ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

雪の由布岳と男の一分

2012-12-29 17:18:53 | Weblog
 

 12月29日

 昨日は、冷たい雨が降っていた。その雨で、今まで積もっていた雪も溶けてしまった。
 今日は晴れて、気温も10度を超えるほど上がり、師走とは思えない暖かさになった。
 まず洗濯をして外に干し、あちこち少しずつ掃除をして、その後、家を出て近くの町に行き、母の墓に花とお供えをあげ、ついでに買い物もすませてきた。もう年の瀬なのだ。

 週に一度は書いていた、このブログ記事の間隔が少し空いてしまった。別に何か大きな出来事が起きていたわけでもなく、相変わらずの毎日を送っていただけなのだが、より正確に言えば、一時的に気持ちがすっかり滅入ってしまって、とてもパソコンのキーを叩く気にもならなかったのだ。

 大もとの原因一つは、ミャオがいないからだ。
 ミャオが亡くなってから、もう8カ月になる。
 夏の間に帰ってきた時にも、ミャオが迎えてくれなくて寂しかったのだが、短い滞在だったからまだ良かった。しかしこうして、この冬も今までどおりにこの家でずっと過ごしていると、ミャオのいない寂しさが毎日次第に募ってくるのだ。
 それは、シカにかじられたねむの木ことなどはともかくとして、他のこと、日々の家事や庭仕事などやるべきことに変わりはなくても、ただその時々にいつも思うのは、ミャオがいないということだ。

 ミャオがいつものストーヴの前にいない。こたつの中にもいない。私の布団の上にもいない。ソファーの上にもいない。晴れた日のベランダにもいない。二人で散歩した時のように、私のそばを歩いていない。木の上や屋根の上にもいない。買い物から帰ってきても、ニャーオと鳴いて迎えてくれるミャオがいないのだ。

 庭には、ミャオの墓がある・・・。
 母が亡くなった後、しばらくの間はつらい毎日だった。しかし、5年を過ぎたあたりから、母がもうここにはいないのだと実感して、次第に自分だけの日常に慣れて行ったのだ。
 ミャオの場合も、それと同じとは言わないけれど、ミャオがいない毎日に慣れるためには、もうしばらく時間がかかるのだろう。
 今までにも何度もここにあげてきたあの映画の言葉と同じように、「時は偉大な作家だ。いつも完璧なストーリーを書いてくれる。」だろうから。

 ただ言えるのは、これもよく例にあげてきた映画からの言葉だが、家族と一緒にいると、時には息苦しい時もあるのだろうが、いざ家族なしになればとても一人ではやっていけないのだ。
 特に二人きりの場合、相手に去られた時の衝撃は大きい。それは、すべてを残った自分だけで受けとめなければならないからだ。
 だからできるなら、悲しみの衝撃を和らげるためにも、家族は多いほうが良い。恋人も複数いた方が良い。
 私はいつもひとりの相手だけに、一匹だけに向き合ってきたのだ。
 それはもちろんその分、自分の自由がきいていいのかもしれないが、相手に去られた後に、ひとりで引き受けざるを得ないものが余りにも大きすぎるのだ。

 かと言って、私は新たに猫を飼う気にはならない。ミャオの代わりなどいるわけがないし、また北海道との間を行ったり来たりしている今の私に、またミャオと同じように、年に何度もの別れのつらさを味わわせたくはないからだ。
 今はただ、過去の人々の思いを胸に、私ひとりでしっかりと生きて行くほかはないのだ。
 幸いにも、私には、まだまだやりたい仕事がいくつもある。
 そのための体力はまだ十分にあり、長年積み重ねてきた知力判断力も、まだ乏しいものながら私なりにベストだと思える今こそ、それらの仕事に取り掛かるべきなのだ。
 年寄りに向かいつつあるのは疑いもない事実だが、すべてが衰える前の、最高に燃えあがるひと時の中にいるというスリリングな感覚こそが、それこそが今を生きるという私の喜びにもなっているのだ。

 私は、こうして自分なりに、勝手に考えをまとめ上げて、それまでふさぎ込んでいた気持ちからようやく抜け出すことができたのだ。
 そして、一昨日久しぶりに山に登って来た。
 
 先日、また二日間ほど雪が降って、積雪は10cmほどだった。次の日は予報通りには晴れなくて、陽は差したものの雲が多すぎたから、とても山に行く気にはならなかった。
 前にも書いたように、九州の雪山をベストな状態で楽しむには、溶けやすい雪が消える前に、雪が降った次の日に行くのがベストなのだ。
 そして今回も、ライブ・カメラで見た九重・牧ノ戸峠の登山口付近は、前日の白い霧氷・樹氷の林が、ずいぶん溶け落ちていた。
 そこで行き先を由布岳に変えることにした。標高は低くなるが、独立峰だから頂上付近の灌木帯の霧氷樹氷がきれいで、特に北面は、晴れていても日影が多く遅くまで雪が残っているからだ。

 家から比較的に近いところにある、この九重と由布岳にはそれぞれ何十回というほどによく登っていて、特に冬の雪山の時期に登ることが多い。
 確かに、ミヤマキリシマなどの花時も素晴らしいが、暑い初夏の時期なのが嫌だし、何と言っても低い山は寒くはあるが暑くはない冬に、山そのものが一番見事に見える時に登るのがベストだと思っている。

 さて、その日の朝の気温はー7度だった。クルマで家を出て、ところどころ雪の残る道をしばらく慎重に走って行き、やがて湯布院の町を抜け、さらにその上にある狭霧(さぎり)台にまで上がってくると、頂上付近が白く輝く由布岳(1584m)の姿が、青空を背景に大きく見えている。百名山なんぞに選ばれなくとも、掛け値なしに名山の風格がある山だ。(写真上)
 登山口(780m)の駐車場に着いたのは8時で、他にクルマが2台停まっているだけだった。

 由布岳を仰ぎ見ながら、いつもの気持ちの良い冬枯れのカヤのすそ野を歩いて行く。そこからクヌギ、リョウブ、ノリウツギなどの小径木の樹林帯に入り雪道をたどると、少し見晴らしの開けた合野(ごうや)越えに出る。その先から由布岳山腹の樹林帯のジグザグ道になる。
 途中で、元気な声が聞こえていた若者3人が休んでいて、声をかけて先に行く。
 ようやく、木々が低くなり展望が開けて、九重と祖母・傾の眺めが素晴らしい。
 さらにその、アセビやミヤマキリシマが散在する灌木帯を抜けると、西ノ岳と東ノ岳の間のマタエに向かう急な登りになるが、このあたりから、木々に雪が吹き付けられた樹氷群の眺めが素晴らしい。なんといっても、それらを輝かせるのは背景の青空である。

 マタエ(1470m)からは、右に一般ルートの東ノ岳(東峰1582m)に向かう道ではなく、岩場にクサリ場が四か所ほどある西ノ岳(西峰1584m)に向かう。
 こちらのほうが人が少なく、東ノ岳の眺めと霧氷樹氷の稜線が素晴らしいからだ。(写真)


 

 
 これらの岩壁は、冬の風が吹きつける悪天候の時には雪が凍りついて要注意だが、今日のように天気のいい日は、南に面しているから、岩壁の雪も大体は溶けていて、注意し行けば大丈夫だ。
 そしてあの狭霧台から見たとおりに、あたり一帯は樹氷の花盛りで素晴らしい眺めだった。
 頂上付近は広く平らになっていて、そこから灌木帯の樹氷越しに、祖母・傾連峰と九重山群、さらに遠く雲仙までもが見えていた。(写真下)
 途中で頂上から下りてきた若者一人と出会い、さらに若者一人が後で登ってきたが、すぐに下りて行って私ひとりきりになり、静かだった。頂上は余り風もなく、私の思う通りの冬山の山頂だった。

 しかし今日のこの登山は、前回の北アルプスは燕・大天井(11月8日~19日の項)からは、なんと二か月近くも間が空いていたから、私には久しぶりの山になるこの西峰頂上だけでもう十分に満足だった。
 いつもならこれからお鉢一周のコースをたどるところなのだが(’11.12.27の項参照)、ここまで写真を撮りながら2時間半もかかったから、これ以上無理をしないで戻ることにした。
 マタエに戻り、そこから東ノ岳に向かうつもりもなかった。わずか15分くらいの登りだが、頂上には他に何人かいるだろうし、樹氷も少ないし、西ノ岳方面の眺めも今一つだから今回は登らないことにした。
 というのも、山から下りて幾つかの買い物などの用事があったからだ。
 下りはさすがに早く、雪が溶け始めていて道や山の姿も冬枯れに戻りつつあり、写真を撮る興味もわかなかった。
 そして、クルマが20台ほども停まっている登山口に戻り着き、休みを入れてもわずか5時間足らずの、雪山登山を終えた。
 年寄りになりつつある私には、疲れの残らないこのくらいの山登りが適度な運動になるのかもしれない。(と言いつつ、昨日今日と筋肉痛なのだが。)

 あの西ノ岳から北に下るお鉢コースは、今まで何度も通ったコースだし、先に足跡もなくて他の誰も行っていないから楽しめると、意地を張って無理をしてまで行く気にはならなかったし、久しぶりの登山では、それが正解だったのだ。
 若いころには他人に対して、あるいは自分自身に対する意地で、無理をしてでもしゃにむに目先の事に挑んでいたのだが、年を取ってくると、様々な経験と今の自分自身の力の限界がよく見えてきて、あえて挑戦してみようという気にはならなくなるのだ。
 確実に今の自分にできることだけを、そのほうが心安らかに楽しみながらできるということだ。

 若い時にはそうした経験に基づく判断力がまだ確かではなく、ひと時の感情に流されて己のメンツや体裁のほうが気になるものだ。
 もっとも、そうした冒険によってこそ、多くの新しい道が切り開かれてきたのだし、またはそこで挫折の有意義な経験を学ぶことになるのだ。
 その一途なる強い思いは、男の一分(いちぶん)として、男の誇りとして、年齢に関係なく、男の胸の奥にかすかに燃え続けている思いなのかもしれない。

 1週間ほど前に、NHK・BSで何度か目の放映になる映画『武士の一分』(2006年)を初めて見た。
 日本映画はあまり見ない私だが、最近立て続けに3本も見てしまった。特にこの映画は山田洋次監督作品ということで、興味をそそられたこともあったのだが、結論から言えばしっかりと作ってあるいい映画だった。
 江戸時代、東北のある小藩に仕える、殿の食事お毒見役の下級武士が、そのお毒見の貝料理にあたって、目が見えなくなり、お役御免の瀬戸際で、周りが手を打つべく画策しているさ中、その弱みを利用した上役に妻を手籠(てご)め同然にされてしまう。
 そこで、”武士の一分”の復讐劇が始まるのだが、もともと藤沢周平原作によるものだから筋立てはしっかりしていて、ここでは、あの人気シリーズ”寅さん”もののような、人情劇ゆえの無理な筋立てなどにはなっていないのだ。

 それでも気になる所はいくつかある。
 盲目になってから、刀を自在にを使いこなせるようになる期間があまりにも短すぎること、さらにこれほどまでに屈辱的な事態の無念を晴らすために、思いを秘めておくことを”武士の一分”などとは言わないということ、それは普通の市井の人さえも悲憤慷慨(ひふんこうがい)するほどのことだから、むしろ武士に限らず”男の一分“と呼ぶべきことであるということ。
 さらに主演の、スマップの木村拓哉が熱演しているものの、そのセリフまわしがあまりにも現代的でありすぎること。そして他の仲間の武士たちが東北らしく少しなまって話しているものの、敵役の坂東三津五郎の言葉があまりにもきれいな江戸言葉風でありすぎること(江戸勤めが長かったとしても)。

 このセリフまわしについては、その前に放映されたあの名匠とうたわれる市川昆監督の『四十七人の刺客』(’94)、その中で大石内蔵助を演じた高倉健の場合もそうだった。
 他の豪華な助演陣とのセリフまわし口調が余りにも違いすぎるのだ。若い日によく見た高倉健の任侠映画シリーズでの、あの怒りを抑えた話口調は、他の誰にも真似できない凄味のあるものだったのだが、確かなことは現代劇と昔の時代劇とでは話し言葉が違うはずだということだ。
 さらに、この映画で内蔵助の妻りくの役として出ていたあの浅丘ルリ子の現代的な化粧顔とともに、他の助演陣、カメラ、舞台セットが良かっただけに、映画をダメにした大きな二つのミスキャストであったと思う。

 さらに少し前に放映された、亡き中村勘三郎主演の『やじきた道中 てれすこ』(’07)も映画の出来としてはともかく、喜劇だから何でも許されるというわけではなく、気にかかるところが多すぎた。
 たとえば勘三郎の弥次郎兵衛のセリフまわしが、粋な江戸っ子の言葉としてほれぼれするものだったのに比べて、周りがあまりにも違いすぎるのだ。相手役喜多八の柄本明にしろ、抜け駆け花魁(おいらん)役の小泉今日子にしろ、今の東京の言葉でしかなく違いは歴然だ。

 私が、高校生の時に初めて東京に来た頃、町内のあちこちには、見事な江戸弁の名残を感じさせる口調で話すおじさん、おばさんたちがいたもので、そのキレのいい言葉に思わず聞き惚れていたくらいだったのに。あーあ、”昭和は遠くなりにけり”か。
 今、その江戸弁の名残を聞けるのは、伝統芸の歌舞伎か落語くらいになってしまったのだ。

 さらにこの映画で気になることを言えば、小泉今日子は唇が照り映える今風ななルージュをつけているし、歩き方が大股で、着物を着ていた時代に歩く歩き方ではない。
 すべてを史実通りにしろと言っているわけではない。要は、現代風にアレンジすることが悪いのではなく、中途半端な組み立て方が観客としては一番戸惑うということなのだ。
 つまり厳しいようだが、映画監督は時代物にあたって、はそのあたりのことを当然理解しておくべきなのだ。

 最近の日本映画の不自然な点を挙げていけば、例えば、これはNHKの大河ドラマだが、『平清盛』でせっかく舞台や衣装が時代考証に照らした見事なものであるのに比べて、これまたセリフまわしやセリフそのものが現代的にすぎるし、最大の問題は、古く見せるためにとカラー映像に褪色(たいしょく)効果を施したという、大きなかん違いが問題なのだ。
 少し前の時代の、セピア色の写真があった時代の話ならいざ知らず、千年近くも前の時代のことなのに・・・。これこそ、逆の意味での時代錯誤と言うのにふさわしい。
 さらに、揺れるハンド・カメラを多用したことは、平安時代の昔の人物を描くこととどんな関係があるのか。
 すべてはあの香港発の世界的大ヒット映画、『インファナル・アフェア』(’02)などに影響された最近よく見かける、悪く言えば物まねのカメラワークにしか思えないのだ。

 他方、民放BSで、三週にわたりジム・ジャームッシュの初期三部作、『パーマネント・バケイション』(’80)『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(’84)『ダウン・バイ・ロー』(’86)が放映されていた。
 ハリウッド映画を見ない私でも、アメリカ独立プロ系の作家たちの作品には興味深いものが多く、見ればつい引き込まれてしまう。これこそが、芸術としての個性なのだ。

 映画になると様々なことが次から次に思い出されてきて、つい余分なことまで書いてしまったが、ここでは話を『武士の一分』に戻そう。
 確かにセリフまわしなどで多少違和感を感じた所もあったのだが、ともかく小説の原作を見事に脚本化していて、涙のハッピー・エンドで終わらせるあたりは、さすがは人情派映画監督、山田洋次作品らしく心温まる映画になっているのだ。

 そして何より感心したのは、家内外のセットや小物の類、火ごて(昔のアイロン)、食事の茶碗、土間のかまど、縁側の下の割竹の束などなど時代に即した物が置いてあり、さらに妻役の檀(だん)れいの立居振る舞いの見事さ、それは着物を着た武士の妻の所作そのものであり、戦争前の昭和初期の生れである山田洋次は、もちろんそれらのことを十分に分かっている上で演出したのだ。
 あの『やじきた道中 てれすこ』の監督との大きな差を感じないわけにはいかない。

 調べてみると、山田洋次の時代劇三部作として、この映画の前に『たそがれ清兵衛』(’02)と『隠し剣 鬼の爪』(’04)があるとのことであり、放映されるときにはぜひ見なければと思う。

 これは余分な話だが、私が東京で編集者として働いていたころ、映画企画ものの一つとして、あの淀川長治氏と山田洋次氏の対談をセットして、その場でお二人の話を聞いたことがあるのだが、その中でも思い出すのは歌舞伎ファンでもある淀川さんが、山田洋次監督にしきりに歌舞伎の話を映画にするようにと勧めていたことである。
 今にして思えば、あの歌舞伎の世界の愛欲情話にまみれた話よりは、さすがに長年”寅さん”シリーズを作り続けてきた監督であり、もっとさわやかな人情話としての時代物を映画にしたかったのだと、今さらに気がついたのだ。
 それならば、ぜひともあの山本周五郎の作品群の中の一つでも映画化してほしいと思うのだが・・・。
 
 (そして、可能ならば私の好きな作家のひとりである、森鴎外の時代物の作品群の一つでも映画化してほしいものだ。あの溝口健二による『山椒大夫』(’54)は素晴らしい映像美にあふれていて、その姉弟愛にも思わず涙したほどだったのだが。
 たとえば、映画化は難しいとは思うが、『阿部一族』とか『高瀬舟』とか・・・。)

 この年末から正月にかけては、いつものように、多くの歌舞伎やオペラ(今はミラノ座シリーズが始まっているが)、そして映画が放映されることだろう。
 思えば、新しい年になればさらに一つ年を取ることにもなるのだが、それは考えても仕方のないことだし、今はただ、こうした楽しみをありがたくいただき味わいながら、年寄りの執念深さで、まだまだ読み返すべき本もあるし、整理し書きまとめなければならないものもあると、夢は果てしなく舞い上がっていくのだが・・・。
 『雀(すずめ)、百まで、踊り忘れず』ってかー。

 「母さんミャオ、相変わらずひとりでぐうたらに暮らしていますが、決してお二人のことを忘れることはありません。
 これからも、自分ひとりの道を次の年に向かって、しっかり歩いて行こうと思っています。
 それが今の私の、”男の一分”なのかも知れません。
 天上から、お二人でどうか見守っていてください。
 2012年、平成24年が過ぎていきます。」


 



 
 

  

ねむの木の受難と”もののあわれ”

2012-12-17 19:10:08 | Weblog
 

 12月17日

 上の写真を見てもらえばわかるとおり、家の前にあるねむの木がシカにかじられてしまった。
 朝、外に出て、このねむの木の無残な姿を見た時、私は言葉もなくただぼうぜんと立ち尽くすばかりだった。
 直径40cmほどもある大木の周りにはいくつものシカの足跡とフンが散乱していた。
 このねむの木は、2年前にもシカにかじられて(’11.2.17の項)、とりあえず消毒補修手当てをして、何とか枯らさずにすんで、今年の夏もきれいな花をいっぱい咲かせてくれて一安心していたのに・・・。

 それがひどいことには、食べられた木の皮の面積が広すぎることだ。
 2年前の時も、衝撃的な食べられ方だったが、今回はその反対側を2倍ほども、幅40cm長さ1mほどもの面積があり、もちろん手当はしてみるものの、おそらくは致命的な傷になるだろう。

 長年きれいな花を咲かせてくれた、おそらくは樹齢数十年を超えるだろう自生種のねむの木、私にとって大切なだけでなく、母が嬉しげに見上げて、ミャオが駆け上がった思い出のある、ねむの木なのに・・・。

 私は今までに、シカによる様々な被害を見てきた。
 北海道の家の庭木が、毎年かじられて今までに10本ほどが枯れてしまったこと、周りの農家の牧草を食い荒らし、畑の中に入り込んで農作物を踏み荒らしたこと、さらには私の車にもぶつかってあわやの事故になったこと、今年の夏の南アルプス縦走の旅でも、シカやサルによる高山植物の食害を目のあたりにしたことなどなど。

 しかし、動物愛護の人たちは言うだろう、「つぶらな瞳のバンビちゃんに罪はない、殺さないで」と。
 人間の手によって地球環境が破壊されていくことに反対し、動物保護を訴え続ける人々にとって、か弱い動物たちによって人間が受ける些細な被害などは、自然を破壊し続けてきた人間たちへの当然の報いでしかないのだろう。
 もともと、動物たちの生息領域だったところを次第次第に狭めていったのは、誰あろう人間たちそのものなのだから、今動物たちの反撃を受けているのだと。

 もちろん私も、おおもとのところでは自然保護派であり、そうした人間性悪説に組しないでもないのだが、しかしその問題を突き詰めていけば、つまるところ私たち自身の存在意義もなくなってしまう。
 だから、すべて物事はどっちもどっち、お互いに歩み寄り理解しあうしかないのだろう。
 ただとはいっても、直接被害をこうむった当事者者側にとっては許すことのできないことなのだが、大多数の何も知らない他人にとってはどうでもよいことなのかもしれない。

 私がたとえ話としてたびたびここでも書いてきたように、アフリカの草原でヌーの大群がライオンに襲われ、その中の不運な一頭が仕留められ食べられている時に、難を逃れて遠くからそれを見ている他のヌーたちの思いのようなもので、自分が実際に犯罪被害者にならなければ、あるいは重篤(じゅうとく)な病や事故にあわなければ、つまり当事者やその家族になって初めて、その事の重大さや苦しみに気づくだけのことなのだ。
 被害を受けた他人の身の上には同情するだろうが、あくまでも自分の身の痛みではないのだ。それは人間がそれぞれに違う個人であるから、当然のことでもあるのだが。

 もちろんこの社会の中にいる限り、一人では生きていけない。誰でも”時には誰かに助けられて今日まで生きてきた”のだし、それはわかっていても、しょせん一人で生まれてきて一人で死んでいくほかはないのだ。
 すべて自分の身の上に振りかかってきて初めて、その苦しみや辛さのほどがわかるのだ。そのことに気づいた時にはいつも遅く、何事も学べないまま、次の世代でも、また同じことを繰り返すのだろう。

 とまれ、私はついわが身のことを考えて感情的になり、余分なことまで書いてしまったようだ。
 このねむの木のシカの食害の問題は、関係のない他人にとっては大騒ぎするほどのことではないのだ。

 そこで、私なりに冷静に考えてみたが、この場合、シカの生活領域を人間が狭めたというよりは(最近大開発され続けているわけでもないから)、ここ数十年の問題としては、明らかにシカの個体数が増えたからだと言えるのかもしれない。
 それは温暖化や里山の耕作放棄地などによるシカの食生活領域が広がったことと、昔の天敵であったオオカミやツキノワクマが(九州では)絶滅したことはもとより、近年顕著な猟師の数が減ったことなどによって、本来の自然界でのバランスか崩れ、増える一方になったのだろう。

 もちろんそれは、百年二百年前でなく、さらにそれ以前、有史以前というところにまでさかのぼれば、当初地球上の新種の生き物でしかなかった人間が、ただひとりだけ急速に頭脳を発達させていき、道具と策略を使い、他の動物たちを襲い駆逐(くちく)させていったことにも、遠因があり、それはまさしく人間による動物迫害史の話になり、結局悪いのは人間になってしまうのだが。

 私は30年以上も続く野鳥の会会員だし、イヌやネコだけでなく、動物たちが好きなのは言うまでもない。
 今回問題になっているシカにも、山の中で何度でも出会っている。
 北海道の大きなエゾシカ、本州から九州にかけているホンドジカ、屋久島にいる小さなヤクシカ(’11.6.20の項)。
 彼らが目の前に現れた時、その生き生きとした目に、しなやかな体に、私は、高山植物の花々や原生林の木々に出会えたときと同じような、野生そのものに、自然そのものにふれあえる喜びを感じるのだ・・・。

 その思いと、こうして被害を目のあたりにしたときの思い・・・どう判断するべきなのだろうか。
 しかしともかく今は、当然のことながら、手遅れかもしれないが、ねむの木の傷の手当てをするしかない。
 まずはそこに傷口保護剤を塗ったのだが、強い雨に降られて、すべて溶け落ちてしまった。
 それではと、次に天気の良い日を見はからって、再び保護剤を塗り直し、十分乾いてから、その上からピートモス、モルタルの混ぜ合わせたものを塗ることにした。
 何分傷口があまりにも広範囲に及んでいるから、助かるかどうか・・・毎年咲いていたあの鮮やかな虹色の花は、来年には・・・。(写真は今年の夏のもの)


 

 ところで話は変わるが、NHK・BSで4年前に放送され、今年の7月にも再放送された番組、『漂泊(ひょうはく)のピアニスト、アファナシエフ もののあわれを弾く』を、昨日になって初めて見た。
 それはTV各局とも選挙速報特別番組ばかりで、他に見るものがなかったから、録画しておいたものの中から見始めただけのことだったのだが、すぐに引きずりこまれてしまった。
 また新たな良いドキュメンタリー番組を見せてもらったと感謝するばかりである。
 優れた作品は、文学、音楽、映画、舞台、そしてテレビ番組にも共通する、優れた人間ドラマにもなっているのだ。

 ワレリー・アファナシエフ(1947~)は旧ソビエト出身のピアニストである。ロシア・ピアニズムの伝統を受け継ぐ彼は、ソ連邦の時代の1975年、両親の死という不幸も重なって自由を求めて西側に亡命した。
 しかし、その自由な生活の代償に、彼は大切な師でもあったあの巨匠ギレリスとの関係を断たれ、多くの友人を失い、さらに予期せぬことに、今までの国家に守られていた演奏活動とは異質の、西側の商業主義の音楽界に巻き込まれることにもなったのだ。

 今彼は、パリ近郊ベルサイユの住宅地に、一匹の若い猫と共に暮らしている。
 なるべく演奏会を減らして、思索の時間や読書の時間を増やして、音楽という芸術に身をささげるべく素養を積むこと・・・。

 その彼の子供時代からの歩みを追って、今や自由になったロシアを訪ねては旧友に会い、母校のモスクワ音楽院でレッスンをする彼の姿を映し出していく。
 今では、若き日のテクニシャンぶりとは違う、その独特のゆったりとしたテンポから繰り出される音の響きから鬼才とも呼ばれていて、一方では、日々の思索の中から生み出した何冊もの詩集や小説を出版しているほどなのだ。
 若いころから『徒然草』や『源氏物語』さらには『古今和歌集』といった日本の古典文学に親しみ、それらの中にある日本特有の美的感覚である”もののあわれ”に共感しているけれども、それは、彼がもともと持ち合わせていたものでもあるというのだ。

 その始まりは3歳のころ、モスクワ近郊の森の中でたまたま一人きりになり、しかし怖いとは思わずに、空を見上げてはその壮大な静寂の自然の中にいる自分を感じたという。
 その経験は、さらに12歳の時に、当時の有名なピアニストであったソフロニツキー(1901~1961)がリストのロ短調ソナタを演奏するのを聴いて、演奏会場での同じ静寂の素晴らしさを感じ、その時、音楽の持つ不思議な力が静寂の中から現れるのを知って、彼はピアニストになる決心をしたのだという。

 そしてその後、幾つかの日本古典文学を知り、その中の”もののあわれ”の世界が彼の心をとらえ、のちに亡命という後ろめたさを背負うことになったときに、それは消えゆく時の流れの中の哀しみとして映ったのだ。

 その同じ哀しみが、幾つかのピアノ曲の中にも見えるのだ。
 たとえば、ピアニストとしての致命的な手を痛めてしまい、狂気の中で死んでいったあのロベール・シューマン(1810~56)、その「クライスレリアーナ」の曲の中に。
 そして過ぎ去った思い出の中に生きたヨハネス・ブラームス(1833~97)は、その「三つの間奏曲」(私がその昔初めて買ったアファナシエフのCD)の中からも聞こえてくる。
 そして、彼は言う。深い静寂の中から立ち上がる、”もののあわれ”を最も強く感じるのは、フランツ・シューベルト(1797~1828)がわずか31歳で死ぬことになったその年に書いた、最後のピアノ・ソナタ変ロ長調第21番であると。

 私が初めてこのピアノ・ソナタを聞いたのは、レコードの時代、確かダニエル・アドニの廉価盤だったと思うが、その長大なソナタを裏面に返すのももどかしく一気に聴いた覚えがある。
 それまでによく聴いていたモーツァルトやベートーベン、ショパンなどのピアノ曲とはどこか違う、美しさの裏に秘められた不気味な不安。
 私はこの曲にひかれながらも、あまり何度も聴く気にはならなかった。どこかに死のにおいのするこの曲に、当時若さのただ中にいた私の、本能的な体の感覚が遠ざけていたのかもしれない。
 その後冷静に聴ける年に達してから、コンサートを含めて何人かのピアニストでこのソナタを聞いたけれども、ベストはやはりリヒテルのものだと思っていた。

 アファナシェフは言う。

 「この曲には、死のにおいが立ち込めている。生と死の間をさまよい、美しさと恐怖を併せ持っている。
 冒頭の音楽史上最も不気味な低音部のトリルによって宙づりにされる。」

 2007年、彼は演奏会にあわせて来日し、秋の京都嵐山を訪れている。

 「この京都から離れてさびしいと感じることはありません。いつも心の中に持ち歩いている最愛のものを失うはずがないからです。この風景、山の感じ、静けさは、いつも私の心の中にあるのです。」

 「私は孤独な人生を歩んできました。世の中からは離れて自分の中に引きこもることもあります。
 人ごみから離れないと生きた心地がしないという人の気持ちがわかります。」

 「私は、無常観ともののあわれが描き出された源氏物語に、大きな影響を受けてきました。
 私たちは愛するものと別れるという経験をしなければなりません。人生には、幸せと不幸せが入り混じっていて、それは切り離されないものなのです。
 私は西側に亡命したことで、大きなものを失いました。どんな幸せでも、その中にはたくさんの別れや喪失を含んでいるということを、源氏物語は極めて美しい形で示してくれているのです。」

 そして彼は、紅葉が盛りの京都岩倉、実相院の一部屋で、そのシューベルト最後のピアノ・ソナタを弾くのだ・・・。

 前回あげた、ローマ皇帝マルクス・アウレーリウスの言葉と、その前に書いた『方丈記』や『徒然草』の言葉、そして今回のアファナシエフの言葉と・・・時代も国も違うけれど・・・回る回る時代は回る。


 それにしても、私のそばにはミャオがいないのだ。
 そしておそらく来年からは、ねむの木の花も見られなくなるのだろう・・・。


 
 

自省録

2012-12-10 18:29:56 | Weblog
 

 12月10日 
 
 朝、気温-5度、積雪10cm。12月の初めにこんなに雪が積もったことはあまり記憶にはないほどだが。
 私の小屋があるあの北海道の十勝地方でも、今頃はまだ雪が少ないはずなのに、すでに30~50cmもの雪が積もっているとのことである。
 最近は、暖冬続きで降る雪も少なくなったと思っていたのに、さすがは大きなサイクルで動く自然の営みだけあって、時にはぶり返しの環境変化の厳しさを教えてくれるのだ。

 昨日の夕方、雪がやんだところで、家の前から表通りの道まで、50mほどを除雪作業した。
 そんなに深く積もったわけでもなく、わずか30分余りの仕事だったが、ぐうたらなひとり暮らしを送っている私には、むしろ恵みのいい運動になったと感謝すべきことなのだろう。

 一息ついて家に戻ってきてみると、ベランダに吊り下げていた干し柿の幾つかが、鳥についばまれて揺れていた。(写真)
 甘いものが大好きなヒヨドリたちの格好のエサになっているのだ。
 干し柿作りは、亡くなった母が毎年欠かさずやっていたわが家の季節行事の一つだった。
 家の庭や周りの野山になっている柿の実を、親子二人がかりで採りに行き、それでも大きなものが少ないから、わざわざ店で買い足してまで、干し柿づくりをしていたのだ。
 そして、昔から同じようにヒヨドリたちに襲われていた。その手間ひまかけて作った楽しみの干し柿が、ヒヨドリについばまれるのを見た母の怒りの顔が見ものだった。
 まるで、子供のころの私を厳しくしかりつけた時のように・・・。

 そんな日のあたるベランダには、今では母もいないし、陽だまりで寝ているミャオもいないのだ。
 それでも、私ひとりになっても、毎年こうして柿の皮をむき、熱いお湯にくぐらせた後、軒先に吊るしている。
 年寄りになれば誰でも、繰り返し行うことで、習慣化することで、同じような季節を実感しては安心するのだ。今年もまだ自分はこうして元気でいるのだと、しみじみと思うのだ・・・。

 年を取っていくということは、そうした年ごとにめぐり来るものへの再確認、つまり安心することを楽しむことにあるのではないのだろうか。
 昔読んだ本を読み、前に聴いたことのある音楽を聴き、若いころに見たことのある映画を見る。
 かつて経験したことのある、期待を裏切ることのないものたちの所へ再び訪れること。それは時間の経過とともに、多少は変わってはいるけれども、その変化したものにも出会えるという喜びを含めて、私の興味をふくらませてくれるのだ。

 もっともそれは、単に自分が年を取って様々な経験を積み、物事をじっくりと見るようになっただけのことなのだが。
 若い時には、直観と感情で性急に判断し、年を取れば、猜疑心(さいぎしん)あふれる経験に照らし合わせて、時間をかけて偏(かたよ)らない判断を下そうとするのだ。

 私は、その年寄りになるべく、今や人生の時間は残り少ないのに決して急がずに、来るかもしれない未来よりは確かな過去を味わいつくすべく生きているのかもしれない。あーあ、いやなひとりよがりのじじいになったものだ。
 そこで反省しつつ、昔読んだことのある本を再び読んでみる。その名も、『自省録』である。

 古代ローマの時代、その偉大なるローマ帝国の皇帝として、それも五賢帝の一人としてその名をうたわれたマルクス・アウレーリウス(西暦121年~180年)、この本は彼が書き残していた断片的な手記をまとめたものである。
 彼は、古代ギリシャのストア学派の流れをくむ哲学者であると言われているが、その考え方には一方ではエピクロス学派的なものも見られるのだが(’10.6.22参照)、それはともかく、かつてあのプラトーンが理想的な支配者像として考えた、哲学者王をそのまま具現する者でもあったのだ。

 しかし、哲学のために思索する時間をもっと増やし、著述に専念する時間も欲しかったろうが、そこは多忙を極めるローマ皇帝であり、あまつさえ当時、にわかに不穏な空気をはらみつつあった辺境での蛮族(ばんぞく)との戦いのために、長くローマに腰を落ち着けることさえできなかったのだ。
 そんな彼が、わずかな時間に書きとめていた思索の断片は、もちろん論文的に体系だって書かれたものではなく、支配者・統率者である者としての、きわめて真摯(しんし)で良心的な思いに溢れていて、(どこかの国の政治家たちに読ませたいくらいだが)、哲学者の言葉というよりは、倫理学者の言葉、いやむしろ“自省録”としての日付のない日記だと読めなくもない。
 (その短い警句としての短文の伝統は、その後時代をおいて、特にフランス語圏のエラスムス、モンテーニュ、パスカル、ラ・ロシュフコー、アランなどへと受け継がれていくのだ。)

 それにしてもこれらの文章が、歴史に残る大帝国の皇帝によって書かれたものだとは、まして年号がB・C(before christ)からA・D(anno domini)に変わってまだ百数十年くらいしかたっていないころの、今から1900年も前に生きていた人の言葉だろうかと思ってしまうのだ。
 まったくこの長い年月の間に、人類はどれほど進歩したというのだ、科学の力だけを振り回して、この地球を支配したつもりになっていて・・・。

 この『自省録』の中から、いくつも取り上げたい文章はあるのだが、いずれ折にふれその時々にあげることにして、今回はそれらの中から、北海道と九州とをぜいたくにもあるいは苛酷(かこく)にも行き来する、私への自省を込めた思いから、下に書き出してみた。

「 人は田舎や海岸や山にひきこもる場所を求める。
 君もまたそうした所に熱烈にあこがれる習癖(しゅうへき)がある。
 しかしこれはみなきわめて凡俗な考え方だ。
 というのは、君はいつでも好きなときに自分自身の内にひきこもることができるのである。
 実際いかなる所といえども、自分自身の魂の中にまさる平和な閑寂(かんじゃく)な隠れ家を見出すことはできないであろう。
 この場合、それをじっとながめているとたちまち心が完全に安らかになってくるようなものを自分の内に持っていれば、なおさらのことである。
 ・・・。」

(マルクス・アウレーリウス 『自省録』 神谷美恵子訳 岩波文庫より)

 マルクス・アウレーリウスは、その辺境蛮族との戦いのさなか、ドナウ河畔、今のウィーン付近で病死した。58歳。

 話は変わるけれども、57歳で同じく病に倒れたあの中村勘三郎のことを考えてしまう。巧みな踊りに所作に伝統ある歌舞伎の古典的素養を先代からしっかりと受け継ぎながらも、さらなる新しい歌舞伎への道をも貪欲に探り続けた勘九郎の時代からの勘三郎の歩み・・・。
 昨日、追悼番組としてNHK教育で放映された、髪結新三(かみゆいしんざ)を演じる勘三郎の粋のよさ・・・。
 もう彼の新しい演目を見ることはできないのだ。思えばわずか40歳で逝(い)ってしまったあの尾上辰之助といい、失われた個性の存在が余りにも大きすぎるのだ。
 
 彼らの死を見つめながら、いたずらに馬齢(ばれい)を重ねるだけの私・・・。

 「神さま、わたしに星をとりにやらせてください、

  そういたしましたら病気のわたしの心が

  少しは静まるかもしれません・・・」

 (『ジャム詩集』堀口大学訳 新潮文庫より)

高度1万メートルからの眺め

2012-12-03 16:52:45 | Weblog
 

 12月3日

 数日前に、北海道から九州の家に戻ってきた。ちょうど、強い冬型の気圧配置になり、全国的に寒波が入り込んできたころだ。
 翌日の朝の気温は-4度。何だこれなら、暖かい九州とは言えないじゃないか、北海道と変わらないな、とひとりごと。

 そうなのだ、九州の内陸山間部は、雪もかなり積もるし、気温的には東北地方都市部ほどの寒さになり、その上に悪いことには、すき間風が多い夏向きの家だから、余計に寒く感じるのだ。
 さらにわをかけて寒いのは、暖房器具がポータブルの石油ストーブとコタツしかないからでもあり、十分に部屋が暖まらないのだ。

 これでは、しっかりした鋳物(いもの)製の薪(まき)ストーブがある、あの丸太造りの北海道の家の方が暖かいのは当然のことで、たとえ北海道の家にいて、外が-25度になったとしても、この九州の家での外気温-10度の時の方がはるかに寒いのだ。
 九州の家では、コタツやポータブルストーブの傍から離れられないけれど、北海道の家では、家じゅうが暖まっていて、燃え盛る薪ストーブの傍になんかいられないほどだ。
 そして外に出ると、ダイアモンド・ダストのサラサラ雪の世界が広がっている。この家の中と外の40度もの気温差が、ぐうたらな私を目覚めさせるにはちょうどいい。

 その冬の女王様の寒さのムチが、何ともたまらないのだ、アヘー。
 カメラを防寒ジャケットの中にしまいこみ、誰もいない雪原や丘をひとりさまよい歩くのだ。
 そして冷え切った体で家に戻ると、体中から湯気が立ちのぼってくるほどの暖かさだ。

 そんな北海道の冬大好き人間の私が、なぜに、もう母もいないそしてミャオもいない九州の家に戻ってきたのか。
 人間誰しも、生きている限りはさまざまな社会とのつながりがあり、長年たった一人でフィリピンのジャングルで暮らしていた小野田少尉や横井軍曹の例はともかくとして、生きて行くためには様々な手続き事務処理等が必要となるのだ。
 またそれが一カ月ごとくらいにあって、とても冬のこの時期に、北海道から何度も往復してすませるわけにはいかないのだ。

 というのは、冬の間はほんの少し家を空けただけで、家までの道の除雪の問題、井戸水ポンプ凍結の問題、風雪に備えて厳重に締めきった雨戸などの開閉、冷え切ってマイナスまで室温が下がっている家を二日かかって暖めなおしてと、それは北アルプスの山小屋の春の小屋開けとなんら変わらない七面倒なことどもを、たったひとりでその度ごとに解除し元に戻してやらなければならないのだ。
 つまり都会の家や部屋のように、玄関のドアを開ければ、すぐにいつもの生活に戻れるというわけではないのだ。

 表面的には、北海道と九州を行き来する気楽な田舎暮らしに見えるだろうが、これと同じことをそれ相応の覚悟をもって他の誰ができるだろうか。大変なんだから、ほんとにもう・・・。

 その上に、私が帰ってくることを待ち望んでいたミャオも、今はいないのだ。ひとりでいる気楽さは、ひとりでいる哀しさと、いつも表裏一体なのだ。
 二人でいる喜びには、二人でもひとりの哀しみがつきまとう。

 『あなたといると苦しすぎる。でも、あなたなしでは生きていけない。』

 (1981年のトリュフォーの映画『隣の女』より)


 この冬の帰郷は、複雑な思いを抱いての、北海道から九州への飛行機の旅だったが、しかしそこには、そのつらい気持ちを慰めるべく、素晴らしい景観が窓の外に広がっていたのだ。

 もともと、私はいつも飛行機からの眺めを楽しみにしていて、窓側でない席だった時には運賃を半額にしろと言いたくなるほどの空マニアなのだ。
 それは、いつもこのブログに書いているように、お天気屋の私は、下界がどんなに天気が悪くても、成層圏の上はいつも晴れて青空が広がっているから、もうそれだけで幸せな気分になれるのだ。

 もちろん、それが下まで見える天気の日にこしたことはないし、望むらくは、そこから日本の名だたる山々の姿を俯瞰(ふかん)できれば言うことはないのだが、たとえ雲に覆われて下界が見えなくても、広がる雲のさまを見ているだけでもあきることはない。
 夏場の1万m以上までにも湧き上がる雄大な積乱雲(入道雲)、天気のいい日に波のように浮かぶ卷積雲(うろこぐも)、びっしりと並ぶ高積雲(ひつじぐも)さらにはこうした低気圧上空のべたっと続く乱層雲などがあり、その雲の上にはブロッケン現象の光の輪の中に映る飛行機の影や、雲の中の雷の光なども見ることができる。

 さて数日前のこと、雪が降りしきる十勝帯広空港から飛び立った飛行機は、白い十勝平野を下に見てすぐに雲の中に入り、かなり揺れた後、青空の広がる雲の上に出た。その後の飛行も、乱気流を避けて、いつもよりは高く、高度1万mを超える辺りで巡航していた。
 太平洋上の雲の海を過ぎると、東北の所々には雲のすき間が広がり、津波のツメ跡の残る三陸海岸から、仙台そして頂上付近が白くなっている蔵王が少し見え、次の吾妻連峰は雲に覆われていた。
 しかし、次第に高度を下げて北関東に入ると広く晴れていたが、さすがは冬型の気圧配置で、雲もないのに機体は揺れていた。
 その晴れ渡った霞ヶ浦周辺から東京湾岸にかけてずっと、まるで地図で見るような地形が広がり、かなたには富士山の姿も見えていた。

 羽田で下りて、福岡便に乗り換えた。今度も窓側の席だが、ただし悩ましい問題がある。進行方向どちら側にするかだ。
 いつものように、右側の席であれば(つまり北側の窓から眺めれば)、奥秩父や八ヶ岳、南アルプスに中央アルプスそして遠く北アルプスの山々を見ることができる。
 しかし今回は、幸いにというべきか、進行方向左側の南側に面した席だったのだ。というのは、先ほども見えていたのだが、この夏の終わりに登ったばかり(9月2日、6日の項)の富士山(3776m)を見ることができるからだ。

 そして飛行機は東京上空を旋回した後、高度1万mでの安定飛行に移る。やがて、山中湖を前景に近づいてくる富士山の姿から、さらには反対側の大沢崩れが見えそして離れて行くまでをずっと見ることができたのだ。
 (写真上は、駿河湾の沼津付近の入江を背景にした、富士山の姿である。)

 次に反対窓側の席が空いていないかと見るが、あいにくふさがっている。そこで急いで一番後ろのトイレ手前の小窓に駆け寄り、外を見ると、素晴らしい南アルプスの眺めだった。私は夢中になって、カメラのシャッターを押し続けた。
 鳳凰三山(2840m)に甲斐駒ケ岳(2967m)、仙丈ヶ岳(3033m)、そしてこの夏たどった稜線(7月31日~8月16日の項)に、北岳(3193m)、間ノ岳(3189m)、農鳥岳(3026m)その手前から熊の平、北荒川岳(2698m)そして塩見岳(3052m)へとつながる白い山並み。(写真下は、北岳、間ノ岳、農鳥岳と続く白峰三山。)
 さらに続く荒川三山から赤石岳、聖岳などは機体の真下になって残念ながら見えないが、次には伊那谷をはさんで中央アルプスが近づいてくる。少し雲がかかっていたが、主要な峰々を確認することはできた。
 席に戻っても私の興奮は続いていた。長年北海道との間を行き来しているが、これほどよく山々が見えたのは、久しぶりのことだったからだ。

 北海道への空の旅は、初めのうちは2か月前運賃割引を考えて、福岡―札幌の直通便を利用していたのだが、その先が大変で、まず千歳―帯広の列車に乗り換えなけれならず、帯広からはバスに乗り継いで、バス停からさらに歩いて家にと、待ち合わせ時間を含めて、ともかく時間がかかりすぎるのだ。
 しかしこの列車の旅では、車窓から日高山脈の山々が見えてきて、少しずつ十勝へわが家へと近づいてくると、ようやく帰って来たのだという実感がわいてきて、それなりにいい旅だったと今でもなつかしく思う。

 それは同じようにさらに昔のこと、夜行寝台列車で青森に向かい、翌朝連絡船に乗って函館山が近づいてきた時に、さらに列車に乗り換えて、大沼の向こうにすっきりとそびえる駒ケ岳(1131m)の姿を見た時に、私は何度涙ぐんだことだろう。
 ここが私の北海道なのだと・・・。

 あのひたすらに北海道を思いつめていた日々から、もう何十年が過ぎたことだろう。そして今、そこへ向かう道のりは多少変わったけれども、北海道を思い続ける私の気持ちに、変わる所はない。
 私の人生の中では、幾つかの大きな出会いがあったが、間違いなく、北海道は山登りとともに、最も大切な出会いの一つだったのだ。

 と言いつつ、月日は過ぎ、今やこんな情けないじじいになり果てた私だけれども、北海道の自然から人々に至るまでのすべてに、心から感謝の言葉を捧げたいのだ。
 生きていて良かったと感じさせてくれた北海道に、ただただありがとうと。

 あーあ、やだねー。自分の人生を振り返ることしかできなくなった、年寄りの感傷というのは。
 それは、未来に夢をふくらませすぎた青くさい若者の挫折の感傷に似て、自分だけの世界に酔っているのだから。

 話を飛行機からの眺めに戻そう。
 その福岡―札幌便からの眺めも悪くはなかった。日本海沿岸に沿って北上していくために、白山、北アルプス、上信国境、飯豊山、朝日岳、鳥海山などの山々を見ることができるのだが、ただ海上離れたコースのために、山々の姿が少し遠すぎるのだ。
 今までの国内飛行最高の眺めは、もう十数年前になるが、母を連れて春の東北旅行をした時のことで、福岡ー伊丹―仙台と乗り継いだその飛行機から、雪に覆われた北アルプスや南アルプスの全容を見ることができたのだ。
 母がいることも忘れて、機内を左に右に、写真を撮りまくったことを覚えている。いやー、あの時はすごかった。

 海外旅行では、まずはオーストラリアのアリススプリングスからエアーズロックに向かう小型飛行機からの眺めだ。赤い大地にうねる地球のしわの壮大な景観。
 そして、若いころのヨーロッパ旅行の時、格安運賃の南周り便、香港からドバイを経由してロンドンへの二日がかりの飛行機の旅だったが、私はずっと窓辺に張りついていて、外の景色を眺めてあきることはなかった。
 特に中東の砂漠地帯から緑のヨーロッパに入った時、さらにその中央にアルプスの山々の白い大きな連なりを見た時。

 そしてこれから先、飛行機に乗って山々を見てみたいのは、最近NHK・BSで何度か放送されていた“ヒマラヤ空撮シリーズ”での、あのヒマラヤの峰々の眺めだ。

 さらに国内では、こうした冬の時期に、日本アルプスを横断や縦断する飛行ルートの便に、晴れた日の当日手続きで乗ってみたい。
 それ以上に、私の憧れの山々であり続けた、あの日高山脈全山を見ることのできる飛行ルートの便にも乗ってみたい。恐らくそれは、札幌―釧路便だけだろうが。
 昔といっても少し前のことだが、函館―帯広便があり、日高山脈を見るためにいつか乗ろうと思っていたら、すぐに廃止になってしまった。
 現在の帯広ー羽田便では、日高山脈の見える離陸直後や着陸時にはデジカメは使えないし、それならとフィルムカメラを用意して乗りこんだこともあるのだが、快晴の日にはまだめぐり会っていないのだ。

 バカと何とかは高いところが好きのたとえどおり、高い山からの眺めや飛行機からの眺めに憧れる私の思いは、これからもまだしぶとく続いていくことだろう。

 “バカはー死なーなきゃ―なおらーなーいー。”
(1953年の映画『次郎長三国志・次郎長初旅』の中で、名人広沢虎造の浪花節(なにわぶし)の語りより)

(昔の日本の大衆娯楽であった、落語、講談、浪花節、民謡・・・これらの素晴らしい民族遺産は今も細々と受け継がれてはいるが、たまにNHKで放送されるだけで・・・。)