ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

プチ氷河とよく生きるために

2014-02-24 20:28:23 | Weblog
 

 2月24日

 今、庭や屋根の上には15cmもの雪が残っている。10日も前に降った雪が、まだ溶けないのだ。
 ここは九州とはいえ、山間部だからよく雪は降るのだが、それでもいつもならすぐ溶けてしまうのに、今年はいつまでも残っているのだ。
 家の前の道の雪はさすがに溶けてしまって、1車線ながら通行に支障はないのだが、朝夕は溶け出した水が凍りついている。

 つまり日中でも5度にも満たない気温で、最低ではマイナス5度近くにまで冷え込むから、最初に降った雪が溶けずに残ると、次に降った雪もさらに寒さで凍りつき、全体がザラメ状になって溶けにくくなってしまうのだ。
 北海道・東北などの寒冷地や高い山の上で、雪が溶けずに長い間残るのは、雪が降った後の寒さで凍りつき、溶けにくくなるのと同じことだ。

 そしてもう一つ、こうした状況では、屋根の上でのプチ氷河の実態も見ることができるのだ。
 上の写真でも分かるように、屋根に積もった雪が低い気温ですぐに溶けずにそのまま残り、朝夕の冷え込みで雪の粒が凍り付いてザラメ状になってしまい、そこに屋根のゆるやかな勾配があるから、その全体に凍ったものが少しずつ下のほうへと動いて行く。
 目には見えないが半日もたつと、その粘り気を持ったザラメの雪は少しずつ動いていて、屋根の庇(ひさし)からせり出している。
 全くそれは、ヨーロッパ・アルプスやヒマラヤ、アンデスはどにある氷河末端付近の原理と同じだ。
 家の屋根での先端部分は、溶けて水滴になり冷たい風に吹きつけられて、つららになっているが(写真のつららは1m50㎝程もある)、これが本物の氷河末端の場合は、ブロック氷塊が崩れ落ち、溶けた水を集めた氷河湖になったりするのだろう。
 
 ただしこの屋根の雪が、実はやっかいなのだ。
 北海道の私の家の屋根は、最初から考えて50度以上もの勾配をつけて作ったから、積もった雪はカラー・トタンの屋根をすぐに滑り落ちてしまう。
 それほどの豪雪にはならない北海道の家の屋根は、こうした具合に、ほとんどが金属トタン屋根だからひとりでに滑り落ちるようになっていて、雪おろしが必要な屋根などあまり見たことがない。
 もちろん街中では家が並んで建っているから、屋根からの落雪が危険な所では、雪が一気に滑り落ちないように雪止めがつけられてはいるが。

 しかし、東北などの雪国では、何メートルもの雪が積もり、そのままにしていると雪の重みで屋根がつぶれることになるから、屋根に上がって雪おろしをしなければならない。
 毎年何人もの死者が出るほどの、そんな危険な仕事は、まして年寄り世帯にはできない話で、田舎には手伝ってくれる若い世代も少ないから、お金を払って町から誰かに来てもらって雪おろしをやってもらうか、そのまま危険承知で居続けるか、どこか他に避難するかしかなく、いずれにせよ雪の季節になる度につらい判断をしなければならない。

 それほどまでして、そんな不便な所にしがみつく必要があるのかと思うかもしれないが、この冬が過ぎれば、あの暖かい日差しあふれる色とりどりの春が訪れ、やがて緑一色の夏になり、夕方の涼しい風が吹く、そして錦繍(きんしゅう)秋の中で小春日和の陽だまりを楽しむ・・・そんなふうにしてそこで長く暮らしてきた者にとっては、古い家でも不便なことが多くてもやはり”住めば都”であり、離れたくはないのだ。
 都会に住めば物はあふれていて、お金さえあれば何でも手に入れられるのだろうが、その分、日々あくせくしてせちがらい街中の生活を送らなければならない。
 しかし、こうしていざという時には不自由する田舎だけれども、慣れてしまえば悪くはない生活だし、なにより自分たちだけの静かで穏やかな人生を送ることができる。
 
 どちらを選ぶのか、そのことは、最近ここでも何度も取り上げてきた”よく生きること”にもつながる問題である。
 あの古代ギリシアの哲学者ソクラテス(BC469~399)やプラトン(BC427~347)が、あるべき人生の指針として”よく生きること”を提示し、近代の大哲学者ハイデッガー(1889~1976)が、限りある人生を自分の現存在として確かに生きるためには、死を意識しつつ”よく生きる”べきだとしたのだが・・・。

 しかし、そうした人類の英知の上に君臨する名だたる哲学者たちならともかく、私たち多くの一般人たちは、そうして考え突き詰めるだけの知識や教養もなく、ただ目の前にある日々をその日暮らしとして見つめて生きているだけなのだ。
 そうした多少の勤勉さと、多少の怠惰(たいだ)な気分と、多少の将来への見通しだけを持って、みんなとは離れずに、しかしそれぞれに思った方向に進んでいる私たちは、はたして”よくは生きていない”のだろうか。
 もちろん中には、”よりよく生きる”べく、自分のことよりもまず周りの人々のために地域のために、世界のために地球のためにと、粉骨砕身(ふんこつさいしん)の努力をしている人たちもいるのだ。
 何もできない私から見れば、その行動力には頭が下がる思いがするし、ごく少数ではあるが、彼ら彼女らこそが希望ある人類の未来を切り開いていってくれる人たちなのだと思う。
 そしてまた一方では、少数ではあるが、世界中のどこにでも富者たちはいて、その彼らこそが今の世界を動かしているのだ。


 あのソクラテスの言葉が、今の時代でもなお聞こえてくるのだ。
 「・・・もっとも評判の良い国アテナイの市民でありながら、金銭のことでは、どうすればできるだけたくさん手に入るかということを、また評判や栄誉のことも心がけているのに、英知や真理、また魂のことでは、それがどうすれば一番すぐれたものになるかということを心にもかけず、工夫もしないのが恥ずかしくはないのか。」

(「ソクラテスの弁明」プラトン 山本光雄訳 角川文庫)

 つまり、ソクラテス、プラトンの時代から、理想と現実の乖離(かいり)は存在したことだし、今さら東京のタワー・マンション最上階などに住む人たちと、先日あげた”若年女性の貧困”(2月10日の項参照)をここでの問題の俎上(そじょう)にあげて、あれこれ言うつもりはない。
 それらのことはいつか心ある日本の政治家の先生方が、きっと収まるべき方向を見つけては、ささやかな解決策を示してくれるはずだと思うから。

 今考えたいのは、全く取るに足りないことではあるが、あるひとりの年寄りの情けない魂の落ち着きどころを見つけることなのだ。
 つまり、”よりよく生きる”べき道も見つけられずに、己の小さな世界に閉じこもって安住しているだけの年寄りに、何か他に、確信できる生き方を示してやることはできないのか。

 それはたとえば、一般衆生(しゅじょう)にただ”南無阿弥陀仏”と唱えるだけで救われるとした浄土宗などの仏教諸宗はもとより、悔い改めて主を信じることで救われるとしたキリスト教などの、宗教による教えに帰依(きえ)するのではなく、かといって哲学者たちの言葉をそのまま受け入れて実行できるわけでもなく、ただ天邪鬼(あまのじゃく)な私が自分なりに考えた生き方として、それをもっと自然界の理(ことわり)にかなうものとして、しっかりと自分の心の内に定着させたいのだ。
 それは昔から私の心の中にあり、時が経つごとに少しずつおぼろげな形となって見えてきたものでもあり、まだ確かな姿ではないが、それをさらに補足して、自分なりに納得できるものにしたいと思ってはいるのだが・・・。

 たとえばそれは、幾つもの山の頂きで感じたことでもあるし、北海道の林の中での生活から感じたものでもあるし、もう10年前にもなるが母の死から学んだものでもあるし、そして2年前にもなるあのミャオの死の衝撃から教えられたものでもあるし、前回の末尾に書いたカマキリの見事な擬態(ぎたい)を見て感じたことでもあるのだが・・・。

 昨日の新聞の読書欄に”動物の倫理思想”について、その権利論と福祉論の考え方の要点を、幾つかの書籍を通して紹介していた。
 そこでは、イルカやクジラの保護で有名な動物保護についてすら、その立場が一貫していないと論破されるほどであり、改めて人間と動物の立場について、いろいろと考えさせられたのだが。
 私たち人間は、その知力によって組み上げられた科学文明のやぐらの上に乗って、自然界の食物連鎖の頂点に立っている。しかし本来は、他の動物たちと同じように、同列の捕食被捕食の立場にいたのではないか。
 そのことが、あの鮮やかな擬態の体に変身してまで、エサを待ち構えるカマキリの姿を見たときに思い浮かんだのだ。

 私たち人類は、いったいどこまで、この地球上に住む動植物を含む一切の生き物たちのことを考えているのか。
 ただ単なる捕食被捕食者の関係でしかありえないのか、それとも地球上の自然を形作る欠くべからざる共存者なのか。

 そこで、あの”梅原日本学”で有名な梅原猛氏の言葉を借りれば、日本人にはもともと、日本文化の原理としての思想があって、それは天台密教による天台本覚思想であり、「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」つまり動物だけでなく、草木さえ成仏し、さらには国土までもが成仏できると説いてあるというのだが。

(「人類哲学序説」梅原猛 岩波新書)

 一方で、しかしその全地球的な思いは、あの古代ギリシアの時代にもあったことなのだ。

「神々から人間に課せられた最も善き生を全うするために、”万有の調和と廻(めぐ)り動きを学び取ること”によって、”われわれの内なる神的なもの”への配慮あるいは世話に努めなければならないこと。」

「この上なく偉大で、この上なく善く、この上なく美しく、この上なく完全なるものとして、この宇宙は誕生した。」

(プラトンの哲学」藤沢令夫 岩波新書)

 何と言う、心からの自然賛歌であろうか・・・。
 畏怖(いふ)と崇敬(すうけい)の思いを併せ持っていた、かの古代国家に生きていた人たちの心を思う。



 昨日の午後からようやく天気も良くなって暖かくなり、気温も10度近くにまで上がり、雪解けのしずくがあちこちで聞こえてきて、早鳴きの鳥たちの声も聞こえてきた。やはり春は近づいてきているのだ。

 去年の暮あたりから、傷んだ柿や、食べ終わったリンゴのシンや皮、たまにはミカンの輪切りのひとかけらを、ベランダのエサ台に出していて、今ではすっかりそれをあてにして一羽のヒヨドリがやってきている。(写真下)
 まして2月に入ってからは雪の日が続いて、余り他にエサもなかったらしくて、ほとんど家の周りに居続けているのだ。
 リンゴの食べくずや皮などは、どのみち燃えるごみとして捨てるだけだから(外の枯草置き場などに置いているとシカが来てしまうから)、別に鳥にやるエサ代がかかるわけでもないからいいのだが、しかし考えてしまうのだ。

 本来は、外で何とかエサを探して生きている野生の鳥が、人間からもらうエサに頼りっきりになっていいものかと。
 他にもシロハラやメジロ、他のヒヨドリたちも来るのだが、うちのヒヨがすべて追いはらってしまい、ひとり丸々と太っているのだ。
 2mそばまで近寄っても逃げないほどに、なついていてかわいいのだが、もちろんミャオの代わりにはならないし、やがて春になりあちこちに花が咲き始めれば、その蜜を吸ってくちばしが黄色くなるから(あのいつものソフトバンクのCMで、きな粉もちを食べてお父さん犬から叱られる黒人の息子の口先のように)、そのころには少しずつエサ出しを減らしていかなければと思っているのだが。

 私がヒヨドリにエサをあげているのは、動物愛護でも保護のためでもない。私の自分勝手なエゴで、心さびしいから触れ合うべき相手を作るために、エサをやっているだけなのだ。
 前にも書いたことがあるが、その昔バート・ランカスターが演じた映画『終身犯』の主人公は、孤独な独房でただ一人日々を送り、窓辺に来た小鳥にエサをやっているうちに、次第に鳥についての興味がわき研究し続けて、ついには偉大な鳥類学者になるという話だった。
 それに引きかえ、このひとり住まいの私が成し遂げたことは、何もない・・・。

 どうも今回は、重たい話ばかりを書いてきてしまった。
 ここで気分を変えて、前の日のバラエティー番組でのお笑いタレントたちの、下ネタ(ごめんなさい)ふう、”のりつっこみ”の見事な一場面を。
 
 今回の冬季オリンピックの金メダル候補たちについての話題になって、皆が結局はプレッシャーに負けたのではと言ったりしていたが、そこにいたある元サッカー選手が確かに国際試合でのプレッシャーは相当なものだからと説明していた。
 それにつられてか、次にあの可愛い(?)ニューハーフ・タレントが、彼女(?)は数年前タイで行われたニューハーフ世界一を決める大会で何と優勝していたのだが、その時の模様を思い浮かべて、実はプレッシャーでドキドキだったと言っていた。
 すると、そばにいたお笑いタレントの一人が、その彼女(?)を見てはニヤつきながら質問したのだ。

「その時に取った金(メダル)は一つだけ?」
 彼女(?)は一瞬おいて切り返した。
「もちろん二つよ。」

 神聖な五輪競技が終わったばかりなのに、申し訳ありません、失礼しました。

 
 

九重の山、15歳でも80歳になっても

2014-02-17 22:05:46 | Weblog
 

 2月17日

 東京で二週続けて27㎝の積雪というのも驚きだが、それ以上にあの甲府で117cmもの雪とは。
 甲府には、東京に住んでいた若いころから今に至るまで、南アルプスに登る拠点として何度も泊まったことがあるし、また北アルプス、中央アルプス、八ヶ岳、奥秩父などへと向う時に必ず通過する町でもあったから、四季を通じてよく知っている所なのに、そして盆地の地形だから、夏は猛暑になり、冬は冷え込むのも知ってはいたが、雪がそれほど降るとは思ってもいなかったし、甲府の人にとってもまさにこの冬の雪は大雪だったに違いない。

 そこで詳しく調べてみると、富士山のふもと河口湖でも143cm、さらに隣の長野県では雪の多い北信地方は別として、雪の少ない中南部では松本で60㎝、あの諏訪でさえ50㎝近い雪が降り、伊那盆地の飯田では70㎝も積もっていたのだ。
 まして山では・・・あの北アルプスなどと比べて雪も少ない、南アルプスや八ヶ岳での雪はどうだったのだろうか。今の時期山に入っていた人は大丈夫だったのだろうか。
 あちこちの高速道・国道でさえ、何百台もの車が立ち往生して、山奥のは孤立しているというのに。

 日頃から、雪に彩られた山の姿を礼賛(らいさん)している私も、こうした雪による被害の状況を見ていると、さすがにそう雪景色をめでてばかりもいられなくなるし、わが家の周辺でもあちこちで雪による被害が出ているとのことだ。

 前の週の雪の時と同じように、関東甲信越での大雪になる二日前に、もちろん九州の山間部でもあちこちで大雪になったのだ。
 家の前で35㎝。まあこのくらいの雪では、ずいぶん前には50㎝位積もったことも何度かあったから、大雪とは言えないだろうが、玄関から道までと、さらに表通りの道まではさらに50mほどもあって、雪かきが一仕事になる。

 午前中に一時間ほどかかって、玄関周りから車庫周りの雪かきをして、もうそれだけで汗だくになる。
 午後には、表通りまでの道をホウキ・スコップで雪かきしていく。1時間たった半ばほどのところで、地区の除雪車が来てくれて、残りを一気に片づけてくれた。ありがたいものだ。
 しかし、その後もはみ出した雪などを片づけて、さらに1時間近くかかってようやく車は通れるようになり、今日の仕事は終わったのだ。

 さて家に戻ってからは、腰が痛くなったからと何もせず、テレビの前でお菓子でも食べてごろ寝して、いつしかうたた寝。
 二週間前までは、雪が少ないだの、雪かきの仕事ができずに運動不足だのとほざいていたのに、その舌の根も乾かないうちからこの有様、まったくわがままな扱いにくい年寄りではある。

 ところで今回の雪の後は、山へは行かなかった。
 降った次の日もまだ曇り空で時折小雪が舞う天気だったし、翌日は休日で、ライブカメラで見ると九重・牧ノ戸峠には、待ちかねた人たちの車が多く停まっていたうえに、天気も薄雲が広がり薄日が差すくらいの天気で、とても行く気にはならなかった。
 実はこの二度の雪の間に、数日前のことだが一日だけ快晴の空が広がった日があって、その日に九重に行ってきたのだ。

 「鬼瓦屋(おにがわらや、私の屋号)、おぬしも悪よのう。みんなが一所懸命働いている平日の、天気の良い日だけを選んで山遊びに行って。好き勝手し放題ではないか。」 と言われそうだが、まあ他に楽しみとてないし、明日をも知れない老いの身に免じて、どうかお許し下され、あーゴホゴホ。血だ・・・いや、食べていたチョコレートの食べかすか。

 雪が降ったのは前々日で、次の日はまだ曇り空で時折雪が舞う天気だったが、翌日は朝から青空が広がっていた。
 家からの道の所々には雪が残っていて、さらに長者原から牧ノ戸まではすべて圧雪状態だったが、駐車場にはもうすでに十数台のクルマが停まっていた。
 
 8時半ころで、気温は-5度。積雪は登山口で10cmほどだが、あたりの木々のすべてが枝先まで白くなっていて、前回以上に見事な樹氷の眺めだった。
 沓掛山(くつかけやま、1503m)の前峰まで上がると、阿蘇山(1592m)が見え、さらに縦走路をたどると、三俣山(1745m)を背景にしてカラマツの木が樹氷に覆われているのが見える。いつもの定番の眺めの場所なのだ。(写真上)
 しかし、もうずいぶん前のことになるが、台風にやられる前はもっとカラマツの数もあって見栄えもよかったのにと思ってしまう。
 さらに、歩きやすい踏み固められた雪の縦走路をたどって行くと、右手に前回と同じように、鍋谷から続く樹氷林が青空の下にきれい並んでいる。(1月27日の項参照)
 
 そういえば、霧氷と樹氷の区別だけれども、私は、周りに雪が降っていないのに、水蒸気や細かい霧、雨滴が単純に木々の枝に吹きつけられてできた、透明の氷状に張り付いたものを霧氷だと思い、その他の雪が吹きつけた後などに見られる、雪片が吹き付けられてあの”エビのしっぽ”状に積み重なったものを樹氷だと区別していた。
 しかしそれだと、その巨大化して搭状になったもの(”樹氷塔”とでも書きたいところだが)、つまり”アイス・モンスター”とも呼ばれている、あの蔵王や八甲田のいわゆる”樹氷”と同系列に並べることになり、いささか気にはなってはいたのだが。
 そこで調べてみると、学名として名づけられた時点では、この巨大化した樹氷については、別に名前が付けられていなかったということであり、そこで今日の混乱が生じたのだと思う。

 それは、「ギヨエテとは俺のことかとゲーテ言い」という川柳(せんりゅう)に代表されるような、明治時代初めのころの外国語表記の混乱ぶりに例えるわけではないけれども、「樹氷とは俺のことかとアイス・モンスター言い」ということになるのだが。
 そこで、いつものウィキペディアで調べてみると以下のように書いてあった。

「霧氷(むひょう)は、過冷却の霧や水蒸気が昇華(しょうか)して、白色半透明になって着氷したものであり、一方霧粒や雨粒が透明な形で着氷したものを、雨氷(うひょう)と呼んでいる。」(うひょー、知らなかった。)
「霧氷は、さらに樹氷、粗氷(そひょう)、樹霜(じゅそう)の三つに分けられる。
 樹氷は、いわゆる”エビのしっぽ”と呼ばれるものと同じで、白色や半透明のものであり、粗氷は半透明のもの、樹霜は水蒸気が霜のようについたものである。」
 
 しかし思うに、一般的には、木々が白くなったものをすべて霧氷と呼んでいて、樹氷は蔵王・八甲田などのアイス・モンスターだけを指す言葉として使われているようだ。
 さらに、霧氷が三つに分けられていて、その一つが樹氷だなんて誰も考えてはいないだろうし、私にしても、雨氷と霧氷とを区別していなかったし、普通の木々についているものは樹氷だとしても、ましてさらに粗氷、樹霜になんてとても区別などできない。

 そこで、日本雪氷学会のほうで、何とかこの古い区分をやめて、新しい基準による簡単な区分を作ってはくれないだろうかと思う。
 たとえば水滴などがついてできる透明な霧氷、そして雪片がかかわった樹氷に、巨大化した樹氷塔とかいったぐあいに分けて、一般の人にもわかりやすく理解できるようにしてほしいものだが。

 さてそれはともかく、さらに縦走路を行くと雪も2,30㎝の深さになってきて、それでも昨日からの大勢の人によるトレースがついているから歩きやすいのだが、あたりには雪の風紋が描く光景があちこちに見られた。
 冬山の景観の楽しみの一つは、この風紋や、エビのしっぽ、シュカブラなどが作る雪と氷の”偶然の芸術”にあるのだ。
 星生崎(ほっしょうざき)下から久住別れへと下る途中には、シュカブラを前景にして久住山(1787m)が背景にあり、雲海のかなたに祖母山(1756m)が見えるという光景もなかなかに良かった。(写真)

 

 九重山の本峰でもある久住山は、今回は割愛して、天狗ヶ城(1780m)に向かう。
 その登りではさすがに息が切れるけれど、振り返り見るあの”モビィ・ディック(白鯨)”のような久住本峰の眺めが素晴らしい。
 そうなのだ、九重山群の中で最もスケール感あふれた久住山は、登るよりは周りの山々から眺めるのが一番なのだ。 
 そのための展望台の一つがこの天狗ヶ城であり、ここはまた星生山や中岳を眺めるにも適した頂きなのだ。
 その岩場を下って、今度は中岳へと向かう。雪は吹き溜まりでは50㎝程あるが、ずっとトレースがついているし、しっかりしたトレッド・パターンの冬靴をはいているし、私はとうとう最後までアイゼンはつけなかった。

 鞍部から九重山群最高峰の中岳(1791m)への登りでは、風紋やシュカブラの作り出す光景が青空の下に細やかな陰影を作っていた。(写真)

 

 一登りで中岳頂上に着く。快晴の空の下、風もあまりなく、他に同じような単独の人が二人いるだけで静かだった。
 ここまで写真を撮りながら来たので、3時間余りもかかっていたが、初めて腰を下ろしてゆっくりと休む気になった。
 周りを取り囲む、九重山群の山々を眺めながら、私は幸せな気分だった。
 今日の天気は、北に高気圧という配置から見ても、これほど晴れるとは思えなかったのだが、しかし周りをよく見ると、祖母・傾や阿蘇などの1500m以上の山々は見えているのに、他は平野部を含めて、まだらな雲海に覆われていたし、その雲が今やあちこちで乱れ始めて、この九重の山々にも及びつつあった。
 
 しかしもうあとは下るだけだ。凍結した御池を渡り、そこで今日初めて十数名もの中高年集団登山に出会ったが、それ以外は一人や二人といった人たちばかりで静かだった。
 久住別れの辺りまで来ると、星生崎の山腹には雲がまとわりつきはじめていて(写真下)、さらにその先の西千里浜にまで下りてくると、もうあたりはすっかり雲に包まれてしまった。

 

 これでは夕景を見るのも無理だろう。私はひたすらに縦走路を下り、牧ノ戸の駐車場に戻った。
 中岳頂上からは2時間足らず、合わせて6時間足らずの気持ちの良い穏やかな雪山歩きだった。

 帰りの道では、もうわずかに雪が残っているだけで(これが九州の雪道だ)、普通にクルマを走らせて家に戻った。
 そして、さっそくテレビにデジカメ写真を映し出して、ひとりニヒニヒと悦に入り眺める楽しさ。

 簡単な夕食を作って食べ、牛になってもいいからと、そのままごろりと横になって、お笑いバラエティー番組でも見て、風呂に入って今日の山での汗と疲れを流し、いい気分になっていつものベッドでの本を読みながら、すぐに眠くなり本を閉じ明かりを消して、おやすみなさい。
 これでいいのだろうか。
 いいのだよ。誰に迷惑かけてるわけでなく、残り少ない自分の人生だもの・・・ささやかな喜びでも十分。
 
 しかし、考えないでもない。
 今行われている、ロシア・ソチでの冬季オリンピック。
 (そして、滑降競技などの背後に映し出される雪の山々・・・。ある時はその競技よりも、あのコーカサス(カフカズ)山脈の3000m級の山々のアルペン的な景観に目が行くのは、山好きな私だけなのだろうか。)

 ともかく、オリンピック・ゲームとして繰り広げられる、競技の結果に一喜一憂するのは誰しも同じことだろう。
 スノーボード・ハーフパイプでの15歳の銀メダル。男子フィギュアでの19歳の金メダル。
 スキー・ジャンプ・ラージヒルでの41歳の銀メダル。
 
 さらに最近のニュースへと思いは続く。STAP細胞という世紀の発見で世界を驚かせた30歳の女性細胞生物学者。
 80歳という高齢で、周りの協力もあってエベレストに登頂した、冒険スキーヤー。

 いずれにも共通するのは意志の強さ、持続する強い心だ。
 しかし物事をやり続ける人には、誰にも同じように強い意志の心があるはずだ。
 それなのに、結果として報われずに成功せずに終わった人たちが、実はほとんどを占めているのだ。

 しかしよく考えなければならないのは、それらの結果は、その時の競技の成功者であり失敗者であるというだけのことであり、競技ゲームの結果にすぎないものであるということだ。
 私たちは混同しがちだが、結果がすべてではなく、何も人生の価値までをも色づけするものではないということだ・・・もっともそれらの結果が、自分に問いかけた人生の中での、輝かしい一瞬と悔恨のひと時になったことは確かだろうが。
 ただ言えることは、15歳と19歳と30歳と41歳と80歳の成功者たちは、それぞれの人生の通過点の中で時を得て、自らの努力に最大限報われた人たちであったということだ。
 

 しかし、世の中には、そうした競い合うこと自体を最初から嫌ったり、途中から離れたりするひとたちもいるのだ。
 前にも取り上げたことのあるあのベニシアさん(’12.3.4の項参照)。京都は大原の里で、故郷イギリスと日本の田舎の暮らしを融合させて、日々あれこれ工夫努力を重ねながらものびやかに暮らしている・・・。
 そして中高年に人気の、テレビ朝日系の番組『人生の楽園』に出てくる主人公たちは、日々の仕事に励みながら、穏やかな人生を楽しんでいる・・・。
 
 さらには、これまで私が何度も取り上げてきた、中世の時代から続く隠者たち、たとえばあの『方丈記』を書いた鴨長明から、『徒然草』の吉田兼好、歌人の西行や江戸時代の良寛和尚(’10.11.14の項参照)など、競い争うことを避けてひとり生きることを選んだ人たちがいる。
 私がそうした生き方にあこがれながらも、一方ではスポーツとして人間たちが競い合う姿も見て楽しんでいるということは、一体どこでつながるのだろうか。

 人間たちはその昔、周りに獰猛(どうもう)な動物たちに取り囲まれいて、さらには敵としての他の人間集団たちと相争い殺し合う関係の中にいたはずだ。
 そして幾たびもの有益無益な争いの後、互いに学び合うことで少しずつ殺し合いは少なくなり、そうした平和な時代になればなるほど、その代わりとでもいうべきスポーツ・ゲームは栄えていったのだ。
 つまり思慮あるべく学び取ってきた人間たちは、ようやく無益な殺し合いに代えて、その仮想スポーツ・ゲームの世界に自分たちの思いを置き換えることができるようになったのだ。
 
 思えば、そうした昔の時代の闘争本能を受け継いできたDNAを、体のどこかに持っているからこそ、私たちはスポーツ・ゲームに夢中になり、一方でそんな争い合う時代に辟易(へきえき)したDNAを、これまた体のどこかに持っているからこそ、私たちは静かで穏やかな生活を望むのではないのだろうか。
 そんな相反するような二面性こそが、すべての生き物たちに与えられた、生き抜くことへの暗示なのかもしれない。

 今日たまたま見たNHK・BSの『ワイルドライフ』で、全く見分けのつかない花の形や枯葉、木の幹の形に擬態(ぎたい)して、獲物を待つカマキリの姿を見た。
 だましだまされる生き物たちの厳しい世界・・・生きていくということの本来の意味を考えさせられたのだが。

 
 

サザンカと菊

2014-02-10 21:29:53 | Weblog
 

 2月10日

 1週間前に、今年は雪が少ないと書いたばかりなのに、昨日は関東地方周辺で、20㎝を超える雪が積もったとのニュース画像。
 もっともこのくらいの雪では、北海道、東北、北陸地方などの雪国の人たちにとっては、大雪などではなく、雪が少し降ったぐらいにしかならないのだが、雪が降るのさえ珍しい大都市などの人にとっては、まさに大雪だったのかもしれない。
 
 雪国の人には、あのくらいの雪で都会の人が大騒ぎしているのが大げさに思えるだろうし、都会の人にとっても、この雪が溶けて元に戻れば、毎日のように大雪が降ってその除雪作業に追われる雪国の人の苦労など、もう他人事として忘れてしまうことだろう。
 つまり人は、その当事者にならなければ、その本当の痛みなど分からないということだ。

 考えてみれば、物事やそれを表す言葉は、いつも誰もが共通に同じこととして理解できるものではなく、いつもどこかで少しずつ異なって理解されるから、誤解が生まれひいては相互不信のもとになるのかもしれない。
 それは、旧約聖書にあるあの”バベルの塔”の例をあげるまでもなく、異なる言葉の意味が障害となって、すべてをその通りには理解しあえない人間どうしの、あるいは言語の違う民族間での宿命的な誤解になるのかもしれない。

 初めから、少し重い話になってしまったが、そんな倫理学的な話を書こうとしたのではない。ただ、20数センチの雪で、大都市の生活や交通が混乱しているのを見て、それぞれの地方によって雪の影響や受け取り方が違うものだと常日頃から思っていたので、ついでに書いてみただけのことだ。

 さてこの東京での大雪の2日前、九州の山間部でも少しまとまった雪が降った。
 わが家の周辺でも、15㎝程積もったが、まるで春先に降る湿った重たい雪のようで、最初の日の道の雪かきに30分ほどかかっただけで、後は気温が上がり雨になったりして自然に溶けてしまった。
 山に雪が降れば行きたいと思っていたのだが、その後も天気は回復せず、ライブカメラで見る九重の山にも大した雪は積もっていなかった。

 しかし、このところはそうして天気が悪く、家の中ばかりいて体がなまっていたし、あのわずかばかりの雪かきでは運動にもならないので、青空がちらちらとのぞいていたのに誘われて、雪がまだ残っている家の近くを散歩して回った。
 しばらく歩いていなかったので、ゆるやかな坂道でも息が切れてしまう。
 こんなことでは、山に登れなくなるのではと思うけれども、それもがまんしてゆっくりと登り続けていれば、いつしか体も慣れて少しは楽になってくる。

 それは、苦痛の後のほのかな陶然(とうぜん)とした心地よさに似て、足を前に出すことだけを繰り返していると、いつしか他の感覚がほんの少しだけ遠のき、歩いているその時間だけが流れていく・・・私が山に登り続けるのは、そうした苦が続く単純作業の中にある快のひとときを、私の心と体が求めているからなのだろうか。

 ふと見上げた空に、青空からの光が差し込んできて、道のそばに咲くサザンカの花が目に入ってきた。
 冬の一番寒い時期にだけ咲く、サザンカの花。すべての枝先にいっぱいに花やつぼみをつけて、湿った雪の重みにも耐えながら咲き続ける花たち・・・。(写真上)

 こうしたサザンカやツバキの花は、よく考えたものだと思う。寒い冬場には、受粉させてくれる蝶や虫たちがいるはずもないのに、だからこそエサの少ない時期に目立つように咲いて、鳥(メジロやヒヨドリなど)たちに花蜜を提供しては、受粉させてもらおうと咲くのだから。
 みんなそれぞれに、必死になって生きているのだ。
 ただただ、ぐうたらに生きている私はと、深く反省するばかりなのだ・・・。

 それにつけても、思い返すのは、2週間ほど前のあのテレビの番組、NHK・クローズアップ現代だ。
 いつも見ている7時のニュースの後にあって、その上いつもタイムリーな話題を取り上げるドキュメンタリー番組だから、さらに今回はそのタイトル名が気になって、見る気にもなったのだが。

 「あしたが見えない」―深刻化する”若年女性”の貧困。

 彼女たちの貧困の原因は、親の生活苦をそのまま引き継ぐ形で、それゆえに学歴がなく、正社員になれず、いい仕事に就けず、”負の連鎖”を続けて行くというものだった。
 民放のある番組では、多少お笑いめかして”ボンビー・ガール”などと名付けて、彼女たちを紹介しているが、事態はそう簡単なものではなさそうだ。

 そうした彼女たちが、結婚もせずに子供を産めば、もう頼る先は、寮・保育所付の”風俗店”で働くしかないのだ。
 また一方では、資格を取るためにと学びながら働いても、それに見合うだけの給料ではなく、いつしかあきらめては、その日暮らしの生活に甘んじるしかなくなる。
 そんな一人の、ぼさぼさ髪の彼女から返ってきたってきた言葉は・・・「ただ、今の生活からは脱出したい。将来の夢ですか? 理想はないです。」

 一方、その多くは若者たちのグループによるだろうと言われている、”振り込め(オレオレ)詐欺”による去年1年間の被害は、過去最悪の486億円にもなったとか。

 将来の次の世代のことを考えてやるのが、今の大人たちの責任であり、最も大きな国の仕事だろうに・・・。
 そう言う私めは、このぐうたらな年寄りは、何もできずにただ涙目になって見てやるだけなのだが・・・。
 
 思えばこの私には、過去の思い出の貯金はたっぷりとあるのだが、これから先の将来を見据えた理想や夢などは、もう考えられないのかもしれない。
 それは、私には時間がそう多くは残されていないからだ。
 だからこそ、だからこそ今生きていると思う時間が大切なのだ。
 あの古代ギリシアの、エピクロス学派が説いた、”快楽の哲学”(’10.6.22の項参照)は、今にして思えば、働きざかりの大人や青年たちのためにではなく、まさしく終りに近づきつつある年寄りたちのためのものではなかったのだろうか。

 「もしわれわれが、味覚の与える快楽を避け、歌が耳に与える快楽を削るとしたら、また美しい形を見て受ける快い印象など、これらあらゆる感覚を避けるとしたら、幸福は一体どこにあるのだろう。」

 (『ギリシャ哲学』ジャン・ポール・デュモン 有田潤訳 白水社文庫)

 もちろん私も、この言葉にすべて賛同できるわけではないし、幸福とは他にもさまざまな形で存在しまた作り出せるものだとは思うけれども、とりあえず直接的、感覚的なものとして訴えかけてくる、食事の喜び、音楽の愉悦(ゆえつ)、そして様々な形の美学の楽しみなどは、人間がまず手近かにあるものとして、すぐに手に入れることができる幸福の一つの例だとは思うのだ。

 私は、決して美食家ではないし、高いお金をかけてまでおいしいものを食べようとは思わない。何よりも私が幸せに思えるのは、北海道の家の周りで採れる、季節の山菜を食べる時だ。
 私は、音楽を聴くのが好きだ。クラッシック音楽は私の心の慰めであり、AKBの歌声は年寄りの私への励ましになる。
 私は、好みの画家の絵を見るのが好きだし、美しい山々の姿を見るのも好きだ。

 それら私の好きなものと一緒にいる時に、私は幸せだと思う。

 私は、高潔(こうけつ)・高邁(こうまい)な精神の持ち主でもないし、確かな指針を示すことのできる明晰(めいせき)な哲学者でもないから、自分の魂を善きものへと磨き上げることもできないし、ましてや他人のために自らの身や財産を投げ打ってまでの慈善行為に及ぶこともできない。
 ただ小さな自分だけのテリトリーの中で、わがままに簡素に静かに暮らしているだけのことだ。
 そして、その暗い洞穴の中で、燃え盛る火の上にかけられた大なべを時折かき回し、黄色い歯をむき出しにしては笑うのだ。

 その煮えたぎる大なべの中には、子供のころから今に至るまでの思い出の数々が、あの水色のゾウのおもちゃや、中学校時代の白いカバーがかけられた制帽や、青年時代に背負っていた横長のキスリング・ザックや、パチンコの球や、難しい専門書や、可愛い娘たちの涙や、自分の涙や、かわいがっていた愛犬チーコや、2年前までは一緒にいたあのミャオや、その他多くの思い出の写真などが入れられていて、それはもういかなる言葉を用いても表現することのできぬ、懐かしさと悔恨(かいこん)の古くさい臭いに満ち溢れていて、おそらくその恐るべき光景に耐えられるのは、鍋をかき回す当の本人だけだろうが・・・。

 しかし、その千々(ちぢ)に乱れた白髪の中からのぞく死んだ魚のような生気のない目が、きらりと輝く一瞬がある・・・好きな音楽CDや録画DVDなどがひらひらと舞い上がり、そこに新たな1枚を加えては、ニヒニヒと笑うひとときだ・・・。

 よく見ると、それは最近、NHK・Eテレで放映されたばかりの、あの国立劇場で新春歌舞伎公演の出し物、”通し狂言「三千両新春駒曳(さんぜんりょうはるのこまひき)」全六幕”の名前が。

 というわけで、最近見たばかりの歌舞伎についてのひとくさり。
 3時間近い録画番組だったが、途中で二三度休みを入れたものの一気に全部見てしまった。
 一つにはこの演目が私には初めだったことと、尾上菊五郎、中村時蔵などのべテランの間での、期待の次世代、尾上菊之助、尾上松緑の演技ぶりから目が離せなかったからでもある。
 
 演目は、江戸時代寛政年間に大阪で作られ公演された『けいせい青陽𪆐(はるのとり)』がそのおおもとになっていて、一幕物としては、あの先代仁左衛門などが京都南座などで公演したことはあったが、全六幕の通しで公演されるのは150年ぶりとのことである。

 話は、歌舞伎によくある時空を超えた多少荒唐無稽(こうとうむけい)な設定ではあるが、昔の朝鮮、高麗(こうらい)の皇女照菊(菊之助)が、日本に渡り、廓(くるわ)の女房(中村時蔵)などの手を借りて花魁(おいらん)姿に身を変えて、高麗の浜辺でひとめぼれした日本の侍(尾上松也)に会いに行くが、彼は当時の小田(おだ)信長亡き後をめぐる家督相続争いにある一方の家臣団の家来でもあった。
 様々な事件のもとは、その江戸時代の二代将軍家忠の時の”吊り天井”事件や、三代将軍家光の時の甥、長七郎や大久保彦左衛門のエピソードなどを織り交ぜて、舞台を安土桃山時代に移し替えている。
 さて、その渦中にあった信長の三男信孝(菊五郎)は、跡目を継ぐのを辞退して(あのテレビ・シリーズにもなった長七郎に例えていて)、ひとり気ままな廓通いの日々を送っているが、一方では跡目争いの柴田勝重(勝家、尾上松緑)と真柴久吉(羽柴秀吉、中村時蔵二役)との間の謀議策略は続いていた。
 
 そこに吊り天井を作った大工与四郎(菊之助の二役)が出てきて、その口封じをしようとする勝重一派。さらにその軍資金を横取りしようと出てきた石川五右衛門配下の盗賊たち。しかしそこにちょうど信孝が出てきて、有名な”馬切り”の場で盗賊たちを切り捨てるのだが、最後に刀を左手に持ち替えての見せ場での立ち回り。
 しかし最後には、義理にからまれて自ら腹を切るしかなかった二人、与四郎とその後見人でもあった材木商の田郎助(実は勝重との双子の弟、松緑の二役)の悲劇を迎えながらも、すべては真柴の目出たき勝利へとつながり終わっていく。

 この菊五郎自身が監修したという脚本には、時代に合わせての”倍返しだ”などのギャグもはさまれていて、つまり大ロマン、お家騒動、当時の町方から見たヒーローたちとその悲劇もあり、からくりやお笑いを含めてのすべての要素を含んだ、ごった煮のいかにも新春歌舞伎にふさわしいものだった。

 ところで、花魁に成りすました皇女照菊が、郭に来ていた信孝に対面する場面で、あの一休和尚(一休宗純禅師)の有名な歌が歌われていた。

 「桜木を砕きてみれば色はなく 香りは春の空にこそあれ」

 どこか違う気がするので調べてみると、あの『一休骸骨(がいこつ)』で読まれていた歌は。

 「桜木をくたきてみれば花もなし 華は春の空そもちくる」

 (『一休』栗田勇 祥伝社刊、一休については、’09.2.25~3.10までの5回の項を参照)

 さらにネットで調べてみると、上の句は同じでも、下の句ではいろいろと歌の違いがある。

 「桜木を砕きてみれば花もなし 花こそ春の空に咲きけれ」
 「桜木を砕きてみれば花もなし 花をば春の空ぞもちくる」

 まあ元歌から、様々に変えて読まれた歌があるのは、昔からよくあることだから、この歌舞伎の場面で歌われたものが、元歌どおりではないとしても、この場面にはふさわしいと考えられなくもないのだ。

 それはともかく、この舞台は歌舞伎の演目として、それほど時代に残るものとは思えないが、当時の歌舞伎を見に来る庶民たちの要求、つまり興味あるものをすべて含んだ、本来の作り物である芝居という感じで見れば、十分に楽しめるものだった。
 歌舞伎には、”時代物”と”世話物”にそれぞれあまりにもシリアスな、思わずかたずをのんで見守り、あるいは涙するような名作がいくつもあるけれども、肩ひじ張らずに役者の演技と踊り、舞台の楽しさを味わう演目があってもいいのだ。
 そうした意味で、今回の「三千両新春駒曳」はまずまずに楽しめたし、何より次世代の二人の役者ぶりが見ものだった。
 父菊五郎との共演にもなった菊之助の、音羽屋伝統の、女形と立ち役の二役をいずれも見事にこなしていた芸の幅に、今更ながら感心させられた。(写真、左菊五郎、右菊之助)

 

 一方の松緑(しょうろく)は、父辰之助と祖父である先代松緑とをまだ十代半ばの時に立て続けに失い、その後松緑の跡目をついでからも、切れ味爽やかによくやっているとは思うが、まだまだ先代の重みを出すまでにはいたっていない、まだ若いし無理からぬことだが。
 しかし、舞台映えのする顔や立ち姿は見事であり、ますます将来が楽しみになる。

 ところで話は飛ぶが、その後BS日テレで放映された、あの北野武監督の映画『ソナチネ』(1993年)を見た。
 私は、子供のころ一緒に連れて行ってもらって見ていた時と、あの高倉健のヤクザ映画シリーズを見ていた時を除けば、長い間日本映画を映画館では見ていない。
 北野武監督の作品がヨーロッパなどで評判になっていることは知っていたが、暴力や殺人シーンが多いためでもあったのか、なかなかテレビで放映されることはなかったのだが、それが最近になって、ようやくテレビでぽつぽつと放映されることになり、まずは『HANA-BI』(1998年)を見て、さらに今回この『ソナチネ』を見たというわけである。

 たった2作品見たくらいで、彼の映画についてあれこれ語れるわけではないのだが、ヤクザの殺し合いという人間の残忍さと、同時に併せ持つ人間のおかしみを間奏曲にしたストーリーはともかくとしても、その映画の作り方に感心してしまったのだ。

 映画を見始めてからしばらくして、動きの激しい動的な場面と、一枚の絵画のような静止画になった場面との対比が、同じように早口のセリフ(少し聞き取りにくいが)のシーンと、緊迫感に満ちた沈黙の間との見事な対比に気がついて、これはよほどの画面構成や編集テクニックにたけたスタッフがいるなと思ったのだが、最後に流れるキャスト・スタッフを見れば、何と脚本・編集は監督自身が行っていたのだ。
 つまり映画を、このように仕上げるという監督の強い意志が反映されるわけであり、そこに芸術作品としての構成感が統一されていたことになる。
 動と静の対比を鮮やかにすること、それは西洋音楽の楽章構成でもあり、”ソナタ形式”と呼ばれる形でもある。彼はそれほど大げさなソナタ形式でなく、あくまでも小規模な”ソナチネ”だとこの映画に名づけたのかもしれないが。

 ともかく、今までの日本映画にはなかった、画面の切れ味の鋭さを私は感じたのだ。
 彼は間違いなく、日本のあのヤクザ映画の多くを見ているし、さらにはヨーロッパ、アメリカ映画の名作を数多く見ているのだろう。
 そして、その経験が自分の映画作りの意欲を高めたのだろうし、それぞれのシーンの見事なワンカットになったのだと思う。

 沖縄の海岸近くのアップ・ダウンが連続する荒れた道の光景、仲間が砂浜を一直線並んで歩く横撮りのシーン、ラスト近くのシーン、戻って来るだろう男を待って、あの荒涼と続く道の彼方を見つめ続ける女・・・。
 それは、この前に見た(制作年代的には5年後になるが)『HANA-BI』で、さらに洗練された映像になっていた。

 ただあえて言えば、これは技術的な問題かもしれないが、セリフが明瞭ではなく聞き取りにくいこと、久石譲の音楽はいいけれども、さらにセリフが少ないのはいいけれど、この二つがもっと少なければ、より緊迫感に満ちた画面になったような気がするのだが。

 沈黙があってこそ、動きの場面が鮮やかになり、激しい動作の後だから、沈黙の場の緊迫感が増すのだ。
 歌舞伎での、ここ一番という時のセリフが語られる前の、あのせっぱつまった緊迫の場での沈黙の間・・・見得(みえ)を切り型が決まった時の静止画のような一瞬・・・。
 (彼が歌舞伎をよく見ているかどうかは知らないけれども。)

 そして最後に付け加えたいのは、やはり殺戮(さつりく)シーンが余りにも多すぎるということであり、そのことに抵抗を感じる人たちもいるのだろうが・・・。
 ともかくにも私が思ったのは、この映画の切れ味のよさであり、映画も他の芸術作品と同じように、多分に映画作りをする人の才能に負っているということ。
 この『ソナチネ』から20年たつが、今後彼の映画はどこに向かうのか、その行きつく先の形になったものを見てみたいと思う。

 
 今日はまた、湿った雪が一日中降り続いて、夕方には10㎝を超えてしまった。
 しかし晴れてくれなければ、山には行けないのだ。

 
 
 

エレミヤの哀歌と七つの涙

2014-02-03 21:42:56 | Weblog
  

 2月3日

 一月の下旬から二月初めにかけてが、一年のうちでもっとも寒い時期だというのに、昨日、宮崎では25度!の夏日を記録したという。
 わが家の周辺でも、この数日は15度を超える毎日で、昨日はとうとう20度を超えてしまった。
 つまり、二か月先の桜の花が咲くころの暖かさなのだ。
 これで、いいのだろうか。

 地球温暖化という声に慣れきった人々は、いつしかオオカミが来ることにも、ピーターの声にも驚かなくなるのだろう。
 だからと言って、明日をも知れないこの年寄りに、あーゴホゴホ、何ができるというのだ。
 せいぜい自分の生活範囲の中で、今までどおりに、質素におとなしく暮らしていく他はないのだが。
 
 そうした多少の寒暖の差こそあれ、私の頭の中に大まかに描いている、年間行動カレンダーに大きな違いはない。
 今は、雪が降ったら山に行き、天気の悪い日は、家にいてどうでもいいような分野の学業に励み、写真を整理し、録画番組を見てはニヒニヒと笑っていればいいだけのことだ。
 大切なことは、いわゆる田舎引きこもり型の、アルツハイマー危険因子を多分に含んだ毎日だとしても、このぐうたらな日常を変えずに、くよくよ考えずに脳天気に生きていくことだ。
 
 ”ありがたや、ありがたや・・・腹が減ったらおまんま食べて、寿命(じゅみょう)尽きればあの世行き・・・ありがたや、ありがたや”とかいった、昔の歌があったはずだ。
 確か子供のころ憶えた歌で、ネットで調べてみると、「有難や節」(作詞 浜口庫之助 作曲 森一也 歌 守屋浩)とある。

 まさしくこの世を生きるのは、考え方次第であり、”ケ・セラ・セラ””なるようになるさ””明日は明日の風が吹く””何とかなるさ”なのかもしれない。

 私は、自分の頭の中のカレンダーを見て思った。そういえば、去年購入したクラッシックCDについて、ベストCDを選んで書く時期になったと。(’13. 1.28の項参照)
 それは、全く誰かのために行うものではなく、あくまでも自分の趣味の一つとして、手元にあるそれらのCDを見回しては、いろいろと昔のことも思い出し、獲物をなめまわすように調べなおすだけの、個人的検証の場でしかないのだが。

 ところが最近では、そのCD購入枚数も激減しており、とてもベスト10はおろか、その数にも達しておらず、今年はわずか7点であり(10枚入り箱物が一点あり、計16枚ということになるが)、ベストと名乗るのにもおこがましくて、そこで気になった2点だけを取り上げてみることにした。
 
 最初の一枚は、クープランの「ルソン・ド・テネブル(テネブレ)」である。
 名カウンター・テナー(ファルセット・ヴォイス)のルネ・ヤーコブスとコンチェルト・ヴォカーレの演奏による、1982年録音のもので、今回ハルモニア・ムンディ・レーベルから廉価盤として再発売されたのである。(写真上、CDプラスティック・ケースを使わない紙製のケースが好ましい。)

 フランスのバロック時代の大作曲家、フランソワ・クープラン(1668~1733)の名曲の一つでもあるこの「ルソン・ド・テネブル」は、キリストの受難の日である聖金曜日の前後を含む三日間教会で行われるおつとめであり、”暗闇の(読誦どくしょう)ミサ”ともいわれているが、それは真夜中の0時を過ぎて行われる朝課だからであって、実際の日付は木、金、土曜日(復活祭)になるのだが、いつしかその前日の午後に行われるミサになってしまい、そのことは英文の解説書にヤーコブス自身が詳しく書いている。

 この曲には、他にも幾つかの名演奏盤があって、中でも、カウンター・テナー、ジェラール・レーヌとアンサンブル・セミナリオ・ムジカーレによる演奏(1991年録音、ハルモニック・レコーズ・レーベル)は、前後にグレゴリオ聖歌をはさんで歌われていて、教会での礼拝時にふさわしいような厳(おごそ)かな気持ちにさせられる。
 さらに言えば、このCDの解説書の裏表紙は、あの”ローソクの光の画家”ラ・トゥール(1593~1626)の描いた「マグダラのマリア」の絵(写真)であり、ドクロをひざに乗せて、ローソクの炎を見つめて悔い改める姿が印象的であるが、あのローソクの光は、また一方では、キリスト受難の日に至るまでの”暗闇のミサ”で、一本一本ローソクを消していった礼拝の様子を暗示したものなのだろうか。

 

 この曲は、この名盤さえあれば他にはいらないと思っていたのだが、たまたま店頭で見かけた昔の名盤、ルネ・ヤーコブス演奏のものが廉価版になっているのを知って(990円)、即座に買ってしまったのだ。
 それは確かに、ヤーコブス全盛期のころの声で(それでも多少気になるところはあるが)、何と言っても他のコンチェルト・ヴォカーレのメンバーがすごいのだ。
 ウィリアム・クリスティー(オルガン、クラヴサン)、ヴィーランド・クィケン(バス・ヴィオール)、ヤープ・テル・リンデン(バス・ヴィオール)、コンラート・ユングヘーネル(テオルボ)といった古楽器の名手ぞろいである。
 それは、あの敬虔(けいけん)な思いにさせられるレーヌ盤とは違った、演奏会で聴く音楽の楽しみを与えてくれるものだった。

 この「ルソン・ド・テネブル」という曲は、もともと旧約聖書の「エレミヤ書」に続く「哀歌(あいか)」の中からとられているのだが、それは、紀元前6世紀、預言者エレミヤが破壊され滅び行くエルサレムを見て、やがてはバビロン捕囚へとつながる苦難の時代を嘆く、その長編詩の一部に曲をつけたものであり、フランス以外では「エレミヤの哀歌」と呼ばれていて、他にもドゥラランド、ラッソス、ゼレンカ、ヴィクトリア、タリスなどが作曲したものがある。

 なかでも私が持っているドゥラランド(1657~1730)のものは、マラン・マレーやクープランなどが作ったトンボー(追悼曲)を前後にはさんで、哀歌のところをソプラノ(イザベル・デロシェール)が歌うという演奏形態をとっていて、なかなかに興味深いCDである(naive・レーベル)。
 
 しかし何と言っても思い出すのは、レコードの時代にアルヒーフ・レーベルから出た、ブルーノ・ターナーとプロ・カンティオーネ・アンティカによるトーマス・タリス(1505~85)の「エレミヤの哀歌」である。
 当時、まだ今ほどにはルネッサンス・バロック音楽にひかれてはいなかったのだけれども、何と言ってもその輸入盤のジャケット写真に目を奪われてしまったのである。
 そこには、あのオランダの名匠レンブラント(1606~69)が描いた「エルサレムの破壊を嘆くエレミヤ」(レンブラント24歳の時!)の絵があったからだ。(写真)

 
 
 それは、私がその時に持っていた画集よりは、はるかに鮮やかな色彩で、ビニール・コーティングされていて、当時のことを思えば、むしろそのジャケットを部屋に飾りたいと思って買ったような気さえするのだ。
 後年この絵には、例の若いころのヨーロッパ旅行の時に、アムステルダム国立美術館で、フェルメールの数点とともに憧れの対面を果たすことができたのだ。

 こうして私は今まで、数多くのレコード・ジャケットの絵画の写真から、様々な音楽と絵画と歴史のつながりを教えてもらっていたのだ。
 次のもう一枚のCDにも、それが言える。
 あのジョルディ・サヴァールとエスぺリオンXXの演奏による、ジョン・ダウランド(1563~1626)の「ラクリメ、あるいは七つの涙」である。(写真)

 

 これも1987年に録音された名盤の再発売CDであり、1,790円という価格は廉価盤としてはやや高めの設定だが、レーベルが豪華な装丁(そうてい)で知られるサヴァール自身のレーベルのAria Voxであり、なおかつ高音質のSACDであることを考えれば、十分に納得できるものである。

 ところでこの「ラクリメ、あるいは七つの涙」は、もともとダウランドのリュート歌曲集(ルーリーとコンソート・オブ・ミュージックによる名盤がある)の中におさめられていた一曲、「流れよ我が涙」が評判になり、すぐにダウランド自身によってヴィオラ・ダ・ガンバ五重奏にリュートを加えた合奏曲として編曲されて、これまた人気になったものであるが、さらにこの曲は今日に至るまで「涙のパヴァーヌ」として様々な楽器に編曲演奏されている。
 ちなみに「七つの涙」とは、”昔の涙、少し前の涙、ため息の涙、悲しみの涙、集められた涙、愛する者の涙、真実の涙”とのことである。

 この曲を初めて聞いたのは、あの有名な皆川先生のFM放送の『バロック音楽のたのしみ』だったと思うが、それで買ったのは、これまたアルヒーフのレコードで、モノラル録音のヴェンツィンガーとバーゼル・スコラ・カントゥルムによるものだったのだが、やはり今にして思えば、奥ゆかしい響きではあったが、やはり合奏の音の広がりが足りなかったようにも思える。

 その後CDの時代になってからは、フレット・ワークやブリュッヘンのブロックフレーテによるものを聴いていて、その後忘れていたのだが、今回このサヴァールによる、録音的にも見事な演奏を聴いて、ようやくこの曲の決定盤を見つけた思いがした。
 さらに、この一部プラスティック・ケースはあるものの、いつも豪華な装丁の表紙の絵は、どこかで見たような気もするが覚えがない。たぶん、ラファエル前派のミレイかロセッティのものだろうと思っていたのだが、クレジット・タイトルを見て初めて分かったのだ・・・。

 絵のタイトルは「ザ・タワーのアン・ブーリン」。
 そうだったのか、あのヘンリー8世に望まれて結婚したのに、”千日のアン”となってすぐに処刑されてしまった、悲劇の女王アン・ブーリン(1507~36)のロンドン塔幽閉(ゆうへい)の姿なのだ。
 胸に迫るその姿・・・(若き日のヨーロッパ旅行で滞在したロンドンで、あの威厳に満ちた制服姿の衛視(えいし)が力を込めて語っていた、血塗られたロンドン塔の話を思い出した。)

 画家は、ラファエル前派ではなかった。エデュアール・シボ(1799~1877)というフランス人画家で、英文のウィキペディアを調べても簡単な説明しか載っていない。
 ただし、彼の作品の画像はかなりの数があって、その新古典派的な作品の傾向をうかがい知ることはできるし、同じ時期に活躍していた、海を隔てたラファエル前派の影響もないとは言えないような気もする。

 そして、この絵は、フランス中央丘陵地帯、ブルゴーニュ地方のオータンにあるロラン美術館蔵となっている。
 もう年寄りの私が、わざわざ出かけて行って見ることはないだろうが、できることなら何かのフランス絵画企画展の中の一枚として、たとえば、”アングルと新古典派”などと銘打たれた展覧会の一作品として来てくれればとも思うのだが・・・。
 
 ともかくこのCDは、優れた演奏として、また私に絵画と歴史の新たな側面を見せてくれた一枚として、私の”2013年度ベスト1”になったのだ。パチパチパチ・・・。

 全くこんなことは、他人から見れば、クラッシックを聞いている人たちから見ても、”しょうもない”話かもしれないが、こうした個人的ブログの有難いことは、誰からの賛同がなくても、自分で感じ入ったことを、針小棒大(しんしょうぼうだい)的に書きまくって、日頃の心のうさを晴らせることである。
 そこで、この鬼瓦権三(おにがわらごんぞう)は、カンラ、カラカラとうそぶき笑うのだ。
 
 さて話をCDに戻して、上にもあげた10枚組みセットの一点とは、EMI・REFLEXEシリーズの「古都と王宮の音楽」である。
 ここには、主にドイツのドレスデンやライプツィヒなどをはじめとした、ヨーロッパの10の都市の、宮廷楽団華やかなりしころの、バロック時代から古典派の時代にかけての時代に、そこで活躍したさまざまな作曲家たちの曲が紹介されている。
 これらは、1960年代から70年代にかけて録音されたものであり、演奏者にはアーノンクールやパウムガルトナー、リステンパルトなどが名前を連ねていて、いささか古い演奏スタイルであることは否めないが、それでも他ではもう聞くことのできない曲が数多く含まれていることがうれしい。
 そして無駄な金の出し惜しみをする私にふさわしく、この10枚組の箱ものが、3,590円であった点も、その購入動機になったことは言うまでもない。

 こうしてCD購入枚数が減ってきて、その分クラッシック音楽を聴く時間も減ってきたような気がする。
 そして、その代わりに去年多く聞いたのは、もちろんあのAKBの歌である。
 そうして、テレビの歌番組を録画した「フォーチュン・クッキー」と「ソー・ロング」は、いまだにことあるごとに聞いているのだ。
 
 AKBの曲が、業界の都合でレコード大賞に選ばれなかったとしても、カラオケで「女々しくて」やボカロ(ボーカロイド、音声合成技術)の「千本桜」に人気があったとしても、下を子供たちから、上を私たちみたいな年寄りまで入れて選べば、”誰もが知っている曲2013”は、やはり「フォーチュン・クッキー」だったと思うのだが。
 明るい曲調にものれるし、何と言ってもクッキー占いに思いをかけた歌詞がいいのだ。

「人生捨てたもんじゃないよね。あっと驚く奇跡が起きる・・・運勢今日よりも良くしよう。ツキを呼ぶには笑顔を見せること・・・。」
 
 そこで、鏡に映ったにっと笑うオヤジの顔・・・気持ちわりー、ってか。失礼しました。

 
(参考文献:「音楽の手帖 バロック音楽」青土社、「バロック音楽」皆川達夫 講談社新書、「中世・ルネッサンス音楽の魅力」レコード芸術 音楽之友社、ウィキペディア他のウェブ)