ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(108)

2009-08-27 17:45:46 | Weblog



8月27日
 
 このところ、朝夕はめっきり涼しくなり、日中も27度位で、それほど暑くもない。周りの山もよく見えて、もう秋になったかのようだ。


 三日前の夕方のことだ、誰かがネコの鳴き声をして、歩き回っていた。どうも聞いたことのあるような声だ。少し気になってはいたが、それからしばらくして、いつもの夕食のキャットフードをもらうために、おじさんの家に行った。
 そこで、ワタシはおじさんに体をなでてもらい、しっかりと食べた後、おじさんちの軽トラの下に潜り込んで、毛づくろいなどをしていた。
 そこに誰かがやってきて、おじさんと話し始め、おじさんが指さした軽トラの下にいるワタシに向かって、ニャーオ、ニャーオと呼びかけてきた。
 ワタシも、思わず鳴き返してしまった。確かに聞き覚えのある、飼い主の声だ。軽トラの下から出て、用心深くまずおじさんのそばに寄って行く。
 それから、その男の人が間違いなくワタシの飼い主なのか、さらに確かめるために、遠回りにゆっくりと近づいて行った。そして、ワタシはその人にひとなでされた。その手と鳴き声、そして臭いは、間違いなく飼い主だ。
 そしてワタシは、飼い主と一緒に鳴き交わしながら、久しぶりに家に帰った。そこで、すぐにミルクを出してもらった。うまい。思わず皿を両手で抱えて、飲もうかとしたくらいだった。

 その夜から、ワタシは、家のいつものコタツ布団の上で寝た(夏でも、飼い主がワタシのために、出しておいてくれるのだ)。次の日の朝、飼い主と一緒に散歩に出た。しかし、しばらく歩いてワタシが座り込んだところで、飼い主は先に帰ってしまった。
 夕方になって、飼い主が迎えに来て、一緒に帰ると、すぐに、何と新鮮な生ザカナを出してくれた。なるほど、買い物に行っていたのか。ワタシは、久しぶりのサカナを夢中になって食べた。満腹になると、ワタシには力がみなぎってくる。今から散歩に出ようと、飼い主に鳴いたが、もう暗くなりかけていた。
 ワタシは、ひとりで外に出て、今までノラで暮らしていた時の習慣で、おじさんの所へ、エサをもらいに行こうとしていた、魚を食べたばかりなのに。
 夜の暗闇の中、用心深く少しずつ歩いて行ったが、途中でふと思い出した。お腹はいっぱいだし、何のためにワタシはおじさんの所へ行くのか。
 家に帰ろう。ワタシは再び用心深く、暗闇の中の物音に聞き耳を立て、時間をかけて帰った。
 
 玄関の戸は、少し開いていた。ワタシが鳴きながら、部屋に入って行くと、飼い主はすぐにあの、オーヨシヨシのムツゴローさん可愛がりをしてくれて、横になったワタシの体を優しくなでまわし、頭から耳のまわり、そして喉にかけて、指を立てて掻いてくれた。
 まさに、かゆいところに手が届くように、ワタシの体をなでてくれるのは、やはり、この飼い主だけだ。少し恐ろしいその顔をガマンしさえすれば、やはり私にとっては、一番近しい人間なのだ。
 さて、もう日も傾いてきた。そろそろ、サカナの時間ですよ、飼い主さん。ミャーオ、ミャーオ。


 「良かった。ミャオが元気でいてくれて。それも、私と一緒にいる頃と変わりなく、少し太っていて、毛並みも良い。エサをくれていたおじさんへのお礼には、北海道の花畑牧場のお土産では足りないくらいだ。
 昨日までは、少し落ち着かないところもあったが、今日は、一日中家にいて、ベランダの洗濯物の陰で寝ていた。昼間、私がクルマで買い物に出ても、別段心配する風でもなかった。つまり、ミャオは2カ月の間、私と離れていたのに、すぐにいつもの私との生活に戻ったのだ。
 何という順応力の高さだろう。のらネコから家ネコへと、そして家ネコからのらネコへと、もう数年余り、20数回も繰り返しているのだ(ちなみに前回は6月7日の項を参照)。いいかげんな飼い主を持ったおかげで、ミャオの苦労は尽きないし、またそれゆえに、一際たくましくなったともいえるのだが。


 私は、この家にいれば、ミャオのことを考えなければならないから、少しは自分の行動が制約されるが、それでもミャオ一緒にいるという安らぎには代えがたい。
 さらに、普通の家だから、水洗トイレはあるし、風呂には毎日入れるし、洗濯も毎日できる。それは、北海道の不便な家と比べると、まさに格段の差であり、上流階級にでもなった気分だ。自分の顔は、それは下流階級のままで変わらないが、まあミャオが見るだけだから、いいか。
 しばらくは、この家でのミャオとの暮らしが続くのだ。外では、どこか気ぜわしいツクツクボウシの声が、あちこちから聞こえている。九州の夏も、もう終わりなのだ。


飼い主よりミャオへ(75)

2009-08-22 18:00:38 | Weblog


8月22日
 拝啓 ミャオ様

  昨日は、一週間ぶりに晴れて、青空が広がり、気温もぐんと上がって、28度。南風が吹き込んで、それまでの20度以下の、涼しい毎日が、嘘のような蒸し暑い日になった。
 久しぶりに、日高山脈の山々も見えて、暑さはともかく、連日の曇り空から青空へと、気持ちも晴れ晴れとする一日だった。

 そして夕方になると、見事な夕焼けが、全天を覆った(写真、左に見えるのは芽室岳)。その30分ほどの間、私はやぶ蚊に刺されながらも、素晴らしい天体ショーに見入ってしまった。
 確かに、皆既日食もオーロラも、遠くに出かけて行ってまでも、見る価値のある天体ショーなのだろうが、私は、家に居て見ることのできる、この夕焼けや、あるいは朝焼けの空だけで、十分なのだ。
 晴れた日の夕方は、いつも気になってしまう。西の空に適度に雲があり、日が沈んでゆくのが見えるとき、私は落ち着かなくなる。
 そんな条件でも、赤く空を染める夕焼けになるとは限らない。ほんの少し、だいだい色になっただけで、暗く沈んだ空で終わる時もある。全天を覆う、見事な夕焼けの空になるのは、年に、そう何度もあることではない。

 しかし、昨日の空は、そんな、年に何度という夕焼けの一つだった。
 始まりは、ともかく雲が多くて、たいした夕焼けにはなりそうにもなかった。しかし、日が沈んでから、さらに雲は動き続けて、だいだい色から赤い色に変わり始め、刻一刻とその赤いベールの姿は変わっていき、深紅色から、ついには重い赤紫色の緞帳(どんちょう)へと変貌(へんぼう)して、ついには周りの闇へ、少しずつ同化し、暮れなずんでいったのだ。何と見事な、天空の舞台なのだろう。

 映画における夕焼けのシーンで、すぐに思い出すのが、あの『風と伴に去りぬ』(1939年)のラストシーンだ。
 涙にぬれた顔を上げて、スカーレット(ヴィヴィアン・リー)がつぶやく・・・「私には、タラがある。故郷のタラに帰ろう。望みはあるわ。また明日がくるんだもの。」

 同じ夕焼けは、二度とない。この日に見た夕焼けは、まさにこの日だけの、忘れられない夕焼けだったのだ。
 季節がいつであれ、それが山の上であれ、海であれ、日本であれ、外国であれ、見る夕焼けは、同じ夕焼けであり、そしてまた一つとして同じものはない、その時だけの、まさに一期一会(いちごいちえ)の夕焼け空なのだ(’08.9.30の項、参照)。

 さて、今日も晴れて気温は上がったが、雲も多くて、吹く風は涼しく、さすがに、もう8月も終わりなのだと思う。
 今年は、30度を越えた日が、一二度あっただけで、北海道としても、過ごしやすい夏だった。そういうわけだから、この夏は、うちわでパタパタとあおぐことはあったが、とうとう扇風機を使うことは一度もなかった。
 しかし、この天候不順で困るのは、周りの農家だ。農作物は、軒並み、成長が遅れ、病害虫の防除のために、トラクターを畑にいれようにも、雨で土がぬかるんで入れないとか、様々の弊害(へいがい)も起きていたようだ。
 この十勝地方は、農業で成り立っていて、畑作農家はもとより、牛飼いの酪農家でも、同じように飼料用作物の生育は良くなく、これらの農業全体の不振は、十勝管内だけでなく、ただでさえ悪い北海道全体の景気にも、悪影響を及ぼすだけに、心配なことではある。

 しかし、すべてのものの上に、良いことと悪いことが起きるものなのだ。そしてまた、すべての人の上にも、幸、不幸が訪れるものなのだ。
 幸せの絶頂にいる人にも、今までに、辛酸(しんさん)をなめるような、辛い日々があったのかもしれないし、あるいは、これからそうなるのかもしれない。どんなに不幸な人でも、それまでが、実は幸運だったのかもしれないし、またこれから幸運に出会うのかもしれない。
 そこでは、大きな喜びでさえ、実は不幸の始まりかもしれないし、時によっては死ぬことでさえ、幸せなことになるのかもしれない。
 つまり、私たちは、今、五分五分のバランスの上で、生かされているのだ。だとしたら、ここで、思い悩んでいてどうするというのだ。スカーレットの言葉のように、明日があるからと、まず考えるのが、次なる一歩なのかもしれない。
 それは、私を待っている、ミャオの思いでもあるのだろう。ともかく、今日一日を生きていくこと、飼い主は、必ず、帰ってくるはずだからと。
 ミャオ、もうすぐ、ミャオの家に帰るからね。

                    飼い主より 敬具


飼い主よりミャオへ(74)

2009-08-18 18:52:46 | Weblog



8月18日
 拝啓 ミャオ様

 雨や曇りの、肌寒い日が続いている。昨日今日と、朝の気温の14度から、わずかに3度ほど上がった17度までしか上がらない。
 今朝も、起きると、靴下をはいたうえに、思わずフリースを着込むほどだった。10月初めの気温だとのことだが、外に出ると、今日もまた、木の葉があちこちに落ちていて、雨や露にぬれた周りの草木で、辺りは冷えびえとしていた。
 8月になってから、もうエゾヤマザクラやシラカバ、キタコブシ、ナナカマドなどの、下葉のほうが散り始め、この所、その落ち葉の数が日ごとに増えてきている。
 林の中では、いつもは、9月の初めくらいに出るキノコのラクヨウタケが、もういつの間にか大きな傘を広げていた。
 そして、一月ほど前に咲いていた、あのオオウバユリ(7月19日の項)は、すでに種をはらんだ大きな球果になっていた。そこに、セミの抜けがらが一つ(写真)。
 それは、6月にこの林全体で、耳を聾(ろう)せんばかりに鳴いていた、あのエゾハルゼミの抜けがら(6月3日の項)とは、明らかに大きさが違うエゾゼミのものだ。
 数日前の晴れた日に、かなりの数の仲間たちと、エゾハルゼミの少し甲高い声とは違う、ジーと低く響くような声で、鳴いていたのだが、この天気の悪い中では、押し黙ったままで、一匹の声も聞こえない。

 しかし、私にとっては、気温が低ければ、外で働くには適している。そこで、放っておいたままにしていた、草取りや草刈りの仕事にとりかかる。とはいえ、まだアブや蚊がうるさいし、その対策のために長袖を着ているから、しばらくすると、下のTシャツは汗びっしょりになる。
 ようやく一仕事を終えて、さて、ゴエモン風呂を沸かすのは、手間がかかって面倒だからと、お湯を沸かしてバケツに入れ、風呂場に運び、行水を使う。
 それは、まさに、恐(こわ)くて、臭(くさ)くて、見たくないものなーんだ、というなぞなぞの答えであり、私、鬼瓦熊三(おにがわらくまぞう)の、行水のシーンであります。
 げっ、想像したくもないのに・・・と、ミャオの声。まあそう言うなって、ミャオだって、毎日何度となく、毛づくろいをするだろう。自分の股ぐらから、お尻の穴からすべてなめあげるじゃないか。人間だって同じことよ。汚くしていると、自分でも気持ち悪いからだ。
 じゃ、ついでに、その汚い鬼瓦顔も何とかしていただけませんかね、だって。それを言っちゃーおしめーよ。けっこう毛だらけ、ネコ灰だらけ、お尻の周りはクソだらけ、とくらあー。なぜか、寅さんふうになる。

 と、言うわけで、冗談は顔くらいにしておいて、さて、風呂上り、つまり行水上がりには、粉末のスポーツドリンクを水に溶かして、冷蔵庫に入れておいたものを、コップ一杯、・・・クー、こたえられんのう。
 テレビのスイッチを入れるが、ろくな番組はやっていない。そこで、前に録画しておいた、映画を一本見ることにする。

 7月始めに、NHK・BS2で放送された、『プライドと偏見』。2005年、イギリス映画、監督ジョー・ライト、主演キーラ・ナイトレイ、2時間7分。
 余り、期待しないで見始めたのに、いつしか画面に引き込まれ、一度トイレに立っただけで、一気に見終わってしまった。いい映画だった。
 原作は、ジェーン・オースティンの『高慢(こうまん)と偏見(へんけん)』であり、ずっと昔に、新潮文庫(中野好夫訳)で読んだことがある。その時には、女性らしい観察眼と饒舌(じょうぜつ)さ、そしてイギリス流の皮肉のきいたユーモアに、さすがだと思った憶えがある。
  しかし、細かい部分は大分忘れていた。それが幸いしたのか、色々と原作との違いを考えずに、素直に、映画の流れに乗って見ることができた。


 18世紀末のイギリスの片田舎、中流の地主階級である父母とその5人姉妹の物語。というと、ウォルコットの『若草物語』を思い浮かべるが、あちらは良きアメリカの、牧師一家の4人姉妹の話であり、どちらかといえば少女たちの成長の物語である。
 この『高慢と偏見』では、年頃を迎えて、どこかへ嫁(とつ)いで行かなければならない娘たちの、憧れと不安の心理描写がたくみに描かれている。
 ちなみに、映画では、現代日本語風に、『プライドと偏見』と変えられているが、原題は”Pride and Prejudice”であり、それで良いのだが、何か響きがしっくりと来ない。
 ともかく、娘たちの恋の行方がどうなっていくのかと、その先が気になる物語を、原作者のオースティンは、急がずにじっくりと、当時の上流階級と中流階級の、身分の違いなどを、周りの人物たちの話しの中に、皮肉を交えて折込ながら、当時の良家の子女としての、あるべき恋愛のモデルとして書きあげていた。
 この映画では、そのストーリーの面白さを、短い映画の中にまとめるべく、しっかりと脚本化されている。
 そして何といっても、主役の次女エリザベスを演じるキーラ・ナイトレイ。しっかりした理性ある女性としての、彼女の、ひたむきな表情が魅力的である。
 脇役陣もそろっている。父親役にドナルド・サザーランド(『マッシュ』での若い軍医役の彼も、名脇役になった)、母親役にブレンダ・ブレッシン(『秘密と嘘』の名演)、大地主夫人役のジュディ・デンチ(『恋におちたシェイクスピア』)等。
 もちろん、短い映画の中で、原作のすべてが描かれているわけではないが、原作に勝るものがあるとすれば、それは間違いなく視覚的なもの、見事な風景を切り取ったカメラワークだろう。 
 さらに驚くのは、監督のジョー・ライトである。テレビ・ドラマ界出身であり、これが初めての映画での監督だとは思えない手際のよさで、当時、33歳。

 ただ思うのは、ラストシーン。彼女が、彼の愛を受け入れて、黙って彼の手に口を寄せ、彼は自分の額を、ゆっくりと彼女の額に押しあてる・・・朝の光の中、たたずむ二人の姿。
 英国人の、情熱を内に秘めた、理性と慎みの勝利の瞬間・・・もうそれだけで十分だった。原作にある、その後の父親との了解の場面などは、映画であるがゆえに、省いても良かったとさえ思えるくらいだった。
 
 ただし、このオースティンの小説『高慢(自負)と偏見』は、何度も映画化されており、1940年のあのローレンス・オリヴィエによるものが、名作との評判だし、1995年のBBC放送制作による、原作を忠実にドラマ化したという、その35回、6時間に及ぶものが、決定版だとされている。
 私は、残念なことに、そのいずれも見てはいないから、このオースティン原作の作品について、公平な評価を下すことはできない。
 ただ言えるのは、久しぶりに画面にのめりこんで見ることができた映画だったということだ、あの『まぼろしの市街戦』(7月14日の項)以来の。

 ともかく、この映画を見て、私は、若い頃のことを思い出した。皆がそうであったように、その頃、私たちは誰でも、恋の相手には、おくてであり、臆病(おくびょう)だったのだ。憧れの相手のことを考え、弱い自分のことを考え、なかなか次の一歩が踏み出せなかった。
 少しづつ、少しづつ、お互いの気持ちがひとつに高まるまで、何ヶ月もかかったものだった。しかしそれで良かったのだ、その間、苦しく悲観的になることがあったとしても、一方では、相手のことを想いこがれる時を、それだけ長く持てたのだから。
 今の若い人たちは、などと言うつもりはない。それは時代時代によって変わるものであり、またひとつひとつが、変わることのない恋の真実でもあるものだから。

 つかの間、私を、昔の恋する時代に連れて行ってくれた、この映画、『プライドと偏見』に感謝。
 年をとるということは、たくさんの経験ができて、昔の出来事を、もう一度、しみじみと味わえるということなのだ。若い頃には、その嵐の中にいて、目の前しか見えていなかったのに・・・。

                     飼い主より 敬具


飼い主よりミャオへ(73)

2009-08-14 20:19:50 | Weblog


8月14日
 拝啓 ミャオ様

 今後1週間の天気予報を見てみると、本州では、ずらりとお日様マークが並んでいる。俗に言う、「梅雨明け十日」の、晴れの日が続くということだろう。
 前線と台風が去って、ようやく本当の意味での、梅雨明けになった。これで、北アルプスも南アルプスも、夏山にふさわしい天気の日が、これから毎日、続くことになるのだろう。
 私の今回の、短い白山への山旅(7月31日、8月2日、4日の項)も、それなりに悪くはなかったのだが、やはり晴れた日の稜線の尾根歩きを、1週間続けたかったというのが、本音の所だ。
 まあ、もっともその後の、地元の大雪山への日帰り登山も、良かったのだから(8月8日、10日の項)、文句を言うのは、ゼイタクというものだ。

 この数日、天気と気温は、めまぐるしく変わった。三日前の快晴から、曇り、雨、そして今日は、また晴れている。最高気温は、31度、21度、そして、昨日は17度で、一日中長袖シャツを着ていたのに、今日は、10度も高く27度まで上がっている。
 しかし、この寒暖の差も悪くはない。たとえ昼間、気温が上がっても、朝夕は肌寒いまでに涼しくなる。そんな、決して肌がべたつくことのない、北海道の夏が、私は好きなのだ。
 ただ昨日は、一日中、雨が降り続いていて、秋のような涼しさだった。そこで、私は、録画していた、長時間の音楽番組を見た。


 8月8日、NHK・BSHiで放送されたステファーノ・ランディ作曲のオペラ『聖アレッシオ』(2時間44分)、ウィリアム・クリスティ指揮、レザール・フロリサン(管弦楽と合唱)、カーン聖歌隊児童合唱団、パンジャマン・ラザール演出、2007年10月、フランス北部、カーン劇場における公演(写真はその一場面)。
 このステファーノ・ランディ(1587~1639)の『聖アレッシオ』は、音楽史などの本で、名前だけは知ってはいたが、その音楽を聴くのは、まして映像としてオペラを聴くのは、始めてだった。しかし、それは、素晴らしい示唆(しさ)に富む、バロック・オペラの舞台だった。
 バロック時代に出現したといわれるオペラ音楽は、その始まりとして、クラウディオ・モンテヴェルディ(1567~1643)の名前が余りにも有名であり、『オルフェオ』『ユリシーズの帰還』『ポッペアの戴冠(たいかん)』などは、現在でもCDで聴くことができるし、DVDでその舞台を見ることもできる。
 バロック・オペラは、そのモンテヴェルディ以後、祝祭音楽的なものから、悲劇ものや喜劇(オペラ・ブッファ)として、あるいは、宗教オペラ(後の宗教祝祭的なオラトリオ)へと分化していくことになるが、この『聖アレッシオ』には、それらの要素が包括的に含まれていて、興味深い。


 物語は、帝国時代の、ローマの富裕な家に生まれたアレッシオが、キリスト教の信仰に目覚めて、巡礼の旅に出るが、航海の途中に、船が大嵐に遭(あ)って岸まで押し戻されてしまい、ローマに戻ることになった。しかし、彼は家族に知られることなく、施(ほどこ)し物を受けながらも、固い信仰心を持って毎日を送っていたが、やがて死んでいくという話である。
 (写真は、アレッシオの宗教に殉(じゅん)じた死を、ほめたたえる擬人化された宗教の精と天使たちの場面である。)
 時代は違うけれども、アッシジの聖フランチェスコの話(映画『ブラザーサン、シスタームーン』)を思い出すし、日本でいえば、あの良寛(りょうかん)も、同じような名家の出でありながら、出家して、孤独な禅僧としての一生を送っている。

 話をこのバロック・オペラに戻すと、まず、演奏、歌手、舞台などを、なるべく当時の形に近づけようとする、演出の意図が明確である。それは、レザール・フロリサンを率いるウィリアム・クリスティと、バロック・オペラ演出で有名なラザールの、二人の意図する所であったのだろうが。
 舞台には、一人の女性もいない。当時は、女による歌い手はいなくて、今でいう女声のソプラノ、アルトなどの高いパートは、少年たちのボーイ・ソプラノか、あるいは男性カステラート歌手が歌っていた。
 今では、非人間的処置であるカステラートは廃(すた)れてしまい、技術的な訓練によるカウンター・テノールによって、歌われているのだが、この舞台では、女性役4人を含む、合計8人もの、カウンター・テノールの共演になっているのだ。
 それぞれに、微妙に違いのある(リリコとかドラマティコとか区別したくなるほどの)声で、歌い分けているが、なかでも、やはり、タイトル・ロールのアレッシオを演じるジャルスキーと、擬人化(ぎじんか)されたローマの役と、同じく擬人化された宗教の役をあわせ勤める、テリー・ワイの歌声が素晴らしく、またボーイ・ソプラノの少年たちの歌声も、天国的に響いていた。

 舞台の照明は、目につく所はすべて炎がゆれる本物のローソク(昔の舞台はそうであったのだ)であり、全体には、目立たぬように、そのローソク的な間接照明が当てられていた。
 それは、カラヴァッジオ(1571~1610)やラトゥール(1593~1652)の絵のような、外光やローソクの光による片側だけからの、光と影の劇的な描写ではなくて、ダヴィンチ(1452~1519)やラファエロ(1483~1520)の、正面からのやわらかい外光やローソクの光による、室内画的な人物像として映し出されていた。
 それゆえに、現代的な技術をこらした照明に慣れている、私たちの目には、不自然に黄色っぽく見えてしまうのだが、しかし、この少し霞(かす)んだような、黄色のフィルターをかけて見るような世界こそ、実は当時の、本当の舞台での姿だったのだ。
 それだけに、舞台に立ち並ぶ天使役の少年たちの、何と絵画的に見えることだろうか。それは、フラ・アンジェリコ(1400~1455)などの絵に描かれた、天使たちの姿そのままであった。
 間違いなく、クリスティとラザールの演出は、当時のイタリア絵画に描かれているリアリティを、目指していたに違いない。
 それはまた、出演者たちがそれぞれに着ている、色彩豊かな衣装にもいえるもので、私に、あのイタリア映画の名匠ルキノ・ヴィスコンティ(『夏の嵐』『山猫』)とフランコ・ゼフィレッリ(『ロミオとジュリエット』『ブラザー・サン、シスター・ムーン』)の映画を思い出させた。
 
 細かいことを書いていけば、きりがない。例えば、悪魔役の顔の隈取(くまどり)が、後のモーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』での、メイキャップに似通っていること。そして、日本の古典的舞台劇である、歌舞伎との類似点について。現代のオペラ演出が、現代美術的に意匠されていることとの比較。    
 レザール・フロリサンの楽器編成について。そして、わずか十数人のメンバーで、このオペラを演奏しきっていること。クリスティが、チェンバロとオルガンを弾き分けていること・・・などなど。
 もっとも、気になる部分も幾つかあったのだが。例えば、女性役のカウンター・テノールの歌手たちの、髭剃(ひげそ)り跡の青々とした肌色が、いくらドーランを塗っても隠せないし、次第に濃くなってくるとか・・・。

 しかし、ともかく言えるのは、珍しいオペラを、家の新しい大画面の液晶テレビで、じっくりと見せてもらったこと、幕間に、自分だけの長い休みを取ったが、最後まで興味を持って見られたこと・・・ああ、ありがたや。人間生きていれば、それだけ、つらい哀しいこともあるだろうが、またそれだけ楽しく嬉しいこともあるのだ・・・当たり前のことだけれど。
 ミャオにも、そんな日が来るから、待っていておくれ。

 外は涼しくなってきたが、仕事も散歩もできない。今は、メクラアブが待ち構えていて、飛びついてきては、Tシャツの上からでも、刺して血を吸おうとするからだ。お盆の間くらいは、血なまぐさいことはやめてほしいのだが、メクラアブは、さらに聞く耳さえ持たないのだ。
 トイレのために、外に出る。ブーン。・・・ぴしゃーんと叩きつぶす。南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)、南無阿弥陀仏・・・。
 
                     飼い主より 敬具


飼い主よりミャオへ(72)

2009-08-10 18:14:47 | Weblog



8月10日
 拝啓 ミャオ

 四国や本州の、大雨被害のニュースを見ていると、気象庁の梅雨明け宣言にもかかわらず、この殆ど梅雨と同じような天気が、いつまで続くのだろうかと思ってしまう。

 北海道は、それまでの長い天候不順の後、幸いにも、この一週間ほどは、良い天気の日が続いている。もっとも、私のいる十勝地方を含む道東は、海側からの低い雲の影響を受けやすく、朝夕はそのために、曇り空のままで、お昼前後にようやく日が差してくるくらいだ。
 ところが、今日は朝から日が照りつけていて、朝17度だった気温は、昼には28度にまで上がってしまう。窓を閉めて家の中に居れば、丸太造りの小屋だから、クーラーが効いているようで、涼しくて良いのだが、外に出るとやはり暑くて、草刈などの仕事をする気にはならない。

 それなら涼しい朝夕に、やればと思うけれども、そこはそれ、このメタボおやじをめがけて、血に飢えた、メスの蚊やアブたちがどっと集まり寄ってくる。まさに、イケメン人気アイドルの男の子に群がる、若い女の子たちの光景と同じだ。
 時々、家のゴエモン風呂で、燃やした後の灰をかき出して、まさに灰かぶり男になってしまう私は、いつか魔法を使ってもらい、本当の灰かぶり王子(シンデレラ・ボーイ)になって、これらの蚊やアブを、一挙に若い娘たちに変えてもらえれば・・・とニヤついたところで、中年男の腕に止まった蚊を、ピシャリと叩きつぶして、夢ははかなく消えてゆく。

 余談だが、先日(8月8日)、教育TVで、『灰被姫(はいかぶりひめ、シンデレラ)』が再放送された。これは今年の4月に、新歌舞伎座建設のために、今までの歌舞伎座が取り壊されてしまうのを惜しんで、あの歌舞伎界あげての、年に一度の「俳優祭(はいゆうさい)」での出し物として、公演されたものである。
 歌舞伎界と新派を含めたオールスターの名優たち、団十郎、菊五郎はもとより、芝翫(しかん)、藤十郎、幸四郎、仁左衛門、勘三郎、玉三郎などが、日ごろの伝統的な演目から離れて、コミカルに楽しげに演じていた。
 毎年、この「俳優祭」は、すべての名優たちが出演する、顔見世公演として催され、テレビで放映されるのが楽しみな舞台でもあるのだが、今年は特に、時代を意識した風俗を取り入れて、おふざけ気味ではあったが、十分に楽しむことができた。重鎮から若手にいたる役者たちの、歌舞伎界の伝統と変化の一端が、垣間見えたようでもあった。

 すっかり話がそれたが、そんな『灰被姫』を思い出してしまったのだ。ともかく、外に出て蚊やアブに刺されて、かゆくてたまらん状態になるのがイヤで、今日も今日とて、仕事もせずに、涼しい部屋でゴロついているのだが、それにしても、数日前には、私は、爽やかな大雪山の山の中にいたのだ・・・。

 前回からの続きで、大雪山の東麓にある高原温泉(こうげんおんせん)から登りはじめた私は、チングルマのお花畑を抜けて、緑岳の岩塊斜面を上がって行く。
 そして、登山口から2時間半ほどかかって、緑岳(2020m)頂上に登りついたのだが、もう西の方から雲が湧きはじめていて、旭岳にも少しまとわりついていた。
 一休みした後、ゆるやかな台地のような稜線を、小泉岳(2158m)へと登って行く。一月ほど前の、初夏の頃なら、白いイワウメや紫のエゾオヤマノエンドウにホソバウルップソウ、黄色のメアカンキンバイやタカネスミレなどが点々と咲いて、きれいなのだが、さすがに山の上では、もう季節は秋へと向かっていた。
 それでも、濃い紫のチシマギキョウと薄紫のイワブクロ、そして赤いエゾツツジの花が、所々に咲いていて、私の目を楽しませてくれた。
 夏山シーズンにもかかわらず、登山道で会う人は、わずか数人ほどで、私は、爽やかな風に吹かれて、小泉岳からゆるやかに降りて行き、白雲岳へと向かう。
 十字路の分岐点からは、40分足らずの登りで、白雲岳(2230m)に着く。さすがに、もう夏雲が湧き上がっていたが、山々を隠すほどではなく、いつものように、旭岳(2290m)と、その東側の大きな噴火口跡である御鉢(おはち)の、裾野に刻まれた、沢筋の残雪模様が鮮やかだった(写真)。


 その白雲岳直下の、斜面の小さなお花畑も良かったが、なんといっても今回のコースで、最もきれいだった所は、その彩(いろどり)から言って、白雲岳から戻り下って、分岐を白雲岳避難小屋へと降りる、沢沿いの道の周辺に広がるお花畑であった。
 雪が溶けた後のゆるやかな斜面に、今頃にと思うように、キバナシャクナゲに始まり、赤いエゾコザクラとミネズオウ、黄色のミヤマキンバイに、白いエゾノハクサンイチゲとチングルマと、全く色鮮やかな三色パターン模様が青空に映えていた。
 ただ惜しむらくは、まだトウヤクリンドウの花が開いていなかったことだが、代わりにクモマリンドウやレブンサイコの花も見かけたことだし、良しとしよう。
 後は、緑岳に登り返して、再び岩塊帯を下り、チングルマのお花畑を通って、登山口に戻った。ゆっくり目に歩いたとはいえ、少し長めの9時間の山歩きだった。
 
 それからまた、3時間もかかって、家に帰る気にはなれない。なじみの民宿に泊まることにして、まずは、層雲峡の温泉に行く。露天風呂の湯船につかり、汗を流してさっぱりし、コンビニで一本60円のアイス・キャンディーを二本(氷いちごとあずき)買う。クルマの窓から入ってくる風を受けて、アイスを食べながら、今日の食事と、安心して寝ることのできる部屋がある宿へと向かう。

 ああ、何という幸せだろう。今日は、何という良い一日だったことだろう。神様に感謝し、亡き母に感謝し、そしてひとり九州に居て、私を待っているミャオに感謝するばかりだ。
 人の幸せとは、いつも誰かに、支えてもらっているものだから・・・。ミャオ、ありがとね。

                     飼い主より 敬具


飼い主よりミャオへ(71)

2009-08-08 17:45:25 | Weblog



8月8日
 拝啓 ミャオ様

  九州では、何と38度に近い、暑い日が続いているとのことだが、ミャオは元気にしているだろうか。家があるのは、山の中だから、それほどまでに気温は上がらないとしても、暑いことに変わりはない。
 オマエは、日中は、人の来ない、静かな、風通しの良い日陰を選んで、ウトウトとしながら横になっているのだろう。むやみに動き回らないこと、そうすれば、無駄なエネルギーを使わなくてすむからだ。
 飼い主が傍にいて、毎日、生魚をもらい、ミルクを好きなだけ飲んでいた時と比べれば、キャットフードだけでは、空腹は満たせても、体の底からのみなぎる力にはならないだろう。
 ミャオ、何とか、この夏をしのいでおくれ。もうしばらくすれば、またオマエに会いに行くからな。
 
 実は食べ物といえば、オマエには申し訳ないが、前回まで書いていた加賀の白山(はくさん)登山への旅の時、私はずっと、いい思いをさせてもらっていたのだ。山にいたのは、たったの3日で、残りの4日は、ビジネスホテルを泊まりだったからだ。
 本来は、東北の飯豊(いいで)連峰か南アルプス縦走のために、予備日を含めて、一週間を予定していた山旅だったのだが、いつまでも明けない梅雨空のために、わずか3日の山歩きになってしまったのは、前回までに書いてきた通りだ。
 しかし、そのおかげで、私は毎日、豪華な夕食をとることができて、その上、部屋で風呂に入れて、寝心地の良いベッドで寝て、まさに夢のような数日だったのだ。
 オマエも知っての通り、私は、家に居るときは、町に買い物に出たときでさえ、外食はしないで帰ってくる。たいがいは、ねこまんま(猫飯)に一品つけたぐらいの、自分で作った食事で、十分に事足りている。
 まあグルメなどとは程遠い、食べるためだけの食事なのだが、それは若い頃からの、私の習慣に近いもので、逆に言えば、そのおかげで、外国に行っても、食事は苦にならないし、まして山の中で、テント泊しても、簡単な食事ですむという利点もある。
 もちろん、母が元気でいたころは、母が作った料理を食べていたし、若い頃には、短い期間だが、一緒にいた女の人に、美味しい食事を作ってもらっていたこともある。(ひゅーひゅー。ミャオ、私を冷やかすんではない、若い頃の話だ。昔を思い出してしまった。こうなったのも、みんな私が悪いのだが・・・。) 
 
 ともかく、そんなろくでもない食事をしている私が、この旅では、何と、豪華絢爛(ごうかけんらん)な、満漢全席(まんかんぜんせき)かとも思えるような食事を、毎日とることができたのだ。
  ここに、その幸せだった旅の食事の品書きを書いておこう。
 1日目、ひれかつ定食(1350円)
 2日目、さば味噌定食(1180円)
 3日目と4日目は、山小屋の食事
 5日目、国産うな重定食(1400円)
 6日目、お好み天ぷら定食(1350円)


 (ちなみに、朝食は、前の日に買っておいたサンドイッチを、テレビ・ニュースを見ながら、ベッドの上で食べれば、それで十分なのだ。)
 それにしても、どうだミャオ、すごい夕食だろう。といっても、オマエが食べるのは、さば味噌の味噌のかかっていない魚の部分と、うな重の上にかけられた、千切りの卵焼きぐらいなものだから、オマエにとっては大したことではないか。
 
 ともかく、そうした年に何度あるかないかの食事で、エネルギーを蓄えた私、鬼瓦熊三(おにがわらくまぞう)は、本州での短い夏山登山を埋め合わせるかのように、鼻息も荒く、勇躍、大雪山へと向かったのだ。(その割には、テントも持たずに、手軽な、日帰り登山のお粗末。)
 この夏は、あのトムラウシでのツアー客たちの大量遭難があったことはともかく、天気の悪い日が続いていて、ようやく、この数日、平年並みの暑さと天気が戻ってきていた。

 家から3時間近くクルマを走らせ、下界の朝霧を抜けると、山の上には、素晴らしい快晴の空が広がっていた。高原温泉(こうげんおんせん)の緑岳(みどりだけ)登山口から、登りはじめてすぐの第一花畑、続く第二花畑には、稜線の上では7月半ばに咲く白いチングルマの花が、雪渓の雪が溶けた後の、ゆるやかな斜面に、赤いエゾコザクラと伴に、今頃の満開を迎えていた。
 チングルマのお花畑でいえば、表側の旭岳温泉側から行ったところにある、裾合平(すそあいだいら)のチングルマの一大群落地が、恐らく日本一の広がりだと思うけれども、この緑岳下のお花畑も、あの五色ヶ原と伴に、二三を争う規模だといえるだろう。
 背景にある残雪の緑岳の姿と、この広大なチングルマの斜面、そして青空・・・他に何を言うことがあるだろう(写真)。
 さらにここは、秋になると、また見事な紅葉の場所となるのだ。(’08.9.27日の項)
 
 さて、雪渓の残るアオノツガザクラの花畑を通って、ハイマツの山腹を横切り、いよいよ岩塊帯の斜面の登りにかかる。以下は、次回に・・・。

                      飼い主より 敬具


飼い主よりミャオへ(70)

2009-08-04 20:22:47 | Weblog



8月4日
 拝啓 ミャオ様

 白山(はくさん)登山の三日目、夜半から風の音がしていたが、薄明るくなってきた日の出前、起きて外を見ると、霧が吹きつけていて、少し雨も混じっていた。
 こんな空模様の中、まだ未明の3時に、別山(べっさん)へ向かうと言っていた、3人の山女のパーティーが、静かに部屋を出て行った。
 私は、しばらく待ってみることにした。別山に登り、チブリ尾根を経由して市ノ瀬までは、7時間ほどだが、バスの時間を考えると、遅くとも6時までには、小屋を出なければならない。
 しかし、その後も、時折、霧が薄くなったりはしたものの、小雨混じりの、風の吹きつける空模様に変わりはない。

 6時過ぎ、私は決心して、山を下りることにした。昨日の、あの晴れた翠(みどり)ヶ池に、出会えただけでも、私は幸運だったのだ。あの青空の下で、つかの間、歩き回って見た幾つかの光景を、思い返した(写真、その一つ、アオノツガザクラの群落と大汝峰)。晴れた日の、別山に登れなかったのは残念だったが、今回の山旅としては、もうこれ以上は望むまい。
 雨具を身につけ、南竜山荘を後にした。小屋の朝食は遅く、6時からだったから、まだ前後には誰もいなく、霧の中の山道を、一人で降りていった。

 山腹を回り込むように下って行く道の傍には、ハクサンフウロやニッコウキスゲの他に、特に、イワオトギリの黄色い花が数多く咲いていて、何度も足を止めては写真をとった。
 やがて、南竜道と室堂との分岐あたりまでくると、下から登ってくる人たちに、一人二人と、出会うようになった。そして、それから別当出合に着くまでの、1時間半ほど間、私は、100人ほどの登山者たちと、次々に挨拶を交わすことになったのだ。
 この小雨混じりの天気の中、確かに夏休みが始まったばかりの週末とはいえ、途切れることなく続く登山者の姿。
 そこには、ツアー登山のパーティーも二つ三つあったけれども、多くは、個人のグループだ。地元の団体、家族連れ、若者たちのグループ等で、しっかりとした登山装備というよりは、ハイキング・スタイルが主であり、中には、Gパンにスニーカーといういでたちの人もいた。
 皆が、明るく言葉を掛け合いながら登っていた。その上に、他の山と比べて、何と若者たちの多いことだろう。
 
 私は、白山に対して、少し誤った先入観を持っていたようだ。まず、2700mという標高から、日本アルプスや八ヶ岳と同じような、装備が必要だと思っていたが、そこまで身構えずに、天気の良い日に、むしろ身軽な軽装で出かけて、山歩きを楽しむべきなのだと。
 次に、この白山は、まさにふるさとの山であり、地元の金沢や石川県の人たちに、あるいは福井県、岐阜県の人たちにも親しまれていて、彼らにとっては、近くにある、ふるさとの誇り高き良い山なのだ、ということ。
 それは、(前々回に書いた永平寺の僧たちのような)、昔からの、宗教的な信仰登山の山、というよりは、例えばその昔、富士講(ふじこう)と呼ばれる、江戸庶民たちの一般的なお山参りの、富士登山があったように、白山登山もまた、その庶民の伝統が受け継がれて、地元の人々に登られているのだろう。
 こうしたお山参りの登山は、今でも全国各地の、ふるさとの名山には見られるものだ。仏教伝統の浅い北海道を除いて、北から主なものだけでも、岩木山、岩手山、月山、鳥海山そして富士山、白山、木曽御嶽山(おんたけさん)等など、幾つも挙げられるだろう。
 白山は、まさに彼らの、ふるさとの山であったのだ。私は、よそ者として、少し構えて、この山に対したのではないだろうか。

 その後、私は金沢に戻り、さらにそこでもう一晩泊まって、翌日東京に向かい、竹橋の国立近代美術館で、ちょうど開かれていた『ゴーギャン展』を見た。
 あのアメリカはボストン美術館にある、ゴーギャン畢竟(ひっきょう)の大作、『我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか』が、公開されていたからだ。
 私は、とりわけ熱心なゴーギャン愛好家というわけではない。しかし、ずいぶん前に、幾つかの絵と伴に、彼が書いたタヒチにおける自伝的紀行文、『ノアノア』(岩波文庫)を読んだことがあって、その漂泊(ひょうはく)の旅の心には、惹(ひ)かれるもがあったことを覚えている。
 彼が行き着いたもの・・・楽園を目指したけれど、楽園の異人でしかなかった彼が、それでもたどり着きたかったところ・・・。彼の幾つかの絵には、彼の分身のような、犬の姿が描かれているのだが。
 『我々はどこから来たのか・・・』、それは、画集で見て想像していた以上に、大きな絵であり(縦約1.4m、横約3.7m)、私は、ただ立ちすくんで見つめるばかりだった。。
 タヒチの女の人たちが、画面全体に、存在感のあるしっかりとしたフォルムで描かれ、そこには生まれてくる者と、老いてゆく者の姿も見える。そうした楽園の日常の光景の中に、入り込んでいこうとする、一匹の犬・・・。


 『ゴーギャン展』としては、まず申し分のない、50点もの絵画や版画を見終わり、私は、帰途に着いた。竹橋から大手町まで行き、そこから、冷房の効いた長い地下通路を歩いて、東京駅に向かった。
 その途中、通路の真ん中にある柱のかげに、一人のホームレスが座り込んでいた。アカじみた黒い長袖のコートを着て、髪もヒゲも伸び放題だったが、良く見ると、紛(まぎ)れもない若者の顔だった。
 眠ってはいなかった。視線は、通行人を見るでもなく、ぼんやりと地面に落とされていた。その時に、向こうから、すらりと伸びた足に、髪を染めて華やかに飾り立てた若い娘たちが、三人歩いてきた。
 田舎に住んでいては見ることもない、まるでテレビ・タレントのような、可愛い娘たちだった。彼女たちは、ホームレスの彼のほうを見ることもなく、それぞれの話に夢中で、笑いさざめきながら、通り過ぎて行った。
 
 しかし、私には、帰ることのできる家があった。小汚い、小さな、不便なばかりの家だけれど(6月21日の項)、林の中に、ひとり安心していられる家があるのだ。帰ろう。あの北の大地の、私の楽園へ・・・。
 
 しかし、ミャオ、決してオマエのことを忘れているわけではない。九州に帰れば、あのミャオの家に戻れば、やはり、そこは、私にとっての、もうひとつの楽園なのだから・・・。

                     飼い主より 敬具


飼い主よりミャオへ(69)

2009-08-02 17:54:47 | Weblog



8月2日
 拝啓 ミャオ様
 
 白山(はくさん)、室堂(むろどう)の山小屋に泊まった翌朝のこと、・・・山の上で、御来光(ごらいこう)を迎えたい皆様には、天気が良ければ、早朝3時過ぎには、太鼓を鳴らしてお知らせします・・・という、昨日の係りの人の話だったのだが、何の音も聞こえなかった。
 それでも、まだ暗い中、十数人いた私たちの部屋のうちの、一人二人が、起きて出て行ったようだった。やがて、薄明るくなってきた窓の外を見ると、深い霧だった。
 御来光の日の出は、4時45分頃。私は、それでも気になって、4時半頃起きて、外に出てみる。なんと、それまでの一面のガス(霧)がとれて、目の前に、御前峰(ごぜんがみね)の山体が見えていた。
  今から登るには遅すぎる。そこで、南の南竜山荘へと向かう道を少し下って、途中で、日が昇ってくるのを待った。
 やがて、雲を透かして鈍色(にびいろ)の太陽が昇ってきた。深紅に染まる、日の出の光景にはならなかったが、先ほどまでの、深いガスの中を思えば、周りの景色がみえるだけでもありがたい。南に離れて、別山(べっさん、2399m)の姿もはっきりと見えている。
  急いで小屋に戻り、食堂で朝食をすませて、大きなザックは小屋において、サブザック(デイパック)を背に、出発する。
 
 登山口の鳥居をくぐり、社殿に手を合わせて、昨日も登った道を歩いていく。山頂までの道は、敷石で整備されていて、歩きやすい。これほどの高山で、ここまでに見事に整備された道は、他では見たことがない。この敷石の道は、白山の登山道のあちこちで、部分的にも見られるが、それにしても大変な労力と、費用がかかっているはずである。
  さすが、歴史ある信仰登山の山だと思っていたが、後日、話を聞いたところでは、昔は、これほど立派な道じゃなくて、ごろごろ石の道だったとのことだ。
 とすれば、最近ここまで整備してきたのだろうが、その地元の市なり、県なりの熱意には、感心するばかりだ。そしてまた後になって、私はその意味合いも知ることになるのだが・・・。


 40分足らずで、再び、白山比め(しらやまひめ)神社奥宮のある、御前峰(2702m)の頂上に着く。高曇りの空だが、周りの景色は良く見えている。昨日チラリとしか見えなかった、剣ヶ峰(2677m)に大汝峰(おおなんじがみね、2684m)、そして、これらの峰々の間をめぐる池の位置も良く分かる。南には、別山と、遠く経ヶ岳や荒島岳らしい姿も見えている。
 ただ、晴れていれば、東方にずらりと立ち並んでいるだろう、北アルプスの姿が見えなかったのは残念だが、ともかく白山の最高峰から周りの山々も眺めることができて、とりあえずは良かったのだ。
 雨の中を歩き続けて、何も見えない景色の中、ただ頂上に立つことに比べれば、どれほどありがたいことだろう。私の、今回の登山計画の変更は、まずはその甲斐があったというものだ。

 白山登山の人たちは、日帰りで登るか、あるいは室堂に泊まって、次の朝、御来光を山の上で見て、すぐに戻るかであり、その後、あちこちへと足を伸ばす人たちは少ない。
 ただし、この御前峰に登った後、池めぐりをしてから下山するというコースも、人気があって、特にツアー登山には、よく組み込まれているようだ。
 
 そんな、ツアー登山の列が下の方から近づいてきて、私は頂上を後にすることにした。前の方に、数人の中高年パーティーがいるだけだ。
 室堂からの道とは反対側に降りていき、残雪のある油ヶ池と紺屋ヶ池のある鞍部に降り立ち、小さい尾根を越えて、翠ヶ池(みどりがいけ)の傍に出る。
 残雪の雪渓をふちどりにして、丸い池があり、その上に剣ヶ峰がそびえ立ち、奥に御前峰の姿がある。もうここへは、誰も来なかった。私は岩の上に座り込んで、その光景を眺め続けた。ただ、惜しむらくは、この曇り空だ。晴れて、池の色が鮮やかに見えてくれれば良かったのだが。
 そこから、アオノツガザクラの群落の傍を通って、大汝峰に登る。この頂上でも、私一人だけだった。眺めも、さらに素晴らしかった。

 さて、次へと向かうべく、コイワカガミの赤い花の群落の間を通って、北へとゆるやかに下ると、彼方に、豊かな残雪を幾筋か刻んで、ゆったり鎮座(ちんざ)する山が見えてきた。目指す七倉山(ななくらやま、2557m)である。
 所々に小さなお花畑のある、低いハイマツの道をたどり、鞍部(あんぶ)に下ってから、斜めに緩やかに登っていく。斜面には、ハクサンフウロ、ハクサンイチゲ、シナノキンバイ、ミヤマキンポウゲ、チングルマ、そしてコバイケイソウなどの花々が咲き乱れている。
 大きな雪渓のある分岐から、岩間道と呼ばれるコースを登り、平坦になった所から、頂上への道を探すが見つからない。
 わずか50mほどだからと、強引にハイマツの密生する中を歩いて行く。北海道では、もっとひどい、ハイマツこぎを何度も経験したことがあるが、短い距離でも、手足を使っての悪戦苦闘には、体力を消耗(しょうもう)してしまう。
 やっとの思いで着いた、七倉山の最高点らしい高みには、何もなく、ただハイマツの海の中にあった。しかし、その向こうの東側は、崩壊斜面になっていて、お花畑が続いていた。
  やれやれと、分岐の所まで戻ってきて一休みする。足元には、小さなクロユリの花が咲いていた。むしろ、高さは少し低いが、北に見える四塚山(2520m)の方に登るべきだったのだ。
 そのことが、少し気がかりではあったが、誰もいない山歩きができて、花々を見られたことは、何よりの幸せだ。その時に、何と一面の雲の間から、南の方に、青空が見えて少し広がってきていた。
  これは急いで戻らなければならない。何としても、青空の下で、あの翠ヶ池の色を見なければならない。私は、四塚山をあきらめて、来た道を戻っていった。
 
 早く戻りたいという、あせる心を抑えて、それでも途中、ハクサンシャクナゲの群落などにも、目を奪われながら、中宮道への分岐あたりに戻ってきた。ちょうどその時に、具合良く、日の光が、あたり一面を照らし始めた。
 私は、翠ヶ池を見下ろす、先ほどの岩の上に立っていた。周りに人影はなく、目の前には、剣ヶ峰と御前峰の下に、翠ヶ池だけが静まり返っていた(写真)。
  日の当たる池の水面(みなも)には、小さな漣(さざなみ)が揺らめき、残雪と池の水が接するあたりには、翡翠(ひすい)色の帯が横たわっていた。
 それは金沢が生んだ、名文家、泉鏡花の小説に出てくる池に似て、昼間とはいえ何かただならぬ、妖気(ようき)さえも漂っていた。


 それはともかく、傍に残雪がある、高山の池や湖の色は、一際鮮やかである。去年、行ったあの白馬大池(’08.7.29の項)もそうだし、北海道では大雪山のヒサゴ沼、トムラウシの北沼、南沼などもそうである。思い返せば、その昔、ヨーロッパ・アルプスで見た、幾つかの小さな湖もそうであった。
 あの色の中に、この世のものとも思えぬ、翠(みどり)色の中に、私が見ていたものは・・・。
 
 もうこの晴れた日の、翠ヶ池を見たことで、私は、白山への旅の、目的を遂げたような気がした。この山旅は、翠ヶ池のひと時だけで、もう十分に報われたのだ。
 私は、再び人々でにぎわう室堂に戻り、そこで重たいザックを背にして、今日の宿泊地である南竜山荘への道を下っていった。
 それでも、もう一日天気が続いてくれれば、あの別山にも登ることができると思いながら・・・。(次回に続く。)
 
 ミャオ、オマエのことを忘れているわけではないのだが、今しばらくは、私を、白山への旅の思い出の中に、浸(ひた)らせておいてくれ。

               わがままな飼い主より 敬具