ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

蜘蛛の糸

2022-10-18 20:49:51 | Weblog



 10月18日

 緑の固い葉の根元に、びっしりと黄金色の小さな花をつけ、かぐわしい香りを辺りに漂わせていた、あの晩夏の花キンモクセイ(写真上)の季節は、ある日突然、いっせいに花々が落下して終わりを迎えて、元の常緑樹の株に戻ってしまった。
 そんな夏の暑さの続く日々から、初秋の風が吹き抜ける時期になって、さらには木々の紅葉が始まり、身をすくめる肌寒さに、思わずストーヴの火をつけることになる。・・・こうして、すっかり秋になってしまった。
 ただじっとりと蒸し暑いだけの、夏の日々と比べれば、この秋の気配を感じるころは、実にさわやかで居心地がよく、毎年、楽しみに待ち望んでいる季節なのだ。
 しかし一方では、冬の寒さを畏れながらも、すぐ近くまで来ている、白い雪の世界にも憧れるのだが・・・。


 さて、この夏の終わりに2回目の手術を受けて、さらにその後の経過観察のために併せて、8日間入院していた。
 1年前の、全身麻酔下での悪性腫瘍除去手術と比べれば、今回は局所麻酔下での手術であり、三分の一ほどの時間ですんで、体の負担感も少なく、余裕をもって入院生活を愉しむことができた。
 看護師(婦)さんたちにもよくしていただいて、相変わらずお互いにマスク姿ではあるが、多くが去年も担当してくれた人たちであり、心おきなく話しかけることができた。
 さらに日ごろ家にいる時は、スーパーでまとめ買いをして、同じようなカツどん弁当にお惣菜弁当ばかり食べていたから、この病院での三食の食事は楽しみでもあった。毎食ごとに数種類のおかずがついてきて、正直に言えば、お金を払ってでも、1か月以上は病院に居たかったくらいだ。

 つまりこれは、若い看護婦さんたちの介護付きで・・・天国へ行く前の、本当に年寄りにやさしい介護施設なのかも知れないと思った。
 そして、最後は全身麻酔をかけられて、そのまま病院で死んでいけば、様々な手間も省けて、迷惑をかけるのも最小限ですむのだから・・・死が近づいたら、昔の映画のタイトルではないが、”だれか、私を病院につれてって”といいたいところだ・・・。
 スイスには、国から認められた、そうした安楽死を迎えさせてくれる病院施設があるそうだが・・・日本ではまだむづかしい生命倫理規定の議論中であり、私の願いはかなえられそうにもないが。
 言っておくが、これは私のような人生を十分に味わった年寄りの、終末を迎える時の願望であって、最近、事件性が問題になっている、若い人の自殺願望とは全く別の話である。

 一言で言えば、その若さでもったいないと思う。せっかく神様が、100年近い人生を味わうべくこの世に送り出してくれたのに、自分の人生が何かも知らぬまま、ただ一時的な思い込みから、目の前のすべてを”Paint Black”に、塗りつぶしてしまう・・・繰り返し言うが、もったいない・・・若き日の失敗や過ちは、後で思えば、長い人生の中での一瞬の句読点に過ぎず、若き日の成功や勝利もまた、一瞬の打ち上げ花火の残像のように残るだけものなのだ。
 黒いペンキに取りつかれている若者たちよ、目を覚まして空を見上げ、彼方に続く青空を見よ!

 さて、今回の8日間の入院でも、前回と同じように数冊の本を持っていった。
    去年と同じように、まずは日本の古典から、いつもの『万葉集』の2分冊を(和歌は短い一行で完結するから、寝落ちに読むには最適だ)、そしてこれも読み直し中の『徒然草(つれづれぐさ)』を。
 他には息抜きのために、雑誌付録の「日本アルプス・コースガイド」を。さらに現代の本からは、アメリカの詩人であり、自然保護活動家のゲーリー・スナイダーの書いた『野生の実践』(山と渓谷社)を、これは10年ほど前に買って少し読んでいただけのものである。
 今回読み直してみて、最初の方には体験集としてのフィールドワークの話が多く、あのフランスの哲学者、レヴィ=ストロースが書いた『悲しき熱帯』や『野生の思考』に初めて接した時と同じように、私の乏しい知識と読解力ではとてもついていけず、同じように中断した理由もそこにある。
 今回は、病院の個室という恵まれた環境の中で、何とか読み進み、中ほど辺りから面白くなってきて、終盤のインディアン口承伝説である”クマと結婚した娘”の話の辺りから、その昔アイヌの神話を読んだ時と同じような気持ちになって、引き込まれていった。
 それは”自然への畏敬の念”である。

  彼はこの本の中で次のように言っている。
 ”危機に瀕しているのは、ほかならぬ人間自身である。それは精神と魂の次元の話なのだ。”
 ”自然界にはそれ自体の価値がある。自然の生態系の状態こそ、人間の第一の関心事でなければならない。”

 人間であればだれでも、自分の周りの自然界にある、すべてのものに好奇心を持つのだろうが、私もそんな一人として、ヒグマやエゾシカなどの大型動物から、鳥類、昆虫、植物に至るまで、初心者ゆえの好奇心を抱き続けてている。
 前回写真を載せたように、家のベランダでしばらく舞っていた中型のチョウについて、断定できずにいたのだが、実は翌日ネットの写真集で調べてすぐに見つけたのだ。
 なんとそれは、ウラギンシジミという普通にどこでもいるチョウだった。
 もちろん私も何度も見ているけれども、それは翅(はね)を閉じた裏側の銀色を見せている時ばかりで、あの時にも少し見えた鮮やかな橙色紋様を、翅を広げた状態で見たことはなかったのだ。
 さらにシジミチョウの仲間は、あの大雪山で何度か見たことのあるカラフトルリシジミのように、小型のチョウだと思っていたから、中型で胴の太いセセリチョウと間違えたのも、初心者としては当然かもしれない。
 つまり、ウラギンシジミは、それだけで独立した科に属していて、厳密な意味では、シジミチョウの仲間ではないことを初めて知ったのだ、年寄りになっても勉強です。

 そして昆虫つながりで、もう一つ”蜘蛛の糸”の話である。
 それは教訓的な短編小説として有名な、あの芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のことではない、家の屋根からキンモクセイの植え込みにかけて張られた大きなクモの巣のことである。(写真下)



 それは長さ数センチにも及ぶ大きなクモで、もう一か月以上もそこに居ついている。
 ただし、辺りはもう枯葉の時期で、そのクモの巣にいくつかの枯葉が引っ掛かっていて、罠としては気づかれやすいのではないのかと思うのだが、彼はじっと居続けている。
 写真は、細かい霧雨が降った後に写したクモの巣で、小さな真珠を集めて作った首飾りのようにキラキラと輝いていて、そこでも彼は、中央上よりの定位置でじっとしている。
 何時間かたって見てみると、水滴は消え、まだ彼は同じ位置でじっとしていた。
 小さな昆虫がかかるまで、ただじっと待つこと、それが、彼の生きていく道なのだ。

 私たちも、何かを待っていることが多い。
 しかし、いつも待ちきれずに、自分から余分に動いてしまうのだ。

 NHKの大河歴史ドラマ、「鎌倉殿の13人」(十三人と書かなかったことにも意味があるのだろうが)は、ドラマはあまり見ない私が、久しぶりに楽しみに見ている大河ドラマである。
 何よりも鎌倉時代という背景が興味深いし、あの三大和歌集の一つ『新古今和歌集』の時代であり、後鳥羽上皇や源実朝(さねとも)、藤原定家(ていか、さだいえ)などが実在者として登場する。(併せて西行法師や兼好法師なども、少しだけでもいいから登場させてほしかったが。)
 それにしても、源氏三代と北条一族、さらに彼らと御家人たちとの関係を、史実を大きくは外れずに描いていて、心理表現としてのそれぞれの役者たちの、鬼気迫る演技が素晴らしい。
 つまり舞台は鎌倉時代なのに、現代の役者が、現代の演技で、変わらぬ人間の心理状態を暴いていくという、シェークスピアにも通じる、優れた舞台心理劇になっているのだ。
 現代を代表する脚本家の一人である、三谷幸喜の書くこの物語に、私は『羅生門』『七人の侍』『蜘蛛巣城』などの作品で有名な黒澤明からの、日本映画の伝統の影を感じないわけにはいかないのだが・・・。

 そして、先日のいつもの「ブラタモリ」では、今回の舞台が対馬であり、「鎌倉殿の13人」のすぐ後の時代になる元寇(げんこう)にまつわる遺跡などもあって、さらに地学地質番組として、堆積岩の見事な地層なども見せてくれていた。
 いつもの「ポツンと一軒家」も、毎回見ていても同じようで違うし、それぞれの違った人生が、そこにあることを教えてくれていて面白い。

 生きるということは、様々なことを知る機会があるということだし、それらのことで別の新たな世界を識るということにもなるのだろう。
 私の眼と耳と鼻と口と手足が、これらの今あるものを伝え続けてくれている限り・・・のことではあるが。
 生きていて、ありがとさーん。 

 


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