ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

新緑の山、周遊

2015-04-27 21:31:53 | Weblog



 4月27日

 前回の英彦山登山から一週間もたっていないのに、また山に行ってきた。

 理由は幾つかある。
 一つには、今まさに、里も山も新緑の季節の真っただ中にあり、前回の英彦山の山歩きで、そんな春の山のよさを満喫することができたただけに、また別な山で同じように新緑の中を歩きたいと思ったからである。
 さらに、北海道に行かないのなら、ここでもっと山を楽しまなければと思ったからでもある。
 そして、前回の登山が二か月ぶりだったために、その後四日間もひどい筋肉痛で歩けなくなったから、間を空けずに行けばそうはならないことを、自分の脚に言い聞かせ試したかったからということでもある。

 その結果はといえば、またも私の思い通りの、静かな心地よい春の山歩きになったのだ。
 さらにありがたいことには、その数時間の山歩きの後の翌日でも、心配していた筋肉痛はやっと気づくくらいにかすかに残っていただけであり、つまり年寄りだからと自分に言い訳することもなく、日ごろから定期的に山に登っていれば、あるいは、あのエヴェレストの三浦雄一郎さんのようにトレーニングを続けていれば、脚もまた山登りに対応できる力をつけるようになるということなのだろう。

 行ってきたのは、九重山系の黒岳(1587m)である。
 九州の山々は、本州などの山々と比べれば、標高も低く、火山系の裸地で高山感のある阿蘇、九重、霧島などの火山群は別としても、 ほとんどの山が森林限界以下の林相に覆われていて、つまり山頂まで木が生えていて、それも日本アルプスなどに見られるシラビソなどの亜高山針葉樹林帯はなく、その下部になる落葉広葉樹林帯(いわゆるブナ帯)と、さらに平野部へと続く照葉(しょうよう)樹林帯からなっているのだ。
 もっともそれは逆に言えば、新緑の時期にはふもとから山頂部まで新緑に覆われることになり、さらの紅葉の時期もこれまた全山が紅葉するということにもなるのだが。
 ただし、標高が低いだけに、その分山に入る林道は開削(かいさく)しやすく、頂上付近までスギやヒノキの植林で覆われている山もあり、いささか人工的なパターンが目について、登行意欲を失わせることにもなる。
 私がいつもここに書いているように、日本の名山を選ぶ時の第一の条件である山の姿かたちからいえば、山体を取り巻くそうした植林地の人工的な幾何学模様が、自然景観を損なう大きなマイナス・ポイントになることは言うまでもない。
 (極端な例を言えば、あの富士山でさえ、山中湖や三ッ峠山から見た富士山の東側山麓を区切る演習場のラインが、その他の切り売りされている区画などとともに、いたく自然景観を壊す人工的なラインに見えてしまう。)

 ともかく黒岳について言えば、九州の山では珍しく、ほとんどが落葉広葉樹林帯の原生林の覆われた山であり、アプローチは有名な名水の里”男池(おいけ)”への道としてよく整備されていて、静かな森林山歩きを楽しむのには最も適した山であると言えるだろう。
 今までに、この黒岳には数回ほど登っているが、最近は頂上に行くのではなくて、その周囲をめぐる森林トレッキングを楽しむようになってきたのだ。(’11.11.20の項参照)
 というわけで、今回は、まだ新緑やツクシシャクナゲ群落を見るには早すぎるということもあって、頂上付近は割愛して、山腹をめぐる新緑の山歩きをすることにしたのだ。 

 そして、新緑の木々を見るのなら、何も朝早くから出かけることはないし、前回の英彦山の時と同じように、いつもの通りにのんびりと家を出て、登山口の男池(おいけ)駐車場に着いたのは、9時を大分過ぎたころだった。
 停まっていたクルマは10台ほどで、もうみんなは朝早く出発したのだろうから、前後に他の登山者の姿も見えず、今回も一人きりの静かな山道を楽しんで歩くことができた。
 つまり、夏山の時のように、午後には雲がわいて稜線が覆われてしまうから、早立ちが一番ということもなくて、こうして春の新緑や秋の紅葉を目的に山に登る時には、なるほどむしろ出発時間を遅らせて行けば、静かな山歩きができるのかと、今にして気がついた次第である。

 整備された男池園地の遊歩道から分かれて、黒岳山麓の林の中に入る。
 二次林からなる小径木の明るい林の中に、道が続いている。(写真上)
 今までに、ここでいつも立ち止まり、同じような新緑の写真を何枚撮ってきたことだろう。(この山が紅葉の時期にはまだ北海道にいて、わずかに上に書いたように’11.11.20の時にだけ終わりの紅葉を見たことがあるのだが。)
 ともかく今は、晴れた日の空のまぶしさと、新緑の葉の明るさと、鳥たちの声だけが聞こえる静けさと・・・この今の時を、幾らかでも記憶にとどめておくべく、私は歩きながら立ち止まりを繰り返して、何枚もの写真を撮った。

 その先から、ゆるやかにひと登りしたところで、湧水の出る”かくし水”に着いてのどをうるおし、そこからは木々の根が浮き出た小尾根を登って行く。
 コナラ、ブナ、カエデなどの木々の間から青空が広がって見え、シジュウカラや渡りの途中のコルリの声、さらにアオゲラの声とドラミングの音も聞こえていた。
 息を切らして登り詰めていくと、もう下りてくる人がいたが、そこから急斜面を少し下ると、窪(くぼ)地になったソババッケに着く。
 ぽっかりと開いた木々の間から、平治岳(1643m)と北大船(1706m)が並んでそびえ立ち、その山腹は新緑が下から上がり始めたところで、ヤマザクラも点々と見えていた。

 一休みした後、そのまま黒岳と大船山(だいせんざん、1787m)との間の狭隘(きょうあい)地の道をたどって行く。
 分岐から右手に行けば、平治と北大船の鞍部になる大戸越えと向かう道になり、6月初めのミヤマキリシマ開花のころには、登山者でにぎわうことになるのだ。
 さて、ヤブレガサの新しい葉が広がり始めた平坦地から、次の窪地へとゆるやかな登りが続き、窪地に出るとまた次の登りへと数回ほど繰り返して、岩の多い道をたどって行く。
 所々にツクシシャクナゲの木があるが、まだつぼみは冬芽のままで、満開になるのは一月も先のことだろう。
 木々の間から左手に高く、黒岳山頂でもある高塚山が見えている。(黒岳山頂部は複数個のコブからなっている。)
 風穴から分岐に着いて、ひとりの登山者が休んでいたが、以後は誰とも出会わなかった。
 左手に黒岳山頂への道が急斜面を登っていて、その先で右へと大船山へと向かう道が分かれる。

 そのままゆるやかな新緑の林の中を下って行くと、上峠への分岐標識が出ている。(4年前の’11.11.20の項でたどった道だ。)
 今回は同じ道はたどらずに、そのまま七里田温泉方面へと向かうが、その途中で左手にはまるで桜並木のように、いっぱいに白い花をつけたヤブデマリの木が続いていた。
 その木々の間から、今度は黒岳のもう一つの頂である天狗岩の岩峰群が見えている。
 杉林を抜けて、その先は、テープなどの道しるべを頼りに複雑な浅い谷地形の所を下って行き、最後のジグザグの大下りで、今水から上がってきた林道に出る。
 めったに車が通ることもなさそうな古い林道跡で、新緑の日陰になった所で一休みした。

 今回の山歩きで、時々口をついて出たAKBの曲は、まだ一二度しか聞いていない新曲ではなく、その前のヒット曲あの「Green Flash(グリーン・フラッシュ)」 からの終わりの方の歌詞だ。

 「ほんの少しだけ遠回りもいいよね。明日いいことあるかもしれない・・・。」 (秋元康作詞)
 
 もう一つは、乃木坂46の3月に出た曲、「命は美しい」からなのだが、この曲はあの「君の名は希望」につぐ乃木坂の名曲として、また別に詳しく書くつもりだが、ここでは、出だしの「月の雫(しずく)を背に受けて、一枚の葉が風に揺れる。その手離せば楽なのに、しがみつくのはなぜだろう・・・」(秋元康作詞)というフレーズを繰り返し歌っていたのだ。

 あれほどまでに、クラッシック音楽一辺倒だった私が、いつの間にか、こうして世間からはアイドル好きだとさげすんで見られるような、AKBのファンになってしまったのだ・・・。
 しかし、考えてみれば、これらの歌が口をついて出る時に、実は、私はメンバーの子たちの誰かを思い浮かべているわけではなく、単純に、歌の詩(ことば)として思い出しているだけなのだ。
 つまり、私は可愛い顔をした羊たちが好きというよりは、その羊たちを導き進ませている羊飼いである、秋元康の手並みに感心させられているのではないのか、そして彼の手になる羊ショーのファンになったのではないのか。
 先日のNHK・BSの『AKB48SHOW』で、あの”みーちゃん”峯岸みなみが、AKBの”衣装ミュージアム”を取材訪問して、その時に話していた言葉が印象に残っている。
 というのも、彼女は今までにスキャンダラスなニュースに度々登場していて、ネットの書き込みで非難されることも多いのだが、とは言っても、彼女は今では3人になってしまった1期生の一人であり、長い間AKBとして在籍しているだけに、自分たちAKBのことを冷静に見ていて、次のように話したのだ。

 「AKBの強みって、特に歌がうまいダンスがうまいというわけでもなく、他のアイドル・グループと比べて特別かわいい子が多いというわけでもないし、ただ秋元先生の歌詞と”しのぶさん”(AKBの衣装担当で総支配人)の衣装という二大要素でもっているようなものだから。」

 彼女のこの言葉は、目の前に”しのぶさん”がいたからでもあろうが、その衣装のことはともかくとしても、その他の言葉は、自分たちの位置を的確に理解してのまさに”的を射た”見事な一言だったのだ。
 それも彼女は、最近ではスキャンダルのこともあって人気は低迷し、16人の選抜メンバーからも外されることが多く、卒業をうわさされる一人でもあるのだが、この時の言葉は、あの峯岸みなみの、22歳の娘の思いなのかと、今さらながらに彼女の感受性の鋭さに、まさしく瞠目(どうもく)されるような思いがしたのだ。
 特に、”秋元先生の歌詞”というところで・・・分かってくれていたんだ、彼女は。(詳しくは次回に。) 

 人は誰でも多面性の人格を持っていて、それだけに、その人となりを十分に理解するのは難しいものだ、と思いながら、私は立ち上がった。
 さてと、まだこれから、1時間ほどの上峠への登りがある。
 しばらくは、まだ轍(わだち)跡の残る、古い林道の道が続いている。
 と、木々が低くなり、ヤブの向こうが開けて、新緑の斜面が黒岳南面へと連なっている光景が広がったのだ。(写真下)



 今日一番の展望だった。
 午後にかけて薄雲が広がり、青空が少なくなって、平板な景観になってはいたが、それでも初めて一面に開けた場所に出て、私はうれしくなり何度もカメラのシャッターを押した。
 
 それからまた、あの歌を「明日いいことあるかもしれない」と口ずさみながら、林道をたどって行った。
 その先で道は二つに分かれ、間違いなく左に行ったのだが、小さな小屋のような所でその先の道が分からなくなってしまった。”好事魔多し”のたとえ通りだ。
 しかしまだ晴れていて、黒岳の位置と峠の方角も見えているからと強引に、林の中のゆるやかな山腹斜面を登って行った。
 二度ほど岩壁に突き当たり、左手に進むと、何と左下から登ってきた道らしい跡が見え、ちゃんとした標識も立っていた。
 これで一安心だ。それでも歩く人が少ないのか、道が分かりにくく古いテープなどを目印に登って行くと、4年前に来て見覚えのある上峠(約1010m)に着いた。

 そこで、地図上では草や荒れ地マークがついていて、前から展望がいいのではと気になっていた、西側に続く尾根をたどってみると、残念ながら尾根を境に南面はスギやヒノキの植林地になっていて、展望は得られなかった。
 しかし、何とその代わりにうれしいことに北斜面には、あのサイゴクミツバツツジが今を盛りに点々と咲いていたのだ。(写真下)



 途中風穴から下る途中で、山腹に咲いていた一本を見ただけで、このツツジは終わりかと思っていただけに、まさに期待していない望外の喜びだった。
 これだから山歩きはやめられない。
 これから先は、4年前に通った道だ。あの時は、紅葉の美しさに、何度足を止めてカメラを構えたことだろう。
 しかし、今は新緑のさ中にあって、林の中は、萌木(もえぎ)色のまばゆい明るさの中にあった。 
 そして足元を見ると、何とあの”山奥の貴婦人”ヤマシャクヤクの花がそれも開き加減に咲いていたのだ。(写真下、なかなか花が開いている所は見られない。)
 

 さらに、あの『男はつらいよ』の寅さんの、”啖呵売(たんかばい)”ではないけれど、”ちゃらちゃら流れる御茶ノ水、粋(いき)なねえちゃん、立ち・・・。さあ、どろぼう、これもおまけだ持ってけ”とばかりに、次なる花の大盤振るまい。
 今頃は、北海道の私の家の林の縁では、いつも通りにあの”オオバナノエンレイソウ”のツボミがふくらんでいて、やがては咲くことだろうが(’12.5.24の項参照)、その紫色をした変種のものが、”ムラサキエンレイソウ”であることは知っていたのだが、何度も言うように、春に九州にいることが少ないものだから、今まで見たことがなくて、これまたうれしい初めての出会いになったのだ。(写真下)



 新緑の色と匂いに包まれて、色鮮やかな花たちに出会い、静寂の林の中の道をひとり歩いて行くこと。
 もしこの山道のどこかで倒れたとしたら・・・やがて夜になり、私の動かない体の上に月の光が差し込んでくるだろう・・・。
 
 「願わくば 花の下にて春死なん その望月(もちづき)の如月(きさらぎ)のころ」

 このあまりにも有名な歌を残した西行の思いが、ひと時、分かるような気がした。

 さらに下ってヒメシャラの木のトンネルをくぐり抜け、新緑の林の道を下って、自然炭酸水で有名な黒岳荘にたどり着いた。
 そこでは何と、あのツクシシャクナゲの花が、いち早く満開になって咲いていた。
 そこから、4年前の時と同じように、ヒッチハイクで、男池方面に向かう車に乗せてもらった。
 私よりは年上のお年寄りだったが、いろいろと楽しく興味深い深い話を聞かせてもらい、歩けば40分余りかかるところを、これもまた感謝するばかりであった。

 こうして、黒岳周遊の山歩きの旅は終わったのだが、高低差は男池から一番高い風穴付近でその差400m、6時間ほどの適度な時間でもあり、まさに私だけのいいトレッキング・コースになったのだ。
 そして最初に書いたように、ありがたいことに次の日も、ほとんど筋肉痛を感じることもなかった。

 ”静かに、心満ち足りてあること”、他に何が必要だろうかと思い直すような山歩きだった。

 先にあげたAKBの「Green Flash」の一節のように、”ほんの少しだけ遠回りもいいよね、明日いいことあるかもしれない”と。

 以上またしても、乃木坂46の歌や、秋元康やAKBのことについて書こうとしていたのに書けずに、もうここまでで疲れてしまった。また、次回へと回すことにしよう。
 この黒岳周遊の山歩きの日からずっと、毎日快晴のさわやかな青空の日が続いている。今日は、北海道を含めて全国各地で、30度を超える真夏日になったとか。
 もし、信州の松本辺りにでも住んでいれば、あるいは前橋辺りにでもいれば、今登りたい残雪期の山が幾つもあるというのに。
 つい、一週間前までは、筋肉痛で、もう本州への遠征登山などできなくなるのではと弱音を吐いていたのに、何と場当たり的ないい加減な性格なのだろう・・・。

 「・・・すべて足りたその上に、

 立派な心を持つなんて無理というもの。・・・」 

(『ジャム詩集』 堀口大學訳 新潮文庫より) 

  


春の山、ほほえむ

2015-04-21 00:04:58 | Weblog



 4月20日

 何と2か月ぶりに山に登ってきた。山は、英彦山(ひこさん、標高は長い間1200mだったが、最近の測量で1199m)。
 この山には、高校生の時に登った記憶があり、数十年も前のことで、憶えているのはその時に廻った登山コースと、頂上への登り道が急であったことと最後は疲れ果ててしまったことぐらいで、道の途中の景観や山々の眺めがどうだったのかなどの細かいことは、ほとんど憶えていない。
 さらに悪いことには、この時の山行の写真が、なぜか1枚も残っていなくて。
 ということは、その時にはまだ自分のカメラを持っていなかったということだし(だからフィルムも残っていないし)、おそらくはその時同行したであろう友達からもらっていたはずの写真も、なくしてしまったのだ。

 今まで度々、写真と記憶の関連について、その重要性を思い知らされていたのだが、たとえば、まだ2歳くらいの私が若い母と一緒に写っている写真があって、その手には木工細工のゾウのおもちゃが握られているのだが、セピア色の写真なのに、今でもその色を憶えているのは。
 それは、当時の写真があることで、子供のころの記憶がよみがえってくるという一つの例だが、英彦山の場合は、1枚の写真もないことで、十分に成長した高校生の時の私でさえ、記憶がほとんど残っていないことになるのだろう。
 それだから、今回の英彦山登山では、様々な景観に出会い、ほとんど初めて登る山と言ってもいいくらいの経験ができたのだ。

 前日の天気予報から、全九州的に晴れのマークが続いていて、それもありがたいことに、人々で込み合わない平日に。
 前回にもこのブログで、ヤマザクラを見に山に行きたいと書いていたのだが、ようやくそれがかなうことになったのだ。
 それにしても、なぜに数十年ぶりに、この英彦山に行く気になったのか。
 大体今の時期は、もう九州を離れて北海道に行ってしまっているころなのだが、今年はまだこうして九州にいる。
 その理由は後述するが、ともかくこうしたヤマザクラから新緑へと変わる時期には、九州にいないことが多いのだ。(もっとも母とミャオがなくなったのは、この時期だったので、その時には家にいて、寂しさを紛らすためにも、新緑の山を歩き回ったのだが。)

 さて今回登った英彦山は、名にしおう九州一の霊山であり、調べてみると、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の子、天之忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)がこの山に降臨したとして祀(まつ)られていて、その”天照、日の神の子”つまり”日の子の山”が”日子山”さらには”彦山”と呼ばれるようになったのは、平安時代初期の9世紀の嵯峨天皇の勅使をうけてのことであるとされており、さらに後年、接頭語としての”英”の称号を与えられて、以後”英彦山”と書かれるようになったとのことである。

 その歴史は古く、その9世紀の初めには、すでに山伏修験道の山として開かれていて、以来あの羽黒山、大峰山とともに日本三大修験道場としてその名を知られるようになり、江戸時代から明治初期に至るまでは、”お山参り”の”英彦山講”の人々でにぎわい、800もの山伏たちの坊舎を含む宿舎があったという。
 その後、明治時代になり、新政府の”神仏分離”の政策は、いわゆる”廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)”の運動となって全国に広がり、こうした”お山参り”の”講”の数も激減していき、それとともに宿舎であった”坊”の数も少なくなり、門前町としての形も衰退していったのである。
 二年前に登った、あの中国地方一の名山であり、霊山でもある大山(だいせん)のふもとに続く門前町、大山寺町の石畳の街でも同じことを感じたのだが。(’13,3.12、19の項参照)

 もっとも、こうして宗教と山との資料を調べていくのは、当時の状況や賑わいさらには人々の思いなどがしのばれて興味深く、あの『日本百名山』を書いた深田久弥が、名山の条件として、山の標高と山としての品格の他に、人間とのかかわり、つまりその山に歴史的宗教的なかかわりがあることなどをあげていたのが、私も今そうした年寄りになってきて、彼の言うことがいささかでも理解できるようになってきたのだ。
 とはいっても、私はいまだに、山はその姿にあり、自然が彫琢し(ちょうたく)した芸術的なその姿かたちこそが、一番にあげられるべきものだと思ってはいるのだが。

 さてそうした英彦山に、またいつかは登りたいとは思っていたのだが、ベストな時期としては、春の桜と新緑、さらには紅葉の頃がいいと聞いていたので、その季節に行くつもりでいたのだが、あいにくそのころはいつも北海道にいて、チャンスがなかったし、また正直に言えば、頂上まで木が生えているような、高山景観に乏しい標高の低い山には、それほど登りたいとは思っていなかったということもあるのだが。 
 ところが今回、平日の快晴の日、新緑のころと条件がそろい、私は出かけることにしたのだ。
 英彦山まではそう遠くはなく、九重山と同じくらいで家からはわりと近い山だから、もっとしばしば登りに行ってもよいのだが、それは例えば思春期に、映画雑誌の外国美人女優ばかりに目がいって、日本の女優たちに目がいかなかったのと同じようなもので、年寄りになってようやく日本の古いものの良さが分かるようになってきて、こうした低い山の静かな森林歩きのよさもまた分かるようになってきたのだ。
 だからその意味では、今回の登山は、そうした年寄りの私の思いがかなえられた山行になったともいえるだろう。
 
 朝、家を出たのも遅かったし、途中で道に迷ったこともあって、登山口の別所の駐車場に着いて、そこから出発したのは、もう9時半にもなっていた。
 それでも、昨日の雨上がりの後の、青空が広がっているし、今頃から登ろうとする人はいないのか、前後に人影はなく、かえっていい時間帯に来たのだと納得した。
 そして、すぐに下の銅の鳥居から来た石畳の参道に出た。
 そこで、私は一瞬、立ち止まってしまった。何という見事な景観。(写真上)
 はるか上まで続く石畳の参道には、誰ひとりの姿もなく、両側のサクラ並木はすでに散ってしまっていたが、その緑や赤の色とりどりの新緑の鮮やかさ・・・。
 宿坊跡の石垣は苔(こけ)むしていて、まるで京都の静かな寺に来ているかのような・・・ただ青空の下、いっぱいに日が差していて、小鳥の声だけが聞こえていた。
 後ろを振り向いて参道の下の方を見ても、その宿舎や土産物屋などが並ぶ屋並みに続く道にも、他に人影はなかった。

 今までに多くの人々が行きかっただろう、すり減って丸く磨かれた石畳の階段を、私はひとりゆっくりと登って行った。 はるか上の方に、英彦山神宮奉幣殿(ほうへいでん)の屋根が見えていた。
 杉の並木の石段の道の途中に、両側にいっぱいになって白い花が咲いている。その灌木(かんぼく)の群落は・・・山で見る春の花の一つでもある、ミツマタだった。
 もう花は盛りを過ぎて、しぼみかけてはいたが、こうして集まって咲いていれば、まだまだ見頃かとも思えるほどだし、ましてこれほどに群れて咲いているのを見たのは初めてだった。
 上から杖をついて降りてくるお年寄りがひとり、あいさつを交わした。
 後になって分かったことだけれども、この表参道に人が少ないのは、この道から少し離れて並行して走るスロープカーと呼ばれるケーブルカーがあって、下の銅の鳥居から奉幣殿まで、このきつい石段を登らなくても行けるということ、さらに他にも幾つものコースが開かれていて、この英彦山では、登山だけが目的の人たちは、頂上まで続くこの表参道の石段の道を使わずに、北西尾根コースやうぐいす谷コース、さらには反対側の鬼杉コースそして北岳への豊前坊コースなどをそれぞれにつないで、”お山参り”ではない山登りを楽しんでいるからなのだろう。

 国宝にもなっている、英彦山神宮の奉幣殿前の広場に着いた。わずか30分ほどの登りだったのに息が切れて、まずはお手水場でのどをうるおし、奉幣殿の前で手を合わせた。
 そこから、上に続く石段を上ると、すぐに外宮に出て、さらに右手に曲がり、石段の面影は残しているが、幅の広い山道になって、杉林の中をジグザグに登って行く。
 やがて、あずまや風な休憩所があって、その先から少し杉の木がまばらになって一部見晴らしが開けてくる。
 後ろからいつ上がって来たのか、私と同じ世代くらいの夫婦が、息をはずませながら私を抜いて行った。
 ぐうたらな生活を続けて、二か月ものブランクがあれば当然のことだ。今の私には、こののろのろと動く足がやっとの所だった。

 やがてゆるやかな尾根に出て左に、中宮の社跡があり、立ち寄って手を合わせる。
 そのゆるやかな尾根道から、南側に、ヤマザクラの点々と見える谷を挟んで、ギザギザの尾根を連ねて、その名も恐ろしげな岳減鬼山(がくめきさん、1040m)が見える。
 この英彦山から耶馬溪(やばけい)、国東(くにさき)半島にかけては、修験道の山が多かったのだろうか、仏教用語的な名前が多く付けられていて、他にも経読岳、釈迦岳、求菩提(くぼて)山などなどとある。
 さらにゆるやかに登って行くと、左手の谷から北西尾根が続いていて、辺りには天然の杉の木の多くが立ち枯れしていて、それは明るい光景であり、前にテレビで見た大台ケ原の光景にも似て、いかにも高山地帯的な雰囲気ではあったが、一方では荒れ果てた山の哀れな姿にも見えた。
 立ち枯れの原因は何だろうか。台風被害がその始まりなのか、それとも中国大陸やそれまでの北九州工業地帯などの煙害による影響を受けての、酸性雨の被害なのか。

 そこで、行く手に社の屋根が見えてきて頂上かと思ったら、それはまだ手前の行者堂と呼ばれる御堂だったが、そのそばには湧水を集めた小さな井戸があって、冷たい水をおいしくいただくことができた。
 そこから先も枯れ杉の明るい尾根道で、ゆるやかな登りは続き、やっと行く手に2つ並んだ上宮の社の屋根が見えてきた。
 ここまでにさらに、若い人たち一人ずつの3人に追い抜かれていたが、もう気にすることもない。年寄りは年寄り並みの亀の歩みでいいのだ。いつかは着くのだから。
 そして、大きな社殿が2つ並ぶ上宮の頂上に着いた。何とコースタイム2時間足らずの所を、30分近くも余計にかかっている。

 この山行で私が知ったのは、日ごろからのぐうたらな不摂生(ふせっせい)の報いだということ。
 こんな体では、とても内地遠征の縦走の山旅などできるはずもないだろう。
 80歳でエヴェレストに登った三浦雄一郎さん、モンブラン山頂で卒寿を祝った今は亡き久留米医大の脇坂先生、75歳になっても富士山に毎日登っている佐々木茂良さん(新潮新書)・・・私よりははるかに年上の、山の諸先輩がたがこうして強い意志を持って山に登っているというのに。
 それなのに、ぐうたらに毎日を過ごし、体重は全盛期のころより10kg近くも増え、ろくに運動もせず、2か月ぶりに山に登れば、バテバテになるのは当たり前だ。
 このブログでは、もっともらしい偉そうなことを書いているわりには、自分で実践していることは何一つなく、ただ無為大食の自堕落な日々を送るだけで・・・あの医学バラエティー番組ではないけれど・・・検査を受けては悪い数値ばかりが並び・・・”いつかくるー、きっとくるー”とのアナウンスが響いてくるのだろう。
 さらには、あの”ブッダの最後の言葉”が、”怠けるな”とも聞こえてくるのだが・・・。(『ブッダの最期のことば』 田上太秀著 NHK出版) 
 
 この上宮の社殿が並ぶ頂上の下には、広場があって、私を抜いて行った人々など10数人余りでにぎわっていた。
 木々の間から、北岳に続く尾根道が見え、さらに南側の展望はかすんでいて、かろうじて由布岳の山影が見えるくらいだった。私はそこで、数分の間腰を下ろしただけで、人々の声から離れて、南岳へと向かう急斜面を下りて行った。
 その鞍部(あんぶ)辺りには、たぶんシロモジなのだろうが、黄色い小さな花を枝いっぱいにつけた木が幾つもあって、まだ枯れ枝の多い木々の中、そこだけ春が来ているかのようだった。
 ただ残念なのは、この中岳からの南斜面には、古いゴミなのだろうが、ガラスやプラスティックなどの破片が点々と見えていたことだ。
 思えば、この英彦山は、飯塚や田川の盆地方面からのどこからもよく見えていて、さすがに北九州随一の高さを誇る山であり、そうして名山として古くからよく登られているだけに、今ほどに山の美観がうるさく言われなかった時代だから、気楽に捨てられていたゴミがこうして残っているのだろうが、霊山としては余りにも残念な光景ではあった。
 
 さて今度は同じような急坂を登り返して、最高点の三角点がある南岳に着くが、ここもまばらな木に囲まれていて、そばにある壊れかけの鉄製の展望台に上がってみるが、やはり九重方面は霞んでいて見えなかった。
 この南岳からの下りで、少し長い鎖場が三か所ほど出てくるが、注意して下れば鎖に頼らなくても降りて行くことができるし、なにより、鎖のある岩場だけに露岩になっていて、南西方向の展望が素晴らしく、やはり目の前の点々と見える、ヤマザクラの谷を隔てた岳減鬼山の眺めが素晴らしい。
 途中で、元気に登って来る中高年グループに道を空けた。そして、ようやく、むき出しの岩場を終えて、所々にブナの木がある林の中に入って行く。
 
 さらに下ると、材木岩と呼ばれる見事な柱状節理(ちゅうじょうせつり)の岩があり、他にも溶岩が押し出されたような岩や、灰色や赤い色の土が見えている所もあって、英彦山が噴火口を持たない、幾つかの古いトロイデ(鐘状形)からなる火山だったようにも見えるのだが。

 そこで、下から登って来る若い男とすれ違ったのだが、その後は奉幣殿に戻るまでの間、人の声ひとつ聞こえず誰にも出会わない、林の中の静かな山歩きを楽しむことができた。
 そこから涸れ沢状の急坂を下ると、四つ辻に出て、道標の方向へと下ると、途中から水の流れる音がして、あたりには高い杉の木が目立ちはじめて、その中でも一際巨大な幹回りで、天空をめざしてそびえ立つがごとき一本の杉が見えてきた・・・それは”鬼杉”と呼ばれるもので、推定樹齢1200年、幹回り12m樹高38mにもなるという。
 どうしても、あの4年前に行った屋久島の”縄文杉”のことを思ってしまう(’11.6.25の項参照)。
 どちらがどうと比べるのではなく、周りの木々から抜きん出てひときわ高く長く生きてきたものが持つ、あたりを払うがごとき威厳あるたたずまいに、私は立ちずさんでただ手を合わせるだけだった。
 せせらぎの傍で腰を下ろし、鬼杉の傍で、誰にも邪魔されない幸せなひと時を過ごした。
 
 このまま下って行ってもいいのだが、先ほどの四つ辻まで戻った方が距離的には短いからと、少し登り返し、洞窟(どうくつ)の中に作られた大南神社を経由して戻り、それからは英彦山の南西面をトラバース気味に下って行く道になるが、途中杉林の中の大下りが二か所、さらに小さな登り返しも何か所かはあるが、水場になる沢の流れが三か所もあり、さらには北海道だけかと思っていた、フッキソウの一大群落地があり、所々に見える新緑の緑とヤマザクラなどの見どころもあって、なかなかにいい道だった。
 そして山側には、四王寺滝や梵字(ぼんじ)岩、虚空不動などへ行く道標もあったが、私が楽しみにしていたのは、地図に展望岩と書かれていた所で、玉屋見口(たまやみぐち)の標識の所から、山側とは反対側の細い尾根をたどって行くと、何とその先は露岩の幅数十センチくらいしかない両側が切れ落ちた、まさしくナイフリッジの所を通らねばならず、一瞬ひるんだほどであるが、期待していた展望を得るためにはと、神経を張り巡らせてようやく向こう側の平たい岩の上に出た。

 振り返ると期待通りの素晴らしい眺めだった。
 まず北側には、私のたどってきた奉幣殿からの表参道尾根が続いていて、谷あいを埋める春色に変わりつつある杉林との間には、まだ枯れ枝色の木々の間に、ヤマザクラの暖かいふくらみが点々と見えていた。(写真下)

 

 その光景は、青空に向かって、さらには春に向かって、山がほほえんでいるようにも見えた。
 この眺めこそが、私の見たかった九州の山の春の景色だったのだ。
 さらにこの尾根を右手にたどって、東側に目をやると、萌えいずる新緑の木々の彼方、奥の方に上宮の屋根が少しのぞいている中岳と、南岳が並んで見えていた。(写真下)

  
 
 その露岩のバルコニーに腰を下ろして、今日一番の眺めを楽しんだ。
 辺りには、人の気配ひとつもなかった。山に対座して、私がひとり居るだけだった。
 これだから、山はやめられないのだ。
 
 私は満足して、再びせまい岩の道を戻った。もう後は、ゆるやかに杉林の道を下っていくだけだった。
 この山行の間、私の口をついて出ていたのは。
 あのAKBの姉妹グループの一つ、乃木坂46の歌う「君の名は希望」 だった。(2月9日の項参照)
 それも登りでは、前半の少し悲しい歌の部分が多かったのだが、今口をついて出てくるのは、後半のまさに希望に満ちた歌詞の部分だった。

 「未来はいつだって、ときめきと出会いの場。

 君の名前は、希望と、今知った。・・・」  (秋元康作詞)

 ほどなく奉幣殿に戻り、再び社殿に手を合わせて、痛むヒザをかばいながら石段を下りて行った。
 行きに見た、新緑の緑と赤い色が再び逆光に映えてきれいだった。
 別所の駐車場に戻ると、クルマは数台残っているだけだった。
 もう4時に近かった。コースタイムよりは長く、6時間半近くもかかってしまったけれど、私にはこれ以上時間がかかるのはもう無理だし、程よい時間だった。
 ただし、無駄に長い月日を空けての、2か月ぶりの登山ということは、やはりその報いを受けても当然のことでもあったのだ。
 つまり、次の日から三日間、ふくらはぎからふとももにかけて、激しい筋肉痛が続いて、私は歩くのがやっとの状態になったのだ。

 今回もまた、ここまででいっぱいいっぱいの原稿の量になり、乃木坂46の歌についての話を書くことができなかったし、気になるAKBメンバーたちの話題についても書くことができなかった。
 それよりも、最初にも少しふれたのだが、今頃はもう北海道に戻っているはずなのに、なぜまだここにいるのか。
 理由は簡単だ。
 年寄りになって、すっかりわがままになってしまったのだ。
 長い旅行で動き回るのが、いやになってしまったのだ。
 さらには、あんな水も十分に使えない所に、それだから、風呂にも洗濯にも苦労するような所に、夜中のトイレにさえ外に出なければならない所に、帰るのかと思うと・・・。
 若いころには、それほど苦労とは思わなかったことが、年を取るにつれ少しずつ面倒に思えてくるのだ。
 もっとも、自分が好きで住み着いた北海道だから、行けば行ったで、ああやっぱりいいなと思うのだろうが、そこに行くまでの決心をするのが・・・。
 それは、北海道だけではない。この冬は、恒例の本州の雪山登山にさえ行かなったのだから。

 このままここで、水も豊富に使えて、風呂にも毎日入れて、毎日洗濯もできて、夜中に起きても家の中に水洗トイレがある、それが普通の一般家庭なのだろうが、そんなこの家にずっといたほうが楽なのだ。
 さらに、これから5月の連休にかけては、ビートルズのポールが来てあちこちでコンサートを開くし、日米首脳会談はあるわ、その他の催し物で込み合うことは必定、それなら家でAKBのビデオでも見ていた方がいいと、このタヌキおやじは考えたわけでありまして、はたしてこの腹黒ダヌキが自分の巣からはい出してくるのはいつになるのでしょうか。
 ああ、ここまで書いてきたら、もう真夜中になってしまった。
 春が来た。チョウチョが飛んでいる・・・よいよいと。
  

 


釣り師に釣られて

2015-04-13 22:33:27 | Weblog



 4月13日

 前回、ここに写真を載せていた、咲き始めたばかりのシャクナゲの花が、今ではもう五分咲き位に開いていて、周りが明るく見えるほどである。
 毎年見慣れているはずなのに、それは思わず見とれてしまう華やかさだ。
 しかし一方では、その下には、雨に打たれ風に吹かれて舞い散ったサクラの花びらが、地面いっぱいに散り敷いている。(写真上)
 物事には、すべて時の順番があり、まして短い盛りの花の命ゆえに、人の身に置き換えて物思いにもふけりたくなるのだ。

 昔の人が歌に詠(よ)んだ、春に咲く花への思いは、まさにその散りゆく美しき花々への、惜別の思いを込めて、三十一(みそひと)文字の和歌の中に組み入れたものなのだろう。

 「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」

 (『古今集』あるいは『百人一首』の中の、小野小町の歌)
 
 美しいといわれるのは、散りゆくまでのほんの短いひと時でしかないだけに、思いはかきたてられて、狂おしいばかりの恋慕の情となってあふれ出てくるのだ。
 花への思いは、美しき相手への思い、そして若き日の恋、大人の恋、老いらくの恋・・・。
 本能に駆られての激情に身をふるわせて、またある時はそのあふれる思いを、ただ我が心のうちに押しとどめて・・・。
 互いの思いは交錯し、近づき離れ、そのまま時の流れの中で、淡い薄墨で書かれた言葉のように、いつしか消えていき、ついには互いの身さえもこの世から去っていくのだから。

 だからこそそれだけに、美しいと思える今の時が、なによりも貴重なひと時なのだ。
 あのNHKの朝の連続ドラマ『マッサン』の中で、エリーが歌っていた歌。

 ”いのち短し、恋せよ乙女。

 あかき唇あせぬ間に、熱き血潮の冷えぬ間に。

 明日の月日はないものを。” 

 (「ゴンドラの唄」 吉井勇作詞 中山晋平作曲 松井須磨子歌 1915年・・・何と今から100年も前の歌になるのだ。)

 そこで、私は、どうしてもあのAKBの娘たちのことを思ってしまう。
 
 今回は、それまでに少し小むずかしく考えてきた社会文化各論としての話からは離れて、このAKBグループについていろいろと書いてみたいと思うのだが、最初に言っておきたいことは、それはあくまでも、じじいである私が、孫娘たちすべての幸せを願うゆえの、老婆心(ろうばしん)ならぬ老爺心(ろうじいしん)から、あれこれと書き綴(つづ)るのであって、もとより他意はなく、もしいきすぎた思いや間違いがあれば、哀れな年寄りのたわごと、世迷い言葉として見過ごされますように。
 さらには、ここに書くことは、自分のためにでもあって、今の彼女たちの”青春の光と影”を見ることによって、遠い昔の自分の若き日の姿を、その硬軟(こうなん)織り混ぜた、今にして思えば、あのころの余りにもあやうい自分の姿をも、思い出させてくれるからなのだ。
 そうした、今と昔のわが身を振り返り見ることのできる視点からいえば、彼女たちが、今という時の中で、大小取り混ぜた中にある一輪の花のように、それぞれが自分なりの姿でツボミから花へと開いてゆき、それが後になって自分だけのかけがえのない青春だったことがわかるように、それらのすべてのことが、若き日の輝かしい記憶として刻まれていくように願うばかりなのだ。

 それは、”オタク”と呼ばれる熱心なファンたちのような、一人の子だけの”推しメン(バー)”としてではなく、300名もいるすべての子たちの顔は憶えられないとしても、AKBグループという群れの中にいるメンバーの一員として、それぞれに光が当たるように、さらには、姉妹グループとして、東京のAKB、名古屋のSKE、大阪のNMB、福岡のHKTさらには乃木坂46のどこかだけのファンで、他は敵などというのではなく、さらには違うファンの間で敵味方としていがみ合うのではなく、それぞれの良いところを認めつつ、ファンである自分たちにとっては、AKBグループの歌や踊りが、日々の心の癒(いや)しになるものだと分かったところで、AKBグループのすべてに感謝の気持ちを持つようになってくれればと思うのだが・・・理想的には。
 ともかく、AKBグループのすべては、秋元康(あきもとやすし)という、作詞家であり稀代(きだい)の興行師(プロデューサー)でもある多才な男の、芸能界への一つの挑戦から生まれた、”やさしくゆるい”歌合戦リーグの中にある、同じ仲間なのだから。

 さて、まずこの春に発表された各グループへの新曲は、今までにもこのブログ内で少しふれてはきたが、いつものようにその作詞を一手に引き受ける秋元康によって、それぞれにその曲の趣向が考えられていて、なかなかに興味深いものだった。
 AKBの総選挙投票券が付いている、5月発売予定の新曲CD「僕たちは戦わない」は、まだ一回聞いただけだから十分に評価はできないが、3月9日の項で「Green Flash」での若手3人のセンター並びが素晴らしいと書いていたのだが、この新曲ではその通りの形になっていて、見た目からいえば申し分ないのだが。
 NMBの「Don't Look Back」は、中心メンバー山田菜々の卒業曲ということで、去年のAKB大島優子の卒業曲「前しか向かねえ」に似た、力強いリズム感が心地よい。
 SKEの「コケティッシュ、君に渋滞中」は、ダブル松井がセンターに戻ってきて、いつも通りの明るく元気な歌と踊りで、いつものSKEだということで安心して見ていられる。
 HKTの「12秒」は、HKTらしく若々しさのあふれる曲のようだが、まだちゃんと見ていないので、評価のしようがない。

 それにしても、秋元康は、時々中高年の世代しか知らないような言葉を使って、平成生まれの娘たちに歌わせているのだが、この”コケティッシュ(蠱惑的こわくてき)” というフランス語は、セクシー女優のフランソワーズ・アルヌールやミレーヌ・ドモンジョなどがいた時代に使われていた言葉で、日本語としては忘れ去られていた言葉だったのに、今聞くとどこか新鮮に聞こえてしまう。
 そういうふうに、彼が書く曲の詩には、AKBグループの若い娘たちにとっては、おそらく聞いたこともないだろう言葉が、かなりひんぱん出てくるのだが。
 この”コケティッシュ”だけでなく、例えば、私の好きな名曲「でもでもの涙」の中で、”緞帳(どんちょう)を下ろすように”と歌われているが、これはまさに初恋に破れておごそかに幕が下ろされるイメージにふさわしい言葉なのだが、若い彼女たちのイメージとしては”白いカーテンが閉められるように” とした方が分かりやすいだろうに、あえて”緞帳”という言葉を使ったのは、つまり彼は、私たち中高年のもどかしいロマンチックな感情を揺り動かすために、中高年好みの言葉を使い、今の時代の若い娘たちに歌わせては、私たち中高年のファンに、若いころの疑似(ぎじ)体験をさせようとしているのではないのか、とさえ勘ぐってしまうほどなのだ。

 全国でその時々に開かれる、AKBグループ・メンバーたちの握手会では、大阪NMBの”ミルキー”渡辺美優紀が有名であり、来てくれるファンの一人一人と親密に、それこそ”コケティッシュに”握手してくれることで、彼らを自分のファンとして取り込んでしまうことから、”釣り師”と呼ばれているのだが、実は私たち中高年のAKBファンは、この秋元康の作詞の言葉と、さらには”山師”である興行師による若い娘たちの舞台を見せられて、いつの間にか”釣られていた”のではないのだろうか。

 つまりAKBの最大の”釣り師”は、秋元康その人なのかもしれない。

 その”釣り師”秋元康が、仕掛けた次なる一手が、日本橋浜町の明治座での、あのHKT”さっしー”『指原莉乃(さしはらりの)座長公演』だったのだ。 
 その昔、東京にいたころ、上京してきた母を連れてその明治座の舞台を見せに連れて行ったことがあるが、当時の歌舞伎座や新橋演舞場などと同じく、なかなかに伝統を感じさせる内外観であったことは憶えているが(今では巨大なビルの中にあるそうだが)、その時の演じものが”新派”だったのか”新国劇”だったのかなども、今では思い出せない。
 そんな日本の古典、伝統演劇を演じる花道のある舞台に、何と今の時代のキャピキャピなアイドル・グループ福岡のHKTが出演するなんてと、その話を聞いた時から、どうなることかと親心ながら心配はしていたのだが、一方では、何も伝統演劇ファンが見に来るわけではなく、HKTのファンが見に来るわけだから、1400足らずという座席数からいえば(2週間公演で約2万人だとしても)、一回のコンサートで何万人も動員できるHKTからしてもそう無理な数ではないし、ただ曲がりなりにも舞台での書き下ろし演劇をやるとなれば、テレビやコンサートとは違う、演技発声を含めての舞台での作法というものがあるから、素人(しろうと)同然の彼女たちに、果たして観客に披露できるまでに立派に演じることができるのか、などなど気がかりな点は尽きなかったのだが・・・。

 そして4月8日に開演したその舞台について、翌日のAKB情報サイトだけでなく、一般ニュース・サイトにもその『指原莉乃座長・明治座公演』のニュースが取り上げられていて、実際に行って見てきたHKTファンの書き込みがすべて好意的で興奮気味なのは分かるとしても、ニュース・サイト記事でさえも”革新的成功”とさえ讃えている所もあった位なのだ。
 まずは良かった。あとは2週間公演の最後まで、無事に続いてやり終えてくれることを祈るばかりだ。
 前々から、(去年’14.8.25や11.10の項などで)、AKBの行く末に対する心配があって、その時にも書いていたように、こうした方面に出ていくことが望ましいとは思っていたのだが、ただ部外者のファンでしかない私たちが、あれやこれや言う前に、すでに当然のことながら、秋元康をはじめとする運営サイドはもう何年も前から別なジャンルへと考えていたのだろう。
 さらに今度の舞台について、いくつかのAKB情報サイトでは、一般匿名(とくめい)者たちが、こうすべきだああすべきだと批判をまじえて多数の書き込みをしているけれど、ほとんどは一顧(いっこ)するだに値しない自分勝手なものばかりであり、それは、本当にAKBグループ全員の将来への責任がかかっている運営サイドと、気楽な口先だけの何の責任感もない外野席との、倫理観の差だと言わざるを得ないものなのだ。
 ここまで巨大化し、さらに増えていくAKBグループを、うまく制御(せいぎょ)しながらも将来へと導いていくことが必要であり、そのためにはここで成功すれば、さらなるメンバーたちの出演先を開拓していくことができるだろうし、そのための方策としての舞台進出だったのだと、そんな強い思いがひしひしと感じとれる、AKB運営サイドの”渾身(こんしん)の一手”だったのだ。
 さらに彼らの行く先に見えているのは、あの宝塚劇場に匹敵するような、巨大な専用劇場の設立なのだろうが・・・。

 さて今回の明治座での成功は、たんに運営サイド側の思い入れだけで実現できたものではない。
 そこにアイドルとしては、今までに類を見ない稀代のタレント、”さっしー”指原莉乃(さしはらりの)の存在があったから可能だったのだ。
 果たして、”さっしー”以外にAKBグループの誰が、今回の舞台公演を座長として取りまとめて演じることができただろうか。(まあ、総監督の”たかみな”の名をあげることもできるだろうが、”さっしー”ほどのエンターテイナーではないし。) 

 この”さっしー”は、有名になる前のスキャンダルで、東京のAKBを追われ、新天地の福岡HKTに移籍させられたのだが、そこで心機一転、総選挙4位の実力とたぐいまれなるプロデュース能力で、まだ若いメンバーばかりで実力もなかったHKTというグループを、他の姉妹グループに匹敵するぐらいの地位にまで押し上げ、さらには自ら総選挙1位の栄冠も勝ち取ったのだ。そんな彼女の力を認めないものは、誰もいないだろう。
 まだまだ彼女の可能性は、AKBの将来へとつながるのだろうが、ただしそう長くはいないと言っている彼女が、いつかは卒業するという不安もあるし・・・。
 (今年卒業する”たかみな”と、この”さっしー”の統率力と才能はだれもが分かっていることであり、AKBグループの裏方支配人などとして何とか残れないものだろうか・・・。) 

 所で、この明治座での舞台の二部の”歌謡ショー”で、”さっしー”が何と私の好きなあの乃木坂46の「君の名は希望」を歌ったとのことで、彼女はツイッターなどで、この曲を歌う時には”コール”掛け声などを入れないで言っていたそうだが、つまりそれは自分もいじめられた経験をもつ彼女の、この歌に対する思い入れからなのだろう。

 (余談だが、少し前にあるラジオ番組で、将来に残したい曲ということでアンケートがとられていて、AKB系の歌としては、”さっしー”がセンターだった「恋するフォーチュンクッキー」が3位になり、さらには乃木坂の「君の名は希望」もランクインしていたのだが、そのコメント欄に、”あんな辛気(しんき)臭い歌のどこがいいのか”という書き込みがされていたが、おそらくそれを書いた彼は、子供時代にいじめを受けたこともなく、友達の多い楽しい学校生活を送ったことだろうから、とてもあの歌の主人公の気持ちなど分からなかったのだろう・・・。世の中は、それほどに様々なのだ。
  他にも、掛け声が不要なというよりじゃまな曲は、「でもでもの涙」でもそうなのだが、AKBの歌が好きなファンであるならば、そのあたりの区別はつきそうなものだが。
   さらにこれも余談だが、その舞台で同じHKTの、というよりAKBの次の世代を代表する一人である宮脇咲良(さくら)と”さっしー”の二人で、おそらく「君の名は希望」を歌っているだろう写真が、情報サイトに載っていた。濃紺の闇夜に星がちりばめられているようなベールを背景に、今のHKTを代表する二人が立っている。
 HKTでの師弟でもありライバルでもある二人、AKBの今と未来を表しているような二人。いい写真だった。ダウンロードして、パソコンの壁紙にした。)

 ところでAKBグループを代表する顔の一人が、こうして”さっしー”指原莉乃であることに異論はないだろうが、もう一人はといえば、去年の総選挙第1位の”まゆゆ”渡辺麻友であることに、これまた異論はないだろう。
 澄み切ったその歌声と同じように、品行方正にアイドルの王道を歩いてきた彼女こそ、常に選抜上位の位置にいて、AKBそのものの顔だと思う人がいても当然のことだが、(あの去年の総選挙曲「ラブラドール・レトリバー」での、センターで歌う彼女の何ときれいだったことか、”ほれてまうやろー”。
 しかし今の彼女の、あえて欠点を言えば、昔のかわいいアイドルのままでは・・・、多様性の才能が求められる今の時代には、それだけでは不十分だと自分でも分かっていたのだろうし、だからこその、運営サイドの後押しによる次なる一手、テレビ・ドラマ進出が考えられていたのだろう。

 もちろん、一方の”さっしー”には、多様性の才能があっても、アイドルとしての可愛さには一歩及ばないと自ら認めたうえで、もっとも彼女はそれをばねにして、自分を出せる部分で、巧みな会話と行動で、さらにAKB一と言われるきれいな脚を意識して、勝負をかけていたのだ。
 つまりメンバーの皆は誰でも、こうしてどこかに自分では分かっている欠点を持ちながらも、一方では自分だけの自信を胸に期待をふくらませて、一歩でも前にと、けなげに努力しているのだ。
  それなのに、心ない匿名の書き込み投稿者たちは、彼女たちが持って生まれた変えられない外見に対してさえ、侮辱(ぶじょく)的な言葉で攻め立てるのだ。卑怯者(ひきょうもの)という言葉は、今の時代では使われないものなのだろうか。
 
 ともかく”さっしー”とともにAKBを率いる”顔”である、”まゆゆ”が、明日からのフジテレビ系夜のドラマで、あの稲森いずみとともにダブル主演として『戦う!書店ガール』に登場するのだ。
 日頃ドラマなど見ない私だが、これはしっかり録画して見ることにしよう。
 ”まゆゆ”が、前田敦子、大島優子と続いたAKBセンターの実力通りに、テレビ・ドラマ主演女優への道を確かなものとして、切り開いていってほしい。
 指原莉乃の舞台成功と、渡辺麻友のテレビドラマ成功の二つは、これからのAKBの未来のためにもぜひとも必要なことなのだ。
 同時間帯の裏番組には悪いけれども、何としてもそれらの視聴率を上回りますように・・・。

 しかし、これだけで終わりではなく、まだまだ乃木坂の歌についてなど、書きたいことは他にもあったのだが、ここまで書いてきて疲れてしまった、次回に回すことにしよう。

 ところで、もう何と、二か月近くも山に行っていないのだ。
   この桜の時期に、ヤマザクラを見にいこうと、もう何年も行っていない山に登ってみようかと思っていたのだが、何ということか、この花時に合わせて、天気の悪い日が続いてしまい、この十日余りの間に晴れたのは土曜日の一日だけで、その日も雲が多く、遠くまでの見通しもきかないほどの空模様だった。
 そこで仕方なく、家から歩く坂道を1時間半ほど歩いてきたのだが、それだけでも下着が濡れてしまうほどに汗をかいてしまった。もっともそれが年寄りにはいい運動になるし、またあちこちに残るヤマザクラや、濃い色のヤエザクラなどを楽しむこともできたのだ。
 そして、谷あいの方から、木々の新緑が少しずつ上がってきていた。
 それは、サクラ以上に、山の春を感じさせる眺めだった。(写真)




  


シャクナゲのつぼみ

2015-04-06 21:10:54 | Weblog

 4月6日

 晴れた日が1週間ほども続いた後、今度は曇り空に時々小雨という日が、もう数日も続いている。
 天気が悪いのに、気温は高く、朝から15度余りもあり、そして日中には20度以上にまで上がっている。日も差していないのに。
 そうした暖かさの中で、まして温かい雨でたっぷりとうるおった草花や木々たちは、いっせいにうごめき始めたようだ。
 あの、ストラヴィンスキーの名曲『春の祭典』の、出だしの力強く刻まれるリズムにのっていくかのように・・・。
 (テレビでおなじみの脳科学者茂木先生が出題する、”アハ体験”の写真のように)、じっと見ていればわからなくても、時間をおいて見れば一目瞭然(りょうぜん)に変化している、庭の景観・・・。(末尾の写真参照)

 庭のブンゴウメの花は散ってしまい、かすかに残るその梅の香の上に、大きく枝を広げたヤマザクラが、今やもう満開に近い白い花々をつけている。
 カツラの木の、小さく並んだ萌木(もえぎ)色の若葉も可愛らしい。
 それぞれの木々にも、小さな若葉の芽吹きが見られる。
 冬を越したシャクナゲの葉さえ、どこか明るさが感じられ、何よりそれらの葉の集まりのただ中に戴(いただ)いているつぼみが、日ごとに大きくなり、中から花びらの赤い色が見えてきて、今でははちきれんばかりにふくらんでいて、もう1日2日で大きくはじけて、あでやかな花が開くことだろう。(写真上)

 こうして、シャクナゲの枝先を冬からずっと見続けていることが、花が咲くまでの何とも待ち遠しい春の楽しみの一つではある。
 冬には、まだ小指の先ほどしかなかったツボミが、それでも冬の日差しを受けて少しずつふくらんでいき、春の暖かい日差しを浴びて、一気に大きくなって、その花びらを押し出すように大きく花開くさまは、いつもの春の光景だが、何度見てもあきることはない。

「年経(へ)れば 齢(よわい)は老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思いもなし」  (前太政大臣 藤原良房)

(『古今和歌集』 巻第一 五十二、河出書房版 『古典名歌集』より)

 時がたてば、誰でも年老いてしまうが、春に咲きはじめた花を見ていれば そうした自分が年寄りになった憂(うれ)いも忘れてしまうほどだ。
 それほどまでに、生き生きとしてあふれいずる生の喜びがあることを、また自分にもあったことを知ることのできる、変わらぬ春のひと時ではある。
 そうした、春に咲く花の、芽吹きの力強さを最も強く感じるものは、このシャクナゲであり、そのツボミから開花までの、目にも鮮やかな生の胎動(たいどう)と躍動感こそは。まさにこの世における生そのもののしるしのようにも思えるのだ。
 まして、自分がその若さのただ中にいる時よりは、むしろ盛りを過ぎて限りある春を知った時にこそ、ひときわ痛切にそのありがたみを感じるものなのだ。

 そして、そのツボミの時から、大きくふくらみ、花の色がのぞき、一気に花開いて、しばらくの間その花びらを広げているが、やがて花弁の一部に茶色いシミがつきはじめ、おしべが取れて、やがて花びらも散ってしまう。
 その一部始終を、年寄りである私は見守り続けるのだ。
 しかし、振り返りわが身を見れば、何もわかってはいなかった若い時には、その花々がまだツボミの時に、面白半分でその中がどうなっているのかともぎ取ってしまったり、花が咲けば咲いたで、その美しさを自分のものにと、素早く摘み取っていたこともあったのだ。 

 今までにも何度か書いたことだが、もうそのころでもすっかりおばあさんになっていた、母と叔母さんの二人を、クルマに乗せて旅行をしていた時に、宿のテレビに映っていた若い男の俳優を見ては、まるで若い娘のようにはしゃいでいたので、私は思わず”いい年をして”と横から茶々を入れたのだが、二人の答えは、テレビ画面から目を離さずに、”いいの、今の自分は置いといてだから”ということだった。
 私も今や、あの時の二人の年に近づいてきていて、年甲斐(としがい)もなくAKBの若い娘たちのファンになっているのだ。
 それでも、私だけではないということを知ったのは、これも前に書いたことだが、しばらく前に確かNHKの『鶴瓶の家族に乾杯!』 だったと思うが、70幾つかにもなる牛飼いのじいさんが、”これからAKBの新曲のCDを買いに行くところだ”と言った時には、思わずうれしくなって手を叩いたほどだった。
 それは、じじいになった負い目を感じながら、1年余り”隠れAKB”ファンとして生きてきた私が、これからはもう世間に、AKBファンであることを”カミングアウト”して、胸を張って生きてゆこうと励まされた一瞬でもあったのだ。

 母と叔母さんがそうであったように、あの牛飼いのじいさんがそうであったように、この私がそうであるように、あのシャクナゲのツボミから花が開くまでを見ることは、さらにAKBの娘たちが生き生きと歌い踊っているのを見ることは、ただ理屈抜きに若く美しいものは心地いいものであり、ただ見ているだけでも、そっと見守っているだけでもどこか心楽しくなるものなのだ。
 それは、今きらめき輝いている青春を見ていることであり、さらにはかつて自分もそうであった青春の思い出として眺めること・・・。

 そこで最近、よく見るようになったAKB関係の、ネット上での情報サイトからの話だが、まずはあの秋葉原の本拠地でもあるAKBの各チームが毎日公演をやっているAKB劇場のことだが、そこでは年に何度か、一般のファン以外に、”遠くに住んでいる人たち向け”や”女性ファン向け”や、何と50歳以上の”シニア向け”の日が用意されているということだ。
 むろん私は行きたいとも思わないが、あのCDを買っている牛飼いのじいさんみたいな人にこそ、見せてあげたい気もする・・・ただ彼は、生き物相手の自分の仕事のために一日も休めはしないのだろうが、もしも行くことができたとしたら、彼は娘たちが踊り歌う舞台を前にして、”ああ観音様、ありがたや”と手を合わせるかもしれない。
 
 ところがこの”シニア向け”の日を設けたことで、若い男の子のファンなのだろうが、その情報サイトに書き込みをしていた。
 ”若い女の子が好きな50代以上の変態じじいの前に、僕らのアイドルをさらしものにするのか”、と劇場の運営に文句をつけていた。さらには”小金を持っているじいさん世代を狙った劇場の運営方針”だからと、さめた見方の書き込みをしている若者たちも多数いた。
 そして、他にもまるでここは掃き溜めかと思うほどに、品位のかけらもない書き込みが多いのだが、年代は不明にしても、前にも書いたように、自分の”推しメン(バー)”のライバルに対するあの”アンチ”と呼ばれる”オタク”たちの、見るに堪えない悪口の数々と同じように、自分好みのメンバーの娘たちに対しての、それ以上に読むに堪えない欲望にぎらついた卑猥(ひわい)な言葉の羅列(られつ)が見られるのだ・・・。
 
 一方で、今や年とともに涸れつつある私たち年寄りには、あの牛飼いのじいさんがそうであるように、AKBの孫娘たちは、若い男の子たちが目の前に見る生身の若い娘としてではなく、つまりそれは若者たちの”会いに行ける生身のアイドル”としてではなく、ただテレビなどで眺めているだけでありがたいアイドルとして、例えて言えば”観音様”や”マリア様”として、現実と夢の狭間(はざま)にある存在になっているのかもしれない。
 もう私でさえ、朝起きた時には、どこが現実でどこが夢なのかわからないヨイヨイの状態があるくらいだから。
 そして、あの情報サイトに”50以上の変態じじい” と書き込んでいた彼が、自分が50歳になった時に何と言うか知りたいものだ。

 ことほどさように、人は環境の差だけではなく、経験の差、年齢の差によって、大きくものの見方考え方が変わってくるということだ。
 こうして、星の数ほどある様々な意見の中で、唯一誰が正しいとか決めつけることはできないが、それでは前に進めないからと、大多数に要約されていくことになり、また少数派は、自分の意見が通らぬという不満を抱えることになるだろう。
 そうしたことは、人類が誕生して集団生活を営み始めた時から生じた問題であり、さらなるストレスの積み重ねの中で生きていくしかないのが、今の現代社会の人々なのだろう。

 だから、そういう所には居たくないという人々が出てくるのも当然のことであり、今でこそそうした都会からの”ドロップアウト”や” Uターン Iターン”や”田舎暮らし” などと、多少飾り立てて呼ばれてはいるが、日本の中世の時代には鴨長明や兼好法師、西行法師などのように、名のある”隠者”と呼ばれる人たちがいたし、中国にはたとえば”竹林の七賢人”と呼ばれる人たちもいたし、ギリシア・ローマ時代には、ソクラテス、プラトーン、アリストテレスという三大哲学者の他に、哲学することを目的にして、一つの家でともに暮らし論じ合っていた人々もいて、彼らは”知を愛する人”フィロソフォス(哲学者の語源)と呼ばれていたのだ。                           
 その中でも有名なのは、”快楽を善”ととらえた”エピクロス学派”と、それに相反するように”理性の力で欲望を抑え、自分を律して倫理的に生きる”ことを目的とした、”ストイック”の語源ともなったゼノン(BC335~263)に代表される”ストア学派”の考え方である。

 しかし、この両者の全く相反するようにも見える哲学的生き方というのは、実は取りつきの考え方が違うだけで、結論的には、これもまた前にも書いたことだが、あのジョン・シュレシンジャー監督の1967年の映画の題名のように”遥か群衆を離れて”、”心の平静さを保って生きていく”ことにあったのだ。
 つまり、エピクロス(BC342~271)のいう快楽は、世に言う感覚的瞬時的な快楽を意味するのではなく、苦痛から逃れ苦悩から脱却することによってできた、平静なる心の状態である”快”を意味したものなのだ。
 そしてそれは、仏教修行の果てにたどり着く宗教的な”さとり”にも似ているし、また中世の隠者たちが、世俗の世を捨てて人里離れた所に隠れ住んだ目的とも、また相通じるところがあるように思えるのだ。
 
 このエピクロスの人となりや言葉について書いてある本の中で、安く手に入れることのできる唯一の文庫本である、岩波文庫の『エピクロス』(出隆、岩崎允胤訳)が、長年品切れ状態だったのが、一年前にようやく増刷されて私も読むことができるようになったのだが、さてその本の、最初の宇宙の構成や物事の成り立ちなどの、推測的な哲学考察は今の時代から見れば、到底受け入れることのできない非科学的なものが多いけれども、その後の主要教説と呼ばれる、弟子たちへの手紙に書かれた断片としての言葉は、あのキケロー(BC106~43)の対話集『老年について』(’14.4.1の項参照)他や、マルクス・アウレーリウス(121~180)の『自省録』 (’12.12.10の項参照)と同じように、2000年もの時を隔てても、同じ人間の思いとして心に響いてくるのだ。
 
 ここでは、その幾つかだけをあげてみることにする。

「人々からの損なわれることのない安全は・・・多くの人々から逃れた平穏な生活から生まれる安全である。」

「飢えないこと、渇(かわ)かないこと、寒くないこと、これが肉体の要求である。これだけを望んで所有するに至れば、その人は、幸福にかけては、ゼウスとさえ競いうるだろう。」

「人はだれも、たったいま生まれてきたばかりであるかのように、この生から去ってゆく。」

 人々の心はいつの時代も変わらないし、自然の姿もまた変わらない、ただその時々に生きている顔ぶれが変わるだけであり、さらに年齢とともに自分の心が変わっていくだけだ。
 
 上の写真にあるように、朝、撮ったシャクナゲのツボミが、夕方には下の写真にあるように、さらに大きくふくらんでいて、その中の一輪の花が開き始めていた。
 その上に枝を広げるヤマザクラの花は、一日でもう満開になっていた。
 はっきりと確かに、今は、春のさ中にあったのだ。