ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

花鳥風月の世界へ

2021-02-21 20:45:49 | Weblog



 2月21日

 またしても前回の記事より、一か月がたってしまった。
 悪癖も習慣化すれば、それがいつしか自分のルーティン(決まった手はず)になってしまう。
 まあこんなじいさんが、”馬子にも衣裳”のラガー服を着て、五郎丸選手よろしく服の前で手を合わせていたところで(高校のラグビーの試合で一度だけトライをしたことがあるが)、誰も気にしないどころか、笑われるのが関の山だろうが。

 さてそんなことより、一か月もの間自分の怠慢(たいまん)により、このブログを”開店休業ガラガラ”状態にしてしまっていたわけだが、というのも新型コロナ防止協力のために、一週間に一度、街の小さなスーパーに買い物に行き、一月に一度薬をもらいに病院に行く以外は家にいて、そこはわがままじじいの、好き勝手し放題の自分だけのキングダム(王国)であり、もともとがとても自分の仕事をコツコツこなすタイプの人間じゃないから、まあテレビ見てメシ食って屁こいて、風呂入って規則正しく寝るだけの、凡人たるゆえんの毎日だから、Youtubeにあげるようなものは何もないのだ。

 しかし”一寸の虫にも五分の魂”があるように、人間だけに及ばずすべての生きもの虫けらにさえ、当然のことながらそれぞれの考えや想いに生き方があり、それらを綴り合せていけば、唯一の価値ある自分史やファミリーヒストリーが作られることにもなるのだろう。
 だからこそ、自分だけにしかわからないものであっても、十分に記録されるに値するものなのだ。
 と、いつもの言い訳をひとくさりして、ともかく今回も書いていくことにする。


 2週間ほど前に久しぶりに、山に登ってきた。
 今シーズン初めての雪山であり、山に行くこと自体もあの秋の志高湖畔の小鹿山以来のことだから、実に2か月半ぶりのことになる。(頂きを目指さない山麓トレッキングの長距離散歩は別として。)
 行く先は、いつものように年寄りにやさしい九重山である。
 朝、家の周りにはうっすらと雪が積もっているぐらいだけだったから、これではあまり山での雪山景色をたんのうすることはできないだろうとは思っていたのだが。つまり、冬の九重に行くには、雪が少し多めに降って、北西の風が吹きつけている時こそ、内地並みの厳しい冬山登山ができるのだが、これぐらいだと、雪山ハイキングにしかならないだろう。
 思えば、その2週間前の1月初め、家の水道管が凍りついた時、あの最強寒波襲来の時に行けばよかったのだが、もちろん水道管解凍作業でそれどころではなく、行く時を逃してしまったのだ。

 雪の解けた道をクルマで走って、牧ノ戸峠(1330m)に9時ごろ着いて歩き出す。駐車場は十分に空いていたし、登山者も離れて二三組という感じで、気にならないほどだった。
 雪は、10㎝足らずで歩きやすく、周りの灌木は細いながらも霧氷に覆われていて、展望台から眺める青空の下のいつもの三俣山(1745m)が素晴らしかった。もう何十回となく繰り返し見ている雪の姿だが見飽きることはない。
 山のありがたさは、同じ山の姿を何度見ても、決して飽きることはないことだ。
 ”港々に女在り”、”来る冬ごとに山がある”ってかー。
 しかし、久しぶりの年寄りの山登りだから、遊歩道の途中で何度か立ち止まり休んで、ようやく沓掛山前峰にたどり着いて、そこからは霧氷の尾根歩きを経て、先にある沓掛山頂(1503m)からはおなじみの縦走路と三俣山の光景を楽しむことができた。(写真上)
 そこから続くゆるやかな雪の尾根道は、雪山ハイキングにふさわしい舞台で、風も弱く歩きやすかったが、南側斜面の雪は半ば溶けていて、さらには風の通り道にあるはずの、風紋やシュカブラ等の雪模様もできていなかった。 
 分岐からは、一番手短に登れる扇ヶ鼻(1698m)に向かうことにする。少し急になった登りから溶岩台地に上がると、急に猛烈な風が吹きつけてきて、そこには冬山の厳しさが残っていた。
 しかし、眼前に広がるミヤマキリシマの台地から眺める、祖母・傾連山の姿は素晴らしかった。(写真下)



 この眺めを期待して登ってきただけに、今日は、もうこれだけで十分だとも思った。
 もし、一年を通して、九重の山々のベスト・ショットを何枚か選ぶとすれば、この扇ヶ鼻からのミマキリシマ群落を前景にした、祖母・傾連峰の山々という眺めの写真を必ず選ぶことだろうし、それも冬か春かつまり雪か花かで迷うところだろうが・・・。
 ともかく、扇ヶ鼻の山頂にまでは行っておこうと、強い風の中をゆるやかに登って行く。
 下の写真は、東の肩から眺めた扇ヶ鼻山頂部であり、頂上部に大きな岩塊があり、乳首山とも呼ばれる東北の安達太良山(あだたらやま)山頂部によく似ている。なお左手に見えているのは、阿蘇山高岳(1592m)であり、左端には雲に洗われる根子岳がかろうじて見えている。



 風が弱い時には、頂上の先のほうまで行って、のんびりと周囲の展望を楽しむことができるのだが、この風ではとあきらめて早々に下ることにした。
 そして分岐にまで戻って来て、そこからすぐ近くの、あのアルペン的な姿をした久住山(1787m)の見える西千里浜まで行こうかとも思ったが、この風のうえに風紋などもあまり期待できないだろうからとあきらめることにした。
 稜線から下りてきた縦走路の風は弱く、気温も高いのだろう、所々でもう雪が溶けてぬかるみになっていた。
 九重の雪山は、天気図で冬型の気圧配置になり、寒気が流れ込んできて雪の多い時を選ばないと、雪解けの泥水の中を歩くことになってしまうのだ。
 行きも帰りもほとんどの人に追い抜かれて、往復3時間ぐらいのところを5時間もかけて歩いてきたが、まあその分、しっかりと雪山の眺めを楽しむことができたし、年寄りにはちょうど良い雪山歩きの半日だったといえるだろう。

 さてそんなふうにして、山にはたまにしか行かないし、コロナ禍の中、時間はいっぱいあるから、今まで録画しておいたテレビ番組をあれこれと、その中でも山の番組を多く見た。
 例の”日本三百名山一筆書き登山”の田中陽希君の番組については、確かに驚嘆するに値する行動力だとは思うけれども、彼の登山というものが、私の山に親しむ向き合い方とは大きく異なっていて、自らをプロレーサーと名乗っているように、この番組では競技者として彼の姿がメインテーマであり、山の景観や情感はその過程の中で見られるものでしかないのが残念である。
 近ごろ流行りの登山競技記録としてのトレイルランは、まさにスポーツとしての登山を前面に押し出したものであり、そこでは山の持つ親和性が多分に損なわれてしまうことになると思うのだが。
 さらにこの番組で気になるのは、例えば一人で登るとは言っても、実は常に彼を写す数人の撮影クルーがいて(その中にはあの有名なクライマーの平出カメラマンもいて)、もちろん危険に対する備えとしてもその方が望ましいのだが、ただしそれでは単独行といえないし、彼の方でも、いつも前後にいる仲間のカメラマンたちのことを意識して登らなければならないから、気楽な独り歩きにはならないだろう。
 もちろん、登山そのものが、スポーツからレクレーション、研究探査から娯楽まで、万人向けの振れ幅が広く、最近の山登りは、そうしたトレイルランやドローンを含めての何でもありの世界になっているといえるのだが。

 しかし、そこは割り切って、日本の様々な山々を案内してくれる番組だと思えば、他に類を見ない体系的な三百名山案内番組になっていて、山好きにはありがたい番組なのだ。私も、名前は知っていても登っていない山が数多くあり、この年になっても登りたいと思うほどだ。
 中でもこの番組の東北編の一つで、話には聞いていたあの西吾妻山(2035m)の樹氷を見ることができて、それは、蔵王、八甲田の樹氷群の姿をほうふつとさせるものだったし、まだ若くて元気なころだったら、ぜひ冬に行ってみたいと思うほどの雪氷芸術だった。
 さらには10年程前に、飯豊連峰を縦走した時に、杁差岳(えぶりさしだけ、1636m)から見えていたすぐそばの二王子岳(1420m)と、離れて遠く見えていた守門岳(すもん岳、1537m)と浅草岳(1585m)にも、この番組を見てさらに行きたいと思った。

 もちろんそれはもうかなわない夢になるけれども、人は誰でも自分の人生の中で、望む物事がすべてかなうことなどありえないのだから、運よく実行できたものが半分もあればそれで良しとすべきなのだ。
 こうして、日本にある様々な名山のすべてには登れなかったが、地域限定で北海道の山々に集中して登った時期があり、特に日高山脈の多くの頂きに、晴れた日にひとりで立つことができたのは幸せなことだった。
 そう考えてくれば、世界の屋根たるヒマラヤの峰々を見ることができなかったのは残念だけれど、ヨーロッパ旅行の際に、快晴のヨーロッパアルプスで過ごした10日間は、まさに天が与えてくれた幸運のひと時だったし、国内でも噴火前の木曾御嶽に登れたし、屋久島宮之浦岳にも富士山にも白山にも、そして樹氷の蔵王・八甲田、紅葉の栗駒・焼石などなど、思えばすべてコロナ禍前に晴天の日を選んで行くことができて、自分の運の良さを思わないわけにはいかない。

 それだから、私の人生の中で足りないものが数多くあったとしても、気にすることはないし、後悔することもないのだ。
 なぜなら、私は今まで味わってきた数多くの不幸な出来事に、十分に見合うだけの、数多くの僥倖(ぎょうこう)とでも呼べるべき、幸福なひと時を得てきたのだから・・・と、ともかく自分に言い聞かせればいいのだ。いい人生だったと。
 不幸な出来事だけを引きずって生きていくくらいなら、一つだけの幸福を思い出にして生きていったほうがましだ。

 7年ほど前に、NHK・Eテレの”100分で名著”シリーズの新年の特別編として、「幸せについて考えよう」という座談会があって、経済学者や哲学者や心理学者が、自分の専門分野の切り口から、幸せの意義を説いていて、それぞれに納得できるものだったのだが、ただ一人文学の分野から参加していた作家の島田雅彦氏は、井原西鶴の『好色一代男』『好色一代女』を引き合いに出して、”幸せとは、断念ののちの悟りである”としたのだが、他の三氏の社会科学的な定義づけと比べると、あまりにも情感的で恣意(しい)的な思いを感じないわけにはいかなかった。
 それがある時、ふとその言葉を思い出して、なるほどそういうことだったのかと感じ入ってしまったのだ。
 つまり、その時私は断念という言葉に、投げやりな問題解決法のにおいを感じ取って、そこには、むしろ脆弱(ぜいじゃく)な意志があるからではないのかと思ったからである。
 もちろんこの時の座談会の、テキストブックを読み返せばわかることなのだが、つまり、”・・・自分は今不幸のどん底にいると思う人は、明日からはそれ以上落ちることはなく上がる一方だと、考え直すことができる。考え方の転換点は、長い人生の要所要所で個々人に訪れます。何かを一度断念し、それで考えを変えて、次に向かう・・・。”と、彼は言っていたのだ。
(『別冊NHK100分で名著』「幸せ」について考えよう NHK出版)

 ただ私はそこに付け加えるに、あきらめて方向を変えるにしても、それは失敗しての断念だとは思いたくはない。それもその時は、全力を傾注して挑むにふさわしい一つの道であったのだし、次なるものを生み出すための経験であったのだと思いたいのだ。

 前にも似たようなことを書いたことがあるが、子供のころ聞いた歌の歌詞を間違えて憶えていて、大きくなって正しい歌詞に気がつくことがよくあるが、例えば童謡の「ふるさと」の”ウサギおいしかの山”を、”鹿野山のウサギをつかまえて食べるとおいしい”と理解していたし、もう一つあげれば、「船頭さん」(武内俊子作詞、河村光陽作曲)という戦前の童謡があったが、もちろん私は生まれていなくて後になって聞いた歌だが。
 ”村の渡しの船頭さんは 今年六十のお爺さん 年を取ってもお舟を漕ぐときは 元気いっぱい櫓(ろ)がしなる それ  ぎっちら ぎっちら ぎっちらこ”
 という歌詞なのだが、子供の私には、”櫓がしなる”という言葉づかいがよくわからず、”櫓がす”という動詞があって、ていねい語風に”櫓がしなさる”といっているのだと思っていた。
 が、高校生ぐらいになって初めて、”櫓が撓(しな)る”という意味だと知って、まさに赤面ものだったことを憶えている。
 ことほどさように、私たちの日常の言葉のやり取りを含めて、人と人との意思疎通には、いつも小さな誤解を含んでいるものなのかも知れない。

 それは確かな記録として残されたもの、古典作品においてさえ、一つの言葉をどう理解するかで、作者の意図そのものさえ変わってしまうことになるのだが、結局は今の時代に生きる私たちが、普遍的な世界の心情を信じて、自分なりに読み解いていくしかないのかもしれない。そこには必ず、時代を超えて変わらない心根や想いがあるはずだと。
 私が古典作品にひかれるのは、今の時代では数少なくなった、燃ゆる思いを内に秘めて、花鳥風月の世界に仮託する想いが、奥ゆかしくまたいじらしくさえ思えるからである。

 相変わらず、『新古今和歌集』を読んでいるのだが、この久保田淳訳注は懇切丁寧(こんせつていねい)に説明してあり、それぞれの歌はともかく訳注を合わせ読むことで、『万葉集』や『古今和歌集』に戻って調べなおしたりするものだから、時間がかかるのだが、それが楽しくもあるのだ。
 そこで、今回は昔の童謡をあげたついでに、昭和歌謡の『影を慕いて』を取り上げてみたいと思うが、この歌については3年ほど前に歌そのものの評価として取り上げているので、それを参照のこと(2018年3月19日の項)。
 この『影を慕いて』は、その前に『古今和歌集』を読んでいた時にも思ったのだが、今『新古今和歌集』を読んでいて、そこに『古今和歌集』への脚注がついていて『影を慕いて』のことを思い出したのだ。

 まず、『古今和歌集』の読人知らずの歌から。
 ”恋すれば わが身は影と なりにけり さりとて人に 添わぬものゆえ”

(訳すれば: 私は恋にやつれてやせ細ってしまったが、かといって影法師のようにあなたに添うこともできない。)

 次に『新古今和歌集』の西行法師の歌。
 ”ふけにける 我が身の影を 思う間に はるかに月の かたぶきにける”

(訳すれば:すっかり細くなって老け込んだ自分の姿を思ううちに、夜も更けてゆき、遥か彼方に月はかたむいていた。)

 『影を慕いて(1932年)』の作詞作曲者である古賀政男はもちろん、これらの和歌を知っていただろうし、それに着想を得て作り上げたこの歌曲は、絶唱とでも呼びたいほどの昭和歌謡の名曲ではある。
 この歌は、現代演歌歌手たちのコブシを聞かせた歌などでは聞きたくない。
 あの、ビブラートをつけずに、淡々とテノールの声で歌い上げる、藤山一郎の歌声こそがふさわしいからだ。


 今日は何と、気温が17℃くらいまで上がり、春を思わせる暖かさだった。
 その三日前、おそらくはこの冬最後の寒波が西日本の上空を襲い、10㎝あまりの雪が積もって、私は喜び勇んで山に行ってきたのだが・・・。
 次回は、なるべく早いうちに、その雪山について書きたいと思う。

(参照文献:『古今和歌集』佐伯梅友校註 岩波文庫、『新古今和歌集』久保田淳訳注 角川ソフィア文庫)