ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

雪白く積めり

2019-01-28 22:14:58 | Weblog




 1月28日

” 雪白く積めり。
  雪は林間をうずめて平らかなり。
  ふめば膝(ひざ)を没して更にふかく 
  その雪うすら日をあびて燐光(りんこう)を発す。
  燐光あおくひかりて不知火(しらぬい)に似たり。
  道を横切りて兎(うさぎ)の足あと点々とつづき
  松林の奥ほのかにけぶる。
  ・・・。"


(日本文学全集 19 高村光太郎 詩集「典型」より”雪白く積めり” 集英社)

 どこかのスキー場の話ではないけれど、この冬の雪の少なさには、暖冬だという以上に、地球環境変化を現実のものとして認めなければならない、そんな時代になってきたのかとさえ思っていたのだが、その雪がやっと、わが家の周りでも降り積もったのだ。
 雪景色大好きの私は、”じーじは喜び、庭駆けまわり”の気持ちになってしまうほどで、その雪は15㎝ほども積もっていて、久しぶりに小1時間ほどの雪かきにも精を出したのだが、もちろん北海道などのサラサラの乾いた雪ではなく、湿った重たい雪で、二日たった今では、もう道の方には、日陰になったところに少し硬い雪が残るだけで、クルマの通行には支障がないほどに溶けてしまった。どこか、春先に降る雪の感じで。

 この日は、じっとしていられなくて、午前中と夕方にも、雪景色を見るために辺りを散歩して回り、上の写真は、夕日に照らされた雪原写真なのだが、北海道などの冬の雪原と比べると、上から雪が舞い下りてきただけの、柔らかい積もり方をしていて、北海道の吹きすさぶ烈風の中で、シュカブラや風紋に覆われた雪原でなくて、きわめて穏やかな、九州の雪ではあったのだが、雪原の夕映えがきれいだった。 
 さらには、ネットのライブカメラを見てみると、牧ノ戸峠の駐車場はクルマでいっぱいで、路肩駐車のクルマもあったほどだが、今日雪道を通ってここまで来た人たち、みんながいかに九重の山々の雪景色を待っていたかがよくわかるのだ。 
 天気は朝の曇り空から、晴れ間が広がってきて、まずまずの天気だったのだが、さすがに休日の人の多さを考えると、なかなか出かける気にはならず、家の周りの雪景色散歩だけで気をまぎらしていたのだ。

 山登りの間隔が、なんともう3か月以上も空いてしまった。
 ”空前絶後のぐうたらぶり”だと、わが身が身をののしってみても、せんなきこと。
 そこで録りだめしていた山番組の録画のいくつかを見ては、さらに憂さを晴らしていたのだ。

 もうずいぶん前から続いている、NHK・BSの「日本百名山」は、調べてみるとその第1回目は1994年4月の八ヶ岳からであり、その時は、ようやくまともな山番組がテレビで見られるようになると、小躍りしたくなるほどだったのだが。
 しかし、当時はまだDVDの時代であり、手元にあるその画像は、最近のハイビジョンのブルーレイ録画による画像と比べれば あまり見る気にもならないほどに粗いもので、現在のテレビ映像はさらに4K,8Kへと高画質になっていく時代であり、もう今のハイビジョンでさえ、将来には忘れ去られてしまうのだろう。
 さて、その「日本百名山」は、今では「にっぽん百名山」と名前を変えて放送され続けているし、最近では季節を変えて撮り直しのシリーズが続いていて、山好きな人々には、見逃せない番組になっているのだが、その秋山シリーズで、年末からの「立山」「月山」「岩木山」「八甲田」など、紅葉の秋シリーズで、また行きたくなってしまうほどだ。

 さらに、目がクギづけになったのは、正月3日に放送された「北アルプス・ドローン大縦走」の第三弾である、”雪の燕岳”と”雪の涸沢から奥穂高岳”である。
 雪の燕岳から大天井岳への縦走は経験があるが、同じような晴天の下での、ドローンから見た北アルプスの大展望はさすがに素晴らしく、懐かしい気もしたが、もう一つの奥穂高岳へは、夏から秋の季節には何度も行っているのだが、積雪期の経験がないから、それだけに、ドローンによる目新しい角度の眺めの、その迫力ある大展望にはただただ感心するばかりで、特に朝焼けに染まる雪の山肌は、真向いの蝶ヶ岳から眺めた雪の穂高連峰の忘れられない思い出があるが、これほどの近さで別アングルの映像というのは見たことがないから、興奮しまくりで、山マニアとしての幸せなひと時だった。

 やっぱり山は、積雪期に眺める朝夕のモルゲンロート(朝の赤色)とアーベントロート(夕方の赤色)の美しさに尽きると言えるようだ。
 今までの登山経験の中で言えば、まだ積雪期の4月下旬、日高山脈の十勝幌尻岳からの日高山脈主峰群の眺め、八ヶ岳硫黄岳からの赤岳・横岳・阿弥陀岳、八方尾根唐松岳からの、白馬三山に五竜岳、そして燕岳に大天井岳からの槍・穂高連峰などと枚挙にいとまがないし、手軽に行ける所では、蔵王地蔵岳からの日没の樹氷群の姿も印象深いし、日本の多くの山々は、ふもとからでもその朝焼けの姿を見ることができるから、早起きして寒さをいとわなければ、素晴らしい朝焼けの山の姿を目にすることができるだろう。(写真下、北海道糠平湖畔より朝焼けのニペソツ山、1994年4月3日)





 他にも、富士山の夕映えは有名だが、どうしても私が見てみたいと思うのは、あの雨晴海岸や氷見海岸からの、富山湾越しに見る夕映えの劔・立山連峰の姿である。

 若いころに出かけた外国の山では、幸運にも10日もの間、好天が続いたヨーロッパ・アルプスでトレッキングを楽しんだのだが、その中でも、ツェルマットのユースホステルの窓から眺めた朝焼けのマッターホルンの姿が忘れられない。
 世の中には、あまたあるヒマラヤの高峰群や北米マッキンリー(デナリ)、そして今回三浦雄一郎さんで話題になった南米アコンカグアなどの、高い山々での壮絶な朝焼け夕焼けの山の姿を見た、数多くの人たちがいるだろうから、その人たちから見れば、私の雪山体験など、物の数にも入らないのだろうが、といって私は自分を卑下する気にもならないし、人は人それぞれに、自分の経験値の中で自分の人生を楽しめばいいのだと思う。 
 私は若いころ、いろいろなスポーツをを楽しんできたが、結局そのころからのもので変わることなく残ったのは、スポーツとは言えないのかもしれないけれど、登山、つまりは山歩きすることだけだったのだ。
 その理由は、他人と争うスポーツではないからだ、闘うのはあくまでも、内なる自分に対してであり、そんな自分の弱気と強気のがまん比べなのだからだ。

 こうした協調性のない、団体行動に向かない、というより単純にわがままでぐうたらな人間が、ここまで生き延びてこられたのは、やはり自分が生きた時代に、戦争や自分に降りかかる災害や事故にもあわなかった、という幸運に恵まれたからだろう。
 そして、そう考えることができるようになったことで、今の自分がこうして生きていること自体が幸運だと思えるようになるし、今の自分が、自分なりに納得した年寄りでいられることが、どれほどありがたいことかとも思うのだ。

 生意気で、野心に燃えて、ぎらついていた若いころなんぞに、金輪際(こんりんざい)戻りたいとは思わない。
 ただ自分が過ごしてきたその時その時が、それぞれに意味のある成功と失敗だったのだ、ということでいいじゃないか。
 あとは残された人生で、自分だけの小さな計画を、一つずつやって行ければいいだけのことだと。

(ここでまた、半分まで書いてきた残りの原稿を、他のサイトを開いて調べていた時に不注意からその部分を消してしまった。今からその一つ一つを思い出して、元通りに書き直す元気はないし。というわけで、今回、以下はその前に書いた原稿とはいくらか違う形のものになったが、まあ自分のために書いているブログだから、こういうこともありなのだと自分に言い聞かせている。)

 ともかく、ここまで書いてきたのは、前回あげたギリシア時代の哲学者エピクロス(B.C342~271 ) の言葉を思い出したからでもある。

”人々からの損なわれることのない安全は、煩(わずら)いごとを排除しうる何らかの力(個人的または社会的な力)によってでも、ある程度までは得られるけれども、そのもっとも純粋な源泉は、多くの人々から逃れた平穏な生活から生まれる安全である。”

”生の(生の目的なる快の)限度を理解している人は、欠乏による苦しみを除き去って全生涯を完全なものとするものが、いかに容易に獲得されるかを知っている。それゆえに、かれは、その獲得のために競争を招くようなものごとをすこしも必要としない。”(以上『エピクロス』出隆・岩崎充胤訳 岩波文庫)

 これだけでもわかるように、これらの言葉は、到底若い人のための忠告や指標となるべく書かれたものとは思えない。
 あのギリシア時代に強いあこがれを抱いていた、ニーチェなどからすれば、こんな生ぬるい消極的な考え方などは彼の思想とは相容れないものだろうが、逆にエピクロスの一見、虚無的な快楽主義の思想にも理解を示しているところもあって、死についての記述にはむしろ影響を受けている所もあるとさえ言われているのだが。
 もちろん、私の若い時にも、こうしたエピクロスの考え方は、あまりに日和見(ひよりみ)主義的な逃げの考え方にしか思えず、長い間忘れていたほどだったが、中年を過ぎて人生の光と影の多くの物事を体験してくると、これらの言葉は、老年へと続く人々たちへの提言だと思えるようになってきたのだ。
 自分の人生の、競い合う時代は終わって、これから先は経験から得た知識をもって、人生を楽しむべく余裕をもって生きていくべきだという、一つのライフプランを提示したのではないのかと思うようになったのだ。

 もちろん、人間には様々な考え方や立場の人がいるから、たとえば、年寄りになっても若い時と同じように野心を抱きながら、日々激動の社会に身を置くことを好む人もいて、そのリスクあるスリルこそが彼らの生きる源になっている場合もあるだろうし、またそういう人々たちによって、現代社会が動かされているのも事実だけれども。
 ただ、昔からそうであったように、その時代の権力社会の喧騒(けんそう)からは一歩離れて、静寂の世界に身を置きたいという人々が、いつの時代にもいたということなのだ。
 中国の老子荘子の思想、日本の『方丈記』『徒然草』に見るような鴨長明、吉田兼好などのいわゆる”隠者”達の存在があり、紀元前のギリシアにいたエピクロスもそうした考え方を持つ一人であり、どこの国にも、いつの時代にもあったことなのだと思う。

 類は友を呼ぶ”という諺(ことわざ)があるからではないけれども、誰でも近しい考え方の人のそばにいることは、心安らぐことなのだ。 
 私が本を読むのが好きなのは、いつでもその本を開きさえすれば、そこに人生の偉大な先達(せんだつ)でもある人々や仲間たちがいて、彼らの話を聞くことができるからだ。 
 形や規則に縛られた安全な集団の中にいるよりは、こちらが話を聞きたい時に、いつも本の中で会うことのできる、そうした人々たちがいることがどれほどありがたいことか。

 私たちの若いころには、訪ねた友達の下宿先の狭い一間に、その本棚に並べられた本を見ては、お互いの知識を啓発(けいはつ)させられたものだったが。
 現代の若者たちは、ほとんど本を読まないという。 
 しかし、彼らが、スマホのネットゲームやSNS通信連絡に夢中になり、他にはマンガ本を読んでいるだけだとしても、私はそう心配はしていない。
 いつも、その時代の潮流の中で新しいものが生まれ、さらには変化していって、彼ら自身が選んだ新しい時代になって行くのだろうと思うし。
 ただ、私たちの世代は、恐ろしく長く続いてきたアナログの時代の中にあったということで、これからも、私は古いと言われてもその世界から離れることはできないし、またそれが、私たち年寄り世代の幸福な時代でもあったと思うのだが・・・ありがとさーん。


 



冬の青空と高原歩き

2019-01-21 21:12:45 | Weblog




 1月21日

 谷の方へと、降りて行く。 
 右手は、コナラなどの冬木立が立ち並ぶ急斜面になっていて、青空が鮮やかに木々を区切っている。(写真上) 
 小さな流れを渡り、今度は対岸の斜面を登って行く。
 やがて、道はゆるやかになって、マツが散在する高原の端に出る。
 そして、その先からススキやカヤの原になり、道が山の方にまっすぐに続いている。
 周りに遠くの山々が見え、時おり木々を揺らす風の音だけが聞こえている。

 誰もいないし、鳥の声さえも聞こえない。
 ただ、私の周りのほとんどに、青空が広がっているだけだ。
 幸せだと思う。
 
 天気のいい日を選んで、自分の好きな道を歩いて、穏やかな風景の中にいること。
 今、生きていて、そう感じることができること、それだけで十分ではないのか。

 テレビに映し出される、人々や街並みの喧騒は、全く別世界のこととして見ていれば面白いことだが。
 動物園の、おりの中に入れられた動物たちと、それを見ている人間たち・・・果たして本当は、私たちはそのどちら側にいるのだろうか。 
 そして、そのどちら側にいるほうが幸せなのだろうか。

 このままだと話が重たくなってしまうから、いつものように天気の話から始めることにしよう。     
 最近は、毎回同じことを書いているようで、少し気がひけるのだけれども、ともかく、何という暖かい冬の日々だろう。
 今は、暦でいう大寒のころであり、一番寒いころだから、九州の山の中にあるわが家周辺では、今頃は終日マイナスの真冬日にもなることもあって、外は雪景色になっているはずなのに、今まで書いてきたように、去年の12月からここまで、まだまともな雪が降っていないのだ。 
 九重の山も、前回のブログで10年前の同じころの写真をあげたように、今頃は、見事な雪景色なっていて、うきうき気分で山に出かけていたはずなのに。
 今年はライブカメラで見る限り、まだ一度も雪景色にはなっていなくて、何度か霧氷に覆われていた時はあったのだが、ほとんどは、冬木立の山が映し出されているだけで。
 それなのに牧ノ戸峠の駐車場は、土日は満杯になっていて、雪山の景色が見られないのを分かっていて、こうして山に来ているみんなは、本当に山が好きなのだろうと思うし、大したものだが、それに引きかえ、わがままで自分勝手な登山を楽しんでいる、死にぞこないのこの頑固じじいは一体・・・。

 とは言っても、やはり山歩きが好きな私は、3か月もの間山に登っていないために、いきなり山に登るのは心配だからと、このところ何度か、最初に書いているように、家の周りの散歩とは言えない、往復1時間半ほどのハイキングを楽しんでいるというわけなのだが。
 そうした、私の行動に後付け説明をするとすれば、元来、山歩きが好きなことに加えて、静かな自然の中にいること自体が好きなこともあってあって、こうして私が山に出かけるのは、平日の天気のいい日の山歩きになってしまったのだが、それだからこそ、その時その時の、山の姿をいっぱいに受け止め味わうことができるのだとも思っている。
 もちろんその日だけで、その山のすべてを知ったことにはならないけれども、その季節の山の姿として、いくらかの写真とともに、私の記憶の引き出しの一つに収めることができるのだと思う。(いつも書くことだが、写真を一枚も取らずに、すべては自分の眼で見た記憶に、心のアルバムにとどめておくのだという人がいるけれども、記憶力が良くない私には、とても無理な話であり、写真があってこそ、その時の思い出をたどることができるのだと思っている。)

 つらつら考えてみるに、年寄りになってきた私が、どうしてそう自分のためだけの生き方をするようになってきたのかというと、もちろん若いころの、行動主義的な一途な思いや、誰もが一度はその洗礼を受ける情熱的な理想主義や、その絶望感からくる破滅主義の停滞時期を経て、次第に周りを遠くから見る余裕がでてくるようになり、落ち着いた思想へと心惹かれるようになっていったからではないのかと思っているのだが。 
 そして、その一つの結論としての思いが、今までにもこのブログに書いてきたように、あのギリシア時代のエピクロス学派にまでさかのぼって行くことになったのではないのかと。
 それは、一般的に言われている快楽至上主義的な思想ではなく、むしろ逆に、あの禁欲主義を掲げるストア学派に通じるものがあるとさえ思われる考え方であって、つまりそれは、自然の中で静かな節度ある生活を送ること、といったエピクロスその人の言葉でもあったのだが。(’10.6.22、’15.4.6の項参照)
 そうした考え方は、ぐうたらでわがまま気ままな生活を送る私には、まさにおあつらえ向きの思想なのかもしれない。

 ただし、人は一面的なものだけに合致するからといって、そのことだけで、その人の人なりすべてを表しているわけではなく、彼の人生の中で影響を受けた人や物事は数限りなくあるのだから、あくまでもその人の一つの部分としてしか見ることはできないのだが。 
 そうしたことから、自分の立場においてかんがみてみれば、物心ついた時から今まで、自分の考え方に影響をあたえたと思われる事柄は数限りなくあり、さらにそれはその時によって様々に状況が異なっているのだから、全く同じ考え方の人がいないのも当然であり、その個性あふれる多様性こそが、人が人たるゆえんなのだろう。

 なぜこんなことをくどくどと書いてきたかというと、最近ふとあのドイツの哲学者ヘーゲル(1770~1831)のことを調べていて、カントの後のドイツ観念論の一つの頂点として存在し、さらにヘーゲル亡き後の影響が、その好悪はともかくとして、キルケゴールやマルクス、ニーチェ、ハイデガーにまで及んでいて、それだけに、私たちが哲学的にものごとを考えていく上での、一つの里程標(りていひょう)にもなっているからだ。 
 もちろん、軽佻浮薄(けいちょうふはく)で浅学な私が、ヘーゲルの『精神現象学』のような難解な本を読めるわけではなく、これらのことは手元にある幾つかの哲学解説本からの受け売りに過ぎないのだが。 
 さてここで、弁証法の哲学だと言われている、ヘーゲルの考え方の一例として、取り上げられることの多い、”ひまわりの弁証法”について、あげてみることにする。

 ”ここにひまわりの種があり、それを地面にまくと、芽が出てくる。つまり種が否定されて芽となり、次に芽が否定されて茎や葉となる。やがて茎や葉が否定されて花となり、花が否定されて種となる。”(『新しいヘーゲル』長谷川弘 講談社現代新書)
 さらにそうしたことから敷衍(ふえん)していけば、”生命そのものがその内に死の萌芽を担っているのであって、一般的に有限なものは自分自身の内で自己と矛盾し、それによって自己をアウフヘーベン(否定する、保存する)ものである。“と規定しているのだ。(『一日で学びなおす哲学』甲田純生 光文社新書)

 つまり人間のうちには、自分を肯定するものと否定するものがあり(生と死が同居していて)、変化生成を重ねていくものであり、それと同じように観念も、変化していき、最後には絶対知(絶対精神)に至ると考えたのだ。
 もちろん、私は、単なる輪廻転生(りんねてんしょう)の考え方よりは、一歩進んでよりよくなっていくという、その変化生成過程に関しては同意できるのだが、絶対知に至るというところで、ふと考えを止めてしまうのだ。
 はたして、かつてこのかた、そこまでたどり着いた者などいたのだろうかと。

 それは、彼の描いた理想の結論であり、次に登場するヘーゲル批判のキルケゴールが結論づけた、”宗教的実存”である信仰とある意味では類似しているとさえ思えるのだが。
 つまり、それは彼が別なところで言っているように、哲学は、今までの出来事を後から整理する考え方に過ぎず、未来に対しての正しい道筋などを提示するものではないということでもあるのだから。
 さらに、これは相反するようだが、そうした彼の考え方にもうなずくことができるのだ、私たちが哲学に求めるのは、今ある自分の位置を認識し、あるべき方向へと向かう道しるべになってくれることなのだから。

 こうして、晴れた日に静かな山歩きをするのは、自分の求める節制としての快楽主義の発露の一つなのだと、言い訳をしているのだが。
 1時間半かかって、山歩きを終えて家に戻ってくると、日が陰ってきた庭に、何か白いものが見えていて、近づいてみると、何とそれはユスラウメの花だった。(写真下) 
 今まで、早くても、2月中下旬に咲くことがあっても、それよりも一か月も早く、一年で最も寒くなる今ごろに咲いたのは初めてのことだった。(’18.3.5の項参照)
 これを見ても、今年がいかに暖冬かというのがよくわかる。 
 もちろん、そうなるとウメやサクラも早く咲くのかもしれないが、毎年楽しみにしている大きなブンゴウメの実は、花が咲いたころに戻り寒波にやられる心配も出てくるし、温かい冬で花が咲くのが早くてと、喜んでばかりもいられないのだ。

 先週のテレビについて少し書くとすれば、何と言っても特筆すべきは、NHK「ブラタモリ」の”イタリア・ローマ編”の2週続けての放送だった。
 それは、相手のアナウンサーの女の子が4代も変わるほどの(タモリの言葉によれば、”おれのカラダの上を何人の女子アナが通り過ぎて行ったことか、みんな出世して。”(先代の桑子アナウンサーに代わって近江アナウンサーの最初の放送の時”嵐山編”でのひと言。)長年にわたる高視聴率番組になったからという、ボーナス企画だったのかもしれないが。

 ともかく、興味深い内容で面白かった。
 私の若いころの、ヨーロッパ旅行の時にも、ローマには3日ほど滞在して精力的にあちこち見て回った記憶があるから、もとよりのことだが。
 フォロ・ロマーノ(古代ローマ、紀元前6世紀~紀元3紀元)の遺跡から始まって、その石材の岩質(火山に囲まれたローマの地形ならではの凝灰岩)から、ローマの地形地層に至るまでの現地学者の説明には、ただ聞き入るばかりだったし、あの有名なアッピア街道(紀元前3世紀)の石畳の道が、今では時代を経て凸凹になっているが、当時は揺れることもない舗装道路のような道だったとか。 
 さらに、ローマにいくつもある噴水は、水が豊かに使える大都会(当時100万もの人が住んでいた)の象徴として作られたもので、郊外からの長さ20㎞にも及ぶ水道橋の3割ほどは今も残っていて、壮大な浴場跡とともに歴史的見ものになっていた。
 
 そして、この番組でタモリと林田アナウンサーに同行していたのは、子供のころからローマにいるという日本人ガイドで、彼の見事な通訳やコーディネイトがなければこの番組は作れなかっただろうと思うほどだが、こうした世界各国の現地事情ネットワークを持っている、NHKスタッフにはいつもさすがだと思ってしまう。
 しかし、この番組では、古代ローマのほんのひと断片を見ただけに過ぎず(塩野七生さんの15巻にも及ぶ大作『ローマ人の物語』があるように)、もっと何回かのシリーズとして、イタリア全土(特にフィレンツェやヴェニス)にまで広げて見せてもらいたいと思ったほどだった。 
 
 そして、この番組の後に放送されいて続いて見ることの多い「さし旅」(AKB・HKTの指原莉乃とマニアたちが巡るこだわり旅番組)だが、今回の”温泉めぐり”やその前の”仏像めぐり”、そしてさらに前にあった山の”紅葉めぐり”など、初歩的な案内の内容ではあるが、あらためて気づかされることもあり、むしろ若者たち向きの番組なのだろうが、私たち年寄りでも十分に納得のできる内容も含んでいるのだ。 

 民放(テレビ朝日系)のいつもの「ポツンと一軒家」では、今回は千葉のあの清澄山(きよすみやま)付近の一軒家で、崖崩れで通行止めの標識のある山奥に、ログハウスが建っている所があって、近くで農家をやっている人が(67歳)、祖父から受け継いだ広大な山林の間伐材で、ログハウスを建てていて、その数大小取り混ぜて10棟余り、他にも森林回遊コースの道を作って、子供たちに体験学習させているとのこと。
 私が北海道で、やっと一棟だけの丸太小屋を建てて安住して、ぐうたらに暮らしているのとは大きな違いだ。

 思うに、私は、今回取り上げたヘーゲルの弁証法的考え方のように、自分の中に可と非の要素があって、それらの相克によって日々よりよく変化生成しているとは、とてもいえないのだ、ただいたずらに馬齢(ばれい)を重ね、齢を取って行くだけのことで。
 今はもう、頭の中をチョウチョウが飛んでいれば、そんな穏やか日々が続けば、それでいいと思うだけで・・・。



知らぬが花

2019-01-14 22:58:41 | Weblog




 1月14日

 旭川郊外江丹別(えたんべつ)氷点下29・8度。
 私も、冬北海道にいる時に、-25℃くらいまでは経験したことがあるが、-30℃という寒さの経験はない。 
 そこでは、戸外の景色は、青空の下、幻日(げんじつ)に太陽がゆらめき、木々には霧氷が張り付き、あのダイヤモンドダストが舞い、それはたとえようもない未知の光景なのだろうが、一方では、家の中にいても足元からその寒さが伝わってきて、強く燃やしている薪ストーヴがあったとしても、そのそばから離れたくはないほどの寒さでもあるのだろうが。

 しかし、今年の、この九州を含めての西日本各地の暖かさは、何と言うべきだろう。
 前回も書いたように、雪がちらつくことはあっても、まだまともに雪が降ったことはないのだ。
 一月前に履き替えたクルマのスタッドレス・タイヤも、まだ一度もその役に立ったことはなく、空しくアスファルト路面を走っているだけだ。
 もちろん、暖かいことが悪いわけではない。
 冬の雪道を走らなくてすむから、いつも路面の心配なくクルマに乗れるし、何より、すきま風が多くて寒いわが家の中で、震え上がらなくてもすむだけ、何とも年寄りにはありがたいことなのだ。
 ポータブルの灯油ストーブと電気ストーブを、それぞれの部屋に置いて、まあ今の気温ではそれだけあれば十分だし、何より毎晩風呂に入って、十分に温まった体で眠ることができて、”あー極楽、極楽”と思うのだが。

 それに引きかえ、あの北海道のわが家のことを思うと、思わず身震いがしてしまう。
 しっかりした薪ストーヴがあるから、家ごとの暖房能力は高いのだが、まず井戸が干上がったままで水が出ないから、相変わらずの隣近所からのもらい水の生活だし、もちろん風呂には入れないし、トイレはその度ごとに外に出なければならないし、あの旭川の江丹別のように、マイナス30にまで下がったら、外の掘立小屋のトイレではどうなるのだろう、鍾乳洞の下から生えてくる石筍(せきじゅん)のような光景を想像するだにおそろしい・・・”これはトイレのアイスパレスだあ”と、タレントの食レポふうにおどけて見せるわけにもいかないし・・・。

 ああそう言えば、その”アイスパレス(氷の宮殿)”で思い出したのだが、数年前に大ヒットしたディズニー映画『アナと雪の女王』が、この正月に初めて地上波民放で放映されて、私も初めて見たのだが、”流行りものの尻馬には乗らない”という、このかたくな年寄りの眼もくぎ付けにするほどに、最後まで見続けてしまうほどの、目新しい面白さがあった。
 まず特筆すべきは、そのアニメ技術の高さであり、私が久しぶりにディズニー映画を見たからでもあるのだろうが、人間の表情や物の質感表現に格段の進歩があり、さらに遠近立体感までもが感じられて、コンピューターがなかった時代と比べると、まるで隔世の感があると思ったほどだ。
 ただ惜しむらくは、整合性を欠く脚本やいかにもディズニーらしい類型的な人物像の設定ではあるが、考えてみればこれは子供向けのアニメ映画であり、そう考えれば、ここではキラキラ輝くアニメの世界だけを楽しんでいればいいことであり、私たち大人がとやかくいう筋合いのものではないのかもしれない。

 そして、いつもは外国語映画の吹き替えを嫌う私だが、こうした映画では、むしろ現実の俳優たちではなく誰でもいい声優たちの声なのだから、字幕や翻訳の心配なく楽しめる、吹き替えの方が正しいと言えるだろう。
 さらに、ミュージカル調のこのアニメ映画では、歌も吹き替えの声優である松たか子が歌っていて、あの「ありのままに」は、それまでに何度も聞いたことのある歌だが、このアニメの中では、ストーリーにそってより感動的に聞こえてきて、思わず涙しそうになるくらいだった。
 何と豊かな声量のある、うるおいに満ちた高音の響きだろう・・・。
 思うに、一つの可能性としてだが、外形的なアンドロイド人間の作成とともに、アニメの世界でも極めて実写近い表現ができるようになれば、全くの俳優なしに、アニメだけで、現実的なドラマや映画が作れるようになるのだろうし、そうすれば俳優という職業もなくなるのだろうか・・・。

 その昔、私たちが子供のころ、親に連れられて映画館に行った時は、その本編二本立ての”清水次郎長”などの時代劇が始まる前に、まず白黒のニュース映像が流されて、その後、カラーのディズニーのマンガ映画、”ポパイ”や“ミッキーマウス”が映し出されて、私たち子供はみんないっせいに笑い声をあげたりしたものだった。
 そこは、盆と正月くらいにしか見られない、映画を楽しむことのできる、別世界の娯楽の殿堂だったのだ。 
 映画が、映画館で映画たりえた時代、今のように多くのチャンネルを選べるテレビがあり、さらに多くの分野に分かれて映像を見ることのできる、インターネット動画がある時代からは想像もできないが、ともかく誰もが、動く映像としての映画を楽しめる、娯楽の殿堂としての映画館にあこがれていた時代だったのだ。

 いつも思うことだが、人間の欲求にはきりがないから、物事はいつも改革改編の繰り返しで、日々より高度なものへと発展していっているし、私たち年寄りは、その度ごとに、新しい技術革新の成果をまざまざと見せつけられて、驚くばかりではあるが。
 しかし、そうした今の時代の流れについて行こうとすれば、錯綜した潤沢な情報の中に埋もれてしまい、自分の立ち位置を見失う危険性もあるだろうし。
 いつの時代でも、”知らぬが花(言わぬが花からの転化)”や”知らぬが仏”の例えもあるように、何も知らないことのほうが幸せな時もあるのだ。
 今の時代と比べれば、ほんの少しばかりの情報しかなかった時代に、ようやく見ることのできた”銀幕のスターたち”、その幸せのひと時は、まさに”干天の慈雨”のごときありがたさで、私たち子どもの心を潤していったのだ。

 ここでふと思い出したのは、あのヴィム・ヴェンダース(1945~)の名作、『ベルリン天使の詩(1987年)』の冒頭の一節である。
 冒頭、白黒フィルムで、ベルリンの高い塔の上にある、彫像の大写しの映像が流れ、そこにドイツの詩人、ペーター・ハントケの「わらべのうた」の一節が朗読される。
 読んでいるのは、主人公の守護天使役を演じているブルーノ・ガンツである。彼は高い塔の上に腰を下ろして、(まだ東西を隔てる壁があった)ベルリンの暗い街並みを見下ろしている。
 ”Als das Kind Kind war・・・”
 ”子供が子供であったころ”、と読んでいくそのドイツ語の響きが心地よく聞こえてくる。

 人間には見えない、中年男の天使が、サーカスの娘に恋をして、天使としての永遠の命を捨てて、限りある命しかない人間に生まれ変わっていくという話だった。
 最初この映画見た時は、暗く地味な夢物語の映画だと思っていたのだが、その後二度三度と見ていくうちに、この映画のいわば無垢な世界観にひかれていくようになったのだ。

 ヴィム・ベンダースの映画には、『都会のアリス』(’74)『さすらい』(’76)『アメリカの友人』(’77)『パリ、テキサス』(’84)『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』(’99、キューバ音楽のドキュメンタリー)『ミリオンダラー・ホテル』(’00)などがあり、そこに共通するのは、お互いの間に流れる何気ないやさしさや静かな愛であり、彼が日本の映画監督小津安二郎を敬愛するのもわかる気がする。

 昔の映画館の話をしていて、わき道にそれたうえに長くなってしまったが、その『ベルリン、天使の詩』の冒頭の詩の一節である、”子供が子供であったころ”という言葉を思い出したのは、私が子供であったころが、まさに”映画館が映画館であったころ”だったからである。
 こうした、昔の映画館の思い出を話していけばきりがないが、多くの映画監督たちが、昔の映画に対するそれぞれの思いを”映画へのオマージュ(尊敬の意)”という形で作っているのだが、その中でも有名な一本は、言うまでもなくトルナトーレの『ニューシネマパラダイス』(’88)だろう。
 小さな町の懐かしの映画館での人情話だけではなく、実はラストシーンに向けての布石となるべく、切り取られていったフィルム断片の数々、そのあふれる映画への思いには、思わず涙してしまうほどだった。

 テレビ映画で有名な評論家の先生が、”いやーやっぱり映画っていいですね”と言っていた言葉が、素直に聞こえてくるような、まさに映画の全盛時代の名作の一本だったのだ。 
 そして、そうした映画全盛期の時代に生まれ、多感な青年時代から、多情な大人の時代まで、たくさんの良い映画にめぐり会えたことが、何よりも幸せなことだったと、今にして思うのだ。
 ”百冊のマンガ本を読むくらいなら、一冊の古典小説を読んだほうがいいし、百本のどうでもいいようなテレビ番組を見るくらいなら、一本の良い映画を見たほうがいい”と、私は自分の心の中で思っているのではありますが・・・。

 と言いつつ、私もたまには、そんなどうでもいいような、テレビのバラエティー番組を見てしまうのだが、しかし、そうした番組でも、中にはふと気づき教えられることもあるのだ。
 例えばある時、ひとりのの”ヒナ壇(だん)”タレントが、言っていたのだが、最近業界の人たちと一緒の席に座ると、聞こえてくるのは、ネット社会の浸透ぶりに脅かされて、視聴率が低下している民放テレビ各局の話ばかりだが、そうした景気の悪い後ろ向きな話ではなく、まだテレビにはいろいろな切り口があるのだから、そういう将来につながる話をしてほしいのに”、とかいったことを話していたのだが、その時に気づいたのは、世の中の景気状況を肌で感じている、営業最前線にいる人たちと、その周りの関係者たちとの現状認識の差である。
 上の人からはいつも上昇志向を指令され、下からは現状危機感をあおられ、そんな中でいつも何とかやっていくしかない、中間管理職の苦闘、いつの世にもいつの時代にもあったことなのだろうが。

 確かに、私は一日3時間くらいはテレビを見るからそれは多いほうなのだろうが、(そのほとんどは食事しながらなのだが)、それでもNHKさえあれば、まあ困ることはないし、民放では最近とみに、ショッピング通販宣伝番組が多くなったことや、各社横並びの素人意見番組化してきたものばかりだから、今の時代のスマホを自由に操る若者たちからすれば、小さなパソコンでもあるスマホを見ているほうが楽しいし、ほとんどのことはネット通信でやり取りできるからと、若い人たちがテレビ離れしていくのも当然のことだと思えてしまうのだ。

 もし、これから多くのテレビ局が経営危機からなくなっていくとしても、スマホを含むインターネットがあれば、それぞれに様々な意図的コントロールの危険はあるとしても、それだけでテレビ・ニュースと変わらない情報を得られるだろうし、さらに個人的なことを言えば、私には今までに録画してきた、多くの映画、オペラ、歌舞伎、登山、ドキュメンタリーなどのBR(ブルーレイ)ディスクがあるし、まあそれらのお気に入りの番組があれば、残り少ない老後を生きるには十分な量だろうと思っているから、テレビの衰退ぶりに脅威は感じないのだが。

 あるだけのもので満足すること・・・私は一週間に一二度買い物に行って、冷蔵庫がいっぱいになると、それだけで心豊かな安心した気持ちになれるのだ・・・安上がりな満足感。
 昔、同じように母と一緒に買いものに行って、戻ってきて、その品物を冷蔵庫に入れていた母が、”分限者(ぶげんしゃ、長者・金持ち)になったようだね“とつぶやいていたのを思い出す・・・庶民のささやかな満足感。

 ここまで書いてきて、気づいたのだが、今日、最初に意図していたのは、冒頭に書いているように、いつもは寒い九州の山の中にあるわが家周辺でも、今年は雪のない暖冬になっていて、それはそれで楽なのだが、今ごろは、もう何度も白い雪に覆われているはずの(この冬に一度も見ていない)雪の九重の山に思いをはせて、そんな話を書こうと思っていたのだが(冒頭の写真は10年前のもので、九重の牧ノ戸からの縦走路、2009.1.17の項参照、そして下の写真も同じ時のもので、西千里浜からの久住山(1787m)である。)





 さらに下の写真もその時のもので、天狗ヶ城(1780m)中腹から、左上に天狗ヶ城頂上と右に中岳(1791m)が見えている。この日は、牧ノ戸峠から縦走路をたどり、分岐点で扇ヶ鼻の前峰まで行って、縦走路に戻り西千里浜から久住分れ、そして御池から天狗ヶ城に登り、快晴の空の下で、寒い雪山を十分に楽しんだ一日だったのだ。




 こうして年寄りは、ラクダが反芻(はんすう)するように、昔の思い出を繰り返し愉(たの)しみ、そしてバクのように、もういらなくなった自分の夢を食べてしまうのでした。


憧れる山

2019-01-07 22:58:21 | Weblog




 1月7日

 最近、山の夢をよく見るようになった。 
 それは、美しい山の姿を眺めているだけの夢ではなく、その前後の、些細な事柄が付随する、山での出来事のことに気をとられるような、むしろどうでもいいことばかりの夢なのだが。
 つまり、言い換えればそれは、苦しい修行の刻苦勉励(こっくべんれい)の日々を経て、夢の中でたどり着いた西方浄土(さいほうじょうど)の景観ではなく、まだまだ俗世間への未練を断ち切れずに、いまだに煩悩(ぼんのう)の中にある、私の心のうちなるものの反映なのかも知れない。 

 それも、無理はない。もう3カ月もの間、山に行っていないのだ。
 去年は春先に、ハシゴから落ちて大きなケガをして、長い間が空いてしまったこともあって、さらに新年に至るまで、こうして山に登らなかったから、自分の登山史の記録として、去年は極めて寂しい年になってしまった。
 ただ一つ、紅葉の色彩にあふれた栗駒山の記録があったから、良かったようなものの。
 そこで、言い訳をするとすれば、九州に戻ってきた時には、もう山の紅葉は終わっていて、冬は冬で、今年は暖冬で、まだ一度も雪が積もったことがないし(これまでの記憶にない)、例の九重のライブカメラで見ても、霧氷の時が何度かはあったようだが、山が雪に覆われたことはほとんどなかったようだし、さらにそこに輪をかけたような、この年寄りのグウタラぶりでは、山はますます遠のいて行くばかりなのだ。

 しかし、”今に見ていろ、僕だって”という思いはあるのだが。
 さらに言えば、私ごときが年寄りだとほざいているのが恥ずかしくなるような話しだが、今年86歳になるというあの三浦雄一郎さんは、南米最高峰のアカンカグア(6960m)に挑戦するというし(周りのサポート隊が大変だとは思うが)、などなど年寄りが元気に活躍している例などいくらでもあるのだ。

 そんな時に、年末の再放送で見たのが、例のNHK・BSの田中陽希「グレートトラバース3」である。
 北海道にいる時は見ることのできないBS放送だから、この「グレートトラバース3」の四国中国近畿編は見ていないのだが、この時見たのは、再放送の「霊峰白山と信仰の山」とサブタイトルがつけられていた番組だった。
 中部地方、岐阜から北陸地方にかけての山々に登っているのだが、そこには両白山地と呼ばれる山域に1500mを超える山々が散在していて、その中に巨大な山群としての白山があるのだ。 
 今回この番組の中で、私が思わずはっと息をのんで見つめた山があった。
 それは、彼が、昔からある白山巡礼道の一つである、美濃禅定道と呼ばれる道をたどって行く、その白山へと北上する縦走の山旅の途中で、三ノ嶺(2128m)を過ぎて、さらに登った南の肩辺りから、雲が散れて来て姿を現してきた別山(べっさん、2399m)の姿である。(写真下)




 それは、予想外の見事な山の姿だった。
 初めて見る、大平壁と呼ばれる大岩壁を擁(よう)して、すっくとそびえ立つ姿に、私はあぜんとしてしまった。
 知らなかった、反対側からこんなふうに見えるなんて。
 そして、あの山には登らなければならないと思った。

 もちろん、それまでに私は別山を知らなかったわけではない。
 地図帳を見るのが大好きだった中高校生時代から、白山の下にある別山の名前は知っていたし、山登りが好きになってから、少しずつ買い集めた地域ごとの山の登山案内書にも、別山は載っていた。
 それどころか、9年前の白山遠征登山の時には、白山主峰群だけではなく、この南に離れた別山にも登りつもりで、その白山周遊の山歩きの後、南竜山荘に泊まり、翌日に別山へと登るつもりでいたのだが、朝から雨になって、仕方なく別山をあきらめ雨の中を下山したのだ。
 その白山登山最初の日に、幾つかある別当出合いからの登山道で、私は観光新道と呼ばれる尾根道を選んで登って行き、バテバテになって御前峰下の室堂にたどり着いたのだが、途中の天気はまずまず晴れていて、別山の姿も見えていた。(冒頭の写真、2009.7.29~8.4の項参照)
 さらには、白山山頂の御前峰周辺からも別山の姿は見えていたのだが、その姿形にひかれてというよりは、位置的にも独立峰に見えるあの山には登る価値があると思っていたからである。
 
 それまでに、私がそうして眺めたり、雑誌書籍で見ていた別山の写真は、いずれも白山側から見た、つまり北側から見た姿であり、別山の北側や北西斜面側を写したものばかりだったのだ。 
 しかし、私はテレビ画面で、初めて別山の南側から眺めた姿を見たのだ。
 何に例えればいいだろうか。
 まずすぐに思ったのは、私の北海道の地元の山、日高山脈のあのカムイエクウチカウシ山(1979m)である。
(写真下、1997年7月、ピラミッド峰より。写真からの複写で画質が良くないが、そのうちにフィルムからデジタル・スキャンするつもりなのだが。) 




 高度はだいぶん下がるけれども、北海道という緯度が高い分、高山環境は別山以上であり、その擁壁の下には何よりも氷蝕地形の一つであるカール地形を見ることができるし、アルプス並みの急峻な山容は別山とは比較にならないほどだが。 
 もう一つ上げるとすれば、あの南アルプスの盟主北岳のバットレスを擁した姿かもしれないが、やはりそこまでの迫力はない。
 さらにネットで調べると、三ノ嶺から続く柔らかな尾根道の先に、雄大なスケールでそびえ立つ、別山の姿があった。
 これが別山の姿としては最高なのだが、撮影者の名前も書いてあって、引用はできないようだから、このブログには載せられないのだが、自分で見るためにとダウンロードして、時々眺めているほどだ。

 ともかく、最近はすっかり山への気持ちが穏やかになり、無理をしない登山を心掛けるようになっていた私に、久しぶりに心の奥でぽっと小さな明かりがともったような、それは若いころには、いつもあの山にこの山にという思いにあふれていて、次々に未知なる憧れの山に登り続けていたのだが、その時の思いのひとかけらにまた灯がともったような、あるいは年甲斐もない”老いらくの恋”とも呼べるような、私にとっての小さな憧れの山ができたのだ。

 しかし、そんな思いをするのは、何も今回だけではない。
 年寄りになってからも、憧れてきた山々はいくつもあって、そのうちのいくつかは思いを果たして登ることができたけれども、その幾つかは今に至るまで、思いをかなえることができないまま、夢のままで終わりそうなのだが、例えば毛勝谷の雪渓を詰めて毛勝三山の頂に立ち、そこからの剱岳を見ることや、残雪期の越後駒ケ岳から中ノ岳への縦走、さらには東北の朝日連峰縦走、そしてこの南側からの別山などなど・・・。

 もっともそうした、果たせない思いを残したままで、ほとんどの人が人生を終えるのだろうし、誰でも、完璧に自分の思いのすべてをかなえて、その瞬間に死んでゆくことなどできはしないし、一日、一月、一年生き延びるごとに、生きていることを思い、それでも今やすり切れた、あこがれという名の錦繡(きんしゅう)の着物を引きずって行くことになるのだろうが。
 ただ、私はこうして今を生きているのだし、自分の思いをあきらめるよりは、まだいくらかの可能性があることを思い、さらには、まだこれからも生まれてくるのかもしれない、あこがれの思いに気づいただけでも・・・新年早々、実にありがたいことだったのだ。
 しかし、その中の一つだけでも果たして実行できるのか・・・あの舌を出したアインシュタインのように、なーんてねというだけのことなのか。

 今回、書き始めたら、この別山の話でいっぱいになって、他に書きたいこともいろいろとあったのたが・・・ただ、今一つ書き加えるとすれば、立山にも別山という山があり、こちらは剱岳と立山という二大名峰の間にある山であり、縦走の時には巻き道を行く人が多く、頂上は割愛されるのだが、むしろ私にとってはこの山を目当てにして登ることが多く、剣・立山の展望台として欠くことのできない山なのだ。

 さて、暮れから新年にかけて、多くの番組を録画していて、まだそのうちの少ししか見ていないので、あれこれ言うことはできないが、まずは上にあげた「グレートトラバース3」の「北アルプス編」もまだ見ていないし、さらにはいつものテレ朝系列の「ポツンと一軒家」やNHKの「ドキュメンタリー72時間」「日本人のおなまえっ」やBSでの「グレートレース モンブラン一周」の他に、単発の登山番組などがあるし、少し見ただけの番組では、京都南座の歌舞伎顔見世公演では、片岡仁左衛門が「義経千本桜」の三演目を演じていて、これから見るのが楽しみだし、あのウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートでは、今や巨匠とさえ呼ばれるようになってきたティーレマンの指揮で、同じドイツ語圏の出身だから、ウイーン・フィルの奏者たちや観客たちとの掛け合いが和気あいあいで、これまた楽しみではある。

 付け加えるに、今年のNHKの「紅白」はいつもと違う大トリの後で番外編があり、サザン・オールスターズの桑田のライブ感あふれる歌と、途中参入のユーミン松任谷由実の、大人同士の歌とダンスのからみが素晴らしく、今年の歌のMVPは、もう60歳を超えるこの二人にあげたいくらいだった。
 日本の歌が、歌謡曲からポップスへと移り変わっていき、さらにアメリカナイズされたものまでをも取り入れて、変化多様化していった歴史があり、ここにその一つの到達点を見る思いがした。
 一方では、さらなる新しい流れであるKポップスもジワリと浸透してきているし、それらを高みの見物と決め込んでいる、このじじいにとっても、まだまだ若い人たちの歌は、好き嫌いがあるとしても楽しみでもあるのです、はい。
 さて、当の自分は、もう幾つ寝ると・・・。