12月29日
昨日は、冷たい雨が降っていた。その雨で、今まで積もっていた雪も溶けてしまった。
今日は晴れて、気温も10度を超えるほど上がり、師走とは思えない暖かさになった。
まず洗濯をして外に干し、あちこち少しずつ掃除をして、その後、家を出て近くの町に行き、母の墓に花とお供えをあげ、ついでに買い物もすませてきた。もう年の瀬なのだ。
週に一度は書いていた、このブログ記事の間隔が少し空いてしまった。別に何か大きな出来事が起きていたわけでもなく、相変わらずの毎日を送っていただけなのだが、より正確に言えば、一時的に気持ちがすっかり滅入ってしまって、とてもパソコンのキーを叩く気にもならなかったのだ。
大もとの原因一つは、ミャオがいないからだ。
ミャオが亡くなってから、もう8カ月になる。
夏の間に帰ってきた時にも、ミャオが迎えてくれなくて寂しかったのだが、短い滞在だったからまだ良かった。しかしこうして、この冬も今までどおりにこの家でずっと過ごしていると、ミャオのいない寂しさが毎日次第に募ってくるのだ。
それは、シカにかじられたねむの木ことなどはともかくとして、他のこと、日々の家事や庭仕事などやるべきことに変わりはなくても、ただその時々にいつも思うのは、ミャオがいないということだ。
ミャオがいつものストーヴの前にいない。こたつの中にもいない。私の布団の上にもいない。ソファーの上にもいない。晴れた日のベランダにもいない。二人で散歩した時のように、私のそばを歩いていない。木の上や屋根の上にもいない。買い物から帰ってきても、ニャーオと鳴いて迎えてくれるミャオがいないのだ。
庭には、ミャオの墓がある・・・。
母が亡くなった後、しばらくの間はつらい毎日だった。しかし、5年を過ぎたあたりから、母がもうここにはいないのだと実感して、次第に自分だけの日常に慣れて行ったのだ。
ミャオの場合も、それと同じとは言わないけれど、ミャオがいない毎日に慣れるためには、もうしばらく時間がかかるのだろう。
今までにも何度もここにあげてきたあの映画の言葉と同じように、「時は偉大な作家だ。いつも完璧なストーリーを書いてくれる。」だろうから。
ただ言えるのは、これもよく例にあげてきた映画からの言葉だが、家族と一緒にいると、時には息苦しい時もあるのだろうが、いざ家族なしになればとても一人ではやっていけないのだ。
特に二人きりの場合、相手に去られた時の衝撃は大きい。それは、すべてを残った自分だけで受けとめなければならないからだ。
だからできるなら、悲しみの衝撃を和らげるためにも、家族は多いほうが良い。恋人も複数いた方が良い。
私はいつもひとりの相手だけに、一匹だけに向き合ってきたのだ。
それはもちろんその分、自分の自由がきいていいのかもしれないが、相手に去られた後に、ひとりで引き受けざるを得ないものが余りにも大きすぎるのだ。
かと言って、私は新たに猫を飼う気にはならない。ミャオの代わりなどいるわけがないし、また北海道との間を行ったり来たりしている今の私に、またミャオと同じように、年に何度もの別れのつらさを味わわせたくはないからだ。
今はただ、過去の人々の思いを胸に、私ひとりでしっかりと生きて行くほかはないのだ。
幸いにも、私には、まだまだやりたい仕事がいくつもある。
そのための体力はまだ十分にあり、長年積み重ねてきた知力判断力も、まだ乏しいものながら私なりにベストだと思える今こそ、それらの仕事に取り掛かるべきなのだ。
年寄りに向かいつつあるのは疑いもない事実だが、すべてが衰える前の、最高に燃えあがるひと時の中にいるというスリリングな感覚こそが、それこそが今を生きるという私の喜びにもなっているのだ。
私は、こうして自分なりに、勝手に考えをまとめ上げて、それまでふさぎ込んでいた気持ちからようやく抜け出すことができたのだ。
そして、一昨日久しぶりに山に登って来た。
先日、また二日間ほど雪が降って、積雪は10cmほどだった。次の日は予報通りには晴れなくて、陽は差したものの雲が多すぎたから、とても山に行く気にはならなかった。
前にも書いたように、九州の雪山をベストな状態で楽しむには、溶けやすい雪が消える前に、雪が降った次の日に行くのがベストなのだ。
そして今回も、ライブ・カメラで見た九重・牧ノ戸峠の登山口付近は、前日の白い霧氷・樹氷の林が、ずいぶん溶け落ちていた。
そこで行き先を由布岳に変えることにした。標高は低くなるが、独立峰だから頂上付近の灌木帯の霧氷樹氷がきれいで、特に北面は、晴れていても日影が多く遅くまで雪が残っているからだ。
家から比較的に近いところにある、この九重と由布岳にはそれぞれ何十回というほどによく登っていて、特に冬の雪山の時期に登ることが多い。
確かに、ミヤマキリシマなどの花時も素晴らしいが、暑い初夏の時期なのが嫌だし、何と言っても低い山は寒くはあるが暑くはない冬に、山そのものが一番見事に見える時に登るのがベストだと思っている。
さて、その日の朝の気温はー7度だった。クルマで家を出て、ところどころ雪の残る道をしばらく慎重に走って行き、やがて湯布院の町を抜け、さらにその上にある狭霧(さぎり)台にまで上がってくると、頂上付近が白く輝く由布岳(1584m)の姿が、青空を背景に大きく見えている。百名山なんぞに選ばれなくとも、掛け値なしに名山の風格がある山だ。(写真上)
登山口(780m)の駐車場に着いたのは8時で、他にクルマが2台停まっているだけだった。
由布岳を仰ぎ見ながら、いつもの気持ちの良い冬枯れのカヤのすそ野を歩いて行く。そこからクヌギ、リョウブ、ノリウツギなどの小径木の樹林帯に入り雪道をたどると、少し見晴らしの開けた合野(ごうや)越えに出る。その先から由布岳山腹の樹林帯のジグザグ道になる。
途中で、元気な声が聞こえていた若者3人が休んでいて、声をかけて先に行く。
ようやく、木々が低くなり展望が開けて、九重と祖母・傾の眺めが素晴らしい。
さらにその、アセビやミヤマキリシマが散在する灌木帯を抜けると、西ノ岳と東ノ岳の間のマタエに向かう急な登りになるが、このあたりから、木々に雪が吹き付けられた樹氷群の眺めが素晴らしい。なんといっても、それらを輝かせるのは背景の青空である。
マタエ(1470m)からは、右に一般ルートの東ノ岳(東峰1582m)に向かう道ではなく、岩場にクサリ場が四か所ほどある西ノ岳(西峰1584m)に向かう。
こちらのほうが人が少なく、東ノ岳の眺めと霧氷樹氷の稜線が素晴らしいからだ。(写真)
これらの岩壁は、冬の風が吹きつける悪天候の時には雪が凍りついて要注意だが、今日のように天気のいい日は、南に面しているから、岩壁の雪も大体は溶けていて、注意し行けば大丈夫だ。
そしてあの狭霧台から見たとおりに、あたり一帯は樹氷の花盛りで素晴らしい眺めだった。
頂上付近は広く平らになっていて、そこから灌木帯の樹氷越しに、祖母・傾連峰と九重山群、さらに遠く雲仙までもが見えていた。(写真下)
途中で頂上から下りてきた若者一人と出会い、さらに若者一人が後で登ってきたが、すぐに下りて行って私ひとりきりになり、静かだった。頂上は余り風もなく、私の思う通りの冬山の山頂だった。
しかし今日のこの登山は、前回の北アルプスは燕・大天井(11月8日~19日の項)からは、なんと二か月近くも間が空いていたから、私には久しぶりの山になるこの西峰頂上だけでもう十分に満足だった。
いつもならこれからお鉢一周のコースをたどるところなのだが(’11.12.27の項参照)、ここまで写真を撮りながら2時間半もかかったから、これ以上無理をしないで戻ることにした。
マタエに戻り、そこから東ノ岳に向かうつもりもなかった。わずか15分くらいの登りだが、頂上には他に何人かいるだろうし、樹氷も少ないし、西ノ岳方面の眺めも今一つだから今回は登らないことにした。
というのも、山から下りて幾つかの買い物などの用事があったからだ。
下りはさすがに早く、雪が溶け始めていて道や山の姿も冬枯れに戻りつつあり、写真を撮る興味もわかなかった。
そして、クルマが20台ほども停まっている登山口に戻り着き、休みを入れてもわずか5時間足らずの、雪山登山を終えた。
年寄りになりつつある私には、疲れの残らないこのくらいの山登りが適度な運動になるのかもしれない。(と言いつつ、昨日今日と筋肉痛なのだが。)
あの西ノ岳から北に下るお鉢コースは、今まで何度も通ったコースだし、先に足跡もなくて他の誰も行っていないから楽しめると、意地を張って無理をしてまで行く気にはならなかったし、久しぶりの登山では、それが正解だったのだ。
若いころには他人に対して、あるいは自分自身に対する意地で、無理をしてでもしゃにむに目先の事に挑んでいたのだが、年を取ってくると、様々な経験と今の自分自身の力の限界がよく見えてきて、あえて挑戦してみようという気にはならなくなるのだ。
確実に今の自分にできることだけを、そのほうが心安らかに楽しみながらできるということだ。
若い時にはそうした経験に基づく判断力がまだ確かではなく、ひと時の感情に流されて己のメンツや体裁のほうが気になるものだ。
もっとも、そうした冒険によってこそ、多くの新しい道が切り開かれてきたのだし、またはそこで挫折の有意義な経験を学ぶことになるのだ。
その一途なる強い思いは、男の一分(いちぶん)として、男の誇りとして、年齢に関係なく、男の胸の奥にかすかに燃え続けている思いなのかもしれない。
1週間ほど前に、NHK・BSで何度か目の放映になる映画『武士の一分』(2006年)を初めて見た。
日本映画はあまり見ない私だが、最近立て続けに3本も見てしまった。特にこの映画は山田洋次監督作品ということで、興味をそそられたこともあったのだが、結論から言えばしっかりと作ってあるいい映画だった。
江戸時代、東北のある小藩に仕える、殿の食事お毒見役の下級武士が、そのお毒見の貝料理にあたって、目が見えなくなり、お役御免の瀬戸際で、周りが手を打つべく画策しているさ中、その弱みを利用した上役に妻を手籠(てご)め同然にされてしまう。
そこで、”武士の一分”の復讐劇が始まるのだが、もともと藤沢周平原作によるものだから筋立てはしっかりしていて、ここでは、あの人気シリーズ”寅さん”もののような、人情劇ゆえの無理な筋立てなどにはなっていないのだ。
それでも気になる所はいくつかある。
盲目になってから、刀を自在にを使いこなせるようになる期間があまりにも短すぎること、さらにこれほどまでに屈辱的な事態の無念を晴らすために、思いを秘めておくことを”武士の一分”などとは言わないということ、それは普通の市井の人さえも悲憤慷慨(ひふんこうがい)するほどのことだから、むしろ武士に限らず”男の一分“と呼ぶべきことであるということ。
さらに主演の、スマップの木村拓哉が熱演しているものの、そのセリフまわしがあまりにも現代的でありすぎること。そして他の仲間の武士たちが東北らしく少しなまって話しているものの、敵役の坂東三津五郎の言葉があまりにもきれいな江戸言葉風でありすぎること(江戸勤めが長かったとしても)。
このセリフまわしについては、その前に放映されたあの名匠とうたわれる市川昆監督の『四十七人の刺客』(’94)、その中で大石内蔵助を演じた高倉健の場合もそうだった。
他の豪華な助演陣とのセリフまわし口調が余りにも違いすぎるのだ。若い日によく見た高倉健の任侠映画シリーズでの、あの怒りを抑えた話口調は、他の誰にも真似できない凄味のあるものだったのだが、確かなことは現代劇と昔の時代劇とでは話し言葉が違うはずだということだ。
さらに、この映画で内蔵助の妻りくの役として出ていたあの浅丘ルリ子の現代的な化粧顔とともに、他の助演陣、カメラ、舞台セットが良かっただけに、映画をダメにした大きな二つのミスキャストであったと思う。
さらに少し前に放映された、亡き中村勘三郎主演の『やじきた道中 てれすこ』(’07)も映画の出来としてはともかく、喜劇だから何でも許されるというわけではなく、気にかかるところが多すぎた。
たとえば勘三郎の弥次郎兵衛のセリフまわしが、粋な江戸っ子の言葉としてほれぼれするものだったのに比べて、周りがあまりにも違いすぎるのだ。相手役喜多八の柄本明にしろ、抜け駆け花魁(おいらん)役の小泉今日子にしろ、今の東京の言葉でしかなく違いは歴然だ。
私が、高校生の時に初めて東京に来た頃、町内のあちこちには、見事な江戸弁の名残を感じさせる口調で話すおじさん、おばさんたちがいたもので、そのキレのいい言葉に思わず聞き惚れていたくらいだったのに。あーあ、”昭和は遠くなりにけり”か。
今、その江戸弁の名残を聞けるのは、伝統芸の歌舞伎か落語くらいになってしまったのだ。
さらにこの映画で気になることを言えば、小泉今日子は唇が照り映える今風ななルージュをつけているし、歩き方が大股で、着物を着ていた時代に歩く歩き方ではない。
すべてを史実通りにしろと言っているわけではない。要は、現代風にアレンジすることが悪いのではなく、中途半端な組み立て方が観客としては一番戸惑うということなのだ。
つまり厳しいようだが、映画監督は時代物にあたって、はそのあたりのことを当然理解しておくべきなのだ。
最近の日本映画の不自然な点を挙げていけば、例えば、これはNHKの大河ドラマだが、『平清盛』でせっかく舞台や衣装が時代考証に照らした見事なものであるのに比べて、これまたセリフまわしやセリフそのものが現代的にすぎるし、最大の問題は、古く見せるためにとカラー映像に褪色(たいしょく)効果を施したという、大きなかん違いが問題なのだ。
少し前の時代の、セピア色の写真があった時代の話ならいざ知らず、千年近くも前の時代のことなのに・・・。これこそ、逆の意味での時代錯誤と言うのにふさわしい。
さらに、揺れるハンド・カメラを多用したことは、平安時代の昔の人物を描くこととどんな関係があるのか。
すべてはあの香港発の世界的大ヒット映画、『インファナル・アフェア』(’02)などに影響された最近よく見かける、悪く言えば物まねのカメラワークにしか思えないのだ。
他方、民放BSで、三週にわたりジム・ジャームッシュの初期三部作、『パーマネント・バケイション』(’80)『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(’84)『ダウン・バイ・ロー』(’86)が放映されていた。
ハリウッド映画を見ない私でも、アメリカ独立プロ系の作家たちの作品には興味深いものが多く、見ればつい引き込まれてしまう。これこそが、芸術としての個性なのだ。
映画になると様々なことが次から次に思い出されてきて、つい余分なことまで書いてしまったが、ここでは話を『武士の一分』に戻そう。
確かにセリフまわしなどで多少違和感を感じた所もあったのだが、ともかく小説の原作を見事に脚本化していて、涙のハッピー・エンドで終わらせるあたりは、さすがは人情派映画監督、山田洋次作品らしく心温まる映画になっているのだ。
そして何より感心したのは、家内外のセットや小物の類、火ごて(昔のアイロン)、食事の茶碗、土間のかまど、縁側の下の割竹の束などなど時代に即した物が置いてあり、さらに妻役の檀(だん)れいの立居振る舞いの見事さ、それは着物を着た武士の妻の所作そのものであり、戦争前の昭和初期の生れである山田洋次は、もちろんそれらのことを十分に分かっている上で演出したのだ。
あの『やじきた道中 てれすこ』の監督との大きな差を感じないわけにはいかない。
調べてみると、山田洋次の時代劇三部作として、この映画の前に『たそがれ清兵衛』(’02)と『隠し剣 鬼の爪』(’04)があるとのことであり、放映されるときにはぜひ見なければと思う。
これは余分な話だが、私が東京で編集者として働いていたころ、映画企画ものの一つとして、あの淀川長治氏と山田洋次氏の対談をセットして、その場でお二人の話を聞いたことがあるのだが、その中でも思い出すのは歌舞伎ファンでもある淀川さんが、山田洋次監督にしきりに歌舞伎の話を映画にするようにと勧めていたことである。
今にして思えば、あの歌舞伎の世界の愛欲情話にまみれた話よりは、さすがに長年”寅さん”シリーズを作り続けてきた監督であり、もっとさわやかな人情話としての時代物を映画にしたかったのだと、今さらに気がついたのだ。
それならば、ぜひともあの山本周五郎の作品群の中の一つでも映画化してほしいと思うのだが・・・。
(そして、可能ならば私の好きな作家のひとりである、森鴎外の時代物の作品群の一つでも映画化してほしいものだ。あの溝口健二による『山椒大夫』(’54)は素晴らしい映像美にあふれていて、その姉弟愛にも思わず涙したほどだったのだが。
たとえば、映画化は難しいとは思うが、『阿部一族』とか『高瀬舟』とか・・・。)
この年末から正月にかけては、いつものように、多くの歌舞伎やオペラ(今はミラノ座シリーズが始まっているが)、そして映画が放映されることだろう。
思えば、新しい年になればさらに一つ年を取ることにもなるのだが、それは考えても仕方のないことだし、今はただ、こうした楽しみをありがたくいただき味わいながら、年寄りの執念深さで、まだまだ読み返すべき本もあるし、整理し書きまとめなければならないものもあると、夢は果てしなく舞い上がっていくのだが・・・。
『雀(すずめ)、百まで、踊り忘れず』ってかー。
「母さんミャオ、相変わらずひとりでぐうたらに暮らしていますが、決してお二人のことを忘れることはありません。
これからも、自分ひとりの道を次の年に向かって、しっかり歩いて行こうと思っています。
それが今の私の、”男の一分”なのかも知れません。
天上から、お二人でどうか見守っていてください。
2012年、平成24年が過ぎていきます。」