ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(70)

2008-12-30 18:48:34 | Weblog
12月30日
 今日は風が強く、寒くなってきた。夕方には、怪しげな空模様になり、天気予報では、今日の夜から雪が降り、三日ほどは雪模様の日が続くとのことだ。
 気温が10度を超えたこの二日間は、確かに暖かすぎたのだ。しかし、その天気の良い日のおかげで、ワタシは飼い主と一緒に散歩に行き、その後も居残って、刺激ある外での野生の行動を楽しむことができたのだ。
 天気の悪い時や、雪が降って寒い時などは、一日中家にいて、飼い主から、寝てばっかりいてと言われるけれども、ワタシもぐうたらでそうしているわけではない。
 半ノラネコ出身のワタシとすれば、食事と寝るときは、もちろん飼い主の傍にいれば安心なのだけれど、天気が悪くて外に出られず、ずっと家の中にいると、野生の何かがワタシに呼びかけてくるのだ。
 かぐわしい風の匂い、土の香り、木や草の匂い、そこにつけられた他の動物たちの臭いをかぎ、そして離れた所で動き回る何かを見つめ、さらにすべての物音に耳をすませる・・・。
 それは、狩りをすることと、危険を察知することの、相反した二つのことを同時に行わなければならない、緊張のひと時であり、喜びのひと時でもあるのだ。
 何度も言うけれど、やさしい飼い主のもとで、毎日のエサと安全な寝る所があれば、後は、時々外に出て、それらの緊張のひと時を楽しむ・・・そんな、ひとりのネコの生活を、ワタシは悪くはないと、いや、なかなか良いものだと思っているのだ。

 「思えば、このミャオのためのブログを書き始めて、もう一年になる。
 去年の12月28日に、恐る恐る初めての記事を書き送って、最初はミャオの身の上話のつもりだったものが、いつしかミャオだけでなく、むしろ私の身辺雑記にまで話が広がリ、今では私自身が何かを考える場にさえなってしまった。
 ブログを書き始めたきっかけになったのは、高齢になってはいたが、それまで元気にしていた母を、突然に亡くしたからである。それはひとりで受けとめるには、余りにも大きな喪失感だった。
 しかし、家族との別れは誰にでもあることであり、むしろその後に、少しずつ少しずつ、故人から離れて、いかに自分の道へと戻るかが大切なことなのだ。どのみち、ひとりで歩いていかなければならないのだから。
 そのための方向性を、このブログを書くことによって、さらに、もうひとりの家族である、ミャオと一緒にいることによって、私はいろいろと教えられたのだ。
 時という偉大な作家が書いた、私の物語の中で・・・。(あのチャップリンが、映画『ライムライト』の中で言っていた。・・・The Time is a great author ,always writes perfect ending.・・・時は、偉大な作家なのだ。いつも、見事な結末を書いてくれる。)
 
 前回からすっかり、辛気臭い話になってしまった。年の瀬だからというわけでもないのだが、少し弱い心になりかけていた私の心を、奮い立たせようと、文章にしてみただけのこと、つまり自らにかける呪文のようなものだ。
 そんな思いでいたところ、昨日の朝早い時間に、NHKテレビで、今年106歳で亡くなった、あの永平寺の元貫首の宮崎奕保(えきほ)禅師の話を放映していた。何年か前に『NHKスペシャル』で見た時以上に、今回は、私の心に響いてきたのだ。

『・・・私は毎日、日記をつけているが、同じ時期になると花が咲き、また虫が鳴く。真理を黙って実行するのが自然、自然は人にほめられてもほめられなくても、時が来たら花を咲かせ、終われば黙って去っていく。・・・いつ死んでもいいと思うのが悟りだと思っていたけれども、それは間違いだった。平気で生きている時は、平気で生きて、死ぬる時は、死んだらいい。・・・』
 
 それは、『方丈記』の鴨長明や、『徒然草』の兼好法師にみられるような、中世的な無常観と、道元を祖とする曹洞宗(そうとうしゅう)、ひいては禅宗の教えがあいまって作り上げた、日本的な穏やかな諦観(ていかん)とでも呼ぶべき生き方であり、宮崎禅師の心情の吐露でもある。
 私は、最近になってようやく、あの良寛に関する本を読み終え、さらに遡って一休の本を読み始めて、先には、あの難解を極める『正法眼蔵随聞記(しょうほうがんぞうずいもんき)』の道元のもとへと、何時かはたどり着きたいと思っていただけに、その流れの続きにあり、現代に生きていた宮崎禅師の言葉は、ひときわ感慨を新たにするものだった。
 この時の映像は、禅師104歳の時のもので、さらに学ぼうとし続けるその意欲には、ただただ感嘆するばかりだ。
 私がこれから、ほんの少しの本を読んだだけでは、彼らの意図する真髄にまでは、もとより、その足元にさえ及び着くことはできないだろうが、日本人であることの、いや人間であることの、一つの生き方を、知ることはできるかもしれない。
 そのために、読むべき本が、学ぶべきことがいかに多いことか、日本だけではない、古来より伝わる中国の思想、ギリシアに始まり、その後、キリスト教文明を根底に据えて、大きく成長してきた西洋の哲学・思想についても、私は、ほんの少しの表面を、見知っているだけだ・・・。
 私はまだ、果てしない大海に泳ぎだしたばかりだが、それも、こんなに年を取ってから、それでも、何も知らないでいたよりは、先達者たちの、知という大きな海を垣間見ることができただけでも、幸せというべきだろう。
 とても、ぐだぐだと落ち込んでばかりはいられないのだ。やるぞ、これからは、しっかりと勉強しよう。
 ・・・と、中年オヤジが自分で自分を励ましている姿なんか、あまり人様に見せられたもんじゃないが、まあ、だからこんな人の少ない、山の中に住んでいるのだとも言えるし。われながら、まったく、なんのこっちゃ。2008年はこうして暮れていくのでした・・・。」

 
 

ワタシはネコである(69)

2008-12-27 17:07:21 | Weblog
12月27日
 このところ、朝は-5度くらいと冷え込み、日中も4度位までしか上がらない、風の冷たい寒い日が続いていた。
 それでも、毎日晴れていて、昼頃には日差しも温かくなるので、飼い主を促しては散歩に出かけていた。しかし、飼い主は途中で帰ってしまい、ワタシはひとりで、あたりをうろつきまわったりして、日が陰るころになって家に帰った。
 しかし戻ってみると、飼い主はいない。心配しながら、辛抱強く待っていると、クルマの音がして、ようやく飼い主が帰ってくる。手には何か荷物を持って、いつものように、ワタシにオーヨシヨシと声をかけて、家のドアを開ける。
 ワタシはニャーニャーと鳴いて、いつもの生のコアジを催促する。飼い主がどこへ行っていたのか、荷物の中身は何かなどは、どうでも良いことだ。
 そして、サカナを食べれば、ワタシはそれで満足して、後は暖かいストーヴのそばで寝るだけだ。そうして一日が過ぎていく。

「繰り返すように毎日が過ぎていく。しかしそれで良い。何事もなく過ぎていく時こそが、私にはありがたいからだ。
 毎日、私とミャオのためにやらなければならない適度な仕事があり、考え学ぶべき幾つかの日課があり、運動のための時間があれば、それで十分だ。
 私にとって過分なことは、何も望まないし求めない。そうすれば、不満なこともなくなる。そのためには、周りに何もない、この静かな暮らしこそがふさわしい。
 町の中、集団の中で暮らし、他人と比べるからこそ、自分の弱さが浮き彫りになり、不安になり、不満が募る。ひとりっきりになってしまえば、比べるものもない。ただその中で生きていくだけのことだ。
 生きるために生きる(ミャオのように)、それだけで良いのだ。思えば何年も前のことだが、私は、自分がもう若くはないのだと気づいた時から、初めて生きることについて、まともに考えるようになったのだ。
 それから続けてきた、この私の生き方は、そのような恵まれた環境にあるからできる暮らし方だ、と言われるかもしれないが、そのような問いかけが、すでに問いかける側の不満に基づくものだから、聞き流しておけば良い。
 誰にでも同じような、艱難辛苦(かんなんしんく)の時代があったはず。誰にでも同じような小さな幸せの時代があったはず。ただ後は、自分の気持ちの持ち方次第なのだろう。

 こんなことを考えたのは、つい二日前に、ある元タレントの女性の孤独死のニュースを、テレビで見たからだ。それでこの私も、一人暮らしである以上は、どうしても、いつかは訪れる日に向うために、あるいは残りの日々を生きるために、自分自身に、言い聞かせておかなければならないと思ったからだ。
 誰しも、心弱い一人だけの生きものであるからこそ、誰かに助けてもらい、あるいは自らを励まさなければならない。
 つまり、このミャオとの静かな暮らしをありがたいと思う心は、決して間違ってはいない、と信じることこそが自分の生き方なのだ。
 そんな考え方は、まぎれもなく不安げな年寄りたちのためのものであり、若い人には、面白くもない話だろうが、しかし、それはいつか、彼らも通る道になるはずだ。
 『つまだつ(つま先立ちする)者は立たず、またがる(大股で歩く)者は行かず、・・・』という老子の言葉に、うなづく私は、まさしく老いたる子どもになったのかもしれない。
 
 というわけでもあり、クリスマスには家から出ることもなく、24日には、バッサーニ(1657~1716)の『クリスマス前夜の祈り』を聴き、25日には、バッハ(1685~1750)の『クリスマス・オラトリオ』を聴いただけである。一年に一度聴くだけの曲だが、やはりキリスト生誕を祝うための、良い音楽だと納得する。
 
 このところ、ミャオの写真を撮らずに申し訳ないが、冒頭の写真は、前回(12月22日)にふれた『猫にまた旅』カレンダー2008の2月のページである。(このかわいいネコちゃんについては、2月5日の項を参照。)
 2009年版の『猫にまた旅』カレンダーは、これまた毎年のごとくに、素晴らしい。特に、表紙の写真の見事さ・・・さすがに岩合さんの写真だなあと思う。」
 

ワタシはネコである(68)

2008-12-22 16:52:12 | Weblog
12月22日
 昨日から、雨模様の天気が続いている。今日の雨は、夕方には雪になるだろうとの予報だが、昼には、もう気温はマイナスになって、雪がちらつき始めた。
 それまでは、気温も高く、暖かい日が続いたので、ワタシは飼い主と一緒に、毎日、午前中には散歩に出かけたものだ。
 飼い主は途中で帰ってしまい、ワタシはひとりで、日当たりの良い所で日向ぼっこをしたり、他の動物たちの物音に耳をすませたりして、半日を過ごした。
 日が陰ってくる夕方前には、家に帰り、オーヨシヨシという飼い主に迎えられて、待望のサカナをもらい、後はぬくぬくとストーヴの前で寝るだけだ。
 昨日、今日と天気が悪く、外に出るのはトイレの時だけで、他はやることもなく、ただひたすらに寝ている。ストーヴの前で、コタツの中で、時には飼い主の布団の中にもぐりこんで、寝ているのだ。
 ワタシも年寄りネコだから、夢をよく見るようになった。今まで生きてきた分だけ、たくさんの思い出がある。イヤな辛いことも、楽しく嬉しかった思い出も、いろいろとあるのだ。
 そういえば一週間ほど前のこと、今日のように天気の悪い日で、ワタシはいつものように、ストーヴの前で寝ていた。
 なにやら玄関の方で、飼い主と誰かが話している声が聞こえていた。しばらくすると、飼い主が部屋に入ってきて、ワタシを抱えあげ、玄関にいた知らない人の前に連れて行った。
 その人は、嬉しそうな声をあげて、ワタシに呼びかけてきた。「あら、まあ、ショコラちゃん、元気だったの」。体を触られそうになって、ワタシは飼い主の腕の中で暴れて、下に飛び降りて、脱兎の如く、一目散に部屋へと走り戻った。
 ワタシは生来のノラの気性から、激しく人見知りするし、飼い主からでさえ、抱かれるのはイヤなのだ。
 しばらくして、飼い主が玄関のドアを閉めて、部屋に戻ってきた。まだ少し興奮していて、目を大きく見開いているワタシに、飼い主は笑いながら話しかけた。
 「馬鹿だなあ、ミャオは。あの人は、オマエの最初の飼い主のおばさんだぞ。憶えていないのか。オマエが子ネコの時に、他の大勢の猫と一緒に暮らしていただろう、あの酒飲みおばさんが、オマエたちの親子の面倒を見てくれていたんだぞ。
 おばさんは、こちらに用事があって、ついでにオマエたちがいるかどうかと、立ち寄ってみたとのことだ。10年ぶりだとは言っていたが、オマエは、憶えていないのか」。(ミャオの生い立ちについては、このブログの第1回の去年の12月28日から1月9日の項を参照)
 そんなことを言われても、そんな昔の、子ネコのころのことなんか、よくは憶えていないのだ。ワタシたちネコ族は、学習するべき習慣的な毎日のことは、よく覚えているけれども、どうでもよい毎日の出来事なんかは、いちいち覚えてはいないのだ。
 あの映画『カサブランカ』の中で、ハンフリー・ボガートが色女から、「夕べはどこにいたの?」と恨むように言われて、返した言葉。「そんな昔のことなんか覚えていないね」。さらに、「今夜は会ってくれる?」と言われると、「そんな先のことなんかわからない」と。
 そんな名セリフがあったのだと、飼い主が気取って、ワタシに話してくれたが、まあ、ワタシはカッコを付ける人間たちとは違って、正直に、日常生活にはたいして役に立たないことなどは、いちいち憶えていないということなのだ。
 それにしても、ショコラと呼ばれた時は、驚いた。一体、誰のことかと思った。母さんが、「シャムしゃん」と呼ばれていたのは知っていたが、まさかこのワタシが、ショコラだなんて・・・じっと、鏡を見るが、ニャーオ、ニャオ、ニャオ。
 
 「すっかり年の瀬が迫ってきた。ミャオと二人だけだから、それほど慌ただしいということはないのだが、それでも小さな雑用が色々とあるものだ。
 それよりは、もう一か月以上も山に登っていない。九州に戻ってきて、二度ほど山に雪が積もり、晴れた日があったのだが、最初の時は日曜日だったし、次の時は、ミャオが気持ち良く寝ているのに、とても目の前のストーヴを消して出かけることができなかったからだ。
 ミャオが外にいる昼間に出かけて、山に登ればいいのだが、それでは雪も霧氷も溶けていて、つまらない。
 かといって、ミャオに文句は言えない。ミャオがいてくれているおかげで、私の気持ちも、多分に救われているのだから。
 12月のカレンダーの、残りの日も少なくなってきた。壁に貼ってあるネコ・カレンダーも最後の一枚だが、その一枚が素晴らしい。
 あの『アサヒカメラ』誌の付録、動物写真家、岩合光昭さんのシリーズ『猫にまた旅』の12月、“岐阜県白川村、ネコが降る雪を見つめる”(写真)である。
 この2008年のカレンダーの猫たちの写真の中で、これがベストの一枚だと思う。背景、ネコ、動作、位置、シャッターチャンスなどのすべてが、さすがプロの写真家だと、うなづかせる一枚だ。とても、私たち素人の写真愛好家が、撮れる写真ではない。
 他の月のネコちゃんたちも、皆良いのだが、もう一枚このカレンダーの中からあげるとすれば、やはり2月の、砂湯に入っているあの白ネコちゃんの写真だろう(2月5日の項)。
 もう何年にもわたって続いている岩合さんの『ネコにまた旅』シリーズ、次の2009年版が楽しみではある。」
 

ワタシはネコである(67)

2008-12-18 17:45:11 | Weblog
12月19日
 この数日は良い天気が続き、朝夕はともかく、日中は10度を越えて、比較的に暖かい。
 飼い主がずっと家にいれば、ワタシもストーヴの前から離れて、ベランダに出たりするのだが、飼い主は昼間、ワタシを置いてクルマでどこかへ出かけて行く、ストーヴも消して。
 春から夏にかけて、何度も家を閉め出されて、ノラネコ状態にさせられたワタシは、心に大きなトラウマがあって、その度に、心配になってしまうのだ。またノラになるのかと。
 あのポンプ小屋に戻りたいとは思はないが、家にいると、他のノラネコがやってくるので、おちおちしていられない。仕方なく、周りのどこか安全な所にいて、飼い主が帰ってくるのを待つしかないのだ。
 飼い主が、夕方になって戻ってくれば、やっとサカナをもらえて、ストーヴの傍でぬくぬくと過ごすことができる。
 考えてみれば、飼いネコにとっての安心できる暮らしとは、できることなら皆が猫好きの、やさしい人たちの家族の中で暮らすことだ。いつ帰ってきてもいつも誰かがいる、これほど安心できることはないのだ。
 おじいちゃん、おばあちゃんがいて、ご主人夫婦がいて、子供たちがいて、そしてワタシと他にももう一匹の猫もいる。そんな皆に囲まれたワタシの姿を、写真を見るように思い浮かべてみる。
 無駄なことだ・・・鬼瓦顔の飼い主は、情けないことに独り身だし、かくいうワタシも、人見知りして、他の人間には怖くて近づけないし。
 ワタシたち猫にはもとより、人にも、それぞれに、抗(あらが)うことのできない、一つの定めがあることを、年をとってくれば知ることになるわけだから、なにも悲しんだり、うらやんだりすることはない。今、目の前にある生きる道を、猫らしくニャーニャーとニャれ合いながら、失礼、なれ合いながらやっていけば良いのだ。
 そんなワタシの思いを知ってか知らずか、ノウテンキな飼い主は、例の如く好きなクラッシックのCDを聞きながら、なにやらパソコンのキーを指で叩いている。

 「前回(12月13日)に書いたことに、付け加えることがいろいろとある。まず前回の写真『チョコレートを運ぶ娘』について、普通には『チョコレートを運ぶ少女』とされているが、原題は『Das Schokoladenmadchen』、つまり『ショコラ係りのメイド』とでも訳すべきところなのかもしれない。
 しかし、メイドというと、秋葉原のメイド・カフェで、『萌えー』とか言われそうだが、ここに描かれているのは、あくまでも当時の貴族のお屋敷で働いていた召使である。
 さらにここで言うチョコレートは、ホット・チョコレートのことつまりココアである。当時は今のように、チョコレート菓子として固める技術が発達していなかったから、今で言うココアの状態で飲んでいたとのことだ。
 若き日の、昔のヨーロッパ旅行の時、あちこちのユースホステルの宿で、朝食の飲み物として、このホット・チョコレートがよく出されたものだった。それも、ティー・カップにではなく、お椀ほどの大きさのボールになみなみと入れてあった。
 秋から冬にかけての旅だっただけに、体も温まり、おいしかったのを覚えている。あれは、もう遠い昔の思い出だが・・・。
 次に、このスイス生まれの画家ジャン・エティエンヌ・リオタール(1702~1789)について。彼は、フランス人の宝石商だった父親が、スイスに逃れて住み着いた先の、ジュネーブで生まれている。画家として既に名をはせていた、54歳の時になって、ようやく、オランダのユグノー教徒の娘と結婚した。そして当時としては長生きをして、87歳の時に、生まれ故郷のジュネーブで亡くなっている。
 前回も書いたように、パステル画の名手として、当時はヨーロッパじゅうに、その名が知られていたほどの、高名な画家だったのだ。
 それだけに、ヨーロッパのあちこちから声がかかり、さまざまな国を訪れては、貴族たちの肖像画を描いて回っていたらしい。
 親しくなったそのうちの一人に連れられて、当時のトルコのコンスタンチノープル(イスタンブール)を訪れて、その地の人々の風俗を見て、大きな影響を受けた。帰国後、トルコ風の衣装を身に着けた肖像画を多く描くようになり、自分自身もトルコ衣装を着て、トルコ画家とあだ名された。
 それらの絵の一つが、前回に書いたCDボックスの絵『コヴェントリー伯爵夫人、メアリー・ガニング』(写真)である。トルコ風の衣装を身に着け、物思いにふける若い夫人の姿。1749年との記載がある。
 実は同じ時代を生きた、あのモーツァルト(1756~1791)が、『ヴァイオリン協奏曲第5番イ長調K.219、トルコ風』を作曲したのが1775年、さらに、『ピアノ・ソナタ第11番イ長調K.331、トルコ行進曲付き』を作曲したのが1781年ころだから、十八世紀後半には、異国趣味としてのトルコ風な文化が、ヨーロッパじゅうに広まっていたのだろう。
 ところで、写真に見る二つの作品以外には、どのような絵があるのかと、ウェブで調べたところ、あの有名なオールポスターズ社のホームページから、リオタールの絵のカタログとして、32点もの作品を見ることができた。
 しかし喜んだのもつかの間、大半は映画館のポスター絵のようなものばかりであり、この二つの作品を超えるものは見つからなかった。つまり、彼の絵が、近世の芸術絵画の前で色あせていった、一つの理由をそこに見る思いがした。
 かといって、私にとって、彼のこの二作品の評価が、下がることはない。やはり良い絵だと思うし、もう一つのモザイク・カルテットのハイドンの弦楽四重奏曲集を、買う気持ちにも変わりはない。
 前回から今回へと、いろいろと調べて、、モザイク・カルテットのCDからリオタールの絵、モーツァルトの曲へとのつながりが分かり、やはり、幾つになっても学ぶことは面白いと思った。
 と、まあ、ミャオに話しかけながら、体をなでてやると、ニャーオと鳴いて応えてくれる・・・おーヨシヨシ、と今日も暮れていくのでありました。世の中は、大不況の時代になり、大騒ぎしているというのに・・・。」
 

ワタシはネコである(66)

2008-12-13 17:58:53 | Weblog
12月13日
 曇り空で、気温7度。昨日までが、14度くらいもある暖かさだったので、少し肌寒く感じる。
 ワタシは、例のごとくストーヴの前で、寝ている。実は昨日は、余りよく寝ていないからだ。昨日の夕方、いつものように飼い主と散歩に出かけた。少し離れたススキの斜面のところまで行き、そこで飼い主が先に帰ってしまった。
 暗くなって、もう百鬼夜行(ひゃっきやこう)の夜の道を歩くのはいやだった。仕方なく、近くにある家の物陰に隠れて、一晩を過ごし(-1度と冷え込み寒かった)、朝になってやっと飼い主が迎えにきて、一緒に家に帰った。
 毎日、飼い主の鬼瓦顔ばかり見ていると、うんざりするので、たまには外で、他の動物たちの気配を感じて、緊張した時間を過ごすのも悪くはないのだが、それもまあ真冬の寒さではないから良いけれど、そのあたりのことは飼い主も分かってはいるのだろう。
 寝ていると、隣の居間のほうから、やさしい音の響きが聞こえてくる。飼い主がいつものようにCDを聴いているのだ。
 
 「一昨日、少し離れたところにある大きな町まで行ってきた。ミャオはコタツの中で寝ていたので、そのままにしてきたが、今ではもう心配はない。
 幾つかの用を済ませて、ついでにCD屋に寄って、一つのセットものと他にもう一枚のCDを買ってきた。
 そのうちの5枚組のセットものには、モザイクSQ(弦楽四重奏団)の演奏する、ハイドン(1732~1809)の弦楽四重奏曲の作品20の6曲、作品33の6曲、そして作品51『十字架上の七つの言葉』が収められている。
 まだ2枚ほど聞いただけだが、始めから安心して、このモザイクSQのやさしい流麗な響きに身を任して、聴くことができる。というのも、既にこのSQの演奏で、モーツァルトの弦楽四重奏全集(5枚組)の、素晴らしい演奏を聴いていたからだ。
 その昔、レコードの時代には、このハイドンの弦楽四重奏を様々なSQで聴いていたのだが、その中でも、特にウィーン・コンツェルトハウスSQやウェラーSQ、タートライSQのものが気に入っていた。
 つまりは、ウィーン系の弦楽の響きが(タートライSQはウィーンのすぐ隣のハイドンのいたハンガリー)、好きだったというだけのことだが、このモザイクSQは、そのウィーンの有名な古楽器オーケストラ、ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスのメンバーからなっているのだ。
 今では、古楽器(ピリオド楽器)で演奏するソリストやグループは珍しくなく、その時代に立ち返ろうとする学究的なものから、斬新的な解釈で演奏するものまで様々である。
 古楽器によるSQとして、すぐに思い浮かぶのは、クィケン兄弟他によるクィケンSQである。彼らの演奏するハイドンも悪くはないが、それ以上にこのモザイクSQによるものは、私の心のひだになめらかに入ってきて、やさしく包んでくれる。
 彼らの誠実な演奏は、その当時ハイドンが仕えていたエステルハージー公の館で行われていた演奏が、どのような響きだったのかと考える時の、一つの答えのような気がするのだ。
 CDの時代になってから、さらにコダーイSQや、前記のクィケンSQのものを聞いてきたが、もうこれからはこのモザイクSQのCDをかけることが多くなりそうだ。
 ところでこのCDセットを店頭で見つけたときに、魅(ひ)かれたのは、モザイクSQというだけでなく、そのボックス写真ゆえにでもあった。
 ソファーに腰をおろして物思いにふけるトルコ風な衣装を身につけた若い女・・・。どこかで見覚えのある絵のタッチだ。
 箱の底に書いてある細かい文字を何とか読む。やっぱり、ジャン=エティエンヌ・リオタール(あの現代の哲学者リオタールとは少し綴りが違う)だ。そして『コヴェントリー伯妃 メアリー・ガニング、1749.パステル』の表記。
 このリオタールの絵に、私は、何十年も前の若き日のヨーロッパの旅の時に、当時の東ドイツはドレスデンのツヴィンガー宮殿にあった、アルテ・マイスター美術館で出会っていたのだ。
 『チョコレートを運ぶ娘』(写真)である。パステル画による細密な描写を得意としたリオタール(1702~1789)の、よく知られた一枚で、私は初めて見たこの絵がすっかり気に入って、その時に写真にまで撮っていたのだ。
 写真のなかった時代に、まるで生き写しのように描く画家がもてはやされたが、しかし写真が絵に取って代わると、そんなに有名だった画家でさえ忘れ去られてしまうことになる。
 リオタールはそんな画家の一人だが、埋もれさせてしまうには惜しい画家だと思う。そんなリオタールの絵を、箱の絵の『メアリー・ガニング』だけでなく、中のCDジャケットにも見ることができる。
 なんと見事なデッサン描写力だろう。今のところ、このリオタールの画集がないだけに、貴重なものではある、小さなCDジャケット・サイズで残念ではあるが。
 しかし、今回は買わなかったが、同じモザイクSQの、別のハイドンの後期の弦楽四重奏曲のセットがある。まあそう簡単に売れるものではないから、年が明けてから買いに行ってもよいだろう。
 音楽を楽しめて、絵画を楽しめて、これだからクラッシック音楽はやめられない。はいはい、確かに年寄りの音楽だと言われますが、これが私の好きな道。ミャオには、迷惑ではないよね・・・。」

ワタシはネコである(65)

2008-12-09 17:58:18 | Weblog
12月9日
 昨日、今日と冷たい雨が降っている。気温は、4度から6度くらい。寒いとはいっても、一昨日の雪の後の、-9度まで冷え込んだ日と比べれば、まだましだが。(昨日、飼い主が北海道の友達に電話して、九州のほうが寒いと言っていた。)
 ワタシは、もうすっかり飼い主のいる家の猫になってしまった。3週間ほど前までの、あのノラの生活は一体何だったのだろう。もう今では、あのポンプ小屋へは、行ってみたいとも思はない。
 今、ストーヴの前に置かれたワタシ専用の座布団の上で寝ている(写真)。前は、ケチな飼い主が、ワタシに地球温暖化の防止のためだとか言い訳をして、昼間はコタツだけにして、ストーヴを消したりしていたのだが、この冬は、自分も年のせいで寒がりになったからだろうか、朝から夜、寝るまでずっとストーヴをつけてくれている。
 何はともあれ、そのおかげでワタシは毎日をぬくぬくと過ごすことができるのだ。しかし、時折、飼い主が、ワタシの5倍ほどもある鬼瓦顔をぬっと近づけて、ワタシの顔をのぞきこみ、毛を引っ張ったり突いたりする。
 他に遊び相手の猫がいるわけでもないし、ワタシは仕方なく、爪を出さずに、軽いネコパンチを出して、そのおふざけ遊びの相手をしてやったリする。まあ、家にヒマな年寄りがいるから、ワタシも苦労するのだ。

その飼い主が部屋を出て行って、居間の方から何やらピアノの音が聞こえてきた。ワタシは、のどが渇いてミルクを飲むついでに、エサ場のある居間に行ってみると、飼い主がソファーに座って珍しくレコードを聞いている。
 飼い主が、たくさんのレコードを今も持っているのは知っていたが、最近はCDばかり聞いていて、レコードをかけることは滅多になかったのに。どうしたのだろう、ニャーと鳴いて飼い主の傍に行く。飼い主は、ワタシをなでながら話してくれた。
 
 「私は、テレビ・ドラマなんか殆んど見ないけれど、倉本聰のものは別だ。この10月に始まった『風のガーデン』は、10時からと遅く(私の寝る時間だ)、毎回、ビデオに録って見ている。
 私は、あの『北の国から』が始まったころに、同じように北海道で家を建てようとしていたし、その後も、年に一度の『北の国から』の特別編を見るにつけ、善かれ悪しかれ、倉本聰は、われわれ北海道移住民にとっての旗頭だと、思うようになっていた。
 もちろん、あのドラマの内容のすべてに納得できるわけではないのだが、少なくとも、私たちが子供だったころに皆がそうであったように、辛い境遇の中で、それでも人々が道理をわきまえて、明日に向かって必死に生きていたころの思いが伝わってくるからだ。
 就職で上京するために、長距離トラックに乗せてもらった純が、その運転手から、お前の親父さんからお礼だと言ってもらった金だが、オレは受け取れないと差し出されて、その父さんの汚れた指跡のついたお札を握ってむせび泣くシーンは、今思い出しても、眼がしらが熱くなるほどだ。
 『風のガーデン』はそれに比べると、大天使ガブリエルが出てきたりして、すっかり別世界の上品なホーム・ドラマになっている気もするが、今回の大きなテーマの一つが、生と死の問題なのだから、それで良いとは思うのだけれど。
 前回(12月4日)放送の、死を前にした息子と父親が和解しあう場面は、(父親役の緒方拳がこのドラマを撮り終えた後、亡くなっているだけに)、胸に迫るものがあった。その二人のシーンで、一匹のトンボが父親の肩にとまり、そして飲みかけのペットボトルの上にとまっていた・・・。
 毎回、ドラマのエンディング・テーマとして流れる、平原綾香の『ノクターン』も良い歌だ。ショパンの『ノクターン(夜想曲)全集』からとられた曲だというけれども、私にはショパンというよりは、むしろ彼女の歌声の魅力あふれる、ジャズ・バラードかブルース風の歌だ思う。
 つまり、当然のことながら、これはショパンの曲とは全く別なものなのだ。彼女のデビュー曲『ジュピター』も、ホルストの組曲『惑星』の中の一曲からとられていたが、その原曲の、フル・オーケストラ演奏の迫力ある曲調とは異なって、彼女のピュアな思いをひたむきに歌う独唱曲であったのと同じことだ。それにしても、彼女の声は素晴らしい。
 この彼女の歌う『ノクターン』の原曲は、ショパンの『ノクターン第20番 嬰ハ短調、遺作』なのだが、私が若いころに好きだったショパンの曲の一つでもある。
 ショパンが生前に、『ノクターン』として出版していたものは、作品9の1の第1番から、作品62の2の第18番までで、第19番から第21番までは、彼の死後見つかった曲として、つまり遺作として付け加えられたものである。
 この『第20番嬰ハ短調』の作品は、『ノクターン集』の中では最も早く、彼の20歳の時に書かれたものだが、なんとみずみずしく、ひたむきな思いに溢れていることだろう(それにしてもなぜ、彼はこの曲を発表しなかったのか・・・)。
 今から何十年も前の話だが、当時、まだ若かった私は、FMから流れてきたこの曲を聞いて、いたく感動してしまった。そのころ、私はある娘に恋をしていて、その切ないまでの思いを掻き立てられたからでもある。
 それから、私はそのショパンの『ノクターン(夜想曲)全集』の2枚組のレコードを買った。それは、あのワイセンベルクのドイツEMI盤だったのだが、当時、彼は、華美な演奏が目につくと、余り良い評価をされてはいなかった。しかし、私にとっては、むしろそのメローさこそが、その時の恋に焦がれる思いにふさわしかったのだ。
 今、レコードを取り出してきて聞いてみた。しかし、そこから私は、昔のあふれる思いをたどることはできなかった。私はもう、今ではただの中年おじさんになっていたからだ。
 CDで聞いてみることにした。アシュケナージ(DECCA盤)も悪くないのだが、今の私が安心して聞けるのは、マリア・ジョアオ・ピリス(DG盤)のものだ。モーツァルトのソナタでデビューした時の、あのこぼれるような音の響きは変わることなく、その音の硬さがとれた豊かな音色で、私の心を清らかに満たしてくれる。
 ミャオには、どうでもよい話だろうが、人間には、誰でもそれぞれに、幾つかの深い思い出があるものなのだ。歳月がたてば、それらはすべてやさしく姿を変えて、緑の丘の彼方に見えるようになる、ということだ。」
 
 まあ、長い話をご苦労さん。雨も上がって、夕焼けの空も見えて、そろそろサカナの時間になりますよ、ニャーオ。
 

ワタシはネコである(64)

2008-12-06 17:40:42 | Weblog
12月6日
 朝から降リ続いていた雪も、夕方になってようやく止んで、青空が広がってきたが、外は寒い。朝の-4度から、殆ど気温が上がらず、今日はこのまま真冬日になるだろう。
 ワタシは、雨が降っていた昨日からずっと、部屋のストーヴの前で寝ている。外に出るのは、一日一度のトイレの時だけだ。いわゆる食っちゃあ寝、食っちゃ寝で日がな一日を過ごしている。
 それでも、ワタシは決して、飼い主のようなメタボおじさん体にはならない。そうなのだ。ワタシは、食べて寝て、エネルギーがたまってくると、たとえ雪が降っていようが、風が強かろうが、体を動かしたくなって、外に出るからだ(人間たちのように、食って寝てばかりではいられない)。
 トイレを兼ねて外に出ると、しばらくの間、辺りの様子をうかがい、時には木の上に駆け上がり、走りだしたりして、そんなふうにうろつき回って、寒さが気になってくると、家に戻るのだ。
 そして、ストーヴの前で毛づくろいをする。そんな時に、そばにいる飼い主と目が合う。前回、飼い主が書いていた、竹内栖鳳(せいほう)の『斑猫』(写真はその一部)の絵を見せてもらったが、ワタシが思わずハッとするくらいの猫の姿だった。
 ワタシも、絵が好きな飼い主から、いろいろな猫の絵を見せてもらっているが、中でもこの絵は、猫のほんの一瞬の動作をとらえることで、猫という生き物のすべてを表現した見事なものだと思う。
 絵とは、手で書き写すことではなく、心でその対象の本質をとらえることなのだと、なにやらエラそうに飼い主が言っている。しかしそういう本人自身、絵と同じような写真においても、いつまでたっても、ただカメラのシャッターを押すだけの、絵葉書写真しか取れないのは、どういうことだろう。
 まあ、本人が自分で撮った山の写真を見て、ひとりでニタついているのはそれでいい。人に見せたり、コンテストなどに応募していないだけでもまだましだ。
 それは、昔から言われているように、己を知り、分相応にということなのだろう。飼い主が言うには、昔の中国の偉い人で、老子とかいう人が、次のように言っているそうだ。
 「名(名誉)と身といずれか親しき。身と貨(お金)といずれかまされる。得ると失うといずれか憂(うれい)なる。・・・足るを知れば、はずかしめられず、止まるを知れば危うからず・・・。」
 つまり、何事もほどほどにということなのだろうが、それはネコであるワタシにもよく分かる。無理をしないこと、より多くを望まないこと。
 たとえ、他人と比べていろいろと劣っているところがあったとしても、もっと悪い時のことを思えば、今は、それよりは、ずっと楽なのだということに気づくはずだ。
 それで良いのだと思う心が、大切なのだろう。お互いに年寄り同士の、飼い主とワタシだから分かることなのだ。
 雪は止んだが、日が沈んで、再び雪景色の寒さが忍び寄ってくる。だけれども、飼い主と一緒に暖かい家の中にいれば、それでもう十分だ。明日の天気は、晴れの予報、よーし。
 

ワタシはネコである(63)

2008-12-03 17:55:31 | Weblog
12月3日
 晴れて、良い天気だ。気温も15度くらいまで上がり、小春日和の暖かさだ。ワタシは、ベランダで寝ている。
 今まで寒い日が続いただけに、ずっと部屋の中にいたのだが、今日は、さすがに飼い主もストーヴもコタツもつけていないから、私も外にいるというわけだ。
 飼い主が、先ほどから柿の皮をむいている。渋柿を吊るして、干し柿にするつもりだ。おばあさんが元気だったころ、同じようにベランダで柿の皮をむいていたものだった。
 飼い主は、とりたてて干し柿が大好きだというのではなさそうだけれども、おばあさんの好物だったしと、つい習慣で、庭の渋柿を取ってきては皮をむきたくなるのだろう。ワタシもそれを見ると、そうかもう年の瀬が近づいてきたのかと思うのだ。
 飼い主が時々、陽だまりで横になっているワタシのほうを見ては、満足そうに微笑んでいるのにはわけがある。昨日、一晩ワタシが帰ってこなかったからだ。
 昨日の夕方、魚をもらったあと、みなぎるエネルギーで体を動かしたくなり、いつものように、飼い主に催促して散歩に出る。
 もう夕暮れ時で、ワタシも他の物音に敏感になり、あちこちで立ち止まり、わずかな距離のところをすっかり時間がかかってしまった。飼い主は、急ぐ用事があったのだろう、私を残して先に帰ってしまった。
 そこで、辺りの物音に耳をすませたりしているところに、なんと久しぶりにノラの仲間に会ったのだ。積もる話もあって、お互いにじっと見つめあったり、鳴き交わしたりしているうちに、時間がたち、すっかり夜になっていた。
 そこへ、心配した飼い主が戻ってきた。飼い主の呼び声に、ワタシも思わず応えて、鳴いて傍に寄って行った。飼い主が、帰ろうと私を促すが、ワタシは近くにいるノラの友達が気になって、ここを離れる気にはならなかった。飼い主はあきらめて、一人で帰って行った。
 ワタシは、しばらくはそのノラの傍にいたが、そのうちにノラもどこかに行ってしまった。もう真夜中になっていた。これからは、キツネやタヌキ、そしてイノシシに野犬までがうろつきまわる、危険な時間帯だ。ワタシは、その長い夜を、人のいない家の物陰に座って過ごした。
 朝方の気温は、それまでの毎日の、強い霜が降りるほどの冷え込みもなく、5度くらいもあって、そう寒くはなかった。それだから、そこでじっとしていることができたのだ。やがて日が昇り、ワタシは日の当る所へと少し移動した。
 そして、日がだいぶん高くなってから、ようやく飼い主が迎えに来た。ワタシは飼い主と鳴き交わした後、それでもまだ、外で一晩過ごして、野生の物音に耳が研ぎ澄まされていて、途中で何度も座り込み、辺りの様子をうかがった。
 
 「写真に見るように、ミャオの目は、家にいる時の穏やかな眼とは違って、大きく目を見開き、辺りを見回している。傍にいる私さえも、そんな目で見るのだ。
 野生の目をしているミャオは、私がいない時の、半ノラの時のミャオなのだ。私と一緒にいる時にも、たまにそんな目をすることがある。
 何かの物音がしたり、驚いたりした時だ。どんなに安心しきった状態にいる時でも、ミャオはいつも、もしもの時に備えているのだ。それで思い出したのが、ある絵に描かれていた猫の目だ。
 それは、明治から昭和にかけて活躍した日本画家、竹内栖鳳の『斑猫』(大正13年)である。
 前に(11月24日の項)、あの菱田春草や小林古径の、日本画の猫の絵に少しふれたことがあるが、彼らが狩野派の流れをくむ東京画壇であったのに比べ、竹内栖鳳は京都画壇、円山四条派の新しき改革者であった。
 彼は伝統的な、京都画壇の写実性を受け継ぎ、さらにヨーロッパにも渡り、大きな影響を受けて(特にコロー)、独自の境地を開拓したと言われている。
 『斑猫』は、落款(らっかん)を含めた日本画的な空間処理の中で、日本画とは思えないほどの視覚的描写が、なんとも見事である。特に、こちらを見つめるあの猫の目・・・。 
 話がすっかりそれてしまったが、ミャオの目を見て思い出してしまったのだ。
 ともかく、ミャオはいついかなる時も、自然の中で生きていることを忘れてはいないのだ。それが生き物の、生きることへの本能なのだ。人間のように、明日への希望がなくなったからといって、自殺したりはしないのだ。ただひたすらに生きること。何の理屈もない。どんな悲惨な状態になったとしても、決して明日をあきらめたりはしないのだ。なんとかして生き抜くこと。
 お笑い芸人の書いた『ホームレス中学生』が、ベストセラーになったというけれども、ミャオにとっては、ノラ猫たちにとっては、そんなことぐらいでと、お笑い草にしかならないだろう。
 それほどまでに、まず生きることが第一義にあるのだ・・・我々人間は、いつもそのことを忘れていて、他人と比べては、つい不平不満を口にしてしまうのだ。言ってみて、どうなるわけでもないのに。
 ミャオは、ただ鳴いているよりは、それならばともかく、まずひとりでなんとかしようとするのだ、生き延びるために。
 ああ、ミャオ、いつも、オマエから教わることは余りにも多い。」
 
 何か、飼い主がゴタゴタ言っているみたいだけれど、ともかくワタシは飼い主と一緒に家に戻ってきて、午後は暖かい小春日和のベランダでゆっくりと寝て、夕方、いつものように魚をもらい、そして飼い主がつけてくれたコタツの中にもぐりこんだのだ。昨日あまり寝ていないから、はい、おやすみなさい。