ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

代償行動

2018-04-30 22:14:36 | Weblog




 4月30日

 連休に入って、素晴らしい天気の日が続いている。
 日本各地の観光地は、行楽客たちの歓声でにぎわっていることだろう。
 テレビニュースで映し出される、家族連れの笑顔の数々・・・。
 あの映画『男はつらいよ』の”寅さん”ではないけれど、日ごろから実直にして勤勉なる日本の労働者諸君が、年に一度の大型連休の休みの日を、日本晴れの空の下、家族連れで楽しんでいる様子を見ることができるのは、実に喜ばしいことだ。

 私は、ずっと家にいた。
 それは、若いころから、混雑している所に出かけていくのが嫌な性分だからという、単純な理由によるものなのだが。
 今回はそれ以外にも、いやそもそも今は、どうにも動きが取れないという状況にあるからだ。
 前回書いた、あの屋根から転落した時の、打撲傷の傷口がいまだに治っていないからだ。 
 もちろん、その後病院にも行って、レントゲン写真を撮って骨に異常がないことも確認してもらい、処方された薬も飲んでいるのだが、痛みはとれないし、ひざ下全体のはれも引かないし、全体に内出血の赤黒いあざが出てきている。

 こうした痛みが続く時には、人は弱気になるものだ。
 もしかしたら、敗血症で足が壊疽(えそ)して、右足を失うことになるかもしれないし、それがもとで死に至ることもあるのだからと、悪い疑念が最後を告げる雷雨の前の黒雲のように、湧き上がってくるのだ。
 最近、年寄りになってきたせいでもあるのだろうが、目、歯、足腰の衰えが目立ち、さらに加えて高血圧の糖尿病気味の体調を考えれば、傷の直りが悪いのもその一因なのかもしれないのだが。 
 もともと生まれ持っての顔つきの悪さや、頭の悪さは、今や自分の体質の一つのようなもので、あきらめはつくけれども、たかだか脚の傷ぐらいのことでと思ってしまうのだ。

 しかし、去年は足のひざの痛みに悩み、今年はそれ以上の足の傷の痛みに苦しみ、思いはどうどうめぐりをしてしまう。
 そこで、思い至るのは、最近よくここにも取り上げることの多い”死の思索”についてである。 
 もちろん元来が、単純で”お天気屋”な私だから、深刻に厳かに定義づけられる死についての考え方にはなじめない。 
 それだからこそ、いつも書いているように、ハイデッガーの”死の意識からの時間の存在”の意義を、改めて思い直しているわけでもあるのだが。
 そこで、今回取り上げる言葉は、16世紀”宗教改革”の嵐の中に生きたフランスの思想家、モンテーニュ(1533~1592)の有名な『エセー』からの一節である。

 彼は、まず古代ローマ時代の詩人ホラティウスの言葉をあげる。
 ”明けゆく毎日をおまえの最後の日と思え。そうすれば当てにしない日はおまえのもうけとなる。”

 そして続けて書いている。

「死はどこでわれわれを待っているかわからないから、いたるところでそれを待ち受けよう。
 あらかじめ死を考えておくことは自由を考えることである。死を学んだ者は奴隷(どれい)であることを忘れた者である。死の習得はわれわれをあらゆる隷属(れいぞく)と拘束から開放する。
 生命の喪失がいささかも不幸でないと悟った者にとってはこの世に何の不幸もない。」

(『世界文学全集11、モンテーニュ 原二郎訳 筑摩書房)

 私は、心理学でいう”代償行動”あるいは”転移行動”(フロイトの”転移”とは別)として、今の自分の状況について、いろいろと思いを巡らせるのだ。
 晴天の続く日々に、新緑の季節の山歩きができない代わりに、家の周りの新緑の樹々をじっくりと眺めまわすことができる。
 今年はずいぶん咲くのが早かった、あのブンゴウメの花、そこに今はもう小さな緑の実が幾つもついている。(写真上) 
 後は、これからの雨や風にも負けずに元気に育っていって、二か月先にはそれが大きな実となって、枝先いっぱいになっているよう願うばかりであるが。

 さらには、家のツツジもあちこちで咲き始めている。
 ウメに始まった春の花は、ツバキ、サクラそしてシャクナゲへと続き、このツツジたちで最高潮の時を迎えるのだ。
 もっとも、このツツジも、シャクナゲの時に書いたように、花が開いた時はもちろんあでやかできれいなのだが、その前のツボミのころも、それ以上に鑑賞するに値する美しさなのだ。
 下の写真は、10日ほど前の大きな株のツツジのツボミだが、そのびっしりと集まり並んでいる姿は、あの夏の大雪山のお花畑に咲く、エゾノツガザクラの花を思い出せるものだった。




 さらには、同じ時期のころに登った、北海道の雪山の写真を眺めては思い出すのだ。
 これが、私なりにできる、今の”代償行動”なのだろうか。

 当然のことながら、今頃はもうとっくに北海道に戻っていて、残雪の山に登っているころなのだ。
 厳冬期には、その風雪の厳しさももさることながら、それ以上に雪が沈み込み、ラッセルに苦労するので、雪質が固めに安定してくるこの時期になって、ようやく雪山も歩きやすくなってくる。 
 そして、もともと登山道のない日高山脈の山々の多くは、この時期にこそ雪崩(なだれ)を避けて尾根通しに、自分なりにルートを定めて登って行くことができるようになる。
 さらに、いつものような晴天の日を選べば、まさしくそのころは、一年の中で私の最も好きな雪の山歩きが楽しめるからだ。
 10年程前くらいまでは、まだやる気も体力も十分にみなぎっていたし。

 その時に向かったのは、日高山脈南部のオムシャヌプリ(1379m、アイヌ語で双子山の意味)である。
 この山へは、それまでに夏の沢登りで三回ほど登っていたのだが、何としても雪のある時にぜひとも登ってみたいと思っていた。
 そこで、その前の年の同じ時期に、このオムシャヌプリの南にある十勝岳(1457m)へと、その長い雪の西尾根をたどって登って行ったのだが、その時に、この西尾根の真向い側にある、オムシャヌプリ南西尾根をつぶさに観察していて、十分に頂上へとたどっていけることを確認していたのだ。
 しかし、このオムシャヌプリ南西尾根の記録は、ネットや資料にもなく、参考にすべきものがなかったのだが、今までの日高山脈春山の経験から言えば、それほど危険なコースとも思えなかった。

 野塚トンネル日高側にある、湧き水公園の駐車場にクルマを停めて、このオムシャヌプリや十勝岳への沢登りのルートとなる上二股ノ沢を対岸に渡り(まだ雪解け期前で水量は少ない)、林道跡を少したどって左に分かれて、さらに古い荒れた林道跡に入って行き、そこから地図と照らし合わせながら、道のない雪の残る斜面を真上の尾根に向かって登り続けて、ようやく日高特有の細い尾根に出た。
 その辺りでは東西に続く雪の尾根は、所々南側が切れ落ちていて少し気を使ったが、樹林帯の尾根だから手掛かりになる木はあった。
 所々雪にはまるところもあったが、尾根が南西にと曲がる辺りからようやく全面が明るく開けてきた。  
 今までたどってきたこの尾根には、ずっと薄い霧がかかってはいたが、上空には青空が透けて見えていて、心配するほどのことではなかった。
 やがて、その薄い霧が取れて、見事な青空の下、白い頂上とそれに続く雪面が見えていた。(写真下)





 これこれ、これだから雪山はやめられないのだ。
 そして、誰の足あともついていない、その雪面を登って行く。 
 固く締まったところと、柔らかくはまり込むところがあり、雪面の表面を見極めながらストックをついて登って行く。 
 もちろんピッケルは持ってきていたが、使うところはなく、足元は登山靴にアイゼンをつけただけだったが、もぐり込むにしてもそれが一番動きやすかった。
 振り返ると、このオムシャヌプリとを分ける南側の谷の向こうに、薄い霧に見え隠れしながら十勝岳の雄大な山容があり、その後ろには楽古岳(1472m)も見えていた。 
 日差しを受けながら、雪面をたどると、上部では歩きやすくなり、4度目になるオムシャヌプリの頂上だった。
 
 すぐ隣の東側に、その双子山(ふたごやま)の名の通りのもう一つの頂き、オムシャヌプリの東峰がそびえ立っていた。 
 そして、新たに開けた北面には、日高山脈の主稜線が北側に続いていて、これまた二つの頂きが印象的な野塚岳(1353m)が見えていた。(写真下)





 もしその先に続く主稜線に雲がかかっていなければ、ずっと先の十勝幌尻岳(1846m)までが見えるのだが、しかし、こうして雪のオムシャヌプリの頂に立つことができて、周りの雪の山々も眺めることができたのだから、もう十分だと思った。
 
 帰りは、同じ道を自分の足あとをたどって、下りて行ったのだが、何とその森林限界の辺りの雪の尾根に、私の足あとを横切って行くような、生々しいヒグマの足あとがついていたのだ。
 一瞬、鳥肌が立ってしまうほどで、すぐに周りを見回したが、ヒグマの姿はなかった。 
 頂上にいた時間を含めて、2時間足らずの時間の間に、ここをヒグマが横切って南側の谷に下りて行ったということだろう。 
 ただし、足あとはそんなに大きくはなかったから、おそらくは母離れして1,2年目のまだ若いヒグマでそれほど大きくはないだろうから(成獣で2m以上、300㎏超えのヒグマもいるほどだから)、さらには冬眠明けで、ヒグマは自分に体力がないのがわかっているから、人を見れば逃げるのだろうが、それでも、お互いに近距離でばったり遭うというパターンが一番怖いのだ。 
 登る時にも、要所では鈴を鳴らしていたのだが、その後はずっと駐車場に帰り着くまで、鈴を鳴らし続けたことは言うまでもない。
 ・・・と、爽快な雪山の思い出とヒグマの足あとを見て少し怖い思いをしたという、10年前のオムシャヌプリ登山だったのだが。

 それも、こうして足をケガしていてどこにも行けない、私の山への想いの”代償行動”として、昔の山の思い出をデジタル写真で”プレイバック”させたのだけのことなのだが。
 しかし思えば、誰でも自分の思い通りにはいかないことがあり、時には我慢して、あるいはこうした代替物に置き換えて、折り合いをつけているのだろう。

 ただし、その心の葛藤(かっとう)による想いの抑圧が、無意識の反応として夢になって現れるという、あのフロイト心理学を、まだ私は十分に納得できないでいるのだが。
 つまり、自分の欲求が抑えられているとしても、それが無意識の形として、夢の作業により夢となって表出されるばかりだとは思えないからだ。 
 私は、ほとんど毎日のように夢を見ているのだが、そのほとんどは脈絡もないわけのわからない話ばかりなのだが、いやな後味の悪い夢を見ることが多々あるのに、幸せで満足した思いになる夢を見ることなど、十に一もあれば良いほうであり、山の夢でも不安になる場合のほうが多く、実際の登山にあったような爽快な思いになったことなどあまりないからだ。

 実を言えば、生来脳天気な私は、眠っている時に見る夢など、それが自分の深層心理を表しているものなどと、大仰(おおぎょう)に考えたことはないのだ。 
 またしても、あのアランの『定義集』(神谷幹夫訳 岩波文庫)からだが、”夢”についての一節をここにあげることにする。

「夢はちょっとめざめかけでも続いている。それは眠るしあわせ、すなわち休息の貴重な条件である無関心の命令である。 
 したがって、夢の脈絡のなさは、われわれにとって別にどうということでもない。恐ろしい夢でも我々は、それを信じてしまうほど強く打たれない。」


山が笑っている

2018-04-23 21:37:49 | Weblog



 4月23日

 さすがに、今日は一面の曇り空になってしまった。
 しかし、この一週間、何と良い天気が続いたことだろう。
 雲一つない快晴の日が3日間も続き、その前後の少し雲が出ただけの晴れの日を加えれば、併せて5日間も、山歩き日和(びより)の日が続いたのだが。
 毎日、心地よい風が吹き、気温も25度前後のほど良い暖かさだった。  
 前回登ってきたばかりの九重の山に、また行くというのも、それはそれで新緑の風景がさらに広がってはいるのだろうけれども。
 そこで、他の山に行くつもりでいたのだが、所用があって行くことができずに、それでもこの天気だ、家でじっとしているわけにもいかず、いつもの家から歩いて行ける自分だけのハイキング・コースをたどることにした。

 家は山の中の集落にあるから、そこから四方に延びる小道や林道跡などを組み合わせて、時には道のない藪の中をくぐり抜けたりして行けば、歩くコースなどその度ごとにいくつも作ることができる。
 昔は、猟犬を連れた有害獣駆除の鉄砲撃ちの人に出会うこともあったが、今ではそうした狩猟の人たちの高齢化のご他聞にもれず、このあたりでもすっかり見かけなくなっていて、それはそれで安心なのだが、そのぶんシカやイノシシが畑を荒らし回ることになってしまい、ともかく自然の中で周りの動植物たちと、上手に折り合いをつけて生きていくほかはないのだが。

 小さな沢水が流れる谷に降りて行き、見上げると向こうの尾根に続く、鮮やかな新緑の光景に、思わず立ち止まってしまった。(冒頭の写真)
 ”山が笑っている”。
 確か、誰かが書いた山の随筆の中にあった言葉だと思うのだが、それがふと頭の中に浮かんだのだ。
 すべての樹々が芽吹き始めて、春の陽光を浴びて輝いているさまは、まさに春を迎える人の心を映すかのように、山が喜んでいるように見えるのだ。
 谷沿いに茂っているミズキなどの木々の枝には、所々紫のフジの花が垂れ下がり咲いていて、その上の小尾根にはコナラなどの浅い黄色の新緑の葉が青空に映えていた。

 その小尾根を越えて、スギの植林地の中を通り、再び小川の流れる谷に降りて、対岸に渡り、古い林道跡を登って行く。
 振り返ると、ヒノキの植林地の向こうの山の斜面に、コナラやクヌギなどの林があって、それが午後の順光を受けて、ヤマブキ色のべた一色の塗り絵のように見えていた。(写真下)




 あのゴッホの絵のような、精神の緊張をはらんだ黄色と青ではなく、穏やかないつしかまどろみを覚えてくるような光景の中に、まさにドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」のフルートの音色が、遠くから流れてくるような・・・。
 春はいいよなあ、春は・・・。

 そして、山裾のなだらかなカヤトの中の道を上がって行く。
 何度も繰り返して言うことになるが、やはり青空の色は素晴らしいと思うし、そして、この少し汗ばんだ体に吹きつけてくるそよ風も心地よい。
 思えば、この世の中で素晴らしいことは、人それぞれに様々な形としてあるのだろうけれども、私にとっては、今こうして、静かな山の中にひとりでいる時ほど、何も考えず心穏やかになれる時はないのだ。
 日々のにぎやかさの中にいたいと思う人もいれば、静けさの中にいたいという人もいて、またそれぞれにその思いが時には入れ替わることもあって、とかく人の心はままならぬものなのだろうが。

 旧約聖書の「イザヤ書」第30章15節に書かれている言葉を、私なりに最初の所だけを言い換えてあげてみれば、次のようになるのかもしれない。

 ”大自然を統(す)べる神はこう言われた”
「あなたがたは立ち返って、
 落ち着いているならば救われ、
 穏やかにして信頼していれば、力を得る。」

 道も定かではない、古い林道跡をたどり、再びコナラ、クヌギの林の中に入って行く。
 樹々の陰影の向こうに、その先にある新緑の木々が見え、青空の色に縁どられていた。
 私は、その涼しげな林の中で腰を下ろして、しばしの休息をとった。
 遠くで、ホオジロの声が聞こえていた。

 しかし、私が生きているこの世の中には、こうした安定した静寂のひと時があるかと思えば、予期せぬ出来事が起きる時もある。 
 それらの出来事を、私たちは何と呼ぶのか。
 偶然、必然それとも幸運、不運。
 その時に起きた事柄は、ただそれだけのことなのに、受け取る私たちの側にすれば、その時の感じ方次第で、様々な出来事になってしまうのだろう。 
 
 天気の日が続いた日々、私は数日前に、この山麓歩きのハイキングに出かけた他は、家にいて、どうしてもやっておかなければならない家の補修作業をやっていた。
 ベランダ・玄関などの、腐食木材の取り換えやペンキ塗りなどである。
 特にペンキ塗りは、晴れの続くこうした時期にやる事が望ましい。

 屋根に上がって一塗りを終えて、昼近くになったので昼食にしようと、ハシゴに足をかけた、その時、そのハシゴが揺れ動いて、私の体は一瞬宙にあり、その後もんどり打って地面に投げ出され、その私の体の上にハシゴが音を立てて落ちてきた。 
 滑り落ちていくその一瞬前に、私は手掛かりもない軒先に捕まろうと手を伸ばして、その指先が離れていく所までは分かっていた。
 しかし、ハシゴが音を立てて崩れてきて、したたかに私のすねを叩いたのに気づいたのは、私が地面に横になっているのが分かってからのことである。
 つまり、そのほんの一二秒の間のことは一瞬の空白の中にあり、巻き戻された映像のように、自分の状況に気づいてから、記憶としてよみがえってきたように思えたのだ。

 高さ2mほどの所から落ちただけで、下は柔らかい地面だし、頭から落ちたわけでもないから、(実はそんな瞬時のことなのに自分でお尻から落ちようと意識したことは憶えているし)、大きなケガをしたわけではないのだが、すねの全体に内出血のあざができて一部傷口になっていて、今でも腫れあがった脚を冷やしていないと痛いくらいなのだが、まだ病院には行っていない。
 というのも、その日の夕方にはまた屋根に上がって、残りのペンキ塗りをして、その翌日にもさらに腐った柱の取り換えをしたりしたぐらいで、今のうちに仕事をすませておかなければという思いがあったからだ。

 そんなことよりも、今回のハシゴ事故では、私がそのことによって知らされた、いくつかのことのほうが大きな意味を持っていたのだ。  
 毎年のように、お年寄りが庭仕事のハシゴから落ちて命を落としたというニュースを聞くことがあっても、今まではそれを他人事のように思っていたのだが。 
 さらにその時は、たまたまそのハシゴに留め金をかけることを忘れていて、さらには地面の所でハシゴの先が柔らかい地面に沈み込み傾かないようにと、わざわざ板を敷いていたことも重なってのことなのだが。 
 つまり、いくつかの偶然が重なって、必然的な不運な事故が起きたわけであり、もし何事も起きていなければ、それは意識するまでもない当然のこととして看過(かんか)されていたことなのだろうに。

 言葉を変えて言えば、物事の偶然的な運・不運など、その物事が起きた後に個人的な見解として受け止められているものであり、現実として物事は単純に時間とともに推移しているだけのものにすぎないのだ。
 それを、自分たちが勝手に運・不運と呼び、しかし何事も起きていなければ、それはただ通り過ぎていった、日常の中の一コマとしての意味しかないはずのものなのに。
(そういうふうに考えたのは、かつて読んだことのある「偶然性と運命」木田元(岩波新書)を思い出したからでもあるが、もちろんそこでは、言葉の定義づけをしているわけではなく、あのハイデッガーの人間存在と時間の観念をもとに、他者と共にあるという観点からその時間構造を考えるべきであり、そこに”偶然と運命”についての解明の鍵があるとしているのだが。) 

 ということは私たちが、運・不運と呼んでいるものはあくまでも、私たちの個人的見解に過ぎず、自分にとっての不運は他者にとっての幸運にも置き換えられるものでもあり、同じように幸運は不運とも置き換えられるものだということなのだろうか。 
 つまり私は、この小さな事故で、ひとつの教訓を学び取ったわけであり、打ちどころが悪くて死ななかっただけでも、幸運なことだったのだ。
 ”物は考えよう”なのだ。

 さらにもう一つ、私は今回ハシゴから落ちていく、ほんの一二秒の時間の間に、一瞬自分の記憶が飛んでいて、その時の視覚的な映像が残っていないことに気づいたのだ。 
 屋根の軒をつかもうとして手が滑って、後は地面に落ちてからようやく事の事態に気がつくまでの、ほんの瞬時の間でしかなかったのだが。

 そこで思い出したのは、今までもここで何度も取り上げたことのある、あのキューブラー・ロスの『死の瞬間』(中公文書)や立花隆の『臨死体験』(文春文庫)に書かれているような、死の瞬間に至るまでのことについてである。
 もちろん今回の私の小さな事故は、それらの本で取り上げられている幾つかの事例とは比べ物にならない、ほんの些細なことでしかないのだが。

 今までに私は何度か、大きな事故や急病で倒れた人たちの話を聞いたことがあるのだが、彼らのほとんどが言うのは、その前後の記憶が全くないということである。
 ということは、つまりそれらの事例が、本に書かれているように、死の瞬間へ向かう時には、人間の脳内では生体防禦反応が働いていて、その時の死に至る恐怖苦痛を取り除くがごとくに、脳内からホルモンが分泌されているということを証明していることになるのか。 
 私の、ほんの瞬く間の一瞬でしかなかった事故でも、おそらく私の恐怖と苦痛を緩和するべくその短い間だけに見合う、防禦ホルモンが分泌されていたのではないのだろうか。 
 死にゆく人たちが(もちろん死から生還したからこそ語れるのだが)、恐怖と苦痛の彼方に見たという、お花畑のトンネルの先に明るい世界が開けていたというのもわかるような気がするのだが。

 わが家の庭でも、今シャクナゲの花が咲いている。 
 気温の高い日が続いたこともあってか、いつもの年より早く2週間前から花が咲き始めて、次々に花開き、シャクナゲの木全体が満艦飾(まんかんしょく)になるほどの満開になった後、今は散り始めているが、もうしばらく1週間ほどは残り花を楽しめることだろう。
 シャクナゲの花は、あの高山帯に咲くハクサンシャクナゲと同じように、ツボミのころの紅色が何とも鮮やかなのだが、やがて桜色から白い色へと変わって花が開き満開になってゆくのだが、ただその前の、それらの花とツボミが相半ばするころが一番の見ごろだとも言えるだろう。(1週間前の写真下)

 家のベランダから眺められるシャクナゲの花、この花を毎年見ることができるように、生きていたいと思うほどだ。



山、春のきざはし

2018-04-16 22:17:52 | Weblog




 4月16日

 まだまだ冬の名残りのうすら寒さの日もあり、春の盛りの包み込むような暖かさの日もあり、それぞれ繰り返すように日々が続いている。 
 こうして、ほんの少しずつ、季節は進んでいくのだろう。
 数日前、またいつもの九重に行ってきた。

 前日が快晴の天気で、さらに次の日も晴れの予報が出ていた。
 しかし、こうして春や秋に天気が続く場合、次の日に晴れの予報が出ていても、前日までに大気が暖められていて、空気が濁ってかすんでいることが多い。
 ところが今回の場合、最高気温の予測としては、冷たい空気が入ってきて、数度以上も下がるとのことで・・・つまり、それは空気が澄んだ中での春山歩きができるということになるはずだ。

 確かに、今までも書いてきたように、今の時期の九州の山は、霧氷や積雪の冬の時期から、新緑やミヤマキリシマなどの花の時期へと移行してゆく、その端境(はざかい)期にあたり、山には見るべきものが少なくて、積極的に山歩きをしたくなるような季節ではないのだけれども、それでもこの九重の山は、いつでも手軽にあの火山性の疑似(ぎじ)高山帯(擬高山帯とは違う)からなる、見晴らしの良い尾根道歩きが楽しめるのだから、山歩きとしては季節を選ばない山なのかもしれない。

 冬、雪山に登る時に出かけていたころよりは、ずっと早く家を出た。
 クルマに乗って、山の中の道を走って行く。家のヤマザクラの花は、もう数日前にすっかり散ってしまっていたが、この辺りは今が盛りで、それぞれに違う美しさがあり、一本一本写真に撮って行きたいと思ったほどだった。さらに、新緑の芽吹きの木も続いている。
 そうなのだ、出かける前には、どの山に行こうかと少し迷っていたのだ。
 前回書いたように、山麓のヤマザクラをめぐって歩くワンダリング(逍遥、しょうよう)の山もいいなと思ったのだが、この澄み切った朝の空を見て、元来は展望登山派の私として、思いはやはりあの九重の明るい尾根歩きへと向かってしまうのだ。

 7時過ぎには、いつもの牧ノ戸峠の駐車場に着いた。
 クルマは少なく、十数台余り。快晴の空が広がっている。
 冬の間はずっと雪道だった、舗装された遊歩道を登って行く。
 沓掛山前峰に上がると、南にはっきりと阿蘇山が見え、眼下にはまだ枯れ枝色の樹々が広がっていて、その向こうには、なだらかに九重の山々が続いていた。
 樹々の芽吹きはほとんどなく、ただ常緑のアセビの大きな株に小さな花が鈴なりに咲いているのを見るばかりである。
 しかし、低いミヤコザサに覆われた山肌などは、冬場とは違う何か明るい緑が増したような色合いに見える。
 そして、いつものなだらかな縦走路をたどり、行く手に星生山(ほっしょうざん、1762m)の西面が見えてくると、その枯れ枝色の山腹の中に、数はまだ少ないものの、幾つもの新緑の木が点々と見えていた。(冒頭の写真)

 樹々の中で、新緑の芽吹きが早いのは、ヤナギの仲間やカツラ、ミズキ、モミジなどであるが、こうして遠くから見ただけでは何の木かわからないけれども、ともかく冬場に雪に覆われている時は別にしても、あの無粋な灰色の山腹に、今、目にも鮮やかに、春の”きざはし”である萌黄色(もえぎいろ)の新緑が山腹を駆け上ってきているさまは、これこそ山の春が近づいてきていると呼ぶにふさわしい光景なのかもしれない。 
 私は四季を通じて、この九重には何度なく登っているのだが、こうしたほんの小さな春の始まりの光景を見たのは、初めてのような気がする。 
 いつも、特に冬場に集中的に登るものだから、この後のシャクナゲやミヤマキリシマなどの花が咲く時期との、端境(はざかい)期にあたる今の時期には、来たことがなかったということなのだろう。 
 つまり、その山にどれだけ多く登ろうとも、山のすべて知り尽くしているということにはならないのだ。
 山に登れば、いつもその時その時ならではの、自分にとっての新しい発見があるものなのだから。

 縦走路をたどり、西千里浜から主峰の久住山(1787m)が見えてくるが、やはり雪がないと、単純な山の形があるだけで物足りなく感じてしまう。
 もちろん、これからの新緑や初夏のミヤマキリシマのころになると、そして紅葉の時期になればまた、山もその装いを変えて鮮やかに見えるものなのだが。
 とは言っても、少しすじ雲が出ているだけの快晴の空の下、そよ風がやさしく吹きつけていて、暑くもなく寒くもなく、何という素晴らしい山歩きの日なのだろうと思ってしまう。 
 さらに平日ということもあって、人が少なく、その山の静けさの中にいることも心地よかった。 
 今回は、この冬の間、珍しく登ることのなかった中岳(1791m)に、まず行くことにした。
 翡翠(ヒスイ)色に照り映える、御池の湖岸をめぐって半周して、また対岸から眺めてみる。
 ありがたいことに、辺りには人の姿ひとつなく、ただ青空の色を映して、池は静まり返っていた。
 
 思い出すのは、あの加賀の白山(2702m)の、残雪の翠ヶ池(みどりがいけ)の光景だ。(’09.8.2の項参照) 
 この時も、周りに誰もいなかった。
 目の前に、残雪に縁どられた翠ヶ池があり、その向こうに御前峰と剣ヶ峰が並び立ち、上空にはそれまでの雲が取れて青空が広がりはじめていた。 
 そうした絵葉書写真の構図の中に、自分もまた同化して、そこに在ったのだということ・・・。
 あの翠ヶ池の光景は、同じ加賀出身の神秘的耽美派の作家、泉鏡花(いずみきょうか)が書いた『夜叉が池(やしゃがいけ)』の世界へとつながっていく。 
 もっとも、この泉鏡花の小説の舞台は、越前の三国岳(三周ヶ岳)なのだが、最後に池の精が飛び立っていく先は、剣ヶ峰になっていた。

 今はもう、深く取り上げられることもなくなった、日本各地に残る伝説や伝え話しなどを、実証的民俗学の立場から書き残していった柳田国男(『遠野物語』など)と、他方それを文学的に脚色して日本の神秘的世界観を示してくれた泉鏡花、いずれもその行き方こそ違え、今となっては、日本人の本性に迫る貴重なドキュメンタリーであり戯曲であったと思い知るのだが。
 若いころ、少しでも日本の文学に目を向けたことのある人ならば、少数派ではあったとしても、この日本的耽美派の世界に興味を抱き、この泉鏡花の短編小説群、『高野聖(こうやひじり)』『歌行燈(うたあんどん)』などを読みふけった人もいるだろう。
 思い起こせば、『万葉集』に始まった日本人の感情表現の文学作品は、『源氏物語』『平家物語』『方丈記』『徒然草』さらには『古今集』『新古今集』から近松門左衛門や井原西鶴の世界へと流れ続き、明治以降の自我意識の日本近代文学へと連なっていくのだ。
 そして、私たちは今、それらの時代ごとの作品すべてを、興味さえ持てば、いつでも自由に読むことができるし、それによって脈々と流れる、変わらない日本人の心を知ることもできるのだが。 
 はたして、スマホ・ケイタイの短文表現に慣れた若者たちが、この日本文学の伝統をどう受け継いでいってくれるのだろうか・・・。

 話がすっかり横道にそれてしまったが、九重の山歩きに戻ろう。

 さて私は御池のそばを通って、ゆるやかに尾根道をたどり、岩塊帯の上にある中岳の頂上に着いた。
 後で一人が来ただけの、ここも静かな頂上だった。 
 快晴の空の下、周りの九重の山々はもとよりのこと、天気の良い空気の澄んだ日に見える、九州の山のほとんどが見えていた。
 ただ、あの霧島山(1700m)は、脊梁(せきりょう)山地のかなたに、かすかに山影は見えたものの、新燃岳(しんもえだけ)の噴煙を確認することはできなかった。

 それでも、阿蘇山(1592m)に祖母山(1756m)・傾山、坊ヶツルの湿原の彼方には由布岳(1583m)、北に英彦山(ひこさん1200m)、西に遠く雲仙岳(1486m)と申し分なかった。
 何度来ても飽きることのない眺めであり、隣の天狗ヶ城(1780m)とともに、九重の山の中では私の最も好きな頂きである。
 
 30分近くそこで休んだ後、次に天狗ヶ城に向かい、その頂上から真下にある火口湖の御池と稲星山(1774m)、その後ろに祖母・傾山のいつもの眺めを楽しんだ後、下りて行くことにする。(写真下)

 

 その急斜面の下りで、少し足がふらついて滑って尻をついてしまった。
 先ほどの短い登りの時に、呼吸が苦しくなって二度三度と立ち止まったこともあったし、やはり寄る年波には勝てないと、自分の体力を考えないわけにはいかなかった。
 もっとも、それも日々、自分を鍛えるという意識が欠如しているためでもあろうが。
 あの、三浦雄一郎さんを見習えと、日ごろから思ってはいるのだが、たらふく食べた後、部屋で横になってだらだらとテレビを見るという悪癖は、いつまでたっても治らないのだ。
 若いころのスマートだった(ホント)身体に比べると、”牛になる”の例え通りに、今までにステーキ何十枚分かの体重が増えたし、もうこれ以上は、牛の脂肪はつけなくていいのだが・・・。
 とわが身のふがいなさを嘆きながら、急斜面を下りて行き、ふと立ち止まり眼をあげると、頭上には快晴の空にいくつかのすじ雲が走るだけで、硫黄山の噴気から星生山、涌蓋山(わいたやま1500m)、万年山(はねやま1140m)、英彦山と、まだまだ遠くまでを見通すことができた。(写真下)




 ところが、久住分れの鞍部の降りるころから、人々の声が聞こえ始めて、避難小屋のある火口跡の平坦地には、併せて100人近い中高校生たちの姿があり、まるで休み時間の運動場のような賑わいだった。それでも、道の途中で出会ったわけではないからよかったのだ、あの元気な生徒たちの声に一人一人挨拶を返していたらと思うと・・・。
 こうした学校の集団登山について、その是非については議論が分かれるところだろうが、それはともかく、生徒たちがこの天気の中で山に登ることができたのは、良かったと思う。
 さてそこから、星生崎下の鞍部まで登り返し、再び静かな縦走路になって、周りの景色を楽しみながら下って行き、昼過ぎには牧ノ戸の駐車場に戻ってきた。
 往復6時間の、簡単なハイキング山登りだったのだが、年寄りの私には、この帰り道ではそれなりに疲れてしまっていた。 
 だからこそ、こうして定期的に山歩きをすることが必要なのだが、果たして今年の遠征登山は、実行に移せるのだろうか。
 
 あの貝原益軒(かいばらえきけん)が『養生訓(ようじょうくん)』(石川謙校訂 岩波文庫)の中で言っていることなのだが。

「老後は・・・、心静かに、従容(しょうよう)として余日を楽しみ、怒りなく、慾すくなくして、残躯(ざんく)をやしなうべし。老後一日も楽しまずして、空しく過ごすは惜しむべし。老後の一日、千金にあたるべし。」

 最近のテレビ・ニュースの中から二つ。 

「あの東日本大震災で被災した東松島市のお寺の住職は、それに先立つ8年前の地震でも寺の本堂が全壊するという被害を受けていたのだが、周りの檀家(だんか)の支援もあって半年後には再建することができて、そのお礼と被災者支援の意味を込めて仏像を彫り始めて、そうした人々に贈っていたのだが、7年前のあの東日本大震災に再び遭遇して、家族を失った遺族のためにとさらに仏像を彫り続け、今回の3月11日の法要の時に手渡された仏像十数体で、都合1000体を越えたとのことであり、その仏像を受け取った一人の老婦人は、あの人が帰ってきたと涙ぐみながら、亡き夫に見立てたその仏像を撫でさすっていた。」

「2年前の熊本地震で被災したある老婦人は、その倒壊した家で自分も重傷を負いながら、夫を救い出せなかったことを悔やんでいたのだが、ある時、見つけた夫の日記には、毎日の二三行の書き込みの後に、いつも最後には、”今日もすてきな一日だった。”という言葉が書き添えられていたという。」

 


 

 


春は名のみの

2018-04-09 22:34:29 | Weblog




 4月9日

 前回書いたように、2週間もの間、晴天の日が続いた後、言い換えれば、それだけもの雨のない日が続いた後、ようやく雨が降った。 
 大した降水量ではなかったけれども、乾ききった台地には、そして何よりも新芽時を迎えている木々や草花にとっては、まさに恵の雨だったことだろう。
 そんな春の雨を見て、母がよく言っていたものだ、”植物たちが喜んでいる”。
 今にして思えば、長く実家の稲作田んぼ仕事の手伝いをしていた、母だからこその、農家の娘としての言葉だったのだろうが。

 その雨が上がった後、急に風が強くなり、満開になりつつあったわが家のヤマザクラも、少し花びらを散らしたほどだった。
 その、ごうごうと天空の彼方から吹きつけてくる風は、いつしか雪をまじえていた。
 4月に雪が降るのは、珍しいことではないが、それまでずっと20度前後の、春から初夏を思わせる気温が続いていただけに、一瞬まさかと思ったほどだった。
 横から降りつけてくる雪は、それまでの暖かさで草花も樹も温まっていたためか、しばらくは積もることはなかったのだが、夕方から夜にかけてうっすらと積もり始めていた。

 翌日の天気予報は、晴れのお日様マークがついている。
 これでは、いくら週末で人が多くなるとはいえ、もう私の登山の間隔が一月半も空いていることだし、何としても山に行かなければならないと思っていた。
 そこで、翌朝早くネットでライブカメラを見て状況を確かめてみると、あの牧ノ戸峠の駐車場とその前の道路が、まるで冬の時のように白くなっていた。
 私のクルマのタイヤは、もう一か月も前にノーマル・タイヤに付け替えていたし、またこの一日だけのために、自分でスタッドレス・タイヤを付け替えるのも面倒だった。
 そこで、九重に行くのはあきらめて、いつもの地元の山に登ることにした。

 時間に余裕があれば、登山口まで歩いて行くこともできるのだが、年を取った最近では、すっかり横着になってしまって、車に乗って行くことにした。
 駐車できる所にクルマを停めて、歩き出す。
 林の中の、誰の足あともついていない、ゆるやかな道である。(冒頭の写真)
 所々にある樹々の枝先には、そこだけに春の息吹を感じさせるような、小さな新緑が芽吹き始めていた。

 ここで何度も書いているように、私が山に登るのは、稜線から山頂へとめぐり歩き、そしてひと時の安らぎの中で、”神々たちの作りたもう”その広大な展望を楽しむためであり、つまり展望登山派としてのその思いは、若いころから変わってはいないのだが、加えるに、年を取ってきてからは、こうした林の中や山麓での、静かなワンダリング(逍遥、しょうよう)のひと時が、何物にもましてありがたく思えてきたのだ。

 樹々、草花、昆虫、鳥、そして物陰にひそむ獣たち、その数えきれない生き物たちの世界の中で、それらが全体として醸(かも)し出している、今ある静寂・・・。 
 私も、それらの生き物たちの中の一つでしかなく、そして確かに、私もがその世界を作っている一つなのだと。

「私はいま山林にいる。
   生来の離群性はなおりそうもないが、
 生活はかえって解放された。
 ・・・。
 美は天然にみちみちて
 人を養い人をすくう。
 こんなに心平らかな日のあることを
 私はかつて思わなかった。
 ・・・。」

(高村光太郎『典型』より「山林」日本文学全集19 集英社)

 薄暗い、杉の植林地の中を抜け、小さな枯れ沢を渡って、また林の中を登ると、行く手が明るく開けて、カヤトの斜面が見えてきた。 
 天気は予報ほどには良くなく、風が強く、雲が多く、寒くて冬のようだった。
 まさにあの『早春譜』(そうしゅんふ、吉丸一昌作詞、中田章作曲、1913年)にあるように、”春は名のみの風の寒さや”といった感じだった。
 ようやく、咲き始めたばかりのアセビの花の上にも薄く雪が積もっていた。(写真下)



 あまりにも一気に暖かくなりすぎた、春の陽気を思いとどませるように、すべてのものの上に、やんわりと雪が覆いかぶさっていたのだ。
 道の雪は1,2㎝ほど積もっているだけで、私の足あとの下で半ば溶けていた。

 いつしか後ろから声が聞こえてきて、若い女の人二人が私を抜いて行った。 
 もともと、私は平日に山に登ることが多いから、九重や由布岳や英彦山などの有名な山以外では、あまり人に会うこともないのだが、今日は平日であり、その休みの日に、こうして山登りを楽しむ若い人たちがいるということは、将来に向かって、実に心頼もしいことでもあるのだ。 
 一つには、若い人たちが街中での遊びではなく、こうした自然の中での遊びやスポーツに目を向け行動しているということに、もう一つには、近年人があまり登らずに廃道化してしまう山道が増えていることから、そうした山道の保全にもつながるのだから。(最近、登山道の”オーバーユース”使用過多という言葉がよく使われているが、それはあくまでも限定地域内での問題であるように思われるのだが。)

 さて風の強い、稜線に上がってその尾根道をたどって行くのだが、あいにくの空模様で、遠くに見えるはずの九重連山の姿や由布岳もおぼろげにわずかに見えるだけだった。
 もっとも今までにも、晴れている日に何度も見たことのある山々の姿なのだが、展望登山派の私としてはやはり物足りない気持ちになるし、もう一つの楽しみでもあったアセビの花も、咲き始めの上に雪をかぶっていて、あまり見栄えがしなくなっていた。 
 ただ稜線から山腹にかけての斜面の樹々、リョウブやノリウツギなどに薄い霧氷がついていて、さすがに冬の名残を感じさせてくれていた。(写真下)




 帰りは、二年前にササ刈りがされて歩きやすくなったもう一つの道をたどって下りてきた。
 その登山口付近には、一本のヤマザクラの木があって、誰に見られるともなく、満開に近い花を咲かせていた。
 往復3時間余りの、登山というには物足りないが、しかし前回の山麓のハイキングとは違う、確かな山歩きだったし、年寄りの私にはこのくらいが、疲れも筋肉痛も残らないし、ちょうどいいのかもしれない。

 何はともあれ、冬の名残りを感じさせながら、春の息吹も感じさせる、いい山歩きになったのだ。
 そして思うのだが、近年、どうしてこうした簡単な山歩きだけで、ささやかな満足感を得られるようになったのかということだ。
 若いころから、ずっと未知なる山や未知なるルートにあこがれ登り続けてきた私が、それまでにあらかた北アルプス(’12.11.8~19の項参照)や南アルプス(’12.7.31~8.16の項参照)の様々なルートをたどり、そしてここぞとばかりに日高山脈や大雪山に集中して登り、さらにはあの富士山(’12.9.2~9の項参照)で一区切りがついて肩の荷が下りたように感じた後は、これからはもう、無理をしない山歩きだけを楽しもうという思いになっていたからだろう。

 もちろんこの日本だけでも、まだまだ登りたい山がたくさん残っているのだが、例えば、あの富山の毛勝谷の雪渓を詰めて毛勝岳(けかちだけ、2415m)に登ることや、同じく残雪期に越後の駒ヶ岳(2008㎡)から中ノ岳(2085m)へと縦走することなどなど・・・しかし、若いころにはそれほど難しいルートではないと思っていたのに、自分の衰えてきた体力を思えば、今の私にはとうていあきらめざるを得ないレベルにある山に思えてきたのだ。
 
 そこで見つけたのが、山麓をめぐる林の中を逍遥する、四季の山歩き、ワンダリングなのだ。(’15.4.27九重黒岳の項、’16.3.14八甲田の項、’17.11.13鶴見岳の項参照) 
 もともと、岩のルートや沢登りのルートを選んで登っていたのも、頂上での展望を得るための方策の一つであり、クライマーや沢登り屋としての、スリルある技術を駆使して、爽快な楽しみを得るための山登りとして、特化したものではなかったのだ。 
 そして最近、とみに体力が衰えてきたことを自覚するにあたって、ある種の”あきらめ”を覚えるとともに、山の上からの展望に代わって、歩きながら近くにあるものを眺めていく、観察・観望する楽しみを、いつしか覚えてしまったのだ。
 そして今、あの若いころのような”山想い”の気持ちとは異なるかもしれないけれど、形を変えて持ち続けている”山への想い”は、簡単に言えば、失ったものに代わるべきものを見つけたことであり、それは自分の周りで起きるすべての出来事についても言うことのできるのだろうが、”気持ちの持ちよう”であり、その”考え方次第”ということなのだろう。

「しかし、あきらめにも、また、幸福の獲得において果たすべき役割がある。
 その役割は努力が果たす役割に劣らず欠かすことのできないものだ。」

(ラッセル『幸福論』安藤貞雄訳 岩波文庫)


鵺の鳴く夜は

2018-04-02 22:24:53 | Weblog



 
 4月2日

 何と素晴らしい、春の日々だろう。
 8日間、続けて快晴の日が続iいたのだ。
 さすがに昨日は雲が出て、午後からは曇り空になってしまい、今日もまた朝から晴れてはいたが、やがて雲も出てきて快晴というわけにはいかなかったが、もう二三日はこんな穏やかな晴れの日が続くとのことだ。 
 確かに、こうして春と秋の季節には、長々と西から伸びてきた高気圧帯に覆われて、天気の日が続くことが多いのだが、この春ほどに長く晴れの日が続いたことは、私の記憶にはない。

 もちろんこれは、私にすれば、絶好の山日和(やまびより)が続いたことでもあって、喜々として山登りに出かけてもいいところなのだが、この間はずっと家にいて、散歩や長距離ハイキングに行ったぐらいで、山には登らなかったのだ。 
 というのも、今の時期の九州の山は、冬から春の端境期にあたり、あまり見るべきものがなくて、せいぜい山麓から沢沿いの、ヤマザクラやマンサク、ダンコウバイ、クロモジなどの黄色い花を見るくらいでしかないので、山慣れしていて狡猾(こうかつ)な見方しかできない年寄りとしては、どうしても今一つ出かける気にはなれないのだ。

 もし私が本州中央部のように、周りに残雪の山々が幾つもあるような所に住んでいたのなら、ホイホイと喜んで出かけていただろうに。
 しかし、考えてみれば、全国に住む山好きな人たちは誰でも、今いる所からと限られる中で、それぞれに登る山を計画しては工夫しているのだろうし。
 例えば、もし沖縄に住んでいて、山登りが好きになった人はどうしているのだろうか。 

 私が東京の会社を辞めて、田舎に移住しようと考えた時に、候補地として考えたのは、北海道と長野県であり、いずれも山のことを念頭に置いていたからでもある。
 特に、北アルプスの山々に囲まれた、松本を中心とする安曇野(あずみの)の風景には、最後まで北海道との間で迷ってしまい、何度も松本や大町の職安(今でいうハローワーク)に通ったくらいだったのだが。 
 さらにこれは、後になって気がついたことだが、東京は、すぐそばに山があるわけではないから、登山口に着くまでに多少時間はかかるにせよ、どの地域の山に登るにも、様々な交通機関を利用できて、日本の主な山々に登るには最も便利な都市だということだ。

 しかし、結局は北海道を選び、体が元気なまだ若いころに、大雪山と日高山脈の山々に集中して登ることができたのは、自分が選んだ山人生としては最高の選択だったと思う。
 今では、様々な紆余曲折(うよきょくせつ)を経て、こうして九州に戻ってきて、それでも、年寄りにもやさしい九重の山々に心暖かく受け入れてもらっているのだから、何を不満に思うことがあるだろうか。
 たかだか天気が続いたぐらいで、残雪の山に行けたのにと思うのは、命短い年寄りの情けない法界悋気(ほうかいりんき)のなせるわざ・・・何事も分相応に考えて、まずは今ここに生きていること自体に、感謝すべきなのだが。

 庭の、梅の花はもうほとんど散ってしまったが、今を盛りに白いコブシの花が満開になり(冒頭の写真、背景の緑の新芽はニシキギ)、手のひらほどの大ぶりなヤエツバキの花(写真下)も開き始めて、さらには沈丁花(じんちょうげ)の香りが、家の中にまで匂ってくる。



 そして、ヤマザクラのツボミも日ごとにふくらんできていて、今か今かと待ちかねていたが、この連日の暖かさで昨日今日と一気に花開いたのだ。
 いつもの年よりは10日余りも早く、これまた家のヤマザクラの開花日としては、もっとも早い記録になるだろうが、半ば嬉しく半ば心配なような・・・。

 今年の冬の寒さには震え上がりながらも、季節の中ではやはり冬が一番好きだし、雪山の姿こそ自然界の最高の見ものだと、あたりはばからず豪語していた私だが、こうして、体全体を包む陽の暖かさを感じ、次から次に花が咲き新緑が萌え出るころになると、やはり春に勝るものはないという思いになってしまうのだ。
 さらには、あちこちから鳥のさえずりも聞こえてくる。

 その中でも、今は一羽のカシラダカが、家の周りでなわばりの場所を決めるかのように、きれいな声で鳴いている。 
 わが家は山間部の斜面地にある集落地にあり、昔は草原も多かったから、特にホオジロが多くいて、春になるとあちこちから、”源平ツツジー白ツツジ”と聞きなすことのできる、さえずりが聞こえていたものだが、今では草原が手入れされずに放置されていて、いつしか樹木類が増えてきたからでもあるのだろうが、すっかりその数が減ってしまった。
 家の周りで見ることのできるホオジロ類の鳥は、ホオジロや今さえずっているカシラダカの他に、ホオアカやミヤマホオジロがいる。
 全体的に地味な縞模様の鳥が多い、このホオジロ類の中で、見た目の色が目立つのは、北海道で見ることのできるシマアオジ(黒い顔と黄色い腹)と、このミヤマホオジロだろう。 
 冬鳥としてやってくるので今はもういないし、地鳴き意外にそのさえずりの声を聞いたことはないのだが、何といっても、オスの頭から胸にかけての黒と黄色の配色模様が素晴らしい(メスは茶と黄色)。 
 そのミヤマホオジロの学名が、”Emberiza elegans”と名付けられているように、その頭頂部の冠羽を逆立てた姿が、確かにエレガントでナイスなのだ。
(ちなみに、カシラダカも冠羽を逆立てることから、その名前が付けられたと思われるのだが。)

 鳥の話からいえば、古代万葉の時代から、日本の人々は、様々な鳥にことよせて自分の気持ちを託していて、一つずつ挙げていけばきりがないのだが、まずは、ちょうど家の桜が咲いたばかりの今の季節に合わせて、万葉集の中からの一首。

”うぐいすの 木伝う梅の うつろえば 桜の花の 時かたまけぬ” (かたまく=方設く、時が近づく)

(『万葉集』巻第十「春雑歌より花を詠む」1854 伊藤博訳注 角川文庫 以下同様)

 確かに、家の庭でも隣り合って梅の木と桜の木が並んでいて、梅の時期からずっと、鳥たちがやってきているのだが、それはウグイスではなくて、あの鳴き声も体もガサツなヒヨドリなのだ。 
 時には、そのヒヨドリのいない間にと、黄色い体に白いくまどりの眼がかわいい、小さなメジロたちの群れがやってくることもあるのだが、体の大きなヒヨドリを怖れて、すぐに枝先を離れてしまう。

 さらにもう一首、これはまだこれからの季節の話なのだが。

”旅にして 妻恋すらし ほととぎす 神なび山に さ夜ふけて鳴く”(神なび山=神なびて神霊が満ちる山、古代明日香の宮の裏山)

(『万葉集』巻第十「夏雑歌より長歌の後の反歌として」

 確かに、北海道の林の中にある家に住んでいると、夜中に林のふちの方から、このホトトギスの”テッペンカケタカ”という鳴き声が聞こえてきたりして、まだ慣れない最初のころは、何事かと思ったくらいだったのだが、万葉の人々は、こうして夜にひとり寝をしている自分の思いを、恋人を求めて鳴くホトトギスの声に託したのだろう。
 ちなみに、腹が同じボーダー柄で同じような体形をした、このホトトギスとカッコウとツツドリの区別は、見た目だけでは難しく、結局はその声で区別をつけるしかないのだ、カッコーはその名のとおりに、全世界共通語でカッコーと鳴くし、ツツドリもまた野太い声でツツーと鳴いている。 
 当時、このホトトギスは夏の季節を告げる”時鳥”と呼ばれ、カッコーは”呼子鳥”と呼ばれていたが、時にはこの二つを”郭公(かっこう)”と書いて混同して使われたりもしていたという。(『古語辞典』旺文社編)

 それはともかく、多くの鳥たちにとっては、夜中は休息の時であり、敵から身を守るためにも静かにしているものだが、その夜にこそ鳴く鳥たちもいるのだ。 
 その代表的なものは、フクロウの仲間であり、ゴロスケホーホーと鳴くフクロウや、ホーホーと鳴くアオバズクなどは誰もが知っている通りである。 
 他には、北海道の草原のそばで夜でも、”ジッジッジー、ズビヤクズビヤク”と大きな風切り音を立てて急降下するオオジシギには驚かされるし、「どこが夜見えない鳥目なんだよー」と突っ込みを入れたくなるほどだ。 
 他にも、林の中で、”キョッキョッキョ・・・”と鳴き続けるヨタカや、昔の日本映画で横溝正史原作の『悪霊島』(1981年)の宣伝用フレーズで有名になった”鵺(ぬえ)の鳴く夜は恐ろしい”の、”鵺”とはトラツグミのことであり、確かに夜中に、林の中から”ヒヨーヒヨー”と細くひそやかな声が聞こえてくると、不気味な感じがする。

 ここまで書いてきて、思い出したのは、京都の町はずれにある、外国人向けの宿に泊まった時のことだ。 
 前にも何度か書いているように、だいぶん前の東京にいたころのことだが、私にはフランス人の友達がいて、さらには、フランスにいた彼のご両親や妹さんなどのご家族とも、親しくさせてもらうようになっていたのだが、そのご両親が亡くなられてからは、彼ともすっかり疎遠になっているのだが、それはともかく、この話は、フランス人の彼が日本で結婚することになって、家族が皆で日本にやってきて、私が案内して奈良に京都を回った時の話なのだ。
 
 その時は、日本人の花嫁は結婚式の前の準備で来ることができずに、結局、そのフランス人一家に私を入れた5人での、2泊3日の旅だったのだが、京都の宿は、東山の山裾の辺りにあった外国人ツーリスト向けの宿であり、幸いにも予約した時に、一番大きな5人部屋が空いていて、皆で一緒に泊まることができた。
 そして、外で食事した後は、すぐに宿に戻って、皆早めにベッドに入ったのだが、しばらくすると、おやじさんが隣のおかあさんにぼそぼそと話しかけていて、それが息子の彼にも聞こえたらしくて、私に英語で通訳して話してくれた。
「おやじが、あの動物の鳴き声が気になって眠られないと言っているんだ。」
 
 確かに、この宿の周りには一部、水田地帯が残っていて、そこでクイナが鳴いていることは私にもわかってはいたが、むしろ京都にもこんな静かなところがあるのだ、というぐらいにしか思っていなかった。 
 もともと、おやじさんはフランスの田舎育ちなのだが、異郷の地で初めて泊まる宿で、夜中、クイックイックイッ・・・と聞いたこともない生き物の声が聞こえてくれば、”あれは何だ、日本に棲む怪獣の声か”と気になって、さらには昼間見た、寺社仏閣の暗闇に立ち並ぶ仏像たちの無表情な顔を見ていたから、余計に妄想が重なりふくらんで、眠れなくなったのだ。
 私がクイナのことを息子に説明してやり、彼がおやじさんに話してやると、今まで不安そうに眼を見開いていたおやじさんの顔に、小さな笑みが浮かんで、納得したようにうなずき”オワゾ”という言葉が聞こえてきた。

 私はもちろんフランス語は話せないのだが、単語やフレーズのいくつかは知っていたし、それをもとにたまには少しだけ理解できる話もあった。 
 私は当時も、クラッシク音楽ファンであり、それも輸入盤マニアでもあったから、イギリスに”L'OISEAU-LYRE(オワゾリール)”という名前のレコード会社があり、そのロゴ・マークが”オワゾリール(コトドリ)”であることも知っていたから、おやじさんが”オワゾ”と言った時から、私もおやじさんが鳥だと理解していることがわかったのだ。
 私は、おやじさんの顔を思い浮かべながら、ベッドの中でしばらくは笑いを押し殺していた。 
(ちなみに、おやじさんの顔は、あのフランスの昔の名優リノ・ヴァンチュラをやさしくしたような感じだったのだが。)

 そして、その後、このフランス人家族と会うに時は、いつもあの”オワゾ”事件の話になって、大笑いしたものだった。
 その6年後、このおとうさんとおかあさんは、もう一度私に会いたいからと言って、私の住む北海道にまでやってきてくれて、私は、その時は彼の日本人の奥さんと二人をクルマに乗せて、今度は4人で北海道一周のドライヴ旅行をした。
 そして、札幌は千歳空港で、お互いに涙を浮かべながら別れたのが、二人の姿を見た最後だった。

 二人が日本に来た時の、この二つの旅行の思い出と、私がヨーロッパ旅行のついでに、フランスのリヨン郊外の彼らの家を訪ねた時の思い出を併せれば、それは長い話になってしまうのだが、あのご両親と私との間の思い出もまた、お二人がなくなった今では、残る私だけが知っていることであり、私が死んでしまえばそれらのことも消え去っていってしまう。

 そして、やがて今日のような春が来ては、夏になり、明るい秋の後には寒い冬が来て、季節がめぐってゆき、それぞれの人々が生きた世代が代わってゆき、少しずつ更新されていくだけのことだ。
 過ぎゆく時間の中で、何も悔やむべきことはなく、何も惜しむべきこともない。

 年を取るということは、こうして自分の心の中で、楽しく思い出のページをめくってゆくことができるということなのだろうか。