ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

静観の生活

2022-12-31 17:27:30 | Weblog



 12月31日

 時は駆け脚で通り過ぎてゆくのに、年寄りの歩みは何と遅いことか。
 前回の記事は、二か月遅れだったのに、せめて残りの記事は、何とか今年中に書いてしまわなければと思い、大晦日の忙しい中、とりあえず短くまとめてみた。

 秋に、二週間ほど北海道に行ってきたが、そのことについては、前回書いた通りである。
 今回はそれ以外のこと、つまりいつも楽しみにしている、飛行機からの眺めについて始めよう。
 ただしコロナ禍の影響もあって、乗機率は60%前後で、すいていることはいいことだが、これではと飛行機会社の経営が気になってしまう。(減便の心配があるからだ。)

 ともかくにも、行きも帰りも天気の良い日を選ぶことができて、いつものように、窓辺に張り付いて下界を見下ろしていた。
 行きには、富士山の初雪からの新雪は消えていて、土くれあらわな山の姿になっていたのだが、帰りの便では、再び雪が5合目以上に降り積もっていて、富士山らしい姿になっていた。
 上の写真には、富士吉田口5合目と、そこから分れる頂上へと続くジグザグの登山道、さらに反対側に続く御中道が見え、その下の方にはカラマツ林の黄葉などが広がっている。

 一年ぶりということもあってか、九州から北海道までの日本列島を、上空からじっくりと眺めることができたのだが、そこで気づいたのは、まだ大きな変化とは言えないのかもしれないが、太陽光発電のソーラーパネル大軍団の広がりと、さらに風力発電の巨大な風車の林立である。
 思えば20年ほど前ごろから、次第に日本中の山野のいたるところで、山林がペーズリー模様に切り開かれて、ゴルフ場が作られてきたのだが、今回はそれに続く、新たな国土開削事業になるのだろうか。

 もちろん地球規模の気候変動を止めるためにも、これ以上の化石燃料使用をやめ、太陽、風、地熱、潮力などによる、自然エネルギーの開発が急務であることは、誰にでもわかっていることではあるが。
 そういうことなのだから、ソーラ―パネルも風車も、あるべき方向に進んでいるわけであり、問題となるところは何もないはずである。
 しかし、私は下界のソーラーパネルや風車を眺めながら、思わず顔をそむけたくなった。
 青い海、緑の島影に、大量に並ぶプラスティック・パネル、そして白い風車の列。
 それは、あるべき自然の景観ではないからだ。
 もし、地球上に生まれそこで育ったわれわれ人間に、自然景観を眺め安らぐ権利があるとすれば、これは明らかにその景観の破壊にあたるのではないのだろうか。

 東京都が推し進める個人住宅へのソーラーパネル設置義務化は、温暖化対策の一つのステップになるだろうし、それはあくまでも都市内部の変化であり、まだ理解できるとしても、自然が多く残された地方での、開発拡充計画は、もっと自然環境保全と併せて、慎重に考えていかなければならないと思うのだが・・・一度壊された自然が元に戻るには、どれほどの歳月が必要なのだろうか。
 地球上に住んでいるのは、人間だけではないはずだ。動物も魚も虫も花も樹も・・・。

 と思いながら、私は、ジェット燃料を使う飛行機に乗り、軽油を使うバスに乗り、ガソリンで走るタクシーに乗り継いで家に戻って来たのだ。
 ああ、何と罪深い人間であることか・・・。

 10月の終わりに、北海道を離れる時は、家のカラマツの黄葉が始まったころで、林の中のモミジ、カエデは紅葉の盛りを迎えようとしていた。(写真下)




 帰ってきた九州では、九重などの高い山々の紅葉が盛りの時を迎えていて、山間部にあるわが家周辺での紅葉はその後だったが、12月の初めころまで、樹々の色どりを楽しむことができた。
 しかし、今に至るまで、私はスニーカーでのハイキングには出かけても、登山靴での登山をしていない。
 九重には、もう四季を通じてさんざん登って来たから十分だという思いもあるし。
 もちろん登っていない山は九州にもたくさんあるけれど、遠く離れていても意にも介せずに、未知なる山を求めて登っていた若いころと比べれば、今は、家の周囲を歩き回るだけで、そのありふれた里山の風景だけで、事足りるように思えてきたからだ。

 私が山好きであるのは、死ぬまで変わらないだろうが、もうこれからは、飛行機で見下ろす以外は、下から眺める山ということになるのかもしれない。
 それは、今の私が、体に抱えている病気の転移を恐れるあまりに、無常観に取りつかれたからだというわけではなくて、「方丈記」の鴨長明や「徒然草」の兼好法師のような先達(せんだつ)たちの思いのように、孤独の中にあっても、そこに静寂を旨とする喜びを見つけようとする、年寄りの生き方に、大きくうなずくことができたからである。
 前にも何度も書いてきたが、それは”慣れること”なのだ。

 21世紀の現代社会で覇権主義による侵略戦争が起きていて、世界中の誰も停めることができないという、前近代的人間社会の情けなさ・・・虐殺や破壊の続く街で、真冬の寒さの中、電気や水道もなく、生きていく人々・・・新聞に載っていたウクライナの人々へのインタビュー記事に・・・ロウソクの灯でささやかな料理を作っていた婦人が答えていた・・・「慣れるしかありません。私たちは生き延びていきます。」

 さてこの年の瀬に、なかなかに見ごたえのある番組がめじろ押しにあって、一本ずつ詳しく取り上げることはできないが、まずは、ドラマ仕立てが気になるにしても、演じる役者の熱気に思わず見入ってしまったあの「鎌倉殿の13人」(NHK12月18日)をはじめとして、さらに昨日から今日にかけて長時間にわたる放送「ドキュメント72時間」(NHK12月30日、それぞれに今を生きている自分の世界があるのだと、毎回強く感じさせられる番組作り)。山番組は「白銀の大縦走」(NHK12月30日、宗谷岬からえりも岬まで積雪期の大雪・日高山脈を含む単独大縦走)。バドミントン小椋久美子による「黒部源流紀行」と「石狩川源流紀行」(BSテレ東12月28日、懐かしき山なみ)。「大谷翔平が自ら語る」(再放送NHK12月31日、偉大なる孤高への挑戦)。「世界ふれあい街歩き」(再放送NHK12月31日、戦禍に会う前の美しく平和なキーウの街並み)。
 その他にも、思わず感心する番組が幾つもあったのだが、現代のスマホ世代とは異なり、いまだに固定電話世代の私としては、若い人が見向きもしない新聞とテレビだけが、今日を生き延びていく糧にもなっているのであります。

 ・・・(若き日の)あの疾駆(しっく)と狂奔(きょうほん)から逃れて、すなはち「静観の生活」に到達したことが、どんなにすばらしく価値のあることであるか・・・。

(「人は成熟するにつれて若くなる」ヘルマン・ヘッセ ミヒェルス編 岡田朝雄訳 草思社文庫)


 何とか今年一年、また生き延びさせてもらえて、ありがとさーん。

 


北の国に帰る

2022-12-14 21:25:00 | Weblog



12月13日

 何と一月半もの間、このブログに新しい記事を書かないままに、放っておいたことになる。
 最長不倒距離の記録が書き替えられたのだと、はやし立てている場合ではない。
 ただただ、自分の不徳の致すところなのだから。
 病院に入院していた時でさえ、これほど間を空けたことがなかったのに。
 まさに、ぐうたら、怠惰(たいだ)、怠慢(たいまん)、怠廃(たいはい)の極みであり、申し開きすらできない私の無責任さの証左でもあるのだが。

 と、いくら自分自身をそしり責めたところで、元来がムチで叩かれることを喜ぶ、悪霊に取りつかれたマゾじじいの気があるゆえに、なおさらのことで、カイコの繭(まゆ)ごもりのごとくに、自分を守る糸を吐いては、生来の出不精も重なり、相変わらずに閉じこもるだけの、毎日が続いていただけのことでして。

 しかし、本人が元気でいて、それで静かに穏やかに暮らしているのだから、このままでよいと申しておりますれば、この怠けぐせをご理解いただいたところで、一件落着として幕引きさせていただきたく、お願い申し上げ奉(たてまつ)りそうろう。チャンチャン。

 さて、まずはこの一か月半のことを簡略化して、書いていくことにする。
 まずは、前回の記事のすぐ後から2週間ほど、北海道は十勝の”ポツンと一軒家”である、わが家に戻っていたのだが・・・レンタカーで、帰って来てみると、ぼーぜん!あぜん!前田大然!(まえだだいぜん、W杯スペイン戦でワントップのフォワードとして敵陣深く入りキーパーにまでプレスをかけていた。)
 なんと辺り一面、背丈より高く草が生い茂り、クルマも入って行けないほどの、原野状態になっていた。
 そのクルマが入る道の草刈りだけでも、二日もかかった次第。
 つまり、今回の一年ぶりの帰宅は、家の掃除と補修のためだったのだが、相変わらず井戸が干上がっていて、水は隣の(といっても数百メートル離れた)農家からもらってポリタンクに入れて運んで、何とか洗い物用にしてしのぎ、雨が降った時には、軒先にバケツを並べて用水に利用した。

 トイレは、家の前の辺り一面が、スコップ地堀式の”野ぐそ“用フィールドになっていて、周りの草むらの虫に注意して尻を出し、はい、シュート!
 しかし、こんな原始的なトイレで毎日はイヤになるから、通っていた公共浴場のウォシュレットでしたかったのだが、”たぬきのためグソ”と同じで、場所が変わると緊張して出なくなる、意外と繊細な神経の持ち主のタイプで。全くなんのこっちゃ!

 まずは家本体は、丸太組みだから心配はないのだけれど、何度か地震があったようで備品が倒れているし、電気をつけていないカビだらけの冷蔵庫の中も、くまなく掃除して、期限切れの食品も整理処分しなければならない。なにしろ、一年も不在にしたのだから。
 家の中も、ヘビのヌケガラが垂れ下がり、越冬バエが入り込んでいて、その数おそらく千匹近く、掃除機で吸い取るには限りがあり、仕方なく殺虫スプレーで一網打尽(いちもうだじん)にして、一日何回も掃除機をかけて何とか片づける。
 外に出ては倉庫などの小屋の補修をして、さらに屋根にたまった枯葉などをかき落とす。
 ブレーカーは落として通電していないから、電気代は基本料だけで安くていいとしても、固定電話の方は月額が高いから外してもらった。
 などなどと片づけをしていると、あっという間に日々は過ぎていく。
 
 しかし、その合間合間に見える日高山脈の山々に、その朝夕の姿に、いつも見入ってしまう。
 冒頭の写真は、南に遠く離れた楽古岳(らっこだけ、1472m)の夕景の姿であり、あの”北の国からの”主題歌が聞こえてきそうな眺めではある。
 そして、このころはちょうど日高山脈の山々が、雪に覆われる時期であり、朝のモルゲンロート(朝焼け)に染まり輝く姿も素晴らしい。
 下の写真は、左に1823m峰、右に1903m峰を従えたカムイエクウチカウシ山(1979m)の雄姿である。これだから北海道はやめられないのだ。


 ・・・とここまでを、10日ほど前に書いていたのだが、W杯日本戦などに気をとられ、その他の小さな用事や仕事も重なって、またもや大休止がさらに続くことになってしまったのだ。
 ただただ、ぐうたら、怠惰(たいだ)の極みとも言うべき情けなさである。
 ”怠惰はメンタルヘルスの問題というよりかは習慣に問題がある”(Wikipediaより)とのことであり、まさにその通りであって、返す言葉もない。

 というわけで、とりあえず、残りの北海道滞在について書いておこう。
 トイレは外で穴掘り式、水はポリタンクにもらい水でけちけち使い、家の五右衛門風呂にも入れずに、全く快適な生活は送れないのだが、それでも家の周りの自然の景観は素晴らしい、と今さらながらに思うのだ。
 しかし、そのカラマツ林の手入れもしなければならない。
 倒木や傾いた木など数本は、チェーンソーで切り倒して、家の補修部材や薪用にするべく切り分けていく。
 そして振り仰ぐと、このカラマツ林の中で大きく育ってきたモミジ、カエデの樹々が、青空を背景に、貼り絵のように鮮やかに照り映えている。(写真下)
 生きていて良かったと思う、ひと時の眺めだ。



 遠くに見える山々や、目の前に見える樹々・・・こうして自分の五感を働かせて感じ取り、味わい楽しむこと。それこそが、今ここに生きている、という幸福感につながるのだろう。
 私は、東京にいた時から、いつかは田舎に住んで、もっと多くの色々な山に登りたいと思っていた。
 それを実現させるために、いくつもの大きな決断をして、一人で実行してきた。
 確かにすべてを一人で背負い込めば、それだけ労苦も多くなるし、失敗しても誰かのせいだと転嫁はできない。
 失敗は、あくまでも自分の力が及ばなかったからである。
 しかし、成功した暁には、独力でやり終えた満足感に満たされることになる。
 それこそがまさに、私の独りで山に登るという、登山スタイルそのものの姿でもあるのだ。

 山中を一歩一歩と登って行くごとに、少しづつ変わっていく景色があり、そのおごそかな大自然の中に包み込まれていくような感覚になる。
 そして、私は今ここにいるのだと実感することで、自分の生きている時間を、より意味のあるものとして味わうことができるようになるのだ。
 つまりそれは、山という自然の中にいて、登山という、緊張と疲労感の行動の繰り返しによって、ある種のぼうぜんとした、小さな恍惚感(エクスタシー)を感じていたからのことなのだが。(クライマーズ・ハイとでも言うべきか。)

 思い出せば、これまで晴れた日を選んで登り続けてきた、日本の山々にありがとうと言いたい。まだまだ登り残した山々がたくさんあるけれども・・・。
 思い起こせば、若き日に見た、ヨーロッパ・アルプスの山々にもありがとうと言いたい。それらの山々をめぐる、10日間のトレッキングの山歩きの間、奇跡的にも毎日晴れた日が続いてくれたこと。(ヒマラヤには行けなかったけれど、まあテレビ画像でも十分だからと負け惜しみ。)

 しかし今、私はいつ転移再発するかもしれない病を、体の中に抱えている。
 それで、3か月や半年に一度、詳しい検査を受けなけねばならないが、本当のところ、あまり私は病状を気にはしていない。
 最悪の場合には、痛みだけをおさえるべく処置してもらうだけでいいと思っている。延命手術も治療もごめんだ。
 そしてただ、黙々と下を見て歩む一匹の羊のように・・・私の逝くべき道を、たどって行くだけのことだ。

 誰でも、幸せ半分、不幸せ半分の人生なのだから、後はそれをどう判断するかだ、それが幸運だったのか不運だったのかと。
 私はいい人生だったと、自分に言い聞かせることにしている。その思い込みだけで、幕引きの時が近づいている自分の人生を、幸福な思い出でいっぱいにできるからだ。

 今回の北海道は、わずか2週間の滞在だったが、何人かの友達や知人たちとも会うことができて、うれしかった。
 やはり、友達とは元気な顔を見て話しをするのが一番だ。互いの間に、1年という空白の期間があったとは思えないほどで。
 ただ彼らの身の回りでも、確実に新型コロナの感染が広がっていて、あの人もあの人もという感じで名前が上がってくる。もちろんやがては、このコロナも風邪の一種類に数えられるようになって、収まってはいくのだろうが、今はまだ道半ばで、一足早く冬が来る、北海道での蔓延(まんえん)ぶりを目の当たりにした感じだった。

 私は、北海道に行く前に、オミクロン対応のワクチン注射をすませてはいたが、飛行機の中、空港ターミナルでは気をつけて、なるべく後の人の少ない所に座るようにしていた。
 私のような持病もちの年寄りは、なおさらのこと、重症化したら致死率は高くなるし、覚悟して旅行しなければならないということだ。(もっとも、機内外ともまだ人は少なかったが。)
 ともあれこういう時は、”君子危うきに近寄らず”と言うのが、もっともな警句になるのだろうが。

 それにつけても思うのは、ローマ時代の哲学者セネカ(BC4~AD65)の言葉である。

 ”人は皆、あたかも死すべきものであるかのようにすべてを恐れ、あたかも不死のものであるかのようにすべてを望む。”(「生の短さについて」セネカ 大西英文訳 岩波文庫)

 長くなったので今回はここまでだが、まだまだ2か月分、書くべきことはいろいろとある。年内には残りのことを書いてしまわないと、年をまたいでしまう。これ以上、怠惰の罪は重ねられない。