ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

北国の家へ

2021-10-21 20:54:24 | Weblog



 10月21日

 病み上がりの体で、いろいろと考えてみたが、もう一年も留守にしたままになる、あの北海道の家を放っておくわけにはいかない。
 どうしても一度は行って、家の様子を見て調べ補修しておかなければならないからだ。

 長距離バスの減便、飛行機の減便の中だが、新型コロナ患者の劇的な減少もあって、数日前、思い切って、出かけることにした。
 さすがに、減収減便の悪循環の、今の旅客機業界を示すかのように、後ろの方はかなりガラガラの状態で、全体を見ても6割程度ではなかっただろうか。
 とは言っても、前の方の座席ファーストクラスやクラスJなどは満席に近かったから、つまりは普通の観光客、家族客などがまだ戻ってきてはいないということなのだろう。

 そんなことより、今回特筆すべきは、いつものことながら飛行機からの山の眺めである。
 福岡空港を飛び立ってからすぐに、左手には英彦山(ひこさん)と由布岳が見えてきて、右手には九重、阿蘇山(昨日噴火した)、祖母山から遠く霧島まで見える天気だった。
 さらに四国では石鎚山(いしづちさん)の真上を通り、明石海峡大橋、神戸、大阪、さらには今夢中になって読み返している、万葉集の故郷である奈良の条里制跡のマス目模様がはっきりと見える。
 そして鈴鹿山脈を越え、名古屋の中部国際空港を眼下にして、御嶽山(おんたけさん)を過ぎるころ、南アルプスの先に、初雪の雪が消えた赤黒い姿を中空にさらけ出して、巨大な円錐形の富士山がそびえ立っている。

 ”待ってました”と声をかけたくなるひと時だ。
 それも左手には甲斐駒に白峰三山から始まる、南アルプスの長大な山なみが続き、その後ろには中央アルプスから北アルプス(穂高と槍も確認できる)。
 さらには、八ヶ岳からその右手に、奥秩父そして浅間山から上信越国境の連なりまでもが見えていて、もう夢中になって、ただひたすらカメラのシャッターを押すばかりだった。(上の写真、伊豆半島上空より)

 2か月前の、つらい手術の後に、神様はその代わりに、こうした思いもよらない幸運を用意してくれていたのだ、目の前に現れた歓喜の光景・・・。
 いつもこうして、悲喜こもごもで半分半分の人生だからこそ、その半分に出会うために生きていたいと思うのだ。
 しかし、小さなミスも一つ。実はこの写真は軽いファミリー向けのカメラで撮ったもので、今回は北海道の山に登るわけではないからと、高画素ズームの重量級のカメラは持ってこなかったのだ。
 まあそれは小さなことでしかなく、今回は、日本中央部の名だたる山々を見ることができただけでも良しとしよう。

 羽田で乗り換えて帯広へ、さすがにこちらの便は、一日に2便だけに減らされていたから、8割ほどの座席が埋まっていた。
 さらに、それから先の飛行機からの眺めは、日光の山々が見えただけで、後は前線が形づくる高積雲の雲海に覆われていて、山々は見えなかった。

 そして、十勝のわが家に帰り着いてみると、家の周りが草ぼうぼうなのはもとより、家の中には、数百匹のハエと、あちこちに散らばるネズミ(体調12㎝ぐらいのエゾアカネズミやエゾトガリネズミ)などのフンと、カビだらけの冷蔵庫の掃除、などなどの仕事が待っていた。
 その上に、寒気が降りてきていて、目の前に連なる日高山脈には雪が降り積もっていて、最低気温も-2℃、-1℃の日々が続き、連日強い霜も降りていた。(九州のわが家を出る時には、最低気温でも12℃くらいはあったのに。)
 しかし、この北国の家の中には、しっかりした薪(まき)ストーヴがあって、暖かくしていられるからいいのだが・・・そして窓辺の揺り椅子に座りながら、ひと時、夕焼けの日高山脈を眺めている・・・。(写真下)



 この北の国ならではの、広い空、雄大な風景は、何があっても見続けていたいと思う・・・果たしてこれから、あとどのくらいの日々が残っているのだろうか。
 もちろん、あの南の国の家には、山に囲まれているから、この北国の広大な展望を望むことはできない。
 だけれども、ライフラインは完備していて、日常生活に困ることはない。それが普通の日本の住環境なのだが。

 しかしこの北の家では、まず井戸の水が干上がっていて、周りの農家に水をもらいに行くか、ペットボトルの水を買うしかない。そんな状態だから、外の五右衛門風呂も沸かせないし、洗濯もできない。
 井戸を掘りなおすには相当のお金がかかるし、死にぞこないの年寄りにはそれは無駄なお金になるのかもしれないし、垂れツボ式の外トイレに行くのも、最近はおっくうになってきたし。
 若い時に、ひたむきになってひとりで建てた家だから、その時は井戸の水も出ていたし、多少の不便を感じながらも、十勝に住むことができるということだけで、十分に満足していたのだが。
 しかし今、年寄りになってきて、水が出なくなった井戸に併せて、他の不便さがどっと押し寄せてきたのだ。

 すべての決断を先延ばしにするというよりは、前回も書いたように、自分の体も、この北の国の家も、いざという時の覚悟はしておいて、その時の手はずは整えておいて、ただ自分の命の続く限りは、この緑豊かな大自然の中で、あるがままの流れに従って生きていけばいいのだと思う。
 深く考えたところで、思い悩むだけのこと、それなら今を生きよ、と声が聞こえてくるような・・・。

 前にもあげたことのある、古代ローマの政治家であり哲学者であったキケローの言葉から。

  ”幸せな善き人生を送るための手立てを、何ひとつ持たぬ者にとっては、一生はどこをとっても重いが、自分で自分の中から、善きものを残らず探し出す人には、自然の掟がもたらすものは、一つとして災いとみえるわけがない。”

(『老年について』キケロー著 中務哲郎訳 岩波文庫)




楽観的に

2021-10-05 22:17:37 | Weblog



 10月5日

 今年も、枝ごとに小さな花をたわわにつけた、キンモクセイの黄色い花が咲き始めて、家の中にまでその香りが漂ってくる。
 わが家の庭に植えこまれた木々や草花のうち、秋の花としてその掉尾(とうび)を飾るにふさわしい、黄金色の豊かな色と香りである。
 秋が来て、日ごとに空気がぴんと張り詰めていき、朝夕の冷え込みは、夏の蒸し暑さを追い払い、冬はもうそこにまで来ているのだと思ってしまう。

 この夏の盛りに、私は病院であわただしい時を過ごした。
 それは長時間の手術を伴う、危険な時間もはらんでいたのだが。
 今思うに、私はそれらの日々の間、どちらかといえば慌てふためくこともなく、今自分の置かれている位置を分かっていたのだと思う。

 つまり、悪性腫瘍の宣告を受ける前後から、私は群れの列に並ぶ羊のように、ただ検査や治療処置に従うだけで・・・それらの作業手順を受け入れる他はなかったのだ。
 今さら自分ではどうにもできない状況の中では、ここに至るまでの原因結果の良しあしなど考えてどうなるというのだ。
 すべては、今ある現状に身をゆだねることしかできないし、それでいいのだと思っていた。

 それは宗教的に言えば、”南無阿弥陀仏”と唱え、”神の御心のままに”と祈ることであり、それはまた歌に書かれているように、”Let it be"とか”Que sera sera”とか・・・どこからか聞こえてくるささやきであり、自分に言い聞かせる言葉でもあったのだ。
 ともかく、事実は事実としてあるだけのことだからと、深く考えないことにした。

 そうした楽観的な考え方は、悪事困難に対面した時に起きる、放心状態の自己放擲(ほうてき)や保身心理が働くからだというのではない。
 しっかりと現状認識をしたうえでのことであり、さらにはそれまでにも自分の人生を肯定的に振り返り、いい人生だったと思うようにしていたからのことである。
 この年になって、自分の人生を否定的に考えてどうなるというのだ。負の連鎖におちいるだけだ。

 それは誰かと比べるのではなく、良いことと悪いことはいつも相半ばしているものだからと、自分に言い聞かせるだけのことであり、他人がどう思おうとどう評価しようと、知ったことではないのだ。
 今、私が生きている唯我独尊(ゆいがどくそん)の世界は私だけのものであり、他人に迷惑をかけずに、そうしたわがままな思いのまま死んでいければ、それでいいのではないのかと思っていたからだ。

 それだから、退院後の今に至るまで、私は自分の病状について分かってはいるが、この先転移再発しないかなどと悩んだりはしていない。なるようにしかならないし、くたばったその時が私の寿命なのだ。

 先日NHK・BSで、コロナ禍において演奏会を開けないオーケストラの苦境を描いた番組をやっていた。
 それは世界中のクラッシックのオーケストラがそうなのだろうが、この東京フィルハーモニーの楽団員たちも、演奏会を開くどころか練習場所さえなくて苦労していた。
 その上に、このオーケストラの名誉指揮者兼音楽監督として、楽団員全員が演奏会を切望しているチョン・ミョンフン(韓国出身のアメリカ人指揮者68歳、姉は名ヴァイオリニストのチョン・キョンファ)が、1年半もの間来日できずにいたのだが、ようやくこの度スケジュールが整い東京に来てくれたのだ。
 そして、この9月に久しぶりに開かれ定期演奏会で、チョン・ミョンフンと東フィルによる”ブラームスの四つの交響曲”が演奏されて、その二日間の公演はまさに熱狂的な拍手に迎えられたとのことだった。

 このチョン・ミョンフムがその時のテレビのインタヴューに答えていて、それは常々私もこのブログで言ってきたことなのだが、”皆は若い時に戻りたいというけれども、私は年を取った今のほうがいいし、これからもそう思いながら年を取っていきたい”と。
 何もこの有名な芸術家と、無芸大食で口先だけの芸術愛好家の私などが、同じ思いにあるなどと大それたことを言うつもりなどないが、ただ私は彼のその言葉に、年寄り同志的な近しさを感じたのだ。
 
 こうして、病み上がりの年寄りの、貴重な一日は過ぎてゆくのであります。

 母の仏壇に供えるリンドウの花が長すぎて、少し茎を切ったところでツボミが二つ落ちてしまい、捨てるにしのびず、刺身醤油小皿に水を入れて浸しておいたところ、花が開こうとしていた。(写真下)

 みんな、生きていたいのだ。