ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

オオバナノエンレイソウと「自助論」

2012-05-24 16:51:55 | Weblog
 

 5月24日

 ミャオのいない九州の家を離れて、北海道に戻って来てから1週間余りになる。
 気温は低めで、毎朝、薪(まき)ストーヴをつけなければならないほどで、部屋の中でもフリースを着ている。Tシャツで過ごせた九州と比べると、ここはやはりまだ春になったばかりの北国なのだ。昨日の朝の気温は6度で、日中に少し雨が降り、やっと10度まで上がっただけの肌寒い一日だった。
 そういえば、私が来るに三日前には、北見方面では雪が降っていたのだ。

 しかし、昨日以外は毎日青空が広がり、さわやかな風が吹き渡り、辺りの風景は見る間に新緑の色が増えてくきた。全く、いい季節だと思う。もっとも朝のうちは霧模様の曇り空で、昼前になってようやく青空が見えてくるという毎日だった。
 そのために、ここではあの話題の金環食ならぬ部分日食さえ見られなかったのだ。
 ただし、日本各地で金環食だと騒いでいた頃、ここでは窓から見る空が曇り空からさらに暗くなり、冷たい空気が流れ込んできて間接的に日食を感じることができた。いつもは深く思うこともない、何という太陽の恵みだろう。

 多くの人が見た天体ショーを見られなかったからといって、嘆くことはない。日ごろから自分にとっての大事なものを見ることができていれば、今さら残念に思う事でもない。
 それに私は、九州から乗った飛行機の窓から、まだ雪に被われた東北の山々(特に飯豊連峰と朝日連峰の広大な山域)を見ることができたし、さらに十勝平野の緑の小麦畑と牧草地、そして土色の畑の鮮やかなパッチワーク模様も間近に見ることができたのだ。そして何より今は、家の周りの新緑の光景が心浮き立つほどに素晴らしいのだ。
 
 私は、半年余りも留守にしていたわが家に戻ってきた。
 辺りは雪解け水と大雨でまだ水溜りが残っていたが、冬の間は北アルプスの小屋のようにきちんと小屋閉めをして打ちつけていたから、なんの変わりもなかった。ただ、家の中は冷気がこもっていて寒く、薪ストーヴで暖めるのに次の日までかかってしまった。
 それでも、家中に散乱する越冬バエやちりほこりなどを掃除してから、外に出た。
 もうすっかり緑一面になっていた庭の芝生の上には、無数のカラマツの枯れ枝が散らばっていたが、それより先に冬囲いの庭木の荒縄を一つ一つはずしていかなければならない。

 次に、自宅周りの広い林の中を歩き回って、冬の間の雪で曲がったり折れたりしている木や枝を片付け、あらたに小さな木の苗を植えつけたりした。
 薪小屋や倉庫などに降り積もったままのカラマツの枯葉をかき落とした後、芝生の庭や小さな畑に散乱する枯れ枝類を片付け、もう目立ち始めてきた雑草の草取りをして芝生の刈り込みをした。

 その合間に、もう時期的には遅いくらいの山菜取りに出かける。アイヌネギ(ギョウジャニンニク)に、ヤチブキ(エゾノリュウキンカ)、タラノメ、ウド、ココミなどであり、家に戻ってからそれらのハカマを取ったりするのも一仕事だが、何より体についたダニを見つけ出しつぶすのに一苦労なのだ。
 
 さらに畑を起こして、家の生ゴミやトイレ落下物などで作った二年物の堆肥を入れ、ストーヴで燃やした薪(まき)の灰を混ぜてうねをつくり、そこにジャガイモや野菜苗を植えていく。ただ、この家を建てた時に痛めた腰は今や持病になっていて、こうした仕事の後では、その痛みでおじいさん姿勢になってしまうのだ。あーこしこしと。



 「・・・昔々、あるところに、可愛がっていたネコに先立たれてひとりきりになってしまったおじいさんがおりました。
 そのおじいさんは、実を言うとその人生そのものが、まるでいい加減な冗談で作られたもののようであり、またその顔も自分の生き方を表すように、すべての部分が冗談めいた作りでできており、周りの村人たちは陰では、あの鬼瓦(おにがわら)じじいがと呼んでいました。
 そんなガンコで風変わりなおじいさんに、唯一つだけ残っていたものは、もの言えぬ生き物たちや草花や樹々に対するやさしい心だけでした。
 というのは、おじいさんは今まで、自分を含めて人々の口から飛び出してくる言葉というものが、いつしか予期しない怪物に変わり、多くの人の心を傷つけ悲しませる様を見てきていたので、そんな人間の言葉そのものに愛想が尽きていたからでした。

 だからこそ、もの言えぬ生き物や草花たちには、心おきなく話しかけることができたのです。
 おじいさんは、林に囲まれた粗末な家にひとりで住んでいました。しかし、そこにいて寂しいとは思いませんでした。なぜなら、周りにはいつも、人間以外の生き物や草花や樹々の気配に満ち溢れており、おじいさんが話しかければ、いつも誰かが返事をしてくれたからです。

 すべての生き物や草花たちにと言っても、中にはおじいさんの苦手なものもありました。一つはヘビでした。それはあのルナールの『博物誌』にも書いてあるように、”長すぎる”し、いつもぬめっているからでした。
 同じように長すぎる地下茎を伸ばして、どこにでも入り込もうとする、あのやっかいな外来種のセイタカアワダチソウなども好きにはなれませんでした。
 一方では、もちろんおじいさんのごひいきの者たちもいました。それは、今の季節で言えば、家の窓からも眺めることのできる、林の中のオオバナノエンレイソウの花たちでした。

 おじいさんが林を切り開いてこの地に住み着いた時には、わずかに二輪ほどだったのですが、今ではもう十八輪もの群れになって花を咲かせているのです。
 おじいさんがその花を好きなのは、まだ枯葉色が目立つ辺りの地面とは対照的な緑の葉と、そのすがすがしい白い花(実はがくだそうですが)にかすかな甘い香りなど、その立ち姿を含めた全部だそうですが、特にあのササの茂る中でもたった一本だけ咲いている姿を見ると、思わず周りのササを刈ってしまいたくなるとも言っていました・・・。」



 このオオバナノエンレイソウは、北海道では珍しい花ではなく、春になって明るい林の下草として群落をなしているのをよく見かけるのだ。
 家の周りでは、エゾヤマザクラの花が散り始め、代わりにスモモの白い花が咲き始め、林の中ではミズキの花もいっぱいに咲いている。
 小さな芝生の庭には、チューリップが咲きそろい、シバザクラの小さな花も開いてきた。辺りの樹々も新緑の勢いそのままに茂り始めてきた。今は、春の盛りなのだ。
 
 私は、しばしミャオのことを忘れ、母のことを忘れ、日々の仕事に追われて毎日疲れ果て、すぐに眠りについた。夜9時半ころに寝れば、明るくなる4時半には目が覚めてしまう。毎日やるべきことは、前の夜、寝る時に頭の中に思い浮かべてみる。
 こうして、こともなく規則正しく日々は過ぎていくのだ。何事もない決まりきったつまらない毎日ではなく、何事もない決まりきった心穏やかな毎日なのだ。
 
 ミャオのことを、少しずつ、ほんの少しずつ考えなくなり、私の中から哀しみの思いが少しずつ引いていきつつある。
 望むらくは、それは、私がここに戻ってきた時にまだあった、あの雪解けの水溜りの水が少しずつ引いていったように、いつしかその跡が残っているだけになっていてほしい。
 
 いなくなったミャオや母のことを、すぐに何もかもすべて忘れてしまえというのではない、死んだ時のつらく悲しい思いを忘れるべきなのだ。
 取り返せないものをいくら悔やんだ所で何になるだろう。在りし日の姿をいくら思い浮かべて、自分の愛の真実を振り返ってみたところで何になるだろう。
 ミャオも母も死んだのであり、自分は今生きているのだ。あの時のつらい思いは、忘れることだ。
 そして、死んだミャオや母に対しても、嘆き悲しみ弱り果てた自分の姿を見せるよりは、強く生きていこうとしている自分を見せることの方が、きっと二人とも喜ぶはずなのだ。
 
 ”天は自ら助くる者を助く”とスマイルズが『自助論』の冒頭で語っているように(4月22日の項参照)、自分を弱らせダメにしてしまうのも、自分の悲観的な考え方によるものだし、そうではなく自分を自ら鼓舞(こぶ)して強く生きていくのも、すべては自分の考え方次第なのだ。
 
 昨日は曇り空で、雨も降って肌寒く、一日中、薪ストーヴを燃やしていたが、今日はまた晴れて、気温も一気に20度くらいにまで上がった。山に行きたかったが、日高山脈の稜線には少し雲がかかっていた。
 大きな空にさわやかな風が吹きぬけ、雲が流れていった。私はここにいる、まずはそれだけで十分なことなのだ。

スダジイ(シイノキ)と「幸福になる義務」

2012-05-13 17:38:48 | Weblog
 

 5月13日

 ミャオがいなくなって、10日になる。そして皮肉にも、それから毎日、晴れの日が続いている。
 あれほどミャオが待ち望んでいた日差しは、あの草むらにもさんさんと降り注いでいる。
 さわやかな風が吹きわたってくる。揺れる若葉の向こうに澄んだ水色の空が広がり、ひとはけの薄い雲が流れていく。
 
 ミャオがいなくなって、私は、夜中にミャオの鳴く声で起こされずにすむようになった。
 夜の間、ベランダのドアを薄目に開けておかずにすむようになった。
 
 ミャがもらしたしっこのしみ込んだ座布団やコタツ布団を洗わなくてもすむようになった。
 ミャオが雨の中出て行って戻ってきた時、その体をふいてやらなくてもいいようになった。
 私が仕事をしている途中でも、すぐに止めて散歩に出かけなくてもいいようになった。
 
 水とミルクを毎日、取り換えなくてすむようになった。
 夕方前に、魚をくれとうるさく鳴いて催促されなくてすむようになった。
 ミャオが食べ散らかした魚の後片付けをしなくていいようになった。
 ミャオに時々、他の食べ物をやらなくてもいいようになった。
 私は、邪魔されずにひとりでゆっくり食事をとれるようになった。
 風呂から上がった後、たらいに水を入れておかなくてすむようになった。
 ミャオが夜遅くまで起きている時の相手をしなくていいようになった。

 スーパーに行って、まず一番に生魚売り場に行かなくていいようになった。
 買い物に行って帰る時間を気にしなくていいようになった。
 好きな時に山に行けるようになった。
 私は寂しい自由になった。

 この一週間、私はよく眠ることができなかった。
 真夜中、悪夢にうなされて叫び声をあげて起きたことがあった。

 毎日が静かだった。
 もうミャオのことを気にかける必要はなかった。

 しかし、今、ミャオの面倒を見てやり、世話をしてやりたいと思った。
 ミャオの体をなでたかった。 
 私の顔を見て、ニャーと鳴いてほしかった。

 ミャオは、もういないのだ。


 一昨日、久しぶりに山に行ってきた。それは、わずか1時間余りで頂上まで上がれる近くの山で、登山とは言えないほどの山歩きだった。
 前回はもう3カ月も前のことで(2月26日の項)、余りにも間があいていて、バテずに歩けるか心配したくらいなのだが、幸いにも時間や距離が短いこともあって、ほとんど疲れることもなく、新緑の山を楽しむことができた。

 しかし、山を下りてきて、時間がまだ早いこともあって、前から気になっていた離れた所にある里山の方に行ってみた。
 それは、遠くの町まで買い物に行く時の途中の山間部にあって、その緑の山の一部が、まるで盛り上がり湧き立つような黄緑の新緑に被われていたからだ。
 私は、この時期にはいつも北海道にいて、知らなかったのだ。しかし同じような色合いを見た覚えはあった。それは空港に向かう高速道路から見た光景だった。他の新緑とは明らかに違う鮮やかさ、それが照葉樹系のブナ科の木だろうことは分かるのだが、遠くから見るだけでは詳しく分からず、何の木だろうかと思っていた。
 
 クルマを停めた田舎道の向こうから、地下足袋をはいて手に鎌を持ったおじいさんが歩いてきた。尋ねると、あれはシイノキやナラノキだという。そして近くで見たければ、自分の家の裏の夏ミカン畑の奥まで上がればよく見えるからと教えてくれた。
 行ってみると、そのスダジイ(シイノキ)のふくらみ盛り上がる枝先が良く見えたのだが、それは新緑の若葉とともに、花の穂が開いていて、満開の状態で、あの黄緑が盛り上がりうねるように見えるのだと分かった。
 ただし初めて見た時からもう2週間近くたっていて、花穂もだいぶん落ちてしまい、あのころの萌えあがる色合いは失われつつあったが、それでも十分に見ものだった。(写真)

 ミャオが亡くなってから、少なくとも初七日を迎えるまではと思っていたのだが、いつもとは違う遅い季節までここに居ることになって、それによってミャオが私に教えてくれたのは、生命力にあふれるスダジイ(シイノキ)の新緑だったのだ。


 「そしてとりわけ、わたしに明らかだと思われるのは、幸福になろうと欲しないならば、幸福になることは不可能だということである。それゆえ、自分の幸福を欲し、それをつくらなければならない。」

(アラン『幸福論』”幸福になる義務” 白井健三郎訳 集英社文庫より)

 

 



飼い主よりミャオへ(154)

2012-05-07 17:59:34 | Weblog
 

 5月7日

 親しき友ミャオよ、
 私は、亡きミャオにこの手紙を書く。
 死んだ者へ手紙を書くのは、私もこれが初めてだ。
 明日の朝、町の郵便屋がこの手紙を、
 天国にいるオマエに届けるだろう。
 ミャオよ一声鳴いておくれ、私をこれ以上泣かせないために。
 ミャオよ傍に来て言っておくれ、
 私は皆が思うほどにふさぎ込んではいないと。
 ミャオよ、今すぐに家のドアを前足で開けておくれ。
 そして部屋にいる私に鳴きかけておくれ、
 なぜそんなに嘆き悲しんでいるのかと。

 幸福はここにある。
 いつものストーヴの前に座るがいい。
 喉が渇いてはいないか。
 ここに冷たい水とミルクがある。
 私の老いた母が台所の方からやってきて、
 おやミャオかいと言うだろう。
 するとオマエは体をすり寄せてきて鳴くのだ。

 私はオマエを連れて夕方の散歩に出る。
 いつもの山道だ。
 ふたりでゆるやかに続く草はらの道を上って行く。
 私はオマエに話しかける。
 オマエは私を見上げてニャーと鳴き返す。
 夏の終わりのうす暗くなってきた小道には、
 マツヨイグサの花があやしく明るく咲いている。

 ミャオの死は何も変えなかった。
 オマエが愛した草むらの陰、
 オマエがそこに生き、苦しみ、鳴いていたその陰には、
 オマエはもういないけれども、
 思い出がなくなることはなかった。
 オマエがいた心安らかなひと時は、
 美しい春の夕べに、私の前を通り過ぎていった。
 ミャオはすべての花や木々を育てた神さまのもとで、
 今私が見上げるこの夕暮れの中から生まれてきたのだ。

 私はオマエの死は惜しまない。
 オマエの命は今もそこにある。
 シャクナゲの花をゆする風が死なないように、
 そして数年後になって、
 枯れたと思っていたシャクナゲの枝先に、
 また花が咲くように、
 オマエと共に過ごした日々の思い出がよみがえってくるだろう。

 私はミャオを思う。
 小さな家のベランダに寝ていたあの日のように、
 今日もまた暮れていく。
 私はミャオを思う。
 私は山を思い、谷を思う。
 私はミャオが先になって下りて行ったあの谷間のことを思う。
 そこではお互いに鳴きかわしながら歩いたものだ。

 私はオマエの仲間だった他のノラネコたちのことを思う。
 私はオマエの母さんネコを思う。
 私はどこまでも続く北国の草原で、
 いつかくる死ぬ日を待ちながら、
 ひたすら草を食べていた牛たちのことを思う。
 私はミャオを思う。
 私は天国の広さを思う。
 私は果てしない水を思う。
 私は燃え盛る火の明るさを思う。
 私は咲き始めたツツジの葉に光る露を思う。
 私はミャオを思う。
 私は私を思う。
 私は神を思う。

 (『ジャム詩集』堀口大学訳 新潮文庫より ”桜草の喪”「哀歌第一 アルベール・サマンへ」に基づく)


 今年の3月初めのころからミャオの食事の量が少し減り始め、半ばころからはほとんどエサを口にしなくなった。
 それまでは、倒れかかっていた木に登るほど元気だったのに(3月18日の項)。
 そして、動物病院に連れて行き入院させた(3月25日の項)のだが、1週間後には退院させ連れ帰ってきた。その辺りの事情は3月31日の項に詳しく書いている。
 その後、4月8日、15日、22日、29日と、弱りゆくミャオについてさらに書いてきた。そしてそれ以降・・・。

 4月30日 夜半からの風雨は朝には収まるが、雨は降り続いていた。ミャオはふらつく足どりで玄関まで行き、私がドアを開けてやると、その場に座りこんで外を見ていた。
 夕方前には雨も小降りになり、ミャオは外に出た。途中で三度ほども休んで、ようやくいつもの草むらに着きそこに座り込んだ。しかし細かな雨粒でミャオの体は濡れていた。私はミャオを抱えて家に戻った。
 ミャオはもう水も飲めなくなっていて、口を開けずに鼻でかすかに鳴いていた。スポーツドリンクを薄めたものを、スポイドで口から入れてやった。

 5月1日 夜明け前に、私はトイレに起き、ついでにベランダのドアを開けて外の空模様を見てみたが、今日も雨模様だった。
 もうひと眠りして、6時ころに起きた。しかし、いつものコタツの中にミャオがいない。外は霧雨が降り続いている。
 探しに行くと、例の草むらに座っていた。私が呼ぶと鼻で鳴いた。
 あのふらつく足取りで、私がきちんと締めていなかったベランダのドアを開け、高さ1m以上もあるベランダからの丸太梯子(はしご)を下りて行ったのだ。
 ミャオの目は大きく見開いたまま動かず、ただ姿勢を変えるために二度三度と動いただけで、霧雨に濡れた体のままうずくまっていた。死ぬ覚悟なのだろうか。
 ミャオとの16年にわたる思い出が頭を駆けめぐった。さらに母の臨終の時のことが思い出された。私はあふれる涙のまま、嗚咽しながらミャオの名前を呼んだ。
 ミャオはしかし、恐らくはもう見えないだろう目で私の方に顔を向け、私の声のする方へと近づいてきた。私はミャオを抱え上げ、家に連れ帰った。
 その後も、二度三度と玄関から外に出ようとしたが、降り続く霧雨にあきらめて戻ろうとして、私はそれを見て部屋に戻してやった。
 今日もミャオにマッサージとブラッシングをしてやったが、まだその心地よさは感じているようだった。

 5月2日 今日も霧雨模様の一日だった。朝、ミャオの寝ているコタツ布団が濡れていた。まだミャオのしっこが出ている。それは命の証しなのだ。
 ミャオは今日も、ふらつく足取りで数歩歩いては休み、さらに数歩と歩いて玄関口まで行き、私が開けてやったドアのそばで、外の雨音を聞いてしばらく座り込んでいた。あきらめて戻ろうとした時に、私は駆け寄って、軽くなったミャオの体を抱いて部屋に戻してやった。そんなことが二度三度。
 午後、買い物のためにクルマで近くの小さなスーパーまで買い物に行き、40分ほどで戻ってきた。しかし、またミャオの姿が見えない。この霧雨の中、どこに行ったのか。開けたままにしておいたベランダから、下に降りたに違いない。やっと歩けるだけの体なのに。
 外に出て探すと、庭の植え込みの傍にいた。あのいつもの草むらの所までは行けなかったのだ。私が呼びかけると、鼻声で小さく鳴いた。体を触ると、霧雨に濡れていた。ミャオはそこに座りこんでいた。
 またしても、涙が溢れてきた。私は、泣きながら家に戻り、傘を持ってきてミャオの体の上にかけてやった。ここで死ぬ気なのだろうか。私は、時々呼びかけながらしばらく見守っていた。
 すると、ミャオは何度目かの呼びかけにこたえて私の方へ向かってきた。抱え上げて家の中に入れて体をふいてやった。
 さらにミャオは、夕方には、今まで水を飲んでいた風呂場の方へと行って、そこでマットの上に少しシッコをしたようだった。部屋に戻してやり、いつものマッサージとブラッシングをして、薄めたスポーツドリンクを数滴口の中に入れてやった。

 5月3日 何という天気だろう。今日もまだ霧雨が降り続いている。できることなら、ミャオの行きたがっているあの日当たりのよい草むらに連れて行ってやりたいのに。
 朝起きて部屋に行くと、ミャオはコタツの外に出て横になっていた。いつものように朝食の支度をしてから、ミャオのそばに腰を下ろした。
 ミャオ、おはよう。反応がない。体が動いていない。さわると温かみはまだ少し残っていたが、目に光はなく、口元が少し開いていた。ミャオは死んだのだ。

 夜明け前にトイレに起きて、また少し寝た時に、ミャオが一声鳴いたのを聞いたような気がしたのだが、あの時息を引き取ったのかもしれない。
 もう涙は出なかった。私の目の前にいるのは、もうミャオではなかったのだ。
 箱を持ってきて、そこにミャオの体を入れ、今庭に咲いているシャクナゲの花を取ってきて、ミャオの体の周りに敷き詰めた。
 庭の片隅に、深さ50cmほどの穴を掘り、そこにミャオの入っている箱を入れた。土をかぶせて小さな塚にして、そこに大きな石を置いた。母の仏壇の花の幾つかと、今庭に咲いているサクラソウの花を、その墓の前に供えて手を合わせた。
 ずっと続いていた雨模様の空から、少しだけ日が差してきた。

 それから今日まで、まさに五月晴れのさわやかな天気の日が続いている。せめてそのうちの一日だけでも、死の床についていたミャオのためにあってくれたら・・・。
 私は、相変わらずに重たい気持ちのまま日を送っている。何か仕事をしていれば、気持もまぎれるのだが、ボーッとしているとなおさらのこと、ミャオのいない空白感に押しつぶされそうになる。何もないものの重み・・・。

 できることなら、犬や猫は二匹以上で飼いたいものだ。それだけ手間はかかるだろうが、どちらが先に死んでも、片方が残る限り悲しみは幾らかはやわらげられるだろう。なによりも今は、生きている他の子たちのことを考えなければいけないからだ。一匹だけを飼えば、その子だけに愛情を注げるだろうが、失った時の衝撃はそれだけ大きくなる。

 人間とて同じことだ。家族が多ければ、それだけ、自分の思い通りにはならないことが多いかもしれない。しかし、そのぶんいざという時には助けてもらえるし、家族の一人に先立たれた時にも、その悲しみを残りの皆で慰め合うことができるからだ。
 ひとりでいれば、自分の思い通りにやれるかもしれないが、何かが起きても誰も助けてはくれないし、悲しみもいつもすべて自分だけで受け止めなければならない。
 世の中は、いつもどこにいても、良いことと悪いことが相半ばするものなのだ。雨の日ばかりではなく、晴れる日もある。幸運だけでなく不運なこともある。
 しかしまずその前に、今、自分がこの美しい地上の世界に生きていること、その奇跡的な幸運を喜ぶべきなのだ。

 昨日、NHKスペシャルで「ガレキの町の少女」というドキュメンタリー番組が放送された。今度の大震災津波で母を失い、家を失い、父とふたりで生きる小学6年生の女の子の1年間の記録であった。
 時に触れては涙ぐむ父親と、カメラの前では涙を見せない娘。恐らく、彼女は父親以上に母がいなくなったことに衝撃を受けているはずであり、もしかしたら、布団の中でひとり涙しているのかもしれない。
 彼女が母の死の話に触れないのは、子供の生の本能なのだ。周りにどんなことがあろうとも、生きていこうとする強い思い。それは、恐らくは他の災害孤児たちも同じはずだ。若い生命力ほど、理屈抜きに生きていこうとする本能的な思いが強いからだ。

 私は、子供のころ、生活の苦しさから母が一緒に死のうと言ったことを、そしていやだと言ってその橋の上から逃げ出したことを、今でもはっきりと覚えている。
 ミャオが、あれほどまでして、いつもの草むらに行きたがったのは、陽のあたる静かな草はらで自分の病を治したかったからなのだ。ミャオは、最後まで生きることをあきらめてはいなかったのだ・・・。
 
 しかしこれでもう、ミャオとの思い出を語れるのは私だけになってしまった。その前に同じように、母との場合も母の死によって、二人の間の思い出は、ただ私が知っているだけになったのだ。
 つまり、相手が死ぬことは、残された者にとって、双方向の意思疎通がもうできないことであり、それは当たり前のことだが、自分だけの思い出になってしまうことなのだ。

 母が亡くなり、ミャオも逝(い)ってしまい、私だけが残されたのだ。
 
(写真上は、16年前にミャオが家に住みついたころで、恐らく1歳ぐらいだろう。写真下は、ミャオの墓。)


(御挨拶: このブログの、ミャオの独白(どくはく)である『ワタシはネコである』はもとより『飼い主からミャオへ』も、今回をもって終了せざるを得なくなりましたが、もともと自分の備忘録ということで書きはじめたブログですから、大げさに考えずに、これからもこの『ミャオの家から』のタイトルのまま、折に触れて「心にうつりゆく由(よし)なしごとを、そこはかとなく書きつけて」(『徒然草』より)いきたいとは思っています。
 ただし、もう今後は、ネコの話は出てこないことになるので、むさくるしいジジイの話だけでは興味もないでしょうから、どうぞ一覧から削除してください。
 ただ今まで、この私の拙(つたな)いネコ・ブログに、毎週、目を通してきて下さった二百数十名ほどの皆様方には、ミャオともども厚く御礼を申し上げます。皆様方の見えない目の数々があったからこそ、ここまで書き続けてこられたのかもしれません。)