4月28日
拝啓 ミャオ様
もう一週間になるけれど、ミャオは元気にしているだろうか。私がそんなふうに、ミャオに心配の言葉をかけるのも、今さらと後ろめたい気もするのだが・・・なんといっても、今までぬくぬくと家の中で暮らしてきたオマエが、いきなり寒空の下に放り出されて、毎日の食べ物にも事欠く有様になるのだから。
家のドアが開かないかと何度も、前足で開けようとするが、びくともしないし、次にはひたすらに、開けてくれと、ニャオニャオと鳴いたのだろうが、それでも家の中から何の物音も聞こえない。
オマエは、鳴き疲れて、仕方なくベランダで横になる。お腹が空いてくれば、今までのような生魚などはもらえないが、それでも何とかキャット・フードのエサにありつくことはできる、余り一緒にいたくはない、おじさん家の他の猫たちににらまれながら。
飼い猫にとっては、なんというツライ環境の変化だろう。
そんなオマエに、今のつらい状況があるように、私も、改めて思い知らされたことがあったのだ。晴れた日ばかりの、毎日ではないのだと。
というのは、私は、北海道に戻ってきて早々のことながら、二日前に、日高山脈の前衛にある小さな山に登ってきたのだが、見事に失敗してしまった。目的の山には登ったのだが、私の期待していた天気はならなかったのだ。
快晴の日の展望登山を旨(むね)としている私にとって、長い間味わったことのない、目的の山々の展望がゼロの、空しい登山になってしまった。
なぜか・・・。私の天気の読みが甘かったのと、それ以上に、ひとり残されたミャオの思いの、なせる業だったのかもしれない。
「自分だけ良い思いをして、ワタシのつらい毎日を考えたことがあるのか」というミャオの声の・・・。
その日は、それまでの雪模様の毎日からようやく開放されて、朝から見事に晴れ渡っていた。家の前には、白い日高山脈の峰々が立ち並んでいた。これはどうしても、山に登らなければならない。
十勝と日高を結ぶ国道、天馬街道(てんまかいどう)をクルマで走って行くと、目の前に南日高の山々が近づいてくる。均整の取れた白いピラミダルな楽古岳(1472m)の姿が美しい。
少し気になるのは、日高側から稜線を越えて、野塚岳(1353m)あたりに湧き上がってきた雲だ。もっともそれが、日高の海側からの朝霧が上がってきただけならよいのだが。
山間部に入ってい行くと、両側の低い山もまだ雪に被われている。途中からは、谷を隔てて、トヨニ岳の姿が大きく迫って見えてくる。
道は、凍りついたアイスバーンになり、野塚トンネル手前の駐車場に着く。周りの積雪は1m50cmほど。何と珍しく、クルマが一台。二人の登山者が準備をしていて、尋ねるとこれから野塚岳へ登るという。
野塚トンネルができて以来、それまで不便だった、南日高の山々への取り付きが、ずいぶん楽になった。私も、雪のある時期だけでも、10回以上はこの周辺にクルマを停めて、近くの山々に登っている。
ただ私の今回の目的は、もう殆ど登っているこの辺りの名前のある山ではなく、いわゆる地図上に標高点が記されているだけの、小さなピークである。
つまり、最近の私の山登りは、年のせいもあって、頂上を目指す登山というよりは、展望を求めての山歩きへと変わってきたのだ。去年は、同じ時期に、同じ日高山脈の前衛鋒である札内川右岸側の1278mを目指したのだが、雪の状態が悪く、途中までしか行けなかった(’09.5.3の項)。
今回は、またその再挑戦でも良かったのだが、やはり新たな所へと思い、野塚岳への冬尾根ルートである北尾根が、途中から分かれた先にある、1151mのピーク、さらに先の1225mピークまで行って、そこから主稜線に立ち並ぶ日高の山々を見てみたいと思ったのだ。
取り付き点は、この冬尾根ルートではなく、1151m点に直接取り付くべく、もう一本向こうの尾根である。凍りついた道路を歩くために、初めからアイゼンをつけた。200mほど戻って、橋を渡りきった所から、斜面に上がろうとしたが、これが60度くらいはある急斜面で、その凍りついた斜面はそのまま橋の下へと吸い込まれるように落ちている。もし滑ってしまえば、終わりだ。
ザイルで確保してくれる仲間もいない。慎重に凍りついた斜面に、ピッケルを差し込んで、アイゼンを斜面に蹴りこんで、一歩一歩と登って行く。上の方でいくらか傾斜が緩やかになり、立ち木のくぼみの所で腰を下ろした。
わずか50mほどの所を、15分もかかって、すっかり汗をかいてしまい、上に着ていたフリースを脱ぐほどだった。帰りにまた、ここを下るのは危険だから、他に回るしかないだろう。
しかしそこからの尾根も、急なあえぐような斜面だったが、先ほどのように切り立っている所はない。ピッケルとストックを両手に持って上っていく。
しかし、残念なことに、見通しのきく冬木立の間から見えていたトヨニ岳(1493m)は,見る間に雲に被われ、さらに上空にまで広がってきた。ただ、この尾根の先には、まだ青空が残っていた。
やがて、向こうに見えていた尾根と合流して、緩やかな尾根になる。珍しく殆ど雪庇(せっぴ、庇のように張り出した雪)のない、広い稜線を登って行く。行く手に、、目指す1151mの高みが見えてきた(写真)。雪の状態は非常に良く、締まった固雪の上に、比較的新しい雪が10cmほど積もっていて、その上は少し凍り付いている。同じ時期ながら、去年苦労した雪(大雪の後)とはえらい違いだ。
広大な斜面や谷筋ならば、表層雪崩(ひょうそうなだれ)が気になるところだが、尾根通しだし、気温も低く、心配はないだろう。それよりも、上空はすっかり雲に被われてしまい、雪も降ってきた。
ネットの天気予報や、天気分布予想図さえも見てきたのに、と思う。しかし、天気は悪くても、考えてみれば、最悪というわけでもない。この一面の雪に被われた山の中、ダケカンバの樹々だけが立ち尽くす静寂の中、ひとり登って行く私・・・生きている自分を思う。そのことだけで、十分なのかもしれない。
意外に早く、2時間半ほどでたどり着いた1151mのピークは、予想通りに、小さな丸い雪の丘だった。晴れていれば、南の楽古岳、十勝岳から、十勝幌尻岳にいたる山々がずらりと並んで、私を迎えてくれたことだろうに・・・今は、雪の降る彼方にあるはずの主稜線は、すっかり雲に被われている。これでは、東に見えている1225mのピークにまで行っても、、同じことで意味がない。
そこで、南側に見える野塚岳への冬尾根ルートに向かい、帰ることにした。標高差100mを下って、また同じ高さを登り返さなければならない。途中の尾根には、東側に雪庇が発達していて危険なところもあり、右側の斜面に周りり込むが、そこでも雪の状態は悪くなく、余りもぐりこむこともなかった。
1時間足らずで、その冬尾根ルートの分岐点にたどり着いた。下で会った二人のものらしい足跡がついていた。雪の降る展望の利かない天気に変わりはなく、そのまま下ることにした。
彼らの登ってきた足跡にはかまわずに、歩きやすい所をとズンズン下っていく。先ほどまでは気になって、時々払い落としていたアイゼンの雪ダンゴもつかずに、全く気持ち良く下って行けた。
道路を走る車の音が聞こえて、駐車場前に着いた。まだ12時前で、わずか45分ほどで降りてきたことになる。
朝あれほど凍りついていた道は、もう今は溶けて濡れているだけだった。そして、クルマに乗って下って来て振り返り見ると、相変わらず南日高の稜線には雲がかかっていたが、しかし、去年のあの1278mなどの中部日高の山々は、雲の下に見えていた。
翌日は、終日快晴の天気で、一日中、日高山脈の山々も見えていた。私は、筋肉痛に痛む足をなでながら、山々を眺めていた。そして、ミャオのことを思った。
ミャオが今、悲嘆のさ中にあるのに、私だけが良い思いをしていいものか。今回の私の失敗した山行は、ミャオへの保護者責任遺棄に対する報いなのかもしれない。ごめんねミャオ。
しかし、思うに、物事の失敗というは、いつも100%の失敗ではなく、そこには数パーセントの、なにがしかの良きことがあったはずであり、また数パーセントの、次への希望が含まれているはずである。絶望とは、それらのことに気づかぬまま、すべてを悪く受け止めた、勘違いに他ならない。
私は、ミャオへのおわびと反省を含めた上で、また次回への山登りへと向かうことだろう。
ミャオ、元気でいてくれ。 飼い主より 敬具
4月24日
拝啓 ミャオ様
今、私は北海道に戻って来ている。今日で四日目になり、ようやく片付けも一段落ついて、いくらか余裕も出てきたところだ。
ここは北海道だから、寒いのは当たり前だけれども、それにしても、昨日がそうだったように、まだ雪が降る寒さだ。今朝は、ー3度、日中は晴れ間も出て、いくらか暖かい感じになって、7度位にまで上がる。
先日東京で、25度まで上がったあの日に、5度しかない寒い北海道の空港に降り立ったのだ。久しぶりに帰って来た我がボロ家は、冬の間いなかったために、すっかり冷凍保存が効いていて、凍えあがる寒さで、家が暖まるまで、二日も薪ストーヴで薪を燃やし続けたほどだ。
どちらかといえば寒さに強く、冬の雪が好きな私だけれども、今まで九州の暖かさ(それでも平年よりは寒かった)に慣れた体には、この急な寒さはこたえる。まあ、年のせいかもしれないけれども。
ともかく、家に通じる道には、まだ30cmもの吹き溜まりの雪が残っていて、その部分だけ雪かきして車が通れるようにし、家の中は、まずストーヴで薪を燃やし続けて暖め、次は水だが、井戸水を汲み上げるポンプが故障していて動かない、次の日に街まで行って修理してもらい、都合二日間は、ポリタンクでもらい水をして、何とかしのいだ。毎年繰り返される、”プチ・北の国から”だ。やれ、やれ。
そして、その三日の間は、曇り空から時々雪の降る日が続いていたのだが、今日、ようやく朝から晴れてくれた。
朝5時、朝焼けに染まる、日高山脈の山々・・・。もう今では、春夏秋冬、長年にわたって見続けているために、ふるさとの山のように見慣れた姿ではあるが、見飽きることはない。
この眺めのために、私は北海道に来たのだから。
しかしそのために、犠牲にして失ったものも、多い・・・。
例えば、ミャオ。これから半年の間、時々は仕事のためとミャオに会うために、九州に帰ることはあっても、私がいない間は、つらいノラネコの生活を余儀なくされるのだ。
毎年のことで申し訳ないが、何とか自分の力で乗り切っておくれと、願うばかりだ。
私が、九州の家を離れる数日前のこと。その日は、九州でも所によっては、雪やミゾレが降っていて、まだ寒かった。
私は北海道へ行く準備をしていて、送る荷物の箱詰めをしたり、時刻表で時間を確かめたりしていた。ミャオは、ストーヴの傍で、何も知らずに、いつものように寝ていた。
突然言い知れぬ哀しみが、私の胸のうちに広がってきた。ミャオをひとり残して行くこと・・・。思えば、母が亡くなった後、もう何度も繰り返してきたミャオとの別れであるが、年ごとに辛い気持ちが増してくる(’08.5.18、’09.4.26の項)。
お互いに、唯一の大切な相手なのに、いつもこうして別れなければならないのだ。もう今では、北海道へ行くことが、そほど心弾む思いではなくなってきたのだ。
それは、北海道に対する私の思いが、弱まってきたからではない。あの北の山々、北国の風景、私が一人で建てた家、そして友人たちの顔・・・。
それは、私の人生の中で、最大の選択の時であり、幸運でもあったことなのだ。その場所で、私は自分の人生を終えたいとさえ思っている。
しかし、そんな北海道に、ミャオを連れて行くことはできない。それは、母の場合と同じことで、ミャオの命を縮めるとになるからだ。
そうした心の葛藤(かっとう)を、毎回繰り返しながら、私は北海道に来ているのだ。近くに住む知り合いのおじさんに、ミャオにエサをやってくれと頼んではいるけれども、やはり気がかりで、心は晴れないのだ。
ミャオは年寄りネコだ。いつ死ぬとも分からない。それは私とて同じことだが、普通に考えれば、ミャオが先に死ぬだろう。その時には、せめて傍にいて声をかけてやりたい。母の時がそうであったように。それでも、多くの後悔が残るけれども・・・。
さて、その日はようやく晴れてくれて、いくらかは暖かくなっていた。ミャオといつもの散歩に出た後、家に戻ってきて、ミャオはベランダで寝ていた。すっかり葉が目立ってきたヤマザクラから、それでもまだ残っていた花びらが、ミャオの体の上にも、散り落ちてきていた。
私は、その時、部屋で昼食を取っていた。するとベランダの方で、ガタンという音がした。また、他のネコでも来たのだろうかと、私が立ち上がりかけたところに、ミャオがいつもとは違う濁った声色で鳴きながら、家の中に入ってきた。
ミャオは口に小鳥をくわえていた(写真)。私に、見せに来たのだ。
鳥は、小さなシジュウカラだった。実は、このシジュウカラは、最近よく家のベランダに降りてきていたのだ。
ベランダには、ミャオのための小さな小屋があって、私はそこに、ミャオの体をブラッシングした後の毛玉を、幾つも投げ込んでいて、いつかは、ミャオが私のために、マフラーでも編んでくれるのではないかと思っていたのだが。
シジュウカラは、その毛玉を引き抜いては、巣材に使うべく持って行っていた。心配はしていた。年寄りネコとはいえ、ノラの本性を持っているミャオが、いつも傍にいるからだ。
その危惧(きぐ)していたことが起きてしまった。ミャオは興奮して、大きく目を見張り、しっかりと小鳥をくわえていた。私が、口からその小鳥を取り去ろうとすると、ひとたび下に落としても、さらに強く噛みなおして、シジュウカラは絶命してしまった。
エサはちゃんとやっているから、空腹のために襲ったのではない。しかし、前にキジバトを捕まえて、私の目の前で食べたこともある(’08.3.9の項)から、何とかそのシジュウカラを取り上げて、まだ温かみの残るその体を、庭の土の中に埋めた。
私の後についてきたミャオは、しばらく鳴いて、その周りを歩き回った。
私の、配慮が足りなくて、シジュウカラを無駄に死なせてしまったことが、少し悲しかった。しかし同時に、ミャオにこの元気があるなら、ひとり残していっても大丈夫だと思った。
出発の日の朝早く、私は、コタツのそばで寝ていたミャオを、それは温かく小さな体だったが、抱え上げてベランダに出し、バタンとドアを閉めた。
そして、私が子供の頃、田舎(いなか)に預けていた私に会いに来た母が、一晩だけ泊って、再び遠く離れた働き場へと、戻っていく時の気持ちが、今にして分かった。
しかし、自分で、こうして北海道へと行くことを決めたのだから、もうくよくよと考えないことだ。後は、私とミャオの、それぞれの運命に任せるだけなのだから。
元気に、がんばって生きていておくれ、ミャオ。
Adieu l'ami. (さらば、友よ)
飼い主より 敬具
4月19日
三日前には、なんとこの九州にも雪が降り、相変わらず、ストーヴの前から離れられない寒さが続いていた。しかし、その後、二日間は晴れて、ようやく暖かくなってきた感じで、ワタシにも元気が戻ってきた。
気温が上がれば動物たちは誰でも、心浮き立つ思いになるものだ。 昨日は、久しぶりに、一羽の小鳥を仕留めて、我ながら少なからず興奮した。その後で、飼い主と散歩に出かけたが、あちこちから聞こえる小さな物音さえも気になってしまう。柳の下に、もう一羽いないかと。
そんなふうにして、気をとられているものだから、飼い主は先に帰って行ってしまった。まあいい。夕方のサカナの時間までに帰ればいいことだから。
で、時間になり帰ってみると、いつもよりサカナの量が多い。ええと、ワタシの誕生日でもないし、もしかして、飼い主がいなくなるのでは・・・と考えたところでどうにもならない、今は食べるだけだ。
そして、今日はまた雨の一日だ。気温も上がらず、飼い主にストーヴをつけてもらい、その前で寝ているしかない。
「前回映画の話をしたのに、どうしてもまた映画について書きたくなった。それは、先週、例のNHK・BSでプチ・イギリス映画特集があって、私のまだ見ていなかった二本の映画が放映されたからである。
まずは、『大いなる遺産』(英・1946年)であるが、あのチャールズ・ディケンズ(1812~1870)原作のほぼ忠実な映画化であるが、何しろ原作が大作だけに、とても2時間ほどの映画に収めきれるはずはないのだが、そこは名匠デイヴィッド・リーンの見事な手腕で、ディケンズの小説を読んでいるように、十分に楽しむことができた。
このディケンズの原作は昔読んでいたことがあって、映画を見るにつれそのあらすじを思い出した。彼の小説は、良くも悪くも人情味あふれる市井(いちい)の人々の間で生きてきた主人公が、突然に運命に巻き込まれていくという、変化に富んだストーリーであり、それが読みやすく平易に書かれていて、彼がイギリスの国民作家と言われるゆえんでもある。
代表作として『オリヴァー・トゥィスト』(これもリーンによる映画j化)『クリスマス・キャロル』『デイヴィッド・コパーフィールド』『二都物語』などがあり、いずれも十分に小説物語を楽しむことができる。
そして、監督のデイヴィッド・リーンは、私の敬愛する映画作家の一人である。あのラフマニノフのピアノ協奏曲がやるせない『逢いびき』(’45)をはじめ、以後の作品も名作ばかりであり、その主題曲も有名である。
『旅情』(’55)『戦場にかける橋』(’57)『アラビアのロレンス』(’62)『ドクトル・ジバゴ』(’65)『ライアンの娘』(’70)など、いずれも、抜き差しならぬ男女間の愛情や、あるいは相対立する男たちの間に芽生える友情などを、見事にドラマティックに歌い上げている。
次の一本は、もう一人のイギリスの偉大なる国民作家である、ウィリアム・シェイクスピアの原作による、15世紀のイギリス王、『ヘンリィ五世(当時の題名)』(英・1945年)、の物語である。
私は、原作の作品を読んではいないし、今でも、その訳文はなかなか手に入りにくいようである。しかし、それでも、この映画は、まさにシェイクスピア作品を読んでいるかのように、また舞台で見ているかのような楽しさを味わわせてくれた。
それにしても、この映画の監督・主演を務めた、ローレンス・オリヴィエの才人ぶりには感心するばかりである。映画監督としての構成力、役者としてのセリフ回し、演技力の確かさなど、先日書いた、歌舞伎役者の中村梅玉(3月27日の項)ではないけれども、私でさえ大向こうから声をかけたくなるほどだった。あの『風と共に去りぬ』のヴィヴィアン・リーが、恋心を募らせ、彼の後を追ってアメリカにまで行った理由がよく分かる。
話は相前後するが、『大いなる遺産』に少女エステラ役で出ていたジーン・シモンズの美しさは、一瞬、ヴィヴィアン・リーかと見間違うほどだった。彼女はその後、あの名作『ハムレット』(’48)で、ローレンス・オリヴィエと共演している。
1929年生まれのジーン・シモンズの16歳年上であった、ヴィヴィアン・リーが、もしこの『大いなる遺産』での、成人したエステラ役になっていたら、映画は完璧だったろう。
さて、『ヘンリィ五世』に話を戻すと、まずはこの映画で描かれている背景、つまり歴史上の事柄を知っておく必要があるだろう。
ヨーロッパ中にペストが猛威をふるった14世紀半ば、それまでも互いに侵入しては、こぜりあいを重ねていたイギリスとフランスは、直系男子の断絶したフランス・カペー朝の後継者をめぐって、当時のイギリス・プランタジネット家のエドワード3世の母が、フランス・カペー家の出であったことから、ヴァロワ朝へと受け継がれたフランス王の継承権を要求して、ついには長期に及ぶ両国間の戦いになってしまう。
いわゆる百年戦争(1338~1453)である。
そのエドワード3世によるフランス侵攻の後、一時講和したが、彼の死後、今度はフランス王シャルル5世の活躍で、イギリス軍は駆逐(くちく)された。さらに時を置いて、イギリスでは、ランカスター朝のヘンリー4世の時代になり、その後を受け継いだのが、このシェイクスピア劇の主人公ヘンリー5世(1387~1422)である。
彼は再びフランス領内に攻め入り、有名なアジャンクール(アジンコート)の戦いで、自軍の数倍ほどのフランス軍を打ち破って、帰国する。その後、トロワの和約が結ばれ、ヘンリーはフランス・シャルル6世の王女、カトリーヌと結婚して、フランス王位継承権も得る。
物語はここまでなのだが、実はヘンリーは、結婚の2年後に再び攻め入ったフランスで病死してしまう。
その数年後、フランスには、あのジャンヌ・ダルクが現われて窮地(きゅうち)を救うが、それもつかの間だった。しかし、フランスは次第に失地を回復していき、ついにイギリス軍は、カレーの港だけを残して撤退(てったい)することになり、百年戦争は終結した。
その撤退の原因ともなったイギリス国内の事情は、ランカスター家の紋章、赤いバラと、ヨーク家の紋章、白いバラが戦う事態になっていて、ついに、世に言う薔薇(ばら)戦争(1455~1485)へと突入していくのだ。
ウィリアム・シェイクスピア(1564~1616)は、百年前の自国の歴史事実の中に、人間たちの愛と憎しみ、忠実と裏切り、涙と笑いの姿を思い浮かべては、次々に舞台劇を書きあげていったのだ。
シェイクスピアの史劇と呼ばれるものは、この『ヘンリー5世』(1599)の他にも『リチャード3世』(1593)『リチャード2世』(1595)『ヘンリー6世」(~1591)『ヘンリー4世』(~1598)『ヘンリー8世』(1613)など、連続したイギリス国王たちの物語としても書かれている。
さてこの映画では、冒頭に、ミニチュア・セットで作った当時のロンドンの街の風景が映し出されて、カメラはあのシェイクスピア劇場、グローブ座へと近づいて行く。
O字型の円形劇場の内部。観客の人々であふれている。その喧噪(けんそう)、猥雑(わいざつ)な雰囲気が、舞台小屋の雰囲気を醸(かも)し出す。明りを取り入れるためにドーナツ型の円形にしたのだから、その立見席のアリーナ(平土間)では、観客たちは、雨が降ればずぶ濡れになってしまうのだが、もちろん芝居は続けられる。
(思い出すのは、ずいぶん昔の旅行の時のことだが、ロンドンには行きと帰りに10日余り滞在した。そして、あのロイヤル・アルバート・ホールでコンサートを聴いたのだが、それは、席のない巨大なアリーナの安い立見席だったのだ。)
そのグローブ座の舞台で、案内役が口上を述べて、『ヘンリィ五世』の幕が開くのだ。王の姿でさっそうと登場して、司教や臣下たちの前で弁舌をふるうローレンス・オリヴィエ(写真)。舞台のかぶりつきで見る観客たちを含めて、一シーンごとに賞賛の拍手や笑いが起きる。
そして次なる幕になると、再び案内役が出てきて口上を述べ、想像を働かせて次なるシーンを思い浮かべて欲しいと言う。そこから、出港場面、城攻め、丘陵地での戦闘シーンなど、カメラは大掛かりなセットや、自然のロケ地での風景を映し出し、舞台だけでは不可能な現実感あふれる情景を見せてくれる。
その時、背景が書き割りの安っぽい絵だとしても、気になることはなかった。衣装、武具、ヘア・スタイルなどは、絵画・文献などによる時代考証を基に、まさに当時の雰囲気に近づくべく作られているから、芝居だけに目が行けば、背景はそんなものでも良かったのだ。
それは、例えば、あのダ・ヴィンチの『モナ・リザ』に、丹念に描かれていた背景が、レンブラントの肖像画のように、薄暗がりのぼんやりとした壁であったとしても、恐らく名画としての価値が変わることはないだろう。それは、私たちが、まずは肖像画の、その人だけを見ているからだ。
さらにこのことは、このところ私が思い続けている、あの昔の時代を舞台にしたオペラなどで、現代衣装による現代的な演出に違和感を感じていることと重なるのだ。前に書いた、バロック・オペラのように(2月27日の項)、簡単な舞台でも、歌い手や役者たちが、きちんと当時の服装やいでたちでいてくれれば、私たち観客は、それだけでもう、想像の金の翼に乗ってその時代へと飛んで行くことができるのだから。
話がすっかり長くなってしまったが、まだこの映画について言いたいことはいろいろとある。例えばあの戦場での王の演説や馬上での戦闘シーン、フランス王女カトリーヌ(ルネ・アシャーソン)との愛の言葉を交わす場面、道化役のように時折登場する兵士たちなどと、きりがない。
ただ言えるのは、同じシェイクスピア劇で映画化された、『リチャード3世』(1995年)のように、現代の戦車が出てくるシーンなど、私は見たくないということだ。
思えば、戦時下のシェイクスピア劇を舞台裏から描いて、主役二人の熱演が見事だったピーター・イエーツ監督の、あの『ドレッサー(1983)』(’09.1.31の項)とともに、このローレンス・オリヴィエによる『ヘンリィ5世』は、私にとっては重要な意味を持つシェイクスピア劇映画になるだろう。
ああ、生きていることはありがたい。少しばかりの知ることの怖さと、たくさんの知る喜びで織りなされているのが、人生なのだから。」
<参考文献>:『世界大百科事典』(平凡社)、『世界史年表』(吉川弘文館)、『世界の映画作家15 デイヴィッド・リーン』(キネマ旬報社)、『ノーサイド 1996年4月号特集 おお、女優』(文芸春秋)、ウィキペディア他のウェブサイト
4月14日
気温は少し高くなってきたが、天気は変わりやすく、今ひとつはっきりしなくて、まだ春の盛りの暖かさにはなりきれていない。
それでも、あちこちで花々が咲いているのを見ると、やはりいつもの春なのだなあと思う。飼い主に促されて出てきた、このベランダで寝ていると、ウグイスが鳴いていて、サクラの花びらが舞い落ちてくる。(’08.4.23の写真)
花びらが一枚、二枚、三枚・・・、ああ、眠たい。
このところワタシは、いつの間にか、夜中から朝、さらに昼間もずっと寝ていて、サカナを食べた夕食後から、やっと元気がみなぎってきて、外に出ては夜の闇の中をうろつくという習慣がついてしまった。
それは、春になって、ワタシのノラネコとしての、野生本能が目覚め始めたからだ。昼間は、比較的安全なところで、うたた寝をして過ごし、夕方から、エサを求めてうろつきまわるという、ノラの性質が。ニャーゴ。
今は、飼い主からちゃんとエサをもらっているのだが、それでもワタシのいやしい出自(しゅつじ)は隠せない。もっとも、それがどうだというのだ。ノラネコあがりでも、15歳にもなるこの年まで、ともかくも生きてきたのだから。
ワタシは、ネコである。それで、いいじゃないか。
「今朝は0度と冷え込んで、昼になってやっと日が差してきたけれども、風が冷たく、10度くらいまでしか上がらない。これは、1か月以上前の、あの春先の、梅の花が咲き始めたころの気温だ。
それでも、暖かい日もあったから、庭のサクラの花も、平年並みに咲いてくれて、今では、地面が白くなるほどに花びらが散り落ちている。数日前からは、そのサクラに代わって、あでやかなシャクナゲの花が咲き始めている。(写真)
季節は変わり、歳月は移り行く。植物たちは、その年の気候の記憶を、自分の体内にとどめては、次世代のためにと残すのだ。春になって芽吹く時と、秋になって枯れ葉を落とす時期などを。
私たち人間は、その遺伝子的な記憶とは別に、過ぎ去った年月の中で、良いこと悪いことの幾つかだけを選別し記憶していて、思い出すのだ。ただし、それは、自分のためにであるが。
いつも繰り返し言うことだけれども、NHK・BSで放送される昔の映画の特集は、私たち映画ファンにとっては、実にありがたいことだ。若いころは、街の場末の名画座へと出かけて行っては、古い映画などを見たものだが、今ではこうして、家に居ながらにして見ることができる。
映画は、ちゃんと映画館で見るべきであるという信念を持った人もいるけれど、世の中には地方に住む人たちのように、そうすることのできない、いわば観客弱者の立場におかれている人もいるのだ。私を含めて、そんな人たちのために、テレビやDVDが用意されていることは、皆に等しく与えられるべき文化啓発の意味から言っても、良いことではあるのだが。
とまあ、そんなこむずかしい理屈は別として、このNHK・BSでは、時々、一週間(5日間)の小さな特集としての映画を放送してくれる。例えば、一カ月ほど前には、私の敬愛する映画監督の一人である、ベルイマンの特集を組んでいた。
ところが、残念なことに、国会中継のために、その特集5本の予定が3本で打ち切られてしまった。あの地震情報のテロップなどとともに、緊急事態のためにはと、途中で邪魔されることが多い、テレビ映画の悲しい宿命ではあるが。
もっとも、ベルイマンの映画は、初期のものも含めて、かなりの数を見てきているし、ビデオ・カセットの時代から繰り返し録画しているのだが、何といっても、今はハイビジョンの高画質の大画面で見られる時代だから、その形で、録画しておきたいという、老人変質狂的な思い入れがある。そうして、日々楽しみに待ち構えていた映画が、中止されれば、老い先短い年寄りにはこたえるのだ。
ともかく、ベルイマンの映画については、別な機会に書いてみたい。それは、数ある哲学、心理学書など以上に、私の考え方に大きな影響を与えてくれたものだからだ。いやベルイマンだけではなく、それ以上に、今まで見てきたすべての映画から、私はどれほど多くのことを教わってきただろうか。
よく言われることだが、私もまた、確かに、映画館で人生について学んだのだ。
さて、つい二週間ほど前には、そのBS映画で、珍しいオーストリア映画の特集が組まれていた。『会議は踊る』(’31)『ブルグ劇場』(’37)『朝な夕なに』(’57)『野ばら』(’57)『黒い稲妻』(’58)である。もっともこれらも、何度目かの再放送ではあるが、そのうちの一本、あの『ランスへの旅』の話の中でも少しふれた(3月3日の項)、『会議は踊る』について書いてみたい。
原題は、和訳そのままで、『Der kongress tanzt』であり、当時このウィーン会議に出席していた、オーストリアの将軍リーニュ公が、各国をもてなすための舞踏会ばかりが開かれて、肝心(かんじん)の交渉が進まないのを見て、皮肉って言ったのだといわれている。同じように、フランス外相だったタレーランも、『一日の4分の3はダンスと宴会だった』、と書き残している。
ウィーン会議が開かれたのは、1814年9月から翌年6月までの、9ヶ月間にもわたっている。それはナポレオンによる侵略、混乱後の、欧州各国による講和会議であり、90以上の王国が集まったのだが、敗戦国であるフランスの国家体制をどうするか、さらに戦勝国間における国境策定の取り決めと、難しい問題が山積していたのである。しかし、主要な話は、戦勝国であるイギリス、プロイセン、オーストリア、ロシアに、敗戦国のフランスを含めた5カ国の間で行われ、とり決められることになった。その時の5カ国の中で、議長となり辣腕(らつわん)を振るったのが、オーストリア代表の宰相メッテルニッヒである。
つまり、国家元首たるロシア皇帝アレクサンドル、プロシア国王フリードリッヒ=ウィルヘルム3世、オーストリア国王フランツ1世などは、歓迎の晩さん会、舞踏会に明け暮れていたのだ。
そんな歴史の出来事を基に、他愛のない昔話しとして、この映画は作られている。手袋店の娘、クリスティーネ(クリステル)は、ロシア皇帝アレクサンドルがウィーンを訪れた時、その歓迎パレードの馬車に花束を投げ入れたのだが、それが危険物と間違われて、逮捕されることになる。
皇帝はすぐに彼女を許した上に、巧みに替え玉(影武者)のニセ皇帝を使い、お忍びで二人は郊外のホイリゲ(居酒屋)を訪れる。翌日、皇帝の屋敷に招かれクリスティーネは、シンデレラ・ストーリーに有頂天になる。
二人は、その後再び、あの居酒屋に出かけ、愛を語り合う。しかし、ナポレオンが流刑されていたエルバ島を脱出したとの知らせが入り、皇帝は自国に戻るべく、別れを告げて去り、彼女は一人残されるのだ。
このウィーン・オペレッタ(歌芝居、プチ・ミュージカル)とでも言うべき映画の中で、歌われるのが、あの有名な『Das gibt's nur einnmal(ただ一度だけ)』である。
クリスティーネが屋敷に招かれて行く時、あるいは二人が恋を語る時には、『この世に生れてただ一度、二度と来ない幸せ。ただこの時のために、私たちのもとへ、まぶしい金色の光が天国から降り注ぐ。』と歌われ、しかし皇帝が去った後は、『この世に生れてただ一度、これは愛か幻か。過ぎ去ったものはもう帰らない。どの春にも、5月は一度だけ。』と歌われるのだ。
おそらく、映画を観終わった当時の観客たちは、この歌を口ずさみながら家路についたに違いない。それほどまでに、親しみやすい曲なのだ。他にも『新しい酒の歌』など、皆で楽しく歌われている。
思えばこの映画は、名作と呼べるものではないかもしれないが、上にあげたように、オペレッタ映画としては十分に楽しめるものであるし、作られた1931年という時代を考えると、他にもいろいろと興味深いことがある。
クリスティーネ役のリリアン・ハーヴェイ他の演技が、まだサイレント映画時代の名残を受けて、いかにもそれらしいし、舞台装置などにも単純なものが見られるけれども、カメラの移動撮影、群衆シーンなどは、とても80年も前の映画とは思えないほどである。
他にも、当時をしのばせる街並みや衣装、ロシア・バレエ『だったん人の踊り』の振り付けなど、見るべきものがあった。
この1931年という時代は、ヨーロッパ中を戦いに巻き込んだ第一次大戦(1914~18年)の後であり、つかの間の平和の後に、1929年にはアメリカ・ウォール街に端を発する世界恐慌が始まり、この31年には、オーストリア中央銀行さえも破産する事態に至っているのである。
そして2年後には、その不況不安の中からヒトラーが現われて、ドイツの政権の座に就き、7年後には、このオーストリアもドイツに併合されて、ついには悲惨な第二次大戦へと突入していくのだ。
そんな社会不安が満ちている中で作られたこの映画は、同時代のことではなく、100年前の、ナポレオン戦争が終わった後の、喜びの平和の時代の一シーンを描いているのだ。『ただ一度だけ』という思いは、来るべく殺戮(さつりく)の嵐が吹き荒れる、第二次大戦の暗雲を感じていたからなのかもしれない。
つまり、享楽的で他愛のないこの映画を、ばかげた話だと一笑に付すことはできないのだ。
物事を見る時に、私たちはいつも、今目の前にあるものだけを見るのではなく、その前のこと、その後のことと併せて見るべき眼を持たねばならないと、この映画は教えてくれている。
もう一つ、『ブルグ劇場』については、詳しく書く余裕がなくなってしまったが、それは、あのチャップリンの『ライムライト』(1952年)と同じように、若い娘に恋をする老名優の話であり、人ごととは思えず身につまされる。
そして、全編にわたってあのアントン・ブルックナーの交響曲、第4番『ロマンティック』が流れている。思えば、同じ監督(フォルスト)による映画で、シューベルトの交響曲が使われた『未完成交響楽』(1933年)とともに、今の時代では考えられない、クラッシクの交響曲だけを全編を通して使える、良き時代だったのだ。
それにしても、どんな映画にしろ、小説、音楽、絵画にしろ、そこにはいつも、作者の溢れる思いが込められていて、しかし、私たちは、その作品からどれだけのものを受け取っているのだろうか。すべてを見とどけることはできないし、またすべてを見る必要もないのだろうが・・・。」
(参考文献): 『世界の歴史12 ブルジョワの世紀』(中央公論社)、ウェブ上のウィキペディア他
4月9日
全く、この寒さは、どうなっているのだろう。今日は霧雨模様で、朝からずっと、寒いままだ。
4月も半ばになろうとするのに、ワタシはストーヴの前で寝ている。それでも、今月は二三日、暖かい日もあったし、ワタシは、サカナの時間も忘れて、あるいは、夜中まで外に居たりと、他のネコや動物たちとの出会いを楽しんでいたりしていたというのに。
飼い主と一緒に、テレビ・ニュ-スを見ていた時、人間たちが、この春は天候不順で野菜の出来が悪く、価格も高いと、皆がそれぞれに不平をこぼしていた。
確かに、こうも暖かさと寒さが極端に入れ替わる日が続くと、ワタシの抜けかかっていた毛もそのままになり、冬毛から夏毛への毛づくろいの手順も狂ってしまう。
思えば、少し前までは、ワタシも元気だったし、まだ若かった。あのやさしかったおばあさんがいなくなってから、”北の国からかぶれ”の飼い主は、私を置いて、二冬の間も北海道に居たのだ。
その間、ここ九州のチベットといわれるほどの寒い所で、ワタシがどうやって冬の間を耐え忍んだか。その辺りのことは、この飼い主が反省を込めて、このブログに幾らかは書いてくれているが。
ともかく、そんな寒い冬を、ストーヴもなく戸外でしのいだワタシも、今では年をとって、もうそんな防御体力もない。今では、秋から春にかけてはすっかり、部屋の中でのストーヴ頼りの体質になってしまったのだ。
ワタシは、いまさら、ストーヴなしの暮らしに戻ることなどできない。なのに、恐らく、もうそろそろ飼い主は、いつものように北海道へ行ってしまうのだろう。
慣れた環境が一変すること、それが飼われているワタシたち、ネコにとっては一番つらいことなのだ。
飼い主は、年をとってきたそんなワタシのことを、もっと真剣に考えてほしいものだ。
”Das gibt's nur einmal." (映画『会議は踊る』で歌われた有名な歌『ただ一度だけ』)
「今日は、霧模様の肌寒い一日で、朝の気温4度から、日中も7度くらいまでしか上がらない。
ようやく満開になった、家のヤマザクラが、その寒さのおかげで長持ちするのは良いことだが、日に日に暖かくなっていく、あの春の確かな歩みが、一向に感じられないのは、心配になる。
昨日は、晴れて、日中は13度まで上がったが、それでも今頃の気温としてはまだ低い。ただし、朝もー4度にまで冷え込んでいたから、空気は澄んで山々も良く見えていた。まだ暑くもないこんなころ、山歩きするには、もってこいの日よりでもある。
というわけで、朝8時半ころ家を出て、近くの里山に出かけた。とある集落の手前にクルマを停め、見当をつけて、古い林道跡らしい所から、急斜面のスギ林の尾根に取り付いた。
大きく育ったスギ林では、深く積もった枯葉のために、余り他の植物も生えていなくて歩きやすいが、その分、道も分かりにくい。まして、古い造林道跡らしいから、上の方では見失ってしまったが、2万5千分の1の地図に従って、尾根らしい所を登って行く。
途中、その薄暗い林の中に、ひと固まりの白い花が見えた。たどり着くと、それはサツマイナモリの花の群生した姿だった。他の花が育たないような所で、ひとり咲く花々は、いつも一生懸命に見える。
あの高山の砂礫地の、栄養分もないような所に、自分たちだけが咲くコマクサの花を思い出す。その場所は、陰と陽ほどに違っているが。
そのスギ林が終わると、自然林になった。ノリウツギ、アオキ、アセビ、コナラ、マツなどが混生して、その間から、左右の尾根に咲くヤマザクラの姿も見ることができる。空は、一面の青空だ。
行く手に、赤い一群が見えた。それは、ヤマザクラとともに楽しみにしていた、ミツバツツジの花だ。このあたりの山では、いち早く咲くマンサクの黄色い花に続いて、この二つの花が春を告げてくれるのだ。
しかし、たどる斜面に道はない。それを承知で、ヤブ尾根を登ることにしたのだが、所々ツタや木々の枝が邪魔をして、かいくぐりまたいだりして苦労して登って行く。実は、左手にある尾根をたどって目的の山に登るつもりだったのだが、たまたま通りかかったその集落の人に聞くと、地図に載っていても、ヤブだらけでとても登れないし、上の方は頂上まで杉林で展望はないと聞かされたからだった。
道のない初めての尾根を下るのは危険だが、登りはまだましだ。 ともかく上の、頂上とつながる稜線に出るまでと、登って行くことにした。
ようやく、たどる尾根の勾配がゆるやかになり、連山としてつながる尾根の高みに出たが、やはり木々に被われていて、その間から周りの山の姿を垣間見るだけだった。標高は750mで、高さから言えば、向こうに見えるスギに被われた頂上と大した違いはない。この頂上で十分だ。下の町の方から、昼時のサイレンの音も聞こえてきた。標高200m位の下の集落から、2時間半余りもかかっている。腰を下して、休むことにした。
木々の間から、遠く九重や祖母・傾(そぼ・かたむき)の山々が見えている。思ったほどに展望はきかず、その上、尾根に点々と咲いているヤマザクラを見ることもできなかった。それでも、こうして静かな山の頂に、ひとりいるのは気持ちが良いものだ。
北海道ならば、こうした山でも、常にヒグマの気配に注意していなければならないのに、九州の山では、いてもイノシシかシカ位のもので、ずいぶんと気が楽である。
さてと腰を上げて、ヤブの尾根を反対側に下ると、やっとクルマが通れるほどの古い林道跡に出た。地図で見ると、そこから道のない頂上へ登ることもできそうだったが、今さら展望のきかない杉林の頂上を目指してもつまらない。そのまま右に回り込んで谷あいを下り、出発点の集落近くに出る道があるから、そちらに行くことにした。
もうめったにクルマも通らないだろうススキや草の茂った道だが、道のない尾根をたどってきた私には、ありがたい道だった。その先には、二区画ほどの牧草地が広がっていた。地図によれば、そこから道が谷に沿って下っているはずだったが、ヤブのためにその入り口さえ分からない。
ともかく、浅い谷だから、その流れに沿って下って行くことにした。しかし先の方で、苦労することになった。両岸のどちらとも、ノイバラやツタなどのヤブがひどく歩きにくいし、かといって流れの中の石をつたって歩けば、登山靴では滑りやすく歩きにくい。
さらに、一部谷が深くなった所があり、そこでは山側に高巻きしなければならない。再び、流れに戻ると、暗い沢の中に鮮やかな赤いヤブツバキの花が一つ落ちていて、そのまわりを、散り始めたヤマザクラの花びらが彩っていた。(写真)
私は、緊張続きの沢下りに、初めてほっとする気になって、腰を下ろした。
一輪のヤブツバキの花に、幾つものヤマザクラの花びら。見上げると、すぐ上の所にツバキの木があり、さらに高い所にヤマザクラの枝が伸びていた。
私は、ふとあの良寛和尚(りょうかんおしょう)の一句を思い出した。
『散る桜、残る桜も散る桜』。
先ほど、林道跡を歩いていた時に、道のわきに、一羽のキジバトが死んでいた。まだ真新しくて、他の鳥などに襲われて死んだふうにも見えなかった。つまりは、飛ぶことができなくなって、落ちて死んだのだろう。ただ一羽で。
それは、こうした生きものたちの世界では珍しいことではない。彼らは、いつもひとりで死んで行く。その後の死骸(しがい)は、カラスかキツネに食べられ、やがては虫たちや、バクテリアに食べられて、土へと帰るだけのことだ。(’09.12.5の項参照)
私が、いい年になっても、こうしたひとりっきりの山登りを続けていれば、いつかは、最近亡くなったプロ野球コーチのように、突然死なないとも限らない。
こんな人も来ない山の中で死ねば、恐らく発見されることもないだろう。ただ、死んで朽ち果てて、土や水に帰るだけのことだ。そこでは、死んだ後のことまで、私が意識することはできないだろうから、ゴミとなってやがて形が失われていっても、それはそれで仕方がないと思う。生きているからこその、人生だもの。
前にも書いたことのある話だが(2月4日の項参照)、最近、都会での孤独死の後も、引き取り手のない無縁仏が多くなったという、あのNHKスペシャル『無縁社会』の番組が、さらに反響を呼んで、今月初めに、同じNHKの『追跡AtoZ』で再び取り上げられたとか。
しかし、戦後、アメリカ自由主義を受け入れて、昔からの宗教を捨て、家族社会を捨てて、自由な個人を目指した日本人にとって、一部ではそうした結末を迎えるかもしれないことは、当然予測されていたことではないのだろうか。個人の自由を望むのなら、また死においても、個人であり続ける他はないのだろう、悲劇としてではなく。
繰り返すけれども、古いハイデガーの哲学思想を思い、実存主義的に生きるならば、人は、死の存在によって、限りある己が生を知り、精一杯生きるしかないのだろう。(’09.9.8の項参照)
死んだ後は、意識のない私の体がどうなろうとも、多くの人が集まって葬儀を営まれようが、あるいはいつも母の供養で来てくれる和尚さんの後に、ミャオひとりが座っているだけだろうが、もしくは、永久に見つからないままだろうが、どちらでもたいしたことではない。
良寛和尚の言うように、『死ぬ時節には、死ぬがよろしく候』とまでも、無欲恬淡(てんたん)とした心境には、なかなかなれないまでも、ただ、今を、そして小さな明日を目指して、生きていきたいと思う。
さらに沢を下り続けると、両側は切り立った崖になり、急な谷になって落ち込んでいる。少し戻って、急斜面を登り高巻きをして、そのまま登ってきた尾根の方へと、トラヴァース(横切る)していく。その途中にも、切れ落ちた斜面が出てきたが、木々が茂っていて、十分に手掛かりになるものがあった。
ようやく、元のスギ林の斜面に出てゆるやかになり、林が切れて、集落に続く道に下りてきた。下りだけで、3時間以上もかかってしまった。ズボンは泥だらけで、あちこち破れていたが、ともかく無事に戻ってこれて良かった。道端には、幾つものシャガの花が咲いていた。
前回(3月14日の項)から、またしても一カ月も間があいた登山だったが、明らかに今回は無理をしたと思う。自分に対して、私を産んでくれた母に対して、申し訳ないと反省。
家に戻ると、待ち構えていたミャオが、早くサカナをくれと鳴き続けた。おー、よしよし、遅くなって悪かったね。」
4月4日
昨日までは、風が少し冷たかったけれど、今日はすっかり春らしい暖かさになってきた。
飼い主に促されて、ベランダに出ると、やはりいい気分だ。体中をなめまわして、毛の手入れをする。あちこちむずがゆい所があって、毛をくわえてむしり取る。なんといっても、春なのだ。冬毛が抜け落ちていくのは。
飼い主と散歩に出て、途中で置いていかれても、そのまま、人のいない家の、日当たりのよい軒下や、あるいは草むらなどでのんびりと過ごす、サカナの時間までに、家に帰ればよいのだから。
それにしても、春だなあと思う。あちこちで花が咲き始めて、その香りが漂ってくるし、鳥たちも鳴き始めた。小鳥たちの声は、ワタシにとっても、やさしく響いてくるのだが、中には、うるさいやつもいる。
突然、草むらの近くで、チョットコイ、チョットコイと大声で鳴かれると、寝ていてびっくりしてしまう。
それは、ワタシが何度か捕まえて食べたことのある、あのキジバトよりは小さくて、ずんぐりとした地味な色合いの鳥だが、ただ眼から首にかけての、明るい茶色の模様が目立っている。
飼い主の話によると、なんでもコジュケイとかいう名前だそうで、もっと体の大きい、あのキジやヤマドリとともに、このあたりの山には多いそうだ。
そんな鳥たちを捕まえるのに夢中になるほど、今は若くはないし、飼い主からしっかりエサさえもらっていれば、後はのんびりと、こうして陽だまりの中で寝ているだけで十分だ。鳥の声が聞こえ、風の音がして、日差しがいっぱいに降り注いでいる。ああ、今は、眠たいのだ・・・。
「朝の気温はは0度位だったが、青空が広がっていて、日中は昨日と同じく、15度位まで上がって、ようやく春めいてきた。
この週末は、各地の桜の名所では、満開になって絶好の花見日和だそうだが、私はこうして、家にいる。庭の大きなヤマザクラの樹を見上げると、青空を背景に、幾つかの花が開いていた。
やっと、家の桜の開花宣言の日だが、平年並みというところだ。
今、久しぶりにレコードを取り出して聴いている。ヘブラーとシェリングによる、モーツァルトの『ヴァイオリン・ソナタ集』から、K.360の『”ああ、私は恋人を失った”による六つの変奏曲』である。
東京で働いていたころ、仕事が忙しくて、いつも帰ってくるのが深夜近くになり、風呂に入ってようやく一息つき、そこでレコードを聴いていたものだった。
ビルの一部屋とはいえ、周りに迷惑にならぬように、小さな音量でレコードをかけていた。もちろん、交響曲などのオーケストラものは大音量になるから聴けないし、室内楽や、静かなソロ楽器の曲が主になる。
つまり、それはおのずから、小編成のバロック時代前後の曲を選んで聴くことになり、今の私のクラッシック音楽の好みにもつながっているのだ。
そんな時代、ちょうど彼女と別れて少し月日がたっていたころだから、そのうら哀しい私の気持ちに、自らも同情するように、よくこのモーツァルトのヴァイオリン・ソナタを聴いていたのだ。ああ、それでも、私はそのころまだ、恋に涙ぐむほどに若かったのだ・・・。
前回、CDとレコード・ジャケットの写真を載せた、あのヘブラーの『フランス組曲』のレコードを、改めて聴きなおし、そこから思い出して、モーツァルトのヴァイオリン・ソナタも聴いてみたくなったというわけだ。
しかし、とりあえずは、その前回からの続きのヘブラーの弾く、バッハの『フランス組曲』についてである。
ヨハン・セバスチャン・バッハ(1685~1750)が生きたのは、フランスでは太陽王と呼ばれたルイ14世から15世の権力絶頂のころで、ドイツでは新聖ローマ帝国が、マリア・テレジアのオーストリアとフリードリッヒ大王のプロシアとに分かれたころである。
彼は、そのプロシアのワイマールやケーテンで、宮廷楽長として勤めた後、ライプツィヒの聖トーマス教会のカントル(音楽総監督)に就き、数多くの宗教曲、室内楽曲、器楽曲の名曲を残した。
それまでの、バロック時代の音楽のすべてがバッハに流れ込み、さらにその時代以降の音楽は、すべてバッハから流れ出ているとも言われているほどである。
それは、単なるクラッシック音楽の一愛好家でしかない、私にとっても思いは同じであり、もし、古今東西の作曲家の中から一人だけを選べと言われたら、私はためらうことなくバッハの名前をあげるだろう。
いろいろな作曲家の音楽を聴いていたレコードの時代から、CDの時代へと変わって、その思いはさらに強くなり、今私が持っているCDの恐らく五分の一くらいは、バッハのものだろう。
それほどまでに、よく聴いているバッハだけに、もしその中から代表する一曲だけをと言われても、それはできない。すべてがバッハの曲だからだ。
例えば今回取り上げた『フランス組曲』にしても、数あるバッハの鍵盤楽曲の中で、とりあえずデジタル・プレイヤーで聴くために、選んだ一つの曲集でしかないのだ。
つまり、他にも『平均律クラヴィア曲集』『ゴールドベルク変奏曲』『イギリス組曲』『パルティータ集』『二声のインヴェンションとシンフォニア』『フーガの技法』など、そして様々な『オルガン曲集』などがある中で、どうして一つだけを代表曲として選べるだろうか。
それでは、前回書いたように、なぜに買ったばかりのデジタル・プレイヤーに、ヘブラーの『フランス組曲』を選んで入れたのか。それは、眠る前に心が穏やかになるために、あるいは長い旅のつれづれを癒(いや)すためにということで、それぞれの曲集と、手持ちのCDを思い浮かべて、このヘブラーのものにしたというわけなのだ。
今、『フランス組曲』のCDは、4人の演奏家のものを持っている。チェンバロ(クラヴサン)による演奏として、ユゲット・ドレフェス(ARCHIV)と曽根麻矢子(エイベックス)、ピアノ演奏によるものとしては、グールド(CBS・SONY)とこのヘブラー(原盤PHILIPS,タワーレコード)のものである。
ドレフェスは、レコード時代からおなじみのものだし、近年録音の曽根の演奏も、さすがにあの亡きスコット・ロスの、薫陶宜(くんとうよろ)しきを得ただけのものがあり(こちらにしようかと迷ったほどである)、さらにグールドのものも十分にその個性で聴かせるけれど、良くも悪くもグールドのバッハである。
さて、このイングリッド・ヘブラー(1926~)は、ポーランド人の両親のもとに、オーストリアのウィーンに生まれて、ザルツブルグのモーツァルテウム音楽院に学び、いわゆるモーツァルト弾きとして、一世を風靡(ふうび)したピアニストである。
私が初めて、彼女の弾くピアノのレコードを聴いたのは、当時勤めていた会社の試聴室である。会社の音楽部門が、当時、モーツァルトの音楽の企画に携わっていたから、モーツァルトのレコードが豊富にそろえられていた。それも殆どが、輸入盤原盤であった。
当時は、輸入盤と国内盤との音質の差がはっきりとあり、私は、そこで値段も安い、輸入盤ばかりを買い求めていた。音質の差というのは、とてもここでは書きつくせないほどに、いろいろな所での差(録音の時のマイクの位置から始まって、録音テープ、アンプ、マザー原盤、スタンパーなど)が重なって、最終的に作られた所での、レコード盤の音質の差になってくるのだ。
もっとも、私が、音質についてそんなに敏感でうるさかったのは、若いころの話であり、中高年の今では、さほど気にしなくなってきたのだが、それは、今、騒動を起こす若者排除対策のためのモスキート音が注目されているように、年齢とともに高周波音が聴きとりにくくなっていることに、関係しているのかもしれない。
話がそれたけれども、その試聴室で、フィリップス原盤のイングリッド・ヘブラーのモーツァルトの『ピアノ・ソナタ集(1963~67年録音、写真右)』を、初めて聴いたのだが、印象は良くなかった。遅いテンポで、ポロポロと途切れるようなピアノの音が、何かじれったいようなもどかしさを感じたのだ。
しかし、その6枚組のレコードを、日をおいて聴いて行くうちに、私の思いは変わってきてしまった。私の若さゆえの、いらだつような思いを、そのピアノの音がやさしく包んでくれるように思えたからだ。
今まで、どこか切れ味のない、一音一音が断絶したように感じで聴いていたピアノの音が、いつしか、小さくきらめいていて、しかも絶妙な間をとった音楽の流れとして聞こえてきたのだ。決してはしゃぎすぎではない、心浮き立つような明るい喜びがあり、さらに決して泣きわめくことのない、ひとりきりの静かな哀しみも見えてくる。
それは、モーツァルトの思いだったのか、ヘブラーの思いだったのか。その時に、私は間違いなく、二人を通して自分への思いを重ね合わせていたのだ。
ヘブラーはその後、デジタル録音によって、同じモーツァルトの『ピアノ・ソナタ集』を再録音した(1986~91年)のだが、その明晰になった音からは、幾らか現代的な響きも聞こえていた。
ちなみに、このモーツァルトの『ピアノ・ソナタ集』では、他にあのクラウディオ・アラウのCD(PHILIPS、’08.1.22参照)も、また別な意味で心落ち着く演奏である。
私は思うのだ。芸術作品は、それが発表されて作者の手を離れた時から、個から多数へと広がり、受け手側の様々な解釈の仕方をも許すものなのだと。
つまり、その作品を生みだした時の、作者の思いは一つだけであったとしても、受け手側の、良くも悪しくも様々な思いが付け加えられて、その作品は膨(ふく)らみ大きくなっていくものなのだ。
ともかく、私はそうして、ヘブラーのピアノの音に何かが見えたような、少し幸せな気持ちになった。後に、この輸入盤のレコードを買い求め、続いて、ヴァイオリンのヘンリック・シェリングと組んだ、モーツァルトの『ヴァイオリン・ソナタ集(PHILIPS,分売、写真左)』のレコードも手に入れて聴いてみた。
それは”クラヴィア(ピアノ)とヴァイオリンのためのソナタ”と名付けられているように、それまでのバロック時代からのヴァイオリン・ソナタでは、クラヴィアやチェンバロは、あくまでも通奏低音を担う役割が強かったのに、ここではしっかりとヴァイオリンと対等になって、デュオの楽器として音楽を作っていくのだ。
そのヘブラーのピアノとシェリングのヴァイオリンは、互いのバランスが良くて(録音にもよるが)、どちらが主になるというというよりは、互いに相寄りそってと表現するのにふさわしい響きがしていた。(『合奏の均衡が実にすばらしい』吉田秀和)
もちろん、人によっては、こんな慣れ合いの生ぬるい音楽はいやだ、もっと互いに啓発するような演奏をしてこそ、生きている音楽になるのにと思うだろう。まさしく、受け取り手によって、様々なのだ。
ともあれ、このヴァイオリン・ソナタ集は、あのハスキル、グリューミオ盤(PHILIPS)と比べても、遜色(そんしょく)はないと思うし、私の愛聴盤の一つになっている。ただ、近年録音された、古楽器ヴァイオリンとフォルテピアノによる、クロサキ、ニコルソンの組み合わせによるもの(ERATO)も、なかなかに味わい深いものがある。
さて、それらのレコードの後に、ヘブラーの弾く『フランス組曲』(1979年録音)を聴いたのだけれども、もうその時には、初めてヘブラーを聴いたときに感じた、途切れたような音のつながりが逆に心地よい響きに思え、それは、当時のバッハが使っていただろう、チェンバロから発展したクラヴィコードの音を思わせるほどだった。
それ以上に、私が好ましく思ったのは、バッハの確実に歩み続けるかのような、あの揺るぎなきテンポを、ヘブラーがしっかりと守っているところである。
バッハと同時代のある音楽家が、バッハの演奏を評して言っている、『彼は普通極めて早いテンポで演奏したが、そのテンポは並はずれて安定したものだった。』(ローレンツ・ミツラー)
ともかく、この曲は、バッハが自分の子供や妻のために、練習曲として書いたものなのだが、ピアノ初心者が習うあのバイエルなどと比べて、同じ練習曲とはいえ、何と芸術性にあふれていて、しかも深い精神性に裏打ちされていることだろうか。
バッハについて書いていくときりがない。これからも、ことあるごとに、私のバッハについて、取り上げてみたいと思っている。(’09.11.23,12.24の項参照)
『ヨハン・セバスティアン・バッハは私に何一つ強要しない。彼は私が安らかに歩き回ったり、まどろんだり、自分の思念や、苦悩や、喜悦や、欲望を高めさせたりすることのできる殿堂を提供してくれる。』(ジョルジュ・デュアメル)
参考文献: 『レコードのモーツァルト』(吉田秀和、中央公論社)、『音楽の手帖 バッハ』(青土社)、『バッハ』(ポール・デュ・ブーシェ、創元社)、『バッハ』(ヴェルナー・フェーリクス、講談社学術文庫)、『バッハ頌』(白水社)、上記レコード解説他。