ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(33)

2008-03-16 18:06:21 | Weblog
3月16日 昨日、今日と晴れて暖かく、気温17度と4月上旬並みのポカポカ陽気だ。全くいい気分で、ベランダのゴザの上で、ワタシも白酒なんかいただいて、ヨイヨイと踊りたいくらいだ。この暖かさで、家の梅の花もようやく咲き始めた。
 早い所では、一ヶ月も前から咲いているというのに、山の中だから春が来るのも遅いのだ。飼い主の話によれば、北海道では、なんとサクラが咲いた後に、ウメの花が咲くということだ。
 「青空にキタコブシの白い花がまぶしいばかりに咲き、ついでエゾヤマザクラの薄紅色の花が咲く。5月も中旬くらいのことだけどな。イヤーしたって、北海道の春が一番でないかい。」と飼い主は遠い空を眺めていた。
 ワタシには花のことは分からないが、飼い主の憧れや、そうなってほしいと思う期待の気持ちは良く分かる。しかし、すべてその思いのままにかなえられるわけではない。いや、むしろかなわない願いの方が多いのかもしれない。
 そして、その辛い思いを抱えたまま、ネコも人も生きていかなければならない。けれども、そのいわゆるストレスを溜め込んでいけば、いつか心と体が病んでしまうことになるのだ。
 ワタシが、飼い主からの手ひどい仕打ちで、命にかかわるほどのショックをうけ、なんとか病院での治療を受けて、やっと回復したという話しを、前にしたことがあるが、それほどまでに、ネコにとっても人間にとっても、心や精神の問題は重要なものなのだ。
 それでは、どのようにしてネコや人間は、日々起きる心の痛手を癒しているのか。それは、飼い主によれば、転嫁あるいは転移作用と呼ばれる、意識的な、あるいは無意識的な行為によるものらしい。
 少し難しい話になるが、なんでも昔、途中まで読んだフロイトの「夢判断」を、最近読み直して(また途中でやめたそうだが)、飼い主は自分なりに納得したらしいのだ。
 つまり、人は自分の思いどうりにいかないことがあると、これはその物が悪いから、他人が悪いからと、責任を転嫁して、自分の心の痛手を抑えようとする。しかし普通には、そうあからさまに他の責任にすることなどできないから、心の中の溜め込んでしまう。
 たまる一方のストレスは、どこかで解放されなければならない。そこで、人の脳は指令するのだ。無意識の夢の中で、それらの思いを、過去の記憶の中から巧みに組み合わせて、そうとはわからないような解決策を提示してくれるのだ。
 夢の本質は、かなわない願望の充足にあるが、心の不安もまた抑圧された精神からの解放のために、夢としての解決が図られることになる。分かる、分かると飼い主は言う。
 「夢の中で、可愛いねえちゃんと仲良くなったり、あるときは若き日の悪い行いのたたりで、怖い夢で目が覚めたりと、夢を見るおかげで、精神的なバランスがとられているのかもしれないな。」
 ワタシにしても、昼間寝ているときに、突然、小さく鳴いたり、うめき声を上げて体を痙攣させたりしていると、飼い主から言われたことがある。自分で分かっていて意識的にしているのが、ドジったり、飼い主から叱られたときにする、小さな毛づくろい、つまりごまかしだ。
 少し悲しいのは、ニャンニャンの時期を過ぎた後、夜、飼い主の目の届かない所で、たとえば倉庫の中に置いてある、飼い主の作業着の上に、ずっと座り続けていることだ。この場所は、シャム猫のかあさんがワタシを生んだ所なのだ。それなのにいくら座っていても、ワタシはコネコを産むことはできない。
 人の世も、ネコの世も、辛いことがいろいろとあるけれど、みんないろいろと工夫して、なんとか折り合いをつけて、生きている。それは、もちろん辛いこと以上に、うれしいこともいっぱいあるからだ。ワタシも、夕方になり、生魚を食べながら、ああ幸せだ、生きていて良かったとつくづく思うのだ。