ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

飼い主よりミャオへ(147)

2011-09-24 21:55:50 | Weblog


9月24日

 拝啓 ミャオ様

 天気予報などを見ていると、九州ではまだ28度位の暑さの残る日が続いているようだし、それにもかかわらず、朝の冷え込みはもう一桁近くまで下がっていて、寒がりのオマエにはつらいことだろう。それで私が思い出したのは、こんな季節の変わり目の時に家にいたころ、オマエがよく明け方前になって、私の布団にもぐりこんできたことだ。
 その時には、わずらわしいと思っていたことでも、他に誰もいないないひとりっきりの時に、ふと思い出としてよみがえってくる。こうした小さな出来事は、時折思い返すか、あるいはその時だけの出来事として忘れて去ってしまうかである。
 つまり、そんなことを思い出したのは、いつも私が、オマエのことを気にかけているからなのだろう。

 そして、この北海道にも、一気に秋がやってきた。昨日今日の朝の気温は、9度、日中でも15度位までしか上がらず、ストーヴをつけようかと思ったほどだが、室内はまだ暖かく、靴下をはいてフリースの上着を着込めばそれで十分だ。
 二日前には、北海道の最高峰、大雪山旭岳(2290m)での初冠雪が観測され、反対側の黒岳近くにある石室(いしむろ)小屋では2,3cmの初雪があったそうだ。その辺りの紅葉は、もう盛りを過ぎる時期だったのだろうが、ひと時の初雪とのコントラストはさぞやきれいだったことだろう。

 私は、数日前に、その大雪の山々の紅葉を見に行ってきたばかりだった。
 それで今年の紅葉はどうだったのかと聞かれると、いつものように『きれいでした』と答える他はないのだ。それは、紅葉の盛りの判断がきわめて難しいから、私が見たのがベストだったかどうかは分からないのだ。
 つまり、登山者にとっては、その紅葉の期間中、毎日毎時間その場所を見られるわけではなく、日にち時間場所によって大きく違うこともあるからだ。ある人にとっては、最高の紅葉にめぐりあったとしても、日付や場所が変わればそれほどでもないだろうし、その逆に、良くなかったという人がいても他の日や場所によっては、きれいな紅葉だったということになるのかもしれない。
 もし、毎年の山の紅葉の具合を比較的に正しく判断できる人がいるとすれば、十年二十年とその時期にその場所に居続ける人、山小屋の管理人とか、写真などで毎年長期間滞在する人に限られるだろう。すぐに思いつくのは、あの涸沢カールにある二軒の山小屋からの紅葉の便りであり、それは稜線にある南岳小屋のウェブサイトとともに、私たち紅葉好きの登山者にとっては、ありがたい情報源になっている。
 一方、この大雪山でも、旭岳側、層雲峡側の両ビジター・センターからは、日ごとに変わる山の様子が報告されていて、そのサイトの写真を通して、紅葉の進み具合を知ることができる。
 さらには、『イトナンリルゥ』という、大雪の山々を愛するTさんによる(その彼女の毎年の夏から秋にかけての行動にはただ頭が下がるばかり)、きわめて詳細な信頼性の高い個人サイトもあって、さらに付け加えて姿見の池からのライブ映像とあわせれば、私たち登山者は大雪山の紅葉情報には恵まれているといえるだろう。

 とはいっても、山の紅葉の様子を判断するのは、もちろん自分が現地を歩いて見てのことだ。そして今回の、大雪山の紅葉登山では、どうだったのか。
 夜明けのころにクルマで家を出て、2時間余り走って大雪湖のレイクサイトに着き、シャトルバスに乗り換える。駐車場の車も数もそれほどではなく、バスも満員にはならなかった。前には何度か、遠く離れた所に車を停め、バスも増発の2台目に乗っていたこともあったというのに、連休のはざまとはいえ、天気もいいのに、思ったほどには混んでいなかった。
 どうも、今年の登山者の減少傾向は、大震災のこの春から続いているらしい。最も私には人が少ないほどありがたいのだが。

 終点の銀泉台(1517m)でバスを降りて、20分ほど歩いて、溶岩台地斜面の第1花園を眺める展望地点に着く。三脚のカメラを構える人たちも少ない。それで、今年の紅葉はどうだろうか。胸ときめく瞬間だ。
 ほぼ毎年、20年以上も同じ光景を見続けて来た私にとっては、色合いが今ひとつとか、まだ少し早いとか遅いとか、なかなかこれ以上はないというほどの紅葉にはめぐり会えないのだが(例えば’09.9.20の項参照)、今年も橙色が多く赤が足りない気がした。それでもそれなりに、十分にきれいな紅葉風景だった。(写真上)

 この流れ落ちる紅葉斜面の後には、ちゃんと背景になる山々の姿がなければならない。今日も、左側のニセイカウシュペ山(1879m)から平山(1711m)にかけての山なみがくっきりと見えていた。その山肌もまた黄色くなっているのが分かるけれども、遠めにも色づき具合は今ひとつという感じだった。
 そのうえに、残念なことに、上空は天気予報ほどには晴れていなくて、この後も薄雲が広がったままで、陰影に乏しかった。

 斜面から台地上に上がると、紅葉の主力であるウラジロナナカマドは、黄色のままや茶色に枯れたものもあり、一方ではきれいな橙色に色づいたたものもありと、様々だった。コマ草平を過ぎて、このコースの次の紅葉のポイントである第3雪渓の斜面が見えてきた。
 ここは、少し枯れ始めているものがあるにせよ、全体的に見れば、今が盛りといっていいほどに見事だった(写真)



 何枚もの写真を撮った後、少し冷静になって見てみれば、欲を言えばの話だが、上空の青空と光に乏しく、今ひとつくっきりとした景観になってはいなかった。まるで貼り絵のような色彩の鮮やかさだけは、目に残ったが。

 最後の斜面を登りきり、赤岳(2078m)に着く。ここまで何度も立ち止まっては、写真を撮ってきたからとはいえ、3時間近くもかかってしまった。20人ほどの人たちが、休んでいた。誰もいない岩の上にあがり、周りの山々を眺めた。
 西側には、眼下の雄滝の沢をはさんで、いくらかの残雪を見せて白雲岳(2230m)の東峰がせりあがり、その右手奥には、旭岳(2290m)が見えている(写真)。



 夏に白雲岳から見た時の、旭岳のあの鮮やかな残雪模様(8月12日の項)は殆んどが消えていて、次に雪に被われる日を待つばかりのようだった。(この二日後、頂上部が初雪に被われたのだ。)
 北側には、青空も広がり、その下には北鎮岳(2244m)から凌雲岳(2125m)、烏帽子岳(2072m)、黒岳(1984m)と並んで見えているが、今登ってきた方向には少し雲がかかってきていた。
 風が冷たく、ここで長袖の上にパーカーを着て、手袋をつけて、小泉岳へと向かう。銀泉台からこの赤岳まで登り、同じ道を戻る人が多いが、シャトルバスが出ているこの時期こそ、いつもはできない縦走のチャンスなのだ。
 さらに黒岳へのロープウエイとリフトを使えば、層雲峡口、銀泉台口、高原温泉口の三つを組み合わせ、逆も併せて六つものコースを取れるのだ。

 今回は、小泉岳から緑岳へとたどり、そして高原温泉へと下りることにした。それは縦走の稜線歩きというよりは、高低差の少ない高原歩きといったほうがよく、厳冬期をのぞいていつの季節でも、天気良いの穏やかな日を選べば、気持ちの良い展望コースになるだろう。
 特に夏の時期は、高山植物を見ながらの観察コースになるし、今の時期には、ウラシマツツジなどの地を這う紅葉を前景にして、空気が澄んでよく見える周りの山々を眺めながら歩いて行ける、私の好きなコースの一つなのだ。
 その道を、私は飽きることなく、毎年繰り返しているのだ。
 
 もともと私は、北海道そのものの気候風土が好きになって、移住してきたのだが、もちろんそこには山登りがその目的の一つとしてあり、さらにその山々の中でも、どちらかというと、この大雪山よりは、日高山脈の山々に憧れていたのだ。
 その日高の山なみは、あの北アルプスや南アルプスに匹敵するほどの、百数十キロもの長さにわたって十勝平野の彼方に連なっている。高度は2000m前後に過ぎないのに、北国の山らしく氷河地形の名残である幾つものカールを抱き、登山道も少なく、原生林に被われた秘境の山々なのだ。
 そして、そんな山々の姿を朝な夕なに眺めるのが、私のここに住むことの第一の目的だった。それがかなうと、次は目の前に見える山々に登ることである。

 この20年ほどの間に、その日高の山々の幾つもの頂きに立ち、その頂上での私だけのひとりっきりの展望を楽しんできた。登山道をたどって、ある時は沢登りで、そしてヤブこぎの縦走で、または残雪期の雪を利用して、あるいは厳冬期の深い雪の中など、いつも単独で登ってきた。今にして思えば、危険と隣り合わせの、無謀な行程もあったのだが、元気なだけは十分にあったあのころに行っていてよかったと思う。
 いうまでもなく、年を取り、体力が衰えてくると、自分に甘くなり、無理をしたいとは思わなくなってくる。そして、年ごとに日高の山に向かう回数が減ってきて、その代わり、幾らかは安全で楽に登れる大雪山系の山々に向かう回数が増えてきた。(最も全体的にいえば、一年に登る山の回数そのものが減っているのだが。)
 ともかく、いつかはじっくりと、この北海道の二大山系である大雪山と日高山脈について、私なりにこのブログでいろいろと書いてみたいと思っている。
 ただいえるのは、今、私がこうして秋の大雪山を目指してやって来るのは、そんな体力的な面からだけでなく、日高山脈は全体的にダケカンバ帯が稜線近くまであり、ナナカマド類が少ないから、大雪山系の山々ような鮮やかな赤色に被われるほどの山はなく、紅葉の名所といえるような所は、沢沿いに限られるからでもあるが。

 さて、雲は出ていたが、風も余りなく、高原状になった小泉岳からの道をゆるやかに下って行く。彼方には、遠くトムラウシ山が見えている。この緑岳へと向かう灰色の礫地(れきち)帯には、午後の逆光に照らされて、ウラシマツツジが、道の所々を赤くふちどっていた。
 それぞれ単独らしい登山者が、私を含めて数人、適当にポツリポツリと離れて歩いている。静かだった。みんな山が好きなのだ。

 緑岳の頂上からは、岩塊帯の下りになる。そしてハイマツ帯のトラバースを抜けると、夏には鮮やかなお花畑になる草原を下って行く。道の傍に、わずかにミヤマリンドウの青い小さな花が幾つか咲いていた。いつもは海老茶色のじゅうたんになる(’08.9.27の項)チングルマの紅葉もまだ早いのだろうか、さっぱりの色づきぐあいだった。
 だがそこからの下りで、何と右ヒザに痛みがきた。前回の山は、ほんのハイキング程度でしかなかったし、その前の小屋泊まりの同じ大雪山への登山からは、何と一ヵ月半以上も間が空いている。
 年を取ればこそ、日ごろからの小さなトレーニングが必要なのに、ぐうたらに”食っちゃー寝”を繰り返して、挙句の果てに牛なみの体になってしまったのだ。まさに自業自得の情けなさ。必死の思いでカニ並みに横歩きして、急坂の階段を下り、何とか予定していたバスの時間に間に合った。
 赤岳からは3時間余り、併せて7時間足らずの登山なのに情けないばかりだ。その上、胸も苦しくなり、日ごろの不摂生を嘆くばかりだ。これでは、いつもの本州への遠征登山さえ気がかりになってしまう。
 
 ともあれ、バスに乗ってレイクサイトに戻り、汗に濡れた下着を着替えてやっと一息つく。さて、いつもは近くの民宿に泊ったりして、次の日にのんびり帰っていたのだが、その宿も今が本州からの客で一番混んでいる時だし、何もそんな若者たちで賑わう宿の邪魔をすることもないと、妙な年寄りの遠慮心が起きて、そのままクルマに乗って家に帰ることにした。
 そして、まだ時間はあったし、途中で長い間会っていない友達の家を訪ねたのだが、残念なことに留守だった。それではと途中で温泉に入り、体をさっぱりして再びクルマに乗って、夕暮れのシルエットに沈む日高山脈の山々を見ながら家に帰った。
 
 今回の山歩きが、特別に印象に残る山歩きだったという訳ではなく、書き記すべき感動的な見ものや人との出会いがあったという訳でもない。ただごく普通に、大雪山の紅葉の山を見に行ってきたというだけのことだ。
 しかし、あの鮮やかな紅葉の彩(いろど)りを眺め、おおらかに広がる秋の大雪の山なみを歩いてきたこと、そんな静かで心地よい登山の一日だったことこそが、確かにそれは私の人生の時間の中の一コマになり、いつの日にか、あのミャオが私の布団にもぐりこんできた時の思い出のように、しみじみと思い出されることになるのかも知れない。

 「・・・そうするうちに、あのように変化に富んだ風景の中では、もっと目をひきつけ、もっと長く目を留めさせておくような物象が必ず見出されるはずだった。
 この目を楽しませるおもしろみが、僕にわかったのである。これは、不幸の中にあっても、精神を休ませ、悦(よろこ)ばせ、慰める。そして、苦痛感を打ち切りにする。物象の自然性が、この愉楽を非常に助けて、それをいっそう魅惑的にする。馥郁(ふくいく)たる芳香、鮮麗(せんれい)な色彩、優雅な形態は、われわれの注意をひく権利をわれこそ得んと互いに競うているかに見える。このような快感に浸るためには、ただ愉楽を愛しさえすればよいのである。・・・」

 (『孤独な散歩者の夢想』より ルソー著 青柳瑞穂訳 新潮文庫)

飼い主よりミャオへ(146)

2011-09-18 15:13:29 | Weblog
9月18日

 拝啓 ミャオ様
 
 ミャオは、その後、元気に暮らしているだろうか。九州は、相変わらず暑い日が続いているとのことだが、そのうえ、これから一週間の天気予報を見ても雨模様の日ばかりで、ベランダでずっと座ったり寝たりして、一日を過ごすオマエにはつらいことだろう。それでも、毎日来てくれるおじさんからもらうエサを食べて、何とか元気にしていておくれ。
 
 数日前のこと、朝早くから家の中を気ぜわしく動き回る私を見て、オマエもただならぬ何かを感じていたのだろう、いつもの定位置のソファの上から降りたり上がったりしては、落ち着かなく私の動きを見ていた。そしてついに、私が玄関の鍵をかけようとしたところ、オマエは先に外に出た。たぶん、いつもの朝の散歩だと思ったのだろう。
 私が道に出て歩き出すと、オマエも傍に並んで歩き出したが、一瞬立ち止まり体の毛をなめ始めた。いつもの散歩でも良くあることだ。その時私は、オマエがついてくるのを待たずに、そのまま先へと歩き出した。10歩、20歩、振り返ってみると、オマエは座ったまま私の方を見ていた。

 何度も繰り返して書いていることだが、幼い頃、私は田舎の親戚の家に預けられていた。一月に一度、遠く離れた町で働いていた母が、私に会いにやってきた。それでも、わずか一晩泊っただけで、次の日の朝には母はもう帰って行った。
 その見送りの時に、幼い私は母と一緒に手をつないで歩いていたのだが、途中まで来ると、母は強い口調で私にもう帰りなさいと言った。母は突然速い足取りになって、振り向かずに私の元を離れて行った。私は、泣きながらその母の姿を見送り、仕方なくひとりで来た道を戻って行った。

 恐らく、その時、母は私以上に泣いていたのに違いない。数十年の歳月が流れ去り、その母は今はなく、そして今度は私が、すっかり年を取って子供返りをし始めたミャオを置いて、後ろも見ずに足早に歩き去って行くのだ。
 あーあ、親の因果(いんが)が子に報(むく)い、哀れ悲しき別離の定め、降るは涙か蝉時雨(せみしぐれ)。

 「旅の落ち葉が しぐれに濡れて 流れ果てない ギター弾き
  のぞみも夢も はかなく消えて 唄も涙の 渡り鳥」

 (昭和28年 作詞 吉川静夫 作曲 吉田正 唄 三浦洸一)

 この歌は、もちろん私が同時代に知っていたわけではないのだが、かつて、NHKの『なつかしのメロディー』かなんかで歌っているのを聞いたことがあり、その後、東京で働いていた時に、いわゆる”懐メロ”歌謡曲の編集にかかわる企画があって、その時に、古い日本の歌謡曲をかなりの数、試聴していて、その時に気に入った歌の一つである。(Youtubeで、その三浦洸一の歌を聞くことができる。)
 あの時代には、この歌のようなうら哀しい曲が多かったのだ。それは、誰もが敗戦という大きな負債を背負っていて、誰もが貧しく、ただ遠い明日への光を待ち望みながら、慎ましやかにそれでも必死に生きていた時代だったのだ。
 あれから数十年、日本はあの時代から比べれば、遥かに恵まれた豊かな暮らしの中にある。街中には、きらびやかなものが溢れ、若者たちの歌は、どれもが明るくさわやかに響いてくる。生きていくことでの哀しみなどは、もうなくなったのだろうか。
 いや、どのように時代が変わろうとも、どのような悲惨な時代であろうと、どれほど平和で豊かな時代であろうと、その時代の今を生きている人々にとっては、いつも喜びと哀しみは相半ばして訪れるものであり、ただその時々で、気づかなかったり、隠れていて見えないだけで・・・。


 私は、北海道に戻ってきた。前回6月に戻った時ほどではないにしろ、やはり、道や庭の草は伸び放題に茂っていた。しかし、その先には見慣れたわが家があった。あの良寛(りょうかん、1758~1831)和尚(おしょう)の一句が思い出される。

 「いざここに わが世は経(へ)なむ 国上(くがみ)のや 乙子(おとこ)の宮の 森の下庵(いお)」(さあここで、私は年を重ねて行こう。国上山のふもとにある乙子神社の森の下にある庵で。)

 (『良寛』 松本市壽・編 角川文庫)

 九州にいた時の30度近い毎日と比べれば、ここでは数度ほど低く、さすがに北国という感じだったが、なぜか蒸し暑さが残っていて、まだあのいまわしい蚊たちが、メタボおじさんの栄養価の高い血を求めて飛び回っていた。
 とても、そんな中で、草刈り仕事をする気にはならなかった。まして、一昨日など、もう秋になったというのに、気温は32度近くまでも上がっていたのだから。
 ただ、風で倒れて車庫の屋根にかかっていたヤナギの木を切り、小さな畑の簡単な収穫作業をしただけだった。キャベツは大きく育っていて良かったのだが、ミニトマトは雨が多かったらしく、余り甘みがついていなかった。
 今年の十勝の農作物は、私がいた8月までは、大豊作の予感すらあったのに、この9月にかけては曇りや雨の毎日だったとのことで、一転して不作の声も聞かれるようになっていた。農業は、この地元の基幹産業なだけに、その出来秋の収穫が気がかりである。

 家の林の樹々の中には、すでに黄色く変わった葉も見えている。九州に行く前には、もう2mもの高さに成長して、多くのツボミをつけて花を咲かせ始めていたオニユリは、あれから3週間、今は、最後の頭頂部の数輪の花が残っているだけだった。(写真)
 昨日今日と降り続いた雨を境に、その後は一気に気温が下がり、北海道の高い山々では雪が降るかもしれないとのことだ。ネットで見る山々の稜線上では、だいぶん紅葉が進んでいるようだ。毎年、繰り返し見ている山々の紅葉だけれども、やはりこの時期になると何かと期待をしてしまう。今年はどんな紅葉を見せてくれるのだろうかと。

 とはいうものの、今までミャオと一緒に暮らしていた毎日から、急にひとりきりになると、ミャオの面倒を見なくてもいいのだという開放感と、気が抜けたような思いが入り混じって、ある種の寂しい気持ちになる。
 そんな時に、ふと音楽を聴きたくなって、録画したままでまだ見ていなかった『ヴェルビエ音楽祭2011』の後半部分を見ることにした。

 すでに見終わった前半部分の、あの素晴らしいスター演奏家たちの共演については、前に書いたとおりであるが(8月23日の項)、この番組後半部分には、『ライジング・ピアノ・スター』と題された、グルジア出身のカティア・ブニアティシヴィリの二つの演奏会の模様がおさめられている。あのアルゲリッチからも絶賛され、今後が期待される若手のピアニストの一人だということである。 
 その一つめの演奏会は、ラフマニノフ(1873~1943)のピアノ協奏曲第3番である。ラフマニノフのピアノ協奏曲の中では、あのデヴィッド・リーン監督の名作『逢びき』(1945年)の中で使われたりして、特に人気の高い第2番がよく演奏されていて、耳にする機会も多いのだが、技術を要して難曲として知られるこの第3番も、負けず劣らずになかなかにいい曲であり、私はそのことを、このブニアティシヴィリの演奏で思い知らされることにもなったのだ。
 オーケストラは、若手を中心に編成されたヴェルビエ音楽祭管弦楽団であり、所々不ぞろいな部分もあtったが、それを今や老練の指揮者となったネーメ・ヤルヴィが手堅くまとめていた。しかしこの曲では、そのオーケストレイションがそれほどに重要視されているわけではなく、むしろ聞かせどころはピアノにあり、それをカティアは情緒たっぷりにそして力強く、鮮やかに演奏していたのだ。そのピアノの音に限らず、演奏する彼女の没我の境の表情の美しさ・・・。

 今やクラッシック・メディアの時代は、私がそれまで聴いてきたレコード、CDによる音だけの演奏から、演奏家たちのその時の演奏情景を鮮やかに目の当たりにすることの出来る、ハイビジョン映像の世界へと移り変わりつつあるのではないだろうか。
 それは、もともとは、演奏会場においてこそ味わえる生演奏の醍醐味でもあるのだが、今では誰でも、そんな演奏会の雰囲気の一端でも感じることの出来る、この美しい映像と音にすっかり引き込まれてしまうに違いない。CDの売れゆきが不振なったのには、そんなところに遠因の一つがあるのかもしれない。

 さて、このブニアティシヴィリは、その名前からして、いかにもグルジア系らしい感じであるが(現大統領の名前はサアカシュヴィリであり、私の映画ベスト5の一本である『ピロスマニ』(1978年)などのグルジア映画でも、こうした名前をよく見かける)、彼女の顔立ちには、むしろ民族の十字路といわれるこの国らしい、アラブ系の面影が漂っている。
 旧ソ連邦内の国であるグルジアは、今では、そのロシアとの間にある自治州をめぐって武力紛争が起きているのだが、彼女がそんな国の出身であることはさておき、なによりまだ23歳!という若さなのに、この円熟したピアノ演奏と、それにふさわしい大人の魅力をいっぱいにたたえた彼女の姿・・・私はたちどころに魅せられてしまった。
 もともと、旧ソ連系のピアニストには、私が知っているホロヴィッツ、ギレリス、リヒテルの時代以降も、次から次へと見事なテクニックと高い芸術性を兼ね備えた演奏家が現れていて、彼女もそうした流れの中の一人なのかと思ってしまう。

 二つめは、また別の日に行われた、ヴェルビエ教会の小さな会場での独奏会だったが、ここでさらにカティアは、その演奏技術の素晴らしさを私たちの前に披露してくれた。曲目は、リストの『ロ短調ピアノ・ソナタ』に始まり、ショパン、ストラヴィンスキーなどを弾いてくれたが、その中でも、私はストラヴィンスキー(1882~1971)の『ペトルーシュカからの3楽章』が一番面白く聞けた。強弱の音の構成とリズム感の素晴らしさ・・・。
 今年の春に、リストのアルバムでCDデヴューしたという、彼女の今後が楽しみだが、ただあの男勝りの激しい打鍵(だけん)ぶりからは、彼女のピアノに取りつかれた凄まじいまでの思いが伝わってくると同時に、もしかして指やひじなどを痛めやしないかと心配にもなってくる。
 久しぶりに感心して聴いたピアノ界の新らしいスターだけに、ふと老婆心が頭をよぎるのだ。

 ともかく、この2時間近くの番組を一気に見ては、それまでの私の心の中のつらい思いは消えて、ほんのひと時だけれども小さな幸せに包まれた。
 哀しみは、じわじわと忍び寄り、いつしか回りを満たしてしまうけれど、喜びはいつも不意打ちに訪れて、しかし、いつしか引き潮とともに去っていく・・。
 今回は、テレビで見て知った喜びだったけれども、まだまだこれから先にも、そんな様々な喜びとの邂逅(かいこう)が、私を待っているのかも知れない。だからこそ、この先に光が見えるかも知れないからこそ、人は今日を生き明日を目指すのだろう。

 ミャオ、オマエが待っていてさえくれれば、きっといつか喜びの日は来るものなのだよ。


                     敬具 飼い主より   

ワタシはネコである(200)

2011-09-10 16:07:55 | Weblog
9月10日

 強い雨風の日があった後は、晴れていい天気の日が続いている。ようやく、ワタシの規則的な毎日が続いて、穏やかに過ぎて行く。あの『天才バカボン』のコマーシャル・ソングではないけれども、これでよいのだ。

 朝6時前、部屋で寝ていた飼い主が起きてくる。それまであとなしく居間のソファーの上にいたワタシは、飼い主に鳴きかける。「ニャー、おはよー。ニャーオ、おなかがすいた。」
 すると飼い主が、「こんな朝早くから。」とぶつくさ文句を言いながらも、コアジを一匹、はさみで切って出してくれる。飼い主は部屋で自分の朝食をすませて、その後ワタシをトイレ散歩に連れ出し、ワタシは適当な所で溜まっていたものを出して、少しあたりをうろついた後、一緒に家に戻る。
 飼い主は、それから庭に出て、気ぜわしく音を立てて仕事をしている。それが終わると家に戻り、ぜいたくにも朝風呂なんぞに入り、そして着ていたものを洗濯をして、ベランダに干している。
 それらは布団干しなどとともに、風通しのよい日陰になる。ワタシは、そこで寝て過ごし、夕方前には、むくっと起き上がり、鳴いてサカナを催促する。
 それを食べ終わると、夕方のトイレ散歩タイムだ。さらに夜になって、飼い主に促されて、暗い外に出てトイレをすませて、後はソファーの上で横になる。
 そんな決まりきった毎日だけれども、他には時々飼い主に体をなでてもらい、ブラッシンングをしてもらい、ちょっとしたじゃれあいの相手になってもらいさえすれば、ワタシにはもう取り立てて、文句を言うべき不満もない。

 飼い主が、生真面目(きまじめ)な顔をして、本を読んでいる。その本の表紙を見てみると、『働かないネコに意義がある』。げっ、まじかよー。いや間違った、よく見れば、『働かないアリに意義がある』だった。
 それは、まさか食べてはゴロゴロ寝てばかりいる、ワタシへの当てつけのつもりなのか。いや、毎日こうしてワタシを可愛がってくれているのだから、そう心配するほどのことではないのだろうが、それにしても、いかにもヒマそうな飼い主が読むにふさわしい題名の本だ。


 「鮮やかに晴れ上がった空から、さわやかな秋の風が吹き寄せてくる。ベランダの揺り椅子に座り、私の膝の上で丸くなっているミャオの体をなでていると、この場所以外の出来事など、つまりあの東北の大津波被害や原発事故に、今度の紀伊半島での土砂崩れ水害など、さまざまな災害が起きていることなどが信じられないほどである。
 人はいつも、自分の身に降りかかって初めて、その災難のことの大きさに気づくのだろう。
 私たちは、科学の発達によって、遠く離れた土地での災害のことも、すぐに映像として見知ることができるようになったし、そして、同じ社会の一員として心を痛め、すぐにいくらかの援助をすることができるようにもなった。
 それでも、災難にあった被害者たちのこうむった、多くの物質的なそして精神的な被害までもは救えない。いまだに水面(みなも)の底に沈んだままの人もいれば、こうして日当たりのよいベランダでネコをなでている人もいる。

 それを、運命という一文字で片付けるのは、あまりにも非人情的にも思えるが、どだい人間も、同じ地球上の生きものの一つであることに変わりはなく、個性ある一つの命ではあるが、単なる一つの命であるにすぎない。
 前にも書いたことがあるのだが、アフリカの草原で、ライオンがヌーの大群を追い回し、そのうちの一頭をしとめると、それまで逃げ回っていた他のヌーたちは立ち止り、遠巻きにして、その仲間の一頭がライオンに食べられているのを見ているだけだ。

 生きものの社会の中での、仕組みや掟(おきて)のすべてが、人間社会に当てはまるとは思えないが、最近読んだ本の中で、新書版『働かないアリに意義がある』は、なかなかに興味深いものであった。
 それは、さまざまな種類のアリ社会の成り立ちや、女王アリや働きアリたちの行動を観察し、生物進化学の立場から、現代の進化理論のひとつの仮定となるべく研究されたものであり、それを学者の研究論文ではなく、私たち一般読者に分かりやすい平易な言葉で書いてあるから、働かないアリがいることなどを知って、なるほどとうなずきながら一冊を読み終えてしまう感じだった。
 生物科学の世界は、ある種のミステリーのなぞ解きに似ていて、知的ゲームの好きな人間にとっては、たまらない魅力にあふれた世界でもあるのだろう。この本からは、そのフィールドに携わる者の、真摯(しんし)な取り組みと喜びが伝わってくる。

 ただこの本では、読者に分かりやすく説明するために、所々に例えとして挿入されたものだが、そのアリたちの世界の現象を人間たちの社会に置き換えて説明していて、私には、それを著者が言うようには素直に比較対照する気にはならなかった。
 つまり、私たち人間は、他の生物たちと比べればはるかに高度な頭脳を持っていて、そして、それぞれに多様な個性ある個人が集まり作り上げ築いてきた、巨大な現代社会の中にいて、今日のグローバルな競争の中に生きる会社組織などと、そう簡単に比較できるものではないという思いがあるからだ。むしろ、比較や参考にするならば、職域が比較的単純に分けられる軍隊やスポーツ組織においてだろうが。
 というよりは、そんな人間社会との比較ではなく、その研究のままに、一つの進化理論を作り上げるべく、ミステリーとして、謎の解明にに向かうべく(たとえ解決に至らなくても)、ひたすらに書き進めてほしかったというのが私の思いである。とはいえ、知っているようでよく知らないアリ社会の一端を垣間見る思いがして、十分に楽しめた一冊ではあった。

 さらに、もう一冊の新書版『まいにち富士山』は、今でも毎日、富士山に登り続けている人が書いた富士山の本である。一般の人が書いた本だから、言葉はさらにわかりやすく、あっという間に読み終えてしまう。この、毎日富士山に登っている人の話は、前に新聞記事になり、確かテレビでも見たことがあって、詳しく知りたいと思っていたから、出版社の新聞広告を見てすぐに書店に行ったほどである。
 それなのに、読後の感想を言えば、残念ながら私が期待していたものとは別の内容になっていて、大半が富士登山案内に費やされていた。思うに、それは書いた彼の責任ではなく、企画意図した、出版社、編集者の責任である。なぜかといえば、私もかつて同じような仕事に携わっていたから、言えることなのだが。

 実に惜しいことだ。彼の富士登山経歴に、この本の内容が追いついていないのだ。どの本にも書いてあるような余分な富士山案内よりは、もっと、彼の毎日の富士登山記録を載せてほしかった。
 64歳での富士山初登頂以来、厳冬期を除いて5月から11月まで毎日登り(特に11月などはすでに氷化した冬富士になっていて、上級者たちの雪上訓練が行われるほどの季節なのだ)、今までに800回を超えるというものすごい記録なのだ。これほどの偉大な実績があり、その記録をそのまま書き綴っただけでも、相当に興味深い読み物になっただろうにと思うのに。

 それは、ただ単純な記録の羅列では面白くないだろうと考えた、おそらくは山登りの楽しみをよくは知らないだろう、雑誌週刊誌感覚の編集者の意図が見えて、残念である。
 思うに、記録というものは、それだけでも興味ある読み物になり、立派な文学になりうるものなのだ。たとえば、あの軽妙な文章で知られる内田百(うちだひゃっけん)が書いた『ノラや』や、歴史伝記文学に新たな地平を切り開いた森鴎外(もりおうがい)の『渋江抽斎(しぶえちゅうさい)』以下の作品群などのように、美辞麗句(びじれいく)ではない、単純な記録の羅列だけでも、それがいつしか深い感動を呼び起こすのだ。

 しかし、この本で意図されていたのは、恐らくは編集者からの指示でもあったのだろうが、総花的な富士山登山案内の本だったのだ。そんな本なら、グラビア写真付きの富士山案内の雑誌が何冊も出ている。これから富士登山を目指す人たちのためのガイド・ブックならば、その手の形の単行本化すべきだったのに、この内容では、新書本の読者層とは少し違うところにあるように思われるのだ。
 望むらくは、著者が、この本によって得た印税で、今度は自分の思うままに、今までの富士登山の記録をもとに、新たな自費出版の一冊を書いてほしいと願うばかりだ。その記録とその度ごとの感想の一文を、私は読んでみたいと思う。
 とはいっても、この本が面白くなかったというわけではない。初めての富士登山を目指す人にとっては、良き案内書になるだろうし、経験に裏打ちされた彼の登山スタイルには、学ぶべきものも多くある。そして、最後の章の危険な体験などは、実に興味深く参考になるものだった。


 さて、最後になったが、巻頭にあげた写真は、ロシアの作曲家、ストラヴィンスキー(1882~1971)のオペラ『夜鳴きうぐいす』からの一シーンである。
 先日、NHK・BSで放送された、”エクサン・プロバンス音楽祭2010”で公演されたものであり、その2時間足らずの演目の中で、前半は、同じストラヴィンスキーの小品、歌曲合唱曲などを上演し、それぞれに意匠を凝らしていて、特に背後の影絵芸術などは見事なものだった。
 そして、後半のわずか50分足らずが、このオペラ『夜鳴きうぐいす』だった。ストラヴィンスキーにそんなオペラがあることも知らずに、初めて見るものでもあったのだが、時代に沿った風変わりな演出とでもいうべきか、オペラの演出にはなにかとケチをつけたがる私なのに、実に楽しく見ることができた。

 物語は、アンデルセンの童話、『ナイチンゲール』をもとにロシア語で台本が書かれている。
 ある時代の中国で、皇帝に命じられた宮廷の侍従たちは“夜鳴きうぐいす(ナイチンゲール)”をよく知るという女料理人とともに森に出かけて行き、”夜鳴きうぐいす”に出会って宮廷に来てくれるようにと頼む。そこでやってきた”夜鳴きうぐいす”の歌声に、皇帝はすっかり魅せられてしまうが、ある時、はるばる日本から訪れた使節団が携えてきた“機械仕掛けのうぐいす”の声を聞いて夢中になり、それを知った“夜鳴きうぐいす”は森に帰って行ってしまう。しかし皇帝はその後、死神に取りつかれる病の床に就き、もう一度あの“夜鳴きうぐいす”の声が聞きたいと願っていた。そこへ森から、皇帝の枕もとへ“夜鳴きうぐいす”が戻ってきて、死んだのかと思われていた皇帝の病も癒(い)えて、めでたし、めでたしとなる。

 何といってもこのオペラを見て驚いたのは、その舞台だ。
 前面にプールほどの広さに水がはられ、そこに船に乗った漁師が現れる。船の上には、漁師姿の操(あやつ)り人形が乗っており、その後ろで同じような漁師の衣装を着た歌手が、歌いながらその人形を巧みに操るのだ。その後に登場する、船に乗った二人の宮廷侍従と女料理人も同じように、人形を操りながら、歌も歌うのだ。皇帝が登場するが、同じように皇帝の衣装を着た歌手が人形を操っている。ただ”夜鳴きうぐいす”役のソプラノの歌手だけは、鳥の羽色のベスト姿であり、鳥は長いさおで操られて飛び回るという仕組みだ。後ろには、同じ宮廷の女官たちなどが、同じ女官の人形を手にして立ち並んでいる。

 何と豪華な衣装の舞台だろう。歌手たちはすべて、京劇風に派手にメイクされている。日本から来た使者たちの一行は、いつものことながら誇張され、ありえない歌舞伎文楽風ないでたちだ。写真は、その日本の使節団の一行と、その後ろに皇帝と”夜鳴きうぐいす”、そして宮廷女官にふんした合唱団、そしてリヨン国立歌劇場管弦楽団を指揮する日本の大野和士の姿が見える。普通のオペラ舞台とは全く逆の位置だ。
 中国を舞台にしたオペラといえば、すぐにプッチーニのあの『トゥーランドット』を思い浮かべる(’10.12.1の項参照)が、今まで見た中ではそれ以上に目がくらみそうなほどの、極彩色の豪華な衣装とメーキャップだった。
 そんな派手な衣装と操り人形さらにプールまでもと、逆転配置の舞台を仕立て上げたカナダ人の演出家ルバージュには、ただ意表をついただけのハッタリ屋だとの声もかかりそうだが、私は、すべて現代風にアレンジされたヨーロッパで今流行りの舞台よりは、きちんと時代背景だけは押さえてあるこの舞台のほうが好ましく思えた。それにしても、なかなかに見どころのあるオペラを見せてもらったという思いである。

 この時の番組の後半は、あのソプラノのディアナ・ダムラウが男性ハーピストのメストレの伴奏によって、フランス語のドビュッシーとフォーレ、ドイツ語のシューマンとR・シュトラウスの歌曲を歌っていた。去年の番組の再放送だとのことだが、知らずに見逃していただけに、私にはありがたかった。
 ダムラウといえば、3年前にそのアリア集のCDを買った(’09.1.10の項参照)ほどで、私の好きなソプラノの一人だが、彼女と言えばどうしても、あのモーツァルトの『魔笛』のコロラトゥーラ・ソプラノ、夜の女王役が思い出されるが、今や彼女は、喉の負担が大きいオペラからいくらかは楽になる、小ホールでの歌曲へと(この時のバーデン・バーデンの劇場は半分に仕切られていた)、そのレパートリーを変えようとしているのだろうか。今までの他のソプラノ歌手たちがそうであったように。
 ただ彼女は、歌曲を歌う円熟の年齢と言うにはまだ若い気もするが。もっとも、今はここで、ダムラウのフランスやドイツの歌曲集が聞けたことに感謝すべきだろう。


 秋晴れのさわやかな日々が続いた後、また少し蒸し暑い日が戻ってきた。そんな中で、朝の涼しいうちにと数日かかって、庭の草取り、草刈り作業などをすませてしまった。家のことはこれでよしとして、あとはミャオのことだが。
 今回は、まだミャオのおもらし騒動があったものの、体は完全に回復していて、今では、時には飛び跳ねるほどに元気なったし、とても16歳の高齢ネコには見えないほどだ。最大の心配だったミャオの宿敵である、あのノラネコたちの姿も、捕獲器でのお仕置きが利いたためか(7月21日の項)、今では全く見かけなくなった。
 となると、後はいつものミャオへのエサやりをおじさんにお願いして、私は、私の家のある北海道へと戻らなければならない。
 再び戻る日まで、しばしの間だ、ミャオどうか元気でいてくれ。」


参照文献:『働かないアリに意義がある』(長谷川英祐 メディアファクトリー新書)、『まいにち富士山』(佐々木茂良 新潮新書)、『アンデルセン童話集(二)』大畑末吉訳 岩波文庫)、ウィキペディア他のウェブ) 

ワタシはネコである(199)

2011-09-03 17:20:37 | Weblog


9月3日

 飼い主は、買い物などで家を離れる時以外は、一日中家にいてくれる。ワタシは寝ている時はともかく、いつも飼い主のそばにいて、サカナをねだったり、体をなでて可愛がってほしくて鳴きかけたりするのだが、時には飼い主はそんなワタシをわざと遠ざけたりもする。

 まあ、それも分からぬ訳ではない。というのも、一つには、数日前、ワタシは寝ていたブトンの上におもらしをしてしまったからだ。
 しかし、それを見つけた飼い主は怒らなかった。ただ、黙ってその濡れた座布団を私の鼻先に突きつけた。ワタシは小走りにベランダへと逃げ出した。悪いのは分かっている。飼い主が戻ってきてから、もう一週間余りの間、ワタシはちゃんと外で用を足していたのに・・・。
 その時は、座布団の上で寝ていて、目覚めてふとそこにもらしてしまったのだ。そして、この前に大けがを負った時、小さくおもらしをしたのが始まりで、飼い主との関係が険悪(けんあく)になって、それに対する反抗の気持ちから、何度も部屋の中でシッコをした時のことが、ふと頭をよぎった。(6月14日~7月21日の項参照)
 ワタシの頭の中で、角を生やした邪悪な顔のワタシと、背中に白い羽を生やしたやさしい顔のワタシが、交互に現れてささやくのだ。
 「このまま、座布団の上でしちゃいなさい。気持ちがよくてすっきりするから。ほうーら、ほらほら。」
 「いや、してはいけません。部屋が汚くなるし、せっかく戻ってきた飼い主とも仲良くしていたいでしょう。」
 する、しない、する、しない・・・。ワタシは、どうしようかと迷っているうちに、少しだけ出して、残りを止めたのだ。足元を見ると、座布団には、大きなシミができている。あちゃー。

 ベランダに干された洗濯物の日陰で、ワタシは横になっていた。それまで家の中で音を立てていた洗濯機がピーと鳴って、飼い主が私の目の前で、洗ったばかりの座布団カバーを干していた。ワタシは薄目を開けて、ニャーと鳴いた。飼い主は、寝ているワタシを見下ろして、「このバカタレが」と言った。
 その後は、ワタシは反省して、ちゃんと外に出てしっこをしている。


 「ミャオのおもらしを見た時、私は悲しくなった。あの2か月前の悪夢がよみがえってきたからだ。毎日、毎日、ミャオがどこかにシッコをしたのではないのかと、家の中を臭いをかいで探し回らなければならなかった。
 見つければ、私が怒鳴るから、ミャオはおびえて反抗し、またシッコをしてしまう。その悪循環に気がついて、私は反省した。
 怒るのはやめよう。できるかぎりそばにいて、やさしく体をなでていてあげよう。ただし、シッコした時は、黙って鼻先にそれを見せるだけにしよう。それより先に、いつもころ合いを見計らって外に連れ出し、そこで自分からシッコするように見守っていてやろうと。
 前回そうして、うまくいったことを思い出して、今回もそうしてみた。それ以降、ミャオはおもらしをすることはなくなった。

 そんなある日、NHKの『ためしてガッテン』のマッサージ特集を途中から何気なく見ていたら、何と簡単なマッサージによって、認知症の症状がおさまってきたという実体験者の映像が流れていたのだ。それまで、身近な家族に攻撃的な態度をとったり、徘徊(はいかい)を繰り返していたのに、そのマッサージのおかげで徐々に治ってきて、それまで通りの日常生活ができるまでになったというのだ。
 それは、相手の手足をやさしく包み込むように、マッサージしてやるだけのことなのだが、それにもやり方があって、1秒間に5cmほどのゆっくりとしたスピードで、というのだ。そして、それはまた、私が、いつもミャオの体をなでてやっている時のやり方だったのだ。
 つまり、いずれの場合も、介護する相手の気持ち次第だということだろう。相手のことをやさしく思いやってあげながら。

 やがて、私もいつしかクソじじいになり、手足がきかずに介護のお世話になるのかもしれない。そんな時、いくら美人の若いねえちゃんが来てくれたとしても、冷たくめんどくさげに扱われたのではたまらない、物言えない年寄りの哀しさで、余計に病状が悪化してしまうだろう。
 つまり、わがままな私のことを、やさしく思いやって世話をしてくれる人なら、外見、年齢、男女を問わず、誰でもありがたいのだが。
 それでも、できることなら、ミニスカートの若い美人のねえちゃんに介護してもらえれば言うことはないのだが・・・あさましきは、じじいになってからもなくならない男心よ。

 さらに、これも先日、途中からふと見たNHKのドキュメンタリー番組なのだが、舞台は、大阪と奈良との県境にある金剛山(1125m)という山である。
 それは、あの謎の行者、役小角(えんのおづね、634?~701?)によって、修行の場として開山されたという由緒(ゆいしょ)ある山なのだが、そのゆかりからか、頂上にある神社では、毎日、登頂参拝の記録を受け付けており、大記録を残した人々の名前が立札に顕彰表示されている。その山に、二人合わせて一万回登ることを目的にして、毎日山道を登り続ける70代の夫婦がいた。
 妻は、認知症になっていて徘徊を繰り返し、夫以外の人が分からないほどになっていた。夫は、その妻の病状を改善すべく一緒に山に登ることにしたのだが、そこには、彼がサラリーマン時代から、さらには事業を興して失敗するなど、仕事にかまけて3人の子供がいる家庭を妻にまかせっきりだったことを、申し訳なく思い、その罪滅ぼしの思いもあって、日々、妻の介護にあたり、妻の手をつないでの登山を続けているのだった。

 私は、ひとり身ながら、余りにも考えさせられることが多かった。そこには、さまざまな言葉が浮かび上がってくる・・・夫婦愛、優(やさ)しさ、献身、継続、贖罪(しょくざい)・・・まるで、聖書に書かれた言葉のように。
 私には、できない言葉ばかりだった。過去に私を愛してくれた女たちに、そして亡き母に、私は何をしてやれただろうか。ただ、今私のそばにいるミャオに、そのうちのほんの少しのことを、ミャオを守ってあげられるわずかばかりのことを、してやれるだけだ。

 前にも引用したことのある、あの『ささやかながら、徳について』の、”15章 優しさについて”からの一節。
 
 『優しさが女性的な徳であるとすれば、あるいはそう思われるとすれば、それは、優しさが暴力なき勇気であり、厳しさなき力であり、怒りなき愛だからだ。』


 晴れて暑い日が続いた後、昨日今日と、台風の影響で雨が降り続き風が吹き荒れている。気温は20度を少し超えるくらいで、肌寒く、長そでのシャツを着こむほどだ。台風一過によって、もう秋が来ているのだ。 
 しかしその前に、数日前のことだが、私は山に登ってきた。前回の登山(8月7日、12日の項参照)からは、また間が空いてしまった。北海道に戻って、秋の大雪山の紅葉を見に行くまでには、このままだと一カ月以上も空くことになる。
 そこでそんな時のために、いつでもできるお手軽登山を、例のごとく家からそのまま歩いて2時間ほどで登れる山に行ってきたのだ。

 ほとんど人の通らない山道は、両側から背丈を越すササが倒れかかっていて、かき分けもぐりこんで登るうちに、朝露のために全身ずぶ濡れになってしまった。
 しかし、その上の樹林帯から、見晴らしのきく草尾根に上がるころには、いつしか衣服も乾き、ススキの穂が出始めた尾根から見上げる空には、もう秋の雲が出ていた。(写真上)
 花は、わずかにノコンギクやアザミを見たくらいだったが、なにより、青空の下、誰もいない尾根道をひとり歩いて行くのはいい気分だった。
 帰りは、もう一つの別な道をとって降りて行った。途中の斜面から見下ろす広葉樹林帯の方から、あるはずもない大きな川の流れの音が聞こえてきたが、降りるにつれて分かってきた。それはセミの声、大集団のツクツクボウシの鳴く声だったのだ。
 山裾の林の中を行く道で・・・(写真下)。日陰になった道の上には、こもれ日の模様があり、振り仰ぐと、木の梢(こずえ)がわずかに揺れていた。私は、大きな優しさに包まれて、山道を下って行った。」


 参照文献;『ささやかながら、徳について』(アンドレ・コント=スポンヴィル著、中村昇他訳 紀伊国屋書店)