10人余りいて、立派な望遠レンズの先を数メートル先の斜面にに向けていた。

 カメラで狙っているのは、エゾシマリスとのことであり、紅葉を背景にして、エサを集めて走り回るさまが何ともかわいらしいとのことだった。(あの然別湖ではナキウサギを求めて、三脚にカメラを据えた人たちによく出会ったものだが。)
 しかし、北海道に住む人たちに言わせれば、シマリスやエゾリスは、普段から家の周りにいる小動物たちであり、キタキツネやエゾシカとともに、別に写真に撮りたいとまでは思わない、いつもいる動物たちなのだが、内地からくる人々にとっては、北海道だからこその、貴重なかわいい生き物なのだろう。
 これもまた、先ほど書いたように、私が風景写真の小さなマニアの一人であるように、彼らもまたシマリス・マニアの世界を共有する人たちなのだろう。

 登り返してたどり着いた黒岳山頂は、再びの霧の中だった。
 それでも、多くの人たちが腰を下ろして休んでいた。
 私はもう今日の登山で、思い残すことはなかった。
 それでも、良い所があれば、下りの斜面でも紅葉の写真を撮る気でいたのだが、相変わらず霧がまとわりついていて、日差しが戻って来たのはずっと下になってからだった。
 ぬかるみの道を気を使いながら降りて行くと、まだまだ登ってくる人たちがいた。

 リフト、ロープウエイと混雑で待たされることもなく、下に着いたのは3時過ぎだった。
 車に乗って層雲峡を後にして、石北峠との分岐で大雪国道を右に三国峠への道になるのだが、なんとそこから見た大雪の山々は、緑岳から赤岳付近まで見事に晴れあがっていて、黒岳だけに雲がまとわりついていたのだ。
 さらに翌日の話だが、大雪山全域にわたって、見事な快晴の空が広がり、その天気は昼過ぎまで続いたとのことだった。
 知らなくてもいいことが、世の中にはたくさんあるのだ。
 その代わりに、多くの知るべきことを、見逃していたりして・・・。 
 多くの物事の良し悪しは、五分五分であって、いつも最後に帳尻があうようになっているのだろう。

 帰り道で友達の家に寄って、しばらく話をしたのだが、前後の天気からして、おそらく今日来るだろうと思っていたとのこと、長く友達でいることとは、そういうことなのだろう。 
 さらに、彼が毎日4キロものウォーキングを欠かさずにやっていると聞いて、感心することしきりだった。
 それに引き換え、わが身の起き上がりこぼし状態の体はどうだ。まったく情けない、ぐうたらな毎日の生活のたたりなのだ。

 友達は、時には、良き教師の一人にもなるのだ。
 私も今日から、ぐうたらぶりを改めて、間食にお菓子などを食べないようにして、薪割りなどの家の仕事に精を出して、昔のひたむきな自分に戻ろう。 

 しかし、今日は台風が来て、家の周りは30㎝もの水にあふれて、そのうえひさしぶりに山に登ったものだから、筋肉痛がひどくなっていて、階段の上り下りにも一苦労していて、今日まではぐうたらなままでいて、明日からまじめな生活をしよう・・・と心に言い聞かせたのではありますが・・・このタヌキおやじのこと、明日になれば、また死んだふりしてぐうたらに戻るのが目に見えるようで。




 

 


かぎろひの立つ見えて

2017-09-11 23:01:25 | Weblog



 9月11日

 朝の薄い雲が取れてきて、今十勝平野の上には快晴の空が広がり、日高山脈の山なみがくっきりと見えている。
 それなのに、こうして山にも行かずに、家に居ることほど、どこかもどかしくつらい気持ちになることはない。
 それも、大雪山の上の方は、今が紅葉の盛りだというのに・・・。

 もちろん今日は、その大雪山に行くつもりでいた。
 昨日の夜には支度して、天気予報でも、午前中は晴れのマークがついていたので、明日こそは山に行けると思っていたのに・・・。


 まだ暗いうちに起きて、すぐにネットで衛星画像を見てみると、昨日から道内の早い所では、夕方から雨が降り出すと言っていたが、その寒冷前線の雲のかたまりの接近が早まり、夜が明ける前の今の時点で、その外側の雲が、道北を除く北海道全体にかかっていた。 
 それで、もうあきらめ半分だったのだが、さらにしばらく待って、旭岳のライブカメラを見てみると、旭岳(2290m)にも左に見えている安足間岳(あんたろまだけ、2194m)にも、雲がかかり始めていた。
 雨の確率は低く、今の雲が雨雲ではないにせよ、私がいつも心がけている、晴れた日の山々を眺めながらの登山は、とてもできそうにはなかった。
 私は、山に行くのをあきらめて、玄関に出していた山道具を片付け、着かえたたばかりの登山着をまた普段着に着かえた。

 こうして、当日になって、天気が思わしくなくて、予定した山に行かないのは、私にはよくあることだ。 
 と言っても、天気が悪く雨になったからというのなら、それも仕方ないのだが、私の場合、曇り空でさえ避けたいからなのだ。 
 原則、快晴の天気の時にしか、山に登りたくはないのだ。 
 何というわがまま、何というぜいたくなのだろうか、私の人生と同じように。

 それは、残り少ない人生の時を、好きな山登りで楽しもうとしているのに、いつも些細な理由でやめにしていて、それでいいのかという思いと、残り少ない人生だからこそ、より良い思い出の時にしたいのだという思いとで、いつも自分の心の中で小さくもめることになり、思い切った決断がうまくいった時の心地良さか、取り戻すことのできない小さな後悔のどちらかを味わう羽目になる。
 実は数日前にも、似たように天気判断を迫られて、結局その時も行くのをやめたのだが、結果、後でライブカメラや他のブログなどを見てみると、それはまさに登山日和の一日になっていて、私の判断が間違っていたことを知らされたのだ。

 こうして、あの時やっておけばよかったのにという後悔の思い出と、あの時決断してやったからよかったのだという満ち足りた思い出は、いつも人生の中では、相半ばすることになるのだろう。
 ただ、人によっては、その時々の結果の印象から、その決断が良かったか悪かったかの比率が、偏(かたよ)ったものになるのだろうが。
 もともとが、性格的にも”お天気屋”な私は、悪く言えば、”ぐうたら”で”ずぼら”で、いつも”いいかげん”な人間だから、そうした決断が失敗だったとしても、一日たてばほとんど忘れてしまい、今まで通りに続く”ぐうたら”な毎日に戻り、安住してしまうことになるのだ。

 その昔、残業月に200時間以上の毎日の仕事に、それでも好きな音楽や映画にかかわる仕事だからと、半ばマゾヒスティックな喜びにひたりながら働き続けていたのだが、いつも疲れた体で”午前様”になって家で寝るために帰っていた毎日に、ある時ふと疑問に思い、気づいたのだ。 
 それは、悦びと束縛、疲労とそれに見合う報酬とが、錯綜(さくそう)して組み立てられている今のこの仕事は、街角に立って体を売ってお金を稼いでいる人の仕事と、何らか変わりはないのではないのかと。
 そこで私は、自分の体を売りながらこのまま心も体も疲弊(ひへい)していくよりは、貧しくともわがままでぐうたらになることに決めた。

 それまでに何度も訪れて、すっかり気に入っていたあの北海道に、それも私の大好きな日高山脈の見える所、北海道の広さを目の当たりにできる、あの十勝の大平原に行こうと。
 もともと、自然が好きで山が好きな私には、都会の十分な暮らしから一転して、過酷な貧しい生活に変えることなど、大した問題ではなかったのだ。
 それは、東京での便利で豊かな生活と、家族的な関係のをすべて捨て去ったとしても、自然の中での生活は、不自由な生活を超えて、十分に見合うだけの、いやそれ以上の私にとっての”エルドラド(理想郷)”の世界に見えたのだ。
 その思いは今も変わらないし、私のあの時の決断は正しかったのだ思っているし、思うことにしている。
 それだから、少しでも否定的な考えがよぎった時には、自分に言い聞かせているのだ。
 最初の目的は何だったのか、今、その時の願いのまま、自分で家を建てて北海道に住み、そこで静かにぐうたらに暮らしているのだから、多少の不便さは当然のことだし、それ以上に何を望むことがあるのかと。 

 とまで、結論づけてくると、今日、紅葉が盛りの大雪山に行けなかったことぐらい、ちいせえ!ちいせえ!
 ほうれ! 昨日の夕焼け空の日高山脈の眺めだけでも、十分にその埋め合わせはつくというものだ。
(写真上、左から1643峰と1823峰、中央右にピラミッド峰(1853m)からカムイエクウチカウシ山(1979m)へと続く。)
 そしてその茜(あかね)色の空から、振り返って西の空に目を向けた時、ちょうど地平の林の上から、驚くほどに大きな月が昇ってくるところだった。(写真下)




 この夕方の日の入りと、朝の日の出のころという状況こそ違え、どうしてもあの万葉歌人の柿本人麻呂(かきもとひとまろ、660~724)の有名な歌を思い出してしまうのだ。

「東(ひんがし)の野には かげろひ(かげろう、曙の光)の立つ見えて かえり見すれば 月かたぶき(かたむき)ぬ」

(『万葉集』巻一 四十八番、『万葉集上巻』伊藤博 校注 角川文庫、以下同様)

 『万葉集』は、あらためて言うまでもないことだが、奈良時代末の759年ころに成立し、その歌は二十巻約4500首もあり、雑歌(宮廷他の公式の場における歌、季節の風物、自然の情景などを詠んだ歌)、相聞歌(離れた恋人夫婦などが詠みかわす歌)、挽歌(亡き人を悼みしのぶ歌)の三つに大別されているが、その雑歌の中で、後年になって特に自然の景観などを詠っている歌をまとめて、分かりやすいように、叙景歌(じょけいか)として分類しては論じられることがある。
 その『万葉集』きっての歌人の一人である、柿本人麻呂には優れた叙景歌がいくつもあり、その中でも特に有名なのは、朝焼けの光景を詠った上にあげた歌であり(もっとも、この歌には皇位継承のさなかにあった軽皇子(かるのみこ、後の孝徳天皇、718~785)の思惑などが巧みに読み込まれていて、その猟場での光景だともされているが)、さらにもう一つの有名な歌、巻七の冒頭(一〇七二番)に収められている”天(あめ)の海に 雲の波立ち 月の船 星の林に 漕ぎ隠(かく)る見ゆ”もまた、今の時代にも通用するような、童謡的でしかも大人の世界をも描いている、ロマンティックな表現が素晴らしい。

 叙景歌と言えば、教科書にも載っているほどに有名な、あの山部赤人(やまべのあかひと、?~736)の”田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける(巻三の三二一番)”がその代表的な歌ともされているが、山好きな私としては、前にもここであげたことのある、あの大伴家持(おおとものやかもち、718~785)の、立山を詠んだ歌を最も気に入っているのだが。
 ”立山(たちやま)に 降りおける雪を 常夏(とこなつ)に 見れども飽(あ)かず 神(かむ)からならし”(巻十七の四〇二三番)

 この歌については、あの深田久弥氏の名著『日本百名山』での、立山・剱岳の山名説明の所でも明らかなように、立山(たてやま)を”たちやま”と呼び、その”たちやま”は”太刀山”と書き、そしてその太刀(たち)は剱(つるぎ)という字と同義だから、昔の立山(たちやま)は、今の剱岳を中心として立山を含む、広い山域を指していたのだろうと考えられるが、確かに富山平野側から見れば、今でも針山のごとくに林立する剱岳の姿が、ひときわに目立った存在であり、昔の人にとっても、畏(おそ)れ多い山に見えたことだろう。

 任地の越中に赴(おもむ)いた大伴家持は、その途中の峠道から初めて見た立山(太刀山)=剣岳が、夏なのにまだ多くの雪を谷筋に残していて、その人を寄せ付けないような神々しい姿を、歌に詠まずにはいられなかったのだろう。
 私はこの剱岳の姿を、様々な山の頂から見ていて、特に初冬の季節に、剣御前から見た姿が忘れられない。 
 そして長らく、まだ見たことのない北側からのその姿をと思い、毛勝(けかち)谷の雪渓をつめて毛勝岳頂上に至り、その頂上にテントを張って翌朝にかけて、ゆっくりと眺めて過ごしたいものだと思っていた。 
 しかし、もうこの年で起き上がりこぼしの体になってしまった今では、その夢をかなえられそうにもないのだ・・・。
 年寄りになると、確かに”山は逃げていく”のだろう。 
 
 この十勝地方では、昼頃には一時快晴の空が広がっていたのだが、再び薄い雲に覆われて、薄日の差す天気に代わり、やがて雲は厚くなり、夕焼け空になることもなかった。
 大雪山・旭岳のライブカメラでは、朝からずっと雲がまとわりついていて、日中はその姿も見えなかったのだが、夕方になって曇り空の下、ようやく旭岳の姿が見え、頂上西側の火口壁が雪に覆われているようだった。昨日から今日にかけて、初雪が降ったことになるのだろう。
 昼のニュースで、昨日の白雲岳で雪が降っているシーンが映し出されていたし、このあと数日は続く悪天候で、山は上の方が雪化粧してしまうのだろうし、紅葉は今日の曇り空の下で、その盛りの時を過ぎてしまうことになるのだろう。 

 私は、今日山に行かなかったことで、今年の山上での紅葉を見逃し、去年は台風後の倒木片づけ作業で山どころではなくて(2016年9月の項参照)、何と二年も、大雪山の盛りの紅葉を見なかったことになるのだ。 
 それでも私には、蓄(たくわ)えがある。
 さらに前の、2015年9月、銀泉台から赤岳まで行った時の記録が残っている(’15.9.28の項参照)。 
 あの時は、きれいだった。
 その思い出があるだけでも、十分だ。

 若いころは、日高山脈の山々の挑戦が主体だったけれども、年寄りになった今、私を楽しませてくれるのは大雪の山々であり、これからも毎年、私は大雪山の夏の花と秋の紅葉を見に出かけて行くことだろう。
 お迎えの、その日が来るまで。


茜色から葡萄酒色に

2017-09-04 20:52:26 | Weblog



 9月4日

 それまで、曇り空の多い夏の間には、あまり夕焼け空を見ることはなかったのだが、数日前、西の空に、見事な色彩変幻の舞台が繰り広げられた。
 それは、思わず”茜(あかね)屋”と声をかけたくなるほどに、天空を背景にして、夕焼雲がまるで歌舞伎の”みえ”を切っているような舞台だった・・・。
 西の空から全天球にかけて、茜色から夜のとばりへと、漸次(ぜんじ)夕焼け色を減じていく、壮大な自然の中での舞台だった。

 こうした、巻積雲や高積雲が現れる秋の空こそが、夕焼け空を楽しむ最もいい季節なのだ。
 暦(こよみ)の上からだけではなく、確かに秋が来たのだ。

 その後、北海道への直撃が心配された台風も、大きく東の方へとそれて、いくらかの風が吹いただけで、穏やかな秋の日々が続いている。 
 朝の気温は、ついに10℃を切るようになり、今朝は8℃にまで下がり、草花にはいっぱいの露の玉が光り輝いていた。

 そうなれば、蚊やアブも少なくなり、いかに”あぶはち取らず”のじじいとはいえ、動かないわけにはいかなくなる。 
 身支度を整えては、実に2か月もの間放っておいた庭の草刈りに、今頃になって精を出しているのだ。 
 しかし、そこでは、ぐうたらに怠惰(たいだ)に過ごした夏の日のつけが回ってくる。 
 30㎝以上にも伸びた草は、半ば倒れて、特に午前中は湿っていて、草刈り鎌(かま)で切っていくのは一苦労になる。
 額に汗を浮かべながらも、日ごろからたいした運動もせず、ましてや2か月もの間、山にも登らず、ぐうたらにものぐさで、放縦(ほうじゅう)な生活を続けてきた体は、何と3㎏も体重が増えて、体は”おきあがりこぼし”状態のまま、”どっこいしょ”と声を出さなければ、立ち上がることもできない体になり果て、そんな時に、これこそが”天の声”であり、前回書いたように、昔の偉い人の言葉、”人は働くにしくはない”という声が聞こえてきて、はっと気がつき、その教えの通りに、今は老体にムチ打っては(あへー)、庭仕事に励んでいるのであります。

 目を上げれば、青空の中、シロチョウの仲間やヒカゲチョウの仲間が飛び交っているのだが、いずれもこの冷え込みですっかりその数が少なくなってしまった。
 さらには、前回あげたオニユリの花はもう20数輪余りも咲いていて、そこだけ華やかな色彩にあふれているのだが、そこには、相変わらずにカラスアゲハやキアゲハなどが集まってきていて、いずれももう翅(はね)がボロボロになっていて、哀れなくらいなのだが、それでもこのいっぱいの日差しの中を、最後の生きるひと時をと、何も考えずにただ夢中になって蜜を吸っているようにも見える。
 それぞれに、それぞれの命の限りに飛び回っているのだ。

 こうした、有無を言わさぬ本能の力こそが、生きるということなのだろう。 
 若き日には、その活力気力のあふれるままに、自分で決めた道をひたむきに、ただ走り続けていけばいいのだが、やがて年を取れば、途中で休むことを覚え、また自分にも行くことのできる別の道があることを知り、そこでそれまでの道にしろ、新たに見つけたもう一つの道にしろ、これからは、今の自分の体力気力に合わせて、分相応に歩いていけばいいのだろう。

 ただ言えることは、今さら高望みをして、できもしない誰かの道をうらやんだところで、何になるというのだ。
 自分には、自分が選んだ、この静かなか細く続く道があるのだから。

 「少しは不便でもいいから、もっとのんびりさせておいて貰(もら)いたい。」

 (『虫も樹も』尾崎一男 講談社学芸文庫)

 そこでさらに思い出したのは、今までに何度もここで取り上げたことのある『徒然草(つれづれぐさ)』の中の一段にある文章である。長くなるが、以下に引用してみると。

 ”高倉院(1181年崩御)を祀(まつ)った法華堂で修業をする一人の僧侶が、ある時ふと鏡で自分の顔をのぞいては、その容貌(ようぼう)が余りにもひどく見えて、情けなく思い、その後は鏡を恐れて見ることもなく、さらには人前に出ることもなくなって、お堂にこもっては読経などの勤めに励んだということであるが、私(作者)には、それが近頃まれないい話であるように思えるのだ。” (年老いた自分、誰あろう鬼瓦権三の顔を見れば、他人ごとではない話だが。)

「賢げなる人も、人の上をのみはかりて、己をば知らざるなり。
 我を知らずして、外を知るという理(ことわり)あるべからず。
 されば、己を知るを、物知れる人というべし。
 かたち醜くけれども知らず、心の愚かなるをも知らず、芸の拙(つたな)きをも知らず、身の数ならぬをも知らず、年の老いぬるをも知らず、病の冒(おか)すをも知らず、死の近きことをも知らず、行う道の至らざるをも知らず、身の上の非を知らねば、まして、外のそしりを知らず。
 ただし、かたちは鏡に見ゆ、年は数えて知る。
 我が身のこと知らぬにはあらねど、すべきかたのなければ(どうするのかわからなければ)、知らぬに似たりとぞ言わまし。
 かたちを改め、齢(よわい)を若くせよとにはあらず。
 拙(つたな)きを知らば、何ぞ、やがて退(しりぞ)かざる。
 老いぬと知らば、何ぞ、閑(しず)かに居て、身を安くせざる。
 行(おこな)いおろかなりと知らば、何ぞ、これを思うことこれにあらざる。
 ・・・。
 ・・・、いわんや、及ばざる事を望み、叶わぬ事を憂(うれ)い、来たらざる事を待ち、人に恐れ、人に媚(こ)ぶるは、人の与える恥にあらず、貪る(むさぼる)心に引かれて、自ら身を恥ずかしむるなり。
 貪ることの止まざるは、命を終うる大事、今ここに来たれりと、確かに知らざればなり。」

(『徒然草』兼好法師 西尾実・安良岡康作 校注 岩波文庫、なおここでは、分かりやすくするために、文章ごとに段落をつけている。)

 これは、今の私の生活信条の規範となるべきものであるのだが、悲しいかな、今もその幾つかにさえも及ばないのが実情である。
 ただその中でも、唯一、間違いなく今の私の心持に当てはまるのが、”老いぬと知らば、何ぞ、閑かに居て、身を安くせざる(歳をとったと分かったならば、静かに暮らして、心安らかにいるべきなのだ。)”という一節なのだ。

 茜色の空は、少しずつその色を変えてゆき、いつしか怪しげな葡萄酒(ぶどうしゅ)色になっていた。(写真下)



 見上げた空は、気がついた時には、天空の中ほどまで夜の闇が忍び寄っていた。
 夕焼けの華やかな舞台は終わり、夜が来るのだ。

 それにしても、目の前に大平原が広がり見える所だから、こうした光景を心ゆくまで楽しむことができる。
 まして、厳冬期の朝な夕なに、大雪原の彼方から昇ってきてはそして沈んでゆく、赤い太陽が照らし出す風景の素晴らしさは、言葉に尽くしがたいほどだ。
 もっとも同じように、大海原を目の前にしても、同じように色彩の舞台を見ることができるのだろうが、それは平原の場合以上に、海面を鏡にして上下に反映する、あの万華鏡に見るような眺めとして、楽しむことができるのだろうが、それでも私は、こうして今いる場所を、地平の彼方に日高の山々が見える場所を選びたいのだ。
 私は、日々眺めることのできる、この十勝平野の広がりと、彼方に連なる日高山脈の山々に、そして、ここにいることができることに、ただただ感謝するばかりである。

 広い所が好き!
 八丈島のきょん!(昔のギャグ漫画『こまわりくん』に出てくる意味のない感嘆詞)